何時から擦文文化→アイノ文化となったか?…いや、むしろ「そもそもアイノ文化って何?」じゃないの?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/24/204435

「最新研究の動向を確認してみよう…「つながるアイヌ考古学」を読んでみる」‥

さてここを前項として、関連項はこちら、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/12/185631

「定義や時代区分はそれで良いのか?、あとがき…河野氏の問いかけに答えられる者はいるのか?」…

である。

勿論、前項で紹介した関根氏の「つながるアイヌ考古学」でも触れているのだが、何時擦文文化が終焉し、何時からアイノ文化化するのか?…は、現状も閑々諤々で結論をみない。

考古学からのアプローチでは、基本的に「擦文土器消失→鉄鍋化」又は「竪穴住居→平地住居化」がベースとなるのは概報。

関根氏、いや、関根氏のみならず、北海道を回って尋ねてみれば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/14/211625

「弾丸ツアー報告-1、恵庭編…江戸期の物証的「空白期」、そして「アイノ文化を示す遺物は解らない」」…

厚真と千歳の事例をもってして「中世と近世が繫がった!」と言う話になる。

ここで厚真の実績やTa-b降灰らの遺跡喪失らを絡めて話を続けると沈黙となり、「諸説あり」と教示戴けたりする。

結論から書くと、擦文文化→アイノ文化を含む時代区分がどうなのか?は「諸説あり」になる。

考古学でのアプローチは先述したが、アプローチの仕方により捉え方が一致しないと文献に書いてある。

では、どんな風に捉えられているか?確認してみよう。

 

①擦文文化終焉時期…

たまたま入手した文献にあった小野裕子氏の論文より。

この論文時点でも擦文→アイノの変容点は何時からか?については、「北奥蝦夷の道央への移住」からという大井説の「11世紀前」から始まり、多くが支持する「10世紀半ば」とされる。

更に擦文文化終焉に関しては概ねの「12〜13世紀代」に対して、「15世紀前半」や「商場設置時期」とするもの迄それぞれ数百年の差がある。

だが、これらに共通する点は、

・中世日本海交易らを始めとした本州との交易,接触がアイノ文化化を引き起こす…

・擦文→アイノの変容は「連続的である」…

この2点。

ここで問題となっていたのがこれ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130

「この時点での、公式見解42…本質は「古代と近世が繋がってない」で、問題点は「中世が見当たらない」事」…

前項でも関根氏が「ミッシング・リンク」に触れていたと書いたが、丁度過渡期の中世遺跡が薄くて、連続性や変容する様を確認する事が出来ない…だから「厚真の実績」が如何に重要な位置を占めるか?、「繫がった!」と敢えて記述する根拠とされる訳だ。

前項で我々がそれに対して主張するのは、

・厚真だけの実績で、全道を示す事が出来るの?

・「修験」の影響を重く見れば、本州と同化の方向に向かうだろう(宗教の根源が共通になる為)

・人の移動に伴い変容するのは同意だが、交易量拡大らを伴うとすればやはり同化の方向に向う…これは道央〜日高ライン上で顕著になり、口蝦夷〜奥蝦夷〜赤蝦夷の文化グラデーションが出来てくる…

こんな感じ。

中には、ここまでハッキリ書かないとピンと来なかった方もいるかと思うが、ずーっと言ってきたのは平たく書けばこうなる。

擦文文化段階で、東北とかなり近いものになってくれば、更に接触が増える中世で異文化化してくるか?…極単純な考え方。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/15/174010

樺太,千島と本州人との両血統持ち、帯刀した人の痕跡…「択捉島」で出土した人骨と日本刀」…

こんな事例もあるのだし、より遠くへ(商売上の)活路を見い出せば、外部(それが例えばイテリメンやニヴフ等)と混雑して外部文化が口蝦夷より濃い方向に行く。

謂わば「半連続的」又は「連続的」と「断続的」との複合…と、言うべきか。

恐らくこの「連続的」を半ば否定するのが「タブー」なのだろうが、我々は学会とは何の関連も無いので問題無くこれを言えてしまう訳。

おっと、話を戻そう。

小野氏は「日本海交易隆盛期移行に全道的アイノ文化化促進」との立場なので「15世紀前葉」との事。

その根拠としているのが「土器消失→鉄鍋化」のタイミングな様だ。

「鉄鍋と確実に共伴した擦文式土器の事例はこれまでのところ未確認である。鉄鍋の存在を窺わせる内耳土器との共伴は、ごく僅かだが知られており、中でも根室の西月ヶ岡遺跡七号竪穴住居址からは良好なセットが確認されている 〔八幡他編 一九六六〕。オホーツク海側にある 常呂町周辺の擦文式土器では終末段階に土器が小型化することが指摘されているが「藤本一九七二、四三三〕、この七号竪穴の組成は(図1)いずれも口径一〇㎝前後の擦文土器、および口径一五㎝の内耳土鍋からなるが、小型高坏が伴う点で終末段階より多少遡るものと思われる。」

「他方、現在までのところ、道内で確認される鉄鍋は十四世紀中葉以降のものである〔越田二〇〇三〕。東北地方では例数は少ないものの、平泉柳之御所奥州市玉貫遺跡で十ニ~十三世紀の鉄鍋が出土しており、しかも十二世紀前半代頃を下限として土器が集落址において検出されないので、北海道が特殊な状況であることは確かだろう。しかし、道内における土器の廃用時期についての主流の見方は、陶磁器や古鏡、あるいは東北北部との関係から十二、十三世紀代とするものである。その場合、鉄鍋の確認時期との空白は、内耳土器の使用を想定するか〔宇田川 一九八〇〕、資料の出土率に関わる要因に求めるか(越田 前出、一二二〜一二三、あるいは鋳物師による回収〔瀬川 一九八九〕などの要因によって解釈されている。このうち内耳土器の普及段階を挟んで鉄鍋へと移行するという点については、鉄鍋の高価さから見て、入手が難しい場合内耳土器を持って充てるということは十分考えられる。しかしこうした事態は、 必ずしも全道一斉に生じる訳ではなく、入手し易い地域や集落間、あるいは対価の獲得に長けた世帯間とそうでない個でばらつくことが予想され、移行期として普遍的に設定する事は難しいと思われる。」

「このように擦文期とアイヌ期の移行期に関わる銛頭に機能強化と見られるタイプが出現していることは、上で述べた交易対価の獲得に向けた動きと捉えて良いだろう。これが「十四世紀中葉」以降に確認例が増え始める鉄鍋のあり方と連動する可能性は十分あると思われる。現時点では、十四世紀中葉~十六世紀中葉以前とされる鉄鍋のさらに個別的な年代は得られていないので、ライトコロ川口十一号上層遺構における内耳土鍋、同鉄鍋、そして機能強化を窺わせる結頭の存在から十五世紀前集前後にはアイヌ文化が道東部においても確立していたと考える。小論では僅かに銛頭の事例を挙げるに留まったが、冒頭で触れたように、交易対価の獲得に向けた努力は、アイヌ社会におけるイオルの成立に見るように、擦文社会の土地と資源の配分のあり方を変化させたと考えられるので、擦文終末期の遺跡と近世アイヌ期の遺跡の比較分析を通じてこの動きを捉えることが必要である。

さて、これまで論じてきたことからアイヌ文化への変容は商場設置段階より早い時期から始まっていた可能性が強いことが言えると思う。特に、東北北部への自由な航行が可能であれば、利器を始めとする必要品は和人との交易を 通じて獲得することができたと考えなければならない。しかし、一つ大きな問題がある。それは東北北部における擦文式土器は、道東部を中心に分布する最終段階の土器群を含まないことである。それまでの土器を伴う東北北部への擦文人の進出が利器の入手を始めとする交易目的とされていることは周知のことだが、この最終段階の土器が東北ではもはや出土しないことは、擦文人が東北北部に出向いて交易をしなくなったことを意味するのだろうか。天野が指摘しているように道東部の擦文文化の鉄器保有率は、前半期にくらべかなりの増加を見せる〔天野一九八九〕。道東部の集団はその器をどこから入手していたのだろうか。一つの考え方は、道央部との交易を行うことである。道央部と道東部の終末年代の併行性の根拠に土器群の類似性を挙げる意見が一般的だが、筆者は両地域の土器群には時間的ズレがあると考えている〔小野裕子 二〇〇七5)。道東部集団が擦文終末期にどのような地域と、如何なる交易をおこなっていたか、これについてはまだ多くの検討課題が残されている。

さらに、冒頭に挙げた終末年代のズレについてだが、筆者の場合もまた、他の諸氏の十三世紀前葉頃という年代観とは二百年ほどの開きがある。」

「擦文文化の終末年代をどう考えるか」  小野裕子  『アイヌ文化の成立と変容』  法政大学国際日本研究所  2007.3.31  より引用…

小野氏は土器消失→鉄鍋化の補足で「銛頭」の変化を合わせ検討し、上記の様な論へ至った様だ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/15/120448

空堀は何工数,何日で築かれたか?のきっかけ…入口として「遠矢第二チャシ」をみてみよう、ただ…」…

ありゃ?

道東は関連有りとされる遺構である「チャシ」の中にはMe-aで被覆される物が。

こうなると、道東での連続性に疑問が出てくるのだが…良いのかな?

と言う訳で、2007年段階でも土器消失→鉄鍋化の時期や遺物の解釈には数百年ギャップがあり一致をみておらず、それは関根氏の本でも触れられている。

ただ、今迄で触れてきたが、擦文文化期の遺跡の移動,拡大が道央→道北,オホーツク→道東と時計回りに行われた事、

「十一〜十二世紀の擦文人は何をめざしたか」  澤井玄  『アイヌ文化の成立と変容』  法政大学国際日本研究所  2007.3.31  の竪穴の移動と鮭鱒→矢羽根用猛禽類の羽根の需要(武士の台頭による)らの朝貢品,交易品のトレンド変化、これらによるものとの見解は割と一致している様だ。

この移動状況と商品変化について澤井氏は、『季刊考古学別冊42  北海道考古学の最前線』においても同様の見解を寄稿している。

要は「生業」としての商品変化に着目し、特に本州との接触が文化変化の引金となる…と言っている様だ。

これについても、我々の見解は上記通りである。

現状は「アイテムを並べ、それで変化点を見る」様な手法がトレンドとして続いている模様。

ただ、一つ疑問を投げ掛ければ…

「変化点は見えるが、それをアイノ文化の源流と言えるのか?」、「接触の増大で異文化化が可能なのか?」に対しての答えにはなっていないのでは?…これが、我々が当初から持っていた疑問でもある。

 

さて、これだけで終わっては面白くもなんともない。

では、上記考古学的視点以外での視点はどうなるか?

これも『季刊考古学別冊42  北海道考古学の最前線』に記述あるのでそれから。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134

「和鏡特別ミッションの続報…「国見廃寺」と俘囚長安倍氏、そして道具に対する解釈は?」…

こちらで引用した簑島栄紀氏がまとめている。

謂わば「研究史」と言う事になるのか?

それぞれの時代で影響を及ぼした研究者と論文,書籍,概念を羅列していこう。

・「アイ丿文化期」概念の成立…

河野広道・名取武光

「北海道先史時代」…1938

大場利夫

「北辺の先史文化」…1959

宇田川洋

アイヌ考古学」の概念…1980年代

以上、3点…

1938年段階では「アイノ文化期」と言う概念はまだ未成立で、1950年代に河野広道博士がそれを提唱し始め、大場氏がそれを継承したとしている。

簑島氏が注目したのがこれ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/31/053428

「この時点での公式見解⑭…新北海道史が示す「アイヌ民族が古代と繋がっている」根拠」…

「今日では、丁度日本人の先祖が石器、土器を製造したことを忘れてしまったと同様、近代アイヌも忘れてしまったのであって、北海道の先史時代遺物はほぼ確実にアイヌの祖先が製造したものであると考えられるに至った。」…この考え方だ。

元々から擦文文化→アイノ文化での断続を強調してはいない。

我々的には貼付の通りこの考え方、継続性を「前提条件」としないと成り立たないのでは?…これ、再三書いてきた。

話を戻す。

ここで宇田川氏が「アイヌ考古学」を本州の中〜近世に規定したそうで。

「独自の民族文化の歴史として正当に位置づけよう」としたのは宇田川氏の様で。

 

・「アイヌ文化期」概念の展開と課題…

埴原和郎・藤本英夫・浅井亨・吉崎昌一・河野本道・乳井洋一

「シンポジウム アイヌ−その起源と文化形成−」

渡辺仁

アイヌ文化の成立−民族,歴史,考古諸学の合流点−」 『考古学雑誌』1972年

以上、2点。

この内、前者のシンポジウムとはこれの事。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/11/185850

「定義や時代区分はそれで良いのか?…「河野本道」氏が問いかける事とは?」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/12/185631

「定義や時代区分はそれで良いのか?、あとがき…河野氏の問いかけに答えられる者はいるのか?」…

後者は興味深いので、渡辺仁氏の部分について引用してみよう。

「「シンポジウム アイヌ』の歴史認識の、もう一 つの重大な問題性は、同様の論理を、過去の文化集団だけでなく、近現代のアイヌ文化にもあてはめようとすることである。そこでは、近現代に大きな変容を被ったアイヌ文化・民族は、もはや「真正のアイヌ文化」とはみなされなくなってしまう。

「シンポジウム アイヌ」と同年に発表され、今日も大きな影響力を有する渡辺の学説にも、 同様の課題を指摘できる。渡辺は、「アイヌ文化」とは「民族学的に周知のアイヌの文化」「民族誌的現在に於けるアイヌの文化」であるとして、 「アイヌ民族アイヌ民族たらじめてある中心的文化要素は何か」「それがなければアイヌとはいへなくなるような基本的文化要素は何か」と問う。そして、「アイヌ文化の中核(真髄)」を、 「クマ祭文化複合体」と規定する。

和人研究者が「典型的なアイヌ文化」「アイヌ 文化の本質」を抽出し、定義しようとする行為に対しては、佐々木昌雄による厳しい批判がある。 佐々木は、「ここにいわれているのは。〈アイヌ〉 の〈アイヌ〉たる所以、〈アイヌ〉の特徴を「絵葉書でみるアイヌというもの、一般にアイヌ的といっている顔や身体つき」とまず考えているのだということである」とし、「〈アイヌ〉だけを厳密に規定しようとして我が身(シャモ)がスポッと抜けおちているような発想」として、「日本史」 と「アイヌ史」とのあいだの不均衡、非対称性を鋭く指摘した。

上記の議論は、現実に生きる人々、現に存在する集団を、他者が「定義」しようとすることの権力性をあらわにしている。

1989年採択のILO169号条約第一条2項は、先住民族の集団性に関する基本的な判断基準として、自己認識(self-identification)を重視する。また、2007年の国連宣言に結実する、コーボ報告書(1983)の論理や、先住民作業部会(WGIP)の議論も、「定義は本来、先住民族自身に委ねられるべきもので、自らを先住民族と決定する権利が先住民族に認められなければならない」ことを強調する。今日、先住民族において、その「定義」や、集団のメンバーシップの決定は、当事者による自己決定権の重要な一部としてとらえられるようになっている。考古学や歴史学も、こうした現代社会の動向に向き合い、対話していくことが求められる。」

アイヌ史の時代区分」 簑島栄紀  『季刊考古学別冊42  北海道考古学の最前線』 2023.6.25  より引用…

簑島氏始めとした研究者が引っ掛かっているのはこの点だろう。

おいおい…文字や遺物を持って散々「都に対して遅れる」と筆者の先祖たる「蝦夷(エミシ)」を馬鹿にし…もとい、指摘してきたのは誰だ?

それに基づき「北奥蝦夷の移動」…へぇ~…

あれ?「ILO169号条約第一条2項」って我が国、批准してたっけ?

で、歴史を扱うと言うなれば、その主張の変遷を踏まえて「集団がどう考えてあるか?」確認するのが、本来の「寄り添う」スタンスになるのでは?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/12/203509

「この時点での公式見解-39…アイヌ協会リーダー「吉田菊太郎」翁が言いたかった事」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/25/212430

「協会創生期からのリーダー達の本音…彼等は「観光アイノ」をどう評価していたのか?」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/26/045821

「民族運動第1世代との差異は何か?…現代「その血を引く人々」の発言ついての備忘録」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/21/073146

「何故度々「縄文=アイノ論」が浮上するのか?…'70の活動家の主張と当時の世相を学んでみよう」…

ざっと、今迄読めた部分での「活動家第一世代〜第三世代」迄の主張はこんな感じで変遷している様だ。

同時に、当時の世相の一部を背景として貼っておく。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/210128

「開道百年記念行事と道立野幌自然公園とは?…報道視線からその目的らを見てみる」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/22/214116

北海道庁爆破事件とは?…当時の状況はどうだったのかについての備忘録」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/12/054834

「河野広道博士についての二題…発掘,研究への気構え&「人送り(食人)」伝承について」…

世相は重要。

そうでなければ「知里真志保博士による、河野広道博士に対する糾弾事件」なぞ発生はしないであろう。

知里博士の側に居たのは誰か?…

まずは次へ行く。

 

・時代区分の指標としての「交易」論…

ここは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/24/204435

「最新研究の動向を確認してみよう…「つながるアイヌ考古学」を読んでみる」‥

ここで駒井和愛移行の研究史としてざっと触れているので割愛。

'70sの定義付けらは棚上げし、交易らにより「過去の復元」へ舵を切り直した印象も受けるが、気のせいだろうか?

簑島氏はこれらを踏まえ、

「上記の研究史を踏まえて、簑島は、倭、日本 との交流・交易の変遷を基軸として、およそ3~ 13世紀の北海道地域で人々が繰り広げた歴史を、「アイヌ史的古代」(アイヌ史における古代)とすることを提案した。鉄器の普及状況などからみて、統縄文後半期(3~7世紀)は、北方圏における交流・交易の大きな画期であり、当該期の対外交易は、北海道の経済・社会・文化のゆくえに幅広い影響を及ぼした。蓑島の「アイヌ史的古代」 は、瀬川の指摘する構造変動が10世紀に一斉に進んだとは限らず、より段階的に進展した側面を重視するものでもある。」

アイヌ史の時代区分」 簑島栄紀  『季刊考古学別冊42  北海道考古学の最前線』 2023.6.25  より引用…

と提唱している。

 

以上がざっと研究史から見た擦文文化終焉→アイノ文化形成の状況と、時代区分や定義,規定の変遷について拾ってみた。

定説,通説とはあれこれ言われるが、むしろまだ問題がごまんと積み重なった状況。

故に定義付けや区分も、進んではいない様だ。

上記を書きつつ思うのだが…

元々論文とは、ある一定の視点から「事象を規定,定義し、それを調査し突き詰め、論を書いたもの」だと思うのだが。

裁判で最初にやるのは「争点設定」。

当然、学問なら「規定,定義された論」が成り立つのか?…これが論戦の争点なんだろう。

渡辺仁氏の論の件を「興味深い」と思ったのは、その辺である。

問題点を指摘するのは良しとして、「渡辺説そのものが成り立つか?」…本来やるべき事はこちらなのでは?

浅学のド素人的には…

その「定義設定者がダメ」と言うなら、我々の様に各時代の集団側の指摘する集団定義を抽出し、「そこに至る迄の過程を明らかにする」…必要なのはこちらなのでは?

例えば…

渡辺説の定義なら、熊送りが明確なのは江戸期になる…これ当然の事。

集団側が「熊送り」を重視したのは事実であろうし、断絶に至る過程では、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/30/193033

「「アイヌブリな葬送」は虐待ではない…藤本英夫氏が記した「家送り」と、当時のマスコミの世論操作」…

家送りの断絶や世相、そして時の首長の判断らが強く影響しているのも間違いないだろうし、それ以前に自ら止め、殆どが観光として行われていたのは言うまでもないので、渡辺説には妥当性があるのでは?

例えば…

ムックリに設定すれば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/26/174417

「この時点での公式見解-28…「旭川市教育委員会のスタンス」と、旧「旭川市史」に記された「ムックリ,琴は本道アイノの文化に非ず」との関係」…

明治になる。

例えば…

鉄鍋に設定すれば、上記通り15世紀だろうし…

これらの源流を追い、それを束ねた上で交易論らを乗せていく…こんな作業をやれば良いだけだと思うのだが。

集団サイドから「文化真髄と考える物はなにか?」を聞き取りだして、その源流を追うのが「最も寄り添った形」になるだろう。

まずここに書いているのは「文化論」で、「血統論」ではない。

どんな血統であれ、そこに住んでいた者がそんな文化で暮していた…これを立証していくだけで、それらに血統論を乗せるのは「文化形成過程が固まってから」なのでは?

で、これは別に北海道に限った事ではない。

現状でも、日本史研究で事象の源流を追う事はやっている訳で。

最終到達点は現在の「我々は憲法で定義された日本国民である」に至るだけの話なのだが。

話を戻そう。

本来、学問として追求すべきは何時からアイノ文化期が始まるか?…ではなく「アイノ文化とは何か?」、同時に「日本文化とは何か?」だと思うだが…違うのだろうか?

「アイノ文化とは何か?」が決まれば、自ずと文化開始時点も決まり、そこに至る過程は「過渡期」になる。

先日もSNS上で話をしたが、漠然として定義化されていないと言う話があったが、それは「上記の様な事情による」のだろう。

学問はタブーなぞなく、自由に論戦を繰り広げて良いと思う。

真実の追求こそ、学問の真髄…こう「定義」するなら。

学問の自由は保証された権利。

ただ、筆者が考えるに、その自由を行使するにはたった一つ負うべき義務があると思う。

それは「政治に干渉しない」だ。

何故なら血税が動き、利権が発生する根拠を作り、権威を与える危険性を帯びるから。

政治に干渉した段階で「道義的責任」からは免れない…当然の事。

政治に干渉したか?否か?は、その委員会らでの主張らと論文とで物証が担保されるので、オフレコでは済まないだろう。

 

さて、我々も闇雲に掘り下げでいた訳ではなさそうだ。

案外、研究史らで指摘される部分を抑えている様で。

だから先行ブログを貼付出来る…だったりする。

さて、次へ…

 

参考文献:

「つながるアイヌ考古学」 関根達人 新泉社 2023.12.15

「擦文文化の終末年代をどう考えるか」  小野裕子  『アイヌ文化の成立と変容』  法政大学国際日本研究所  2007.3.31

「十一〜十二世紀の擦文人は何をめざしたか」  澤井玄  『アイヌ文化の成立と変容』  法政大学国際日本研究所  2007.3.31 

「擦文社会の動態」 澤井玄『季刊考古学別冊42  北海道考古学の最前線』 2023.6.25

アイヌ史の時代区分」 簑島栄紀  『季刊考古学別冊42  北海道考古学の最前線』 2023.6.25