亘理続報2…「田村氏」だけではなく「伊達公」も洗礼を受けていた

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/06/135923
久々に伊達藩、特に亘理伊達氏とキリシタンの関係について続報である。
またもやたまたま、まさか伊達市の市史でなく、室蘭市史にあると思っていなかったので。

前項では、
田村顕允氏は、北海道移住後キリスト教へ改宗し、教会創始者となった…
それを教化したのは、亘理伊達氏家臣団の新妻興左衛門の孫で、仙台のキリスト教布教のキーマンの一人である吉田亀太郎氏ら…
ここまでを報告した。

だが、実は洗礼を受けてクリスチャンになったのは田村顯允氏だけではなかった様で。
引用しよう。


日本基督教会は、明治十九年(一八八六)はじめ吉田亀太郎伝道師を仙台から室蘭に派遣して伝道していた。この伝道集会に出席した当時の郡長田村顯允は大いに共感し、函館にきていた押川方義(東北学院院長)を招いて演説会を開いた。」
「押川は翌年まで三回も室蘭・伊達で布教伝道を行い七十六人が洗礼をうけた。そのなかには田村顯允をはじめ伊達邦成(亘理藩主)、赤城信一(室蘭病院長)、島田操(同)や幌別の片倉景光(旧白石藩主小十郎の嫡孫)、斉藤良知(同家老)、日野愛熹(同)などがいた。仏教側ではこれに対抗して弁士を雇って耶蘇教攻撃の演説会を開き、百五十人が集まって気勢をあげたという。」

「明治十九年から翌二十年を室蘭におけるキリスト教の黄金時代とよんでいるほど発展したが、二十年四月、田村が郡長を辞任して伊達に移ってからは活動も下火になり、赤城、島田ら中心人物も室蘭を去り、日野愛熹が幌別戸長として転任したあとは、室蘭の日野宅を講義所として少人数で集会が開かれていた。」


室蘭市史 第三巻」室蘭市史編さん委員会 平成元年三月二十五日 より引用…

と言う風に、伊達邦成公も洗礼を受けていた。
と言うか、見る限りだと旧伊達藩勢、それも旧藩首脳部が中心人物となって、布教に力を入れていた感じがうかがえる…
まさか、藩の気風にキリシタンの要素があり、親和性高いのか?
まぁ伊達藩としたら、「後藤寿庵」も居たし…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/18/055912
大籠も伊達領。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/17/190920
犬切支丹に…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/09/064523
「ゴールドラッシュとキリシタン」シリーズよりキリシタン墓発掘の話。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/12/194837

実際、ブログ化してない書籍内容やフィールドワーク内容はまだまだあるが…
一応…
江戸期のキリシタン弾圧や潜伏キリシタンと繋がるか?は「不明」であり、キリスト教布教がオープンになった後なので、基本的に問題はない事は書いておく。


実は、室蘭のキリスト教布教は、この後にまた苦難の時を迎える。
それは、武家社会からの脱却を意味する「帝国憲法発布記念行事」で小学校の祝賀行列の指揮を任ぜられた教師が、伝道師に「聖日である日曜日」に開催と言う事を相談したところ断るのが良いと言われ、それを理由に拒否したから。
まぁ明治維新で、世の中を変えて行こうの風潮の最中にそれなので、校長や町民がこれに激昂し、その教師は免職、その後クリスチャンは教職に採用されなくなると言う事件に迄発展。
まぁ今でも似たような話はありますが…
現在、平日にやると言えば「休みじゃなければ父兄が観られないではないか!」とのクレームになりそうだが。
この当時、こんな話は幾つもあったようで。

と、言う訳で…
関連は別として、こんな事実はあると言う事を、報告しておく。



参考文献:
室蘭市史 第三巻」室蘭市史編さん委員会 平成元年三月二十五日