「秋田日記」に記された、江戸期のラテンのノリの秋田の姿と「佐竹公骨抜き化作戦」…東北史のお勉強タイム、その3

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/11/201831
さて、せっかくなので、もう少し東北の江戸期の姿を垣間見て見よう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/16/123121
ここで紹介した伊達藩の方が見た、江戸中期の秋田の姿を描いた「秋田日記」…
これから、当時を想像して行こう。


天保八酉年、三月廿四日
羽州矢嶋より本吉北方御郡御救助米、御買入、被成置候ニ付右、御用被仰付、右、同日当所出立」

「廿六日、天気
菊勇方出立、文字江十八里ニ通し。~中略~夫より登山ニ罷成、~中略~右、小ヤの脇ニ、女壱人、十七ばかりの男壱人、死てあり、誠ニあきれ候。又、段々山ニ登り候所、大男、大杖をにぎり、大あをむけにたをれ死す。夫故か、毎日山あれニ有」

「廿七日なり是は馬草の小屋ニ而、ひたしにして食わせられ候、ここみといふくさなり。うまし。~中略~此小屋に笠を休め、一夜あかしぬるに、我にも同し人々、三十人ばかり皆、今の世語りに袖をぬらし、~後略 」

四月朔日、上天気。
藤屋権左衛門方出立、小安江行。~中略~同所に温泉有り。疝気に妙也。壱度、七文ツゝ。湯本共いふ。時により殿様方も御入被成置候。黒ろく、きたなきゆ(湯)なり。しかし能(く)あか(垢)のとれる湯也。
稲庭温(饂)飩、壱軒也外類なし。御用ニ而、金かんばんなり。志かし、当時は一園無之候。御上りの分。仕出し兼、外賣ひしと止置候。~中略~看板は 御用温(饂)飩本家 佐藤吉左衛門

「二日、上天気
~中略~
是は、(筆者註:院内銀山は)御領内壱番之山也金山八ヶ山」、アニ(阿仁)トあふ所ニ有り。其外所々、何レ金山多し。銅山も此所ニ有。大(太)平山のふき(蕗)、大サ七八ヶ寸廻り、葉のさし渡し五尺ぱかり。~中略~
白あい(筆者註:白和え)。岩た(だ)らといふ草を食(う)うまし。~後略」

「三日、曇
~中略~小安、湯左衛門方ニ而、二日之昼より酒盛り有之候。秋田之名物おんと、三味せん、たいこ、ふへなり。金ニ而はやす(囃)也。女子四人ばかり、男拾人程、入替り、一日のさわぎ、酒左比皆、干物ニ而、生物は玉子のみ。八百八(筆者註:常磐津?との事)は随分うまし。哥は、伊せおんと、かまやせぬ、二上りしんない、外、けふ言一ノ谷、源太、夕きり、後ハ取まぜ、色々思入之出仕候。おどりなり。」

「六日、上天気
文字行之人、仙台染師町 平助殿、斉久様へ紙面相出候。
一皿、でんがく 大汁 わらひ(び) す(ず)いき
一平、とろゝ めし 但し、とうふ、あられ切入。海苔 なんばん 右ニ而大食す。山芋よろし。随分こ(濃)きとろゝなり。塩梅よろし。~中略~一横手かぢ町、加賀や十兵衛殿江大こんかて方、添付遺候。気仙沼江。(筆者註:横手鍛冶町の加賀屋十兵衛さんに、大根飯のレシピを書いた手紙を渡し気仙沼宛に送ったの意)」

「十日、上々天気
一日酒盛り、秋田音どニ而大騒に御座候処、七ツ過ニ而小木源之助様、稲庭より御帰り、御土産ニ御酒御持参被成候て大酔致し、」

「十七日、雨天なり。四ツ頃より晴。
~中略~一 今宵は万事上首尾ニ相成候故(筆者註:当日までに、矢島(旗本の生駒氏領)からの救助米調達のメドが立った)、当所之名物、丹鳥といふ女を呼、五平楼ニ而一夜遊楽をうツ氏、夜半頃ニ帰宿す。」

「十八日 雨 天 風も少々有
当所(筆者註:矢島)は、秋葉山の御祭礼ニ而夕部より大賑々敷、町切の取仕かけ物、横あんとう(行灯)、地口あんどう軽業師、狂言、江戸下り藝者有之候。 夜まツり大にぎわいなり。筆紙ニ尽しかたく候。~中略~矢じま出立本庄江五里~後略」

「十九日、同断
~中略~矢嶋は在所よろしき所なり。壱軒ニ而も破家杯無の候。何(れ)富国と相見得候。本庄之城下ハ、誠ニ結構能き所なり。風俗共繁花(華)也。内町千軒、町家千軒といふ所也。譜請も相応なり。~中略~一 うどんそば名物なり。~後略」

「廿一日、上天気
~中略~(筆者註:久保田城下町)内町よろし、普請はあら方屋根、小羽葺也。御城少々高く、何レ平城といふ程ニ有之候。~中略~八幡宮大少二社稲荷之社、別当御祈願所、一條院といへる山伏有。何レも御普請美を尽し。結構大荘(層)なり。夫より湊江引、此間、矢馳(筆者註:八橋)といふ所あり。同所、茶屋仕出し所。矢はセの八郎兵衛、うなぎめし、あめ(飴)の名物、江戸まい茶屋也。
一 みなと(筆者註:現土崎)は千軒といへる所なり。船付ニ而、下り船弐拾五艘ばかり、入津ニ有之候、芝居は弐度ばかり狂言、古手屋八郎兵衛妻重の段、おもしろし、大当り。新地(と)いふは、遊女町なり。是は大荘(層)賑々敷事ニ候。何レも惣二階ニ而たいこ(太鼓)三味せん、少しもたいま(絶間)なく、何かなる者も、是ニ(浮)うかれざるは有まじ。新潟辺よりハ。女よろしからず。酒もりさわぎハ中々おとるまじ。~中略~藝者之内、壱人は江戸子、能き女なり。此節江戸者沢山、色々の藝人共、入込居候。~中略~秋田様(筆者註:佐竹義宣公の事)、水戸よひ御移リ之頃、此村之御百姓、皆一統、本庄迄餅をつき御出むか(迎)い罷出候故、いんま(今)に御取扱、御格別、極月拾三人程、此内江肝煎三人ツゝ引添、正月御年始とも同断ニ而罷出候。御酒被下置候。色々御馳走、御ていねいの御取扱ニ有之候よし。尚、町家在共、男鹿百姓江ゆひてもさし候者、有之候てハ、急度と御吟味ニ相成候様、兼而被仰出、皆心得へ居候。~後略」

「廿二日、雨天
~中略~からすみハ此魚之子なり。久保田ニ而も多く、貝焼なとにばかり用候。我等茂(も)さしみ(刺身)ニ作り候得ハ誠ニうまし。~中略~何、秋田は寳村なり。~後略」

「廿四日、同断
通町ニ而金たらい(盥)壱ツ、ひかき(火掻)壱ツニ而、半切九拾文也。誠ニ同所は赤金類大安し。~後略」

「矢馳(八橋)ノ山王社、御正殿井拝殿、堂塔、鳥居、何れも惣躰赤金(銅)かわら(瓦)也。~後略」

「秋田日記」 熊谷新右衛門 1984年6月10日 より引用…

長々引用したが、これが伊達藩から飢饉対応の救助米を調達する為に秋田へ来た「熊谷新右衛門」が見た当時の姿。
実際、御用できているので、「久保田藩はお役所仕事で、なかなか領内通過の許可をくれない」等も書いている。
万事が一事、一事が万事ではない。
が、彼の目にはこう見えたと言う事。

行き倒れを目撃したり、飢饉の状況を話しながら涙した伊達藩領からの峠越えの先は、昼酒あり、音頭や楽器で芸者を挙げて騒ぐ姿が。
ましてや、矢島には壊れ家なぞなく、由利本荘も久保田、土崎も「千軒クラス」の繁栄…
熊谷さん、元々大工の棟梁なので、家や神社の作りが良いのを散々誉めている。
銅製品は大安で、八橋山王社(今の日吉八幡神社か?)は、全て銅葺き屋根だったと…これは、聞いた院内や阿仁の鉱山の話を記述している。

食べ物も、峠ではコゴミやホンナ等山菜から、山の幸海の幸と徐々に贅沢に。
もう、藩御用達の「稲荷うどん」宗家迄。
我々的には、既に「貝焼き」が登場、つまり浦田ら七厘が存在したと言う事。
つか、これだけ飲んで食う需要在らばこそ、七厘や貝風呂も売れたって事。
敢えて細かく引用しなかったが、献立はかなり詳細に書いている上に、大こんかて(大根飯)のレシピをわざわざ気仙沼へ手紙にしたため、送っている。
まぁ飢饉時に、伊達藩では、米を酒作りに使うのを禁止したとか。
秋田では酒、味噌、漬物、その他麹を使った発酵食を作るのが全く平気で出来たって事。
この差はデカイ。

拡大して、「経済」と言う視点で見ても、伊達藩と秋田の差は大きい。
飢饉から死者が増えると、翌年暑くなると疫病が蔓延する。実際、飢饉の後には赤痢らで被害拡大した様だ。
伊達藩は、wiki等では、米生産に掛かるウェートが大きく、豊作だと左団扇、不作だと酷い赤字だった様で。
その点秋田では、飢饉そのものの被害が少なく、鉱山らその他地場産業が確立していた。金銀有らば、通貨発行も可能。
日本海ルートの交易もある。
リスクが分散され、他の東北各地よりダメージを抑える事が可能だった…と考えたらどうだろう?
陸奥国側は、飢饉→疫病→経済規模縮小を繰り返す蟻地獄へ…
北方警備はこの後…
津軽や南部、伊達藩は、こんな状況で、全て持ち出しで北海道へ向かっていた…ここは抑えて戴きたい。


さて…
廿一日(21日)の所を見て戴きたい。
怪しげな事を書いている。
まぁ現代風に例えるならば…
「本社(幕府)へ積極的に協力しなかった、支社長(佐竹義宣公)は、自分で開拓して大きくした常陸支社から、偏狭の支社へ転属させられた。肩を落とし出羽支社に到着したら、出羽支社生え抜きの社員達が『良く来たな、まんつ飲め』と歓迎会開いて歓待してくれた。支社長は涙しながら頑張ろうと心に誓った。だから歓迎会を開いてくれた男鹿衆をないがしろにすると、支社長は直ぐにしょっぴく」…以上。

眉唾と考える方も居るだろう…
それに、男鹿市史を見た限り、男鹿がそんなに優遇された片鱗は見えない。
が、何となくその光景が目に浮かぶようではある。
と言うか、男鹿に限らず、歓待したのではないかと思うのだ。
前項にある通り、佐竹公は秋田の百姓には、雑穀を作りそれを食べる様にと指導はしなかったとある。
これ、幕府から散々指令が回ってきていたのに、只の一度も「ハイ、やります」と言った事はなく、自分で食って良しを貫いていた…これは事実。
当時、日常米を食ってる事こそ贅沢、それをOKとしたのだ。
これが佐竹公と秋田県民の繋がり…と言うか、当時の秋田県民による「佐竹公骨抜き化作戦」に成功したものとも捉えられる。
何せ、阿倍比羅夫の時代から、敵対するより、融和協調路線なのだ…食う飲むを出来なくさせない限りは。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/121137
まぁこの通り。


以上の通り…
断片のみ「秋田日記」を紹介してみた。
勿論、熊谷新右衛門は、任務を終了し、無事帰還、米を伊達藩へ運び込むのに成功しています。
熊谷新右衛門がベースにしたのは、湯沢界隈、そこから矢島→由利本荘→亀田→秋田,土崎迄至った。
そう言えば、湯沢出身の総理が居たとか居ないとか。
でもそれは間違いだろう。
何分、我々グループが歴史を学び始めたのはアイヌ推進法に疑問を持ったから。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/14/154855
生まれ故郷の郷土史を知らない政治家なんて居るハズなかろう。
こっ恥ずかしいわ。



参考文献:
「秋田日記」 熊谷新右衛門 1984年6月10日