生きていた証、続報36…秋田に「へっつい」が必要な絶対的理由は白米を主食とした事

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/24/195739
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/17/195055
筆者が南部氏の居城「根城」を訪問した事は報告済み。
併設の八戸市博物館のパネルでは、やはり稲作は厳しく、粟や稗を作ったと。
この時ふと素朴な疑問が沸き上がる。
仮にも公家であり白米に慣れ親しんだであろう北畠顯家、それにに帯同した南部師行以外の南部勢が、果たして粟,稗を食えたのか?
戦国では、軍畑場に出れば白米が食えると参陣した様な話は聞くが。

改めて、直接の関連項はこちらになる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/04/194340
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/16/123121
以前から、秋田の江戸期では米を食べた話は紹介した。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/24/152415
伊達領の熊谷さんが食った「大根飯」ですら「いとうまし」。

実態はどうなのか?
改めて秋田県史から辿ってみよう。
「主食は白米であつたことは申すまでもない。秋田は米の生産地である。天和元年(一六八一六)領内酒造目録及びその他の口上書を、幕府に上申した秋田藩では「秋田之儀は雪深寒気甚候故、田に麦作不罷成稲計作申候故、稲能出来米多取申候事 」となつているが、まさにその通りであつた。藩民が米を常食として、尚一ヶ年十万石乃到十五万石程の移出出来る生産力を有していたのである。これは実収穫高の大凡一割であつた。しかしこの移出能力も不作に遭えば、それ相当に減少する。酒造米、菓子米は大凡十六万と見積られていたから、飯米不足の年はまず以て酒造米を抑え、米を原料とする菓子の製造を禁じ、米の糊を使用する染物も止めて、みな飯米に廻したのである。」
「稲作がよく出来る故か主食とする雑穀は、山間部を除いては殆ど作付けしなかつた。」
江戸幕府は「百姓食物常々雑穀を用へし、米猥ニ食すへからさる事」という政治の基本を定めていたけれど、秋田藩では「当国ニ雑穀多無是候間可除之事」と、幕府の「常々雑穀を用へし」の項を除外した。しかし「百姓食物粥・雑米等相用候儀」と百姓の心構えを指導して、一粒の米でも飯米に残すよう要求している。」
「飯米も年を経る程に精白度が高くなつてきたらしいが、未だ今日の比ではなかつたようだ。」
「飯の炊き方は今日と同様であつた。和漢三才絵図は、釜に入れた米の上に手の甲を載せこれを越す位の水を入れる、といつている事でもわかる。」
「秋田人は飯をママとも呼び慣わしている。」
「飯は水加減、火加減で味が違う。「飯炊き」という言葉がある程技術を要したものである。雑穀飯の栗飯、稗飯も全く炊き様一つで美味に食されるといわれる。」
「栗飯、稗飯といっても必ず米に混自他のであるが、その混入する量の多少が貧富の差を示していたようである。」

秋田県史 民俗工芸編」秋田県 昭和37.3.31 より引用…

てな訳で、改めて…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/24/152415
佐竹公入部に際し「骨抜き化計画」を実行に移す程、飯食に慣れ酒を振る舞える程な食生活はやっていたと思われるし、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/14/201908
質が悪かろうが、南部公に米を売り飛ばせるだけの生産力は織豊期には内陸部ですらあった。
百姓に雑穀食を指令したのは江戸幕府
それ以前にそんな触れは各領主がわざわざ出した、こんな話はまだ見つけていない。
基本的には地産地消で、余剰分を交易に回せば良い状況。
同書では、粥は基本的に白粥、雑炊に至っては肉や旬の物を入れ、主食の米を補い楽しんで食べる目的であったとしている。
あくまでも主体は「飯」。

さて、当初の素朴な疑問と重ねてみよう。
一応、江戸期限定としておく。
寒い東北、さすがに二毛作はムリ。
故に年一作且つ冷害が多ければ雑穀作し、米に混ぜる必要がある。
この場合、米の嵩増し的意味合いになるだろう。
が、東北では特に温暖な秋田では、周囲の藩より影響は少ない。
更に、佐竹公は幕府奨励を「無視」し、わざわざ雑穀をさせる政策はとっておらず、普通に収穫すればそのまま飯として「一粒の無駄もなく使え」としていた。

さてさて…
さすがに雑穀のみは無しとして、米に何割か雑穀を混ぜるならパサつき感を減らす為、粥的に炊けば良いだろう。
これなら、囲炉裏で対応可能。
だが、白米を炊くならやはり竈が必要だろう。

そう…
秋田藩では幕府奨励を無視し、中世以降も白米主体の食生活を維持していた為、竈を必要とした…
これが、土竈であろうがへっついであろうが絶対に竈が必要となる理由。
まして、味噌や醤らも中世以降ずっと自作を維持した発酵王国。
味噌の大豆は、味噌へっついで煮ていたのは、聞き取りしている。
これが、今のところ江戸期に他県でへっついを確認出来ず、秋田のみ存在している遠因なのではないだろうか?
もう一つの遠因は、やはり安東氏の交易力。
隣国より都に近い海運力の賜物。

まだまだ、一次資料や物証に乏しいので、筆者の妄想と言う事で。

因みに、1750~1800年位と推定し、秋田藩での米の生産高がどの程度だったか?
必要量として試算されている。
飯用、酒造、菓子、発酵食用らを合わせ、最低120万石。
白米主体の食生活を維持し続けないので、実際はそれを超えた生産高だったのだろう。
これに鉱山らの収益が乗る。
当然、地域差はあろうが、如何に豊かであったか…想像に易しい。
これが実態だろう。
そこそこ食えるが故に「秋田の男は宵の金を持たぬ」と言う事か。
妙に腑に落ちる。

まぁ筆者のご先祖達は大消費地を尻目に、産地メリットを最大限に謳歌し、竈も必要とした、って事で…


参考文献:

秋田県史 民俗工芸編」秋田県 昭和37.3.31