我が国の「船」とは?…その変遷や特徴を学ぶ

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/08/170900
これを前項とする。

以前からシーパワーの要「船」については触れてきた。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/143342
そもそも「通商の民」「中継交易」と言う割に、大型の船や湊がはっきり解らないのがスタートライン。

NHKニュースで、アイノ舟「チプ」が千歳で進水したとの事。
https://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20211206/7000040923.html?s=09
だが、誰も我々の様な疑問を持っていない不思議。
ならば、我が国の船の変遷や特徴を学んでみようではないか。

関連項はこちら。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/24/145700
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/15/105131
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/14/201908

さて、前項のおさらい。
函館市函館市地域史料アーカイブ
「戸井町史」"第七章 交通運輸と通信の沿革"によれば…

「繩綴船(なわとじぶね)
正徳五年(一七一五)松前藩主が、幕府に差出した書付の中に縄綴船についての一文がある。「蝦夷地より島々への渡り、十四、五里隔たり候所の渡海船は、高瀬船(たかせぶね)程の縄とじ船にて渡海仕り候」この報告書でもわかるように、松前から東西蝦夷地へ行く場合も、津軽海峡を渡って津軽、南部、秋田へ行くにも縄綴船を使ったのである。」
「この船のつくり方は、舟底を丸木舟のように造り、両縁に薄い板を何枚か継ぎ足して深くし、シナの木の皮やツタ類でとじ合わせ、水が浸入しないよにしたものである。鉄釘などを全然使わなかったので、軽くて扱い易かった。縄でとじ合わせた船なので縄とじ船とよんだのである。」
蝦夷地は荒磯が多く、良い港が少かったので、どこへでも船を寄せ、陸地へ引揚げ、夜になれば、附近の木を切って堀立小屋を造って宿泊したのである。カイは車ガイを使い、帆は扇帆というものを使った」と。
「縄綴船の造り方と使用について『蝦夷松前聞書』にややくわしく述べられている。
松前より代物(しろもの)買いに行く船のうちに、ことごとく縄にてからみ仕立(した)て、板のはぎ目、少しの穴などは、山の苔にてこしらえたる船あり、二百石より五百石積ぐらいなり。これは蝦夷地の荒磯の場所に行きては、船をつなぐべき港もなく、置き所なき故、商(あきな)いに行く度々(たびたび)、船を陸に引き登(のぼ)せおくに、船板うすく、釘を用いざれば、軽くして扱い易く、海上を来る波を和(やわ)らぎて、乗りやすし。久しく囲う時は、縄を切りすて、船板を積み立て、雨覆いをなし、乗るべき時節には、又縄からみして乗り行くなり。但し港ある所へ行くは、常の船に異ならず」松前藩から幕府へ出した報告書の一文と、この説明を併せて読んで見ると、縄とじ船の造り方、大きさ、その用途が大体わかる。菅江真澄が道南を紀行した時の文章に「蝦夷船に乗り」とあるのは、縄とじ船である。『蝦夷松前聞書』に「港ある所へ行くは、常の船に異ならず」とある「常の船」というのは弁財船である。箱館松前江差などの港には、弁財船が碇泊していた。昔の東西蝦夷地に、弁財澗、弁財泊などの名が残っているが、その場所は弁財船の碇泊できる良港であったのである

函館市函館市地域史料アーカイブ
「戸井町史」 より引用…
ここまでが前提になる。


では…
ものと人間の文化史 1  船」 須藤利一  (財)法政大学出版局 1968.7.30  による。

①先史時代…
当然ながら、「旧石器期」にどの様な船が使われたのか?東南アジアや大陸からどの様にして我々の祖先が日本列島に渡ってきたかは、当然の事で謎。
筏の様なものか?葦船なのか?解ってはいない。
ある程度解ってきているのは「縄文期」。
石器時代ともいわれる縄文時代の刳舟は、むろん石製の道具でつくられたにちがいないが、現存の未開民族における例から見て、まずその上で火をもやし、刳りやすくしておいて、石器を使って仕上げたものであったであろう。推進のためにカイを使ったことは、例えば、千葉県のあちこちで発掘された刳舟とカイの遺物から見て判断できる。帆の一般的使用はずっとおくれる。」

ものと人間の文化史 1  船」 須藤利一  (財)法政大学出版局 1968.7.30 より引用…

刳舟(くりふね)の使用は、遺跡からの出土で特定されている。
所謂丸木船の様に、石斧らで木を刳り抜いて作っていた。
当然切れ味悪いので、一度燃やし、炭になった部分から彫っていった訳だ。

②古代…
弥生時代の大体中期から後期にかけて、銅器、つづいて鉄器の使用が始まり、鉄の斧・てうな・やりがんななどが出現する。とくに後期になると鉄器がかなり普及し、これがために造船技術も進み、単材の刳舟だけでなく、二本あるいはそれ以上をつないだいわゆる複材刳舟ができるようになった。」

ものと人間の文化史 1  船」 須藤利一  (財)法政大学出版局 1968.7.30 より引用…

金属器が使われ始め、技術革新が起こる。
古墳期には埴輪にあるような構造船に近いものや大型のものが出現してくる。
大陸との往来も進み、船の需要が増す。
ここで重要な事…
応神天皇のとき新羅の使船が武庫(今日の兵庫)港で火を失し、我が船多数が類焼、新羅王大いに驚き、船匠を献じて陳謝し、これらを摂州猪名部に住まわせた。これが新羅式造船法渡来の始めと歴史は伝えているが、当時の新羅船がどんな大きさと構造をもっていたかはさだかでない。のちに百済式船も造られるが、おそらく朝鮮の船は、もう、この頃は立派な構造船になっていた中国船の亜流と思われるから、刳舟を母体とした日本伝統の船とはその構造を異にしたものであったことは、とくに新羅船・百済船という別称を用いたこたからも推量できるし、事実、後世における中国系、日本系の船の全く違った発達からみても、明らかだと考えられる。」

ものと人間の文化史 1  船」 須藤利一  (財)法政大学出版局 1968.7.30 より引用…

我が国では刳舟ベースで造船されていた様だ。
勿論、遣唐使船ら大型のものを刳舟構造で造船するにはムリがある。
12~14世紀の巻物らに描かれた中国系形式の遣唐使船もあながちではないと言う事になる。
遣唐使船の中止以降、大型船の造船を行わなくなったとある。
13~14世紀の絵巻物の所謂「和船」は、概ね刳舟を船底にしてその上に、上部構造を取り付けている。
これが、和船の伝統となっている。

③中世…
倭寇の登場である。
とは言え、倭寇の内、本当に我が国ものと考えられるのは1〜2割程度だとか。
だが、日本船の記述は明の「紀効新書水兵篇」らにあり、初期ではやはり「刳舟の船底+上部構造」で舷が低い特徴で、唐船の様に高い舷だとよじ登る必要が出て攻撃を受けにくかった様だ。
造船技術も航海術も、先代よりあまり発達していなかった模様。
そこから室町、14世紀中ばには、倭寇の舟「バハン船」の進化で造船技術が上がっていく。
この頃、朝鮮王太宗が、朝鮮に帰化した日本人の平道全に造船させて、漢江で朝鮮船「亀船」と競争させた処、倭船に全く遅れをとったと記録があるそうで。
スピードと旋転性能、つまり機動性に特化したのが解る。
また、朝鮮船が生木を使ったのに対し、倭船は乾燥させた材料を使っていた等記録される。
同時に、倭寇後期になると、大型のものは唐船に近いものが出現する事がやはり明らの古書にあると言う。
所謂「遣明船」らの登場。
ここらになると、朝鮮船が木釘を使うに対し、江南,琉球,南蛮,倭船は鉄釘を使うとされ、朝鮮船も鉄釘を使用していくきっかけが古書にあると言う。
この辺りからが和船構造が変わる。
詳細は絵図らが残らず不明な点が多いが、伝統の刳舟を中央から左右に切断し、その切断した部分に船底板を入れて船底を「拡張」…大型化を可能にしたとある。
また、西洋船の様に「肋骨」を使う事は無かったが、中国系を導入「隔壁」を入れ補強したり梁を渡し、船首船底のV字化らが始まる。
それが「ハガセ船」「北国船」らへ進化し、千石を越える大型船も登場、日本海沿岸らの交易船として運用されていく。
公的には「遣明船」で良いが、基本的に明はそれ以外の交易は禁止。
倭寇は取締対象で、和船で赴けば拿捕される。そこで、民間の商人は大陸の南で使われた「ジャンク船」を手に入れ、港の湊で中国商人と出会貿易で取引する様になっていく。
ここで、室町末〜戦国〜織豐期。
当然、南蛮船も日本に近付いて来るが、和船やジャンク船を使う我が国、まだ南蛮船の技術は無く、ルイス・フロイスにして構造等の違いを報告しており、基本は沿岸渡航に特化され、遠距離渡航が出来る様なものではなかった様だ。
興味深いのは…
「われわれの間では船のために(船)大工がいる。日本では船の工匠はほとんどすべて大工である。」

ものと人間の文化史 1  船」 須藤利一  (財)法政大学出版局 1968.7.30 より引用…

彼は一般論として報告しているので、これが全てではないが、専門の「船大工」か造船していたのではなく、「大工」が船も含め造船していた事になる。

この頃国内では、和船の流れを組む「関船」「安宅船」、つまり海賊船や軍船ら戦う為の船も完成してくる。
和船も広いへさきから尖ったへさきへ変遷するのは、瀬戸内海賊の「関船」の影響と考えられている様だ。
同時に刳舟から、中央平底からV字に傾斜を持つ船底へかわり、大和型船の基本構造がほぼ確立していく。
だが、これは刳舟からの準構造船からの進化の延長で、かなり独特の進化だと言えると記述している。


④近世…
ルイス・フロイスが和船やジャンク船は「南蛮船より脆弱」と指摘していたのは先の通り。
同時に「航海術を知らない」とも指摘している。
筆者的には大きく納得。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/19/112656
遠洋航海の必然が無い。
概ねの物は国内で、足りないものは目の前の大陸へ向かえばほぼ手に入る。
南蛮人の様に、資源不足で大陸間を行き来しなければならない状況にはない。
が、南蛮人とのここでの遭遇は、当然遠距離航海への道も開く。
秀吉公も家康公も「南蛮船」の建造技術を手に入れようとした節はある。
だが、ポルトガルやスペインはそれを拒否していた模様。
当然かも知れない。
戦国を目の当たりに見ている彼等、その凶暴さのまま海を渡る様な事あらば、自分達の植民地は荒らされる。
事実、オランダは後に「傭兵」として雇い入れたのは、最近の研究で明らかになってきているとか。
故に我が国初の本格的「西洋型船」は、ウイリアム・アダムス(三浦按針)の指導による物が最初、伊達の「サン・ファンバウティスタ」がそれを追う。
秀吉公や家康公が許可した「朱印船」がどんなものだったか?は、はっきりしないとしている。
恐らくは、ジャンク船に洋式を取り入れたものと想定している様だ。
が、結局我が国は鎖国へ向かう。
寛永10(1633)年…朱印船以外の海外渡航禁止
寛永12(1635)年…大名以下の五百石以上の造船禁止(1638年に商船に限り許可)
寛永13(1636)年…全ての海外渡航禁止
さすがにこれを出しておきながら、幕府のみ西洋形船を建造する訳にも行かず、各プロジェクトは中絶していく。
代わりに沿岸航路を行く大和型船の進化が進む。
上方同様、それ以上の大都市化が進む江戸への御用米の搬送は必須。
それで「弁財船」への進化、所謂「千石船」らの登場となる。
これで、我が国の経済は国全体で一つの経済圏を完成させたとも言えるのかも知れない。
だが、造船技術の進化はここで止まる。
幕府が細かく技術規制した訳ではないらしい。
同書では船匠が、他の産業同様に閉鎖的伝統に固執、忠実に守ろうとする封建的渋滞としている。
後に、黒船来航の時代を迎え、我が国の造船技術では全く対抗出来なくなっていた、故に西洋技術を導入していくと言うのは言うまでもない。

と、言う訳で、ざっと近世迄下ってみた。
では、本題…
「夷船」はどうなのか?
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昨今のアイノ文化の舟は丸木船だとか。
同書にある丸木船と刳舟の違いは木の使い方にある様だ。
刳舟と特徴は、丸太の芯の部分を使い、船底の幅を最大限に取る事、石器使用時の「燃やす」事らからそんな伝統を持つらしい。
丸太を半分にしてそれを彫り込む…これでは縄文以降の我が国の刳舟の伝統ではないのでは?
この刳舟、近代まで使われていた。
「きっつ船」と言って、津軽〜秋田の磯場で使われていた漁船の事だそうだ。
実は筆者は何気にこの船の構造を秋田県立博物館で見ていた。
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「洲崎遺跡」の発掘調査報告書の井戸跡、古い船を切って流用した井戸枠。
こんな船底に舷を追加するのが刳舟なのだそうで。
津軽〜秋田では、縄文以降脈々と続き、中世まで主流をしめた「刳舟」の伝統が引き継がれた証左になろう。
ここで、上記の「縄とじ舟」の構造をみて戴きたい。
鉄釘を使わないとはしているが、同じなのだ。
津軽糠部与人多く此国江逃渡る
彼等薙刀を船舫に結ひ付櫨楷をして櫂渡る
其当国の船舶車櫂の根本なり」
元々蝦夷衆の伝統としていたとされるものを、松前藩も使ったと言う。
まぁ関連項にある様に、白老「アヨロ遺跡」の出土事例の鉄釘とは合致しないが。
南部信直公が野辺地で作り、蝦夷衆に売っていた船のと解釈すれば、蝦夷衆は松前藩より進んでいた事にもなろう。
それだけ、交流が深かった証左。
さて、では今の再現「チプ」は?
そう、刳舟ではなく丸木船。
考えられるのは…

a.再現に何かの誤差がある…
例えば地域差らで、丸木船系と刳舟系に分かれている場合。
造船系譜視点なら、二つの文化に分かれる事になる。

b.端から、往古蝦夷衆の伝統を組んでいない…
全く別の文化集団の可能性が出てくる。

c.再現に誤りがある‥

浅学の筆者でも、この程度は思いつく。
因みに、SNS上で「吉田菊太郎翁」が収集したアイノ文化の文物を収めた「蝦夷文化考古館」の船の構造を見学した方に教えて戴いた。
船底と舷は別々で、固定?で鉄のステーをボルトで繋いで隔壁の様にしていたとの事。
非公開で見せて戴いた写真でも、ステーは確認出来た。
となると「刳舟」の可能性が高い。

さて、何故現代に造船技術文化が2系統になるのか?
ここは、我々がご教示戴きたいところ。

細かい事?…いや、冗談は無し。
通商の民に、船は絶対。
生活に密着した文物こそ、民俗文化の最重要ポイントで、嘘はつかない。
竈、鍋、船、漁具らが、その民俗を語る。
無視する方がどうかしている。
まぁ、当然、研究はされているであろうから、おいおい文献らで学んで行こうではないか。
これもまた、入口に過ぎない。






参考文献:

函館市函館市地域史料アーカイブ
「戸井町史」 

ものと人間の文化史 1  船」 須藤利一  (財)法政大学出版局 1968.7.30

「洲崎遺跡 −県営ほ場整備事業(浜井川地区)に係る埋蔵文化財発掘調査報告書−」 秋田県埋蔵文化財センター 平成12.3月