ゴールドラッシュとキリシタン-28&生きて来た証、続報39&時系列上の矛盾…松浦武四郎が記す、多くの金坑跡&穴居,畑跡

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/10/204415
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/16/201849
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/15/105131
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/27/201947
続けて松浦武四郎の「蝦夷日誌」より。
我々的には、これを見逃す訳にはいかない。
実は、「蝦夷日誌」には多くの
・金坑跡…
・穴居跡…
・畑跡…
これが記されている。
具体的には、註釈書きで示される数だけで、
東 西 計
金坑跡… 8 3 11
穴居跡… 3 5 8
畑跡 … 2 3 5
因みに、城跡,チヤシは、東…9、西…3

穴居、つまり竪穴住居跡に関しては、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/13/185111
こんな話と合致してくる。
この他、土器片や石の斧、鏃らの出土事例も記載有り。

では幾つか引用してみよう。
まず金坑…

「サカツキ(右川)、此邊右の方山に成る也。名義鑛石(筆者註:サカツキのルビ有)が有故に號く。澤すじ金坑多し。〜中略〜ビラ(左平)両山○(筆者註:フォント無、せまりのルビ有)て急流に成り、所々に淵有と。鮭采多し。また川原に石英・含水瑪瑙、其餘雄黃の氣を含む石多し。別ても瑪瑙は種々品を見る。〜中略〜ヲシヤマンベ〔長万部〕の源也。金銀たどり石の氣多く、昔し神が爰にて金銀を作り玉ひしと云傅ふ。従ニナイブト南岸(二丁)下り、黒岩(左澤)と云平に茶碗の絵模様の物有しが故、取歸りて舎密家に審にサンカマンガンの由。色黒く鐵氣有、至て重み有。此邉種々の土砂有。爰をして物産家に審さしめば、顧る有益の品も出べきと思はる。〜中略〜昔しはクンヌイ〔君縫〕より此所へ馬道有しと。其比は金坑至て盛にして、文化年間石井(善蔵)・高橋(治太夫)・高麗(鱗平)等此所を切開、砂金六百両を献じ、追々人家も建しが、可レ惜文政五年より廢山と致す由也。」

蝦夷日誌(上)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15 より引用

これは長万部,国縫カニカン岳方面の話。
寛文九年蝦夷乱での最終防衛線がこの、国縫〜瀬棚のラインだったのは概報。
何度か採掘と廃坑を繰り返してる模様。
知れた所では、ここ長万部,国縫、シベチャリ、静内、様似ら良く聞く名前は一通り。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/08/124743
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/04/224207
実際、松浦武四郎林子平近藤重蔵らの書物は読んでおり引用している。
彼の考えは、基本的に開拓開発と地下資源有効活用で経済を回す事。
別に文化を継続させるとか、そのまま放っておく…こんな考えは見当たらない。
その辺は近藤重蔵最上徳内,工藤平助らに考えは近い。
さらにこんな場所にも。

「上にサカツキナイ(右股)と云有。サカツキとは鑛石の事也。往古金丁が入りて金を掘し跡あり。其源はシノマンフエマシラリと云岩山有。」

蝦夷日誌(下)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15 より引用…

蝦夷地、浜益、送毛、毘砂別、この辺の新道の確認で見付けた様で。
この辺の金の話はあまり見かけない。


次に穴居跡…
せっかくなので、ここ浜益地区、床丹の事例を。

「前略〜トコタン〔床丹〕(小川)、本名トツココタン、譯て蝮蛇の處と云儀。近年迄夷人住せしが今はなし。出稼は軒を並べたり。此邉より追々海岸惡しくなる故、従レ是新道を切んとの時、山下に穴居跡有に、其より次に圓する一枚の石を得、また雷斧石・石烟管、并にとうきの缺様の物多く掘りたりとて、土方の者ども余に興へぬ。余是を酬ゆるに物なく、不ニ取敢_金一方を謝したり。」

蝦夷日誌(下)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15 より引用…

んー…
新道を作るに当たり、破壊してしまった模様。
と言うか、これらで出土「されてしまった」遺物は各研究者のコレクションに…
詳しい調査無し。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/08/205904
先に「文字がある」で少々触れたが、気になるのは、わざわざここで「土人」ではなく「夷人」と言う記載がある。
これも、彼が種々を使い分けしている証左なのかも知れない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/08/063333
何故気になるのか?
秋田県史に北方警備での侵入事例が記載あるからだ。
久保田藩陣屋は増毛にあった。
それは松浦武四郎も記載する。
浜益地区は増毛の直ぐ南なのだ。
実は、穴居跡の記載は、むしろ「穴居跡有」で終了する事が多い。


さて、畑跡…
鵡川周辺でのはなしである。

「ニナツミ(小川、人家五軒)、ヘトンナイ(左川)、ウツカウシ(左川)、ラウネナイ(左川)、トサ(左川)、フンレヲニコロ(右川)、キロゝロヲイ(左小山)等皆で鹿道をたどり行に、爰に神の作り玉ひしと云畑有と、畝も切し跡有て、陶器の欠等有と、恐らくは是往古土人の村なる哉。」

蝦夷日誌(上)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15 より引用…

実際、土人が作った畑の事例は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/08/205904
ここでも触れたが、これは「畑跡」なのだ。
ここで不思議な事は、火山灰はどうした?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718
有珠や他のはたけ跡は、発掘最中に火山灰と黒色土の境目から検出している。
が、松浦武四郎は発掘無しで畝が切られる事を確認している。
更に、ここに住んでる人々は「神が作った畑」だと。
この矛盾解って戴けただろうか?
少なくとも、松浦武四郎が確認した畑跡は、江戸初期の大規模連続噴火より後の物で、且つ、そこに住んでる人々にとって誰が作ったか解らぬ程古い畑…これが成り立ってくる。
では、それを作った神とは何者なのか?
少なくとも、そこの土人達ではなく、それより先に住んでいた者…と、いうことに。
現在のむかわ町
実はこの穴居跡がある辺りを近辺の川(鵡川,穂別川)から推定すれば、平取とは山一つ越えた隣接地。
平取は、農耕始まるのは、他の地域より早いのだ。
これらがあるにも関わらず、「アイノは農耕をしない」…明治で確かにやってない様に見えるが、じゃこの畝付畑跡を作った人々は何処にいったのか?

ざっと読んだだけでも、この程度の疑問は出る。
真実はどうであろうか?






参考文献:

蝦夷日誌(上)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15

蝦夷日誌(下)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15