https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803
「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…
こちらを前項として。
今年ここまで強行した北海道弾丸ツアー第二〜第四段で、ご教示を受けたり自分の眼で確認したりした事から、幾つかを学び深化させつつある。
ここで、第三段厚真編で北海道で疑問視されていた事の答えが見つかった事がある。
「銅鏡」の一件である。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134
「和鏡特別ミッションの続報…「国見廃寺」と俘囚長安倍氏、そして道具に対する解釈は?」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/03/202005
「余市の石積みの源流候補としての備忘録-6…北海道〜北東北での出羽三山信仰の信仰圏の構造は?」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/28/195142
「北海道中世史を東北から見るたたき台として、東北編のあとがき…津軽側と南部側の差異を再確認」…
それまで追っていた「中世城館の石積み」から見えてきた伝搬移動ルート、厚真でご教示戴いた「アイノ文化の源流に修験有り」、そして昨今の墓制の地域差…
ならここで「羽黒鏡」を学んてみよう。
入手した文献は、「和鏡特別ミッションの続報…「国見廃寺」と俘囚長安倍氏、そして道具に対する解釈は?」…これらでも箕島氏に引用された論文で、前田洋子氏の「羽黒鏡と羽黒山頂遺跡」。
実は、羽黒修験と銅鏡は切っても切れないもの。
理由は以前から書いている様に、羽黒山山頂の鏡ヶ池から出土した銅鏡の膨大さ。
実は、500とも600とも言われるその数と、最低でも平安〜近世迄ほぼ揃うという希少性だ。
博物館特別展らでもそれなりに揃う事はあるだろうが、「出羽三山歴史博物館」の常設展示は、数えていないが常時60~70枚位は出ているのではないだろうか。
ではまず、確信部である厚真で疑問視された事の答え合わせを。
ぶっちゃけ書くと、筆者は知っていた。
何度も出羽三山歴史博物館には行っているし、厚真に行った後も確認しに訪ねている。
写真NGなので出していなかっただけだ。
「同時に銅鏡…
一個だけ穴が開いている。
これも解らないと。
銅鏡がどんなものか?は京都で調べたりして概ねの年代と、近辺の実績で羽黒山には行き着いたとの事。」…
こうご教示戴いた。
調べた限りでは「一個穴の和鏡はない」、不明点と仰っていた。
では、前田洋子氏の論文のその部分。
「なお、羽黒鏡のなかには鏡胎に一つもしくは二つの小孔が穿たれているものが存在する。これは御正体として、懸鏡として懸垂時期のあったことを物語っているといえよう。」
「羽黒鏡と羽黒山頂遺跡」前田洋子 『考古学雑誌第70巻第一号』 昭和59.8.31 より引用…
と、言う訳で、一つ穴の銅鏡は厚真にたった一つしかない訳ではない。
筆者は一つ穴を最低3面位見てはいるので、二つ穴より頻度は低いが、数%の確率で羽黒山にはある事になる。
これ、仮に他の地域に無いとすれば「羽黒修験の痕跡」…これでいきなりビンゴとなるだろう。
同時に、この前田氏の論文は筆者は最低二本位の論文に参考文献として記載されているのを見ている。
厚真では、出羽三山を京都で聞いたと言われた。
筆者が銅鏡の展示は圧巻だと言うと「是非行きたい」と仰っていた。
国見廃寺の「瑞花双鳥八稜鏡」10世紀も知らなかった。
当然ながら、仏教なり修験なりは隣である東北からの北上を想定しておくべきと思うのだが、北海道に於いては、ほぼそんな想定はされていないと言う裏返しではないのか?
責めてるつもりも責める気も微塵もないが、これが実情だろう、「東北は眼中に無し」。
まぁ秋田城も十三湊もあまり知らない方が居た位なので、驚きはしない。
さて、我々は「北海道と東北の関連史」がテーマである。
東北から、本題である「羽黒鏡」について学ぼうではないか。
①「羽黒鏡」とは?
前田氏は「羽黒鏡」と記しているが仮名称。
羽黒山頂の鏡ヶ池から出土した銅鏡、そして羽黒山内の土中から発見された物の総称として使っている。
実は鏡ヶ池だけから検出している訳ではない。
実際に全山発掘調査なぞ信仰域である以上不可能。
出羽三山神社の建て替え工事や発見されている経塚らの発掘、たまたま発見された物も含めたものである。
鏡ヶ池にしても、明治〜大正らで周囲改修らで発見されたもので、まだ池中に眠っている物も当然あるものと考えられるらしい。
この池、枯れた事がない様だが、湧水地点すらハッキリしないと本書にはある。
つまり、北海道の様に土中から出土…これは出羽三山視点からしても特殊ケースではない。
で、その全貌は?
「不明」。
勿論、本書で扱ったのは現存,居場所が解るものに過ぎない。
改修らの工事作業者が持ち帰り売ったらの話は伝わるそうだ。
まだ池中,土中に眠るものもある。
故に「不明」。
先述通り平安〜近世迄の銅鏡が揃う事から、古代からその信仰が連綿と続けられていた事を物語る。
箕島氏の論文にあるように銅鏡は「東高西低」の傾向だとの指摘、ただでさえ一箇所での検出数が他の追随を許さぬ断トツ。
国内の銅鏡信仰の中心拠点だったとも言えるのかも知れない。
②変遷と分布
全時代を通すと、
A,唐式(1.3%)
B,和鏡(83.5%)
C,湖州鏡式(5.6%)
D,儀鏡(9.6%)
だそうで、圧倒的に和鏡比率が高い。
C,は厚岸で出土した「湖州方鏡」も含み、似た物は羽黒鏡にもある。
又、「儀鏡」とは、
「儀鏡は、“光を反射し、物の姿をよく写す”という鏡本来が持つ性能はあまり重視されていないが、明らかに鏡として、または鏡に似せて製作されたと考えられる擬似鏡, 模造鏡のことである。日本においては,すでに古墳時代を盛期として祭祀のために用いられた土製・石製の模造鏡があり、それらは古墳や祭祀遺跡から検出されることが多いこと等から、儀鏡を祭儀における報賽用具の一つとしていた伝統があったことが知られる。
羽黒鏡のなかには儀鏡と考えられるものが50面含まれている。」
「羽黒鏡と羽黒山頂遺跡」前田洋子 『考古学雑誌第70巻第一号』 昭和59.8.31 より引用…
幾つかのグループに分かれる様だが、表面の反射能力は期待出来ず祭祀用として作られたものと特定出来る様だ。
中には、ほぼ銅板を裁断しただけ,片面磨きすらしていないものや、針書で文字をや線刻を記したり、
片面のみ漆塗を施す、割られたり折られたり、
原型を留めないものもある。
因みに、儀鏡ではない通常の銅鏡でも池に沈められる前に割られた物は存在するし、
展示していたのを見ている。
箕島氏の白山らの事例にある通り、お焚き上げ前に破壊している仏具ケースは本州にもあり、羽黒鏡でもそれは見られる。
別に北海道固有の行為とは言えない。
では、各時代の変化を。
・平安期…339面(65.2%)
唐式1.8%∶和鏡98.2%と圧倒的に和鏡で瑞花紋か瑞花双鳥(又は鳳)八稜紋、且つ円鏡が主流。
因みに、国見廃寺の和鏡は「瑞花双鳥八稜鏡」。
特徴は、
A,12世紀奥州藤原時代比定の物が主流。
B,「同范(同じ鋳型)鏡」が無い。
C,紋様に地域的特徴が無い。
D,池中検出の羽黒鏡な一部を除き「かなり長期に煙火に近いところに置かれた?」「火中したか?」と思われる変色や被熱痕が残る。
E,羽黒鏡全時代に言えるが、11cm程度の小型鏡である事。
以上。
・鎌倉期…57面(13.1%)
所謂「和鏡」はこの時期に完成されたとの事。
で、鎌倉期の特徴はどちらと言うと平安〜和鏡完成期の過渡期の物が多く、盛んに経塚らが造営された時期とも一致するのだろう。
この後に徐々に衰退していくのは確かである。
・室町期(織豊期含む)…11面(1%)
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/153312
「同じ「出羽国」でも、鳥海山の裏側はどうだったのか?…「立川町史」に「庄内地方」の歴史を学ぶ」…
ここで、少しお膝元である庄内の歴史を見てみよう。
南北朝の動乱では、
「北畠顕家の弟である北畠顕信は、北畠顕家が討たれた後に南朝方として大物忌・月山両神社(鳥海山)へ所領寄進したり藤島城へ入ったりしている。」…
と、庄内〜鶴岡は北畠顕信が寺領寄進や藤島城に入る等、割と南朝方としての行動が記録される。
また、鎌倉期に幕府祈祷所や得宗領としてあれ程鎌倉幕府に対して威勢を見せつけられたのが、別当である「土佐林氏」が守護大名となっていく「大光寺(武藤)氏」の配下になる等、戦乱に巻き込まれ力を失って行く様は想像するに易しいだろう。
遂には、朝廷への上納も室町期途中には途切れ、荒廃していく。
同時に南北朝辺りから、東北各地に「時宗の板碑」が建てられ始め、新規宗門が雪崩込む様も見えるだろう。
・江戸期…3面(0.6%)
立川町史にあるように、「北の関ヶ原」らの影響で、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/18/183612
「実は「出羽三山」では金銀銅水銀、そして鉄が揃う…「月山鍛冶」の答え合わせ、そして技術や文化への宗教の関与は?」…
相馬へ回避した「天宥」が羽黒山へ戻り、家康のブレーンの一人「天海」を頼り、比叡山との関係を深め中興の祖として出羽三山を復活させる。
この段階で、羽黒山,月山(本山派,比叡山系)と湯殿山(当山派,高野山系)と仲違いが起こる割に、出羽三山巡りしている人々はそんな仲違いなぞ気にせず、三山を回っているという…
この様に、ガラリと山の色は変わったであろうが「池中納経」の儀式が全く途切れた訳では無いのが、この僅かに残る銅鏡が物語る。
以上。
さて、どうだろう?
実は、鏡ヶ池の北側には鏡堂があったことが古書に記載される。
明確な発掘で羽黒鏡が出土した訳ではないので、層序らがハッキリはしないそうで、検出時に共伴物が無かった程度しか解らないそうだ。
故に、儀式後に直ぐに池に沈めたか?らも判然とはしないらしい。
本堂では常に護摩が焚かていたとされるので、鏡堂でも同様に護摩が焚かれ、そのせいで被熱痕が出来た可能性もある。
と、するなら…
少し思い出して欲しい。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/28/202837
「時系列上の矛盾、厚真町⑧…これが本命「ヲチャラセナイチャシ」とは、どんな遺跡か?」…
ここで引っ掛かっていた、U字型の堀を持ち、内部に焼土跡を持つ平地建物だが、
「本チャシ跡の機能については、本調査の担当者の一人である乾氏が「精神儀礼に関わる遺構」(乾 2011) として想定しているように、同様の見解である。」
…と報告書にはある。
だが、ここまで修験系の影響が見えてきた今、ズバリ書くなら「護摩堂」ではないか?と推定出来、ヲチャラケナイチャシは宗教施設で説明可能となるだろう。
突飛?
いや、そうでもない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/12/02/204631
「薬師沢館」…通称「蝦夷館」という似た構造を持つ付属施設を持つではないか。
薬師沢…医王沢…
柳田国男博士の影響か、ここもチャシなぞと言われたりする者もいるが、アイノ文化が萌芽する以前から羽黒山は活動している。
時系列的には間違い以外の何物でもない。
また、こんな想定が出来るなら、羽黒山の構造の特徴との共通性で見えてくるものもあるのかも。
羽黒山を散策された事がある方なら解るかも知れないが、多宝塔…羽黒山なら国宝五重塔になるが、山門をくぐり多宝塔は最下層にあり、そこから登り金堂らへ至る。
この構造、あまりないとか。
実はもう一箇所は知っている。
先の「瑞花双鳥八稜鏡」が出土した「国見廃寺」が同様に多宝塔の位置から寺院領域へ登る構造で共通項を持つとか。
同様の構造を考えられる柱穴が見つかっていれば或いは…
「妄想」は止めて、話を元に戻そう。
現実、中世の羽黒山の姿はまだ未解明の部分が多く、実態不明と言わざるを得ない。
ただ少なくとも、羽黒鏡は奥州藤原氏〜鎌倉期位に隆盛する事は、羽黒鏡が教えてくれる。
平安期の特徴BとCから、羽黒鏡を作っていたのは京郊外の鋳物職人集団(公営工房と別に各地へ供給?)で、都の貴族らが各地の山々を巡る修験僧にその鏡を託し、羽黒山へ奉納したのではないか?との推定も記述される。
もしそうなら、正に全国規模での「池中納経」の聖地だった事になってくる。
そうなら、平安〜鎌倉期に北上するのは極当然であるし、南北朝の動乱に巻き込まれてもいそうなのでその頃に一部が移動しても不思議ではない。
この様に、修験道者は都と地方の聖なる山々、寺社同士、山と山、津と湊を結ぶネットワークを持っていた。
その痕跡を見つける事が出来たなら、他の寺社や貴族,武将らに情報を流す位はわけない事。
「諏訪大明神画詞」…
北海道に寺社さえ出来れば、その状況を修験者が流す位訳ない事。
「アイノ文化の源流に修験有り」…ここまで気付いたなら、上記程度は想定可能だろう。
そこから一歩踏み出せば、有珠善光寺や等澍院の寺伝も無視出来なくなってくる。
少なくとも「あり得る」…こんな事は頭の片隅に入れておく必要はあると考えるが。
それを想定すると「恐ろしい事が起こる」…これもまた事実だろうが。
それは「鏡」が教えてくれる。
参考文献∶
「9 ~ 11・12 世紀における北方世界の交流」 蓑島栄紀 『専修大学古代東ユーラシア研究センター年報 第 5 号』 2019. 3
「羽黒鏡と羽黒山頂遺跡」前田洋子 『考古学雑誌第70巻第一号』 昭和59.8.31