開道百年記念行事と道立野幌自然公園とは?…報道視線からその目的らを見てみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/22/214116

我々は政府の政策をキッカケに、歴史の再勉強を始めたが、研究者でもジャーナリストでもないので、こと、現代史に触れるのはどうかとは思う。

SNS上でのそんな呟きや活動は何気に聞いているので、その事業とはどんなものだったのか?だけ触れておこうと思う。

これがなんだか知っているだろうか?

札幌や江別周辺の方なら見てるだろう。

これが「北海道百年年記念塔」。

昨年の北海道弾丸ツアーで見学してきた。

そんな老朽化している様には見えなかったし、老朽化したならそれは行政が「維持管理を怠っていた」と自分で言ってる様なもんだろう。

傍目で見てきた第三者の感想。

今、解体作業に入り始め、一部の方から解体反対の声が上がっている。

なら、それを含む事業とはどんなものか?を当時北海道新聞社の編集委員が著した著書から「当時の報道を通した視点」で報告してみる。

敢えて…

筆者的には、これらは地方行政上の問題と考えているし、あるキッカケから話題にする事を止めているので、包括的な事業全体として当時の世相がどうだったのか?で取り上げる。

存続するか?壊すか?は、道民が決めりゃ良い話で、我々の発信とは関係ない。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/22/053602

それに、北海道の開拓なら明治の開拓使以前より進んでいた事。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/30/223653

そうでなければ、何の為に津軽,南部藩士は命懸けで北方警備に行ったのか?訳が解からん。

明治の開拓も解るのだが、まずはその前から学ぶべき…これが筆者の考えなので、悪しからず🙇

著書は「証言・町村道政とその時代」、著者は高橋昭夫氏で北海道新聞社の編集委員らをやった方の様だ。

夕刊コラムを担当し、当時のコラムに追記して出版したもの。

 

では…

これを語るには、その事業を肝入として進めた当時の知事から。

「町村金吾」氏。

ウィキより。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BA%E6%9D%91%E9%87%91%E4%BA%94

父…金弥は陸軍技師で元大久保町長。

兄…敬貴は町村農場始業者且つ参議院議員ら。

子…信孝は元官房長官ら歴任の衆議,政治家。

義孫…和田義明は現在衆議院議員

では、本人は?ざっとだが…

・内務官僚として青森展静岡勤務

・宮内書記官

三重県警察部長

内務省警保局警務課長

・内務官僚大臣官房人事課長

官選富山県知事

内務省警保局長

官選新潟県知事

・警視総監(鈴木貫太郎内閣)

…ここまでが戦前…

・東京都次長

はとバス会社初代社長

衆議院議員(道1区)…4選

・北海道知事…3期

参議院議員…2選

自治大臣,北海道開発庁長官(第二次田中内閣)

・1983(昭和58)年に政界引退…

これらを歴任。

元々はバリバリの内務官僚や警察警務、都道府県知事に通じた人物で、一時公職追放された期間がある。

知事の公選制開始(昭和22)から北海道は社会党系の田中知事が3期努め、その後を1959(昭和34)~1971(昭和46)年迄勤めた。

保守系知事…いや、むしろ、歴任した内務官僚らで得た人脈で、中央政界と直結させた知事と言う印象かも。

政界引退後に本人へのインタビューでも、官僚経験から「支配行政」的な部分はしがらみから抜け出せず、一方、地域住民の要請(時として地域エゴ)に応じるのが当然と言う考えが蔓延する中、目先の利益より国全体としてどうかを念頭に置いた…と回顧している。

こんな人物だ。

 

改めて本題へ。

丁度任期終了に近い1968(昭和43)年が、明治開道から百年になる為、1965(昭和40)年から記念事業協議会(会長町村知事)を発足させて内容検討を行っており、同年11月に最終案を纏める。

この時、事務局に出された町村知事の方針は…

・記念式典は可能な限りムダと費用を省く(何周年に付き物の「表彰」は無し)

・後世に残る施設を作る

この2点。

次に推進協議会にて、実施方針三本柱を設定した。

①道開発の意義を国の内外、道の内外にしらしめること…

②全道的意義があるもので道民としてひとしく参加し得るもの…

③道開発の歴史を回顧、開発の偉業を記念するとともに将来の発展展望に役立ち後世に残る施設を作る…

この三点。

そこで、学識経験者(高倉北大教授ら)に広く聞き、国民にアイデアを募るを実施する事にした。

明治21年以来の「赤レンガ庁舎」はゲスト・ハウス行政資料館として永久保存を決定。

・スローガンとシンボルマークを全国から公募する。

「風雪百年  輝く未来」とポスターを決定。

 

・主力事業として「道立自然公園野幌自然公園」を作る。

これが最大の事業である。

このコンセプトは「大都会の直ぐ郊外で原始性に富む平地林を主体とする最大規模の森林緑地帯を作る」事。

手稲山真駒内も候補とされたが、狭い事が理由で脱落。

野幌国有林の森林地帯やアオサギ群来地を活かし、その西は都市計画を行い、住宅地と文教地区を整備する。

この森林地帯の85%は維持し、15%に記念施設地区を作る事とする。

で、林野庁管轄の国有林を道が公的管理を行う事、1割程度の民間所有地(戦後の緊急開発により農家が散在してあた)は、道の企業局次長主導で買い取りを行い、基本的な自然破壊を行う事なく利用地を確保したそうだ。

石狩川河口と苫小牧を結ぶ線は、温帯と亜寒帯の境目となっており、この線上に開拓記念塔と開拓記念館を建設する事とした。

その時点で世界第三位の広さを持つ森林公園設置を目指した訳だ。

 

・躍動の象徴として「開拓記念館」を建設する。

ここには北海道の生い立ちから歴史、開発への課題を示す諸資料収集・展示・保存し、北海道の歴史をたずね、今後の北海道のあるべき姿を示す構想で、設置.運営される目的を持つ。

この設計は建築界の大御所である「佐藤武夫」氏に以来した。

 

・百年記念塔は開拓記念館と対に、向かい合わせて設置。

この設計は開拓記念館と違い、公募制(審査委員長は開拓記念館設計の佐藤武夫氏)で行う。

条件は、

・予算は5億円

・野幌丘陵に高さ100mの塔とする

・北海道百年の開発に尽くした有名無名の全ての先人への感謝の心と輝く未来を創造する決意と躍動する故郷の姿を象徴するものである事…

この三点を提示した。

これで最優秀となったのが「井口健」氏。

この最終決定には少々曰くが付いた様だ。

次点となった「黒川紀章」「木村康宏」「沢田隆夫」三氏合同作のデザインを押す向きもあったそうだ。

が、三氏合同作は、当初なら設定提示されていた予算5億円で収まらなくなり、首位を逸する。

勿論、井口健氏の設計は5億円クリア出来る事を前提にしていた。

発表された当時には、宮崎市の「八紘一宇の塔」(笙をかたどる)を真似たと揶揄する声もあったが審査は7次迄佐藤氏ら中心に行われており、それは誤解だと当時の事務局長は後に語っている。

設計において、一つの売りは、高強度,重厚な色調,あらゆる天候に耐える事を狙い「高張力鋼」を使用した。

この高張力鋼はその中でも、表面に酸化膜を作り錆が内部まで進行難くなる物を選定した模様。

 

この様な方針、コンセプト、条件らで進められた事は、同書に当時の記事やインタビューを交え記述がある。

そして、赤レンガ館の復元作業から順次着手され、道民の皆さんの知る形で完成される。

記念式典は、天皇皇后両陛下を始めとした来賓を迎え実施された…と。

これ、町村知事が再三来道要請を行っていたが、宮内庁が回答を避けていたところ、天皇陛下より直接希望が出され実現したとある。

この辺、著者は非常に好意的に記載しているが。

当時の道新編集委員のスタンスとしても、町村道政をかなり高く評価していた様子が伺えるのだが…

同書の発行は1985(昭和60)年。

随分、今の言われようとは違う様な…

置いておこう。

 

町村金吾氏はこの後の知事選出馬をしないとし、堂垣内尚弘氏が出馬。

僅差で対立候補を押さえ当選し3期堂垣内道政となる。

まぁ札幌オリンピックや、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/21/073146

道庁爆破事件らは堂垣内道政下で起る…と言う訳だ。

町村知事4選不出馬には、色々曰くもあるようだが…

止めておこう。

どうも、中央政界との話がゴチャゴチャある様だが。

それらしい事はチラチラ記載がある。

あくまでもたった一冊の著書。

全てが解るハズもない。

それに、政治の話には、人脈や利権は必ずつきまとう。

それを世情と合わせてどうだったか?読み解く必要はあるのではないだろうか?

ただ、公式に出され、報道された事が並べられているのは事実。

当時のコンセプトとそれからの動き…重ね合わせてどう考えるかは、読んで戴いた方に委ねよう。

我々が口を挟む事ではない。

 

まぁ、背景の備忘録程度で。

 

 

 

 

参考文献:

「証言・町村道政とその時代」  高橋明夫  北海道新聞社  昭和60.6.28