「黄金山産金遺跡」で何が行われていたか?…その推定の備忘録

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/28/205257

さて、ここでちょっと触れた涌谷町「黄金山産金遺跡」。

日本最初の産金地である。

では、この黄金山産金遺跡で行われていたであろう事はどんな事なのか?

正確には立証されていない。

ただ、どんな人々が、どんな組織形態で、どの程度の規模で、どんな作業を行っていたか?

これについての推定をした論文はある。

昭和58年に日本鉱業史学会で鈴木普氏によって報告されたもの。

これを紹介してみよう。

関連項は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/16/192303

辰砂に、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/10/203836

後の話…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/03/28/195614

デ・レ・メタリカ

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/05/204650

天工開物…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/06/140204

阿仁銅山と加護山精錬所…

 

では…

①どんな人々?どんな組織?

黄金山産金遺跡を発見し金を献上したのは?

これは「百済王敬福」。

勿論、百済王の血を引く人物だと言う事は概報。

陸奥守で、聖武天皇が大仏建立の詔を発布したときは上総守だったが、着任半年で陸奥守に再任されている。

と、言う話になれば、陸奥に金がありそうだ…と、ある程度目当てを付けていた可能性も鈴木氏は指摘する。

実は、これを達成させる為に百済王敬福はプロジェクトを組み、スタッフを集めたとしている。

リーダー    …陸奥守…百済王敬福

副長官        …陸奥介…佐伯宿弥全成

武官            …鎮守判官…大野朝臣横刀

産金責任者…陸奥大掾…余足人

金獲人        …無位…丈部大麻呂…※1

同助手        …無位…朱牟須売

産金協力者…私度…沙彌丸子連宮麻呂

金冶人        …無位…戸浄山…※2

産金協力者…神主…日下部深淵

だそうで。

鈴木氏が着目したのは2名。

※1  丈部大麻呂…

上総の人物で、金を獲た事で無官位から従五位下となり、後に隠岐守に。

この人物が実質の発見者ではないかとしている。

また、朱牟須売は妻で唐人の後裔らしい。

つまり、百済王敬福は上総から信頼出来そうな人物を陸奥へ同行させた模様。

※2   戸浄山…

左京の人物で、百済系。

この人物が金の精錬(冶金)をした様で、大初位上へ。

後に武蔵での銅発見者である金上旡も新羅の後裔で、これら鉱山開発創成期では渡来系の人々の活動によるところは大きいだろう。

武蔵らには帰化半島系の移住があったのは記録に残る。

 

②どんな規模?どんな作業?

ベースはこんな工程振分とする。

ここが推定且つ数字の世界になる。

献上されたのは900両→約12.6kg。

ここの砂金は石英(持ち石)にくっついた物とされる。

で、その上流の石英塊と通常の金鉱石の金含有量らの比較から、鉱石1㌧当たり10gと推定した上、歩留7割増し→Total1500㌧を処理した事になる。 

ここで、一日一人の作業者の採掘量を0.5㌧とすると、3000人の堀子が必要。

さて、次。

突然、鉱石そのままで冶金は不可能。

鉱石は、細かく砕き、臼で挽いた後に比重差で選り分ける。

一日一人が選鉱可能な量は0.1㌧位としている。

つまり15000人の労力が必要になる。

さて、次は辰砂のところで触れている精錬。

選鉱で選り分けられた荒金の純度は40~99%。

この鈴木氏は、鉛を使った灰吹法と水銀を使ったアマルガム法を併用したと考えた様だ。

最終的には、大仏の鍍金に使うので、それなりの純度迄上げる必要がある。

ここの工数は2千数百人必要と。

総数のべ20000人/日。

で、これを年間二百日稼働させるとして一年間作業させれば、大体平均で百数十名の常備工人を要すると。

陸奥守復帰から金の献上まで、約二年半。

大体、一年半で鉱脈探索、一年で仕上げると推定してる様だ。

これ、途中工程で鉛や水銀の中毒症状が出たとしたら当然、人数は更に必要だし、探索にもノウハウがあるのでそんなに余裕があるスケジュールだとも思えず。

まぁ後に陸奥では、米の租税ではなく砂金でもOKになっている。

全くの〇発進ならかなり短期で指導、ハードワークのプロジェクトだったのではないだろうか?

一応、後世の「鉱山至宝録(1691)」「山相秘録(1876)」「天工開物(1637)」らにある役職分担を纏めると

○事務系管理職

・奉行…1

・勘定役…4

・小頭…2

足軽…10

○技術系管理者

・元締…1

・手代…4

・世話役…5

・小厮…10

……計約40名

○人夫…100~300名

これ、恐らく友子制度で管理の竪型化と兼務で、管理職人員は減りそうな…

ただ、先の人員試算もあながち外れてはいないと言うことなのだろう。

 

以上の通り。

奈良の大仏建立に使った黄金は400kg超とされるので、これを皮切りに他の地域含めて開発,増産に移ったのは想像出来る。

今、各種論文を読んでも、古代に鍍金に使われた水銀アマルガム法を精錬迄応用したかは未知数。

理由は水銀蒸留の設備遺跡がはっきりしない為。

が、「ミズガネ」と言われる物は鍍金で使われ、水銀そのもので自噴していないところを見れば、蒸留技術を持っていたであろう事までは確定…

後は、精錬への応用迄の量までの話だろう。

上記推定は後の古文らを参考に遡っているので、未確認要素はあると考えるが、少なくともこの規模より大人員を掛けねば、大仏建立には辿り着く事はないだろう。

正に国家プロジェクトだった事は間違いない。

実は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/153312

近世の入口、庄内が上杉領となった時に、直江兼続は「砂金掘りを重視するあまり、田畑を疎かにすれば極刑」という触れを出したとか。

でも、古代国家プロジェクトであれば、専業として進めなければムリだったのでは?

なら、後の陸奥蝦夷(エミシ)の反乱も、何となく関わりを持っていたとしても何ら不思議はないと。

 

8世紀には、渤海新羅、そして遣唐使の滞在費らに黄金が使われる迄に至っていた事を付記しておく。

 

 

 

 

 

 

参考文献:

佐渡金銀山史の研究」 長谷川利平次  近藤出版社  平成3.7.10