消えた民俗風習、津軽に伝わる「木帳面」、東北にあった「錦木」…似た様なものは東北にある

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/02/203302

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/19/184606

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/30/121516

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/15/141716

前項はこれら。

土塁,空堀、刀の拵、繊維、御幣等。

関連項は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/28/080712

ユカンボシC15遺跡の宗教具。

 

さて、いきなり本題からいこう。

これは「東北文化研究 上巻」に記載ある木帳面や錦木と言うものだそうだ。

元々「東北文化研究」は喜田貞吉博士が中心となり、昭和3年に一巻一号が刊行され、本著はそれを集め再出版されたもの。

この図を紹介したのは一巻四号の「津軽樵夫の木帳面と錦木」という論文。

別件への記事を見たかったのだが、ついでに載ってる記事をパラパラ見てる内に見つけてしまった次第。

ぶっちゃけ、この展示は見た事がなく、何に使うかも何も解らす。

が、初見で気になり、メンバーに見せたら即答で「似てるよな」と。

 

ではこの「物体」が何であるか?

記事を読んでみよう。

 

①木帳面…

岩木川の支流なる浅瀬石川上流村落の樵夫の中には、木帳面と呼ぶ一寸角位に削つた木材に𨦻目(筆者註:なため)を入れて、記號を附して帳面とすものを使用してゐる。其記號は亦文字の代用ともなるのであるが、木帳面は専ら数字に使用する。勿論往古傅来のもので、先づ材木の枝を適宜な長さに切断して、𨦻を以て方形に削り、長さは大抵𨦻丈としてゐる。〜中略〜一本の木帳面は二人の帳付となる。

 

津軽樵夫の木帳面と錦木」 佐藤雨山  『東北文化研究 上巻』 喜田貞吉  東洋書院  昭和52.12.29  より引用…

 

木帳面の使い方は、

概ね長さ35~45cm程度の角材を使う。

樵小屋に於いては、二人で2面づつ使用し、それぞれ持ってきた米と味噌の使用量を記録していく。

貸し借りがあった時には、借りた分を墨書きして、返せば削り取る…まぁ割符としての機能も持たせた様だ。

この割符機能は、里でも使われる時があった様で、当時の訴訟問題で証拠として提出され認められたケースもある様で。

つまり、メモ帳&割符や請求&納品書。

 

木帳面の源流は…

この論文では、それはこの地域の樵夫が山から切り出した原木を流すときに木に付ける木記號と述べている。

 

「一體津軽の木記號と云ふものは、各々名のある三十八種の直線記號を選み、之を𨦻目で刻するのであるが、大抵其内の三個を組合わせて一軒の家の記號とする。左方に一番先に刻するものは親印である。それで實際選むところのものは子印二種である。尤も其位置や方向で同一の記號でも仕分けされるもので、長さ四尺に小切りした流し木は、何處迄流されたとて誰の物だかは直ぐ解るやうになつてゐる。要するにこの木記號は流木運材の個人作業に便利なものであつて、今の刻印の原始的なものである。」

 

津軽樵夫の木帳面と錦木」 佐藤雨山  『東北文化研究 上巻』 喜田貞吉  東洋書院  昭和52.12.29  より引用…

 

この辺は、菅江真澄も記録している模様。

勿論、木帳面の方にも自分を示す木記號を最初にうつそうな。

あれ、どっかで見たような…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/28/080712

元々北海道にはヒバも杉も存在しない。

江戸期にそれが出荷され出す。

そこから換算し、その百〜二百年前の時代の土層、勝山館から出土したものは?

「シロシ」…以上。

まぁまぁ…話はまだ途中…

次に進む。

 

②「錦木」…

https://kotobank.jp/word/%E9%8C%A6%E6%9C%A8-17337

まずはコトパンクより。

「② 昔、奥州で、男が恋する女に会おうとする時、その女の家の門に立てた五色にいろどった一尺(約三〇センチメートル)ばかりの木。女に応ずる意志があれば、それを取り入れて気持を示し、応じなければ男はさらに繰り返して、千本を限度として通ったという。また、その風習。

※後拾遺(1086)恋一・六五一「錦木はたてながらこそ朽ちにけれけふのほそ布胸あはじとや〈能因〉」

なんと奥ゆかしい…

この年代だと、平安の国風文化からのものとなるか。

さて、この辺を事前知識として論文を読んでみよう。

 

「明治四十四年に、弘前市郊外なる中津郡清水村の林檎園内の地下から無数の小木片が出たと云ふ事を、園主渋川藤之助氏から聞いたので、よく其顛末を聞きたゞしてみると、氏の曰く、當時園内に排水溝を窄つべく深さ二米突ばかりに掘つて行くと、二ヶ所位に千年木になつた破片が澤山盛になつて在つたので、取り上げてみると其数は幾百(以て算へる程で畚(筆者註:もっこ)に三杯位であつたと云ふ事だ。」

 

津軽樵夫の木帳面と錦木」 佐藤雨山  『東北文化研究 上巻』 喜田貞吉  東洋書院  昭和52.12.29  より引用…

 

材質はイヌエンジュ、長さ17cm×巾6cm弱×厚さ1.5cm位か。

巾面上部を斜めに切り取り、直下に鉈目を入れて記号化している様だ。

それが上図のCになる。

地下2mからの出土、著者は600年前位と推定している模様。

往古の樵夫の木帳面にしては、記号が一面しか無い事等から錦木ではないか?と考えた様で。

コトパンクの通り、錦木なら、何処かに本人を特定する記号が必要な訳だ。

著者は古の歌を紹介する。

 

徒(いたずら)に  千束朽ちにし  錦木を

猶懲りずまに思い立つかな…

 

想いを寄せた女性に振り向いて貰うには千束の努力が必要…もっこ三杯分…なんとも切ないではないか。

まぁ、古歌に浸ってる場合でもなく、これが錦木かどうかは別として、何らかの意図を持ち記号を入れたのは間違いなさそうだ。

 

さて、如何であろうか?

著者は、文盲の樵夫達が、自分又は一党を指し示したり、貸し借りをお互いに認め合う為に記号化したものを使っていた事例を紹介している。

木帳面の部分でも書いたが、時系列的には、津軽からの樵夫の流入によりこれら木記號が伝わったとしても説明はついてしまうだろう。

更には、これが樵夫に伴なうものなら本州北上の系譜があるだろう。

同じ様な記号風習が伝搬しているならどの山の系統なのか?らも見えて来そうだが。

The民俗学

まぁ名取,河野両博士が移動痕跡を調べた様に、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/27/202733

イクパスィらのシロシについては、その継承により、一族が何処から来たか等を確認する指標にはなっている。

筆者的には、この様な風習系譜を確認している研究らは、既にあって然るべきだと思うのだが…

まぁ現代に於いて、イナゥの系譜についてすら柳田国男博士の見立てが史書らに記載されていない段階でさもあらんではあるのだが。

 

まぁこれだけは言えるだろう。

関連性は未知数だが、木記號を見る限り、これら彫刻による記号表示らは「北海道固有のものでは無さそうだ」…

という事になる。

探せば、似た様なものはまだあるだろう。

 

 

 

参考文献:

 

津軽樵夫の木帳面と錦木」 佐藤雨山  『東北文化研究 上巻』 喜田貞吉  東洋書院  昭和52.12.29