生きてきた証、続報43…やっと見つけた、東北への「カマド型土器」到達事例

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/01/11/063157

「生きてきた証、竈シリーズ」、今回は移動式竈…というより祭祀用なのだろう。

今迄も、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/01/02/121528

当然ながら西日本では出土が見られるが、なかなかこちらでは見る事が無かったが…なんと、たまたま買ってきた「中山町史」に記載があった。

中山町と言えば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/04/192707

今迄も「オナカマ信仰」で紹介している。

この周辺は古墳や条里跡があり、中央との結び付きが考えられる場所。

さて、どんなものか?

「前略〜道教信仰は日本の古代思想の中に少なからず影響を与えた。中山町において昭和五十八、五十九両年度に発掘調査の前記「三軒屋物 見台遺跡」(県遺跡No375) から、古墳時代中期における祭祀用と考えられる径六センチの円盤状土製模造「鏡」やネックレス様丸玉類(土玉)をはじめ「カマド型」土器が出土されたが、復元のカマド土器は、器高三九・五センチ、底径三五・七センチ、上部甕等の据口径一七・五センチ、焚口幅二三センチ、高さ一九九センチ、器壁約一センチ内外の大きさで、本格的な炊飯具にしては器壁も薄く小型である。さらに同遺構からは剣形石製品はじめ青緑色の碧玉なども一括して検出されている。特にカマド型土器は、前述のように弥生文化期の中国道教信仰の日本伝来とその影響によった呪術的用具の一つともいわれ、類似する国内(平安カマド形代、京都長岡京跡・奈良沼山古墳など)での出土例もあり、いずれにしても弥生時代以来の米づくりにかかわる米依存型 の大器の貴重な創製と考えられる。」

「中山町史  上巻」  中山町  平成3.11.1

とある。

なら、どんなものか見てみたくはないか?

発掘調査報告書の写真が、これだ。

では、発掘調査報告書をみてみよう。

基本層序は、

Ⅰ層(耕作土)

II層(遺物包含層)

llI層(遺構検出面,地山)

である。

実際の遺構では、覆土らは数層に分かれ、遺構の切り合いらもありもっと複雑。

 

「発見された遺構は竪穴住居跡約30棟(うち22棟について完掘),土壙1基,大溝跡2条,屋外炉跡1基等である。遺物は,これら遺構の覆土内・床面上を中心に出土したが,特に住居跡・大溝跡(SD15)からの出土量が多い。」

「C区は,A・B調査区の窪地的な基底面から北側に立ち上がる斜面部分にあたり,その北端で上り切る。従って,検出面からの深さを減じるが,堆積土の基本的な在り方では包

含層1の上部層を欠落する他は変わりない。包含層は,Ⅰ~IV層までが確認され,II~III層,主としてIII層中から完形土器他のまとまった遺物を得ている(第90図上段)。これらはA・B調査区Ⅲ層で認めた密集する遺物群に同列のものと考えることができ,位置的に見てA~C区を1単位的なブロックとする大きなまとまりの中では,その北辺部分とすることが可能であろう。

遺物では,遺物群の年代や性格を考定する上で非常に興味の持たれる須恵器杯RP740(第113図5,図版189-3),カマド形土器RP310・679(第121図,図版154・155・巻頭図版8),土製玉類RP395他(第87・119図,図版196・197)等が出土しており,共伴の土師器各器種完形品類(図版150~157)を含めて注目される。但し,第90図中で示した平面図記載の遺物は,断面図№3(第103図)の6・7層最上面に乗るものと(包含層の対比ではIII層下半となる。),6・7層上端から10~20cm前後浮くもの(包含層ではII層下半からⅢ層上半に対比できる。)との別があり,須恵器杯,カマド形土器等は前者,土師器杯RP727・728他東斜面に係る大方の土師器は後者となる。」

「カマド形土器(第121図)は,C区包含層Ⅲから出土したもので,約9割方を遺存している。調査時点での遺物登録番号RP310・679の大方と,包含層中の破片が接合してほぼ全形が復元できた。器高37.5cm,底径(正面~奥壁)35.7cm,上部甕等の据口径17.5cm,焚口幅23㎝,付け廟までの高さ19.9㎝,器壁厚約1cm内外を各測る.大形のものである。

器形は『兜』形を呈し,付け廟が特徴的である。廟状の突帯は,左右両端でやや吊り上がり,正面中央で幾分下がる形状を呈す。突帯はさらに焚口の両側に及んでいたと推測され,端部を包む器壁内外に剥落痕跡を明瞭に止めている。側壁の下底は焚口を両端として馬蹄形に廻るが,内側に粘土帯を付け足して断面三角形様に補強・整形される。両側面の中央やや下部には,各1個の小窓が切られ,製作時の割付と推定できるヘラ描きの沈線数条を、その左右に残したままとしている。小窓の横幅約4.5cm,縦約3cm内外を夫々測る。胎土に細砂をやや多く含み,3cm幅前後の粘土帯を積上げて形成された様子が分かり,焼成良好で堅徴となる。内・外面の調整は浅く弱いヘラナデとナデを主体とし,ケズリ・ミガキ等の手法はほとんど認められない。本遺跡からの出土例は本例1個体に限られる。」

「第2次調査の大溝跡SD15を主対象とする調査からは,5枚の遺物包含層Ⅰ~V,および包含層Ⅲを中心として認めた夥しい量の遺物群が検出され,包含層III・V中に移入され

たと考えられる一定量の古式須恵器各器種を含んでいた。溝跡の成因・埋積過程については附編1に阿子島氏の論考があり,洪水と包含層(考古遺物)の観点から興味ある分析がなされている。すなわち,溝跡は人為ではなく本来的には自然の旧河道であり,約50年ないし100年の時間の中で5回程度の洪水が認められるとされたこと等である。

一方,出土須恵器については,胎土分析から産地の推定が行なわれ,産地未詳品・大阪陶邑産の各存在等が附編2の三辻氏の論考から明らかとなっている。こうした産地推定の試みは,物資の流通を考定し,各地域間の結び付きや政治的動向の一端を窺い知る上で有効な検証手段と判断でき,陶邑産の存在を認め得るとする結果は重要と考えられる。

出土遺物では,上記溝跡の包含層Ⅰ~Vに夫々係わる一括性の強い土師器・須恵器他の遺物,および住居跡との関連で捉えられた一括遺物等が多数存在し,山形盆地における当該期資料の組成と変遷を辿る上では格好の素材と言える。また,本文中で充分に触れることのできなかった遺物の中に,石製の小玉・管玉類と同一の石材を示す剥片や砕片および石核様のもの(図版202下段)があり,小規模ながら玉作等の存在が推測された。同様に,資料的

には僅少ながらSD15大溝跡や一部住居跡の覆土中からはコークス状の金糞や重量のある鉄滓,および飴状に鎔解した器表面と円柱様の形状を窺うことのできる残片(鞘羽口?)が出土しており,不確実ながら集落内部に鍛治的機能を備えていた可能性も想定できる。

以上のこと等から,本遺跡は単なる農耕集落とは考えられない側面を持つと推測できるが,特殊か一般かの判断は類例の皆無に近い現段階では控えるべきであろう。」

「SD-15,20の埋積過程
以上より,これらの溝の原形は自然堤防上に残された河道の跡の凹地(クレバス)であり,それも相対的に短期間の河道であったために,起伏(深度)が小さく,自然堤防の離水にともなって変形されて中高となっていた(北より南へ一方的に深くなっていない)。また南端で若干基底が高い。凹地の堆積の過程で,凹地は南北に分化・縮小した。凹地の埋没すなわち自然堤防の頂面がほぼ完成した時期は,Ⅰ層の堆積期によって推定されるが,南側の旧河道に切られていることから,現在までにひきつづいた(自然堤防頂面と河道面が同時並行的)のではなく,ほぼ完成した時期として特定することができよう。
集落が営まれたのは,遺物の年代幅が約200年以上にわたるが,SD-15のⅠ~V層の年代幅は土師一型式(住社式)の約100年間である。この間,凹地は常に水深のある湿地となっ
ており,ふだんは粘土質のものが静かに堆積し(遺物が混入する機会が多く),洪水時には周辺より砂質のものがもたらされて急激に堆積した。約100年間に5回程度の洪水によって浸水したことになる。住居跡の重複関係には少くとも4回以上が認められるので,洪水履歴との関連に興味がもたれる(表2)。」

「三軒屋物見台遺跡 (2) -本文編-」  山形県教育委員会  昭和62.3.25  より引用…

どうやら、SD-15という大溝…というより旧河川に残る湿地の包含層での検出の様だ。

約200年存続した「村」では、最低5回洪水があり、カマド型土器は廃棄したか若しくは流されたかして他の遺物と共に封印された模様。

この「村」の評価は、周辺に数多くの近い時代の遺跡があるので、それらトータルとしてどの様な営みが行われていたか?の解明が必要になるのだろう。

どうも、鍛冶や玉造りも行われた様だが…

年代だが、カマド型土器の出土は、本文中でSD-15のⅢ層の下半分に当たると言う。

黄色くマークアップした部分の下半分…概ね6世紀中盤が妥当な処なのだろうか?

遺跡全体でみて、大阪陶邑産の須恵器が特定された様なので、この時代には中央との連絡があった事になる。

 

と、言う訳で…

今後も類例は探していきたいと思う。

これが海路or陸路で北上するのか?形は変化するか?等含めて、秋田の「貝風呂」「石竈」へ繋がりえるのか?確認を続けて行く。

 

 

 

 

参考文献:

 

「中山町史  上巻」  中山町  平成3.11.1

 

「三軒屋物見台遺跡 (2) -本文編-」  山形県教育委員会  昭和62.3.25