空堀は何工数,何日で築かれたか?のきっかけ…入口として「遠矢第二チャシ」をみてみよう、ただ…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/03/202005

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/23/194651

ちょっと中世城館の宗教的側面に触れたが、筆者的に興味がそそられるのはむしろ技術的側面。

折角なんでその延長で「チャシ」のそんな部分にも触れていこう。

 

前項で紹介した各県毎の中世城館報告は、文化庁の指導で各都道府県の教育委員会文化財担当単位で行われているかと思う。

つまり全都道府県発行されているハズだが、これを片っ端から読むのは大変。

なので「日本城郭大系Ⅰ 北海道・沖縄編」より。

こちらには、構築における掘進工程や概ねの工事期間が解説される。

まずはここをスタート地点としてみよう。

まずは、構築工数

釧路の「遠矢第二チャシ」での空堀構築工数の解析事例がある。

平たく言えば、発掘時の掘り方や切合の特徴からどんな順番で掘り進んだか?を割り出し、一度にどの程度掘ったか?何m掘り進んだか?何工程に分かれるか?らを推定し、どの程度の仕事量だったかを予測した様だ。

ここで「遠矢第二チャシ」とは?

釧路川に面する西側に開口部を持つ一条の弧状の空堀を巡らしている。

近辺には、同様な基本形状を持つ「第一チャシ」「第三チャシ」も並ぶ。

調査中に空堀の南東部で20cm程度の段差が見つかり、そこから空堀底部と壁部を確認していったところ掘り進んだ方向があり、幾つかの工程に分かれるのが解ったそうだ。

・堀は、上図の両方の開口部から堀り始めている。

・両側から掘り進んだ堀は、上図D3とF3で交わる。

・南側のスタート地点、E1から5段階の段差でFへ向かう。

・E,Aともに、広めに崖へ傾斜をつける様に掘り始めているが、徐々に幅は狭く深く掘る傾向に変わる。

・Cでは、Dに向かう途中に軌道修正した形跡あり、19工数に分かれるCでの平均掘進長は約1.8m、全体で1.73mとなる。

・一部工数が重複する部分があり、部分的か又は基準になる浅い掘を作ってから本格掘進した様だ(上下二段掘り込み)。

・二段掘り込みをされているとしたら、正確な排土量の算出は難しい。

こんな感じ。

解説者は「遠矢パターン」と名付け、ここでは32工数に分けて掘進したとしている。

空堀の総延長は51.4mなので、一気に彫り込める訳ではない。

アウトラインを決め、段階的に掘進した事になる。

 

では、正確な排土量は不明として、どの程度の日数や労力で構築可能なのか?

北海道教育委員会では昭和49年からチャシの実測調査を進め、地形測量図を作成しており、その中の30箇所の現地調査や「遠矢第二チャシ」と白老の「カムイエカシチャシ」で排土量を計算している。

ここでの「遠矢第二チャシ」の単純な排土量はその容積から、

・幅3m×底部幅0.4m×深さ1.4m×長さ51.4mとなり、容積は約190立米(立方メートル)…になる。

道具は民俗資料より、

・踏み鋤

・鉄鍬

・角鍬や木鍬

脱穀用唐箕ら。

この道具で、現代発掘調査の基準4m立米に対し、約半分しか掘れないとして大凡2m立米を当時の仕事量と仮に設定すれば、「遠矢第二チャシ」は、延べ76.5人/日の仕事量となる。

なかなか乱暴ではあるが、安全係数は必要ではあるし、ここでは実証考古学での検証はしてはいないのでやむを得ず。

因みにこれらは、石や岩の混入は想定はしていない。

また、空堀を掘るだけの労力計算なので、実際にチャシ構築の場合、

・木の伐採と根の引き抜き

空堀構築

・郭の平滑

・建築資材の作り込み

・柵列構築

・構造物構築   etc…

と、複数工程が必要となり、少人数で時間をかければ何とかなる様なものではないし、解説者もワンシーズン(春から秋迄)費やすなどと言う事ではなく、他人数で一ヶ月程度で作ったものと予想はしている様だ。

先の30箇所の空堀の平均で延べ100~135人/日、大型のチャシを構築するのに30人で約2週間とする推定もあるそうだ。

勿論、防塁機能が付加されるなら、数ヶ月かかろうものなら構築時に攻撃されれば一巻の終わり。

ましてや、この構築時の食料調達らも必要だ。連続的に作業するなら構築作業時に経済活動への参加は難しくなる。バックアップ体制毎スタートしなければならない。

それが当時の人口レベルで可能なのか?だ。

この解説者、ここまで考えている様子がない…

まぁここらが入口。

本州の城郭考古学の検討事例らも、後々当たってみようとは思う。

基本形状は似たようなものだし、鉄斧,鍬,鎌らも基本的には同じなのは、本州からの移入品である限り明確だからだ。

こうやって考えれば、それなりの人員動員が無ければ構築し得ないと解って戴けるのではないだろうか。

 

では、この際折角なので「遠矢第二チャシ」そのものにも触れてみよう。

こちらはその解析を行ったベースの発掘調査報告書を読めば良い訳だ。

前提条件として…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/05/112644

道東に於ける編年指標とされるMe-a(1)は1390年に雌阿寒岳の噴火による火山灰。

当ブログで登場する、

Ko-d 駒ヶ岳 1640   

Us-b 有珠山 1663

Ta-b 樽前山 1667

これらと同様に、Me-a(1)に被覆されている場所は、それ以前からそこにある事を意味する。

まずは基本層序から。

5箇所確認を行っているが、主郭中央付近で確認したのがこれ。

Ⅰ層…表土

Ⅱ層…Me-a(1)

Ⅲ層…黒色土層(チャシ主体部の肩で構築年代の層)

Ⅳ層…9種の層に分かれるが複雑に入り組み基本的に地山層

となる。

Ⅱ層の上下面はある程度混ざる部分があり、その境目はⅡ層側に広めにとっている模様。

遺物があるのは、Ⅰ〜Ⅲ層だが、Ⅱ層の純粋な白色火山灰層は無遺物層との事。

故にⅡ層出土の物は火山灰層との混ざりのある部分になる。

発掘はこの様に0〜4地区に分けて行われたが、数らは下記に纏めて報告しよう。

と、Ⅳ層にも遺構(集石)遺物(縄文,続縄文土器片)はあるが、チャシとは無関係の様なので割愛する。

 

①遺構

・焼土…Ⅰ層×9、Ⅲ層×23

・ピット群…Ⅲ層×198

ピット底面はV字型であるのは共通の模様。

但し、それぞれのピット群の持つ意味や性格(例えば建物との関係等)は把握不能

・壕…空堀の事

・排土…空堀構築時

 

②遺物

・金属器

太刀×2…Ⅲ層

鎌×1…Ⅲ層

山刀×1…Ⅰ層

小札×14…Ⅲ層

笄×1…Ⅲ層

刀子×11…Ⅲ層

        ×8…Ⅰ層

鉄鍋×1…Ⅲ層

        ×1…Ⅱ層

鉄鏃×1…Ⅱ層

釣針×3…Ⅰ層

鉄斧×4…Ⅰ層

角釘×4…Ⅰ層

煙管×4…Ⅰ層

等である。

・骨角器

銛先,鏃,中柄らを中心にⅠ〜Ⅲ層迄検出。

特徴的な物として刻文のある破片がある。

これらはⅠ層からの出土。

・陶磁器

大凡大正〜昭和の物でⅠ層、それ以前の物は5点。

白磁盤×1…Ⅲ層

湯呑×1…Ⅰ層

中皿×1…Ⅰ層

盃×1…Ⅰ層

焼酎徳利×1…Ⅰ層

・古銭×3…Ⅰ層に2、1つⅢ層?となっているが寛永通宝なので撹乱の可能性を考えている模様。

・ガラス玉×1…撹乱の中で層序不明

・木製品×1…Ⅲ層?に直立。

柳で3本の切込が入れられるが、貫通している様でハッキリとは解らない模様(後代に突き刺した?)。イナゥの可能性有り。

その他、丹漆塗の木器片が数点あるが詳細不明。

こんな感じか。

古銭やガラス玉、イナゥ?らの層序らがハッキリしないのが残念である。

 

少し、ポイントを纏めてみよう。

①Me-a(1)の被覆がある事。

ここで、空堀を被覆する火山灰が切られていないので、1390年以後に改築らが行われていないのが解る。同時に、火山灰降下までに廃絶されていた可能性が出るだろう。

②遺物は刀子の傾向を中心に、その特徴が変わる。

これはⅢ層の多くの刀子が、近世の「マキリ」にない特徴を持つ為と指摘する。

これを①と兼ね合わせると、構築した集団と後の集団は違う可能性があると言う事に。

ここでⅡ層には遺物はあるが、前後より薄くなるので、数百年の範囲の中で同一文化を継承した集団かと言うなればそれを立証する必要があるだろうし、何より、純粋な火山灰層は「無遺物層」なのだ。

また、他の遺物の傾向も、

・Ⅲ層(構築時)→武具関連

・Ⅰ層→開拓に使うもの等

と変わる様な気もする。

更に、紋様彫刻もまたⅠ層のみと言うのも確かではある。

この辺は、近くにある第一チャシや第三チャシとの兼ね合わせも必要だが。

③構築年代確認の為に壕中の焼土から採取した木炭2点のC14炭素のB.P.年代は970,990年となっており、この年代は①と層序上矛盾が無いが、先の白磁盤の年代を考えると室町位が妥当としており、その点は一致をみない。

但し、局部撹乱の傾向があるので、たった一点の白磁盤で室町と言えるのか?

④壕や主体部で、擦文土器らの検出は無く、③について混乱をきたすのは、この点もある様だ。

但し、本州の中世山城の発掘でも極端に遺物の薄い事例はある。

意図して放棄する事で廃絶される場合は、そんな傾向を出す様だ。

なら、本チャシも、構築者が移動による放棄をしたとしたらその傾向はでるのではないだろうか?

 

さて、如何であろうか?

これ、C14炭素年代を重視したとすれば、

・オリジナル構築は平安→廃絶,放棄…

・→Me-a(1)の被覆…

・中世に第二利用者→放棄…

・近世に第三利用者…

と、廃絶後の空白期間を経ながら、別々の利用者が都度利用した…とも考えられるのではないだろうか?

さすがに、今まで読んだのが西側のチャシ,中世城館,防御性環濠中心だったため、火山灰といえば平安のTo-aや白頭山-苫小牧火山灰から江戸初期の駒ケ岳,有珠山,樽前山火山灰迄黒色土層が連続していた為に、その間の変化が解り難かったが、Me-a(1)の存在で朧気ながらにチャシ周辺に竪穴住居や擦文土器が検出される事に引っ掛かりはあった。

構築年代が11世紀前後迄遡るのであれば、納得である。

ただ、新たな疑問は湧いてくる訳だ。

なら、「東北の防御性環濠集落,中世城館とチャシの違いって何?」と「道南の防御性環濠集落,中世城館とチャシの違いって何?」だ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/23/194651

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/03/202005

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/06/193926

ここまでは、石垣をキッカケにして、中世城館や宗教へ間口を広げてみた。

仮に「平安(擦文)からチャシ構築が行われている」なら、かなり東北との繋がりは親密であったであろう時代。

製鉄が成立しない限り、道具も当然同じ。

まだアイノ文化は生まれる前…

その差はなんだろう?

ガラス玉らも、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/10/210140

この通り、チャシ構築以前からの交流の証であろうものとして副葬されるし、鏡は?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134

こうだ。

 

ここはまだ入口に過ぎない。

ここからチャシや墓制についても学んでいこうではないか。

当ブログでは道東側やオホーツク系の話は、意図して後回しにしてきた。

擦文文化に着目すれば、東北との繋がりがかなり明確に解るだろうとそちらを優先し、後にMe-a(1)らとの関係で「空白の中世」が見れないものか?と、指標を探していた。

城館,チャシらの構造物と宗教具を指標にすれば…

 

まぁ、ゆっくり学んでいこうではないか。

 

 

 

 

参考文献:

 

「日本城郭大系Ⅰ 北海道・沖縄編」 

 

「遠矢第二チャシ跡遺跡調査報告書」 北海道文化財保護協会   昭和50.6.30