余市の石積みの源流候補としての備忘録-7…北海道に散見される「ケールン」とはどんなもの?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/27/212200

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/03/202005

さて、余市の石垣へ東北の実績からアプローチ出来ないか?学んでみているが、もう一つ押さえておく必要があるものはないだろうか?

余市でいけば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/15/203950

シリパケールンが登場。

Google検索等をかけると解るのだが、現状これらを探そうとしてもヒットし難い。

それだけ注文度が低いのだろうか?

他に検索でチラリ出るのも「御殿山ケールン群」位。

所謂「ストーンサークル」の類的に書かれる様だが、ハッキリ引っ掛かってこない。

実はこの「ケールン」と表現される石積み?は、御殿山ケールン群とシリパケールン(尻場山ケールン群)だけではない様で。

なら、古い論文らから探るしかない。

と、言う訳で、これがその「御殿山ケールン群」の一つ。

では、どんなものか?押さえて備忘録としよう。

 

静内町の和人による開拓の歴史は、明治四年徳島藩士稲田邦植が一族家臣一三〇余人を引き連れて移住し、現在の字目名御殿山附近(ケールン様墳墓群所在地)に鍬を入れたときにはじまり、以来八〇余年を経て今日に至つている。

しかし、実際に和人がこの地に来た年代は、それよりずつと古くにさかのぼる。寛文年間(一七三〇年頃(筆者註:1630の誤りであろう))には、砂金掘りの目的で文四郎等が、又、鷹侍と呼ばれる鷹買人等が既に多数きていたのであつて、この頃から和人との接触が急に多くなつた。

「静内」なる地名の由来は、明治以前に現在の春立(布辻川々口)附近の「シュッナイ」(アイヌ語で麓の谷川の意)に運上屋がおかれ、この地一帯を静内場所と言つていたが、運上屋をシベチャリ川河口に移してから後「静内場所」の中心は同川河口に移り、遂にこゝが静内と呼ばれることになつたのである。」

 

静内町先史時代遺跡調査報告-静内町々史資料第一集-」  河野広道/藤原敏郎/藤本英夫  静内町教育委員会  1954.7.5  より引用…

 

と、言う訳で、シベチャリのある

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/05/180013

「静内」の登場である。

シャクシャインが登場する「寛文九年蝦夷乱」の関連項を

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/26/205243

地域的背景として貼っておこう。

この「静内町先史時代遺跡調査報告-静内町々史資料第一集-」 には、静内町の概説や各遺跡の発掘概報が記載される。

シベチャリもそうだが、遺跡があったせいかこの当時から静内高校と協力し発掘を行っていた様だ。

で、このケールン群は「御殿山遺跡」として記載され、上記引用の通り、徳島藩士の入植地で、石がやたら多い事から早い内に放棄され、後に放牧地や麦畠として使われた地の様だ。

結果的には、早期放棄で全面的に遺跡破壊がされず済んだ事もあるのだろうか?

では、発掘経過から。

1952年5月に麦畑の表土採取を行い、土器発見。

同年9月に試掘を行い、一号墳を発見、発掘。

同年10月に台地調査し二号墳を発見、翌1953年4月に二号墳を含めた周辺本発掘を行った様だ。

この段階で発見されたのは7基。

当日発見しなかった5号墳以外の六基は発掘を行ったが、ほぼ未破壊なのは3号墳のみ。

「三号墳は今回発掘した墳墓群のうちでは最小のものであつたが、出土した土器は一番多く、且、積石には少しの破壊も加えられておらず原形を保つていた。

この墳墓の中心は、第二号墳の長軸の南端から一五〇センチメートルのところに位置し、その長軸の方向は、第二号墳の長軸の延長線上にありその長さは一〇〇センチメートルである。

集石の直上には、復原された土器四個分、後に復原された土器一個分、その他三個分が第二図版1のようにならべられてあつた。周縁には、玉子を半ば押しつぶしたような楕円形扁平の石が上部を外にそり加げんに楕円形に並べられてあり、二号墳に一番近い巾一六センチメートル、長さ三六センチメートルの石が最大で、他は巾一〇センチメートル前後、長さ一九センチメートル前後の小石である。その内側にはあまり大きくない石が二層に積まれてあつた。

この積石の下に撹乱された土のうめもとされたやゝ巾の浅い壙があり、壙底には、上部の積石よりやゝ大きな石が一層敷かれて床石となつているが、床石は上部の周縁の石及び積石の位置より、少し北東よりに敷かれてあつた。そして、床石と積石の中間の壁面には石が押し込まれていて、小さな石室を形造つていた。

床石の下には薄い紅殻が一面に敷かれ、赤色の漆塗りの木櫛片が二個と、内径四ミリメートル、外形八ミリメートル、厚さ四ミリメートルの橄欖石製の平玉を一個発見した。

この三号墳の大きさは、深さが表土から、七五センチメートル、墳の上面積は、六五×四五(センチメートル)、床の面積は、七〇×六〇(センチメートル)である。」

 

静内町先史時代遺跡調査報告-静内町々史資料第一集-」  河野広道/藤原敏郎/藤本英夫  静内町教育委員会  1954.7.5  より引用…

 

完形の三号墳より。

こんな構造。

他の墳墓での遺物は、石斧,サメの歯以外はほぼ土器。

六号墳では杯形,香炉形,注口らの土器と土偶の足一対も検出している。

河野広道博士の考察では、ストーンサークルと言うより小型ケールン様積石墳墓群と言うのが相当とし、土器も特徴的な為「静内御殿山式土器」と識別している。

近似例は斜里町朱円の同様のケールン様墳墓群での「栗沢式土器」で、これら特徴から亀ヶ岡式系統で栗沢式土器と平行した年代のものと想定している。

つまり、縄文後〜晩期になるようだ。

三号墳が最小と書いたが、他の墳墓は積石の楕円形の長さが2~2.7m程度になるようだ。

開拓の支障となり、破壊されてしまったのはやむを得ず。

また、「文化遺産オンライン」より…

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/136641

これが斜里町朱円の周堤墓群。

同じ様な小型ケールン様積石墳墓群は、斜里町朱円の他に、平取二風谷、忍路地鎮山、余市フゴッペ、菅江、カムイコタンにあるそうだ。

ストーンサークルといえば、大湯環状列石、伊勢堂岱遺跡、小牧野遺跡、筆者が見た事がある小型と言えば岩手の樺山遺跡らの様に日時計の様な形をしているが、立てた石をおいてはいないようだ。

むしろ古墳を連想するが、勿論これらは途中の時代で消えてしまう様なので、古墳と直結はしないだろうが。

残念ながらこの御殿山遺跡では、人骨は発見されてはいないようだ。

 

筆者的に縄文期の土器らは、癒しの領域で、あまり詳しく掘り下げようとは考えていない。

なので、土器系統らは積極的に学ぼうとは思わない。

ぼーっと観てクールダウンしているのが好きなので、ブログでもあまり取り上げないようにしている。

あくまでも、石積みの延長線上で取り上げてみた。

どうも、後代の塚の様に高く積み上げるタイプや石垣の様なタイプとは時代背景的に繋がらない様だが、何らかの意味合いを持たせて墓に使った点では同じ。

現世と死後の世界を分ける「結界」として使ったのなら、縄文のご先祖達も石を呪力を持つ物と考えていたのかも知れない。

むしろ、これらが、円筒土器文化圏に重なるかその外周附近にある事が興味深い気がする。

後代と直結しないであろう分、注意は必要だと考える。

まして、ストーンサークルは全てが墳墓ではない。

 

余市茂入山の源流と考えるには、さすがに積み上げ方や時代背景がかけ離れムリがある。

継続して石積み構造物を作り続けたなら、話は別だが。

これも学び…

ゆっくりいこうではないか。

 

 

 

 

参考文献∶

静内町先史時代遺跡調査報告-静内町々史資料第一集-」  河野広道/藤原敏郎/藤本英夫  静内町教育委員会  1954.7.5