コイル状鉄製品のルーツとなり得るのか?…螺旋形状をした事例の備忘録

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803

これを前項に。

厚真で見学させて戴いた「コイル状鉄製品」。

和鏡と一緒に副葬、首に掛けられていた物。

蓑島栄紀氏によれば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134

上限10~11 世紀、下限14~15 世紀)にかけての限定品で且つ、近世に伝承されなかったもの…と捉えている様だ。

実際、我々も何らかの部品として、装飾品や飾りとして使用された事例が無いかとは思ってはいるが、同時代の物として見つかってはいない。

ここで、コイル状、又は螺旋状に巻くものの事例…SNSで上がっていたので紹介しよう。

 

予め…

これは、上限が10〜11世紀としても、それより遥かに古い物なので直結はしないだろう。

なので備忘録。

ここから事例の確認が出来てきて、繋がりが確認出来ればビンゴだしそうで無ければ、備忘録のまま。

形状的にはこんなもの。

では、本題へ。

場所は長野県長野市の「塩崎遺跡群」。

経緯としては、市立小・中学校の改築事業を進めた中で周辺の資料部分調査や過去の実績から、弥生〜平安期に至る迄の集落跡の可能性が出てきた事から、昭和52年度から発掘調査を行っていた。

本事例検出は、第10次発掘になる。

初年度から住居跡だけでも、弥生期4軒、古墳期11軒、奈良期3軒、平安期11軒の実績が得られる。

さすが、諏訪大社を始めとして古事記らに登場する信濃国

脈々と人々が住み続けた土地柄か。

では、その螺旋状の物について。

これは、発掘段階で何であるか?は解っている。

鉄製の釧(くしろ)、つまり鉄の腕輪である。

 

「遺構検出時には、長軸1.90m、短軸1.50m ほどの方形の掘り込みとして検出され、当初は単独の大型土壙として調査を開始した。遺構を掘り下げる過程で、単独の土壙ではなく、並列して掘削された2基の墓壙であることが判明した。二つの墓壙の距離が10~15cmしか離れておらず、墓壙主軸も並行して切りあい関係なく掘削されていること、本調査区付近では同時期の木棺墓は C 区 SK8号木棺墓しか確認されておらず、墓壙が密集する状態ではなく散在する様相が想定されることから、2基の同時埋葬もしくはきわめて近接した時期の埋葬であると想定している。」

「SK6―1号木棺墓

長軸1.85m、短軸0.55~0.65m の隅丸長方形を呈し、墓壙主軸は S―49°―E である。確認面から墓壙底面までの掘り込みは35cmほどで、墓壙底面はフラットな状態である。墓壙底面短軸側にはそれぞれ小口痕が検出されており、15cm ほどの掘り込みを測る。棺材の痕跡は確認されていない。人骨は頭蓋を南側、下肢を北側とし、膝をやや曲げた状態で埋葬されていた。頭蓋は解剖学的に原位置を保っておらず、軟質部分が分解したのち脳頭蓋と下顎骨が分離し、脳頭蓋は大きく西側にずれ落ち、反転した状況で検出されている。上半身の骨の遺存状況はきわめて悪く明確に検出しえなかったが、右手橈骨に装着された状態で螺旋状鉄釧が検出されている(鉄釧の詳細は第4章第1節参照)。頭蓋の原位置付近に、赤彩された広口壺(図15―1)が正位でやや傾いた状態で底部を壙底に接して出土しており、副葬されたものと想定している。また下肢側には小口痕の際に台付甕(2)が1点逆位で出土している。出土した人骨は、歯牙の計測および頭蓋各部位の特徴から壮年(20~39歳程度)前半の女性である可能性が示されている(人骨の詳細は第4章第2節参照)。出土土器から弥生時代後期箱清水式期の所産ととらえられるが、台付甕(図15―2)に描かれる櫛描波状文が上下の振幅の少ない直線的なものとなっていることから、箱清水式でもかなり新しい段階のものと想定される。」

「C 区木棺墓(SK6―1)からほぼ完形の螺旋状鉄釧1点が出土した(以下、本例)。環内には人骨も
残存しており、良好な遺存状態にある。各部位の名称については、出土位置を正位置と措定し、図化をすすめた。」
「木棺痕跡のある土壙の中央部付近において棺床直上で出土し、釧内部には䖖骨と尺骨が残存してい
た。頭骸骨をはじめとする他の遺存人骨との位置関係からみても、右手首に着装されていたことは疑いない。」

「鉄釧の取り上げにあたっては鉄釧内に遺存している手骨の扱いが問題となった。人骨は脆弱化が進行しており、一括して取り上げることは困難な状況であった。そこで、とくに遺存状況が悪くほとん
ど骨が残っていない基部より5cm 付近で区分して取り上げる措置をとった。その後、保存処理を実施したが、その際、以下の理由により、人骨の分離は実施しないという方針で作業をすすめた。
① 本例は鉄釧の着装が実証できる唯一の資料であることから、着装がわかる状態での保存が好ましい。
② 人骨の遺存状況が悪く、分離にともなう人骨の破損が懸念される。
③ 鉄釧についても内部の土を除去することによって破損の危険度が上昇する。」
「残存長7.6cm、環径は基部外径7.0cm、内径6.8cm、端部外径5.7cm、内径5.9cm をそれぞれ測る。重量は250.38g である(保存処理後、人骨、土を含む)。」

「総段数は16段を数える。基部から端部にすすむに従い、序々に径を減じており、裁頭円錐形をなす。 上面は第15段と第16段の一部が欠損しているものの、端部側の先端部分が残存しており、概して遺存状況は良好である。また、第1段から第6段にかけ数カ所の破断が認められる。下面は縦一列に破断し、うち5cmほどが環内に陥没している。螺旋の断面形状は楕円形をなすが、これは土圧による影響を受けた結果であり、もともとは正円に近い形状をなしていたものと推察される。」

「鉄線は端部から基部に向かって左巻きをなし、螺旋を形成する。鉄線相互の間隔は0.1cm~0.2cm 程を測り、一部には重複する箇所も確認できる。右側面からみると螺旋は基部にいくほど左傾しており、装着時は相互の螺旋が密着していた可能性が高い。」

「螺旋を構成する鉄線は、基部付近で同幅0.4cm、同厚0.2cm、先端部では線幅0.2cm、 線厚0.1cm 前後を測る。螺旋状鉄釧のなかでは線幅が狭い部類に属するものである。基部から先端部に向かうにしたがい、漸移的に細くなっており、先端部は尖頭状に仕上げられている。断面形状は鈍角三角形をなす。線幅が狭い螺旋状鉄釧では研ぎ出しによって明瞭な稜を作り出す事例が多い。本例については銹膨れにより稜線が判然としない箇所が多いものの、破断面の肉眼観察および X 線写真の判読結果から三角形と判断した(写真1―1)。残存鉄線の計測値を合計した残存総全長は246cm、第1図に示した基部 a を起点とし、端部 a まで連続した螺旋として復元計測した場合の復元総全長は303cm を測る。 かつて筆者は、螺旋状鉄釧について線幅を基準とした分類を行い、A 類(線幅最大値か平均値が0.6cm に満たないもの)と、B 類(線幅平均値が0.6cmを超えるもの)の個体に区分した。本例は A 類に区分され.その代表的な資料と評価しうる。

鉄線の屈曲 基部側の側面を観察すると、数ヶ所に鉄線が屈曲する箇所が認められる。以下ではこれを「屈曲点」と呼称する。屈曲点は、一巻きにつきおおよそ5箇所、おおむね3cm 前後の間隔で認められる(写真1―2)。さきに述べたように、土圧によって変形しており、この屈曲点も変形過程において偶発的に生じた可能性も否定できない。ただ、屈曲点は下面においても一定の間隔で確認でき、上方からの土圧の影響を想定した場合、変形の方向として不自然である。判断は慎重におこなう必要があるが、この点を考慮すれば、本例に関しては、土圧によって屈曲点が形成された可能性を低く見積もることができる。」

「上面では、基部寄り左側から中央右上にかけて、下面では破断部を中心に繊維の付着が認められる(写真1―3)。とくに後者については繊維の重なりを確認できる(写真1―4・5)。繊維の細部をみてみると、糸の直径は0.03cm~0.04cm を測る。撚りは判然としないが、S 撚りの可能性がある。現状では繊維同定を実施していないが、繊維に撚りがかけられていることが間違いないならば、大麻や苧麻等といった麻布の可能性を提示しうる(沢田 2005)。織は平織りで、経糸は螺旋に対して直交方向に付着している。この繊維については①被葬者の衣服、②遺骸を包む布、③棺底の敷布、④単独埋納時の収納・包装布(袋)、④鉄釧の保護のための織布といった解釈を想定しうるが、本例については、装着状態での出土であることや、繊維が外面にのみ付着していることから、①~③であることは確実である。」

「第15段から第16段の内面にも、わずかながら斜行する直線的な繊維痕跡が確認できる(写真1―6)。これは岩本崇が指摘する「繊維圧痕 A」に該当する(岩本 2002)。鉄釧が常時着装されていたとすれば、釧内面と皮膚との恒常的な接触が避けられないため、鋭利な研磨がなされた鉄線では、擦れなどで皮膚に傷を負うことが想起される。こうした事態を防ぐための保護材として内張りされていた獣毛あるいは布などの繊維と考えられる。岩本は「繊維圧痕 A」について、墳墓出土資料からしか確認できず、出土地域も南関東に限定されると述べている。この指摘が確かであれば、本例は、中部高地において初の事例となるが、岩本が提示した出土例と比較すると痕跡はやや不明瞭である。」

「以下では、ここまで記述してきた細部の観察結果に基づき、現時点で想定される製作手順と製作技法を整理する。この想定案は、筆者がかつて提示した想定案(拙稿 2019、2020)に用語の統一や修正を加え、再掲したものである。製作手順は以下の4つの工程に大別される。

工程1 鉄線の用意

工程2 稜線の作出

工程3 鉄線の巻き上げ

工程4 細部・先端部の整形・調整

工程1については、細長い鉄線の復元全長は300cm にも達する。弥生時代では、こうした長条鉄素材の用意そのものが、高度な技術であったと考えられる。鉄素材は、一条の素材を一気に作り出す方法と、数10cm ほどの素材を鍛接によって繰り返しつなぎ合わせる方法が想定されるが、本例についてどちらの手法が用いられたのかは不明である。

工程2は、鍛打と研磨によって、断面形状を三角形に成形し、稜線を作出する工程である。この稜線が、とりわけ幅が狭い個体にみられる点は注目される。金属工学的な視角に基づくものではないため、軽々に論ずることは避けたいが、細い鉄線ほど鉄としての脆弱性が増すものと考えてよいならば、中央部に厚みをもたせる形状は単に意匠状の作出によるものではなく、折り曲げの反復によって生じる金属疲労で、鉄線が破断することを予防するための措置といえるかもしれない。この立場に立って、当該工程に位置づけたものである。

工程3は、鉄線を折り曲げ、螺旋を形成する工程である。本例では、不明瞭ながら3cm を単位として屈曲の痕跡が認められた。明瞭の度合いに差はあるものの、螺旋状鉄釧に共通して観察できる事象であり、いずれの個体も外径にかかわらず、屈曲の単位が3cm 前後である点は注目できる。東京都西早稲田三丁目遺跡出土例(岩本1997)では折り曲げ痕が極めて明瞭であり、多角形と呼称しても差し支えない形状を呈している。3cm という値は、軟質な長条形の鉄素材を折り曲げるにあたり、円形を損ねず、整然と多段の螺旋を巻き上げるのにもっとも都合のよい長さであったと想定される。佐久市後家山遺跡出土例の科学分析の結果によれば、炭素の含有量が少ない極軟鋼であるという(佐久市教育委員会 2004)。本例も、同程度の軟度であったことが確かであれば、整然とした巻き上げも納得がいく。村上の指摘(村上2017)のとおり、軟質な鉄素材を用いて巻き上げたと考えるのが自然であろう。本例が整った円形をなし、屈曲の痕跡が不明瞭である事実は、製作者が高い技術を保持していたことを示している。」

「鉄釧を装着した被葬者の頭蓋骨付近から、赤彩された広口壺1点が、足下から台付甕1点が出土している。これらの土器が棺内の被葬者脇に副葬されたものであるのか、埋葬に際して木棺の上部に置かれたものであるのかの判断は難しいものの、どちらせよ、着装者の埋葬行為に伴う資料と判断できる。確実な共伴関係を指摘できる資料である。当該土器のうち、台付甕1点については、事実記載によれば、櫛描文の上下のピッチの弱さから「箱清水式土器の中でもかなり新しい段階」に位置づけられるという。筆者は、線幅が細い鉄釧ほど製作が難しいと考え、製作技術の深化という観点から、B 類→A 類という登場順序を提示した。その際、篠ノ井遺跡群聖川堤防地点出土例を後期末の最も新しい段階に位置づけた一方で、本例については、断片的な土器の情報をもとに、相対的に後期でも古い段階の所産と位置付けた(拙稿 2020)。今回、本書で提示された伴出土器の年代観に従えば、他の A 類の出土例と大きな時間差は認められないことになる。長野県域の北部に集中する A類は、弥生時代後期後半から終末期において、生産→流通→装着→装着者の埋葬というライフヒストリーが近接した時期に展開された一群であることが確実になった。」

「鉄釧の製作地については、①大陸・半島製作説、②列島製作説、③大陸半島素材製作・列島巻上げ説の3つの考え方が提示されている。以下では、2022年段階における議論のあり方を整理しておきたい。大陸・半島製作説は、製作技術の検討の進展により高まりつつある。村上恭通は、鍛冶技術の見地から、継ぎ目の見えない鍛接技術や長い角状棒材の準備かつ低い炭素含有量などは、当時の列島内の製作技術をはるかに超えており、列島外で製作された舶載された鉄製品とする見解を示した(村上 2017)。土屋了介も、列島の技術や体制では製作できないとして、朝鮮半島や中国大陸から舶載され、長距離を一次的に移動したと考えている(土屋 2014)。近年、ライアン・ジョセフや鈴木崇司弥生時代後期・終末期の鉄剣について精力的に分析を進めている(ライアン 2017、鈴木 2020等)。とくに鈴木は、鉄剣や鉄鏃の鍛延技術に着目し、弥生時代後期の東日本において、3mm を超えるような厚い鉄素材の鍛延は困難であったと主張する。鉄釧についての直接的な言及はないが、こうした鉄器製作技術の体系の中で鉄釧を理解するならば、列島内での製作は困難であることになる。列島製作説は、鉄釧の分布が長野県域の千曲川流域と南関東に偏在する事実から、以前より主張されてきた地域生産説である。特徴的な分布のあり方を整合的に説明できる仮説であると筆者は考えているが、その実証は製作工房が発見されない限り困難であり、偶発的発見に頼る点で追究が厳しい状況にある。これまで長野盆地南部では、鉄釧の製作をしめす鍛冶痕跡は検出されていないが、近年中野市南大原遺跡で弥生時代中期後半の竪穴建物跡から鍛冶遺構が検出された事実は注目される(長野県埋蔵文化財センター 2016)。憶測を交えるならば、これまで発掘調査があまりおこなわれていない長野盆地の北部、具体的には中野市域から飯山市域にかけて鍛冶遺構を擁する遺跡が包蔵されている可能性を付記しておきたい。

大陸半島素材製作・列島巻上げ説は、列島製作説を考えていた筆者が、大陸・半島製作説を受けて、提示した仮説である。弥生時代後期の列島諸地域のために、大陸・半島の諸地域が特注品ばかりを製作していたことに疑問をもっており、列島内で素材製作が困難であることをもって、すべての鉄釧の完成地も列島外とみる論法については、慎重な立場をとっている。鉄素材の製作地と完成品としての鉄釧の製作地を分離して検討すべきではないかと考えを巡らせる立場に変更はないが、説得力を持った具体像の提示が、現在の課題である(拙稿 2019・2020)。装着場面への着目 今後、製作地にかかる議論を前進させるためには、鉄以外の部分に着目し、装着場面に十分に留意した分析が欠かせない。筆者の自戒もふくめれば、鉄釧の生産・流通の議論は、完成品がリレー的ないしは直接的に移動し、奢侈品として被葬者にもたらされたイメージが想起されていたように思われる。これは、鉄剣や鉄鏃といった携行しうる武器と装身具である鉄釧とを副葬品として同一視していたことが根底にあるとみられる。しかしながら、本例の観察から、多段の螺旋状鉄釧は成人以後に手先から下腕に装着することが困難であり、小児期からの装着を視野に入れる必要があるとの認識を確実にした。この認識を踏まえた上で、大陸・半島製作説に立って装着場所を想定した場合、一般には被葬者の幼小時には鉄釧がすでに手元にあり、それが装着されたとする解釈に帰結するとみられるが、C 区木棺墓(SK6―1)被葬者の出生地をそもそも列島内に限定することが適切であるのかという議論も派生しうる。きわめて良好な遺存状態にある本例は、製作地にかかるあらたな議論の起点となるべき螺旋状鉄釧の標識資料と評価できる。」

 

「塩崎遺跡群(10)」 長野市埋蔵文化財センター  令和4.10.1より引用…

 

以上の通り。

弥生後期位に比定している模様。

当時の加工技術としてはかなり高度な為に、大陸を中心にまだ製作地を同定出来ない状況らしい。

はっきり言えるのは、

・被葬者が女性(骨の分析より)

・右手に装着

こんなところか。

引用文にあるように、釧と言われる腕輪が装着状況が解る状態で検出されるのは殆ど無い。

かなり貴重な事例と言える。

昨今、筆者が見ている釧は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/10/210140

阿光坊古墳群の被葬者。

但し、錫、それも輪で螺旋状ではない。

では、この螺旋状鉄釧はどう位置づけられているか?

 

弥生時代には多種のブレスレットが製作され人々の腕を飾った。その中でもとりわけ異彩を放つのが螺旋状鉄釧である。一㍍近く延ばされた鉄板が幅八㍉、厚さ二㍉前後しかないという例もある。幅の狭い鉄釧のなかには砥石で丁寧に研がれ、中央に稜線が際立つものもあった~後略」

「大澤正己氏の金属学的分析によれば、長野県佐久市五里田遺跡出土品はその素材に炭素分〇・一五%以下の極軟鋼を採用していた(大澤一九九二)。極軟鋼は古墳時代に入って祭祀行為に供された小型の列島産鉄鋋などには見られるものの、弥生時代の鉄製品への採用は稀である。以上の点から細く、薄い螺旋状鉄釧は日本列島外で製作され、船載された鉄製品と判断される。今のところ西日本での出土例はなく、北陸・中部・南関東という偏在した分布域を形成していることから、東日本の日本海沿岸地域のどこかにその輸入の窓口があったのであろう。それでは日本列島外の製作地とはどこなのか? 形状は雲南省の石寨山文化にみられる連環状銅釧にそっくりである。しかし材質も異なり、何よりも雲南は遠い。 朝鮮半島東海岸を北上して中国との国境を越えると弥生時代に併行する団結文化の中にも鉄釧がある。ただしこれは単環式である。螺旋状鉄釧の製作地とその船載の背景については今後も東アジア的視野での検討が必要である。」

 

「螺旋状鉄釧」 村上恭通  『モノと技術の古代史  金属編』 村上恭通  吉川弘文館  2017.3.10

 

雲南省に近いもの?

で、近い形の物は半島や大陸には無く、西日本にも無い。

有るのは東日本のみ。

これが東京や神奈川の事例。

かなり偏在しており、単に大陸や朝鮮半島から西日本へ流入したとも考え難い様だ。

 

少し整理してみよう。

①釧そのもの

・弥生〜古墳期に使われた装飾品

・豪族や土豪の副葬品として検出

・「吾妹子は  釧にあらなむ  左手の我が奥の手に  まきて去なまし」…万葉集でも唄われる様に、奈良,平安でも一部で使われていた様だ

律令制強化で装飾品そのものを身に着けなくなる過程で消えていく

②螺旋状釧

・弥生後期位から検出

・北陸,中部,南関東周辺に偏重

・大陸,朝鮮半島→九州とは別ルートの拠点?

・類似形状は雲南省にあるが、近辺には無い

・やはり装飾品を使わなくなる過程で消えていく

 

こんなところだろうか?

さすがに、弥生後期から奈良,平安(擦文文化)期まで飛ぶのでは、継続性らにムリがあるし、途中で装飾品は着けなくなる上に、元々はステータスを表すもので、一般大衆が身に着けられる物ではなかった。

…いや、一つだけ、装飾品を使わなくなった時代に且つ、腕や首に装着したものがある。

数珠…

これは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134

他のアイテムでもそうだが、「権威財」とされるものが一般に広がる媒体として考えられるのは「宗教」。

鏡も六器も宗教具として「大衆化」していっている。

首飾りや釧も「大衆化」の過程で、宗教具として一般大衆も持つようになったとするなら、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/27/210830

平安後期〜中世には、貴族,豪族,武将とまではいかないステータスの人々も入手し副葬される迄に至る。

背景として考えれば、厚真の事例も特別な役割を持つ巫女と考えれば、特殊な意味を持つ「数珠」として考えば説明は可能だろう。

 

なので、巻頭にあるように、今後宗教具系での螺旋状、コイル状をした数珠らに類する事例が出てくれば、繋がってくる可能性が出てくるだろうと言う事。

まぁ、錫杖に付く「鉄輪」が、ある意味「螺旋状」「コイル状」を意味するものとするなら、それはそれなのかも知れないが。

ぶっちゃけなのだが、古の本州に事例があり、突然出現し再度消えていく事例は、別に首飾りや釧の例だけでは無い。

「刀剣を折り曲げ副葬」する事例は、やはり西日本中心に存在しているが、タイムラグを置いて「オホーツク文化期の墓」に出現する。

まぁ、螺旋状,コイル状製品だけではなく、こんな事例も追い掛ければ繋がりを持つ可能性はなくはないのでは?

なにも、海外からダイレクトと考える必要は無いのではないだろうか?

海外から流入→古宗教に取り入れられる→陰陽師や修験者により掘り出される→再登場→新宗派の拡散で消える…

こんなプロセスをおけば、突然出現する理由にもなろう。

 

まぁ、本項は備忘録。

宗教拡散と文化醸成の過程を追えば、場合によっては勝手にパズルが組み上がるだろう。

まぁ当初から、そんな文献は無いと言われ、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/03/104946

端から穴だらけの所を点と点を結び線にして、それに背景を重ね面にする…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/27/181439

こんな手法。

遠回りの備忘録はムダにはならない。

いや、むしろ、点と点の接続をしている内に、それらが重要な意味を持つ…こんな事は慣れっこ。

「螺旋」に宗教具としての意味が出てくれば、再登場の意味も解ろう。

気長くいこうではないか。

 

 

 

 

参考文献:

 

「塩崎遺跡群(10)」 長野市埋蔵文化財センター  令和4.10.1

 

「螺旋状鉄釧」 村上恭通  『モノと技術の古代史  金属編』 村上恭通  吉川弘文館  2017.3.10