北海道弾丸ツアー第四段、「擦文文化編」…擦文遺跡が無い!

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/112501

では弾丸ツアー第四段報告を続ける。

つか、同行者にレクチャーを受けてはいたが、ここまでとは…

と、言うのも、道南には擦文文化期の遺跡が無い、厳密に言えば極薄い。

縄文、続縄文期の土器ら遺物はあるが、擦文土器らの展示が無いので館員さんに確認すると、やはり無いと即答。

そこから、中世城館らの遺跡へ飛ぶ…との事。

これが道南の特徴である…以上。

 

…と、これで終わってしまえば、何の為にこの項を書いてるのか、意味がなくなる。

ここは考察してみよう。

 

①近隣は?

奥尻島には青苗遺跡。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/11/185141

10世紀位をピークに、その後衰退、遺跡の撹乱や1300年代からの伝承を考慮すれば、中世を迎える前に天災により廃絶か。

明確ではないが、10世紀と言えば白頭山の噴火もある。

交易拠点が秋田城独占から秋田〜青森の各土豪に分散変化し、集約拠点としての機能を失ったとしたら、衰退の方向に行くことは考えられるかも知れない。

では、対岸は?

野辺地の状況。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535

ここはむしろ10世紀以降の十和田噴火らの後に遺跡が出来始め、防御性環壕集落の時代には、対岸側との交易で栄える様子が遺跡から見える。

ここで…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/20/122947

津軽海峡は主に海流が日本海→太平洋で流れる様だ。

野辺地ら陸奥湾内から渡道するなら8の字海流で函館ら周辺に到着出来るが、乗せられないと東へ流され胆振,日高方面へ辿り着く。

この辺はむしろ10世紀以降位から擦文の居住遺跡らが増えるので、取引に有効と言えば有効。

 

②仮定として、道南に本当に空白となった場合…

現状、見つかっていないのだからまずはこの前提で、遺跡がなく人が殆ど居ない場合はどうだろう?

考えられるとすれば、やはり天災らで住民が移動したケース。

ただ、海岸線が磯場で魚介類が豊富な津軽海峡から他の地域に人が流れるとしたら、余程の事だろう。

後に宇賀の昆布ら、古書記載もある。

中世の奥尻島の様に季節漁を行う為に通い、それ以外は対岸や胆振,日高や後志,道央に居住した…こんな事は考えられるとは思うのだが。

概ね、擦文の大規模居住遺跡は、3期程度に分かれる。

百軒の竪穴住居が有っても同時期での居住は1/3程度らしい。

それでも、道央や道東の大規模居住遺跡は近隣に数箇所分散しある様だ。

交易が盛んになり都会?への人口集約が成された場合は、そんな事も考えられるかも知れないが。

この件、同行者とずーっと話したが、食糧調達の観点からすれば、簡単に道南を離れるのもどうか?との事。

もう一つ、スッキリした答えにならない。

 

③仮定として、まだ遺跡が見つかっていないとしたら…

同行者はこちらの考え。

では、そのパターンなら?

いや、実はそんな発掘事例は既にあったりする。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/13/210459

現状、道南十二館比定地は既に擦文文化期の防御性環壕集落跡だった…こんな事例はある。

新羅之記録上、十二館とされたのはそれ以前に書かれたであろう安倍氏の「十二館」の模倣ではないだろうか?

海産物を交易品とした場合、中世城館としたらその間隔が狭すぎる気はする。

この多くが擦文の防御性環壕集落跡だと考えれば、それがそのまま居住区となるだろう。

勿論、中にはそれから中世城館へ転用されたケースもあるかとは考える。

前項で取り上げた「勝山館」は骨角器らも出土しているが、郭の上下に施された2〜3条の空堀がむしろ防御性環壕集落跡に近いのでは?と思うからだ。

構造的にも、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535

ここに記載した向田(35)遺跡の様に、テラス状に住居配置したり、中央に主道を設けたりするのは10世紀中庸位には事例がある。

元々、勝山館は10世紀前後の防御性環壕集落跡を中世に作り直し居住区とした…これが文献を読む以前の現在の筆者の考えである。

 

因みに、「北海道渡島半島における戦国城館跡の研究−北斗市矢不来館跡の発掘調査報告−」 にある解説図。

中央に主道を、周辺に墓域らを配置するのが道南の中世城館の特徴とあるのだが、それ実は秋田にもあるのだ。

それこそ、主城檜山城に嫡男を置き、自ら元々の山城を改装し安東愛季が入った「脇本城」がそうだ。

この城、築城時期が不明だが、現在の形にしたのは安東愛季と言われている。

断崖絶壁の生鼻崎の脇を通る「天下道」を登れば、山頂の内館らはその両脇に配置され、天下道は浦がの馬出らの郭へ抜ける。

山頂は、

土塁や切岸で複数の郭に分けられ、ぶっちゃけ志苔館跡が4〜5位並べられてるイメージをすれば良いのではないだろうか。

大殿たる安東愛季の城はこんなものなのだ。

蠣崎氏ら、配下の奉行級と大殿の城作り動員数の差はこの程度はあり、それがまんま兵力差に繋がる。

動乱あれど、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/02/083230

大殿が一度動くとピタリと収まるのは、その兵力差を家臣団が知っているからだろう。

主城檜山城は、もっと戦う山城だ。

登城すれば、その規模の違いは悟れる。

道内勢力間の揉め事なぞ、大殿や南部氏内の揉め事に比べれば些細なのかも知れない。

で、安東vs南部の衝突に、蠣崎氏らは動員されているのだ。

それでも後の奥州仕置軍の規模の前では、その装備にしろ何の意味も持たないレベルであろうが。

 

話を元に戻そう。

先の通り、十二館比定地の幾つかが擦文文化期の居住区だとすれば、中世城館の間隔が狭い事や擦文文化期の遺跡が少ない事へのアンチテーゼにはなるだろうし、その幾つかは中世城館として再生されたなら、勝山館の骨角器らの遺物の出処も解る。

テラス状段々を作り直す段階で廃棄されたであろう事は予想可能。

勿論、全体として人口が薄くなる傾向は、続縄文迄の遺跡数と擦文文化期の遺跡数から否めないであろうが。

やはりシックリくるのはこちらではないだろうか?

 

まぁこれもまた、文献を読み込みする前の仮定。

専門家がどんな見解か?はこれからだ。

ただ、有るものは有り、無いものは無いという矛盾については、ある程度説明は出来ているのではないだろうか。

対岸の実績との整合も含めれば、この程度の説明は出来そうだが。

まぁ北海道に居た時点で発注した文献も到着、道内で入手した文献と合わせてゆっくり読み進めていこうではないか。

 

 

参考文献:

「北海道渡島半島における戦国城館跡の研究−北斗市矢不来館跡の発掘調査報告−」 弘前大学人物学部文化財論研究室 2021.5.10