北海道弾丸ツアー第四段、「知内編」…採金は何時から?そして偽典とされる「大野土佐日記」とは?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/200207

さて、弾丸ツアー第四段、次の報告は「知内編」にしよう。

今回はメインの訪問先が「勝山館」であり、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/112501

一発目で中世城館を見て回ると舵を切り直した事で、附帯した訪問先も中世が中心に考えたのも事実。

元々、時間があれば寄りたいと思っていた場所は一箇所あったので、寄る事に。

それが「知内」。

隣は福島町にある「大千軒岳」を源とする「知内川」は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/26/125931

一連の「ゴールドラッシュとキリシタン」シリーズでは、金掘衆の行き着いた先の一つでもある。

知内町郷土資料館」の常設展示より…

採金は後代迄続いたので(未だイベントらで採金する)、その道具も新たな物なら残されるが、さすがに古い物は無い様だ。

ならば、これらが何時まで遡れるのか?…館員さん曰く、正確なのは江戸期だそうで。

我々的には、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/192546

こんな話が出ていた訳で、何処まで遡れるのかは、以前からのテーマの一つ。

中世には「脇本館」と言われる道南十二館に数えられる城館も。

周囲には、

関連すると思われる中世遺物も検出する。

で、添付にあるようにここでは、

「大野土佐日記」についての展示もあるので、少し取り上げてみよう。

予め書いておく。

この「大野土佐日記」は史学的には偽典扱いである事は先の項で書いている。

館員さんにズバリ聞けば「こんな古文と伝承がある」と言う意味合いで展示しているとの事。

先の通り、この古文があるから中世期迄採金が遡れるとは考えてはいない。

知内町史でもその辺は書いており、

・これが伝わる大野家の初代了徳院の出身地「甲斐国庵原郡八幡」に比定出来る町村が見当たらない。

・了徳院が122歳迄生きたと言うのも俄には信じ難い。

・文中の採金の責任者「荒木大学」に採金を命じた(1205年)二代将軍「源頼家」は1204年に暗殺されている。

松前藩祖「松前慶広」を、その子「安広」と誤記。

・そもそも官職である「大学」「外記」らを名乗る事が可能か(かなり高官位)?

等々、矛盾が多く、大野家十七代為将の創作だろうとしている。

一応、館員さん曰く。

時代が下り、この日記が書かれたとされる時期に近づくと、誤記や抜けはあるものの割と詳細且つ正確に記述される部分もあるそうで、古文が少ない北海道に於いては貴重な物だとの事。

ではその一節、読み下し部分を引用…

 

元久二年の年筑前の舟が漂流し、唯神力に委せ漂よっていたところ、遙か北に一つの島を見い出し、舟中大いに悦び彼の島に近づき、水夫二人、炊一人が陸地に上って聴いたところ、ここは知り内の浜であることが分った。炊の者が飲み水を得んとしたところ滝の水を発見し、この水を酌まんとしたところ滝の下に光るものがあり、これを取り上げて見ると、石のようでありながら石でない石を発見し、よく見ると丸かせ(金塊)のようなので水桶の中に隠し船の中に持ち帰った。同年四月船は順風を得て筑前に帰り、炊は暇を取って生国の甲斐に帰り領主の荒木大学に献上した。大学は非常に喜び、これを時の将軍源頼家公に献上したところ、将軍も満足され、この夷が千島の金山見立を命じられ、多くの知行を賜わった。

大学は郷里に帰り、掘子のもの八百人や家中のものを併せ千人余で蝦夷地へ渡る準備をし、炊も荒木外記と名乗り一門に任じ、家老山本多作、鷲尾吉右衛門を惣支配人 とし、また金山祭のため修験者として大野家の始祖大野了徳院も同行することとなったが、了徳院は甲斐国いばら郡八幡の別当であったといわれる。

一行は元久二年六月二十日出帆し、七月二十三日矢越岬にさしかかり、武運長久を祈って矢二筋を差し上げ、海岸伝いに通って脇本に着いた。海岸には女夷一人いたので大学が尋ねたところ、この女夷はイノコという名で、この近くの山に住んでおり、その場所は蛇の鼻並びにイノコ泊の陰の山であると答えた。大学は今回の金山見立の使命をイノコに話したところ、その場所は私が十分承知している。その場所はこのイノコ泊の上に沼があり、千草の根にも金が鈴の如くに付いている。またその金の元なるゆえに涌元という名前が付いたという。

大学はじめ家中、掘子は残らず上陸し、毛なし嶽を居城としたが、今の荒神堂の岱がその場所である。この毛なし嶽で凡そ一三年建保五(一二一七)年まで金掘を行い、それより出石丸山の裾野、赤淵の岱、左は大川、右は深沢で、飛鳥も登れないような所を見立て築城し、ここに荒木外記を残したのでその場所を古来から外記の山と称している。大学は家老鷲尾吉衛門に掘子を付して碁盤坂方面を掘らせた。碁盤坂の地名は五月雨が降り続き作業が出来ず、掘子が碁を打って日を送ったことからその名が付された。また目付として多作が来ていたので、よし掘のことを多作の掘といっている。

大学は出石丸山の城の近くに菩提寺を建立し諸木万草を庭に置き四季を楽しんだが、とりわけ方数十間、径一丈、九尺、六尺等の藤の大木があり、藤の花は紫の雲の如く華麗で人々を驚かせ、寺名を真藤寺と名付けた。その跡や藤の木の名残りを今も留めている。また不思議なことはこの真藤寺の近くでときに鐘の声を聴き諸人は大いに驚いた。また土蔵のような形のものがよく見えたという。この寺の場所はチリチリ川と真藤寺山のところにあり、また大学の城郭跡は、一党が大学の山と呼んだ所の西の方に当り、今もその跡が残されている。ここは昔から松の大木等が伐り出された所であるが、今小松の茂る物淋しい霊山になっている。

大学が城郭を構えてから三年余を経た頃、山々震揺したので、大学は一つには天下太平、二つには当所安全のため二社を建立、寛元二 (一二四四)年六月二十日大野了徳院をして賀茂の両社の祭礼を行わせた。今は一社にて惣号雷公神社であるが、これによって震動も止み掘子共は安堵した。

この雷(公)堂の近くには家々千軒もあり、その近くの高山を千軒山と名付けるようになった。さらに雷堂より下から馬橋まで三百軒の鍛冶町があったが、今もその跡には金屑が沢山残っている。志り内温泉の由来を尋ねると、ある堀子の一人が沢辺をかけ廻っていると湯煙りの立ちこめているのを発見し、大学に申し上げ、宝治元 (一二四七)年七月二十五日薬師堂お取立てになった。建長六(一二五四)年の頃からの夷乱が続き諸人固唾を呑んでいたが、そのころ雷堂近くに男女各一人の夷人が住んでいたが男夷はホマカイ、女夷はただめのこしと名乗っていた。ホマカイと了徳院とは昵懇で住居の場所をホマカイ堀と称し、めのこしの住居をめのこし掘と称していた。このホマカイは了徳院に夷乱が起きつつあるので油断のないよう注意した。歴仁元(一二三八)年には了徳院は齢百歳となっていたが、その後六、七を経て夷乱が起きた。当時千軒もあった家々は夷のために亡び、荒木大学殿を始め掘子兵は皆土となった。

了徳院一家はホマカイに助けられ、雷公神社より北々東の切明の沢の中にホマカイが造っておいた三間四方の穴に隠れていた。

文応元(一二六〇年三月から数か月この穴に隠れた徳院一家は、この乱を将軍に訴えんと、ホマカイの倅ホンセカチにその意を含め鎌倉に向かわせた。将軍は大いに驚き手兵を向けたところ、南下した千島の夷人六、七千人と合戦となり、夷軍敗れ滅亡した。注進したホンセカチは御褒美を賜わり、津軽のうてつ (三厩村) 所有領を拝領し、子孫は四郎三郎という名で続いている。

了徳院は文応元年三月二十四日行年百五歳で死亡、その妻もほど無く百十六歳で亡くなった。了徳院を葬った場所は頃内沢より右の方山伏流といわれる所で、そこには塚石があり、日照り続き のときにはこの石を水中に埋め一心に祈れば雨を降らすことができると言い伝えられてきたし、乳はれによく効くともいわれる。また荒神堂はいたこ流れにあり、その場所の印として杉の大木が残っているが、この杉は両方に乳の形があり、もし乳不足の人が 願えば出るとなっている。いずれも妙なりとしている。

大野家は二代も了徳院を名乗り、以後三代金剛坊、四代安全坊、 五代千歳坊、六代自剛坊、七代寿千坊と続いた。右七代の内は畑作をしながら神を守ること二百年、知内に居住していたが、康応年中(一三八九)までは零落同然であった。しかし、このころからはどうにか武を張り、文を学ぶ地となった。」

知内町史」 知内町役場  昭和61.6.20  より引用…

 

以上である。

妙に詳細な部分と大雑把な部分がある様な気もするが、神威を示す寺社縁起や統治の正当性を示す武家家系図と同様なものと考えれば、真偽の程は別として在りがちなものと思う気もする。

何故、この別当家がこの地でそれを務める事になったのか?を記述した部分であろう。

武家家系図の中には、出自や事件や合戦内容を盛るものがあるのは知られているのだから、研究対象として、ここは正確,ここは創作…ら史料批判をしていけば、まるまる否定する事もないとは思うのだが。

何せ、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/30/133440

龍が空飛ぶ訳ではなく、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/16/185120

宗家に記載無き人物が中興の祖だったり、有ったか無かったか解らぬ合戦が通説となる古文もあるのだ。

ある意味、似た様なものであると思うのは筆者だけだろうか?

いずれにしても、我々グループ的には、元々現物重視で組み立てる事を旨としているので、これを物証とするのではなくここをヒントにして物証に繋げていく様に掘り進めるなら有りだと考える。

知内川流域の採金が「何時まで遡れるか?」のきっかけを投げ掛ける古文である…こう考えるなら、貴重な問題提起をしてくれているのではないだろうか?

…以上…

 

と、ここで終わってしまったら、何の為に紹介したか?…と言う話になってしまう。

少し話を膨らませてみよう。

 

知内町の見解は?

「この元久二年より二百年後の応永十一 (一四〇四)年には湯の里温泉薬師堂が建立されていたことが次の本に出ている。すなわち最上徳内天明五 (一七八五)年に著わした 「東蝦夷地道中記』で「施 主荒木大学 湯主徳藏、応永十一年」という棟札を発見したとある。 また市立函館図書館所蔵の『松前落穂集』には正長元(一四二八) 年五月蝦夷の蜂起に破れた荒木大学が討死したことを記している。これらの史料から荒木大学は元久二 (一二〇五)年の鎌倉時代に知内に来たのではなく、それより約二百年後の室町時代中期の、いわゆる和人渡島初期に蝦夷地に入った武将の一人であると見るのが正しいであろう。室町末期から近世初期へかけての知内川流域一帯の砂金採取を経て、やがて住民の定着、村の創業へと本町は発展して いったものと考えられる。 」

知内町史」 知内町役場  昭和61.6.20  より引用…

 

これが知内町としての見解の様だ。

最上徳内が記す薬師堂の棟札や別の古文記述より、1200年代は無理だが、1400年代はありと考えている模様。

確かに上記「脇本館」関連としている遺物らは、珠洲焼や和鏡らは中世を示す様なので、最上徳内が記した棟札とは合致してきそうだ。

因みにこの棟札、今は失われている様だ。

この辺、最上徳内菅江真澄らが記述を残してくれていたりする。

 

②では1200年代はないか?

実はメンバー間では話ていた事なのだが…

春丘牛歩様のHP…

https://gyuuho.com/page0006.html#link041

この方々は、北海道と静岡,山梨側でディスカッションしつつ、この大野土佐日記の可能性を探っているようだ。

これによると、大野土佐日記の信憑性に疑いが持たれる理由の一つ、「甲斐国庵原郡八幡」…

鎌倉初期に御家人である「安田義定」が統治した短期間のみ、駿河国から割譲される形で甲斐国編入されたであろう事が吾妻鏡に記述されると。

後に安田義定は誅殺され、所領らは駿河国に戻されたので、古書記録にしか残らない様だ。

詳細は食い違いがあるかも知れないが、逆に捉えればその期間限定で、鎌倉へ報告したり、その命で家臣団が動いた可能性が出てくる様だ。

記述通り、吾妻鏡が一般の者の目に触れる事が無いものとすれば「何故大野家の人々がそれを知るのか?」は確かに納得ではある。

こんな風に一つ一つ検証を行い、事実として有り得るか確認するスタンスには、尊敬しかない。

何より、北海道と本州の有志が連携しつつ謎を解き明かす…

これは、我々も当初目指した所。

これを持って決定打とはならないだろうが、知内でそれを示す遺物が出れば有力な証拠とはなるだろう。

その後を期待したくなる。

 

③その他…

折角なので、状況証拠となり得るか?見てみよう。

 

A,庵原郡の修験は?…

庵原郡で古い神社を検索して出てくるのは「豊由氣神社」か。

ウィキ程度だが「木花之佐久夜毘売」、別称「浅間大明神」…つまり富士権現。

富士信仰は平安期で既に記録があり、1300年代には村山修験の活動が古書記載される。

これは戦国期の話であるが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/16/191817

富士山南方こそ、甲斐の隠し金山の一角であり、南部氏の出身地であり、毛無山ら同じ呼名を持つ山々が…

浅間…千軒…まぁ、戯言ではあるが…

ただ、後代とは言え、甲斐の隠し金山の場所はハッキリ解るハズもない。

富士山南方の金山の話を、北海道に居た者が示唆出来るのも微妙ではある。

安田義定と富士修験の関係が紐解ければ、或いは…

 

B,筑前の船…

金塊を見つけた船員は、筑前の船主に隠してそれを生国である甲斐へ持ち込んだと記載される。

仮に「安田義定」が庵原郡を治めた頃、筑前に居た御家人は?多分この人物か?…「武藤資頼」…

安田氏が義光流甲斐源氏の流れを組むのに対して、武藤氏は武蔵の藤原北家の流れ。

安田義定が鎌倉殿や執権に目をつけられ憂き目を見るのに対して、武藤資頼はかなり優遇され後に北九州に君臨する「少弐氏」の祖となる。

随分待遇に差がある。

筑前と言えば、博多津がある海運要衝なので「筑前の船」は有り得る話。

さて、武藤氏…

実はブログで取り上げた事がある。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/153312

鎌倉御家人として庄内に入るのが「武藤氏平」。

実はこの武藤氏平は武藤資頼の弟で、出羽大泉荘に入ったので「大泉氏平」を名乗る。

ブログで紹介した…

「1209(承元3)年、鎌倉幕府から任命されていた地頭の大泉氏平に羽黒山領を横妨された折に、羽黒山衆徒から訴訟を起こされた。

実は羽黒山、初代将軍源頼朝から「地頭支配に属さず、地頭の山中追補権を停止する」御書が出されていた。

幕府裁定は?

大泉氏平の手出し口出し等関与禁止と横領しょうとした領土の返還。」

出羽三山に手を出した地頭とは、この武藤(大泉)氏平の事。

また、後裔は大泉氏から「大宝寺氏」へ名乗り直し戦国大名化していく…と、言う訳だ。

庄内には元々国衙「出羽柵」が置かれ、加茂や酒田が船の玄関だろう。

酒田を後に抑えた「酒田三十六人衆」は、

奥州藤原氏の「徳尼公」を守り、出羽三山を頼りつつ酒田へ土着の伝承。

この辺で妙に北海道と繋がりを持ちそうな人物達が登場してくると。

兄弟として、また地頭として、お互いに日本海ルートの海運要衝に勢力を持つ。

筑前の船が難破し、知内方面へ漂流した…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/20/122947

これもおかしな話では全くない。

背景的には有り得る話ではないだろうか?

まぁそれが仮に、知内町史にあるように、百〜二百年下ろうとも既に1217年北条義時陸奥守となり津軽周辺を得宗領化して、安東太に蝦夷沙汰を任せ「関東御免津軽船」を運用させる時期が、案外重なる。

なら、二代将軍頼家以外にも、採金指令を出しそうな施政者はまだ居る事になる。

北条義時

後鳥羽上皇

ら。

武藤氏平は大泉荘や海辺荘が採金地である事を知っている。

後鳥羽上皇以下、砂金が皇室や朝廷に上納されているのを知っているからだ。

武藤氏平が得宗家に取り入る為に、採金地を手中に収めようとしたなら?

…まぁ想像は尽きないがこの辺にしておこう。

仮にこの「大野土佐日記」が採金や日本海ルート上の事と関連して紐解ければ、漠然としか解っていない中世での交易ルートの解明に一気に繋がるのかも知れない。

と、それは従来の「新羅之記録史観」では困難だろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/112501

何せ、中世城館の伝承には、南北朝南朝方の落人が館を築いたとされる物がある。

採金も…

安倍,清原,藤原氏と交渉を持つ者

→北条得宗

南朝

→安東氏vs南部氏

と、その勢力争いの元で変遷していく可能性はある。

道内の酋長がどの勢力に組みしたか?…

そんな考え方は必要になってくる。

その延長上に、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130

道内での中世遺跡の喪失や、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/200207

擦文文化期が無いとされる道南への中世遺跡の出現らの答えがあるだろう。

我々が見ているのは、単なる北海道史などと言う話ではない。

北海道〜東北の関係史を紐解き、日本史における北海道と東北史の位置づけがこれで良いのか?だ。

上記の通り、他地域とも微妙な繋がりはある。

地方史同士を接続し海運ら物流ルート上で繋げていけば、その位置づけも変わってくるのでは?

そんな意味合いで覗いてみると、この「大野土佐日記」は面白いヒントをくれているのではないだろうか?

新羅之記録史観」のみに囚われるべきではないと「偽典扱いの古書」が教えてくれている気もするのだが…

勿論、物証が無ければヒントとして使えるだけ。

まぁゆっくり学んでいこうではないか。

今回の弾丸ツアーは、まるでパンドラの箱のようだ。

 

 

参考文献:

知内町史」 知内町役場  昭和61.6.20