時系列上の矛盾…根室「西月ヶ岡遺跡」に眠る「竪穴式木造住居」の痕跡

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/02/163712
北海道の発掘調査報告書は面白い。
何気にコアな話が記載されている。
巷では、無いことになっているのか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/06/081134
この辺を踏まえ、読んで戴きたい。
さて、では、引用していこう。


「本遺構の周辺には、キナトイシ1号、および2号チャシ跡、キトナイシ竪穴住居址群、ニランケウシ1号、同2号、同3号チャシ跡(旧名称「ホニオイ1号」、「同2号」チャシ)、穂香竪穴住居址群がある。これらのうち竪穴住居址群は、いずれも「擦紋文化期」の所産と想定されている。また、清水義正氏、清水勝氏によれば、穂香周辺の畑から、ガラス玉、太刀、刀鍔などが出土しているという。」

「(筆者註:1号住居址の事)この住居は調査した4住居址のうちでもっとも北東側に位置し、もっとも規模が大きく、A-14、A-15、B-14、B-15、およびY(拡張)-14、Y-15各区に及んでいる。各壁の長さは北東壁5.5m、北西壁5.8m、南東壁4.5m、南西壁5.5mとなっており、壁高は北東壁側で約90cm、南西壁側で約50cmである。」

「さらに、炉が中央部に床を浅く掘り込んで作られており、大きさは長:軸83.5cm、短軸73cm、厚さ8cmであった。そして、南東壁の中央部からやや東隅寄りに灰白色の粘土による崩れた窯址が認められた。」

「東隅付近の床面および壁面、窯址の右袖付近には、火災によって生じたと考えられる焼土が認められた。」

「住居址内の中央部からやや南西壁よりの附近と、南隅附近とを除くほぼ一面に割合残存状態の良い炭化物が出土し、それらはとりわけ壁付近で、二重三重に重なり合っていた。また、炭化物は住居址中心付近においては、薄く散点的に認められた。そしてそれらのほとんどは屋根材と考えられ、北東壁および南西壁際に壁材が部分的に認められた。屋根材の材料としては、割板が主であり、その他にも丸太、半裁丸太、木の枝、葺草などもみられた。」

「南西壁沿い西隅寄りには、柱状の炭化物(No.33~No.39、No.42他)が、壁際から住居の中央部に向って焼け落ちた状態で集中して出土した。また、これらの枝材は、1本の直交する(南西壁と平行の)枝材と組み合っており、これらから屋根の構造を伺うことができた。」

「(筆者註:Me-a火山灰)本火山灰は表土で、深さ15~20cmまでの黒灰褐色である。オリジナルな白色火山灰層(C層)はみられず、腐植土層中の全体に、火山灰を均様に染めた形でみられる。本層は雌阿寒系の降下火山灰で、そのC14年代については、500±90年B.P.(Me-a3)(Gak.-3314、佐々木ら1971)、1,120±100年B.P.(Me-c)(Gak.-7222)(沖田ら1979)があり、そのいずれとも判定できない。」


根室市西月ヶ岡遺跡発掘調査報告書」 根室市教育委員会 昭和58年3月30日 より引用…


この一帯は擦紋住居遺跡群が幾つかあり、擦紋文化人の居住地域になっていた。
特徴的なのが、紹介した1号住居址で、火災になった為に炭化した建材が出土した訳だ。
少なくともこの住居、割板使って屋根を葺いた上に、葺草で覆う様な構造と推定されている。
つまり、総茅葺きでは無い事になる。

層序的には、竪穴住居は全てⅢ層から堀り込まれている模様。
だが、層序から年代特定には至っていない。
何せⅢ層より上の火山灰層が腐植土中に分散していて、500年B.P.の火山灰か1,120年B.P.か決められない。
一応、擦紋土器の編年で擦紋後期と考えられるが、正確なところは判定出来ずと言う訳だ。


ここで…
c14年代特定は、水爆実験で大気中に放射性物質が撒き散らされた1950年を「0」年として、炭化物の中に「保存された」放射性炭素の比率で概略の年代を特定するもの。
これをB.P.年代と言う。
現在はそれに種々の条件が加わり、年代補正を行う。
ただ、北海道の発掘調査報告書の場合、何故かB.P.年代のみの記載だけで、西暦へ補正換算した年代が乗っていない。
ピタリ合致はしないが、手元にあった秋田の「扇田谷地遺跡」での「暦年代」を参考にしてみよう。
1140±50年B.P. AD 985 2σAD880~1030
780±60年B.P. AD1275 2σAD1195~1310
とある。
なのでこの発掘調査報告書の測定結果の場合、概略15世紀位もあり得るし、9世紀位の場合もあり得る。
本文中は、9世紀と言わんばかりだが、仮に15世紀位の方が正解なら?…板葺きの竪穴住居→板葺き掘立への変遷過程を示す「可能性」が出てくる訳だ。
他の住居はそれらの痕跡が無いので、同様の構造かは「解らない」のだが。
1号住居址が特殊な建築物の「可能性」もあるし、一般的なのかも知れない。
ただ一つ言えるのは、総茅葺きである「チセ」には直結しないと言う事だ。

1号住居を建てた集団は、板を取り出す「建築技術」を持っており、擦紋土器の他に「木製の食器?」と思われるものも出土している。
同年代と考えうる鉄器の出土が無いので、道具までは「解らない」が、明らかに「木工鉄器」を持っていたのだろう。


さて、それぞれの火山灰が均等に撹乱されるシチュエーションとは?
まさか、15世紀位まで、竪穴住居で暮らしていた?なんて話も無くは無いのだ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/29/200734
秋田県羽後町の「鈴木家住宅」はかなり下った時代まで竪穴も使った痕跡が残っていたのだから。


さて、この1号住居址に住んでいたのは誰?
少なくとも、これが「チセ」と直結しないのだけは確かなのだ。


参考文献:
根室市西月ヶ岡遺跡発掘調査報告書」 根室市教育委員会 昭和58年3月30日

「扇田谷地遺跡-一般国道7号琴丘能代道路建設事業に係る埋蔵文化財発掘調査報告書Ⅳ-」 秋田県埋蔵文化財センター 平成11年3月