ゴールドラッシュとキリシタン-20…「月崎神社」と幕末にキリシタンが居た可能性、そして「1550年」と言う「時の壁」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/13/082543
さて、前項からの続き。
「北海道とキリシタン(カトリック)」の一説に着目し、広げていく。
この著書を記したカトリック留萌教会の続橋司教は、調べた中では、カトリックが東西蝦夷地らで広まっていたかは、いささか懐疑的である。
根拠としては、
①住民人口が少な過ぎなのではないか?
②各地の寺社の寺伝らで古い物が殆どなく、檀家が成立する程ではない中、教会があったと考え難い
確かに一理ある。
ただ、続橋司教はこんな話は知らないであろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718
と言う訳で、年表の中に面白い文書を見つけたので、引用してみる。
時代は江戸後期になるだろう。
1863(文久二)年の出来事である。

「六月八日 ローマで日本二十六殉教者が聖人となる。それによって二月五日は全世界のカトリック教会で彼等を記念してミサを捧げることになった。 この年奉納された福島町の月崎神社の随神(右大臣・左大臣)に十字架の印があったという(随神=随身)。奉納者ではなく、像の作者が、キリシタンの可能性あり、と常磐井氏が高橋陸朗氏に送った手紙の中で書いている。」

「北海道とキリシタン(カトリック)」 カトリック留萌教会 平成七年二月十八日 より引用…

この「常磐井氏」とは、引用文献・参考資料の中で、常磐井武季氏より見せて戴いたとの記載がある。
正直、常磐井武季,高橋陸朗両氏を筆者はよく存じあげない。
が、少なくとも、常磐井武季氏又はその先祖が高橋陸朗氏に手紙を送り、その中で幕末にキリシタンである彫刻師により彫られた像が「月崎神社」に奉納た可能性を示唆している…これは間違いないであろう。
なら、「月崎神社」とは?

実は少し前に、SNS上で「月崎神社」を見掛けた記憶があったので呟いてみた。
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1405104376209842180?s=19
教えて戴いだけた事は、

①「月崎神社」等福島町の寺社の詳細は、福島町史にあり、事実とされる事はこれが全て。
http://www.town.fukushima.hokkaido.jp/%e7%a6%8f%e5%b3%b6%e7%94%ba%e5%8f%b2%e3%80%80%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e5%b7%bb%e3%80%80%e9%80%9a%e8%aa%ac%e7%b7%a8%e4%b8%8a%e5%b7%bb/%e7%9b%ae%e6%ac%a1/%e7%ac%ac%e4%b8%89%e7%b7%a8%e7%ac%ac%e5%9b%9b%e7%ab%a0%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e7%af%80/

②常盤井家は代々福島神宮の神職松前藩から一目置かれた存在である。
利尻島の神社の宮司さんにも常盤井氏が居る。常磐井氏の詳細も福島町史にある。
http://www.town.fukushima.hokkaido.jp/%e7%a6%8f%e5%b3%b6%e7%94%ba%e5%8f%b2%e3%80%80%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e5%b7%bb%e3%80%80%e9%80%9a%e8%aa%ac%e7%b7%a8%e4%b8%8a%e5%b7%bb/%e7%9b%ae%e6%ac%a1/%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e7%b7%a8%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e7%ab%a0%e7%ac%ac%e4%ba%94%e7%af%80/
福島町史によると、中興の祖が「常盤井治部大輔藤原武衡」と言い、1550年頃からの家系図があり十六代続く。

③神社を訪れたとき、境内の内にある神社の梁に「一・人・十」を縦に並べた記号?を見た時に、ふと気になった。

以上である。
さて、整理していく。

A,幕末のキリシタンについて…
実は続橋司教は、常磐井武季氏にインタビューを行い、この手紙について教えて戴いた…この当時手紙は有ったと言う事だ。
実は、福島町史にも「常磐井文書」は記載があり引用されている様だ。
続橋司教は宮司たる常磐井氏以外にも、様似町史にある「キリシタナイ」伝承を確認する為に、町史の「キリシタナイ語源(アイノ語起因説)」について、平取の萱野茂氏、旭川の川村謙一氏らに意見を求めたりしている(両氏はアイノ語起因説に否定的でキリシタン街説を支持)。
そんな人脈の中で、常磐井氏からの情報として、手紙の存在&キリシタンが居た可能性(二十六殉教者聖人化が元?)を示唆させた訳だ。
勿論、彫った人物や奉納した人物への言及はなく、ぼやかした上で。
「一・人・十」に関しては、思い当たる節がある。
新北海道史によると、屋号を持つ商人への記述があり、「人・十」を縦に並べた屋号を持つ商人は「萬屋」と言う。
大物・小物を扱う豪商だった様だ。
記号としたら、神社寄進は「萬屋」に縁ある人物の可能性ありと考えるのは如何であろうか?
こうなると…
前項の通り東蝦夷地の状況に、金堀や含まれるキリシタンが絡む可能性がある以上、何らかの形で信仰を残した人物が居てもおかしくはないであろう。
所謂「潜伏キリシタン」は、文書上出てこない人々であるのだから。
やはり、片鱗が幾つかある。
状況が合致し過ぎる。
こうなれば、少しずつ北海道のキリシタン痕跡は追わねばなるまい。
勿論、一次資料たる「物証」を探しながらである。

B,常磐井氏について…
上記の常磐井氏の家系図の名前を見て、「あれ?」と思った方は居るかと思う。
詳細はまだであるが、
①常盤井治部大輔藤原武衡…本姓が藤原氏で「衡」の字を持つ
常磐井氏自体が松前氏に一目置かれる存在で「季」の字を持つ、これが代々使われているならば、松前(蠣崎)氏の元々の大殿である安東氏から賜ったものの可能性が出てくる。
蠣崎氏にも、安東氏から「季」の字を賜った人物は多く居る。これは、慶広公以後「武田信広公」の末裔を強調してからはあまり居ないであろう。
まぁ独立後に若狭源氏と言う権威あらば、安東氏の権威は必要なくなる。
…そこは置いておいて…
家系図が始まる1550年から「季」をつかったのであれば、大殿に近い人物だった事になるだろう。
そりゃ一目置かれる。
と言うか、家系図の真偽を直ぐに始める研究者は多いが、筆者的にはそれは各氏がそう残しているのだから、それは良いと考えるし、それらで文書全てを否定的に言う様な事にはむしろ疑問を持つ。
むしろ、この「1550年頃からの家系図である」…こちらが問題なのだ。
実は、常磐井氏の他にも1550年頃からの家系図を持つ一族が居る。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/29/121957
二ツ井清原氏
そして、岩手,福島辺りに点在する清原氏らも、某資料館で聞いた話によれば、1550年頃からの家系図を持つそうだ。
つまり、ここに何らかの理由があり、封印を解かれるが如く現れる…こちらが気になるのだ。
何故なら、1550年前後に起こった事は、新北海道史にも記述がある。
象徴的なのは、東公の嶋渡りと夷狄船舶往来法度が天文十九(1550)年。
これは、(有ったか無かったか解らない)コシャマインの乱以降の松前(蠣崎)氏と蝦夷衆の動乱の終結を示す。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/16/185120
松前(蠣崎)氏は、大殿である安東舜季公の立ち合いの上、東西蝦夷衆の長と講和した。
ただ、一つ考えて欲しい。
この動乱の中でも、夷船は秋田湊らに来ており、鮭や昆布らが途切れる事は無い。
つまり、松前(蠣崎)氏のみと蝦夷衆がもめているともとれるのだ。
安東公にとって、痛くも痒くもなかったとも解釈可能なのだ。
更に…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/28/194019
前にもこのタイミングを指摘していたが、この少し前に、南部氏の居城「聖寿寺館」は炎上している。
ここの工房では、作りかけの銛の中柄らが出土しており、我々もこんな指摘をした上で、1400年代中葉~1500年代中葉の北海道の動乱は安東vs南部の争乱によるものと考えている。
これらを鑑みると、中世松前(蠣崎)氏の動向が「蝙蝠的」に見えなくないであろうか?
敵の居城、聖寿寺館は無くなった。
安東舜季公はこれらに先立ち、檜山と湊の統一をやってのけている。
それも、息子である愛季公の存在によって。
その上で嶋渡りを行っている。
松前(蠣崎)氏は、ある意味存亡が掛かる程の大幅譲歩をしている。

後に下り、安東氏は南部氏武将を召し抱え、湊騒動の後に湊氏は八戸に逃れた人物も居る。
それらの根底にあるのは、この争乱を締めくくった1550年前後の「時の壁」だ。
まさか、キリシタンの話から波及するとは考えてなかった。


だが、当然と言えば当然なのかも知れない。
そこには、奥州由来の人々は居たのだから。
教えて戴いた方の話では、現状神社らを含めた伝承の中に、アイノ文化を持つ人々の存在は見えてきていないとの事。
逆に筆者に見えたのは、「キリシタンの末裔の影」と「1550年の時の壁」。
まだまだ学ぶべき、調べるべき課題は多い。
宿題だらけである。


参考文献:
「福島町史」電子版

「新北海道史第二巻 通説一」 北海道 昭和45年3月31日

「北海道とキリシタン(カトリック)」 カトリック留萌教会 平成七年二月十八日