この時点での公式見解-33…江戸初期の蝦夷衆の地域性と近代墓標の合致、だが疑問を提起しよう

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/27/202733
続け様に旭川史書から学んでみたい。
この前項では、旧「旭川市市」での近世でのアイノ集団の移動に触れ、その中で少し墓標に触れたので、そちらを。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/02/083230
先に、寛文年間での余市の乙名は「八郎右衛門」と書いた。
新旭川市史にある。
実際、寛文年間でのアイノ社会は、寛文九年蝦夷乱(シャクシャインの乱)での記録があるお陰で、五つの地域的統一体を持ったとされている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841
元々、寛文九年蝦夷乱は、鬼菱とカモクタインの抗争から始まる。
その前の中世は、東がチコモタイン、西がハシタイン、二人の惣乙名によりある程度口蝦夷が集団化されていたのは古書記載による。
これは古代~中世への過程で、部族間抗争の末そうなっていったであろうことは、想像出来るだろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/30/210708
新旭川市史にある古代からの「続擦文文化」的な状況の後には、実はこんな考察が続く。

「ところで、アイヌ社会の本州製品への依存度は強く、対本州の交易品の生産量はそれに比例して高まっていったのであろうが、それは鮭・鱒にしろ獣類にしろ、交易品となる自然資源の一方的な捕獲を強化することでしか満たすことができないものであった。このことは、先に述べた「河川集団」など交易品の生産をめぐって調整される集団間の関係が、資源の減少や過捕獲によって脅かされる機会が一層増していったことを意味している。」

「個々のチャシの本来的な用途や、用途の変遷では明らかに出来ないが、文献上では、いくつかの実際にあった抗争に際して、アイヌがチャシに拠り、またチャシを築造したという記録があり、一部のチャシが逃げ城・砦として利用されたらしい事が知られている。」

「このアイヌ社会の抗争は、和人との対立を示すものと思われがちであるが、実際には漁獲権などをめぐってアイヌ集団間の内部抗争がしばしば生じていたようである。その背景には、交易品生産の強化によって生じる、集団間の対立の先鋭化の状況が投影されていると考えられる。アイヌ社会には一時期、相当数の火縄銃が広く出回っており、寛文九年(一六六九)のシャクシャインの蜂起のころには、四、五〇挺の火縄銃を有するアイヌの惣大将がいる、との記録もあるが(津軽一統誌 巻第十)、これらはすべてが対和人との争乱に備えて準備されていたものというより、アイヌ社会内部で日常化する対立・抗争に備えるものであったにちがいない。チャシは、そのすへてではないが、本州社会との交易を通じて生じてきたアイヌ社会内部の対立の時代を象徴しているようである。」

新旭川市史 第一巻通説一」 旭川市史編集会議 平成6,6.15 より引用…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/27/075543
あれ?バテレンが記す金銀決済は?
と、突っ込みを入れても同じ事。
砂金場争いは、そのまま適応される。
チャシは、その起源がなんであれ、抗争の砦として利用されたと考えられると言う事になり、古代→中世には、アイノ集団間の抗争により集団拡大が計られたと考えている模様。

さて、では本題。
先ずはこれ。
海保峰夫博士の論文によるとの事。
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新旭川市史にある寛文期におけるアイノ集団の地域的統一体の配置。
①シュムクル…鬼菱,ハロウ…札幌~日高
②メナシクル…シャクシャイン…静内~十勝~釧路
③石狩…ハウカセ…石狩川一帯、増毛
余市…八郎右衛門…余市、(石狩を除き)天塩,宗谷,利尻,礼文
⑤内浦…アイコウイン…国縫以南の噴火湾南部

先に述べた五つの地域的統一体に分かれている。


そして、先に述べた墓標の配置はこれ。
こちらは河野廣道博士の論文によるとの事。
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昭和6年段階で残るアイノ集団の墓標分布になる。
Ⅰ-1 東エンヂウ…樺太東岸
2 西エンヂウ…樺太西岸、余市
Ⅱ-3 シュムクル…室蘭以西、石狩海岸線
4 ペニウンクル…上川方面
Ⅱ-5-1 メナシクル(山地)…十勝
5-2 メナシクル(海岸)…十勝西側、釧路
Ⅲ-6 サルンクル…静内西~有珠、千歳付近

こちらは、3系統6種類。
ただ、この二つの集団の位置関係は、結構トレースされている様に見える。
但し、問題がある。
位置関係と集団名は合致していない。
海保博士の言うシュムクルは河野博士の言うサルンクルに当たり、海保博士の言う内浦は河野博士の言うシュムクルに当たるetc.
たまにSNSで出る「シュムクルは本州から来た伝承を持つ」…これ、どちらを指す?
まぁそう言う突っ込みは置いておこう。
ある程度、江戸初期の集団構造と、昭和初期の墓標墓標分布は似ている事に変わりなし。
中身は別として、集団の位置は地域性を持って分かれていたのは想像可能。


ここで疑問を3つ提起してみよう。


①墓が何処まで遡れるか?
河野博士の論文は、民俗系見識より
・「墓標はかなり古くからの形式をあまり変化を受けず伝へ残して居るもの」
・「古来の墓標の諸型はアイヌの血族的分派に大いに関係」
この認識の元に書かれている。
これは結果的に海保博士の結果との分布が概ね一致する事からある程度妥当性が見られると言う事になる。
ここで、新旭川市史で註釈しているのは、
・明治以降アイノ集団の移動が多い
・調査は70部落に及ぶが全道網羅が出来ていない
・何時の時代迄遡れるのか未知数
である。これは勿論、アイノ集団の分派の存在を示す論稿として高く評価しつつである。
筆者も同感なのは、「何処まで遡れるのか?」だ。
その理由は、旧「旭川市史」の葬祭の節にある。

「死体に対しては非常に恐怖するが、死ということにはそんなに恐れない。霊魂が肉体かや離れて親たちの行っている神の国に行くのだと信じている。」
「ただし「送る」というのは霊魂に対してのこと。死体を葬ることは「投げる」「棄てる」という意味で、ただオスラという。古くは何れ山へ持って行って投げ棄てるつもりのものなのであったろう。帰りには背につかれることをおそれて後じさりに途中まで来たものだという。それで墓地は怖ろしいところで、足踏みも、近よることも忌まれ、墓参などということは全く無かった。」
「墓標は簡単で、1㍍前後の柱、男ならば上端をやり形に尖らし、女ならば平に切り落し、上部にわずかに彫刻することもあり、とにかく柱の中央に黒い布ぎれを結びますつけて垂れるだけで、宗教のところでも述べるように後になっての墓参等もなければ、数年で朽ちはてて判らなくなってしまう。」

旭川市史 第一巻」旭川市編集委員会 昭和34.4.10 より引用…

この引用は、金田一京介著「採訪随筆」を主に要約しており、無根拠ではない。
確かに、木の墓標が何年も保つ訳が無い。
北海道でも凍結と乾燥を繰り返すし、土質的にもそうだろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/27/202733
例えば、金文コタンが出来たのは明治20年頃。旧「旭川市史」にも金文コタンの墓標写真はある。
が、これは金文コタンが「作られた」時以降のものになるだろう。この場合、明治20年頃から上へ遡る事は無い。
河野博士の調査時点では、既に金文コタンの墓標は立っている事になる。
故に、アイノ集団の分派の存在を示す指標にはなるが、それが何時の移動なのか?を立証は出来ない。
問題は…
「墓標を立てたのが何時からか?」だ。
更に身も蓋もも無い話をすれば、北方系にこれら墓標があると言うが…
ある意味当然かも知れぬ。
何故なら、江戸中期にはロシアとロシア正教会が、東進,南下してきているではないか?
その影響を帯びれば、仮にそれまで墓標を立てていなくとも、それ以降ロシア正教会からの影響で立て始めうるとは、考えないのだろうか?
それ…何時からの風習か?立証出来るのか?


②移動とアイノ集団の呼び名
実は正にこれだ。「シュムクルは本州から来た伝承を持つ」…これは、集団移動&分派した方を指すのか?元々を指すのか?それが何時の時点か?だ。
シュムクルは「西の方の人」を指すらしいが、それがどの地点から向かって西を向くか?、移動しながら西の方を見るのでどの時点にそう言われたか?これを整合しないと、本州から来た人々が何処に何時辿り着いたかが解らなくなる。
つまり、その伝承を持って辿り着いた時期や場所の特定は不可能となり、ルーツを追い掛ける事は不能なのだ。
解明されているか?…いや、ないだろう。
何故なら、政府広報らはアイノ集団を一体の物として扱っているし、前項らの様に、シロシからのルーツの探索やら乙名らの血統変遷は現在検索してもなかなかヒットしない。
最近の個別の論文より、金田一博士らが調べた時の古書を読み確認するのが早道かも知れぬ。


③墓標を立てたのが誰なのか?
①に関連するが…
さて、これが我々ならではの視点。
何時から墓標を立てたのか?が解らないならば、その墓標を立てたのが誰なのか?微妙になってくる。
理由は簡単。
・前述の旧「旭川市史」の引用の通り、アイノ集団は墓参らは全くしなかったし、元々は魂の脱け殻たる遺体や墓標にあまり執着した様子がない。
・その事から、古来は風葬さながらだったと予想している(確かに風葬していた話は散見)。
・江戸初期では…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/22/101835
十字架を使っていた記録がある。
勿論、これを見る限り、それを見られたら大事になるのを知った上でだ。
単に忌み嫌うだけなら、元の位置へ戻せと言うのではないか?
誰にもバレぬ様に直ぐ廃棄しろとは、かなり微妙な回答だ。
更に、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/12/194837
信仰が続く故に、なかなか事例を見つけていくのは困難であろうが、たった一件、されど事実。
金堀衆&キリシタンなら?
既に
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623
沖ノ口奉行などが職制上あったとしても、末端の藩境はユルユルでガバガバだったのは既に捉えてある。
金堀衆&キリシタンの風習であったとしても、人口インパクト的に無視出来る話ではない。
そして、これは江戸初期の話であり、これが幕末~明治、更に昭和の墓標の内容とリンクするとは限らない。
江戸中期以降なら、ロシア正教会の影響も有り得る。
時系列的には成立し得るのだが。
なら、墓標を立てたのは何者なのだ?


ところで…
素朴な疑問…
旧「旭川市史」の様に、「魂を送る」事に意義があり、遺体は二の次なら…
「送り場の骨ら」の意味は、何なのだろう?
結果的には、本州の忌み嫌う物を結界外に廃棄する「捨て場」と同じくなる様な…
なら、陰陽師や修験者がやっていた事と本質的に変わらない様な…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/28/080712
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/02/191856
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/15/203042
一応、ペンディングにしておく。




参考文献:

新旭川市史 第一巻通説一」 旭川市史編集会議 平成6,6.15 より引用…

旭川市史 第一巻」旭川市編集委員会 昭和34.4.10

「新北海道史 第一巻通説一」 北海道 昭和45.4.31