思い立ったが吉日、松前編…松前の寺社、気になった事は現地で学べ!

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/06/193926

こちらを前項に。

筆者は先に松前城下へのフィールドワークを敢行した。

とはいえ、意図し計画的にやったものではない。

前日夜に一日時間が取れそうとなり、翌朝青森方面に向かった段階で時間が早目だった事から、新幹線に乗ってしまえ…かなり適当に津軽海峡を渡ってしまった事から始まる。

何気に新幹線に乗る前は、昨今のブログがそうであるように中世遺跡を見たい→上ノ国に行きたいな…こんな感じだったのであるが、新幹線を降り観光案内(レンタカー隣)で確認したら、予約無しのレンタカーは難しくバスになると。「車が無いと北海道は不便」…何気にフォロワーさんらから聞いていたが、見事にその洗礼を受けてしまった。

まぁこれも学び。

上ノ国へは乗換要との事で、それが無い松前町へ向かう様に作戦変更した。

来てしまったので、見学時間は夕方迄、足はバスのみそれも日帰りで夜中に帰着する様腹を括り旅は始まる。

全く地の理がない筆者的には、自分がブログに書いている町がどう並んでいるかすらピンと来ていない事はある。

新幹線駅の木古内→知内→(千軒峠)→福島→松前とバスは走る。

・知内…砂金伝承を伝えるが、偽書的な扱いされる「大野土佐日記」の地

・千軒岳~福島…キリシタン弾圧やカルバリオ神父によるミサの地

みたいな事は、実際に一連走ってみないとピンとこなかった。

キリシタン一連の事件が、城下町の隣やその隣で起こった事なれば、座視出来なかったであろう。

何気に納得。

さて、宗教絡みらで四点の報告をする。

 

①阿吽寺…

なんとも屋根の「宝剣」が象徴的な本堂である。

寺伝では、南部氏侵攻に破れた安東盛季に伴い十三湊から移ったとされる。

作戦変更をメンバーに伝えたところ、「阿吽寺が気になる」との話が。

前項でも、後に松前藩の祈祷所とされたとある。

筆者的にも、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/15/204214

圧倒的に比叡山系宗教色が強い十三湊。

が、阿吽寺は高野山系のお寺。

一つの都市に各宗派並ぶのは珍しい事ではないが、引っ掛かりがあった。

なら、ここはお寺で聞いてみようと。

御住職は不在らしく、お寺の方に伺った。

阿吽寺の寺伝では、昔から真言宗で宗派変更の話は聞いた事がないとの事で、侵攻の折に十三湊の相内地区にあった阿吽寺の御住職が本尊の不動明王像や宝剣らを携え茂辺地辿り着き、後に大館に伺ったとされる。

とすれば、十三湊には幾つかの宗派の寺院があった事になる。

お寺の方曰くでは、屋根の宝剣の由来はよくわからないと。

ただ、絵馬らに混じり宝剣の奉納が幾つかされている。

松前(徳山)城から見ると鬼門(北東)の方角なので、災いが入らぬ様に宝剣を掲げ祈祷所としたのかも知れない。

阿吽寺は戊辰戦争において一度焼けているそうだ。

それは敵方ではなく、味方が敵に利用されぬ様に火をつけたと伝わるそうで。

が、内陣を収める奥院が倉作りになっていて、内陣には火が回る事はなく今に至るそうだ。

さすが、火炎光背で煩悩を焼き払う不動明王を祀る寺、簡単に焼ける事はないかと勝手に納得。

 

松前墓所にある「織部灯籠型墓」について…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/10/212151

こちらでも取り上げた事があるが、一度お詣りをしてみたいと思っていた。

松前墓所のパンフレットによると、これは38番のお墓になる。

確かに台座に「T型刻印」がある。

この墓所には55基のお墓があるが、その内織部灯籠型は2基でそれぞれ誰なのか解っていないそうだ。

含めて誰が葬られたか解らないお墓は5基ある様だ。

少々不思議なのは同パンフによると、13世8代藩主松前道広に至っては、何故か13世召使とされる方のお墓がこの墓所の中にあるのだが…

まぁ被葬されたり、記録が途切れているのも種々事情があるのだろうか…

筆者は迂闊にもここに2基の織部灯籠型がある事を失念して、もう1基を見落としていた。

被葬者は誰なんであろうか?

何故わざわざ織部灯籠型にする必要があったのか?

いずれまた伺いたいと思う。

 

円空に「心」のお墓はあるか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/11/174246

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/26/125931

SNSで何度か呼びかけた事があるのだが、円空の位置に「心」が掘られるお墓は北海道にあるのか?…実際、それに対して有無の話を教えて戴いた事は今迄無い。

大籠や知り合いの石屋に聞いた限りでは、キリシタン墓の可能性がある様だ。

ならば、自ら確認するのみ。

松前城の寺社ゾーンには墓域もある。

2箇所ばかりお詣りしてみた

結論としては…ある。

肉眼とは見え方が違うのでコントラスト調整してみた。

筆者がざっと見てみた限りでは、1箇所に1基。

年代が新しいものもあるので少々微妙だと思うが、ある事はある。

以前聞いた事があるのは、戒名の先頭に「心」はあまりもってはこないとの事だったが、明らかに戒名、それも院号の先頭に「心」が刻まれるものも…但し、戒名は和尚が授けるので、その時の和尚の考え方によるので、一概にそうだとは言えない事は理解が必要。

何れにしても、信仰の場。

被葬者の心情はどうあれ、神の元に召すか、極楽浄土へ行かれた方々なので、お参りと学びで来ている事を忘れずにしている。

興味本位で行って良い場ではない事は忘れずにいたい。

 

④徳山大神宮…

実は、資料館へ向かう途中で妙に気になり、松前到着直後の最初としてご挨拶をした。

お詣りしたら境内脇に、

かの「ゴロウニン」らを幽閉した場所らしい。

とはいえ、何となく気になりご挨拶した程度で、この石碑もへー…程度であったのは事実。

引っ掛かりが出たのはこの後。

交通機関のアクセスのせいで、空き時間が出来、その場で購入した「概説 松前の歴史」を読んだ事から。

この本は前書きや例言に寄れば、従前出された同書を誤植訂正や新事実を加筆し松前城築城400年記念に合わせ新松前町発足40周年記念事業の一環で「町民全戸に配布」された物で、謂わば教育委員会から発行された町民が共有すべき歴史…と、言ったところか。

基本的には「新羅之記録,福山秘府史観」で、新北海道史らと近い印象。

ペラペラ捲ったページの中に徳山大神宮の事がこんな風に記載されていた。

 

「中世の蝦夷地の宗教は神仏混淆の影響を受けた天台、真言宗の修験者による、山岳信仰、岬信仰を主体として展開された。東北地方では、出羽三山に根ざして北上した修験道は、安藤氏の保護を受けて十三湖付近に定着したほか、深浦円覚寺、山で発達しながら蝦夷地に流入してくる。 十三湖福島城の安藤盛季(康季か)が、永享十一年(一四三九ー=『新之記録』では嘉吉三年一四四三年説もある) 南部氏との戦に敗れて蝦夷地に逃れて松前に到着した際には、小泊から道明法師が鋳像の観世音大菩薩 の尊像を背負い供に列してきたといい、また阿吽寺の僧は不動明王立像を背負 ってきたといわれるが、これらの僧達の多くは天台、真言の修験僧であった。

これらの僧達は神と仏を明確な形で分離せず、習合したまま蝦夷地での初期宗教を展開している。

神社の創立を見ても神明社の創立は別として、中世に建立された神社の多くは、これら修験者による山岳、岬信仰の神社が多く、しかも権現(仏に擬して用いる神の尊号)社として神仏が習合して創立されている。 羽黒、熊野、愛宕、浅 間、弁天、山王、馬形社等がそれで、神主についても多くが修験者(山伏) であ る。 八幡社、神明社は初め白幡祢宜が神主となり、その後は修験者の大蔵院、 海蔵院(円太夫)が祭をつかさどり、近世にいたって神職資格を持つようになった。馬形神社は見蔵坊、 化蔵坊、 正覚院と続いてから神主となり、熊野宮は法蔵坊、 泉養坊、 法泉坊、 羽黒社は大光坊、福生寺、雷光院、養蔵院と多くは修験者の管理する神社の創立が多い。しかし、仏教寺院の管理する神社も建立されている。 天満神社は実相坊(真言宗)。 弁財天堂は初め法源寺のち阿吽寺。将軍地蔵堂は地蔵院(真言宗)。 惣社神社は阿吽寺のようである。中世に創立した神道関係の堂社は次のとおりである。」

 

「概説  松前の歴史」 松前町史編纂室  平成18.5.1  より引用…

 

次頁に神社変遷の一覧表が記載されるが、引用中で「神明社の創立は別」とされた部分の記事は次の通り。

神明社

天正年間  ※(筆者註:永正年間の間違い?)

1504~20

天照大御神,豊受大神

「往古秋田、津軽の漁民唐津内浜に小祠建立、慶長一九年蔵町に転じ承応元年現在地に移る。」

と、なっている。

他も概ね、1449~1565年で創建されたと伝承される様だ。

蛇足だが、次々頁に寺院の創立もあるが、阿吽寺の1440?~1443から西教寺の1593迄で概ね1400中頃から1500年代中頃迄で揃う傾向は同じ。

どうやら、徳山大神宮(神明社)のパネルと重ね合わせると、元々になる唐津内浜に伊勢堂を創建したのは、季節漁に来ていた秋田と津軽の漁師達で、松前藩成立後に松前城下へ移設された様だ。

唐津と言うと、道の駅北前船松前や桟橋跡のある辺りだろうか…

ここで前項同様の疑問が降りてくる。

この記事が永正?年間だった場合、秋田,津軽の漁民が漁の途中で寄港し、祠を建てた事になる。そんな行き来が出来た訳だが前項の通り、周辺で蝦夷動乱のこの時期に、そもそも寄港出来るのだろうか?

これ、天正年間があっていたとすれば1573~1592年の間となり、既にハシタインは上ノ国、チコモタインは知内とかなり近い位置に蝦夷衆が居た事になり、蝦夷,津軽,秋田の漁師達は上記と合わせて、そんなに仲が悪そうではない。

仮に仲が悪ければ、伊勢堂なぞ存続不能に破壊されていたであろう。

他の寺社にしてもそうだ。

動乱期に平気で勧進し維持され、後に松前城下に移ったりしている。

そんな動乱期に、檀家はその地域に居たのだろうか?

漁師は、農家より土地に縛られる事はないので、ただでさえ広い北海道の別の漁場を探しながら移動も可能だろう。

戦乱あらば移動するだろうし、なら寺社は荒廃する。

存続するなら、平穏に漁が出来る環境があったから、又、蝦夷衆や秋田衆、津軽衆と協力するなり(少なくとも敵対しない)する環境があったのではないか?と言う事ではないだろうか?

この辺は、更に史料らの読み込みが必要だと思う。

「正覚院史」の話や、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/02/110811

これらでも解る通り、寺社ネットワーク的には、秋田や津軽、庄内の寺社とそれなりにコンタクトしていた節はある。

民衆が巻き込まれる様な戦乱状態だったのだろうか?

不思議なのである。

さて、SNSで徳山大神宮の宮司は「白鳥家」と教えて戴いた。

少し近世も触れておこう。

 

「近世における松前藩の宗教政策は、寛永年間に設置された町奉行所のなかに寺社奉行が置かれ、この下に神社触頭と仏教触頭が任命され、この触頭によって統制、管理されていた。 神道については、中世の時期に草創した神社の多くは修験行者の管理する羽黒社、熊野社、馬形社、愛宕社、浅間社、白山社のような山岳信仰を主体とした神仏混淆(神仏の明分できない)した宗教が多かった。 しかし 寺社奉行の設置によって、これらの祠がある程度明分化されるような政策が打出され、特に混淆持者で神道的色彩の強いものは、神官として神社に奉仕するよう義務付られた。『和賀白鳥家・杜日記』によれば、松前氏の氏神八幡宮の神主白鳥氏は初め大蔵院、海蔵院という修験者であったものが、寛文二年(一六六二)円太夫という社家となり、その別家若宮太夫が伊勢堂から神明社となった徳山大神宮の社家となっている。これらの社家の統制を目指す藩は正徳二年(一七一二)領内社家支配の機関として触頭(支配頭、注連頭、大神主)を置いて神官の統制を行った。当時(享保年間-一七一六~三五)松前には次のような神職がおり、城下を中心として領内神職制は展開された。」

 

「概説  松前の歴史」 松前町史編纂室  平成18.5.1  より引用…

 

ここで白鳥家が管理していた神社は、

・八幡社…白鳥隼人佐(触頭)

神明社…白鳥辰之丞(触頭)のち多宮

とある。

続けよう。

 

「神主は両社頭又は準社頭に所属し、その元で二年以上修行し、主家の許可を受けた上で上京、京都吉田神社でさらに修行し、神道裁許状と任官辞令を得て帰り、そのことを藩主に報告をして許可を得たものが神主となった。したがって松前地(和人地)のような遠隔の地からの任官修業は、三〇両以上の費用を要したが、多くは村内の寄附金によっ て賄った。これは任官資格者でなければ神職にしないという厳格な藩の政策によるものであった。 言い替えるならば修験者のような山岳信仰を主体とした仏教僧的な者を社家として認めなかったばかりか、東北地方に存在した準社家的性格をもった別当職の配置も認めなかった。それは神道確立のため触頭支配強化の手段として行われてきたものである。この時代に入ると総社的な神社創立から、職業、産業、文学、 個人崇拝等の細分化された神社創立が多くなる。

松前町寺社明細帳』によると、この期に創立した神社は五六社があり、この内訳は総社的神社二、八幡信仰一、春日信仰一、住吉信仰一、山岳信仰七、学問的信仰一〇、稲荷信仰一三、恵比須信仰一、産業的信仰一四、医道信仰一、 その他五となっている。このうち、稲荷信仰は農漁神として庶民の信仰が特に篤く、産業的信仰は漁業を中心とした水神、磐舟、琴比羅、船玉、住吉、厳島等の各神社があり、 航海の安全を主体とした松前地方に即応する産業受容の性格が多い。さらには学問神として菅原道真を祀る天満天神社も多くなって来ている。また、近世末期には、匠工神社や奇音神社など鍛冶や大工、船大工などで働く人々の神様や女性の三味線や琴の習熟、接客女性の守護の神社も出現するという細分化の傾向が顕著であった。」

「さらに蝦夷神道の振興の一翼を担ったものに松前神楽がある。松前藩に於ける神楽の起元については寛永二年(一六二五)八幡社を新築した際に神楽殿も修造したという記録があり、その神楽殿で行われた神楽が、現在の松前神楽であるか否かについては定かではない。

松前神楽の重要な演舞種目である獅子舞の獅子頭熊野神社にあり、それには寛文巳年(五−一六六五)、 工人羽州秋田住人大塚理兵衛正吉作 御願主 志州松前公広様 とあるので、この期には松前神楽が、すでに藩主の庇護を受けて行われていたことを裏付けている。このようなことから、のち城中において行われる城中祓神楽、城中神事隔年神楽には必ずこの熊野神社獅子頭を迎えて行うことを慣例としていた。

松前神楽は延宝二年(一六七四) 十一月から藩の公式行事となり、隔年毎に城中槍之間で両白鳥家司祭のもとに行われたが、その二三の神事は次のとおりである。」

 

「概説  松前の歴史」 松前町史編纂室  平成18.5.1  より引用…

 

どうやら1700年頃からは修験系排除&神道系への転身を統制をかけて行った様だ。

そう言えば、津軽藩も羽黒修験が入ったのは江戸後期…

この両藩、修験系を警戒する要因でもあるのだろうか?

そう言えば、松前(というより「蠣崎」)氏と津軽(というより「大浦」)氏には、共通点がある。

南部氏系文書では、

・両氏とも南部配下(又は一族)に居た

・両氏とも旧安東領で反乱を起こす(蠣崎は失敗)

・旧安東領で蠣崎は安東から、大浦は南部からそれぞれ独立したので、多くの領民は元々安東配下の人々

となる。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/14/194659

まさかね…

ただ、修験系が鉱山を押さえていたら?…まぁ置いといて、もとい。

 

それにより、神社は統制の上での細分化が起こり、漁業や職人、芸能や接客女性の庇護と言えば…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/24/200439

実際のところ、北前船就航や、藩内での知行制明確化や拡大が起こるのも1700年前後ではあるので、遊郭等が出来るのもその頃は確実だろう。

そんな中で白鳥家は、修験系から脱却し、神主として松前藩の神事を司る代表の一家となった様で。

引用途中にある『和賀白鳥家・杜日記』…という事は、陸奥国和賀郡のことか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/03/202211

前沢町の白鳥館の関与はどうなのか?、あるとすれば、修験系→石積み有りの中世城館と一致してくるのだが。

 

如何であろうか?

他項でも書いているが、敢えて道南は史料が多いであろう等から、後回しにしてきたのは確かである。

オホーツク,道東へも拡大するなら、道南へも拡大もボチボチか。

まぁ今回のフィールドワークは思い付き&スタートライン。

これからじっくり学んでいこうではないか。

もう焦る事もあるまい。

 

 

 

 

参考文献:

 

「概説  松前の歴史」 松前町史編纂室  平成18.5.1