「つくられたエミシ」より、そもそもエミシって本当に居たの?…我々がぶち当たる「蝦夷とはなにか?」、そして支配体制への一考

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/12/16/211012

「「牧」を示す「黒ぼく土」…「尾駮の牧」研究から中世北海道に馬がいたか?の検証の為の備忘録」…

前項はこちら。

度々筆者が書いてきた事だが、事東北人である筆者的に興味深く、グループ的にはぶち当たる壁「蝦夷とはなにか?」である。

前項にある「尾駮の駒・牧の背景を探る」で黒ぼく土について解説したのが東海大松本建速教授。

で、相互フォロワーさんから、ちょっと偏りは見えるけど面白いと紹介して戴いたのが今回紹介する「つくられたエミシ」という本。

通説的に言われる…

「しかし、これまでの考古学や文献史学では、東北地方の古代のエミシはアイヌ民族となる可能性があったけれども、中世以降に日本民族になったのだと説明されてきました。エミシの考古学について 多くの著作を残した工藤雅樹氏は「東北の蝦夷は、平安時代の末までは政府の直接の支配の外にあって、蝦夷としての実態を有していたのであるが、平泉藤原氏の時代あたりから政府側の直接の支配が 及ぶようになり、さらに鎌倉時代になると幕府の支配が東北北部まで及んで、蝦夷としての実態を失い、日本民族の一員となった」 (工藤 2001)と述べています。

文献史学の立場からエミシについて研究してきた熊谷公男氏も、『続日本紀』にエミシと話すのに通訳が必要だったと解釈できる箇所があることとアイヌ語地名が東北北部に数多く分布する事実を示して「7世紀以降の東北北部の蝦夷たちは、(中略) 言語や社会構造、そしておそらく信仰など、より本質的な基層文化の分野で倭人とは異なる独自性を長期にわたって保持し続けたことも十分に認識しなければならない」 (熊谷 2015) と記しています。」…

「市民の考古学⑮  つくられたエミシ」  松本建速  同成社  2018.8.15  より引用…

 

これの検証を、言語、歴史、そしてご専門の考古学から再検証しようとしたもの。

これを少し紹介してみたい。

中身をざっと紹介しよう。

第一章

東北地方にエミシがいたと言い出したのは誰か

第二章

記されたエミシ

第三章

東北北部の人々の暮らしとその文化系統

第四章

考古学から見たエミシの持ち物

第五章

エミシとは誰か

となっており、第一章で言語系の分布、第二章で記紀らの記録や「毛人」「蝦夷」について、第三,四章で考古学系の検討、第五章でまとめである。

半ばネタバレ的に、松本氏が導き出した本書での結論をザックリ書けば、「エミシという集団は東北北部に居らず、何らかの理由で政権側に異文化の民として創作された」という感じか。

特に「エゾ征伐」が強調され出したのが明治以降で、コロボックル論やエミシ→アイノ論、紹介した、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/10/114329

「近代学問創世記からの警鐘…アイヌ問題は今始まった訳ではない」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/10/052507

「ある意味一刀両断…言語,文学博士達の警鐘」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/06/174150

「時系列や層別らの重要性…河野廣道博士からの警鐘」…

この辺の話の時代より前から。

早い話、明治政府の意向が絡み、その辺の侃々諤々を経て、最初の引用の様な通説に至るのだが松本氏は、平たく言えば「東北の遺物傾向は他の列島内地域とあまり差が無く、別文化の集団が居たとするなら北海道(続縄文文化らの事)、征討で政権が領土を広げた事実を残す為に、古書上でプロパガンダした」だという結論か?

面白い考え方だと思う。

実は東北人である筆者は、通説的には「エミシの末裔」になる。

では、こんな風に歴史の再勉強をしてみて強く感じる事をたまにつぶやいているが、「古書を記述した都の連中が勝手にエミシだ蝦夷だと言ってただけで、俺の先祖は東北の地で普通に生業を営み暮らしていただけ」…だ。

ぶっちゃければ…

田畑を耕し獣や魚を狩猟して食い、租税し、家族を養い、それを繰り返して筆者に至っただけの事で、何ら特別な存在ではない。

時の派遣された施政者が無茶苦茶や約束破りをやれば、38年闘ってみたり、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/121137

元慶の乱…ぶちギレた秋田県民と北海道の選択」…

国衙郡衙を燃やし尽くして暴れてただけの事。

まぁ田舎者と蔑まれても、都の者が羨望する地の食い物や蓄財品に囲まれて笑いながら暮らしていただけで、畿内と何が違うのか?遺物も同じだ…って事になる。

松本氏は文化的に違うのは北海道とは言うものの、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/29/105815

「この時点での、公式見解43…「江別古墳群」らを初めとする「擦文文化」が研究者にどう捉えられているのか?」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/04/103246

「中世墓はどう捉えられているか?…「事典」で「山」たる基礎知識を学ぼう」…

・じゃ、こんな考古資料の一致の話はどうなるの?…

・血統論で話ているの?文化論で話ているの?、文化論ならアイノ文化化した時期の特定は出来ていないがどう考える?

・言語は成立時期を担保する学問じゃないが、それが往古より変わらず使用されたと担保可能なのか?

・Ta-bら🌋で、そこに住めたの?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/27/052730

「地質学,地形学から見た北海道歴史秘話四題…北海道の先祖達は「生き延びる事が出来たか?」」…

・まだアイノ文化が無い時代迄遡って判断するなら、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/12/185631

「定義や時代区分はそれで良いのか?、あとがき…河野氏の問いかけに答えられる者はいるのか?」…

定義や象徴アイテムはどうしますか?、吉崎教授は「擦文文化と東日本一帯とで明確な差はないからゴッチャで良いのでは?」と指摘してるが。

直接話す機会があれば、これらを質問するだろう。

この辺、昨今の論文でも割と「アイノ文化像」をモヤッとボカシながら、論が組み立てられているケースは多いなと感じる。

相互フォロワーさんが「偏りがある」と仰ったのはこの辺かと。

ただ、プロパガンダで筆者の先祖に「エミシというレッテルを貼った」…と言うのは腑に落ちるのだ。

本音を言えば、もう一踏み込み…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/11/115652

「この時点での公式見解-38…旧旭川市史にある「第一~三次近文コタン土地問題」が、民族問題の火付け役」…

集団自認が昭和だと言ってるのに、そんな往古に自分達を単一集団と認識出来たのか?…なら、北海道においても「エミシレッテル」同様ではないのか?にアタックして戴きたかったな、が本音。

ただ、松本氏は北海道出身な様なので、ここは難しいだろう。

紹介してくれた相互フォロワーさんもそう指摘したら笑っておられた。

 

むしろ、おー…と思わせられたのは、北東北と他地域の生活が遜色なさそうだとハッキリ指摘した事。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/12/16/211012

「「牧」を示す「黒ぼく土」…「尾駮の牧」研究から中世北海道に馬がいたか?の検証の為の備忘録」…

馬についてはこちらの方が詳しく記述されている。

ブログにも書いているが、相互フォロワーさんとは「津軽や糠部は、出羽側のコントロール下」なのでは?と話しさせて戴いている。

六ヶ所村立郷土館のパネル。

白石の石帯。

また、

北海道〜東北は、長めの煙道の竈又は竈+地炉の竪穴住居が七世紀位から拡散し、作る土器類も土師器ベース。

しかも「ロクロ引き」迄伝播し、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/19/054652

「大災害が起こった時、人はどう行動するか?…平安期の「十和田噴火,白頭山噴火」が住む人々へ与えたインパクト」…

十和田噴火前後で既にロクロ使用で、親朝廷、否親朝廷との区分が出来そうだとの知見、そして「尾駮の牧」の存在…

これ、支配体制的な考え方を見直すべきとの一石を投じる事にもなるのではないだろうか?

東北北部は、エミシの領域と記紀らから言われ、鎮守府将軍となる「清原貞衡」の北伐や鎌倉の御家人配置により征伐完了…こんな考え方が主流だろう。

だが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/18/222411

「北東北は中世化が早い…「弘前市史」に記される「中央政府国司〜庶民との乖離」」…

国衙,郡衙による統制を捨て中世化、各地土豪を臣下にし統率する手段に切り替えた…とするなら、尾駮の牧が登場する10世紀には既に統率下に入ったとも言えるのではないだろうか?

文献系の考え方を改めさせる考古学知見の深化が必要だと考えるが。

実は、各地を周り雑談させて戴くと、あくまでも「私観」としながら、「本当に北東北は化外の地だったのか?」と疑問を仰る方は居たりする。

先の「白石の束帯」に重きを置くか?軽くみるか?で、解釈が変わりかねないのだ。

重きを置けば、

生活物資は共通且つロクロ引きや製鉄,須恵器技術迄流出させるのだから中世的支配体制下にある、又は親朝廷と非親朝廷(敵対したかとは別)が混在した…

軽くみるなら、

従来の通説同様…

と、なるのだろう。

だが、都で知られた「尾駮の牧や駒」や砂金ら蓄財品が絡むので、軽くみるのはどうなのか?…これが筆者が気になる点。

それこそ独占しようとすれば、都に流入する富をコントロール出来る事にもなりかねない。

プロパガンダで「何を隠そうとしたのか?」…ここが問題になるだろう。

 

あまり細かい話しは書かずにおく。

せっかくなので、読んでみて、上記を思い出して戴きたい。

北東北も北海道も本当に化外の地なのか?…少々疑問が出てくるかと。

 

 

参考文献:

「市民の考古学⑮  つくられたエミシ」  松本建速  同成社  2018.8.15

 

「尾駮の駒・牧の背景を探る」 六ヶ所村「尾駮の牧」歴史研究会 2018.7.30