ゴールデンロード⑥&ゴールドラッシュとキリシタン-35…北海道の「採金施設」とはどんな場所か?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/15/193225

「ゴールデンロード⑤…遠野と金山,水銀との繋がり、そして修験道の関与は?」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/10/195717

「ゴールドラッシュとキリシタン-34…最新キリシタン墓研究と「火山灰直下の墓」の共通点についての備忘録」…

「ゴールデンロード」と「ゴールドラッシュとキリシタン」…両シリーズで攻めてみたい。

 

・様似のゴールドラッシュの伝承と状況…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/16/201849

「ゴールドラッシュとキリシタン-27…様似町史に記された「黄金伝説」は「キリシタナイ伝説」だけに非ず」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/07/174555

「北海道弾丸ツアー第三段、「様似篇」…観音山に石垣はあるか?、金鉱山の痕跡は?、秋田県民との意外な繋がり?、そして伝説の「キリシタナイ」は何処か?」

旭川のポテンシャル…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/20/185409

「砂金&水銀は「様似」だけに非ず…旧「旭川市史」に記された「旭川」のポテンシャル」…

・そして、近世,近代の状況…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/02/131535

「ゴールドラッシュとキリシタン-29…近代北海道にもゴールドラッシュは発生していた。そして…」…

・予備知識として…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/16/191817

「「錬金術」が「科学」に変わった時-7…武田信玄の軍資金、甲斐の金山とはどんな所か?」…

錬金術」が「科学」に変わった時シリーズで。

こんな風に江戸期のゴールドラッシュについて追ってきているが、なら実態はどうだったのか?についてはイマイチ肉薄出来ていない感。

前から欲しかったのは、実際に金鉱石なり砂金なりの採金場がどんな風だったか?だが、あまり出回らない。

やっと古書に出ていたのを見つけて入手した。

「今金町 美利河1・2砂金採掘跡  -後志利別川美利河ダム建設用地内埋蔵文化財発掘調査報告書-」である。

実際に江戸初期の北海道の砂金場分布はこうなるそうだ。

なかなか興味深い地図である。

キリシタン処刑で知られる大千軒岳を源流とする「知内川」を始め、その後に開山された記録がある

・島牧(1631)

・シブチャリ(1633)

・アイポシマ(1635)ら、知内川の衰退に先んじて探索作業は進んだとしている。

ただ、この後志利別川での採金記録はあまり詳しくは記録が無い様だ。

では報告していこう。

 

発掘に至る経緯は、

・周辺は以前から江戸〜明治での砂金場伝承、明治〜昭和のマンガン鉱山等が行われた地。

後志利別川へのダム建設の話が出る。

・ダム工事に伴う粘土採取で旧石器時代の遺跡(ピリカ遺跡)を確認、周囲を調査。

・砂金場については、多数の石垣,石積み,水路らが広範囲に有った事は知られていたが、詳細は不明。

・それらがダム築堤、国道付替、満水時の水没地域に掛かるので、大規模な二箇所が発掘する事になった…

と、言うもの。

昭和57年度に「2砂金採掘跡(750×150~300m範囲)」、昭和63年度に「1砂金採掘跡(900×50~250m範囲)」の調査を行った。

後志利別川は、長万部岳を源流として南下後、この美利河周辺でチュウシベツ川,ピリカベツ川と合流し西へ、瀬棚から日本海に注ぐ。

また、周辺の山々を源流にする川は多く、噴火湾側へ注ぐのが国縫川…そう、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/22/095523

「この時点での公式見解④…新北海道史の「シャクシャイン像」」…

漢文九年蝦夷乱の際に、松前藩軍とシャクシャインが衝突した「最も松前に近い」のが国縫で、ここが落ちれば瀬棚〜長万部の採金場ごと奪取されかねない事態。

謂わば「最終防衛線」だったのだろう。

松前軍六百数十名の中には、利権を守るべく161名の金掘衆が参戦していた記録がある。

その後、幕末に再度砂金採取や調査が始まり、安政年間では函館奉行が佐渡の技術者を招聘したり、明治では外国人技術者のブレークやマンローの地質調査、先述の枝幸に先んじて小泉衆が探索,採金したりしているとの事。

関連ある史料も「クンナ井砂金山絵図」ら未公開だったものも含め、同書に掲載される。

付記するが、後志利別川,チュウシベツ川では砂金は出るが、ピリカベツ川では殆ど出ないそうだ。

どんな遺構か?

概略はもう、図面あらば言葉は要らないかも。

・美利河1砂金採取跡

A地区…

B地区…

B地区断面図…

北からC→A→D→B→Eに地区分けされ、

C地区…石垣,石積みは散見するが保存状況は良くない

A地区…上記通り

D地区…住宅地,農地,採石で遺構は殆ど残存せず

B地区…上記通り

E地区…チュウシベツ川に最も近く、大部分は撹乱され、ほぼ遺構は残存せず

で、各地区共採取場は概ね長方形の凹地として残される。

水路は最大のもので底幅1.5~3m、深さ1.0~5m。

石垣は水路に沿い概ね1.5mの高さに積まれ、石積みも16箇所に及ぶ。

 

・美利河2砂金採取跡…

A地区…

B地区…

石積部分の断面…

北からA→C→D→Bに地区分けされ、

A地区…上記通り

C地区…保存状況良好で、このまま保存

D地区…現在の道路を作る段階で全体的に平滑され、殆ど残存せず

B地区…上記通り

で、概ね各遺構の大きさらは1砂金採取場跡同様。

A地区の石積みのトレンチ土層断面は上記通り。

・各採取跡に伴う導水路…

特に2砂金採取場跡での最長導水路はチュウシベツ川から約東方1kmの位置から取水し、約800m遺構が確認出来、深さ50~70cm、両岸に石垣を施す部分もある。

ざっと、解り易い部分の図がこんな感じ。

後志利別川右岸の段丘やチュウシベツ川に導水路を築き水や砂金らを引き込み、「石垣」造りの水路や流れを調整したり掘った土砂,石らを積み上げた「石積み」を築き、採取場に導き採金。

「大流し」と言われる採取法で、広範囲の砂礫層から砂金を取る為に水路で水を引き込み流水を導入するもの。

上流から水路を引き、砂金を含む砂礫層へ流し込む為に、大規模且つ多人数を要する大規模工事が必要になる。

これを行っていた事を示す遺構になる。

驚愕である。

単に川に入り、砂金がありそうな場所で揺り板を揺する…こんなものではない。

一度周辺の砂礫層を洗いざらいにして、水路を変えながら砂礫層を掘り進むを繰り返す様だ。

あまりに大規模に堰や石垣,水路を築くので「大流し」の場合、採取終了してもそのまま放置される事が多いそうだ。

故にこんな感じで残ったのだろうとしている。

水路は縦横に走るが、水利を考慮し幾つかのブロック分けされそこから枝状に分岐していると考えられる。

さて問題、この遺構が何時作られたものか?、ここは「まとめ」の部分に記述されるので引用する。

「両採掘跡の明確な年代については、今回の調査だけではその結論を出すにはいたらなかった。しかし、「クンナ井砂山絵図」によって幕末期の採掘の様子がある程度できるため、それとの比較で若干の見通しを示すことができるようになった。

「絵図」によれば、幕末期の採掘は「赤淵沢」,「本山」,「黒岩」など、利別川の支流が主体で、本流ではあまり行っていない。また、「大川トシへチ」と「久春屋仁川」の合流点より下流部の美利河2砂金採掘跡に相当する部分には全く書き込みがされていない。さらに 美利河1砂金採掘跡に相当する「大川トシヘチ」の右岸部には「上  ばん」の語句がみら れるだけである。以上の点から、幕末期においては両採掘跡での採掘はほとんど行われていない可能性が強い。さらに、両採掘跡とも段丘上の高台に位置し、導水路なくしては水を確保できないという点から、かなり大規模で組織的な採掘が行われていたことがうかがわれる。また、明治以降においては、マンローらの調査こそ行われるが、大規模かつ組織的な採掘は行われていない。したがって、両採掘跡で砂金採取が盛んに行われたのは江戸初期、松前藩によってであることが、かなり確実になったといえる。」

以上の通り、発掘調査段階では消去法ではあるが、江戸初期の発掘実態を伝える遺構である可能性が高いと判断されている。

 

さてでは、そんな石垣や石積みを金掘衆が行う事が可能だったのか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/10/212151

「ゴールドラッシュとキリシタン-22…石を扱う技術集団として、この痕跡を追ってみる ※1追記あり ※2写真追加」…

新北海道史を引用したが、

「築城は六年を費して、同十一年(註釈:1606)八月落成をみ、福山館と称した(松前家譜、松前史)。そこで、元和三年から五年(註釈:1615~1617)にかけて、大館町および寺町を福山城下に移し、寛永六年(註釈:1629)鬱金岳(千軒岳、浅間岳ともいう)の金堀に城の石垣を修築させ、しだいにその形を整えていったが、同十四年(註釈:1637)城中から火を出し、硝薬に点火して建物が多く焼失したため、同十六年(註釈:1639)六月これを修造した。」

とあり、ゴールドラッシュ時点で金掘衆に石垣構築技術を持つ者が居たのは、福山城の石垣が証明している。

更に…

「翌(筆者註:元和)三年東部音津己(福島町字松浦)および大沢(松前郡松前町)から砂金を出し、同六年公広は砂金一百両を幕府に献じるにいたった。ところが幕府はその金ならびに金山を公広に賜わったので、藩はその採掘を奨励したらしく、採金業は急に盛んになった。有名な知内の砂金は、元和七年ころから多量の産出をみ、知内川の水源である千軒岳の金山は、寛永五年に創開され、当時金山奉行は蠣崎主殿友広および蠣崎右近宗儀であった。また西部にも西部金山奉行を配置し、厚沢部、檜山、上ノ国付近の砂金を管理していた。金師は仙台の人で喜介という者でその下に山尻孫兵衛、水間左衛門などがいた。同八年西蝦夷地島小牧から砂金を出し、同十年東蝦夷地ケノマイ(日高国沙流郡慶能舞)、シブチャリ(日高国静内郡)、同十二年には十勝、運別(日高国様似郡内)の両所に採金の業開け、ついで国縫、夕張にもまた砂金が採掘されるようになった。」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和45年3月31日  より引用…

と言う訳で、ここで「仙台の人」が登場する。

勿論、直接の関与は解らないが、仙台藩に石垣や水路の技術があったのか?と言うなれば即答でYES。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/03/080215

「ゴールドラッシュとキリシタン-4-a…「後藤寿庵」と言う武将(増訂版)」…

「寿庵堰」や先んじたとも言われる「茂井羅堰」で実証され、未だ補修を続けながら現在も使われている。

仙台藩在住の技術者なら、これらを知る可能性はあるだろう。

まして、当時の鉱山技術者は全国区。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/15/203519

「ゴールドラッシュとキリシタン-26…「院内銀山」は全国区、そしてそれを支えるネットワークが出来るのは必然」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/22/185916

「ゴールドラッシュとキリシタン17…徒弟制度&相互扶助?、リアルな「友子制度」の実態」…

出来つつある「友子制度」でネットワークで、仙台藩以外でもその辺は成立する。

江戸初期の遺構であろう…状況証拠としては、かなり高めの背景となろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/03/074515

「ゴールドラッシュとキリシタン…無視出来るハズが無い人口インパクト」…

カルバリオ神父の報告はゲタを履かせているとは思うが、鉱山町は人口が集中したであろう事は想像が容易。

半数でみても、当時の北海道の人口に匹敵又は凌駕する人々が雪崩込んだ事となる。

それに、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/18/200305

「ゴールドラッシュとキリシタン-31…この際アンジェリス&カルバリオ神父報告書を読んでみる②」…

正規で申請したなら、租税しない限り戻れないシステム、なかなか途中足抜けも難しい。

また、金掘衆は食料は自前なので、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623

日本海航路は開かれた世界…「島原の乱」「シャクシャインの乱」と象潟の蚶満寺、そして秋田県民との不思議な繋がり」…

半ば闇市同然で商売に行ってもそれは成立させられる。

関ヶ原,大坂の陣の残党やキリシタンを含む「牢人」を含むであろうので、人集めもそれなりの規模で可能なのは考えられる。

水利,石垣の技術、人集めの面の背景的には問題なさそうだ…というよりは、大量に「牢人」が発生した江戸初期たからこそ可能なのかも知れない。

ならば、最初の地図の如く短期間で広域の砂金場や金山を探索,開発するのは可能なのか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/14/065055

「「黄金山産金遺跡」で何が行われていたか?…その推定の備忘録」…

我が国最初の砂金場開発段階で、砂金そのものや「もち石」を探り河川を遡るスタイルで行われている事や、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/16/191817

「「錬金術」が「科学」に変わった時-7…武田信玄の軍資金、甲斐の金山とはどんな所か?」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/22/210608

「「錬金術」が「科学」に変わった時-6…佐渡の鉱山史を学んでみる」…

砂金場から露頭箇所、金鉱脈を手繰る事は甲斐や佐渡の実績でノウハウが有ったのは解る。

先述の通り「全国区」である事を鑑みれば、何の問題もない。

つまり、冷静に背景を見れば、偶然でもたまたまでもなく、「なるべくして」あの様な大規模工事を擁する砂金場が出来て、組織的に一気に他地域に展開されていった…で説明出来る。

それは同時に、瀬棚〜国縫ラインのみでなく、他の砂金場でも同様の砂金採掘跡遺構がある(又はあった)可能性も予想出来る…と、言う訳だ。

 

如何であろうか?

背景を添えれば驚く事ではなく、有り得る事だろう。

そして、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/10/195717

「ゴールドラッシュとキリシタン-34…最新キリシタン墓研究と「火山灰直下の墓」の共通点についての備忘録」…

我々が「本当にこれで大丈夫なのか?」と危惧する理由も解って戴けたと思う。

当時の鉱夫の寿命は短い。

帰る故郷も既に他人のもの。

身寄りも少ない。

なら、少ない身の回り品は?…子孫に託されるより副葬される…だ。

なら、本州から渡って土着した人々が奥地に居てもおかしくはあるまい。

なんとか当時の砂金場実態を少し覗う事が出来た。

まだまだこれから。

少しずつ積み上げ、迫っていこうではないか。

 

 

参考文献:

「今金町 美利河1・2砂金採掘跡  -後志利別川美利河ダム建設用地内埋蔵文化財発掘調査報告書-」  北海道埋蔵文化財センター  平成元.3.30  

 

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和45年3月31日