無視出来るハズが無い人口インパクト−②…インパクトを捉える為の古文記述への入口の備忘録

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/03/074515

ちょっと気になるSNSがあったので、備忘録として書いておく。

関連項として、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/17/201757

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/18/210005

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/20/193847

先に読んでいる「加賀家文書」を。

古文史料も読まねばと思いつつ、なかなか進んでいないのは実情。

古文に関しては、当然の事ながら「同時代文書」が現状優先的に取り扱われるのは解る。

コピーや電子データなど無い時代、後代に書き直されたものは、書写ミスやプロパガンダ含め文書批判と対象になるのは言うまでもない。

家系図らが良い類例だろう。

中には偽書扱いになる場合もある。

リアルタイムで記述されたものの方が信憑性は高くなるであろうし、他文書との整合も見やすくなる。

当然、加賀家文書の様な場所支配人の日記や書状は貴重な情報源になる。

と言う訳で、他文献のついでに入手した本があるので、それで引っ掛かりを持った事を備忘録として書いておく。

19世紀初に東蝦夷地は、国防らも含め幕府直轄となる。

その折に設定されたのが「三官寺」。

胆振有珠善光寺

・日高の等澍院

・十勝~道東の国泰寺

これらはそれぞれ、住職の日記や書状、過去帳等が残され、重文として保管される。

中身がみたいと思っていたが、入手出来たのが厚岸の国泰寺の史料目録の様なものだった。

では、「気になる点」を報告しよう。

 

過去帳は、各寺院の檀家の死者名簿の様なもの。

我々が取り上げた事があるのは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623

これ。

加賀家文書での死亡届は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/17/201757

こんな風だが、これは同時に寺院にも連絡され、葬儀の手筈や過去帳への記録が行われる。

当然、これを遡ればどんな人物が先祖なのかも解る。

その時点での住民票が場所で管理されていたなら、過去帳は先祖の記録。

では、いきなり。

「享和2年(1802) ~明治4年(1871) 主として国泰寺が設置され、官寺 として活動した時期のもので、官寺指定以後の厚岸周辺を明らかにする貴重な資料である。

在勤の住職ごと、原則として年ごとに記入されていたものである。 約70年間を通じて741名の死者を数え、このうち75名がアイヌの人である。 毎年15~16名の死者のあったことが分かるが、全く記載のない年もある。 記載されている範囲は、西は十勝広尾から釧路、厚岸、浜中、根室の海岸線を経て標津に至り、さらにクナシリ、エトロフにまで及んでいる。 これは、 国泰寺の持ち場を示している。」

 

「史跡国泰寺資料集~北の大地に200年~」  史跡国泰寺歴史フォーラム実行委員会  2004.11月  より引用…

 

資料名は「諸場所過去帳」。

その説明文。

さて、人口インパクトと何の関係があるのか?

登録死者総数741名で、アイノ文化を持つ者は75名…

約一割にしかなっていない。

加賀家文書にあるように、場所の労働力は幕府の奉行所や直轄統治の東北諸藩らから借り受ける形になっているのでは?

なら、圧倒的にその土地に住む者の数が多くなければならないだろう。しかし、一割…

ここで注意が必要なのは、

松前藩はこの前位から、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/04/194346

盛んに寺社建替えを行い、廃れた寺社を復興していた。

故に、寺社は三官寺だけではないであろう。

・場所請負人や支配人等が寺社勧進し、場所安寧や大漁,安全祈願を行っていたであろう。

これらから、お寺は三官寺だけではないであろうから、そちらの過去帳へ記述される事もあるだろう。

つまり、741名がその総数ではないだろうという事。

そうでなくとも、途中に天然痘が猛威を振るう年もあるので、741名は数が少ない気もする。

少なくとも、途中で行われていた人口統計は、調査時点での場所への登録者数で報告しただろう。

なのでここで疑問となるのは、「地に定住し、先祖から代々そこで暮らす者はどの程度いたのか?」だ。

場所運営には、武家や商人、出稼ぎ者らかなりの数の人々が動いていたであろう。

だが、幾らなんでも、地に住んでいた者が一割しか記載されていないのは少な過ぎはしないかという「疑問がある」だけの事である。

つまり、人口インパクトを見る時の入口に過ぎないので、国泰寺の数字が全てではないだろう事は強く言っておく。

各人口統計の検証は行う必要がありそうだ…と言う事だ。

ここでもう一つ留意が必要だろう事がある。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/04/192603

宗門改はかなり厳格に執り行われていたであろう事だ。

形式上であろうが、何処かの寺社に檀家登録し、その寺社から証明して貰わないと…邪宗門は厳罰。

北海道に於いては、住職まで宗門改を提出する程に厳しく取り締まった。

身元保証無しと言う訳にはいかなかったであろう事は明白。

まぁ抜け道はあったであろうが。

で、なければ、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/17/201313

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/23/142810

こんな話は出てこない。

つらつら書いてきたが、これらは取っ掛かりに過ぎない。

こんな検証も必要だろうと言う事だ。

・実際に場所で働く者はどんな者達?

・その中で地に定住していた者はどの程度?

・その中でアイノ文化を持つ者はどの程度?

・人口統計はどんな数字を使って報告されたのか?

と、

・現状言われる話と古書から出される数字とに差異はないのか?

と言う事。

敢えて、もう一つ。

「掟/

一 天下泰平国家安全の勤行怠慢あるべからざる事 /

蝦夷をして本邦の姿に帰化せしむる事 /

一 毎々より死亡の民をして未来とくだつせしむる事/

一 隣邦の外夷渡来したるとも国のあざけりなからしむる事/

右の條々堅守べきもの也/

文化元年甲子年四月」。

文化元年(1804) 寺社奉行から掟として遵守事項を達せられたもの。

 

「史跡国泰寺資料集~北の大地に200年~」  史跡国泰寺歴史フォーラム実行委員会  2004.11月  より引用… 

 

これが寺社奉行から、三官寺たる国泰寺に与えられた任務、と言う事だろう。

隣の国の外夷が来ても、出身地を嘲るな…?

わざわざこう指令すると言う事は、赤蝦夷も来道していたと言う事か?

まぁ切り口は色々あるだろう…と、言う事か。

数字は嘘をつかない。

数字を使う「者」が、勘違いしたり嘘をついたり誇張したりする。

故に常に数字の検証は必要だ…とは、思わないか?

 

まぁたまたま、SNSで数字のトリックと言う話が出ていたので備忘録として…

古文を読む時の為の留意点の一つとして書いておく。

これは入口の一つ。

ゆっくり学んでいこうではないか。

 

 

 

参考文献:

 

「史跡国泰寺資料集~北の大地に200年~」  史跡国泰寺歴史フォーラム実行委員会  2004.11月