時系列上の矛盾「方形配石火葬(荼毘)墓」…「有珠オヤコツ遺跡」ってどんなとこ?…※追記1

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」…

前項をこれに。

と言うか…

既に前項で少々触れたが、「方形配石火葬墓」があるという「有珠オヤコツ遺跡」がどんな所か見てみようではないか。

まずはこれがその「方形配石火葬(荼毘)墓遺構」。

で、実はこの「有珠オヤコツ遺跡」、発掘調査報告書を検索した段階でピンときた。

論文で散々見てきたが、今迄どんな立地なのか?、地の利がなくて解らなかったのだ。

これが余市町「大川遺跡」なら、既に発掘調査報告書を持っていたので即確認出来たのだが。

で、

上の4冊、有珠善光寺遺跡,有珠4遺跡,ポンマ遺跡は既に持っていたが、検索して「有珠オヤコツ遺跡・ポンマ遺跡」とあったので、即どんな場所にある遺跡なのか?配線が繋がった。

この辺一帯の遺跡、実は隣接している。

だから、詳細を見る前から、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718

「時系列上の矛盾&生き方ていた証、続報30…まだまだあった伊達市「有珠4遺跡」に広がる「はたけ跡」」…

「あ、畠跡があるとこか(笑)」となった。

江戸期のアイノ文化の記録には「農耕はやらず」で、「最上徳内」が一部教えた話迄ある位だ。

で、Ta-b直下の黒1土層に検出された「畠跡は誰が作った?」これを

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/15/205140

「時系列上の矛盾&生きていた証、続報29…東蝦夷地は旧虻田町高砂貝塚」にある畑地の畝の痕跡」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/27/201947

「時系列上の矛盾…今度は西蝦夷地、稚内「声問川2遺跡」にあった畑跡、そして…」…

こんな風に追い掛けた事がある。

実際に確認出来た中では、有珠周辺から噴火湾沿いに虻田や森町,八雲町周辺迄と畠の畝跡は続く。

「畠の畝跡」「有珠善光寺」…

これなら「修験系の墓」があっても全く矛盾は無い。

元々の「有珠善光寺」が信州「善光寺」の末寺なら八宗共学だろう。

なら、諏訪大社の縁起「諏訪大明神画詞」と繋がっても何らかの違和感も出ない。

善光寺を回った修験が諏訪大社を訪問、伝えればそれでOKなのだから。

 

では、本題。

「有珠オヤコツ遺跡」とはどんな所か?

立地は先の地図を確認戴きたい。

平安(擦文文化)期とTa-b直下の中世〜江戸初期と考えられる遺跡があちこちある地域だ。

では基本層序を。

アスファルト(発掘区が市道)

・基礎工事のバラス…50cm

・撹乱層

・Us-b1,2(1663年降下)…

この下から基本土層とする、

・Ⅰ層…明黃白色砂層

・Ⅱ層…黒色腐蝕土質砂層

・Ⅲ層…暗黒褐色砂層

・Ⅳ層…黄褐色粘土質砂層

・Ⅴ層…黒色腐蝕土質砂層

・Ⅵ層…淡黄褐色粘土質砂層

・Ⅶ層…黄褐色粘土質砂層

・Ⅷ層…淡黄褐色砂層→40cm以上掘ったが変化なく地山層とした

との事。

但し、発掘区で途中が消えたり少々複雑な模様で、遺物包含層を見ると、鉄器,擦文土器,須恵器,土師器らは一点(鈎状鉄器)を除くとほぼⅢ層から出現し、Ⅳ層はあまり検出しないがⅤ〜Ⅶ層にかけて増えるとある。

また、場所によりⅩ層位迄積み重なり下部に岩盤がある発掘区もある様だ。

土層も砂層メインなので、主な発掘区は元々磯場でそこに砂が堆積した砂洲や砂浜…と言う事なのか?

なら、一部層の欠落は「海岸線の移動」を指すのだろうか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/27/052730

「地質学,地形学から見た北海道歴史秘話四題…北海道の先祖達は「生き延びる事が出来たか?」」…

北海道の海浜遺跡で海岸線の移動の痕跡を見る事はある。

ここにある厚岸の事例や泊村等、磯場〜湿原を繰り返したり生活面の移動や撹乱が検出される事例はある。

先へ進む。

主な遺構は、

貝塚…50

・焼土…110

・集石…31

・土坑墓…2

これは「方形配石火葬(荼毘)墓」とは別である。

2基共にUs-b(1663年降下)直下のⅠ層で被覆され、Ⅱ層から掘り込まれている。

それぞれ長方形,隅丸長方形の仰臥伸展葬で南頭囲、1号墓は女性小児、副葬が刀様鉄製品と漆塗膜、2号墓は熟年程度の青年男性で副葬が太刀,刀子×3,骨鏃×27(束ねられ、矢柄は無しで膠の様なもので固定)。

・柱穴…計23で、建物だとしても小屋程度

・溝状遺構…1

そして「方形配石火葬(荼毘)墓」…2基である。

ここは引用しよう。

「北海道の先史時代の墓には、環状列石墓、積石墓のように、石を構造的に定形化して配布した配石墓のほかに、石狩低地帯(恵庭、千歳、苫小牧)で発掘された周堤墓のように、墓域の縦軸の先・後に、基標石とでも考えられる立石を配する墓もある。また、規模は小さいが、墓域の周囲に、数個乃至数拾個の石を用いた墓は、縄文時代以降、数多い例証があげられよう。

方形配石墓は、一辺が4〜5m前後で、東西、南北に方形に石を積み上げた区画墓である。構築の手順は、あらかじめ方形の溝を掘り、人頭大の石を配して基礎配石とし、その上に3〜5段の石を積み重ねていく。被葬者は、配石の内側に南頭位仰臥伸展で合葬されている。副葬品は、 墓域内に置かれる。配石の外側には、溝などの遺構は特に認められない。

発見された二基の配石墓は、南北に対峙して並び、被葬者の骨は火を被って焼けていた。発見の順から、南側をⅠ号、北側をⅡ号とした。共に墳丘(盛土)をもたない。調査された札幌医科大学百々幸雄教授等は、1号墓の被葬者は1・2号の合葬で成人男性・女性、Ⅱ号墓は1-5 号の合葬で、順に熟年男性、9〜10歳男性、12〜15歳女性、壮年女性、14〜16歳男性であると 報告された。

Ⅱ号墓では、1号人骨の脚部を囲むように、木棺と思われる箱形の腐植土の痕跡が認められ た。

Ⅰ・Ⅱ号墓の人骨、副葬品の一部は火を被っていたが、特にⅡ号墓は、全被葬者の上を炭化材(板材,柱材)が広く被覆しており、炭化材の上に堆積する腐植砂土に検出された柱穴群との関係から、葬送儀例に伴う構造物が設けられ、次いで火を掛けて燃やしたのではないかと想像される。副葬品は、刀装具、非実用鍔、内耳鉄鍋、皿状銀製円板、玉類、漆器等多種に及んでおり、時代決定と歴史的な背景には今後の調査研究に委ねるところが多い。

以上、構造、葬法、副葬品の組み合わせ等、これまで全国的に類例が無かった当該遺構につ いて、ここに改めて「方形配石墓」の名称を冠することとしたい。」 

 

「配石の層位は、先にオヤコツ遺跡の層位で述べたものと大きな相違はない。しかし、254m内の区間では、砂丘形成や生活の場の環境条件によって、必ずしも一致しない個所もある。そういう中で、基本層位(例えばⅢ層, VI層)を決定し、配石Ⅰ~Ⅱ号の東壁の層位を細分して 基本層位を当て嵌めて記述することとした。

東壁層位

1. アスファルト、路盤砂利,

2. Us-b1・2 (1663年降灰),

3.明黄白色砂層,

4. 黒褐色砂土(貝層を含む) Ⅲ層,

5. 黄褐色砂,

6.褐色砂 IV-VI層,

7. 黑褐色砂 (貝層を含む) VI層, 

8. 淡褐色砂(乾くと黄白色砂),

9. 黄褐色砂(下部褐色を帯びる)Ⅶ層,

10.茶褐色砂Ⅸ層  である。」

 

「5)方形配石墓Ⅰ号(図45,図版6)

構造

配石は、地表(L5.268~5.276m) から-75cm前後で全体の輪郭が現れ、配石の上部は幅広く崩れていた(図45-1)。配石の上面はL4.38~4.49mで、Ⅲ層が被っていた。崩れた石はⅣ〜VI層を被っており、Ⅶ層に基礎配石が埋められていた。以上からⅠ号配石はVI層上面 につくられたと考えられる。上面の崩れた石470個をとり除き基礎配石を示したのが図45-2で ある。基礎配石の幅は平均50cmである。基礎配石249個を除くと、幅30~50cmの浅い凹みが方形に現れた。この凹みは、Ⅱ号のようにあらかじめ掘り込んだというよりは、若干区画の手を 加えた後に、石の重みで凹んだという可能性がある。

人骨と副葬品の出土状態

232D-233D区に2体が南頭位伸展で並ぶ合葬である。人骨の保 存状態は良くない。1号人骨は、成人男性で中央より東寄りに頭蓋骨、歯、上腕骨,大腿骨そ の他が検出された。頭部西側上方に骨飯類がまとまって2ヵ所、頭蓋の上方に、布片が貼りつ いている鉀、左側頭部から腰部にかけて骨製彫刻の柄をもつ太刀と飾金具柄の太刀が2振り、柄を上方に向けて置き、刀子とともに出土した。2号人骨は、成人女性で中央より西側寄りに、 頭蓋骨,脊椎骨,大腿骨,下肢骨が検出された。左側頭部西側に刀子1振、左肩部に骨鏃類が出土した。頭蓋の西南に2個の大形木炭片が、また周囲にも木炭が散在していた。

1号人骨から離れた東側232C区には、口縁を伏せた内耳鉄鍋1個が置かれ、234D区からは、鋤形の大形鉄製品が検出された。その他、非鉄金属の小円板、釣針、釘等が出土した。

配石内・外の遺構

崩れた石を除くと232E-234E区に8個の小ビットが検出され、それと並ぶ北西隅から漆器腕 (?)が検出された。配石外からは、231G-232G、235Gに径50,80 cm、厚さ3cmの焼土が2ヵ所発見された。ビットは棒杭を並列して刺し込んだと思われ、配石外の焼土と併せ、西側に設けた墓前祭的性格を持った遺構と考えることができようか。   (竹田輝雄)」

 

「7) 方形配石墓Ⅱ号(図49.図版8)

構造

Ⅱ号墓の配石は、地表から深さ90cm~1m10cmで輪郭が現れた。シン航空による実測図(図49-1)は配石の全体が現れたときのものである。配石の上面は標高4m30cmで配石は崩れて内外に広がっていた。崩れた配石をみるとⅦ層の黒褐色砂層,黑茶褐色砂層の下部に崩れた自然石の円礫があり、この層位的位置が生活面と考えられる。Ⅶ層の上部層は方形配石の東側で配石を覆っていた。241F区の擦文土器片2点は崩れた石のわきから出土したⅦ層の土器である。配石の礫は火山岩を含む平均径20cm前後の大きさで、人が容易に持ち運びできる重さで、小石などは含まれていない。方形に積まれている配石は溝を掘って積み上げている。 石の数は総数1277個で現在の海岸にはなく旧河口や旧河川流域にみることができる。

構造を調べるため、配石の広がりを調べて崩れた配石を除去した。配石の北東角にある副葬品の鉄鍋の上にあった崩れた石と溝に積み上げた石をみると、どれが本来の積み石であったのか区別が難しいほど積石に規則性がない。配石は方形の溝を掘って石を入れ、積み重ねている。 溝の幅は50cm~65cm、掘り込みの溝は一定していないが横断面がU字形で深さが40~60cmであ る。北壁は深く60cmで、溝の幅50cm、245D西から245F東にかけて一段と深く245Eで70cmのところもある。その間約2mで、合葬人骨の北側にあたる。溝の断面にみる石積は溝に石を投 げ入れた状態で、斜め,縦,横とまちまちである。上面になると横が多くなる。方形に積まれた石は溝上に傘形に積んでいるが、空間に砂が混じり、平面図(図49-2)の空間の砂を除くとまた石が出てくる状態であるが、基礎配石の幅70~100cm、高さは50cm程度であったと思われるが墳丘はない。

合葬人骨は5体、さらに焼けた人骨が少なくとも1体以上あるが、人骨は薄い黄褐色砂と木炭層に覆われていた。墓壙内の炭化材は南の配石から北の配石に広がり、厚い所で5cm、薄い所 で2cm程度、木炭末の多い所の分布は243Dの西、244Dの西、242E,、243E、 244E、245Eの南、242Fの東、244Fと245Fの東と合葬人骨を覆っている。柱と板材がみられ、炭化の柱は径10cmほどで、244Dから244Eに東西方向に1本、243D、243E、242Eにかけて南西から北東方向に1本と並行する243Eから242Eの2本がある。細いものもあるが部分的である。板材は243E、242Eで柱と重なっているが、板材が厚く柾目状のものは中央から南西に分布し、配石の上に伸びている。埋葬人情が焼けて炭化しているのは1号墓でも見られたが炭化材がなく木炭末が散在している程度しか認められなかった。Ⅱ号墓の炭化材から人骨を埋葬後黄褐色砂で覆い儀式的仮小屋を建てて焼いていたことがわかった。

仮小屋は、方形配石の4m以内の大きさと思われるが、方形配石内外に柱穴は認められなか った。この地域での柱穴は、炭化材分布層の上層であるVI層の淡褐色砂層と黒褐色を帯びた層に柱穴11個が発見されている。分布は方形配石墓の西側から配石の西にかけてあり、柱穴の径8〜11cm、深さ4〜19cmの円形で、これらは発掘区域内発見の柱穴と同じようなもので、直接方形配石墓の炭化材層と関係がなく、244EのVI層で三葉尾羽根文の帯執紋金具が出土している。

埋葬の問題

Ⅱ号墓は、南北3m、東西2m55cmに方形の浅い鍋底状の墓壙を掘り、5体から 6・7体の人骨を埋葬し、太刀,刀子,紐付飾鐔などを副葬している。太刀は1号人骨男性熟年の東、紐付飾郷は4号人骨女性壮年の東と3号人骨12~15歳の女性の東に副葬し、1号人骨の北で配石に近くコの字形木棺の一部と下腿骨と思われ部分が輪郭をとどめていた。合葬人骨の周 辺はやや高くなって配石となるが、配石の内側、東にガラス玉と金属金具の付いた装飾品、文様のある朱漆塗膜、北東に鉄鍋と朱漆塗膜、西に朱漆塗漆器椀と思われるもの11点と骨鏃が束ねられていたような状態で出土した。骨鏃束は2個と考える。

墓壙床は、配石の溝の上面から20〜25cmの深さで周囲が高く木炭や木を敷いた痕跡はない。人骨埋葬後、周囲に方形の溝を掘って石を積み重ねているが、埋葬人骨と副葬品を黄褐色砂で覆う。砂の厚さは2~5cmであるが、溝を掘った砂をかけてから黄褐色砂で覆う。仮小屋は砂で覆ってから建て、短時間に焼いている。Ⅱ号墓の規模は南北4m25cm,東西3m93cmである。

人骨の出土状態

人骨の保存状態はよくない。札幌医科大学解剖学教室百々幸雄教授らによ って取り上げられ、調査された結果、5体合葬で他に焼かれた遺体が少なくとも1体以上埋葬の可能性がある(付篇88頁)。人骨は頭蓋、下顎骨など出土した位置から頭位は南が4体、中央からやや北に1体があった。頭位南の人骨は、やや中央に位置する1号人骨、熟年男性。東に太刀が添えられ、腰に刀子がある。東の配石に近く5号人骨,14~16歳男性。5号人骨と1号人骨の 間に3号人骨、12~15歳女性で東に飾鍔がある。1号人骨のすぐ西に2号人骨,9~10歳男性がある。頭位北と考えられるのは4号人骨で壮年女性、東に紐付飾鎌があった。女性の近くには飾鍔があり、12〜15歳女性のものは壮年女性のものよりやや小さい。

頭蓋の炭化して崩れたものが、2号人骨の西側と4号人骨の北側にあった。採集できた人骨21点の内、炭化した人骨は11点で、太刀の上に炭化した骨があったり、4号人骨の下顎が逆に刺 っていたり、大腿骨が横にあるなどから改葬墓の可能性も考えられる。

副葬品

Ⅱ号墓と周辺出土の遺物は54点で、墓境内からは太刀1振、刀子3振,剣状の鉄器1 点,銀,銅製飾金具3点、飾鍔2点、ガラス玉と付属金具1連、束ねられた状態の骨鏃(II- 23-1,2),朱漆膜残片で個体と考えたもの11、鉄鍋1点、その他鉄残片など21点の45点他が出土した。墓域内の配石近くに朱漆塗木器が多く、西配石の北寄りに集中し、北配石では鉄鍋と漆器、東配石では胸飾りと思われる玉と漆器が出土した。金属製品、漆器、ガラス玉、骨製品については、それぞれの編目で報告されているので参照されたい。

課題

方形配石墓と合葬人骨の埋葬、儀式的仮建物と焼失、被葬者の社会的地位と埋葬法、副葬品にみられる異文化との交流などの問題をこれから考えていかなければならないと思う。方形の配石墓で規模、頭位、合葬墓で類似しているものが、中国のトウニン,ダチエンズイにある。イブリエフ、A、L、「中国の北東渤海発見に関する研究」でジエン エンチジェンの 論文が紹介されている(ソ連科学アカデミー、極東支部ソ連極東中世考古学新資料論文集」 ウラジオストク、1989)。ロシア連邦科学アカデミー一極東支部考古学委員長E. V. シャクウ ノフ氏はオヤコツ遺跡の方形配石墓について、写真資料などから渤海国の墓や古記録から北海 道と沿海州の関係があったのでないかという。   (千代  肇)」

 

主要部分はこんな感じだ。

ちょっと気になる点2つ…

「以上、構造、葬法、副葬品の組み合わせ等、これまで全国的に類例が無かった当該遺構につ いて、ここに改めて「方形配石墓」の名称を冠することとしたい。」…

あれ?

「方形配石墓」と言う呼称は、オヤコツ遺跡が最初なのか?

配石で基壇を作り、塚を伴わず、蔵骨器を埋納し、五輪塔,宝篋印塔を建てる…こんな平安には出現している墓制も方形配石墓と書かれているが…

その辺は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」…

散々見てきているが、全くの別物扱いなのか?

この辺がよく解らないところ。

横穴式墓−やぐら…もそうだが、用語らの統一がされているのだろうか?

基本的な繋がりやグラデーションを持つ伝播はあるが、細かい地域差はある。

基本的な様式,用語の定義とそれによる層別がないと、全国一環した判断は出来ないと思うのだが…

これは、「中世墓資料集成」と言う同一書籍を通してみてみた感想でもある。

と…北海道,北東北だけだが、中世城館資料でも感じた事だ。

「層別」は同一フィルターで分別していきその傾向で「解析」を行う為にやるのであって、層別したから終わりではない。

基本的な様式,用語の定義…統一した同一フィルターで行わないと意味がないのだが…

この辺が基礎が無い筆者にとっては理解不能な点。

「方形の配石墓で規模、頭位、合葬墓で類似しているものが、中国のトウニン,ダチエンズイにある。イブリエフ、A、L、「中国の北東渤海発見に関する研究」でジエン エンチジェンの 論文が紹介されている(ソ連科学アカデミー、極東支部ソ連極東中世考古学新資料論文集」 ウラジオストク、1989)。ロシア連邦科学アカデミー一極東支部考古学委員長E. V. シャクウ ノフ氏はオヤコツ遺跡の方形配石墓について、写真資料などから渤海国の墓や古記録から北海 道と沿海州の関係があったのでないかという。」

①も絡むが、論文らを読んできて、オヤコツ遺跡,大川遺跡のこのタイプの方形配石火葬(荼毘)墓…似た事例は本州にもある。

発掘調査報告書に記述されるので、北方との関連はここからスタートしているのだろう。

本州の中世墓研究から「似た事例はある」らの指摘や反論はなかったのか?

ここも素朴な疑問。

渤海が唐が認める仏教国だったのは知られた話。

本州以西の方形配石墓も仏教導入から成立したんだろう。

そもそも火葬がそうだろう。

誰も本州を迂回して伝播したとは考えなかったのか?

ソ連研究者の指摘そのまま今に至り、本州以西との事例比較はしていないのか?

え…?????

渤海って926年に滅んで、その後の国々は仏教系なのか?

その形式が「中世にオヤコツ遺跡,大川遺跡に出現」すると?

では、これが「トウニン・ダチエンズイ」の方形配石火葬墓として同書に紹介された図。

では中世墓資料集成より、大分豊後高田市「ナシカ谷遺跡」14世紀。

比較してみよう。

「オヤコツ遺跡」

配石は溝を掘り基礎配石と配石で盛り上げ、開口部は無い。複数の合葬。Ⅱ号墓に再葬?

「トウニン・ダチエンズイ」

配石は枠状で、開口部を設け建物的にしている。複数の合葬。

「国内事例」

浅い溝を掘り配石で盛り上げ、開口部は無い。基本的に単独葬だが連続的に並べる物が出現していく。火葬の合葬事例は近畿に蔵骨器に再葬する形式である。

共通点が多いのは「国内事例」では?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/04/103246

「中世墓はどう捉えられているか?…「事典」で「山」たる基礎知識を学ぼう」…

発掘調査報告書のⅡ号墓に再葬の記述があるので、

アイヌ墓には伸展葬の火葬があり集骨はなく、和人墓には集骨がある。」…

この定義は発掘段階から崩れている。

国内事例でも、全て蔵骨器埋葬する訳ではない。

そのまま集石,覆土する場合も、火葬施設内に掘った土坑に納める場合ある。

疑問を持つのは筆者だけか?

 

さて、話を戻そう。

長くなるので、遺物には本項で詳細は触れないでおく。

層序から見ると、擦文土器が出土するⅣ〜Ⅶ層位に掘り出し面があるようなので平安(擦文文化)期かともとれるが、14世紀位と論文で指摘されるのは副葬からの年代推定なのか?Ⅱ号墓の木質からC14炭素年代で割り出したか?その後の研究からの判断なのだろう。

遺骨は、百々幸雄教授らの検討ではアイノ系…仮に平安(擦文文化)期であればまだアイノ文化と言う文化指標が使えないので、我々的には「在地系」の可能性が高いとしておこう。

と、ここまで読んだ上で、本項最初の部分を読んで戴きたい。

・「トウニン・ダチエンズイ」より「国内事例」に近くないか?…

・仮に渤海の影響を帯びたとしても「仏教要素」は入り得る…

・少なくとも被葬者ではなく葬送者が「仏教要素」を持つ…

・「有珠善光寺」と近い立地を持ち、有珠善光寺寺伝播で平安開基→一度荒廃→松前慶広再興とあり、周囲に「仏教要素」を持つ者が居ても整合は取れてくる。

・先述通り、周囲立地として、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718

「時系列上の矛盾&生き方ていた証、続報30…まだまだあった伊達市「有珠4遺跡」に広がる「はたけ跡」」…

Us-b,Ta-b直下で畠の畝跡が検出しており、「仏教要素」、遺物の多くが本州産、後代農耕を行う等、生活文化的に殆ど本州以西と差が無い…

胆振〜日高に居たとされる「シュムクル集団」は、近代聞き取りでは「本州から渡った」伝承を持つ…

ここまで揃えば、この有珠周辺の中世の姿は、「アイノ文化」を持っていたと言うよりは、極本州に近い文化集団だったのではないか? …と推定出来そうなものなのだが。

更に言えば、オヤコツ遺跡は有珠4遺跡より層序的には若干古い可能性が高い。

理由は基本層序のⅡ層黒色腐蝕土質の上に、Ⅰ層の砂層が乗る。

少なくとも廃絶後に飛砂層が乗る。

それと同等、若しくは若干後の時代に確実に農耕を開始している。

つまり、アイノ文化化したのではなく、北東北と文化同化する方向だと言う事ではないか?

どうやったら、違う文化化すると言うのだ?

それこそ「時系列上の矛盾」だ。

やはり、引用原文の確認は必要だ。

ちゃんと北方由来とするスタートラインがソ連研究者の論文によると「書いてある」。

だが、この方はこの段階で我が国の国内事例比較をやっているのか?、いやそれは我が国の研究者の仕事だろう。

 

周辺遺跡との関連性と時系列上の傾向をみれば、こんな考え方もあっても良いハズだが。

不思議でならない…

 

※追記1

備忘録として、同書から下記を引用しておこう。

アイノ文化の象徴的に扱われる「骨角器」。

近世,近代と古代〜中世を繋ぐ物的に捉えられている様だが、こんな話もある様だ。

では…

「擦文期の骨角製品は、アイヌ期に類似するが、時代的変遷を経て形作られる。苫小牧市埋蔵文化センターが実施した弁天貝塚の調査でも多く資料が得られている。アイヌ期を明治以降としたとき、擦文文化を含めて蝦夷期と考えられる。土器が消えた中世の14・15世紀で前半と後 半が分けられるが、オヤコツ遺跡の骨角製品は、金属器利用の時期で擦文文化中期から後期にあたり、鉄器の種類も多く、銅製品、銅と銀の合金製品、銀製品が移入されている。毛皮などの交易による金属器移入と考えるが、鹿や海獣の狩猟は、狩猟具の改良となり、骨角製品にも変化がみられる。墓壙2号の時期を何世紀と考えるか。方形配石墓Ⅰ号墓・Ⅱ号墓の時期決定も調査中であるが、墓墳2号も蝦夷期のものであり、骨角製品の変遷もこれから進められると思う。

図29の参考図は比較のため、オヤコツ遺跡の骨角製品を前段に後段には酒詰仲男教授らが行った同志社大学先史研究会の神恵内観音洞窟資料と市立函館博物館の旧蔵品のなかから銅を装着させた鹿骨製鏃柄を前段の右に図示したものである。両者に類似性がみられるが時代の新しい銅鏃装着の鎌柄の作りは、旧蔵品と墓壙2号の資料は共に粗雑さが目につく。   ( 千代肇)」…

 

千代肇氏は、共通点はあるにして、骨角器は時代変遷しており、それを元に時代分類すると(研究途上だが)下記の様になると言っている様だ。

①明治期以降…アイノ文化期

②江戸期〜中世…蝦夷期(後半)

③14~15世紀…土器喪失期

④中世〜奈良,平安(擦文文化)期…蝦夷期(前半)

だ。

ここで…

③を経て、②と④では差異があり、経年指標となり得ると予測していた模様。

勿論③は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130

「この時点での、公式見解42…本質は「古代と近世が繋がってない」で、問題点は「中世が見当たらない」事」…

これの事。

金属器系に触れているので、例えば「燕尾型回頭銛頭」らでみると、④…奥尻島「青苗遺跡」や余市町「大川遺跡」の事例と②Ta-b直下の出土遺物では若干の差があると言っているのだろう。

さてでは、①は?

「伝世品」との比較になるのだろう。

ただ、何も変わらないならわざわざここで分ける必要があるのか?

ここで一つ問題がある。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/07/063354

「北海道弾丸ツアー第三段、「平取編」…「何故古い物の展示がないか?」には、明確な理由が理由がある!」…

伝世品から辿ろうとしても、そんな古い物は「存在しない」事。

そして、昭和30年代から更に変化している事。

現存し展示されている物に、そんな古い時代の物は無い。

故に②を強調する必要がある訳で。

①と②で変化があるなら、②との繋がりを立証しなければならなくなる。

但し、その場合はこんな問題点が更に出る。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/14/211625

「弾丸ツアー報告-1、恵庭編…江戸期の物証的「空白期」、そして「アイノ文化を示す遺物は解らない」」…

火山灰降下による「江戸期内」での情報断然。

ついでに言えば…

中世に於いても問題点はある。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/09/124507

「浜尻屋貝塚の遺物を確認&下北半島の中世城館に石積みは?…再び下北半島を回れ!」…

「ウポポイ」らに貸し出しされている「燕尾型回頭銛頭」だが、データ上直結させる訳にはいかないだろう。

ここ「浜尻屋貝塚」には、「竈があり、文字(硯の出土)があり、茶を嗜む」事と、明確に中世を通して貝塚が形成されたのは「ここだけ」と言う事実。

つまり「浜尻屋貝塚」のデータを使うなら、竈,文字,茶道の受容を認めた事になる。

さて、その辺をどう考えているか?

まぁ新しい論文や文献も読んでみようではないか。

辻褄の合う説明がされているのだろう。

…なら、こんな風にはなっていないだろうが。

 

参考文献:

伊達市 有珠オヤコツ遺跡・ポンマ遺跡」 伊達市教育委員会 1993.3.31