https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/10/22/175650
「鎌倉にある獣頭骨が並ぶ遺構への備忘録、あとがき…なら、北海道事例「ニタップナイ遺跡」を見てみよう ※追記あり」…
「ニタップナイ遺跡」の獸頭骨から話を広げてみよう。
ここは後代の「熊送り」等、獣を「送る」祭祀場に連なるのでは?とも推測されているのは概報。
なら、そもそも「送り場」とはどんなものなのか?
ここを学んでみる取っ掛かりとしての備忘録。
関連項は、
・平取町二風谷の「ユオイ,ポロモイチャシ&二風谷遺跡」関連の一連、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/04/192347
「時系列上の矛盾④…二風谷遺跡の包含層遺物、そしてまとめ」…
・せたな町「瀬田内チャシ」関連と「人送り?」、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/02/070949
「時系列上の矛盾…瀬棚町「瀬田内チャシ」は江戸期の物、中世迄遡るのは難しいと報告されていた」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/12/054834
「河野広道博士についての二題…発掘,研究への気構え&「人送り(食人)」伝承について」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/15/203042
「時系列上の矛盾…厚岸町に残された貝塚は、「送り場」と言わずとも「産業廃棄物廃棄場」でも説明可能」…
・陸別町「ユクエピラチャシ」関連、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/19/202122
「北海道には文字がある、続報8&時系列上の矛盾…最大級「史跡ユクエピラチャシ跡」とは?、そして消えた「墨書礫」」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/20/193208
「時系列上の矛盾&生きていた証、続報39…ユクエピラチャシから出土した鉄器、これ「馬具」では?」
・厚真町の一連、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/29/165629
「時系列上の矛盾…厚真町「厚幌1遺跡」の「星兜破片」、だが…」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/21/203750
「時系列上の矛盾、厚真町②…「上幌内モイ遺跡」の中世はどうなのか?-1」
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/23/204800
「時系列上の矛盾、厚真町③…「上幌内モイ遺跡」の中世はどうなのか-2」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/30/204530
「時系列上の矛盾、厚真町④…「上幌内モイ遺跡」の中世はどうなのか-3」…
・斜里町「オネンベツ川西側台地遺跡」の「チエトイ」送り、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/08/130357
「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがき…ならその「北海道の中世墓」事例を見てみよう」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/11/195106
「「土鍋,鉄鍋共伴」に「螺旋状垂飾」迄…「ライトコロ川口遺跡」ってどんなとこ?」…
ざっとこんなところか。
少々古い論文だが、北海道考古学の第一人者である宇田川洋東大名誉教授の「アイヌ文化期の送り場遺構」から、彼がどんな概念で「送り場」を捉えていたか?学んでみよう。
一応…
宇田川氏は本ブログに再三登場している河野広道博士を義父に持つ。
と言う事は、北海道の生き字引と言われた河野常吉氏の義孫、河野本道氏の義兄弟に当たる。
では、進めよう。
「北海道における考古学上の文化編年で、「アイヌ文化」期なるものがある。その呼称法ならびに年代的位置づけ等は確立したとはいえないが、ここでは、擦文・オホーツク文化の終焉以降を指し、終末は「送り場」の性格から考えて、近現代までを扱うことにする。
いわゆるアイヌ社会においては、動物骨や日常道具等の“もの”を神々の国に送り返す儀式 を“送り儀礼”と一般的に称している。その儀礼を最終的に司った場所を“送り場”と呼んで いる。
北海道の考古学界において、この種の送り場遺跡について最初に注意を払ったのは、河野常吉であるといえる。このことについて近江正一は以下のように述べている(近江 1931)。「鉄道工事事務所建設の為め明治35年頃取り払らはれた旭川市宮下通17丁目現鉄道工場跡忠別川畔に遭った方形石蘺は地面上に忠別川の大石を以て3間に3間半の方形に造られた中に熊の頭骨数箇及び数本の新旧イナホがあった事に対し河野常吉翁が環状石蘺は確かに宗教に使用されたものであるといふ断定を下すに至ったものである・・・・・・」。河野常吉はそれをスケッチ(本論 第22図4) して記録するという科学的方法を用いている(宇田川編 1981b)。
その後、考古学的にこのアイヌ社会の送り場遺跡についてはあまり注意が払われなかったが。 河野広道は、『斜里町史』(1955),『網走市史』(1958),「静内町史』(1963) 他の仕事の中で、これを重視してとりあげている。河野は、その代表的論文のひとつである「貝塚人骨の謎とアイヌのイオマンテ」(河野 1935)の中で、今から半世紀前にすでに以下のように注意している。「貝塚は、少なくともアイヌの場合には、………………“物送り場”の跡であって、物の霊を天国に送った“骸”の置場である」。この理論の上に立脚して、北海道におけるいわゆる近世アイヌ期前後に属する貝塚も送り場であると規定して、意識的に考古学上の遺跡として取り扱ってきたと推察することができる。しかし、氏のこのような意図も、考古学界ではあまり注意されず、中・近世考古学の暗黒の時代が続いたわけである。
そのような中で、該種の遺跡の発掘調査のスタートになったのは、河野広道・佐藤道夫を中心にした1948・49年の斜里町オンネベツ西岸台地の調査である(宇田川編 1981a)。その後、余市町ヌッチ川貝塚、小樽市桃内貝塚(1956年調査)、羅臼町トビニタイ、阿寒町布伏内(1960調査)等の調査が続くのである。その後も、他の時期の遺跡・遺構の調査時にこの種の送り場がが発見されることがあるが、問題意識のもちかたで軽視されることも多く、報告されなかったり、簡略に報じられたりして、本論でも見落しがあるかもしれないという大きな問題点を有している。
筆者は以前に、代表的な送り場遺跡の調査例について考えてみたことがある(宇田川 1980 b)。そして、竪穴住居址等の窪地を利用する竪穴上層遺構が、古い送り場の形式を残している可能性が高いと考え、その形成年代について論及してみた。さらにその後、アイヌ文化の概念規定の一手段として「アイヌ文化複合体の基本形」を考え、その中でこの送り場遺跡の占め る位置の重要性を指摘してみた (宇田川 1980c)。そこでは、考古学上の資料を用いて、擦文文化終焉以降から18世紀前後のアイヌ文化を三期に分ける仮説をたて、その内容把握のためのひとつの方法を示した。その三期区分とは、14~15世紀頃の前期、16世紀頃の中期、17~18 世紀頃の後期である。それ以降の19~20世紀は変容したアイヌ文化といえよう。
本論においては、この三期区分の上にたって、送り場遺跡出土の遺物を中心に、それから得られる年代観、さらに送り場立地の形式的な変遷を考えていき、問題点を指摘していくことにする。これらの年代決定の基礎になっている遺物の年代観は、以下の通りである。
(1) 北海道の内耳土器の年代は13世紀末~15世紀頃,内耳鉄鍋の年代は15~16世紀頃が中心と考えられる(宇田川 19806)。
(2) 北海道出土の吊耳鉄鍋の使用年代は、ほぼ17世紀以降と考えている (宇田川 1969)。
(3) 擦文文化終焉以降の回転式銛先は、18世紀以降のキテと呼ばれる銛先に移行していくと考えてよいが、それは開窩式から閉窩式へと型式的に変遷をたどっていることが指摘できる。その時期の銛先をタイプFと呼んでいるが、a類からf類までに細分できる。それぞれの年代は、 おおむね、a~c類が15世紀。d類が16世紀、e類が17世紀、f類が17世紀末と考えている (宇田川 1980b)。
(4) キテと呼ばれる閉窩式の銛先は、大塚和義 (1976) も指摘するように、18~19世紀に使用されたものと考えることができる。
(5) 軽石製火皿はキセルとも関連して、17世紀中葉以降のアイヌの喫煙習慣と結びつけて考えるべき資料である(宇田川 1979a)。
以上の他に、降厌年代が判明している新期火山灰層との相対的な新田関係も、各遺跡の形成年代推定の支持的論拠となっている。これについは後述する。」
はじめに…の部分を引用した。
噛み砕いてみよう。
①「送り場」について最初に着目したのは河野常吉氏で、後に河野広道氏が概念として立脚させた…
②この概念とは、
・「送り場」とは、ものの霊を天国に「送った」後の骸の置き場である。
・アイノ文化の場合は貝塚も「もの送り」の場に含む…
③各発掘調査で「送り場」が発見される事はあったが、当初は軽視される事もあったので、1980年段階で宇田川氏がアイノ文化の概念規定の要素の一つとして、その重要性を取り上げた…
④この論文ではこの概念に基づき、アイノ文化を3期に分ける仮説を立てその年代とどんな遺構かを論じた…
こんな感じだろうか。
少々驚きもあるので…
・この段階で宇田川氏は文化編年のアイノ文化期の年代的位置づけは確立されていないとし、擦文,オホーツク文化期終焉以降〜近現代迄の間としている。
・この近現代、つまり19〜20世紀は変容したアイノ文化だと規定している。
・その上で擦文終焉〜18世紀後期迄を3期区分している。
としている。
これ、時期的には1800年代以降なので、幕府直轄辺りからは変容しているとしているところが少々驚いた。
ただ、その時期から想像するに、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/11/143552
「この時点での公式見解⑥…幕府の帰「俗」方針であり、明治政府に非ず」…
幕府直轄時からの同化政策により登場する新シヤモら、ここで既に変容している事を認めている。
なら、幕末に描かれた「蝦夷画」の多くは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/21/123150
「この時点での公式見解②…新北海道史の「集団種痘と「首桶」の答え」 ※写真追加」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/05/194919
「最古のアイノ絵は本当に「紙本著色聖徳太子絵伝」なのか?…著者本人の記述で検証してみよう」…
変容過程、又は変容した後の姿になってしまうのだが…良いのか?
先に進む。
では、宇田川氏が仮説する3期毎に遺跡を並べる。
年代の特定は内耳鍋や吊耳鉄鍋、キテ(銛先)の形状、火山灰の編年指標等による。
a,前期(14~15世紀頃)…
・端野町広瀬遺跡3号竪穴上層…
・北見市中ノ島1遺跡…
・常呂町ライトコロ川口遺跡1号,11号竪穴上層…
・千歳市末広遺跡IH−29竪穴上層…
・標津町伊茶仁チシネ第1遺跡竪穴上層…
※主な遺物はカワシンジュガイ,ホタテ貝殻やエゾシカ,ヒグマ(少量),魚各種の骨、刀子、山刀、内耳土鍋,鉄鍋、キテ(銛先)等。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/11/195106
「「土鍋,鉄鍋共伴」に「螺旋状垂飾」迄…「ライトコロ川口遺跡」ってどんなとこ?」…
内耳土鍋,鉄鍋の供出で取り上げた。
b,中期(16世紀頃の中期)…
・斜里町宇津内遺跡…
・音別町ノトロ岬遺跡1号,3号,6号竪穴上層…
※主な遺物はウバガイ,カワシンジュガイ,ホタテ貝殻やエゾシカ,ヒグマ,イヌ、クジラ,イルカ,トド類、魚各種の骨、刀子、山刀、内耳鉄鍋、釘、キテ(銛先)等。
この時期は基本的にはTa−b等火山灰直下の土層に構築された遺構になるのだろう。
c,後期(17~18世紀)…
・瀬棚町瀬田内チャシB−6,Y−11,X−12貝塚及び4号竪穴上層…
・羅臼町トビニタイ文化遺跡2号竪穴上層…
・釧路町フシココタンチャシ…
・標茶町トブー遺跡2号竪穴上層…
・門別町シノタイI−A遺跡…
・門別町シノタイI−B遺跡…
・千歳市三角山D遺跡…
・千歳市千歳神社境内竪穴遺跡1号竪穴上層…
・千歳市祝梅竪穴遺跡2号竪穴上層…
・斜里町オンネベツ西岸台地1号竪穴上層…
※主な遺物はウバガイ,カワシンジュガイ,ホタテ,アワビ貝殻やエゾシカ,ヒグマ,イヌ、クジラ,イルカ,トド類、魚各種の骨、刀子、山刀、吊耳鉄鍋、釘、キテ(銛先)等。
せたな町の瀬田内チャシについては概報。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/02/070949
「時系列上の矛盾…瀬棚町「瀬田内チャシ」は江戸期の物、中世迄遡るのは難しいと報告されていた」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/12/054834
「河野広道博士についての二題…発掘,研究への気構え&「人送り(食人)」伝承について」…
伝承の様に中世迄遡るのはムリであり、江戸期の貝塚&「人送り」の話だが、宇田川氏は「人送り」には触れてはいない。
羅臼町トビニタイ文化遺跡2号竪穴上層では、竪穴住居上層に石積がある。
又、釧路町フシココタンチャシの写真左はウミガメ送りではないかとされる。
これが「釧路市博物館」のその展示だが、確かこれは墓の様に掘っていた?
オネンベツ川西側台地遺跡も先に触れているが、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/08/130357
「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがき…ならその「北海道の中世墓」事例を見てみよう」…
宇田川氏は「チエトイ」送りには触れてはいない。
d,19世紀頃…
・斜里町ウナベツ川遺跡A地点C3区竪穴上層…
・端野町和田遺跡A地点…
・旭川市嵐山遺跡…
・余市町天内山遺跡B−3区
・中標津上標津遺跡…
・旭川市亀吉島…
※主な遺物はウバガイ,カワシンジュガイ,ホタテ,アワビ貝殻やエゾシカ,ヒグマ,イヌ、クジラ,イルカ,トド類、魚各種の骨、刀子、山刀、吊耳鉄鍋、釘、キテ(銛先)、陶器や貧乏徳利、キセルや石皿等。
斜里町ウナベツ川遺跡A地点C3区竪穴上層では馬の蹄鉄が検出するが、確か蹄鉄は極早くて1873(明治6)年、一般には1890(明治23)年の陸軍での採用以降でないと広まらないかと思うが。
19世紀とは言え後〜晩期にほぼ特定されるのでは?
和馬は蹄が強く、一般には草鞋が使われていたのは知られた話である。
これは和賀町「碧祥寺博物館」の展示。
1902(明治35)年頃に鉄道工場付近で発見され、5.4×6.3mの方形に並べた石の中にクマの頭骨とイナゥがあったとされる。
旭川市亀吉島は5.4×6.3mの方形に高さ0.3mに土盛りしていてクマの頭骨と漆器,鉄器等が出土、これも「河野常吉ノート」である。
e,20世紀…
・千歳市美笛岩陰遺跡…
・標茶町シュワン遺跡…
・標茶町シュワン川西岸遺跡…
・標茶町シュワン川右岸遺跡…
・阿寒町布伏内遺跡A地点…
・旭川市弓成山南面岩陰遺跡…
・旭川市弓成山南面付近岩陰遺跡…
・旭川市伝承のコタン遺跡…
・旭川市北門町15丁目遺跡…
※遺物はここに来て、ヒグマやウサギ,キツネ,タヌキら獣骨、それもヒグマ中心となる様だ。
他にイナゥやイクパスイ、刀,刀鍔、行器ら漆器、釘やキセル、ガラス玉ら「熊送り」に近い形態のものが現れる。
千歳市美笛岩陰遺跡は高さ約2.3×2.0×1.5mの小さな岩陰にヒグマの頭骨を中心に13体分、タヌキ1体分、イナゥ等木製品が出土。
送り行為をした,行われていたと聞いた人は居らず、存在が伝承されていた事から少なくとも発見時から約50年以上は経過していると考えている様だ。
標茶町シュワン遺跡は雑木林の中の1.2m径のナラの切り株前に約8×5mの範囲に獣骨や遺物が出土、周囲聞き取りでは本来1間半〜2間位の幣場があったとされ、ヒグマ他キツネ,ウサギ,タヌキ,ワシ,フクロウ等を送ったとされる。
遺物は折った仕止め矢や刀等、キセル、釘、行器ら漆器等、ガラス玉やキテ(銛先)?そして鉛の鉄砲玉やその鋳型など。
明治始め〜昭和14年迄にヒグマを2〜300体位送ったと伝えられ、遺物やMe-a火山灰との関係から19世紀後半位からの使用だと推定される。
f,その他(年代の特定が難しいもの等)…
・旭川市近安松岡木工場裏…
・旭川市近文旧陸軍軍馬墓地付近…
・旭川市弓成山山頂…
・旭川市嵐山遺跡付近…
・枝幸町ホロナイポ遺跡第1地区13号竪穴上層…
・枝幸町川尻チャシ2号竪穴上層…
・端野町C14遺跡…
・端野町C26遺跡…
・端野町C27遺跡…
・端野町N2遺跡…
・網走市ウラシベツチャシ …
・網走市ポンモイ…
・網走市浜藻琴神社…
・中標津町養老牛温泉…
・別海町浜別海遺跡4号竪穴上層…
・根室市サンコタン遺跡L4号竪穴上層…
・浜中町熊牛オンネキッチ橋付近…
・白糠町上茶路トンベ骨塚
・白糠町庶路神ノ沢…
・天塩町川口基線遺跡…
・浦臼町札的内…
・穂別町穂別104…
・千歳市ウサクマイN地点4号竪穴上層…
・伊達市有珠2遺跡…
・伊達市有珠3遺跡…
・森町森川町貝塚…
送り場の位置と状況は、
(1)御神木となる太い木の根元に位置する例。
(2)岩や並べた石の付近に存在する例。石積,集石の例も含めておく。
(3)石蘺を有する特殊な例。
(4)竪穴住居址等の窪地を聖地として利用する例。
(5)貝塚、貝層を形成している例。骨塚と言われるものも含む。
(6)岩陰を利用する。
(7)その他平坦地等に何らの施設も有していない例。
この中でも、(4)の竪穴住居の上層は古い傾向、16世紀位に(5)の貝塚的なものが登場し18世紀迄(4)と(5)が半々位、19世紀に(6)を除く(1)〜(7)がランダムに、20世紀になると(1)の増加と(6)の出現と指摘する。
纏められた表はこちら。
ここで、宇田川氏は、火山灰の編年にも触れている。
火山灰と言えば…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/05/112644
「火山噴火の痕跡一覧からの備忘録…北海道の先祖達は「生き延びる事が出来たか?」」…
我々も取り上げているが、道西南域ではTa−bらが編年指標として使われるが、問題は道東域。
Me-a(1)〜(3)やトコロⅢ〜Ⅳをどう反映させるか?かだ。
本論で宇田川氏はこの様に設定し、
遺跡の編年に使っている事を付記しておく。
本論がどうまとめられているのか?
「本論においては、年代を決定し得る遺物を素材に、とくにその送り場の形成年代を中心に述べてきた。年代決定が考古学上の帰結でないことは論をまたないが、北海道の擦文・オホーツク文化後のいわゆるアイヌ文化期の考古学的研究はまだ緒についたばかりである。
たとえば、しばしば説かれてきたオホーツク文化の骨塚儀礼とアイヌのクマ送りの関連性(渡辺 1974, 天野 1975)であるが、主体的にクマ送りをするようになるのは、第1表に示すように、19世紀後葉からと考えられる。ここで扱ったそれ以前の時代では、クマ主体のクマ送りは明確に指摘できないわけである。ただし、主体的でない場合は15世紀段階からみられる。この問題をどう考えるのか今後に残された課題であろう。最近の報告で、斜里町尾河台地遺跡42 号竪穴上層の例がある(金盛他 1983)。それは約80個の石組みとともに、ヒグマの手掌、足掌が多数出土し、意識的に焼かれていたのではなかろうかと報告されている。出土層位は、縄文晩期と続縄文期の遺物包含層の直下である。縄文晩期に、竪穴上層部の窪地を聖地として選んだクマ送りが存在したともいえるが、これといわゆるアイヌ文化の関係についても今後の課題としておきたい。
また、たとえば名寄市智東H遺跡(鈴木・氏江 1979)では、擦文時代の2号・6号竪穴の上層部にカワシンジュガイの送り場遺構がみられる。それには擦文土器が伴出したと報告されている。それが事実だとすると、その種の送り儀礼の最古のものである。送り場遺跡の古い形式は、送るものが個別に分かれていたという河野広道(1951)の仮説は、縄文時代を除くとこの貝送りからスタートしているのであろうか。縄文貝塚とその後の貝送りの型式についても今後考えていかなければなるまい。
タンネウシ貝塚の如き地点別の送り場の利用のしかたも問題となるところである。また、クマ送りの他に、アカウミガメ、メカジキ、オットセイ、エゾノウサギ送りのきわだった動物送りが認められるが、その地域別の時代背景も考えていく必要があろう。オットセイ送りはつい ていえば、18世紀末葉~19世紀前葉の噴火湾アイヌのオットセイ猟がくわしく報告されている (佐々木 1980)。かなり盛んにその猟が行われていたにもかかわらず、その地域でのオットセイ送りは考古学的に調査例がない。それは、海獣猟の場合の霊送りは基本的に海に送り返す (藤村 1975) ということと関連するのであろうか。そのような儀礼の確立年代とプロセスを知る上でも、考古学的に得られた獣骨の部位と切断状況の観察等は重要になってこよう。何故にその送り場にそこの部位の骨が送られたのかという研究も、アイヌ社会を復原する上で必須の課題となってくる。
このように、今、再スタートしたばかりの送り場遺跡の考古学的研究は問題を山積みにしている。今後の調査・研究に期待するとともに識者の御教示を願うところである。末筆ながら、 文献等でお世話になった河野本道・萩中美枝氏に感謝申し上げる次第である。」
以上の様に締めている。
さて、まとめてみよう。
①送り場について…
送り場と言えば古書記述らにある「熊送り」の如く、クマの頭骨やイナゥ,御幣が並べられた処をイメージしがちだが、宇田川氏は擦文文化終焉以降〜近世,近代の間の貝塚等を含むアイノ文化で検出する獣骨,物資の集中区全てを送り場としている。
それは河野広道博士の定義した仮説、生き物や物の魂を天国へ送った後の骸の置き場に立脚したものだ。
ただ、本州人の筆者的には少々疑問が出てくる。
これは、
潟上市にある「鰡塚」。
鮒塚もあるだろう。
これらは当然ながら漁師が採った魚を供養し、後の漁の成功を祈る供養塔。
物と言うなら「針供養」「人形供養」等もある。
元々我が国には物には永年で魂が宿り、物の怪や神様になると言う考え方はあるので、こんな供養の話は出てくる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/19/194307
「江戸期の「へっつい」出土遺物に遭遇…生きていた証、続報16」…
竈探しで行き着いた「へっつい」も池に沈め、桃の実を捧げる…これも祭祀と言えるのだろう。
しかも、平安期にはこれ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/02/191856
「時系列上の矛盾…「斎串,祭祀場」との関連性を見る為、能代「樋口遺跡」を確認してみる」…
「捨て場」と言う概念で、物を特定の場所へ集中し捨てている。
で、それに対応する擦文文化期のこれ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/28/080712
「時系列上の矛盾…ユカンボシC15遺跡出土の祭祀具等木工品は「本州産木材」」…
本論の前時代にはこんな感じである。
これらの何が違うのだろうか?…筆者にはこの辺が疑問なのだ。
その辺は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803
「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…
火に焚べる→お焚き上げ…でも解釈出来よう。
明確な差とは何なのか?
この辺は、元々上記の様な本州の概念を学問的解釈としてアイノ文化の「送り場」に対比し当て嵌めているので、疑問が出ても当然なのだろうが…
と、言ってしまえば身も蓋もない話になってしまうのでここまで。
②熊送りについて…
以前、SNS上で@YM5E9FdHJbBIPkE風、未だ止まず様からご教示戴いたが、
https://x.com/YM5E9FdHJbBIPkE/status/1715687845602754682?t=cjJ2LvGlpnYCULedyOMoKg&s=19
擦文文化期以降、17世紀中頃までの間「熊送り」の痕跡・文献資料は確認されていない。約450年以上の空白があり、文献上の登場が、
・1710年---「蝦夷談筆記」飼い熊送りの様子が記述
・1712年---「倭漢三才圖會」---アイヌ信仰の中でも重要な「熊」が和人のコトバと同一。カムイの記述なし
・1791年---「蝦夷國風俗人情之沙汰」最上徳内---飼い熊送りの記述
となるとの事。
本論段階で宇田川氏は、前期、中期、後期そして19世紀、20世紀で送り場遺構の形式に変遷が認められ、主体的に熊送りをする様になるのは19世紀後葉からと考えられるとしている。
当然ながらこれは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/10/22/175650
「鎌倉にある獣頭骨が並ぶ遺構への備忘録、あとがき…なら、北海道事例「ニタップナイ遺跡」を見てみよう ※追記あり」…
本論データには反映していないが、頭骨を並べる行為はあれど、主体的な熊送りとは当然ながら言えないだろう。
ニタップナイ遺跡がTa−b直下としても200年位は空白が出来る上に、途中の黒0層が検出されるのは一部地域のみ。
これ、文献とは100年と言うなれば、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/10/17/090616
「鎌倉にある獣頭骨が並ぶ遺構への備忘録…中世集団墓地「由比ヶ浜南遺跡」のもう一つの顔とは?」…
こちらも考慮する必要が出てくる…と言う事だ。
何せ、Ta−aで再度被覆されてしまう上に、近い形態は20世紀に現れる。
未だに近い物は検出されないのだ。
つまり、熊送りについては、宇田川氏の挙げた課題から進んではいない。
一応…
何度も書くが、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/24/204435
「最新研究の動向を確認してみよう…「つながるアイヌ考古学」を読んでみる」…
縄文やオホーツク文化のそれと直結できないのは現状でも認識されている事。
③その他…
宇田川氏もその傾向で指摘してる処だが、
・埋まった竪穴住居の凹みやチャシの斜面らに獣骨や貝殻が集中する場所は多い。これは足より低い所への廃棄ともとれてくる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/15/203042
「時系列上の矛盾…厚岸町に残された貝塚は、「送り場」と言わずとも「産業廃棄物廃棄場」でも説明可能」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/09/124507
「浜尻屋貝塚の遺物を確認&下北半島の中世城館に石積みは?…再び下北半島を回れ!」…
厚岸や対岸の浜尻屋貝塚の傾向を見れば、交易用軽物準備の産業廃棄場も中にはあるのでは?
海獣を含む獣骨の場合は、当然皮革調達。
交易の民なのだから当然それなりの量を準備するし、長期に留まれば貝塚化するし、短期なら集中区で収まるであろう。
漁師の供養塔ら信仰が関わるのも当然だとも言えるだろう。
・宇田川氏は敢えてチャシへの言及はしていないが、埋まりかけの竪穴住居の凹みだけではなく、火山灰被覆後のチャシの斜面も同様ではないだろうか?
これも概報だが、チャシの獣骨集中区も運用中と言うよりは、火山灰被覆後に再度入った別集団ではないか?と言う考え方だ。
当然この場合、構築者と後発者は同集団とは限らない。
・宇田川氏区分の②、中期は基本的にTa−b直下で、有珠善光寺周辺なら、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718
「時系列上の矛盾&生き方ていた証、続報30…まだまだあった伊達市「有珠4遺跡」に広がる「はたけ跡」」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/05/01/143147
「北海道で農耕は何時から?…「近世蝦夷地能作物地名別集成」で確認してみる」…
こんな話と時期的には合致する。
そこに居たのはアイノ文化を持っていたと言えるのか?
ついでに言えば、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/10/195717
「ゴールドラッシュとキリシタン-34…最新キリシタン墓研究と「火山灰直下の墓」の共通点についての備忘録」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/09/060431
「ゴールデンロード⑥&ゴールドラッシュとキリシタン-35…北海道の「採金施設」とはどんな場所か?」…
こんな話ともコンパチである事を忘れてはいけない。
・宇田川氏区分の③、後期は基本的に、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/16/184916
「幕別町「白人古潭」はどの様にして出来たのか?&竪穴住居は文化指標になるのか?…「幕別町史」に学ぶ」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/13/210344
「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがきのあとがき…これって早い話、「金掘衆や場所の姿を投影しただけ」なのでは?」…
この時期と合致してくる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/08/130357
「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがき…ならその「北海道の中世墓」事例を見てみよう」…
故にオネンベツ川西側台地遺跡では、斜里〜根室へのルートや場所関連の話が出てくる。
丁度、場所請負制が確立され、各地に場所が作られ支配人を置き、三役との合議をやる頃。
19世紀初頭が幕府直轄化や東北諸藩統治へ移行し、20世紀は明治政府の開拓使の号令で、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/26/174417
「この時点での公式見解-28…「旭川市教育委員会のスタンス」と、旧「旭川市史」に記された「ムックリ,琴は本道アイノの文化に非ず」との関係」…
既に対雁への樺太からの移住や観光アイノが開始、パラパラだった住居を岩村通俊の提案で人工古潭に集約、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/08/204935
「この時点での公式見解-36…旧旭川市史にある「旧土人保護法」が制定されるまでの経緯と背景」…
標茶町シュワン遺跡での毒矢禁止による折った仕止め矢や鉄砲玉や鋳型の検出と、その時期の話と合致する。
ある意味、送り場形態の変遷は当然なのかも知れない事を忘れてはいけない。
如何であろうか?
色々と気になる点は出てくるものだ。
何故そうなのか?
その答えは簡単である。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101
「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/06/08/180518
「「砦状構造物」を同じ尺度で区分したらどうなるか?③…福島,新潟迄南下したらどうなるか?」…
宇田川氏だけではない。
あれこれ論文を読んでみて、本州以西との事例比較がされている様には全く見えないからだ。
それを我々は見てしまっている。
実際に各種論文で本州以西の話が登場する事はほぼ無い。
が、現実に出土遺物の多くは擦文文化(奈良,平安)期以降はその多くは本州産。
これは純然とした事実。
何故やらぬのか?
都合良ければ、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/05/194919
「最古のアイノ絵は本当に「紙本著色聖徳太子絵伝」なのか?…著者本人の記述で検証してみよう」…
「キング・クリムゾン効果」を使い、本州迄の時空を飛ばし、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/24/205912
「北海道と津軽藩の関係は?…「高岡の森・津軽藩歴史館」特別展「津軽藩と蝦夷地」にある津軽藩の蝦夷地出動実績らを学ぶ」…
ゑぞか?えみしか?読みが解らぬ「蝦夷,夷狄」らをアイノの訳したり、平安段階で既にある古蝦夷語をアイノ語等と訳してみたり…少々ダブルスタンダードにも程があるのでは?
まぁ、送り場、祭祀場はここがスタート。
ここから文献を読み進めて行き、「繋がるアイヌ考古学」迄トレースしていこうではないか。
活動家第一世代のリーダーの一人、吉田菊太郎翁に言わせれば、近代〜現代初期で既に津軽海峡を渡った者は居る。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/27/205924
「観光アイノをどう評価していたか?、あとがき…「古いアイノと新しいアイノを分ける」意味と、吉田菊太郎翁が語る「函館市民の祖」」…
現代日本人の祖には変わりはしない。
我々は差別も区別もしない。
参考文献:
「アイヌ文化期の送り場遺構」 宇田川洋 『考古学雑誌 第70巻第4号』 日本考古学会 昭和60.3月