時系列上の矛盾…白老の蝦夷の人々は、生き延びる事が出来たのか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/13/185111

前項に引き続き、発掘調査報告書の検討である。
今度は「アイノの聖地?」白老である。
昨今、某「国立博物館」が出来た町でもあり、少々興味もあった。
他の発掘調査報告書のついでに入手するには持ってこい。
白老の発掘調査報告書は古書でも少ないので、あまり贅沢も言えないので、とりあえず入手してみるか…と言う訳だ。

この遺跡はの白老町「日の出町遺跡」と言い、道立高校新設に伴い埋蔵文化財包蔵調査をしたとある。
1986年版なので、この後どうなったか?
遺物はどうなったか?は承知していないので、そこはご理解戴きたい。
では、引用してみよう。

「本遺跡は、旧国道36号線をポトロ湖から苫小牧方面へ8kmほど行った海岸沿いの地点にある。樽前山白老岳からなだらかに続く段丘が途切れ、海までのあいだをヨコスト湿原が広がっており、小川、沼地が複雑にある。この湿原の西側に接して標高5~6m程の砂丘があり、さらに西に伸びて白老市街地へと続けている。本遺跡はこの砂丘の南(海)側にある。遺跡の東側に続く地点は、土取りのために削り取られてすでに無い。」

「平均して地表下80cmまで軽石層(有珠B)が堆積しているため、10cm程残してブルドーザー、バックホーを使用してこれを除去した。」

「日の出町遺跡の基本層序は次のとおりである。第Ⅰ層:表土。第Ⅱ層:指頭大の黄褐色軽石層。第Ⅱ´層:灰色砂層。第Ⅲ´層:赤褐色火山灰。部分的に見られる。浅いくぼちに堆積したものが残ったと思われる。第Ⅲ層:黒褐色砂質腐植土南側の低地に向かうにつれて、黒色みを増す。第Ⅳ層:暗褐色砂質土。第Ⅴ層:青灰色砂。第Ⅵ層:灰褐色砂。遺物包含層は第Ⅳ層上部、及び第Ⅴ層上面である。」

「本調査では、焼土が5、集石が4基検出された。それぞれ、SB,SSと略称し、その後に任意に通し番号をつけた。この他炭化物が2ヵ所で顕著に検出された。」

「第7図に示したように集石は、砂丘上、砂丘縁辺の低地に2基づつ(筆者註:第Ⅵ,第Ⅴ層にそれぞれ1基毎)検出されたが、焼土はすべて砂丘上(筆者註:全て炭化物と共に第Ⅳ層)で検出されている。」

「-白老町文化財報告書Ⅰ- 日の出町遺跡発掘調査報告書」 北海道白老郡白老町教育委員会 昭和61年3月30日 より引用…

要約する。

遺物は、
第Ⅴ層→
後北C式土器片と他不明土器片。
石錺,砥石,すり石。

第Ⅳ層→
4種の土器片。
石錺,砥石,剥片,石斧,たたき石,長径3cm程の黒曜石(使用痕無し),刀子,鍋の底。

…以上。
それぞれ位置的詳細や焼土の深さ、土器や石器の写真はあるが…以上。
遺構は位置らが示されるが、遺物はそれら無し。それどころか土器と石器は写真有りだが、鉄器は写真すら無いし、まとめ,総括も何も無い。
清々しい限りである。

基本層序にスケールがある。
Ⅱ層が軽石なので、これが有珠の火山灰は確かに80cm位ある。
更に3cm程度のⅡ´層。
で、やはり3cm位のⅢ´層、この火山灰は別物?…
そして、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ層はそれぞれ10~15cm。
遺跡はⅣとⅤ層。

Ⅴ層で後北C式土器なので続縄文、Ⅳ層は鉄器あるので擦文期…
中世は海岸の侵食で無くなった?
いずれ遺構はこれだけ。その他の部分に生活痕は無い。

ただ、何より最大の特徴…これで解って戴けると思う。
有珠山から、指頭大の軽石が80cm降り注ぐ中、生命活動が可能だったのか?
普通なら、生き延びる為に逃げ惑うと思いませんか?
恐らく数日間降り続いたと思われるし、一度ではないだろう。
更に、改めて書くと…
有珠山→1663年に大噴火…
樽前山→1667,1739に大噴火…
有珠山大噴火から開始した樽前山の噴火はその後も続き、かなり物騒。
前述の通り、この層以外に遺構,遺物は無く、生活痕「0」。
この一帯でそうだろう。
なら、そこに暮らして居た人々は何処に?
そして、そこに後に住んでいた人々は何処から来た?疑問に思わない方が…変…ではないか?
さて、ここは海岸近く…
避難するなら何処へ行くであろうか?
噴火は西。北に樽前山。東は?…日高。
海が南…
そういえば…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/28/194019
所謂「本州アイノ」の人々は、町の外郭にcolonyを作ったらしい。
江戸期に「菅江真澄」らも描いていたかと思う。ただ、菅江真澄が北海道~東北に来たのは概略1800年前後…
仮に白老含めた一帯が噴火らで津軽~南部一帯に避難したのなら、外郭colonyや暫く後に藩籍付与されたのと辻褄は合ってくる。

ところで、史実的な背景を。
「寛文九年蝦夷乱」つまりシャクシャインの乱は、この寛文大噴火の直後なのだ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/22/095523
もっとも、鬼菱とはその前からいざこざ起こしているが。
つまり、ゴールドラッシュやシャクシャインの乱は噴火を挟み起きている。
状況的に、東へ逃れるのは難しいだろう。
思えば、北海道の発掘調査報告書って、こんな史実と重ね合わせるのを、あまりやらない印象。何故?

さて…
白老に元々住んでいた人々は生き延びる事が出来たのか?
何処に逃げたのか?
そして壊滅的ダメージのここに入ったのは誰?
更に、第Ⅲ´層は何の火山灰?

ただ、一つだけ言える事がある。
火山灰や火山礫が降り注ぐ中、古来から永続的にこの遺跡近辺に住み続けられるハズが無いのは、一目瞭然。
遺跡近辺ピンポイントかも知れないが、それは不可能だし、火山灰層に生活痕が無いのは事実なのだ。
そう、これだけは確実なのだ。


参考文献:
「-白老町文化財報告書Ⅰ- 日の出町遺跡発掘調査報告書」 北海道白老郡白老町教育委員会 昭和61年3月30日

改めて「原点回帰」…古代北海道と秋田を繋いだ「C504遺跡」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/13/185111
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/151154

先に「時系列上の矛盾」として紹介してしまったが、このブログの第1回目が「秋田城」である限り、いずれはこの場所も…と思っていた。
では、秋田城経由の須恵器で古代北海道と秋田の繋がりを証明する「C504遺跡」の発掘調査報告書を紹介してみよう。

立地は、桑園駅に南約250m、札幌市中央区北8条西15丁目。
数々遺跡のある札幌は旧琴似川沿いの一角にある。
元々北海道財務局から文化財課へ試掘依頼があり、その段階でも竪穴住居跡らが見付かり、現状保存が望ましいがやむを得ない事情の場合は本発掘調査が必要と回答し、その後、マンション用地で競売にかかり、本発掘に至ったとの事。
確かに、Googleearthで見ると発掘箇所の建物と保存として駐車場になっている。

遺跡の概要だが…
地層は、概略13層に分かれ、9層aに焼土跡らが、9層dにB-Tm(苫小牧火山灰層)と判断される火山灰、11層cで竪穴住居跡,竈跡らがが検出された。

「当該層は、出土土器の形式的特徴から、擦文前期に位置付けられると判断した。なお、第1号竪穴住居跡と焼土粒集中で採取した炭化材、植物種子を供材とした14C年代測定(AMS法)では、補正年代B.P.1210±70年~B.P.1310±40年という測定結果が得られており、考古資料に基づく年代と矛盾しない。」

「札幌市文化財調査報告書77 C504遺跡」札幌市教育委員会 平成17年3月31日 より引用…

9層dが苫小牧層なら、その下なので、7~8世紀なら矛盾はない。

遺物は…
木製品…竪穴住居の柱材や焼けた炭化材
土製品…擦文土器、紡績車、土の勾玉、須恵器
後は、たたき石ら。
ここでは鉄器は無い模様。
植生や動物遺存体も、アワ・ヒエ・キビ・アサらとサケ,ウグイら大体同じで、イタチの仲間の骨辺が二つ出土。
やはり雑穀や魚類中心っぽい感。

柱材について、
「加工順(作業順)としては、①縦斧による底面加工(伐木)、②縦斧による側面加工(側面の一次加工)、③横斧による側面加工(側面の二次加工)、④主に縦斧による基部周溝加工(縄掛け溝の作出)、⑤縦斧・横斧による底面加工(⑤a基部切り落とし→⑤b側面の平坦・平滑化等二次加工)が順になされている。」

「札幌市文化財調査報告書77 C504遺跡」札幌市教育委員会 平成17年3月31日 より引用…

柱材は幾つかの遺跡で残されている様で、札幌H519遺跡ら樹皮が残る物もあるが、恵庭茂漁5遺跡同様にチョウナでの切削跡が残る。
そう言えば、後藤寿一博士が発掘した恵庭古墳群の非葬者は、斧や鎌等の道具を副葬していたが…関連あるのか?

さて、本題。
須恵器は同size同様の物が二個出土している…これだ。
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秋田城跡歴史資料館の特別展パネルより。

これが、後の調査で秋田の「新城窯」で焼かれた物と特定された。
古書らを含め、当時に渡島とやり取りが許されていたのは出羽国司、そしてその補佐をする秋田城介…秋田城が全てを統轄していたのは、明らかになっている。
つまり、「新城窯」→「秋田城」→「?」→札幌「C504遺跡」となる。
何故「?」を付けたのか?
本州側に秋田城と言う拠点があるならば、北海道にもその拠点が必要となるだろうと考えるからだ。
津軽,渡島衆も、複数人官位を貰った記録はそれ以前の古書にあった。
なら、複数の土豪が集まる港なり拠点が要る。
現状、古書で記されているのが「後方羊蹄」、なので我々は便宜的に「羊蹄柵」と読んでいる。
それが何処なのか?
勿論、はっきりしてはいない。
だが、その特定が出来れば、北海道の古代~中世史は一気に解明されて来るだろう。
なので、注目しているのだ…「余市」を。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/09/201054
ただ、札幌にこれだけの規模の居住区があるなら、別に石狩低地を治める城柵もあり得ると思う。
何せ、秋田にはこれがある。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/05/111331
記録に無き謎の城柵「払田柵」…
これがある限り、「羊蹄柵」だって、「渡島郡衙」があったって、何の不思議なぞ無い。


ここが原点。
でも、確実な物証を持つ原点。
勿論、ここにアイノ文化の痕跡はまだ無い。
つまり、北海道~東北の関連史の方が、アイノ文化より遥かに古いのだ。
だから、我々はハッキリ言う。

北海道と東北は、古代から繋がっている。
それが切れた事は、一度たりとも「無い」。


参考文献:
「札幌市文化財調査報告書77 C504遺跡」札幌市教育委員会 平成17年3月31日

時系列上の矛盾…明治の北海道民は、真の北海道の姿を知っていた

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/12/194452
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/13/143533

引き続き、北海道の発掘調査報告書の検証である。
筆者は、札幌「C504遺跡」の発掘調査報告書も入手した。
これは読んでおきたいと思っていた。
何故ならば…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/151154
これこそ、我々の原点の1つであり、筆者の原点、秋田の新城窯で焼かれ、秋田城経由で北海道へ渡った須恵器が出土した遺跡だからだ。
筆者にとっては、特別な意味を持つ。
開いていきなり驚く。
札幌桑園の直ぐ側ではないか…
これは出羽国繋がり…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/06/101544
庄内の侍魂を持つ人々が助っ人…

さて、開けて直ぐに、筆者は驚愕しぶっ飛んだ。
事前に読んでいた「楠遺跡」より…

「付近の人々の話によれば、開拓当時このあたりは一面に笹や灌木が茂っており、調査区付近にはいくつものぬぼみがみられたという。これらのくぼみは、おそらく今回の発掘調査で明らかにされた竪穴住居跡が埋まりきらずにその当時までのこっていたものと考えられる。」

美深町楠遺跡-天塩川改修事業の内楠築提工事用地内埋蔵文化財発掘調査報告書」北海道埋蔵文化財センター 昭和59年3月31日 より引用…

ありゃ?とは、思っていた。
何故ならば、平安期末程度から誰も住まなくなったなら、氾濫を繰り返していたとしても、凹みが残っている?
実は、後の時代の盗掘?と疑われる、正体不明の溝跡も検出されてはいる。

さて、頁を開いて驚いたのは?

「旧琴似川は、河川の切り替えや近代以降の都市開発によってその面影をほとんど残さないが、明治20年代末に高畑宣一氏により記録されたとされる擦文時代の竪穴住居の分布図や、その後の調査、研究により擦文時代の遺跡が旧琴似川沿いに分布する様子が認められ、擦文時代の集落形成に大きな役割を果たしたと考えられる。」

「札幌市文化財調査報告書77 C504遺跡」札幌市教育委員会 平成17年3月31日 より引用…

ありゃりゃ…
まともに発掘していなかった年代に、何故擦文住居跡があったと解るの?

おかしいと思っていた…
平安に廃絶されたなら、何故痕跡が地表面から解ったのだ?
何故、原野なのか?5~6百年あれば、林森になっていてもおかしくない

「楠遺跡」には、アイノの遺構は無い。
竪穴の住人は擦文期終わっても普通に暮らして無ければ辻褄が合わない。
で…
これは、擦文文化人の事になる。蝦夷とすら書かれていない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/10/053050
村々里々に住む人々…
旧琴似川沿い一帯ほぼ全てが擦文遺跡と言える程、遺跡だらけなのだ。
七頁の第6図を見れば、それが納得出来る。
この中には、H317遺跡すらカウントされてはいない。まだまだ擦文遺跡は分布する。

つまり、幕末~明治の人達は、そこに北海道の人々の先祖が住んでいたのを知っていたんだろう。

そして後、河野廣道博士や後藤寿一博士らは、それらを知っていた上で、その人々が何者なのか?アイノとの関連は?そんな視点で、発掘をしていたのでは?
皆知っていた。凹みを掘れば色々出る。
掘り出された刀剣らを自腹きってまで買っていたのは、このためだろう。
故に、鉄器が本州由来ならば、北海道は朝廷や武将の施政下にあると言いきれた…
筆者的には、至極納得である。

なんだこれは。
本当にファンタジー
何故それらが伝承されていないのだ?
おかしいではないか。

はっきり書いておく。
札幌の古代~中世の真の姿は、現道民こそ全く知らない。
明治の人は知っていた。
道庁所在地になったのには意味があった。
行き当たりばったりじゃない。
そこに都市であろうと言う痕跡があったから、伝承があったからだろう。

知らぬは、現代人のみ…



参考文献:
美深町楠遺跡-天塩川改修事業の内楠築提工事用地内埋蔵文化財発掘調査報告書」北海道埋蔵文化財センター 昭和59年3月31日
「札幌市文化財調査報告書77 C504遺跡」札幌市教育委員会 平成17年3月31日

時系列上の矛盾…札幌市丘珠「H317遺跡」に見える二つ目の矛盾と農耕の痕跡

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/11/063135

札幌丘珠の「H317遺跡」については、もう1つ書いておこうと思う。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/12/194452
せっかく楠遺跡で栽培型ソバを紹介したので、前項の植物分析の部分をクローズアップしてみたい。


「第3層から検出された炭化植物種子の中で注目されるものに雑穀がある。図番92-1a、b、cはよく保存されたオオムギである。標本20粒を計測して第57表に示しておいた。形態から判断する限り、H317第3層の擦文時代のオオムギは、擦文時代として同時期かそれよりもやや新しい時期に属する北海道大学構内サクシュコトニ川遺跡から検出された長形の裸麦(北海道大学埋蔵文化財調査室編:1986)と同様の品種としてみて良いだろう。」

「図番92-2a、b、cにはコムギである。きわめて小型で、完熟している。いわゆるエゾコムギと仮称しているグループで、その計測値は第58表に示した。この計測値は、サクシュコトニ川遺跡検出例の範囲に収まる。オオムギとおなじく、サクシュコトニ川遺跡の物と同様の品種(Crawford:1986)であろう。」

「これらムギ類がまとまって検出された地点から、図番92-3に示したムギの穂軸(rachis segment)の残片が8個検出されている。また、同様に図番92-4に示したムギの棹(culm)と思われるものが見つかった。その拡大版が図番92-5である。細胞の形態から、ムギの草本部分である事は間違いない。通常これまで我々のあつかった擦文時代の遺跡においては、こうした遺物が住居内の中から検出されることは、まずない。サクシュコトニ川遺跡においても、穂軸は集落の一部に見られた炭化物の集積箇所-炭化マウンドと呼ばれている-か集中して検出されている。この遺構は、ある種の廃棄場所と判断されているが、(椿坂:1989、吉崎・椿坂:1990)、DC02地点も同様に脱穀処理後の屑を廃棄する特定の場所、あるいはそうしたものが二次的に流れ込むような状況の場所であった、といえるだろう。」

「アワ・ヒエ・キビも、DC02地点から集中して出土している。」

「ヒエも奇妙である。発見された潁果の形態は、これまで北海道内で調査された擦文時代の遺跡出土のどの例よりも、いわゆる栽培型に近い形態を示す。これまで、現生タイプの栽培型に類するものとしては、余市大川遺跡から出土した擦文時代末期あるいは中世と思われるものがあった。しかし、その他の擦文時代遺跡から得られた資料は、縄文ヒエに似たものが多く、栽培型に近いものは稀であった。~中略~この観察が正しいなら、北海道の擦文時代前期から、すでに雑穀のアワ・ヒエ・キビが揃って出現していたことになる。」

「残余の栽培種としてはアサ、シソ属、アブラナ科マメ科がある。」

「札幌市文化財調査報告書46 H317遺跡」札幌市教育委員会 平成7年3月31日 より引用…


と言う訳で、DC02地点での炭化植物種子の検討結果を引用してみた。
麦やアワ・ヒエ・キビらが揃っていて、特にヒエについては、栽培種であると言う事は、前項で紹介した通り。
また、楠遺跡の栽培種ソバ同様、栽培種ヒエがもたらされていたのは間違いなさそうで、北海道でも、農耕をやっていたのではないか?と言う事を物語る。


では、時系列上の矛盾として…
前項で上げた遺跡の年代のズレを、ヒエの検討結果から考えられるのは次の二つ…

①擦文土器の編年傾向から導き出した遺跡は9~10世紀のもの…
→この場合、西暦800年代には雑穀三種全て揃っていた事になり、原始的農耕と言うよりは、色々tryしていた事になり、計画的な開拓を行ったのではないか?と推定も出来る。

②筆者の火山灰層の予想で10世紀以降のもの…
4層dの火山灰層は苫小牧火山灰層となり、H317遺跡のヒエと大川遺跡ヒエの出土結果が合致してくる。その場合、この遺跡は擦文末期~中世初期の物となってくる。

どうだろう?
二百年位のズレが生じる。


因みに、このDC02地点のオオムギの14C年代値は、1220±70y.b.P.、暦年代較正で756~889(82.6%)と測定される。
但し、名古屋大学でのタンデトロン加速機測定。
楠遺跡同様の液体シンチレーション法による測定は別の試料を京都産業大学で測定しており、こちらの擦文の測定値は、炭化堅果類で1420±60y.b.P.、炭化材で1040±280y.b.P.になっている。
同じ遺跡の別の種子で、二百年ズレがある(液体シンチレーションは補正なし)。
さて、真実は如何に?


まぁどちらにしても、東北経由で持ち込まれたのではないか?と言う予想に対しては、いささかも困らない。
①なら、計画的農耕の痕跡…朝廷の影響が示唆出来る。
②なら、失われた北海道の中世は農耕もガッツリやっており、食性は東北により近付いてくる。

どちらにせよ、我々が想定している姿に合致するのは変わりない…と、言う訳だ。


参考文献:
「札幌市文化財調査報告書46 H317遺跡」札幌市教育委員会 平成7年3月31日
美深町楠遺跡-天塩川改修事業の内楠築提工事用地内埋蔵文化財発掘調査報告書」北海道埋蔵文化財センター 昭和59年3月31日

「アイノ」が一言も登場しない調査報告書…美深町「楠遺跡」に見える擦文生活文化の痕跡

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/04/192347
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/11/063135

関連項はこの辺になる。
「時系列上の矛盾」としてブログアップしているが、他の発掘調査報告書の「ついで」に入手したこの報告書、「お見事!」なのである。
何故ならば、初めて本文中に「アイノ」の文言が一言も入ってない。
正確に言えば、村名の由来として…美深町の前進は名寄らしく、大正九年に知恵文村を分村した時に、アイノ語由来の「ビウカ」から名付けた…これのみ。
「アイノ」らしい遺物が全く無いのもあるが、THE学術書、更に予想は予想と書いている。
では、少し紹介してみよう。
美深町にある「楠遺跡」である。



「調査区は開拓以来の耕作によって削平されている。耕作表土は約40cm前後で全域にわたってほぼ一定である。耕作表土下は調査区南端に縄文時代の包含層がわずかにみとめられるほかは、地山である。地山は砂質黄褐色土がほぼ全域に広がっているが、調査区北部ではところどころに砂あるいは礫層があらわれている。昭和55年度調査区の北東側と57年度調査区の東側は周囲よりわずかに低く、厚さ30cm~40cmの砂礫層があることから、天塩川の氾濫によって形成された古い河道跡と考えられる。」

「各住居跡の覆土は大きく3つの層に分けられる。1層は~中略~中略~開墾当時までのこっていた竪穴住居跡のくぼみを埋めたものである。2層は多量の炭化物を含む層で、開墾時の野焼によって形成されたものと考えられる。3層は暗黄褐色土で遺物の大部分はこの層位から出土した。」

「楠遺跡の発掘調査によって発見された遺構は、擦文文化期の竪穴住居跡39軒と土壙1基である。」

「一軒を除く38軒の住居跡に作り付けのカマドがある。住居の床面からは、炉跡・柱跡などが検出されている。住居跡H-37は火災にあったものと考えられ、多量の炭化物が出土した。」

「遺構内からは多数の擦文式土器のほか、鉄製刀子、紡績車、砥石、木器、黒曜石剥片、カワシンジュ貝の殻皮などの遺物が出土した。完形および復元された土器は50数個体で、深鉢・高杯・杯の器種がある。これらの土器は器形および紋様構成からみて、擦文文化期のうちでも比較的新しい時期に相当するものと考えられる。放射性14Cによる年代特定によると、760±50 B.P.~920±70 B.P.の結果が得られている。」

「カマドおよび炉跡の焼土の水洗処理によって、サケ科とコイ科の骨片が採取された。また、住居跡のピット内土壌の花粉分析によって、本遺跡周辺でソバおよびイネ科の雑穀が栽培された可能性が示されている。」

美深町楠遺跡-天塩川改修事業の内楠築提工事用地内埋蔵文化財発掘調査報告書」北海道埋蔵文化財センター 昭和59年3月31日 より引用…

もはやこれのみで、概ねどんな遺跡なのかはっきり解ってしまう簡潔な調査概要である。
実は、地元の方へのインタビューで、明治の開拓期にまだ竪穴住居の凹みが解ったと記載される。
全く手付かずでその時代から眠っていた事になる…驚愕。
続けて、遺構,遺物の詳細説明とまとめになるが、敢えて割愛。
ほぼ、概要をトレースしている。

むしろこの報告書、付編が面白い。
1として、藤本強氏らの解析に準え、この住居跡の生活空間がどうなのか、遺物の位置により解析している。
住居はほぼ正方形だが、カマドを上にして、カマド側,右側に遺物や焼土跡が集中していると言う。つまり生活空間は右側~右奥側になる。

2として、土器は器形や紋様構成で、3グループに別れそれぞれ年代のズレからみて、住居跡の変遷を推定しており、それを放射性14Cによる年代特定で補完している。
一気に39棟あったのではなく、3グループで、変遷していると言うのだ。

3として、1つだけ包含層にあった縄文土器の解析(割愛)。

4,5として、土壌中に残った骨片と花粉らによる「何を食べていたか?」の解析。
これは、通常も植生含めやられている分析だが、特に気になった花粉の方を引用してみよう。

「ピットの下位を埋積したNo.3,No.4の試料からはそれぞれ1%弱ではあるがFagopyrum(ソバ属)花粉が検出された。」

「Fagopyrumは擦文時代の6ヵ所の遺跡で確認され、天塩川流域でも山田(1975,1979)により天塩町天塩川口遺跡の住居跡床面、名寄市知東H遺跡の住居跡床面で確認されている。」

「日本には野生のFagopyrumは存在せず、遺跡から検出されるFagopyrum花粉は栽培種のソバの存在を示すものと考えられる。一方、擦文時代には雑穀栽培が行われていたことがあきらかになっていることから、楠遺跡においても遺跡周辺でソバが栽培されていたことは確実であろう。」

「また、属の同定はできなかったが栽培種と考えられるイネ科の花粉もわずかではあるが確認されているので、ソバとイネ科の雑穀を栽培した農耕が行われていたと推定することができる。」

「但し、その形態、規模については、今のところ不明である。」

美深町楠遺跡-天塩川改修事業の内楠築提工事用地内埋蔵文化財発掘調査報告書」北海道埋蔵文化財センター 昭和59年3月31日 より引用…


ソバの原生種は存在せず、ソバとイネ科の何かを擦文文化人が農耕していた物証としている。
で、骨確認結果では魚の骨のみ。
4,5の結果を鑑みれば、魚と雑穀を食べていた可能性が高くなり、哺乳類の肉食がクローズアップされる「近世アイノ」より東北人に近く食性になる。
そう言えば、擦文って貝塚って無い、縄文のみ。
ゴミ処理方法が変わったとすれば、生活文化的に本州に近くなってくるのだが。

まぁそれとて、擦文期は、先史時代扱いなのだ。あまり影響は無い…か?
文化…違うよね…


ついでに、付記しておく。
この報告書では、先に出された昭和55年の概報の一部を修正している。
先に見つかった土壙2つ(遺物あり)の年代特定に曖昧な点が出た(表土層の炭化物流れ込み)為。
年代特定は、全ての要素を加味しなければ出来ないと言うこと。
今迄紹介した遺跡の様な、地層無視なんぞ飛んでも無い事。
この報告書はその点しっかりしてる事を加え報告しておく。


ここだけ見たら、「近世アイノの担い手」なぞ、一般生活文化に於いてはあり得ない。
むしろ、本州人に遥かに近い。

如何であろうか?



参考文献:
美深町楠遺跡-天塩川改修事業の内楠築提工事用地内埋蔵文化財発掘調査報告書」北海道埋蔵文化財センター 昭和59年3月31日

時系列上の矛盾…札幌市丘珠「H317遺跡」に見える矛盾と火山灰の壁

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/04/192347

関連項はこちら。
二風谷の遺跡以外にも、発掘調査報告書の読み込みをしてみた。

実は、北海道のメンバーに協力依頼の様な話が出て相談された。
だが、場所柄特段調べてる訳でもない。
長い目で見れば、あちこち確認の必要有ろうかと思っていたが、そこはそれ。
道央の事と言うので直ぐ古書を発注。
どうやら問題そのものの火消しは終了した様だが、確認すべきだろう。
筆者としては「ひと悶着」有ったので釈然とはしないが、それはそれ。

と言う訳で、札幌丘珠の「H317遺跡」確認する事にする。
「モエレ公園」近くで、周辺には縄文~擦文遺跡が数多くある。
実は以前からメンバーの中には、「モエレ公園」の謂われが引っ掛かるとの声はあった。
ここは古くは豊平川伏籠川に繋がった沼らしく、周辺の低高地に遺跡が点在するらしいが、本州に住むメンバーには土地勘なぞまるっきり無い。
さて、では、「時系列上の矛盾」を指摘してみる。


発掘調査報告書では、必ず発掘箇所の地層がどの様に積み重ねられているか?これが記載される。
当然だ。考古学では、この地層の上下は時代変遷を表す指標。ひっくり返す事は出来ない。
本書でも、一章の調査の概要で、「第5節 層序」として詳細が記される。
37頁に「基本層徐土層注記表」が示される。概略は、

1層…耕作土(表土で現在の地層)
2層…2a~2p迄細分化、シルト,砂,粘土が重なり合い2p,2j,2pの上面に火山灰堆積
3層…a~c細分化、aが擦文遺跡層
4層…a~e細分化、4d上面に火山灰堆積
5層…a~c細分化
6層…6~6-3に分かれる
7層…続縄文の遺跡層
8層…

となり、随分シルト,粘土層が多く、川の氾濫の影響か?随分細かく積み重ねられているのが解る。
3層に擦文遺跡、7層に続縄文遺跡が眠っている。
事前調査で1,2層には遺物なく重機で削除して発掘した様だ。
それぞれの章に分けて遺跡の説明をしているが…
総括ではどうだろう?時代背景の解析部分を引用する。


「第Ⅰ群土器の主体となる第ⅠA群は、8世紀後半の土器群に後続し、おおむね9世紀代と考えられる札幌市K435遺跡出土第Ⅳ群土器にほぼ相当する特徴を持っている。杯類およひ共伴した須恵器の杯から、東北地方では、岩手紫波城跡出土土器群(盛岡市教育委員会 1981)と共通する点があり、上記の年代観と矛盾しない。」
「第ⅠB群土器は、宇田川編年(宇田川 1980)では、擦文時代中期前半に位置付けられるであろう。これらの土器群は、石狩低地地帯中央部の恵庭、千歳市域では、10世紀前半と考えられる降下火山灰(白頭山-苫小牧火山灰)を挟んで上下から出土している(大谷ほか 1981,1982)。」
「このことから、概略的な年代は、第ⅠA群土器は、9世紀初頭から9世紀末。第ⅠB群は、10世紀前半と考えられる。しかしながら、第ⅠAa群の一部は、K435遺跡出土第Ⅱ、Ⅲ群土器の特徴を強く引き継ぐ要素がみられることから、8世紀末葉まで遡る可能性がある。」

「札幌市文化財調査報告書46 H317遺跡」 札幌市教育委員会 平成7年3月31日 より引用…


解っただろうか?
それぞれ、土色土性でこれだけ特徴を出し細分化しているにも関わらず、総括では擦文…3層、7層…続縄文しか記載無し。
その上で遺跡の使用年代を、出土した擦文土器の編年指標のみで行っているのだ。
しかもその指標は、他の遺跡の白頭山-苫小牧火山灰らの状況から作られた事迄述べているのに、この遺跡の火山灰層に全く触れていない…あれ?

この遺跡に於いて、擦文~続縄文の間の火山灰層は4層dにある。
つまりこの遺跡では、ここが10世紀前半になるハズなのだが。
それより遡る事は無い。何故なら擦文遺跡のある3層aはそれより上にあるから。
他の遺跡の火山灰には注目して、何故対象遺跡において火山灰層を考慮しないのか?
…え…?
遺跡の下の3層b~4層c迄をすっ飛ばしている。
これが何年位のスパンを持つか?は知らんが、最低10世紀後半を下らねば辻褄が合わない。
SNS上の話では、極近辺の擦文遺跡から珠洲焼が出土しているなら尚更だ。
珠洲焼は12~15世紀に能登方面で作られた物で、稼働期間は産地で特定されており、動かしようがない。
更に
紫波城の須恵器と比較しても意味無し。何故ならその須恵器を真似て擦文土器を作る「可能性」があるし、なにより須恵器は一部出土場所が特定されており、分析すれば良いだけ。
この遺跡、10世紀以降とするのが妥当だと思うが…如何だろうか?
大体、各地層途中は砂,粘土やら泥炭がある。川が数度氾濫している跡だろう。
端からムリ筋。
氾濫,水没を繰り返しているなら、半魚人でもなければ継続的に住めるハズが無い。


さて、遺構,遺物…
擦文住居には、しっかり「竈」がある。
アイノには「竈」文化は無い。

3層包含層だが紡績車がある。
2層には全く人の痕跡は無い。
擦文遺跡が3層最上面なので、後の時代の物ではない。つまり、糸を紡ぐ技術があり、これも近世アイノとは相容れない。

擦文土器で、内面黒色処理…
土師器の影響だろう。

食性…
擦文…
竈では哺乳類:魚=6:4だが、屋外炉では9割魚(但し、検出数が少なく、明確かは不明)
続縄文…哺乳類:魚=1:8…
続縄文ではチョウザメなんかも食べてるので、より魚食性が強いと。
(不明があるので百%にはならない)

更に奇妙とされるのが、栽培型のヒエ。他には(この段階で)余市大川遺跡のみ。縄文型ではない。ここ、擦文初期で既にアワ,ヒエ,キビが揃っている!
その他アオイ科の謎の植物で、北海道に野生種無し…なんだろうか?
続縄文はクルミが多い模様。
いずれ雑食…考えられている様に、蝦夷シカらに変調した食性を、続縄文人や擦文人はしていない。これも近世アイノとは相容れない感じもする。

後、擦文遺跡にして、黒曜石や叩き石,磨き石がある事な奇妙と指摘はしているが、これがこの遺跡の特徴と言えば、これだけを持って続縄文~擦文と近世アイノを繋ぎ合わせるのはムリ筋だろう。



ざっと読んで見てこの通りである。
昨今、筆者のフォロワーさんの何人かは、気付いてきた、中世圧縮のトリックを。
北海道には中世が無いのではなく、「無い様に勘違い」させられているだけ。

まずは、上記の通り、説明節で詳細を記しても、まとめや総括で抜いてしまい、その上で他遺跡の編年指標で時系列を曖昧にする事。

更に、仮に火山灰層があれば、
・苫小牧火山灰層により近いもの
→古い(平安時代)側の出土物に扱う…
・Ta-b層により近いもの
→新しい(江戸初期)側の出土物に扱う…
これで中世は中空になり、そこにアイノ文化開始時点を嵌め込む…
この様な事が散見され、「時系列上の矛盾」を作り出している様だ。


故あって、急遽入手した発掘調査報告書だが、なかなか興味深い。
こんな風に検証していけば、おかしな所はバレそうな物だが、何故かそのまま。
筆者的には不思議でならない。

いずれにして、地層は絶対…
人類は未だ「タイムマシン」は持っていない。



参考文献:
「札幌市文化財調査報告書46 H317遺跡」 札幌市教育委員会 平成7年3月31日

犬も歩けば「古民具」…雫石で見つけた「似た物」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/15/141716
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/15/155334
関連項はこちらになる。

岩手は旧南部藩領のフィールドワーク。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/08/195030
まさか一件で終わりはしない。
大体、一度で三ヶ所は回る。
「雫石歴史民俗資料館」を訪問した。
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1336234757185683456?s=19
詳細はこちらで。
何気に回る時こそ、「犬も歩けば…」なのだ。
ダムに沈む郷土の歴史を保存伝承する目的で作られたとの事。
語るより見て戴くのが早い。

オシラサマ信仰」…
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山形は寒河江の「十八夜観音信仰」同様のようだ。
オシラサマと言う名称は大館と同じ。
前記の「ホデギ棒」の様な御幣信仰の様だ。
延長線に「イナウ」があるのでは?

次は、前記で言う「マダ布」…
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シナノキの樹皮がこれだとは、ピンと来ていなかった。
マダミノは、今迄も紹介してきたが…
これも東北ならあちこちあり、古来から使っているのは言うまでもない。
延長線に「アットゥシ生地」があるのでは?

もう1つ。
漁具…
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雫石には通常の鍛治だけでなく、刀匠迄いたそうだ。
雫石川には鮭らが登り、掛け針による川漁は古来からあった模様。
延長線に「マレブ」があるのでは?


これらの使用起源を追うのは難しいだろう。
が、十八夜観音信仰が、鎌倉~室町辺り迄遡る事を勘案すれば、同様だと考えてもおかしくはない。
で、その頃アイノ文化は完成しているか?
結論は「解らない」…むしろ「否」。
現在の形になるには、江戸期の北前船を待つしかない。
何より漁具は、鍛治がここに居た事で答えは歴然。
カスタムメードで、漁師の要望にこたえられたのだから。

東北には幾らでもある。
アイノ文化の象徴アイテムに似た物が。
そして、歴史は遡り、何よりそれらの職人が居て、文化伝承されてきた。

特別ではない。
全然特別ではないのだ。