ゴールドラッシュとキリシタン11…不意に遭遇したキリシタンの里「南部藩佐比内」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/28/125559

久々の「ゴールドラッシュとキリシタン」シリーズである。
きっかけはこちら…
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1336053854933151744?s=19
たまたまなのだが、花巻の「石鳥谷歴史民俗資料館」を訪れた際、キリシタン伝承を伺ったところ、隣の紫波町キリシタンの里があったと言い、この痕跡が残されると言う。
その場で聞いた話では、最大二万人の金山があり、遊郭らも備えた鉱山町になったと…
そこで急遽訪れてみた訳だ。


石鳥谷歴史民俗資料館」では、「佐比内公民館」のリーフレットをcopy頂き、早速電話確認。
シーズンなら、「佐比内金山隠れ切支丹物語」と言うガイド付きトレッキング案内もやっているが、当然シーズンオフ。
時間も無いので、車で行ける範疇を教えて戴く。
では、痕跡とはどの様なものなのか?

1枚目は、倉の紋で十字架を模す。
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二枚目は、所謂キリシタン墓と言われる。
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確かに不自然に花が掘られる。
この花の位置で十字架を模すのだそうだ。

微妙だと思う方…実はこの地区は、ミサを行った伝承を持つお宅が残されたり、トレッキングでな「クルスの祈り石」と言われる石碑があり、遺物と伝承が合致するガチの隠れキリシタン里。


さてでは、この辺の当時の状況は?
「この年の十一月、佐渡相川金山が衰退したため山師三六人衆の一人である丹波国弥十郎が一〇〇〇人余りの金堀を連れて志波郡朴金山に入った。そこは六十枚平といわれ山小屋二一二〇軒、山師・大工など、一万三〇〇〇人がいたという。その中には多くのキリシタンがいたというが軈て爆発的な人気となり他の八ヶ所にも金山が開発されていた。ちょうど盛岡城下から遠野城下へ達する街道沿いにあり、その事は「祐清私記」にも記されているように地元の人々は大いに迷惑だったとしている。」

「東北のキリシタン殉教地をゆく」高木一雄 聖母の騎士社 2006年9月1日第二版 より引用…

トレッキングでは、僧ヶ沢,洞ヶ沢,朴木の各金山口やミサのお宅、クルスの祈石らを回るようだ。
まぁその段階でも、盛岡や遠野も含め多数のキリシタンが居たようで、探索により捕縛され、転び又は殉教となっていき、他藩と同様である。

まさかいきなりこんな現場に遭遇するとは露も考えず。
なんとか見る事が出来たのも、紹介してくれた「石鳥谷歴史民俗資料館」「佐比内公民館」そして、道を教えてくれたりした地元の方々の協力のお陰。
この場で改めて感謝したい。
ありがとうございました。

ただ、これらは現在も生活が営まれた地域で、民家の脇にあったりする。
細い道や民家脇を通るので礼は必要、生活の邪魔をしてはいけない。
一度、「佐比内公民館」への問い合わせを入れ確認が必要と考える。


さて、地元の方に教えて戴いた伝承…
その方の家の裏山でボヤ発生したそうな。
ヤバいと思い最悪も覚悟した…
だが、何故かそのキリシタン墓から一直線に線を引いたように、家側に一切燃え進まずに火事から逃れたと…
なので、思い出した時には拝むとの事。
どうやら、墓の位置は変わっているようで、たまたまその場所に集められ設置されたと聞いているそうだ。
「関係あるかわからないよ」と笑顔で教えて戴いたが、関係の有無以前に素敵な話だと思った。
ふと思い出し、想いを寄せると言う「マインド」の問題なのだ。

思う…
色々有ろうとも、恨み辛みではない…
たまに思い出し、礼を尽くせば礼を返してくれる…
これが我々の先祖から受け継いだ「マインド」。
宗教だなんだ以前の話なのだ。
大切にしたいものだ。


ほっこりしつつ勉強させて戴きました。

時系列や層別らの重要性…河野廣道博士からの警鐘

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/10/114329
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/10/052507

関連項はこれ。
今までも、大正~昭和初期の学問創成期に出された、「北海道の歴史学」への警鐘を紹介してきた。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/04/192347

直前に「時系列上の矛盾」として述べていたので、この時代にも遺跡,遺物への警鐘を紹介する。
河野廣道博士が、江別古墳群の発掘に関わった時の論説文の一部を引用する。


「封土中よりは厚手縄文土器破片・石斧・冠石その他石器時代住民の遺品が発見されるが、これ等は古墳期住民の遺したものではなく、それ以前の石器時代先住民の遺物であらう。」

「後藤氏(2)は、石斧・石鑿等を墳墓内で発掘し、この古墳を「金属器時代に入つては居るが、未だ石器使用時代を全く脱していないものであることを知るのである」と述べて居るが、同氏の発掘した石器も、古墳を遺した人達よりもより古い時代の石器時代住民税の遺物が混入したかもしれない。」

「これ等古墳群に隣接して、北海道式薄手縄文土器期の初期型に互る各期の、即ち純石器時代後期より金石併用時代に互る長期の竪穴式墳墓群があり、副葬としては北海道式薄手縄文土器の諸型と、無柄石鏃・摩製及び半摩製石斧・日本上代の古墳に見られる様な菅玉その他を出土して居る。又少し離れて数群の竪穴群があり、その内少数の竪穴群は北海道式薄手縄文土器期のもの、即ち金石併用時代のものであるが、他の多くは土師器-擦文土器器即ち金属器時代のものである。附近にチヤシもある。」

「特に注意しなければならないのは、これ等石器時代遺跡や金石併用時代遺跡と、金属器時代の古墳その他の遺跡を、近接して居るからといつて混同したり同一視してはならない事である。」

「高橋勇氏(4)は、本誌二三巻一號に、後藤寿一氏が江別で発見した玉類に関して、金石併用時代曙期及び同初期の竪穴式墳墓から出た玉も、金属期時代の古墳から出た玉も、一様に「アイヌの墓より出た玉」として紹介し、その墓の説明としては古墳のことのみ述べて、竪穴式墳墓のことは一言も述べて居ないが、読者の誤解があるといけないから、ついでに注意して置く。あの高橋氏描図の9から13まで及び15は、金石併用時代のもので、北海道式薄手縄文土器及び無柄石鏃と共に竪穴式墳墓から、1より8までも金石併用時代初期のもので、やはり北海道式薄手縄文土器と共にやゝ小形の竪穴式墳墓から、14・17・18の三個だけが、金属器時代古墳から発見されたものである。」

考古学雑誌第二十四巻第二号 「北海道の古墳様墳墓に就て」 河野廣道 昭和九年二月五日より引用…


河野廣道博士はガッツリ指摘した上で、後藤寿一博士や高橋勇博士の間違いを訂正している。

近くの遺跡とごちゃ混ぜにするな…
時系列で並べなければダメだ…
全部アイヌにしてはいけない…
と。

時系列で並べる重要性や遺跡上の層別らはちゃんとやらねばならぬと警鐘を鳴らしてくれているのだ。
この論説は「江別古墳群」の発掘時の話で
この後には、後藤寿一,曽根原武保両博士の「恵庭古墳群発掘報告」が続く。
そんな時代なのだ。

さて、なら今は?
結局、何も変わっておらず、そのまま一定の仮説に合わせるべく話が進められている。
それがこの辺だろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/21/101118
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/30/194418

なので、こうなのだ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/28/222326

「繋がっていない事をわざわざ書いてあるのに、それに気付かずに個別反証のみばかりしてきた」そのツケ。
元々、一番必要だったのは…
「時系列的指標の設定」、つまり通史として見る視点。

研究者だけではない。
関わる,携わる全ての人が襟を糺すべき。

だから、我々はその指標を「北海道~東北の関連史」に見いだそうとしている。

空白?の約120年…ロシア進出により北方から人が入り得る根拠

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/04/192347
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/11/185110

これらの項で、「江戸期に北方から入って来た人々」を示唆している。
黒船ばかりが着目される幕末情勢だが、こんな事も絡めれば、割とその示唆もご理解戴けると思う。

wikiからの引用。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%AF

「シベリア内陸のレナ川水系のヤクーツクの砦(1632年建設)から太平洋側へロシア人遠征者たちが行くには、川舟でレナ川支流のマヤ川上流を遡ってジュグジュル山脈を越え、オホータ川を下りオホーツクの港に着く経路が一般的な経路であったため、1643年にセミョーン・シェルコヴニコフ(Семёна Шелковникова)率いるコサックの越冬地となった。1649年にはオホーツクに砦が建設され、極東地域で太平洋に面したロシア最初の入植地となった。
1718年にはクジマ・ソコロフ(Кузьма Соколов)がオホーツク海最初のロシア船を建造しカムチャツカ半島へ渡った。1731年頃までにはオホーツクがロシアの太平洋側の第一の港となっていた。歴史上様々な探検家がこの町を通った。
アラスカなどへ渡りベーリング海峡を発見したヴィトゥス・ベーリングの2度の探検航海の拠点となったことで知られている。その当時の町長はポルトガルユダヤ人アントン・デ・ヴィエイラ(ロシア語版)だった。またアラスカからの毛皮や水産物の交易でも栄え、露米会社の拠点ともなった。
しかしペトロパブロフスク・カムチャツキーが極東の中心的な港として栄え始め、19世紀初頭にはオホーツクは極東の商業中心地の座を明け渡した。それでもなおしばらくはシベリア小艦隊(後の太平洋艦隊)の拠点であった。」

wiki 「オホーツク」より引用…

1643年…コサックの越冬地化
1649年…オホーツク砦が建設、入植地化
1731年…港として繁栄。当時の町長はポルトガルユダヤ人。

極東,アラスカへの探検と毛皮交易等で繁栄していた模様。
ユダヤ人…これで反応する方も居る様だが、ここはポルトガルに反応して欲しい。
我が国の情報を最も濃く持っていた国の一つ。
実際、オランダも盛んにウロウロしていた様だが。
こんな感じでロシアは大体1700年頃に、オホーツクへ進出し、拠点を持つに至っていた。


さて、この時の北海道は?
重ねてみよう(笑)

Ta-b火山灰が降灰したのは、1667年。
で、二風谷の状況は冒頭に掲載した通り。
1700年頃…
年代的には、ロシアのオホーツク進出とピタリ。
西廻り航路開拓と北前船就航も、大体この頃と思えばよいかと。


では、その後は?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/22/224121
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/14/185939

最上徳内が北海道入りしたのは、初回が1785年…
菅江真澄が見た有珠善光寺は、三官寺前の降灰した時の姿、これが大体1790年頃。


https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/08/063333

この後に幕府直轄化され、東北諸藩にとって重荷の蝦夷地警護に…
降灰から歴史にガッツリ登場する迄、120年位後期間が空く。
サラッと書いてますが、1800年代のロシアの動向。もはや、サイレントインベージョンの痕跡。

北方では、狩猟を生業にしていたので、縄張りには拘っても、農地と違い土地に縛りつけられる事もない。
ロシアが嫌で逃げた人も居たであろうし、1800年以降なら「意図して入り込んだ者」も居るであろう。
冒頭項の⑦があり得る根拠はこれだ。

それだけか?と問う方も居るだろう。
つか、これだけで充分なのだ。
だって、わざわざ学者さん達は、北方の人々と本道アイノの共通項をガンガン掘り出してくれている。それがそのまま、北方から南下した痕跡となる。
我々が掘り下げる必要なぞ微塵もない。


空白の約120年でどんな風になったのか?これが解明のポイントの一つかも知れない。
大体、北方から南下したのが、何処かの時代一度だけだと言う考えなら、それ自体イカれている。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/19/184154

こんな話も辻褄はあうのだ。


だからこそ、学者さん達は、このロシアの南下の話を絶対に絡めない訳だ。
と、こんな事を書くと、何でもかんでもロシアのせいにしたがる御仁もいるが…
ロシアの影響は、上記の通り、1700年代以降。時系列は崩れない。

だが、この我々の論ならむしろ、1700年代からだからこそ、空白の120年があるからこそ、あり得る…と、思いませんか?

時系列上の矛盾④…二風谷遺跡の包含層遺物、そしてまとめ

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201533

さて、ラストはⅢ層、つまり平安(擦文)期~江戸初期(近代)迄を覆うⅢ層黒色土層の包含層遺物について、とりあえず引用してみよう。

「金属製品は、ほとんどがⅢ層上面(Ta-b火山灰直下)にあり、近世の遺物と思われるが、一部はⅢ層に少し入った状態のものもあり、これについては擦文期の金属製品の可能性が高い。」
「鍋:前略~内耳鉄鍋片である。~中略~8は口縁部の損傷部両端に、折り曲げた小札がついている破片。」
「刀子:前略~全体的に刃物を大切に使用している、印象を得る。」
「ナタ:いわゆる「腰鉈」と呼ばれるもので、ポロモイチャシ跡から出土した2丁と同一の形態である。木材切り出し、加工を行ったものだろう。」
「鎌:30は、ポロモイチャシ跡やⅢH-1からも出土している形態の、直刃鎌である。~中略~擦文期の鎌とする事ができよう。」
「鍬先:この遺跡における農耕を示唆する遺物である。~中略~ⅢH-4でイネ科(アワ?)、ⅢH-10でモロコシ類が検出されている。」
「斧:36は近世~現代に通用の形態で~中略~37は、擦文期の袋状鉄斧である」
「刀:」
「鏃:」
「魚獲具:前略~マレブ~中略~アブ~中略~かえりのついたヤス~後略」
「その他の鉄器:45は2列13穴の小札で、折り曲げられている。」
「垂飾:61~66のコイル状、67~69の渦巻双頭~中略~全体で腰帯様の装飾を構成するものと思われる。樺太沿海州・シベリア方面にその起源となるべき例を見出だせそうである。」

「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61年3月26日 より引用…

鉄器について引用してみた。この他、古銭やガラス玉らが出土している模様。

ここで気になるのはやはり鉈や鍬先だろう。
最上徳内らや幕府直轄時の各藩士の報告らでも、アイノはまともな農耕はやっておらず、やっても畝さえ作らぬ程度。
鍬なぞ必要すら無いレベル。
それを斧どころか鉈や鎌すら持ち、開墾する気満々なのだが。
でアワやモロコシ類が観察される。
これ、擦文期と予測しているが、直接擦文期住居跡から何も無いのだから、確証にはならない。
むしろ、ポロモイチャシ跡の鎌の状況を考えたら、擦文どころか中世でも良いだろう。
考えてもみれば、チャシの空堀を何で掘ったのか?チセの様に貝殻か?それはムリだろう。
先に考察した、柵列跡ら同様とすれば、チャシを築いたであろう2号墓の人々、又はその先祖は農業もやっていた「可能性」はある。
さて、この場合、ポロモイチャシ跡の炉跡の残存骨は、魚が殆ど。魚中心、穀物を農業で作り食べて暮らしていた事になる。
随分、東北の人々に近い。
ユオイチャシとポロモイチャシを「運用」していたであろう人々はそんな食生活をしていたと説明可能。
対して、廃絶後に柵列の柱を引き抜いたであろう人々は、鹿肉を好んで食べる肉食系の食生活をしている。
随分違うのだ。
この辺が、実は2号墓の人々と1号墓の人々は、違う集団なのではないのか?と考える根拠でもある。


次に特徴ある「垂飾」について…
包含層はある程度撹乱されているので、江戸初期の物でも説明がつく。
何より、北海道でそれを作るとしたら鍛冶屋が居なければならないが、この二風谷遺跡には、そんな痕跡は無い。
いずれにしても鍛冶屋の居る場から持ち込まれた物になるので、直接その人々が持つ文化ではない。
「Ⅳ章まとめ」では、ライトコロ遺跡らとの関連を述べているが、前述の通り、文化が違う「先住者」が居るなら、単なる交易品か?北から入ってきた侵入者の痕跡?どちらかとしても説明可能。
これ…ヤバくないですか?
そう、中世に本州に近い「先住者」が居れば、それは北方から、又は、北方の品々を携え侵入してきた人々…これで説明可能。

そう言えば、この時期に確実に大量に流入した人々が記録に残っている。
「鷹侍と金堀衆」…何故これに触れぬのか?甚だ疑問なのだ。


ところで、チャシの性質について、少々同様の時代はどうなのか?考えてみたい。
仕込みである。
以前見た、青森の浪岡御所に近い位置にある「高屋敷遺跡」…

https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1310409896110612480?s=19

ここは11世紀頃(平安(擦文期))に築かれた、所謂「蝦夷館」とそれに連なる町の痕跡の遺跡。
特徴は、土塁空堀のある土豪の館を外れにして、そこから周に町が築かれる構造をしている。
これ、二風谷にの構造に非常によく似ている。
東北の土豪らの城館は、十三湊の「福島城」を始め、「蝦夷館」を補修拡大していき、それが山城化していく事がよくみられる。
これ、里の規模や敵対勢力の有無で、そうならない場合もある。

さて、まとめてみよう。
勿論、素人且つここだけ局部の考察である事を前置きにして、地層や文化面から並べ直してみよう。

1・ Ⅳ層…(暗褐色土)
縄文人~続縄文人
(鉄器無し)

2・ Ⅲ層…(黒色土、撹乱包含層)
①平安(擦文)期
擦文文化人…
(苫小牧火山灰層による)

②中世以降~江戸初期
チャシを築いた2号墓に代表される人々…
(柵列や2号墓の実績、食生活による)

③江戸初期
チャシ廃絶後に住んだ、1号墓に代表される人々…
(②同様の理由による)

④江戸初期
火山灰により荒廃

3・Ⅱ層…(Ta-b火山灰層)
荒廃により最低30年程度は定住せず
(遺物等無しと埋文が判断している)

4・ Ⅰ層…(覆土)
二風谷の所謂「平取アイノ」
(現在の地層)


こうなるのでは?
Ⅲ層②,③の人々が、擦文人と直接血統が繋がるか?は「解らない」。
が、東北の文化変遷や継続して行き来があった実績から考慮すれば、極端に文化や生活に差があるとは考え難い。
何故なら、特異な生活をしているとの記述は「諏訪大明神画詞」のみで、日ノ本,唐人らが、何処にどの様に分布したかなど解らない。
更にはこれだ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/28/194019

仮に、安東vs南部の抗争激化の折りに、Ⅲ層②の人々が移り住んだとしても辻褄はあう訳だ。
この位の時期なら、2号墓&1号墓のタイムラグも、それなりに理由が付くと思えるが。


以上、如何だろうか?
時系列に並べる事は大切だ。
結局、ここに帰結する。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/10/114329

大正~昭和初期には「縄文にアイノを結びつける」為に時系列を無視しそうになったのを、歴史,考古,医学研究の先輩達が研究を持って止めてくれた。
戦後~現在、「近代アイノへ中~近代史へ結びつけよう」と時系列を無視しかけている。
必要なのは「原点回帰」だと考えるが、如何だろうか?
まぁ、真実に近付けば歴史的観光資源を失うなんぞと心配する不届きな御仁も居るだろう。
そんな心配は要らん。
アイノの人々の価値が、その程度で下がる事もない。
その上、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/31/134005
これが手に入る。
「後方後志柵」を探す手段もある。
北海道には、全時代の歴史がある。
それをプレゼンすれば良いのだ。
問題なぞ微塵も無し。


それとも、違う理由があるのか?と問いたいね、我々としては。


参考文献:
「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61年3月26日

時系列上の矛盾③…二風谷の建物編

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/02/184205

続けざまに、ユオイ,ポロモイチャシ跡&二風谷遺跡について掘り下げてみる。
ポロモイチャシと二風谷遺跡の建物について。


「A壕とB壕との間には、1.6mほどの橋状に残る部分があり、その土層断面の観察から、A壕の掘削がB壕のそれより若干先行することが判明した。またA壕の内部には土塁がめぐらされ、土塁の上には柵列とみられる15個の穴が確認されている。」

「A郭・B郭には、それぞれ建物跡が確認されている。A郭の建物は、コの字形に盛土がめぐる7.8m×5.6mの主要部分に、3.6m×2.2mの張り出し部をもつものである。主要部の中央には炉跡があり、南西側を入口部分としている。また、建物跡主要部をめぐる焼土の広がり、壁材の一部とみられる炭化材の出土状況からみて、この建物跡は焼け落ちたものと推定される。」

「これに対しB郭の建物跡は、A郭の盛土に相当する積み重ねられた礫がコの字形にめぐらされている。規模は6.2m×5.9mでほぼ正方形に近い建物跡である。南西側に入口をもつものの、A郭建物跡にみられたような中央の炉跡とみられるものがこの建物跡にはなく、A郭・B郭の性格・機能がそれぞれ分かれていたのであろうか。また、B郭では、建物跡の北東側に隣接して足高倉庫とみられる4個の柱跡を検出している。」

「このチャシ跡は、Ta-b火山灰に被覆されており、その降灰年代1667(寛文7)年(石川俊夫他)をさほど遡らないとみられる。またA郭にはチャシに先行する建物跡(ⅢH-13)が想定されており、こと段丘突端部が早くから居住空間として利用されていたことがわかる。」

「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61年3月26日 より引用…

チャシと建物の特徴である。
①壕…
土塁途中に苫小牧火山灰層が散見と。
つまり中世以降に建造されたもの。1663,1667共に覆うので、降灰で廃絶と推定。915~1663年の間に作られているのは揺るぎない。
②建物…
穴にはⅢ層黒色土が入る。
つまり、降灰より先に各柱は引き抜かれて埋められていた事になる。
確認した限り、穴の中に火山灰層は混入しない。
と、A郭の建物は火災跡ありと見られる。
③出土遺物…
刀子類・内耳鉄鍋・鎌・鉈・ノミや小札等の金属器、A郭建物からは絵唐津大皿と鹿角の銛ら。
ほぼ、遺跡のⅢ層上にあり、火山灰を被る事が多い。


これから言うとユオイチャシ同様で、廃絶は1663年より前と言う事になると思うが…そんな推定はしていない様だ。
…何故?
勿論、「チャシの使用者」も炉に魚らの骨が残る為焼いている様だが、炉跡は近くに三ヵ所あるので、主だった食料を焼いた跡は廃絶後じゃないのか?
それなら、先のユオイチャシ跡での柵列跡の考察とも合致する。
火災の跡については、その後ほぼ触れていない。
仮に…
戦いで館を焼かれ、防御柵列を抜いた…なら、その後に入った集団の生活痕で合理的に説明可能。
で、この場合は、やはり2号墓の集団が館を築き、1号墓の集団はそれを落としたとするのがスッキリする。

で、二風谷遺跡の11の建物跡…
いや、ここでやっと嘘発見。
最も古いと報告をしている「ⅢH-9」について、これ、一番最後まで使われていたと考えられる。
根拠は、この「ⅢH-9」のNo.2,3の穴に、火山灰入ってる。
つまり、降灰した段階で、まだ穴が塞がっていない証左。
ユオイチャシ跡の獣骨片は「柵列柱を抜いた時に撹乱したのでは?」とまとめの章で発見したが、さすがにここはそんな詭弁はつかえなかったか、本文中に記さず、「図62」のみに図示している。
で、実はこの「ⅢH-9」住居跡のド真ん中に「1号墓」が作られているのだ。
その「1号墓」の墓標穴には、火山灰が入っている。
つまりタイムラグが殆ど無い。

これは少々酷い。
筆者の様な素人でも、パズル同様に同じ地層を探していけば、ある程度積層された順番で時系列に並べる事はできる。
専門家がこんな重要な情報を見逃すハズは無い。そうでなくとも、ⅢH-9は二風谷遺跡内では最も古いと何度も書いているのだから。

火山灰であるⅡ層は、遺跡遺物は無いとされ、全て先行除去されている。
ここが時代背景の境界線だ。
有珠山の東側であるが故の特徴。

ここでSNS上での話となった。
素朴且つ単純な疑問。
ハッキリ解る程降灰して、植物は枯れ、動物は逃げる。
狩猟を生業としているのに、狩場にならぬ山に留まれるのか?

https://twitter.com/F34fC9F4NEMW5e2/status/1334387368481017856?s=19

こんな意見を戴いた。
縄文期同様とするなら…
この発掘結果を鑑みれば、二風谷には、短くて1700年頃でなければ人が住めない。
とすれば、二風谷は寛文九年蝦夷乱の時に、人が居住する訳がない。
仮に居たとすれば、食料は持参の金堀位か?。
勿論、降灰層上には獣骨片ない様である。
なら、二風谷アイノは、何時何処からここに入ったのか?
先住民なんかとは言えない。
逃げた人々が居るハズなのだ。

実はこの報告書、三名の方が手分けして書かれており、それぞれが文責を持つ。
相対的に、時代背景を加味せず、道内の他の遺跡との関係のみに終始する方がいる。
何故か、古書や他の歴史書との関連を加味して、ここに居たのが誰なのか?こんな視点での検討しない傾向が見える。
ここに、大きな違和感を覚える。

ただ、この三名の内、一人は客観的検知で文章を書いている方がいる事は付記しておく。
この方の文章は違和感を感じない。

手口…見えてきたと思う。

時系列上の矛盾②…二風谷のお墓編

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/30/161755

引き続き、ユオイ・ポロモイ・二風谷遺跡について見てみよう。
象徴的な物として語られる「お墓」について、どう描かれているだろうか?
敢えて、一番最初に書いておく。
二基の墓は「近世アイヌ墓」として表題されている。


まずはⅣ章「二風谷遺跡」の発掘時での記載より…

「本遺跡では、2基の近世墓が確認された。2基は、ともにユオイ・ポロモイ両チャシ跡間の河岸段丘上に存在し、1号墓がそのほぼ中央に、2号墓がユオイチャシ跡に近いユオイ沢に面する段丘縁辺部にそれぞれ位置する。両者の間には、58mほどの距離がある。」
「これらは、外観上、周溝と盛土をもつ同形態のものであり、規模も長軸4.3m前後でさほど大きな違いはない。ただし、立地の面で、2号墓が竪穴(ⅢH-7)のくぼみを利用していることが、注目される。長軸方向は両者とも、沙流川の上流方向つまり北東方向を示している。墓墳形態は両者ともに長台形を呈するが、2号墓には、意識された副葬空間が頭側にあり、副葬品がそこに集中している。それに対し、1号墓では、副葬品を特定の空間に固めて置くということはない。副葬品の内容は、両者とも太刀・山刀・中柄・漆器と、基本的に組合せは同じである。」
「両者の年代は、本遺跡自体がTa-b火山灰で被覆されており、下限をTa-b火山灰の降灰年代1667年とすることができる。しかし、上限については、それを決定できる要素はない。ただ、墓標穴の覆土が、1号墓でTa-b火山灰、2号墓で火山灰を含まない茶褐色土となっていることから、1号墓は1667年をさほど遡らないとみられ、2号墓がそれに先行する可能性が考えられる。」

「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61年3月26日 より引用…

両者共に、人骨や中柄(弓矢の鏃と柄を繋ぐ部分でシカ骨や鯨製)は腐食が進むが、新しいであろう1号墓の方が残留部分は多いとしている。
札幌医科大学の百々幸雄助教授(当時)の取り上げ時の確認では、熟年~壮年男子の模様。
特に副葬で注目したいのが太刀。
1号墓…蝦夷太刀ではと思われる小太刀
(鍔形態は室町?)
2号墓…南北朝頃の拵えを持つガチの「太刀」
同じ様な構成だが、副葬が細かいところで微妙に違う。
墳墓としての最大の違いは、時系列上、2号墓→1号墓となっており、2号墓も1号墓も何故か墓標が引き抜かれたと見られる。
だが、2号墓は火山灰が降る前に既に引き抜かれ、1号墓は降灰後に引き抜かれた点。
2号墓の墓標穴に火山灰が含まれないのがその根拠。これは覆し様がない。
とは言うものの…
誰が何故わざわざ墓標を引っこ抜くのだ?と考えてしまう。
確証は無いが…
仮に2号墓と1号墓で埋葬者が、元々属する集団が違い土地の利用方法らに違いがあるのであれば、それなりに説明は可能だ。
この場合、先のユオイチャシの柵列跡の内容を鑑みれば、チャシを運用したのは2号墓(古い)の集団、廃絶後に獣骨片をばら蒔いたのは、より新しく且つ降灰直前にそこに居た1号墓の集団となる。
この場合、2号墓や柵列の柱を引き抜いたのは1号墓の集団と考えるのが妥当であろう。
勿論、これらは筆者が見た印象であり、勝手な推定に過ぎないが、墓であろう事が解っていて且つそれを引き抜くのなら、全て繋がってるとは思えない。

そう言えば、シャクシャインの子孫は加賀の庄太夫に逃がされ、平取アイノの祖になったと主張する方がいた。
とすると、この話に出る「シャクシャインの子孫達」は、この2号墓,1号墓の人々とも、またまた別集団になる。
何故なら、寛文九年蝦夷乱が拡大するのは、有珠山らが噴火しTa-b火山灰層が降り注いだ後となっているからだ。
全て違う事になる。
因みに、先述の1号墓の漆器は「秀衡椀」で安土桃山様式と推定されている。
降灰直前にその場に居たとしたら、概略ではあるが、時代背景は合ってくるのだろう。
さて、降灰状況では、1号墓は江戸初期であることは揺るぎない。2号墓は太刀様式だけならそこを下限として最大300年程度遡り得る。2号墓は中世墓の「可能性」があるのでは?


さてでは、これらが、まとめ編ではどう書かれているか?
こちらも「近世アイヌ墓」として表題されている。

「今回の発掘で、2基の近世アイヌ墓が確認された。いずれも、周溝・盛土・墓標を持ち、墓壙も同じ長台形を呈するものであり、頭位方向も同じ北東方向、副葬品も基本的に同じものをもっている。そして、この2基の墓は、ともにTa-b火山灰に被覆されており、その下限を1667年とすることができる。このように、降下火山灰を指標として、下限を18世紀中葉以前に確定できる近世アイヌ墓の調査例は年々増加してきており、千歳市ウクマサイ遺跡B地点・同N地点・千歳市末広遺跡・瀬棚町南川2遺跡などがあげられる。」
「二風谷例は、墓標の位置に多少の違いはあるものの、ともに周溝・盛土を持つ形態である。田村俊之氏分類のⅡc型(田村1983)にあたる。類例は、ウクマサイ遺跡B地点の3号アイヌ墓、同N地点のAG-2と、末広遺跡のIP-1・2・3・14の6例がある。これらの地域はともに河野広道氏が墓標よりみたサルンクルの地域(河野1925)にあたり、また、田村氏が20世紀前葉の沙流アイヌの葬制(久保寺逸彦1956)との比較で、千歳川流域のそれに共通性を見い出だしていることに、また一つ、周溝と盛土を持つ墳墓形態という共通要素が加わった事になる。(注1)」
「周溝・盛土を持つ墳墓形態という共通性のある6例と、二風谷遺跡の2つの墓をについて、その立地をみるとき、二風谷の2号墓のみが竪穴のくぼみに立地している。他の例はすべて河岸段丘上の平坦面につくられている。この立地の点から、他の形態の墓が混在する末広遺跡(昭和53~55年度調査区域)(注2)をみてみたい。末広の場合、図122(注3)のとおり、墓はすべて撮文基のくぼみを外して、平坦部および段丘縁辺の傾斜地に立地することが認められる。」
「このことから、本遺跡2号墓は特異な例といえる。」
「2号墓の特異性は時間的要素に起因するものと考えたい。」

「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61年3月26日 より引用…

この後は、頭位とアイノ的要素との検討となり、刀剣等副葬についての記載はない。
終始これらを近世墓又はアイヌ墓として扱い、近世、と言うより近代アイノとの繋ぎへの検討としている。
まぁ元々の歴史感のスタートがこれである。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/21/101118

北海道の歴史=アイノの歴史…
こうなるであろう。
気が付いたであろうか?
1667年の降灰で時代特定可能としながら、この章の説明では、下限18世紀中葉となるの墓との関連性を見ている。
これは記載ミスでない。引用通り。
歴史的変遷より現代に近い方近い方へ繋ぐ気満々ではないか。
そうなのだ。
似た傾向を寄せ集めねば、近世と繋げられる確証すらない。故にそうせざる終えない。

だが、この報告書の検討内容だと、この遺跡には、中世の痕跡が丸で無くなってしまう事になるのだが…良いのか?
擦文期から江戸初期、遡り安土桃山位迄が宙に飛ぶ事になれば、如何に現代,近世と繋がろうとも、その時代に「移住した」人々だと言うことを否定出来なくなってくる。
なら、ここで爆弾投下…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/28/194019

南部配下の部隊なのではないのか?
特に2号墓の埋葬者は、南部配下として仮説しても成り立つのだ。
割と時代背景がピタリくる。
当然、この場合、南部と二風谷とは行き来があり、渡った者達…つまり先住民ではない。
これを否定する材料はあるのだろうか?

たった一冊の発掘調査報告書だが、場所が場所故に面白い。
元々、古書上、この地近くに居たのは、沙流のウトマサでは?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/22/095523

何故その辺との関連性を追わぬのかが謎。
勿論、その場合はシャクシャインとは敵対勢力の勢力圏になるが。
降灰の状況を鑑みれば、ウトマサらとコンパチになる。
それでは…ダメなのか?


この件、もう少しだけ続けてみようと思う。
これだから、歴史は面白い。



参考文献:
「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61年3月26日

時系列上の矛盾…二風谷の発掘調査報告書を確認してみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/28/193339

関連項はこれか。
我々がホットスポットと考える「余市」。
だが、そこだけではなく、やはり本命にも斬り込まねばなるまい。
と、言う訳で…いきなり「ド本命」、二風谷の遺跡発掘調査報告書を入手した。
二風谷こそ「平取アイノ」が居たとされる付近。
「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」…筆者はこれを古書で手に入れた。
まずは前提、どんな遺跡なのか?

この遺跡は二風谷小学校近く。
沙流川側に「ポロモイチャシ」があり、南のユオイ沢側の「ユオイチャシ」とで「二風谷遺跡」を挟む配置になっている。
生活区であろう「二風谷遺跡」との間にそれぞれ空堀が掘られるが、同じ舌状台帳上に並んだ構造となっている。

地層的には…
Ⅰ層…表土
Ⅱ層…有珠山,樽前山らの火山灰
Ⅲ層…擦文~中世~近世
Ⅳ層…縄文の遺跡遺物
となり、Ⅲ層は、水田作りの為に撹乱層になっている。
そしてⅢ層下部には、苫小牧火山灰層が入る。これは、西暦900年代の大規模火山噴火の火山灰で、
一つが915年の「十和田大噴火」
一つが946年の「白頭山大噴火」…
約5cm以下の火山灰層がその年代の前後を分ける境界線となる。この片は秋田ほ地層に十和田火山灰層があるのに近い。
ざっと読んだり、付属事項をするとこの様な特徴を持つとの事。

概略としては…
・全体としては、水田造成により、中央部が破壊と撹乱されてはいる。生活痕としてあちこちに獣骨片が確認される。
・「ユオイチャシ」としては、南東、つまり陸側には二重の柵跡が作られており、侵入者を防ぐ構造。染付椀や毛抜型太刀,ガラス玉らが出土。空堀はW型。
・「ポロモイチャシ」としては、二連の弧状空堀とそれぞれに建物跡があり、チャシ建築に先行される思われる住居跡1。鉄鍋や漆器片、刀,刀子,鎌,ノミ,鉈,小札ら鉄器や錘石ら石器が出土。
二風谷遺跡としては、撹乱されたⅢ層では擦文土器片、擦文の竪穴住居2棟、中~近世の打込み柱建物跡11棟、周溝墓2基や伴う金属器,漆器,土器らが。更にⅣ層から縄文~続縄文の遺構遺物が多数検出されている。
それぞれ非常に貴重なものであろう。


さて、筆者が時系列上で「あれ?」と思った事を二点上げてみたい。

一点目…
「ⅢH-7(図60、図版46) この住居跡は竪穴住居跡である。ユオイチャシ跡の外壕から10m距離をおいた、ユオイの沢に面する河岸段丘の縁辺部に位置する。」
「この住居跡のくぼみを利用して2号墓が作られており、床面の一部をこわされている。」
「この住居跡からまったく遺物が伴出しておらず、その時期を確定することは困難であるが、2号墓東側の覆土上部(Ⅲ層下位)に苫小牧火山灰と見られる白色火山灰が薄く堆積していることから、10世紀以前のものとみられる。」

「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」 財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61年3月26日 より引用…

Ⅳ章ユオイチャシ跡の記載の記載である。
この竪穴住居には遺物は無かったが、苫小牧火山灰層が覆土にあり、10世紀より前であろう事を指摘している。
だが…

「ⅢH-7・12は竪穴状の建物跡である。」
「ⅢH-7は、その埋まる過程で2号墓が占地しているため、それよりは古いことが認識できる。2号墓は埋まり方や副葬品等から、二風谷遺跡の近世遺構の中では最も古い時期のものと考えられ、そうなるとⅢH-7は、中世段階の竪穴、あるいは擦文終末期の所産と言えるかも知れない。」
「遺物が出土していないため断定できないが、柱が打込み柱らしいことは確かである。これら竪穴状の建物が平地の建物への移行形態であるかどうかは、今後の課題である。」

「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」 財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61年3月26日 より引用…

これが、Ⅶ章まとめでの記載。
おいおい…まとめの章で苫小牧火山灰層を無視するなと言いたい。
10世紀なら、まだ秋田城は機能停止直前、在地豪族が台頭してきた辺り。
擦文文化人はまだ遺跡を絶賛拡大中で、オホーツク文化を同化させている最中。
まとめの章で、何故いきなり時代を繰り下げるのか?。
素人だって火山灰層前後で年代特定出来る位物理的に理解出来るわ。


二点目…

「昭和60年度に残された、ユオイチャシ跡の東側縁辺部における調査区からは、ほぼその調査区の全域に及ぶ、柵列跡が検出された。ここは、水田造成に際しても削平を免れ、小高く残された狭長な地区だが、途中、M-8~9区8m程の部分は、ユオイ沢に堰が設けられ、水田灌漑用の溜池がつくられた際、土砂が削られ、重機の通路にされて破壊されていた。」
「柵列付近では、一帯の第Ⅱ層Ta-b火山灰を除去し、第Ⅲ層真黒色の上面を出した段階で、シカを主体とする獣骨片の集中的な分布が注意された。」
アイヌ民家(チセ)の建設においては、ホタテやホッキの貝殻を利用して柱穴を掘ったと言われるが(萱野1976)、柵列の柱穴もそれと同様に、予め掘り込んだ穴に柱を埋けるという方法がとられたものと考える。」
「獣骨の分布は明らかに柵列跡に集中して重なっており、この一致は単なる偶然とは思われない。~中略~他とはやや異なった特殊性が認められ、柵列の存在と無縁には説明する事が困難と思われた。」
「柵列付近では、解体ばかりでなく、骨角器作製へ向けての第一次的な加工作業も、実施された事が窺われる。」

「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61年3月26日 より引用…

途中途中には柵列跡の詳細が書かれている。
さて、何故にホタテやホッキで柱穴を掘ったと?
先述通り、続いている二風谷遺跡では鉄の鍬先や鎌,ノミ,斧も出土しているのだが。
これらは、撹乱されたⅢ層包含層の遺物として後に説明してはいる。チャシ建築に使用した「可能性」を指摘せず、そこにいくか?
実はここで決定的なのは、「重要な事」に触れていない事だと考える。
柵列跡の表面付近に獣骨片は散乱していた。
柵列の穴の数は64検出。
で、この穴の内の34には、穴の中に獣骨片が入り込んでいる。
この現象を起こすには、穴から柵の柱を引き抜いた後に獣骨片をばら蒔かなければならないと言う事。
つまり、時系列的には、柵列廃絶後に獣骨を廃棄した事になる。現に本文では触れてはいないが、Ⅱ層火山灰が入り込んだ穴も幾つかあり、それは図20らに記載されている。
空洞になった後、又は空洞上面に薄く黒色土が乗った段階で獣骨片をばら蒔き、その後火山灰が降らなければこの状態は再現不能だろう。
柱がまだ有ったのなら獣骨片が穴の中に入り込むハズがない。つまり、柵列と獣骨片には関係があろうハズがない。
如何だろうか?
余程、シカ送りとくっつけたいんだろな。
事実であろう「現象」から導きだせる事は…
ユオイチャシ廃絶→
シカを好んで食べる人々が生活した→
有珠山噴火ら火山活動…
こんな順番になる。
つまり、チャシを作った人々と獣を食べた人々が同一とは限らない…と言う事だ。
何せチャシの廃絶が先なのだから。


これだから、筆者は著書ではなく、発掘調査報告書を読む事にしている。
まとめ「だけ」読んだり、何らかの著書「だけ」ではこんな事は全く触れず、柵列と獣骨片は関係あるものと断定して書かれる「可能性」があるからだ。
筆者は疑り深い。わざわざ図書館行ったり、古書で「発掘調査報告書」を買うにはそれなりの理由があるのです。
現場に行く、又は現場の状況を知る事は大事なのですよ。


敢えて象徴的な引用を付記しておこう。
「Ⅲ層、特に中近世の遺構・遺物では、集落をなすと思われる建物跡や、近世アイヌ墓、多種多様の金属製品・骨角器・漆器がこの遺跡を代表するものである。当遺跡は、ユオイ・ポロモイの両チャシとは有機的な関係をもつ。その意においてチャシとその周辺を同時に調査し得たことは、大きな成果である。チャシと二風谷遺跡の遺構・遺物をどのように編年し、歴史を復元構築して、東北アジアの中近世史の中に位置付けるかは、報告の重大な課題であった。今回は、ほんのさわりだけの報告となったが、それだけ多くの問題を含んでいるということであり、今後も検討を続けなければならない。Ⅳ層の遺物も、縄文時代の全期を網羅するという、重要かつ貴重な資料であることは、一点の疑いもない。これらについても、今後の検討が必要不可欠である。」

「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61年3月26日 より引用…

概ね同意ではあるが、東北アジアの話よりまずは北海道史をどうにかしては如何か?
撹乱された状態で、Ⅲ層遺物の時系列的配列が出来ましたか?
何より、上記二点だけでも、時系列配置にミスがあるのでは?
そんなにアイノとくっつけたいのか?と問いたい。
大体、出土遺物に完全にアイノ文化を示す物が…あるのか?
資料館展示でもたまに聞く。時代背景を無視表示しない展示があると。
これが手口の一つ。

つまり…
「道民は歴史なぞ興味なく、調べも指摘もしないから大丈夫」こんな前提がなければ、ここまでは出来ないと我々には見えますが…バカにされてますよ、多分。


参考文献:
「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61年3月26日