生きていた証、続報27…室蘭市史に記された、北海道の駅逓制度の始まりは江戸初期

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/26/203315
さてこれを前項として…馬である。
たまたま、関係無い内容を学ぼうと「室蘭市史」を借りたのだが…
室蘭市史」は五巻編成で、1,2が歴史、3が教育史や文化,産業ら、4,5が資料編。
たまたま借りた3巻に「陸運」についての記載があった。
では、ここから引用してみよう。
「第一節 人馬継立・駅逓 一、明治維新前」の冒頭から…


「元禄四年(一六九一)、松前藩十代矩広が、町奉行に対して「私領分(注・藩士への給地)百姓伝馬宿次無ニ遅々-様可ニ申付-候事」と通達した。つまり人馬継立はおくれるのとのないよう急いて申し付けるべきである、というのである。
この当時、すでに人馬継立のあったことが知れる。賃銭については、時代が大分下るのだが、天明八年(一七八八)の「巡見使応答書」によると、本馬一頭の駄賃が最短距離の四里二十町で百六十四文、最長の二十里十七町で七百三十文、また軽尻は本馬の三分のニ、さらに人足は本馬の半分(荷物は五貫目まで)」となっている。」

「旅行者に対する人馬継立や宿泊は会所や通行屋が行ったので、ここを中心に交通が開けていった。ことに外国船のひんぱんな往来を機会に、幕府は北方警備の重要性と認識を深め、寛政十年以前(一七九九)八月東蝦夷地を幕府の直轄におくとともに様似山道(様似~幌泉間)や、猿留山道(幌泉~ビタタヌンケ間)を開削した。なお、幕領になる前から松前藩に命じて礼文華山道の開削にあたらせるなど、道路を整備して早走や早馬を通したり、さらに官船を備えるなどして、蝦夷地での陸海交通の便をはかっていた。絵柄場所も同時に幕領となり、室蘭(現崎守町)~チリベツ間の道路が修築され、室蘭村に通行屋を設け、番人をおいて駅通を取扱った。」

室蘭市史 第三巻」 室蘭市史編さん委員会 平成元年三月二十五日 より引用…


註釈として…
本馬…
人が一人と荷物左右1つ毎。
軽尻…
人一人のみ(五貫目迄の手荷物OK)
だそうで。

宿駅から宿駅迄の馬の往来は1691年以前からあり、松前矩広公はそれを全知行地へ早々に拡大するように通達したと言う事に。
江戸初期には既にそれが通達され、幕府直轄時に、更に拡充が図られたと。
だから北海道では、江戸初期から馬は利用されていた模様。

そう巷で言われる様な、幕府直轄時でも幕末でも、ましてや開拓使が連れてきたような最近の話ではない と言う事になる。
最短の百六十四文は、現在のお金5~6千円位、これで一人分。


改めて前項を貼る。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/26/203315
前述の松前公からの通達は、Ta-b火山灰層(1667年降灰)とTa-a火山灰層(1739年降灰)の間になる。
ユカンボシC15遺跡の蹄跡はTa-a降灰直前と発掘調査報告書ではあったが、近辺に検出される0黒土層の存在と、松前公の通達を重ね合わせれば、このTa-a~Ta-bの間で付けられた物と、推定するのは十分に可能となる訳だ。


敢えて…
冷静に考えて欲しい。
はっきりした時期は不明だが、江戸初期から松前藩の「場所制」は始まる。
陸海交通がまともでない中、そんな事が可能な訳は無いのだ。
米が採れぬ松前藩にとって、この各知行地からの上がりを「近江商人」に流さねば干上がるのだから。
極当然に道路インフラ整備はやらざる負えない。
何もやらずに、財政が成立するのか?

と、言う事。


参考文献:
室蘭市史 第三巻」 室蘭市史編さん委員会 平成元年三月二十五日

時系列上の矛盾…江戸期のフィールドワーカー「林子平」が描いた蝦夷衆の容姿、船、そして地図の矛盾『追記あり‼️−2』

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/20/164436
この辺が関連項になる。
実は筆者は先日、「蝦夷國全圖」を見た。
写本者不明だが、原本を書き世に出したのは「林子平」である。
これには「クナシリ嶋」や「カラフト嶋」らの記載があり、興味を持った。
林子平と言えば、以前に紹介したこれ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/16/193257
この際と思い、大元となる「三国通覧図説」を見てみる事とした。
前項に蝦夷衆の出で立ちがあったので、まずは林子平が描く蝦夷衆の装いを引用してみよう。
本文と言うより、図解の部分である。
※追加−2
図を追加する。


「此図ハ蝦夷ノ部長ナドにテ上品ノ姿也
男ノ惣称ヲ、ツカイト云、女ノ惣称ヲ、メノコシト云
夫ヲホクト云、妻ヲマチト云
此図ハ蝦夷人、唐山(筆者註:唐山でカラ)ノ服ヲ着て、莫斯哥未亜(筆者註:ムスカウビヤ、モスクワ)ノ被リ物ヲ被リ、日本ノ太刀ヲ帯ル躰也」


「此女夷ハ上品ノ姿也
女は皆面ニ草花或ハ破格子ナドヲ黥ニスルム、唇ヲバ薄ク黥シテ青色ニスルナリ
此衣服ノ織物モ自国ノ物ニアラズ、唐山䓁ノ織物也
帯ハヒツコキニテ前ニテ結ブム、下品ハ藤縄䓁ヲ用」


「中品ノ女夷、大概此等ノ姿也
蝦夷は男女共ニ眉毛、一文字ニ生ツヅク也、其外、惣身毛多シ
上下トナク男女皆、徒足ニテ霜雪岩石ヲ踏テ少モ痛ムてナシ男夷、山ニ入テ獣ヲ狩モ皆徒足也」


「中品ノ男夷、大概䓁ノ姿也
蝦夷人、日本ノ古着ヲ服シ鹿ノ皮ヲ腹巻ニシタル躰也ム」


「下品ノ夷人、獣皮ヲ着タル姿也、被リタル物は本邦ノ雪帽子ヲ用ヒ自国ニテも制スルム
中下品ノ者共ノ帯ル、脇差ヲ、タシロ或ハマキリト云、皆本邦ヨリ渡スム、出刃包丁ノ類ニシテ悉酒田打也」


「下品の女夷、大概此䓁ノ姿也
此衣服ノ地ヲアツシト云、此物バカリ自国ニテ制スルム
藤ノ如キ蔓草ノ皮ヲ以テ織ト云リ精粗品々アリ」


「アツシ
都テ衣服ヲ、アツシ、亦ハ、ジツトクト称ス
此服ハ男夷、晴ノ時服ス
皆日本ノ古着ニシテ純子、穤珍ナドノ單物ム
模様ハ紺の木綿ヲ様々ニ切テ縫付ルム、女夷ノ服ハ紋様禁制也
袖縁ハ木綿ム
長ハ、對丈ニスルム
左マエニ合スルム」
「アツシ 此織物バカリ自国ニテ制スル也」


「男夷ノ衣服ム
是即、唐山ノ物ニシテ、満州、カラフトヲ経テ蝦夷ニ来る也、世ニ蝦夷錦ト云モノ即是也
袖口ヲ四五寸折返シテ着ルム、是ヲ馬脚ト云
是即韃靼ノ風ニシテ今ノ唐山モ皆此制ム」


「女夷ノ衣服
男服ニ似テ袖ニ馬脚ノ折反シナシ
是亦唐山ノ物也」

「北方未公開古文書集成 第三巻」寺澤/和田/黒田 「三国通覧図説」林子平 昭和五十三年七月 より引用…


勿論、「蝦夷國全圖」は、図解部分冒頭に記載される。
オリジナルはこれになる。
以前紹介した通り、「江戸期のマキリは酒田製」…by林子平

さて、ポイントを…

主に上品(恐らく富裕層)の人々は男女共、
唐物の服を着て…
ロシアの被り物を被り…
日本刀を差す…
正直に言えば「節操が無い」。
SNS上の意見では、文化の「独自性が全く見当たらない」と、確かに…

刺青の話は良く出るが、どうやら口周りだけでなく、頬らに「草花や破れ格子」の刺青があったと言う。
確かに、図解でも花の刺青が見える。
全ての女性…幕府から止める様言われる訳だ。
また、男女共に、眉毛は左右くっついて「一文字」。

全員皆素足。
霜だろうが雪だろうが岩だろうが関係なし。あれ?たまにある下駄やらの遺物と整合性が無い…

中級位の人々から、服は本州の古着&毛皮になり、貧困層でアットゥシ生地の着物や毛皮となってゆく。
アットゥシは服の名称ではない。
生地の名称だと言う。
まして刺繍するでなく、藍の木綿のパッチワーク…これも後に語られるアットゥシと違う。
ましてや女性の服は模様を入れる事を禁じている。
辻褄が合わないのだ。

蝦夷錦も上流階級のみ、上記①~四の通り上下階級差あり男尊女卑ありの差別社会と言わざる終えない。

随分様子が違う感。
まぁ「時代変遷」もあるだろうが。
何せ…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/11/143552
「この時点での公式見解⑥…幕府の帰「俗」方針であり、明治政府に非ず」…
こんな風に蝦夷衆の秩序がひっくり返っていく。
貧困層と富裕層の逆転はあり。


ところで、もう1つ紹介しよう。
シーパワーの要、「船」である。

蝦夷ノ舟、多ク丸木船ム、大木ヲ鐫テ制ス、又板縄結ニシテ造ルアリ二人乗ニモ、三人乗りニモ」

「北方未公開古文書集成 第三巻」寺澤/和田/黒田 「三国通覧図説」林子平 昭和五十三年七月 より引用…

あれ?
アヨロでは「和船」が…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/18/060108
「時系列上の矛盾…白老の蝦夷の人々が逃げる前の姿の一端」…
これも矛盾。
まぁ、地域柄もあるか…
とは言うものの、現実の出土品との違いは否めず。


さて…
この「三国通覧図説」が書かれたのは、天明五(1786)年。
近藤重蔵蝦夷探索の任に着くのが寛政十(1798)年の様なので、林子平の地図が先になる。
勿論、伊能忠敬間宮林蔵が測量したのは更に時代を下る。
故に北海道はかなりひしゃげている。
確か林子平が北海道中を歩き回ったと言う話は無いかと思ったが…
とすれば、この地図のオリジナルを作ったのは誰?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/26/174810
「「弾左衛門」…蝦夷地を測量し、近藤重蔵に地図を渡したとされる人物」…
こんな話は調べたが。

いずれにしても、これが林子平が描いた「蝦夷衆の姿」の一端である。


追記…
ご指摘?があったから記載しよう。
上記文面に「アイヌ」などとは、一言も使用していない。
これは「林子平が描いた蝦夷衆の姿」であり、「アイヌの姿」ではない。
仮にそれを同じだと言うなら、考古学、文献史学らでの一致が必要。
それは未だに取れてはいない。
だから我々改めて掘り下げている。
それら一致なく、これを「アイヌの姿」だと断定するなら、それこそが「差別主義」なのだ。
それが解らぬ方が居るのは認識している。

敢えて書く…
なら、自らの手で「一次資料を持って一致すると立証」すれば良いだけの事だ。
我々の様に…

※追加−2
上,中,下階級の男女別それぞれの画と、服そのものの画を追加する。


参考文献:
「北方未公開古文書集成 第三巻」寺澤/和田/黒田 「三国通覧図説」林子平 昭和五十三年七月

時系列上の矛盾…「斎串,祭祀場」との関連性を見る為、能代「樋口遺跡」を確認してみる

https://blog.hatena.ne.jp/tekkenoyaji/tekkenoyaji.hatenablog.com/edit?entry=26006613697116840
前項で「イクパスィ」とされた物が、「斎串」と非常に似ており且つ樹種が本州か持ち込まれた「ヒバ」「スギ」だと言う事を述べた。
なら、本州側の秋田の「斎串」らも当然確認せねばなるまい。
秋田で見つかっている「祭祀場跡」は5ヶ所。

能代営…能代の樋口
秋田郡衙…五城目の中谷地
秋田城…秋田の秋田城内
払田柵…美郷の厨川
由利柵…由利本荘の上谷地

発見された城柵又は比定地の近辺だろうと推定されている。
せっかくなので、資料館らの展示を見た事がない能代の遺跡で確認してみる事にした。
と、言う訳で能代の「樋口遺跡」の発掘調査報告書を引用してみよう。


「調査で検出された遺構は、捨て場3、井戸跡1、樋跡1土坑5、抗跡3、柱穴様ピット7の合計20基である。これら遺構は、調査区南側斜面のⅧb層で検出されている。Ⅷ層の下位から白頭山苫小牧火山灰が検出され、ほとんどがブロック状で混入しており、再堆積と考えられる。遺物や遺構はすべて火山灰より上位で検出されており、検出された遺構の時期は10世紀後半と判断される。」

「(筆者註:捨て場ST27)Ⅷb層面で遺物が集中する遺構である。」
「遺物には土師器の杯・甕、須恵器では甕があり、砥石のほかに、木製品として、斎串・ヤスリ状の木製品・箆状木製品・下駄・曲げ物・刀子・刀の鞘が出土している。」
「斎串は25点あり、頭部を山形状に面取りし、先端部を削り出したA類~中略~頭部の下をわずかに須簿ませて、その下と中央部分をささくれ立たせたB類~中略~がある。このほか、両端を削り出した24と、一端を丸く削り出した棒状の25も斎串とした。斎串は材質は全てスギである。」
「(筆者註:ST30)遺物には土師器杯・皿・甕・壷があり、砥石のほか、木製品には斎串・檜扇・ヤス状木製品・木札状木製品・箆状木製品・曲物の底板・刳り物・アカスクイ状木製品などがある。」
「斎串には、A類とB類のほかに幅の広くなるC類(45・46)のほか棒状の50や、一端を丸く削りだした54がある。51は何らかの部材の可能性がある。」

「調査では、調査区のほぼ中央部の緩斜面全域で遺物の広がりが認められ、遺物が集中する3箇所を捨て場遺構として認識したが、出土する遺物の種類などから見て調査区の全域が一つの捨て場として捉えることも可能である。」
「木製品には、斎串をはじめとして多くの木製品が出土しているが~中略~木製品は、器種により使用される材質が確定される傾向が見られる。斎串や檜扇、曲物の底板などには圧倒的にスギを利用する~後略」
「樋口遺跡の祭祀的な木製品には武器の形式が皆無である~中略~ある程度安定した時期を迎えていたことの証左になるかも知れない。」

「樋口遺跡-一般国道7号琴丘能代道路建設事業に係る埋蔵文化財発掘調査報告書ⅤⅧ-」 秋田県埋蔵文化財センター 平成18年3月 より引用…


元慶の乱で焼かれた「秋田郡衙」の祭祀場跡「中谷地遺跡」では、剣ら武器の斎串もあったのですが、後のここにはそれが無いのは、「戦乱が収まった証左」とされた理由。
上記通り、材質はほぼスギ、立地も水辺の緩斜面へ流れ着く様分布するのも同じ。
事実、二冊の発掘調査報告書を並べてみれば、酷似しているのは見てとれる。
それが、
北海道に行けば「送り場跡」…
本州では「捨て場跡」=「祭祀跡」
と表現されている「可能性」がある。
この時代まだアイノ文化は生まれていないのにだ。
まぁ北海道で、こんな見方で解釈しないだろうが。

それぞれの発掘調査報告書を並べてみれば、その堆積の仕方らが似たり寄ったり。
当然だ、水に流され…
貯まっていくから、水面近くの形に沿い溜まる。
近辺に柵列跡でも見つかれば、そこが陰陽師や行者の祭祀場跡で説明可能。

物により樹種が決まるのも似てるし、陰陽師含めた朝廷役人は、刀子と砥石は携帯。
持って行った板から即木簡削り出して使うのだから、形状がまちまちなのも、その場で作ったからで説明可能。
で、この時代、まだアイノ文化はない。
萌芽するとしたら、これら陰陽師や行者の祭祀を真似るか習うかする事になっちゃうと考えたら合理的、何せ、行き来ある先にいるのだから。

勿論、筆者は千歳市ユカンボシ遺跡全ての発掘調査報告書を読んだ訳ではないし、これで決まりなぞと言う気もない。
しかし、何故こんな視点での検討がなされないのか?甚だ疑問なのだ。
そもそも古墳文化見る限り、「江別,恵庭古墳群」が7~8世紀を想定している段階で、概ね同じ構造の岩手の「江釣子古墳群」らと同じ位の構築年代。
更に、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/26/205914
こんな話もある。
それらを鑑みれば北海道は、青森(津軽)~秋田の日本海側より、朝廷文化が入るのが早い可能性さえあるのだ。

だから我々は言う。
古代から北海道と東北は繋がっている。
それが途切れた事はない…と。
だが、交流が途切れず続いていたハズなのに、近世アイノ文化とは繋がらない。
この斎串にしても、御幣(ホデキ棒とイナウ)みたい。
使い方がめちゃくちゃ、「似て非なる物」。
つまり、陰陽師や行者,イタコらの「業の奥義」までは、近世に至る前迄に途切れている…「通常言われるアイノ文化」に於いては。
つまり、近世の手前の何処かで「途切れる何か?」が発生し、旧来からの文化と隔絶してると考える事も可能。
何故そんな事が言えるのか?
『東北では継承・伝承されている』からだ。


いずれ、少しずつ解ってくるだろう。
祭祀場跡は官衙と組み合わせ。
陰陽師は貴重な人材、城柵規模でも独りしか居なかったと推定されている。
陰陽師又はそれに類する者が派遣されていてら、近辺に最低限なんらかの「官衙」あって然るべし。
それも、古書に習えば、「日本書紀」にある「渡嶋津軽津司従七位上諸鞍男ら六人を靺蝎国へ派遣」…これに連なる可能性も否定出来ないと考えるが。
素直に思考出来れば…だが。

さて、出土品が仮に「斎串」だとすれば、正規の使い道で使用されたのは、何時までなのか?
これが解れば、何故「擦文文化」と「アイノ文化」が隔絶するか?、何時から隔絶したか?
解ると思うが。



参考文献:

「樋口遺跡-一般国道7号琴丘能代道路建設事業に係る埋蔵文化財発掘調査報告書ⅤⅧ-」 秋田県埋蔵文化財センター 平成18年3月

千歳市 ユカンボシC15遺跡(3)-北海道横断自動車道(千歳-夕張) 埋蔵文化財発掘調査報告書-」 (財)北海道埋蔵文化財センター 平成12年3月31日

時系列上の矛盾…ユカンボシC15遺跡出土の祭祀具等木工品は「本州産木材」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/26/203315
前項に続き「ユカンボシC15遺跡」発掘調査報告について報告したい。
但し、このユカンボシC15遺跡は第6次迄行っているので、あくまでもこの段階までだと承知戴きたい。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/09/054921
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/30/121516
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/15/141716
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/04/192707
予め、関連項はこれら。
近世,近代アイノ文化を象徴するアイテム等は、それより古い時代から東北に伝承された品々に似たようなものが幾らでもある…こう言ってきた。
この延長線上に見て欲しいと思う。

さて、この遺跡、地層の層序が少々複雑。
基本層序は、
①表土
②Ta-a火山灰層(1700年代降灰)
③0黒層(Ta-aとTa-bの間にある褐色土層)
※(Ta-bは検出せず)
④ⅠB1層(アイノ文化期遺物)
⑤ⅠB2層
⑥ⅠBⅢ層(途中の一部に「苫小牧火山灰層(900年代降灰)」あり)
⑦ⅠB4層
⑧ⅠB5層
…と並び、西,北側の台地部から東側の低湿地部に向かってそれぞれの層の堆積が厚くなりはっきり別れる傾向があると言う。
つまり、水の力で流されたような様子が見え、これは隣接するユカンボシC2遺跡等でも同様の層序傾向らしい。
で、④~⑥アイノ文化期、⑥~⑦擦文文化期、⑦~⑧続縄文文化期…の遺物が出土し、一部遺物は被る傾向がある。
水に流され、低湿地側で溜まり混ざったか?
これが前提。

さて、引用してみよう。
特にⅠB4層について象徴的なので抜粋する。

「Ta-cが降下した後、沼沢~湿地域となり、ⅠB5層が形成された。ⅠB4層の時期ではさらに泥炭の形成が顕著になって行き厚い層が形成された。」
「層厚10~35cmで、大きな木根や自然木が多く、木製品も出土する。続縄文~擦文文化初頭から前半にかけての層である。」
「ⅠB4層で扱う木製品の点数は、杭列10の3点を除き、956点である。~中略~層の状況、出土品とその分布状況や数製品の樹種からすると、当遺跡のⅠB4層の時期、続縄文時代~擦文文化期初頭においては、低湿部利用頻度は急激に高まり、低湿地は生活と密接なつながりを持たはじめたものと考えらる。また、スギ・アスナロの柾目板等や漆椀・竹材・ブナ属枝材など、製品や樹種で、地場物ではなかったであろうものも確認できた。交易関係を検討する上での重要な資料となる。」

「箆・箆状製品・大型箆(27~34) : 27・28・31・33 はアスナロ材の柾目板加工品で、27・28は端部加工から箆とする。28は56と同じく棒酒箆状製品とすべきかもしれない。31は端部欠損で、33は端部の削りのないことから箆状製品とした。29・30・34はスギ材の柾目板加工品である。29・30は端部を刃状に削っているが、尖っていることや幅広であることから、箆状製品とした。34は羽子板状の大型箆。箆先端を欠くが、中央部に緩い凹みがある。32はモミ属材の柾目板加工品で端部は薄く削っているが、全体的に厚みがあるので箆状製品とした。32以外は交易で持ち込まれたアスナロ柾目板材の製品部材の再加工の可能性がある。」

「イクパスイ(52~55等) : 未掲載7530も含めてすべてアスナロの板目材の加工品である。削りかけやイトクパ・紋様などは確認できないが、とくに52に顕著な端部の舌状削りや、断面形から、棒酒箆(イクパスイ)かその原形品と考えた。56も含めて、交易で持ち込まれたアスナロ柾目板材の製品部材の再加工の可能性がある。イクパスイがすべて持ち込まれた材から作られているとすれば、この事実は、祭祀儀礼のありかたや祭祀具の発生出現の問題にに一石を投じるものである。」

千歳市 ユカンボシC15遺跡(3)-北海道横断自動車道(千歳-夕張) 埋蔵文化財発掘調査報告書-」 (財)北海道埋蔵文化財センター 平成12年3月31日 より引用…


以上の通り。
木製品が大量に出土したので、樹種特定したのだろう。
この時代の木製品は、泥炭や水で酸素を遮断しないと残りはしない貴重品。
が、驚愕の結果が得られてしまっている。
これが、「この事実は、祭祀儀礼のありかたや祭祀具の発生出現の問題にに一石を投じるものである。」…とした理由。
前項同様、興奮しているのか、この検討者は誤植が多くなる傾向が…いや、バカにしてはいけない。それだけ驚愕している証左と筆者は捉えている。
何故なら、「アイノ文化の象徴」たるイクパスィが本州由来の可能性が出て来てしまえは、超古代から「全く独自の精霊信仰を守ってきた」設定か揺らめきだす。
これを受け止められますか?
これは「アイノ文化が縄文や擦文と繋がる」と言う設定を覆しかねない。

と言うか…
我々的には、驚かない。
これは「由利本荘市歴史民俗資料館」で展示している「祭祀具」。
f:id:tekkenoyaji:20210228071122j:plain
我々は前からイクパスィは、「陰陽師の斎串」そっくりだと言っている。
この遺跡のイクパスィは図や写真を見る限り、紋様無しのこれらはそっくりそのまま。
更に仮に紋様有りとしても、「陰陽師の斎串」には「墨書」で呪文が施されていた事は「秋田城跡歴史民俗資料館」で既に学んでいる。
秋田城の発掘で出土しているのだ。
概ねのサイズもそっくりである。
つまり、イクパスィの原型が「陰陽師の斎串」でも、時代背景を考慮しても全く矛盾しない。
ましてやこの遺跡は低湿地部、陰陽師の祭祀場も沼地だ。
斎串らで結界を張り、呪文を唱え、穢れある物を「流す」必要があるのだ。
もっとも、こんな「恐ろしい」事を指摘出来るのも、発想を学閥に縛られない我々だからこそではあろうが。


さて、アスナロ
こう言えば、多少解りにくい?
皆さんは大産地よくご存知。
俗に「ヒバ」と言われる樹種の事だ。
更に、少し南に下れば「スギ」の大産地がある。
津軽ヒバ、秋田スギとはっきり書けば良いか。
ヒバもスギもこの時代は北海道に「自生無し」。
北海道の博物館,資料館で、古い祭祀具を見かけたら、是非とも聞いて戴きたい。
「この木なんの木?」…と。


ところで、我々の指摘にも、「時系列上の矛盾」か無い訳でもない。
陰陽師の斎串」は秋田では、秋田城が成立してからの出土になる。
9~10世紀にそれが秋田城から北上し、能代郡衙津軽一帯へ拡散する傾向。
が、このユカンボシC15遺跡では、それより古い時代を想定しているので逆転が起こる。
古代城柵に陰陽師は1人づつ配置されていた特殊職で、わざわざ城柵から出たハズもない。
先述通り、ユカンボシC15遺跡の層序は、後の時代と混ざる傾向にあるので、ズレは出る。
しかし、仮にそのままの時代背景だとすれば、朝廷は、再北の国衙「秋田城」築城前に既に特殊職たる陰陽師を含めた一隊を北海道に派遣していた可能性が出てくる。
これも「阿倍比羅夫の後方羊蹄柵」と考えれば辻褄は合うのだが、面での制圧前に既に陰陽師迄派遣となると、かなり重要かつ大掛かりな任務がないと難しくなる。
「夷の事は夷で」政策ではなく、直接朝廷役人が出て行った可能性が出てくるからだ。
その任務とは?
そうなれば、たった一つだけ思い当たる事がある。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/192546
「金」の探索、これならどうだろう?
百済王敬福らの砂金発見より先に、陸奥国司や国介らが探索部隊を派遣したなら…無いとは言えなくなってくる。


まぁ、推測はここまで。
江別,恵庭の古墳は、秋田城築城より早く、出羽国より陸奥国側から先に北海道行きされていた事が想定されている事を付記しておく。


参考文献:
千歳市 ユカンボシC15遺跡(3)-北海道横断自動車道(千歳-夕張) 埋蔵文化財発掘調査報告書-」 (財)北海道埋蔵文化財センター 平成12年3月31日

生きていた証、続報26…ユカンボシC15遺跡に残された北海道江戸期の『馬蹄跡』の存在

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/24/145700

前項では、
シーパワーの要…『船』
ランドパワーの要…『馬』の存在をバテレン達が報告している事を中心に報告した。
ただ、我々的には馬具や生物遺存体ら、物証が欲しくなる。

時代や背景は別にして、その物証を引用してみよう。
後に気づいた点等挙げてみたい。


「D~G・25~26におけるⅠ黒層上面でTa-a(筆者註:1739年降灰の火山灰)が詰まった弧形・楕円形・半円形の浅井馬蹄が多数かつ方向性がない状態で検出された。馬蹄跡の最大幅は残りの良いもので9cm前後である。」
「本遺跡の馬蹄跡の大きさにもばらつきがある。最大幅の平均は9cm前後であり、ユカンボシC2遺跡例よりは小さい値である。この値はトカラ馬などの日本産小型馬の範疇にあてはまる。」
「本遺跡とユカンボシC2遺跡との距離は約500mと極めて近いこと、同じ土質(Ⅰ黒層上面)に遺存していたこと、馬蹄跡の時期(Ta-a層降下直前)がほぼ同じであること、現在の日本産小型馬の分布は愛媛県野間が東限であることより、最大幅の平均がユカンボシC2遺跡例に比べて小さいことは同一種(北海道和種馬)における年齢構成の違いの可能性が高い。しかし、過去により小さい馬が存在していた可能性もある。」

「北海道における馬の遺存体例は縄文時代と云われている3例を除くと、上之山町勝山館(上ノ国町教育委員会『上之国勝山館Ⅳ』1983年、『上之国勝山館Ⅷ』1992年)と寿都町津軽陣屋跡(寿都町教育委員会寿都町文化財調査報告書Ⅱ』1983年)の2箇所である。」
「勝山館跡1983年例では幼獣と老獣近い成獣が出土しており、成獣は上臼歯列長・中足骨長わり北海道和種馬などの日本産中型馬の範疇に入る。時期は15世紀後半~16世紀末である。津軽陣屋跡例も成獣で橈骨長・脛骨長より北海道和種馬などの日本産中型馬の範疇に入る。時期は安政2(1856)年~慶應4(1868)年である。出土例は極めて少ないが、道南地方の15世紀後半~16世紀末には北海道和種馬が存在していた事がうかがえる。」

武家の乗用としての飼育は天正11(1589)年に初出資料があり、享保4(1719)年にはすでに北海道和種馬が成立している。また東蝦夷の運搬用馬の育成は寛政9(1797)年には始まり、寛政10(1798)年江戸幕府によって本格化した。石狩低地帯の千歳会所~ビビ舟着場においては遅くとも文化(1804~1818)年間には車馬による陸運が行われていた。」
「ところで、ユカンボシC15遺跡の馬蹄跡はTa-a火山灰降下直前の痕跡である。噴火は元文4(1739)年7月14日である。1739年以前でかつ千歳市付近と特定できる馬関係の文献史料はない。」
「しかし、間接的な状況を示唆すると思われる3件の文献より、2点の要点があげられる。寛文9(1669)年シャクシャインの蜂起に関する『寛文拾年狄蜂起集書』と『蝦夷蜂起』によると寛文年間頃は少なくとも静内町までは馬が通じていたこと。天和元(1681)年頃成立『松前蝦夷図』によると「しこつ」という記載の周辺に陸路部分が千歳市北東部~千歳市美々8遺跡にあたることである。上述の2点をもって1739年の馬蹄跡を解釈すると、東蝦夷地の海岸部にいた馬を千歳市北東部において飼育・使用していたと考えることがでぎそうである。」

「当時の東蝦夷地の海岸部と内陸を結びつける人々の動きに砂金採取がある。~中略~千歳市周辺において砂金採取の物資運搬のために飼育・使用されたと考えられないだろうか。なお、伐採に関わって内陸部へ人が入ってはいるものの、南部地方からの季節労働者であること、徒歩で山を渡り歩いていることから馬の飼育・使用は行っていなかった可能性が高い。」
「次に千歳市周辺のアイヌ民族は馬を知らなかったかどうかが問題になる。~中略~東蝦夷地の海岸部に住むアイヌ民族は馬を知らなかったと解釈できる。しかし~中略(筆者註:前項のアンジェリス神父の報告の件)~松前地方のアイヌ民族は馬を大変よく知っていた。」
「また、ユカンボシC2遺跡において、馬が描かれた漆製品を副葬した土坑墓が発表されている(豊田宏良「ユカンボシC2遺跡」『1994年度遺跡報告会』北海道考古学会1994年)。豊田氏によると土坑墓もTa-a層下位から検出されたが馬蹄後との時期関係は不詳であるとのご教示を受けた。これらの事から千歳市周辺のアイヌ民族が馬を全く知らなかったとは言えないのである。」
「1黒層上面の裸地状態はこの時期の遺構がないのとから人為ではなく、馬の恒常的な生息に起因している可能性が高い。馬蹄跡が多数かつ方向性がない状態で検出さたこととも一致する。このことは放牧の可能性を支持する。」
「いっぼう、噴火した日時は元文4年7月14日直前の馬蹄跡であり、上記文献によると利用の最盛期にあたることになるので放牧されている頭数は少ないはずである。このことは利用頻度の低さか野生化のいずれかを支持する。ただし野生化説を採るならば、いつの時点でそうなったかということになり、北海道和種馬の起源なついて更に問題が深化する。以上より2件の可能性を併記して一応の結論とする。千歳市周辺において砂金採取の関係者かアイヌ民族か、或は両者が係わりを持って飼育・使用していた。またはそれが野生化した。」

「北海道和種馬は享保4(1719)年にはすでに成立している。北海道和種馬は運搬用として寛政11(1799)年から明治にいたるまで南部馬との交配による品種の改良が行われている。~中略~江戸時代から現代を通じて南部馬の体高は北海道和種馬より高く体型に差があったことを示している。」
「亜種としての固有の性質(筆者註:体高が低い等)があった場合は江戸時代より以前に北海道和種馬の成立を考えなければならない。」
「小林和彦「前川遺跡から出土した動物遺存体」『前川遺跡』田舎館村教育委員会1991年)よれば、青森県内の古代馬には小型馬と中型馬の二種類がある。~中略~中世以前の東北地方における混在は、新しく弥生時代朝鮮半島か入ってきた中型馬に対して、それ以前に入っていた小型馬との混在を示唆する。~中略~青森県の例より、中世の北海道でも小型馬と中型馬が混在していた可能性は否定できない。」

「では、中世の北海道で小型馬と中型馬が混在していたとすれば、それ以前はどのような状況であっただろうか。残念ながら擦文文化期に遡る馬の遺存体の出土例はない。ただ存在を類推させるものがある。奥尻町青苗貝塚遺跡の投棄溝出土の杯~中略~に描かれた線刻画である。杯は擦文文化期の最終末の形式であり、暦年代は12世紀後半にあたる。~中略~奥尻島にはミヤコザサが自生しないことより、擦文文化期の奥尻島に馬がいた可能性は低い。馬の遺存体の出土例はミヤコザサの自生地域内において期待される。」

千歳市ユカンボシC15遺跡(3)-北海道横断自動車道(千歳-夕張)埋蔵文化財発掘調査報告書-」 (財)北海道埋蔵文化財センター 平成12年3月31日 より引用…

以上である。
色々検討してはいるが、上記の通り誤植が多く、寄稿した方は興奮しながら書き直しつつ書いてるのが推測出来る。
途中にある、「ミヤコザサ」は北海道和種馬の越冬放牧の主食として必須で、平均平均積雪1m以下の地域に相応し分布だそうで。検討者は、結論として「砂金採取者又はアイノ或いは両者が飼育・使用、またはそれが野生化」と締めくくる。

では、気になる点を列挙しよう。

三件ある、縄文の馬にはそれ以降全く触れていないのは何故?

「北海道の馬の歴史」の話なのに、アイノに拘る必要ないと考えるが…
誰が運用しようが、それが「北海道の馬の歴史」であるに代わりはない。
とはいえ、実は、『「砂金採取者又はアイノ或いは両者が飼育・使用、またはそれが野生化」』この部分の後の引用文は、北海道の馬の起源について付記している部分故に、全体を構正した人物と検討者との意見が食い違った可能性もなきにしもあらず。
全体構正者…古代に馬は居ない説
検討者…古代から馬は居た説…故に付記した、と言う訳。
我々的には、アイノが「通商の民」なら、
道南,十三湊,秋田湊で馬は散々見てるだろうから、便利なものなら買ってでも使って当たり前だろう、ましてや南部は馬の産地。まぁ、普通に当たり前に、痕跡探してから関連性を追うのが当然と思うが。

引用出だしの部分を見て戴きたい。
この遺跡に於いて、樽前山の降灰痕跡160
0年代のTa-b層は検出されていないそうだ。だが、同様に馬蹄跡がある「ユカンボシC2遺跡」も含め、Ta-a(検出ある1700年代降灰)とTa-b(検出ない1600年代降灰)の間に嵌まる褐色土層が検出されている。
これを「0黒層(Ⅰ黒層の上の土層の意)」と表現している。
この「0黒層」は、馬蹄跡がある区域の真隣区域でも検出されている。だが、この馬蹄跡の区域にはそれが見当たらない。
仮に、この「0黒層」が出来た後にその上を馬が歩いたのなら、その重量と圧力で、褐色土層は残るだろう。
しかし、発掘段階ではない。Ta-a火山灰が嵌まるだけなのだ。
つまり、盛んに金掘やってた1600年代についた足跡の可能性も十分にあると考えるが、如何だろうか?
勿論上記通り、その点には言及していないが。

何故「馬を使う蝦夷衆と使わぬ蝦夷衆がいた」と考えないか?
この様に、最低江戸期まで馬の痕跡あるが、近世アイノは馬を知らなかった「設定」になっている。
なら端から、知る人々と知らぬ人々が居る…こう考えて当然だと考えるが。
何せ、「諏訪大明神画詞」では「日ノ本,唐人は馬を使わぬ」とわざわざ書いてる。
なら渡党は?馬を知っていた可能性も排除出来ないが。まして中世~近世の話で、検討者は古くから馬が居た可能性を検討しているのだから。不思議なのだ。
そう考えると、縄文~中世~江戸初期迄馬の歴史は繋がっていたと仮説化出来て来るだろう。食う対象でないなら炭化遺存体には引っ掛かりはしないし、個体数がどの程度かも別ではあるが。

①~④を鑑みれば、北海道の馬の歴史は、「下限1700年代、上限不明」が妥当ではないか?
まぁ江戸初期には馬が運用されていたのは、間違いなさそうだ、それを運用したのが「誰であれ」。
これで、馬具でも確認出来れば、古代から馬が居た可能性が徐々に上がってくる。

これも、「生きていた証」。
そので生業を営んでいた証だ。



参考文献:
千歳市ユカンボシC15遺跡(3)-北海道横断自動車道(千歳-夕張)埋蔵文化財発掘調査報告書-」 (財)北海道埋蔵文化財センター 平成12年3月31日 より引用…

生きていた証、続報25&通商の民に不足する物③…アンジェリス&カルバリオ神父が記した「シーパワー『船』&ランドパワー『馬』」の痕跡

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/16/123121
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/14/201908
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/04/052124

前項、関連項はこの辺になるか…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/20/203914
この項に続き、「蝦夷の世界と北方交易」 網野/石井 からの論を紹介する。
「鉄を中心にみた北方世界-海を渡った鉄-」、福田豊彦氏の著。
予め…
福田氏は、基本的に新北海道史ら「普通に語られる史感」で内容を書いている。
なので「コシャマインの乱」はあり、擦文→アイノ文化へ至った…この史観で書かれている前提がある。
その上で、東北の製鉄らの状況や、北海道~東北への鉄器の伝播らを検討し、北方の姿を報告している。

勿論、製鉄と鉄器についてもいずれ取り上げたいが、我々的にはもっと食い付きたい内容があった。
通商の観点で、
シーパワー…『船』
ランドパワー…『馬』…これについて言及している。
どちらも「通商の民に不足する物」、「生きていた証」なのだ。
それも、伝説のバテレン「アンジェリス&カルバリオ神父」の報告からとなれば、大好物…
では引用してみよう。

「報告によると(筆者註:アンジェリス,カンバリオ神父の事)、ラッコの皮と鷹や鶴、鷲の羽などを持参したメナシのアイヌが東方から、中国の緞絹に似た織物(山丹錦)等を持参したテンショ(北海道西海岸の天塩だけでなく樺太に居住する人々も含んだ呼称)のアイヌが西方(北方)から、船を連ねて松前に来ている。それはラッコを持参したメナシのアイヌだけで百艘、一艘に日本の米俵二百石を積める大船もあったというので、後世のアイヌ社会には見られないものである。~中略~「松前殿は日本人ではあるが彼らの王でもあった」としたカルワーリュ(筆者註:カルバリオ神父)の評は、この朝貢関係を前提としたものである。」

「ここでのアイヌの役割は中継交易である。アイヌは、後世には考えられない旺盛な海洋交易民であった。中世の日本は、琉球蝦夷地という、本州の両端に活発な中継貿易民を持っていたことになる。」

「一方、本州から松前へは、毎年三〇〇艘の船が米・麹・酒などを運んでおりアンジェリスの乗った船は二二反帆の大船であった。これらの船便には、日本海沿岸航路の他に、佐渡から松前への直行便もある。瀬棚内(瀬棚)に直行した船も見えるし、蝦夷人がそこへ川を船で商いに行くとも記されている。松前の他にも、いくつかの河港に交易市場が繁栄していたであろう。」

「報告によると、牛と羊はいないが馬は多く、それはヨーロッパの馬にすこぶる近似する馬で、男女とも乗馬に巧みであったという。とすれば近世支配の過程で、アイヌは牧畜と乗馬の習慣も喪失した事になる。北海道のドサンコといわれる野馬は、本州から持ち込まれて野生化したとの説があるがそれもおそらく謬説であろう。」

松前に来た蝦夷人の船には、二百石積の大船も含まれ、七〇余日の航海をしてきた者もあったが、男女・子供まで家族一緒であった。報告の時期は夏に限られていたにしても、これを狩猟民とみるのは無理だろう。彼らは陸上では、夜になると、背負っていた四本の棒と二枚の莚で小屋を組み立てたという。鉄鍋についての記述はないが、こういう生活には壊れ易い土器は適さず、鉄鍋と木製の食器、室内の火処は自在鉤に囲炉裏とみてよいであろう。」

「これより半世紀以上も前、同じ耶蘇会士のランチェット~中略~が一五四八年頃に作成した報告には、蝦夷は日本の北東にある非常に大きな国とし、「その住民は大小の船に乗って日本と戦いに来るが、陸地に陣を張らず、海賊のように沿岸に沿って盗み歩き、すぐ逃げてしまう」と述べている~中略~これはランチェットが、インドのゴアで鹿児島生まれの漂流民ヤジローから聞いた話と推測される伝聞史料であるが、時期はアイヌの反乱が相次いだ松前氏の覇権未確率の頃であり、倭寇に匹敵するアイヌの海洋民的性格を記した史料として無視できないであろう。」

蝦夷の世界と北方交易」 網野/石井 「鉄を中心にみた北方世界-海を渡った鉄-」 福田豊彦 1995年12月5日 より引用…

アンジェリス&カルバリオ神父が見たのは…
百艘にもおよぶ船…
中に二百石積みの大船…
そして、
この段階で西洋に近い馬…
随分、現状語られてる話とは違うが。

二百石船と言うと、小さい印象もあるかもしれない。
後の時代、「北前船」の花形は千石船だ。
比較したくなるが、そこが間違い。
千石船は、その大きさから、主要湊へしか入れない。秋田で言えば、秋田湊。
結局、そこで積み換えして、中規模の能代湊や由利湊らへ廻す事になる。
そこで使われたのが三百石未満の船。
つまり二百石船なら、どの湊にも入港出来る中では大きい部類且つ、取り回しの良さで沿岸物流の主力みたいなものだ。
全く小さくない。

ところで、福田氏の史観は、先述の通り。
だが、それですら、擦文→アイノ文化への変遷には「農業も馬も船も失う」と言う矛盾があり、中世の見直しは必要だと指摘している。
そう…
アンジェリスらが見た北海道…と、
最上徳内らが見た北海道&幕末から記されている近代アイノ…と、
本当に繋がっていないのは、実はここなのだ。

因みにこの福田氏は、
①ルイスフロイスが「秋田湊に夷船が来ていて、秋田からもたまに北海道へ行く」事を記している
②蠣崎氏の大殿が「安東氏」だという事
この二点にはなるべく触れぬ様に書いてる。
だが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/14/201908
蝦夷船のドッグは、秋田湊(または檜山)または田名部だったりする。
北海道にドッグが見つからぬ限り、もはや「通商の民」を名乗るなら、安東&南部氏を外す事は不可能。
船を失ってしまう。
ましてや、安東実季公は、蠣崎氏独立後も平気でラッコやアシカの皮や鮭らを平気で入手している。

馬も、男女共に乗馬慣れしているとは。
蹄鉄が普及したのは明治以降、それまではあっても藁製…残る可能性は低い。
馬の物証は、今後も追う必要がある。

さて、船も馬も…
古書上での状況証拠は出て来た。
中世~江戸初期の蝦夷衆の姿も、随分イメージとは違って来たハズ。
上記通りなら、蝦夷衆は陸に住む者と海に住む者、二部族必要になる。
海の部族はむしろ、海を棲み家とするが如し。
何故船も馬も無くなるか?
まだまだ先は長い…


追記しておこう。
アンジェリス&カルバリオ神父が見た蝦夷衆の容姿とは、この様な感じ。
https://twitter.com/gurinhiguma/status/1364404845642309633?s=19
https://twitter.com/gurinhiguma/status/1364487401096142849?s=19
https://twitter.com/gurinhiguma/status/1364514745659785218?s=19
色々話は出るが、幕末から伝えられる姿とは少々イメージとは違っていると思うのだが。



参考文献:
蝦夷の世界と北方交易」 網野/石井 「鉄を中心にみた北方世界-海を渡った鉄-」 福田豊彦 1995年12月5日

ゴールドラッシュとキリシタン17…徒弟制度&相互扶助?、リアルな「友子制度」の実態

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/22/102500
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/12/194837
昨今の古書→「太良鉱山」の実態…この際、ここに「ゴールドラッシュとキリシタン」でずっと語ってきた「友子制度」を重ねてみよう。
何せ「太良鉱山」においても「友子制度」は行われていた。
f:id:tekkenoyaji:20210222172734j:plain
この「友子制度」について、ブログで初めて扱ったのが、院内でのフィールドワークでの事。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/17/171103
これにある様に、技術流出を防ぐ為の「徒弟制度」と事故やじん肺へ対応や為の「相互扶助」…この目的で作られたとされており、江戸中期位には完成していた様である。
たまたま見つけた書籍「出羽路」に、坑夫だった方へのインタビューを中心に、そのリアルな実態を記載していたので、引用してみよう。
今迄漠然とした制度の実態の一端を見つけた気もする。

「鉱夫の社会組織は、鉱夫は鉱夫衆と呼ばれて長刀を許され野武士、又は浪人の扱いを受けた時代もあつた。彼等には定職がなく渡り鉱夫といわれ、収入や鉱況に変化があれば移動し又、設備の危険な坑内での作業は甚だ健康を害するので、同じ鉱山に永くいることは少なく、従つて独身者や家庭を持つた者も早死にすることが多いので、女子は再三夫を変えるのも普通であつた。」

幕府も特種地域として(治外法権)大目に見ていたので、乱暴者が入り込んで随分勝手な振舞もあつた。然し彼等には鉱山の掟があり、山法というて五十三ヶ条を規定していた。最も重い者は除名処分であつて、法度に背いた者は身体の一部を切つて(例えば鼻を削り)追放したり、不義密通した者は首級或は裸に曝して山中を引廻したり牢人の厳しい扱をした。かやうに鉱山には一筒の自治体があり、鉱夫には一種の労働組合的な組織をしていた。」

「鉱夫の生活には第一に取立が行われた。それらは鉱夫の仲間入りをすることであり、心の汚れを洗つて親兄弟の縁を結び、山法五十三条を読んで結成式を挙げた。」
「仲間入りをすると全国の鉱山に通知され、天下の坑夫となり、仁義を切れば何処の飯場の厄介にもなることが出来た。昔は渡り坑夫となるには六年半を要し、堀子となつて三年三ヶ月で弟分となり後三年三ヶ月で親分を持つた。これは日本国中の鉱山が協議して同盟友子と名づけ、関東以北の坑夫を渡り坑夫、関東以南の坑夫を地坑夫と呼んだ。」

「正面に山神のかけもの、この前に海のもの山のものを供え、坑夫の使用するセツトウ、掘タガネ、口切りタガネの一部に白紙を巻いて神前に供える。この正面に山中大当番、箱元、区長、坑夫の年長者その他の係員が着坐、この隣りに鉱業所長、隣山の山中大当番が隣山立会人として坐する。このとなり町長、学校長、警察所長などの代表者が来賓として坐る。この日親分になる者、兄分になる者など、これに新しく出世した者、そして坑夫仲間一統が会場に集まるのであるが、あくまでも儀式であるので静かである。全部揃つて神拝、後世話人が親分になる者の名を呼ぶ。
親分 羽後の国の産……何の何某
子分 陸中の国の産……何の何某 呼ばれる順に坐る、親分と子分は対座、この年出世した者何人かが皆親分と対座した時、三三九度の杯事がある。世話人が中を通りながら酒を交々につぐという事になる。これが終わると次は兄分と舎弟という関係の杯事がある。出世したものは父に当る親分と母に当る兄分を与えられた事になる。~中略~昔は否今日でもここで子分となつた者は三年三ヶ月十日、親分の家に行き、他所行きを許さず生活を共にし、職場を共にし、苦楽を分けあつている。」

「鉱山に職を求めて来る坑夫はこの交際飯場に来る。こういう坑夫を浪人(ろうにん)と呼び、浪人は飯場の玄関で迎えに出た者に
貴君とは始めての対面とは思うが何処かで会つたことがあるかも知れない。二度の対面や言葉の間違いをお許し願いたい。自分は何処の国の者てこれゝという者、出世の鉱山はこれゝ、親分は何某、子分は何誰々職歴や出世歴、更にこの鉱山を訪れた理由を詳細に述べる。(此れを仁義を切ると称する)
飯場の者は
御浪人衆にはご苦労さん……まずゝという場合もあれば型通りの事を入れかわり、立ちかわりやられる事もあつて仁義形式を一通り勉強して置かないと言葉、態度などやかましいものだ。」

「浪人が飯場にいる時、喧嘩があつた場合、又山の中の何処かに喧嘩があつた場合、浪人が仲裁に入れば理由はどうでも仲直りをして浪人の顔を立てた。若しこの場合浪人の仲裁に任せぬ時は浪人は隣り山の山中に訴え更に全国鉱山に通達方法を執ることになる。為にとんだ大喧嘩となつた例もある。」

「子分は親分に対して絶対的なもの、親分は子分を守ること堅く、血を分けた子供以上のものとしていた。兄弟分はまた、実際の兄弟よりも堅いものとしていた。鉱山に殺人事件や喧嘩の多い原因の一つである。万が一、山中大当番が号令をかけるような事になれば、どんな事でもやつたものだった。子分は親分の石碑(筆者註:お墓の墓石の事)を建てたものである。実子や兄弟分も援助はするにしても、子分が大部分の事はやつた。若しこれを不義理のうちにやらぬようなものは全国の鉱山に廻状が行き、坑夫として生きて行けない実際面もあつたし、男として恥じるような男女関係は厳しい誓いもあり、現在のような事は夢でもなかつたであろう。」

「出羽路 第七号」奈良環之助 「友子について」工藤由四郎 昭和三十五年一月二十日 より引用…


これ等はまず「結杯式」で兄弟や親方との契りを結び、全国へ通知、堀子から出世していく登録式徒弟制度&相互扶助制度を敷いていたのだが…
資料館らでサラリと書いているが、実際はこんな感じの物である。
というか、五十三ヶ条の掟で縛りを掛けた、
鉄の掟はThe裏社会…
相互扶助はキリシタン…まるで合作の如し。
だが、裏社会とは言えないか。
これは、既に江戸中期には完成しているとの事なので、下手をしたらこちらが古いかも知れない。
とは…研究者が論文には書けないであろう。


こんな風に、情報流出を防ぐ為鉄の掟を掛ける必要があり、それは全国に及ぶネットワークになり、除名されたら最後…まともに生きていく事が難しい…故に、「太良鉱山」らでも、施政者側文書には余り書いたりせず、取り上げす、山の事は山で解決、口出しせぬ代わりに、生産確保せよ…と言う事か。
江戸中期にはこのネットワークは完成していて、近代迄続いていた。

が、我々的に食い付いてしまうのは、『長刀帯刀』…
勿論、時代背景にもよるが、江戸初期から鉱山開発が盛んになるので、武家出身も居れば違う者もいた。
この1号墓の主、刀の鍔の付け方が滅茶苦茶とあるのだが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/02/184205
そう、その時代に各地に居たまるで「傾寄者」…
食い扶持が無くなれば、それなりに…
妙にリンクすると思うのは…我々だけであろうが?
そう言えば、独自ネットワークを持ち、妙にやけに北海道に詳しいのは何故?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/26/174810


まぁ推定や勘繰りは此処まで。
いずれにしても、阿仁鉱山らでも、こんな掟の中、江戸期から近代迄こんな徒弟制度&相互扶助制度が行われてきたのは事実であろう。
そう、「労働組合」に変わって行くまでは…親和性高いか?
ここもまた、意味深になって来そうなので、本項はここまで…


参考文献:
「出羽路 第七号」奈良環之助 「友子について」工藤由四郎 昭和三十五年一月二十日