秋田に於ける「末期古墳群」の意義…「蝦夷塚古墳群」「岩野山古墳群」とその終焉、北海道の関係は?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/08/204335
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/05/171231
たまたまであるが、SNS上で話をさせて戴いた中で、末期古墳についての話題があった。
秋田でも古墳は24位検出する様だが、勿論前方後円墳の様なものではなく、終末古墳や末期古墳と呼ばれるもの。
石室を備えるや横穴を持つこともなく、周溝を巡らし土饅頭を持つ様なもので、県内でもあまり目立つ存在ではない。
だが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/05/171231
それを江釣子古墳群らと接続してみると、その意義が解ってくる。
では、それがどんなものなのか?
各資料館常設展示から2つの古墳群を見てみよう。

A,蝦夷塚古墳群
雄物川郷土資料館」の常設展示より…



八世紀中期以降の物とされる。
17基の小円墳が検出し、勾玉や鉄鏃らの副葬を伴う。
被葬者は不明だが、地元の土豪ではないかとされる…と、ここで終わったらそれまで。
館員さんへ質問してみる。
759年に築城されたとされる「雄勝城」との関連を研究者達はどう見ているのか?
ご覧の通り、成立時期はほぼ被る。
現状では、明確に被葬者と雄勝城を繋げる様な副葬らの遺物は見つかっていないそうだ。
但し…
①1基、5㌢超の大型勾玉を含む装飾(現在、東京の国立博物館にある)をされている被葬者があり、他の副葬と異彩を放つ…
蝦夷塚古墳群から数百m先に大型倉庫跡と思われる遺構があり、旧雄物川の川筋が目と鼻の先…
③それまでのお墓の形態が「土壙墓+屈葬」だったのが、ここから「小円墳+伸展葬」へ変化しており、南東北の葬送法の影響を帯びると考えられる…
これらから、雄勝城と関連がないとは考え難いと思われる様だ。
何より、
④まだ雄勝城そのものが見つかっておらず、その全貌が不明…
ここが大きい。
昨年の発掘調査で、官道と考えられる遺構が見つかり、少しずつ雄勝城へ近付きつつあるが、その発見がまずは先。そこから研究が更に深化していく事になるだろう。
現状はここまで。

B,岩野山古墳群
五城目町 「文化の館」常設展示より…



ここでは12基の古墳が検出され、8~9世紀のものと考えられている。
勿論、蝦夷塚古墳群同様に伸展葬で、木の棺と思われるものもある。
1号墓の副葬の一部が上記。
蕨手刀や毛抜型太刀を副葬、何より束帯姿の腰帯に付けられる部品「石帯」を持つ。
これは官位を持つ者しか許されていない、つまり「官人」だと言う事になる。
12基の内、3基の被葬者が「官人」ではないかと推定されているとの事。
展示パネルでは「元慶の乱」の時に、秋田城側についた地元土豪ではないか?と推定する。
それもそうなのだ。
この近隣には、


秋田城の出先機関秋田郡衙」と考えられる「石崎遺跡」や、


祭祀や生活に関わる遺物を伴う「中谷地遺跡」が隣接する。
ガチに「朝廷」に関連した「官人」を中心とした人々の墳墓群と考えるには易しいだろう。

この時代の後に、古墳群は殆ど検出されなくなる。
それは、ステータスの高い人物は「仏法」の影響で火葬らが広がっていく。
周溝墓をどう捉えるかで諸説あろうが、「岩野山古墳群」が終末古墳群,末期古墳群と言われるものの終焉を飾るトリ…とも、言えるのかも知れない。
それが秋田に於ける古墳群の意義。

では、そんな視点で北海道を見てみよう。
勿論、擦文文化期になる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/08/204335
江別,恵庭古墳群はこんな感じ。
若干周溝が楕円との指摘もあるが、大きさや副葬は同様の傾向。
造営は8世紀と、むしろ「岩野山古墳群」より古い事が考えられ、同時期陸奥国側の副葬の豊かさをトレースする。
で、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/28/080712
そもそも擦文文化とはこんな風に、東北からの文化伝播や移住に伴い出来上がったと言うのが、最新研究結果だろう。

更に、

これは余市町「大川遺跡」の1989年概報より。
見ての通り、続縄文迄は「屈葬」だったのが、擦文文化期辺りから「伸展葬」に切り替わって行く様が見れよう。
こんな変遷を辿る。
東北での古墳群造営に伴う「伸展葬」の拡散とほぼ時を置かず、文化伝播と移住、そして「伸展葬」が広がる。
上記の通り、擦文文化がどうやって出来たか?を鑑みて、この「蝦夷塚古墳群」そしてその終焉たる「岩野山古墳群」から紐解けば、南東北→北東北→北海道へ伝播、そして朝廷側についた土豪の影響が極めて高いと言えるのではないか?

古墳とは、そもそもそんな性格のものなのであろう。
まぁ「諸説あり」。
だが、上記は考古学に身を置く研究者なら知っている。


そして…
擦文文化期の後に「アイノ文化期」でも「伸展葬」であるから「擦文文化人がアイノ文化人の担い手だと言う論」をするなら、上記は一片たりとも無視出来ない事になる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/28/205158
金田一博士は地域差、文化の支流にすぎないと指摘し、独立したものではないとしている。
それは、奇しくも金田一博士が熟知しない「古墳を中心とした考古学」にも現れているとも言える。
少なくとも、金田一博士が言う「消えた古蝦夷語」を駆使していた「口蝦夷」に限ると限定しても…


さて、上記古墳の話は、北海道において「先史時代」とされる、古代の話。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130
他の北方文化のテイストが加わるとしたら、空白の中世「以降」でしか有り得ない。
そこ迄は、極東北に近い文化で暮らしていた事になる。
だから、差異が生まれるとしたら、中〜近世しかない…と、言う事になるだろう。
それがどうやって入ったのか?
それは「解らない」だ。
遺跡が無い故に…

「錬金術」が「科学」に変わった時-4…「史跡 尾去沢鉱山」と「阿仁郷土文化保存伝承館」から改めて銅鉱山と銅精錬を学ぶ、そして…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/06/140204
さて、前項で紹介した「阿仁鉱山 銅山働方之図」「加護山鉱山全図並精鉱之図」…
折角、筆者の地元には最強を競った銅山があったので、改めて訪れてみた。
尾去沢鉱山」と「阿仁鉱山」である。
それぞれ、「史跡 尾去沢鉱山」と「阿仁郷土文化保存伝承館」で資料や遺物、尾去沢に至っては坑内が見学可能なので、学びには事欠かない。
双方共に「阿仁鉱山 銅山働方之図」をベースとして、江戸期の銅精錬について説明がある。
前項ではかなり略したので、改めて見つけた話の3点の前に、少しだけ詳しく工程を説明する。
つまり、これが「前提」となる。

1,
鉱石を坑内から運ぶ

2,
鉱石を砕く
これは絵巻上では金槌らで叩き、俵に詰める

3,
計量し、品位確認

4,
水中にザルを入れゆらし、鉱石と石に分ける。更に荒い物と細かい物(ザルを通った物)に選り分ける

5,
ザルを通ったものを扇舟(水路)で流し、比重差により鉱石を選び出す
ザルを通らなかった物や水路で選り分けた石をさらに細かくし、扇舟での選別を繰り返し、なるべく細かい鉱石を集める

6,
焼窯で焼鉱を作る
①焼窯の底に木炭を並べる
②鉱石に雲母鉄鉱混ぜた粘度と水を加えてかき混ぜる
③②を250貫(937.5kg)を窯に入れて上面をイグサで覆う
④風口で火をたき、2~3週間で炎気がなくなるまで酸化雰囲気で焼く
→硫黄分を鉱石から取り除く→これを焼鉱と言う
⑤焼窯から焼鉱を取り出す

7,
吹床で銅精錬を行う
①炭の粉を固めて吹床(炉)へ敷き、焼鉱と溶剤を積み上げて点火、フイゴで送風(約1200℃程度)し焼鉱を溶解させる
→吹床は地面を掘るだけ
②融解が進むと、
上…酸化鉄(とケイ素化合物。「カラミ」と言う)
中上…銅(「カワ」と言う)
中下…金属銅(床尻銅と言う)
下…湯折れ(金銀鉛の化合物)
…と、融点や比重差により分離していく
③カラミを柄杓で掻き出し、水をかけて、下部表面のカワを剥ぐ
④中下の金属銅にカワを追加し溶かし、更に掻き取り水に入れ固め、冷えたら炭や灰を鎚で叩き落とす(純度90%)
→これを「粗銅」と言う
⑤めかたを計り、荷造りし、水無村の倉庫で保管し、後に加護山へ

以上。

さて、上記を踏まえて下記を。

①参考資料として
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/21/194450
今まで指摘してきた事だが、北海道で見当たらないものがある。
縦型の製鉄炉の遺構である。
たまたまだが、製鉄炉遺構を保存処理したものが「史跡 尾去沢鉱山」に展示していたので見て戴こう。
堪忍沢遺跡12号製鉄炉。


北海道で圧倒的に不足する遺構。
東北ではあちこちにあり見慣れたものだが、北海道にはこれが無い。
これが1400℃程度までの昇温と還元雰囲気焼成のキーの一つでもある。
添付項の様に奥尻島やサクシュコトニ遺跡の様に、フイゴの羽口や鉄滓?だけ見つかっただけで、製鉄や鉄精錬にtryした痕跡と言えるのか?が、我々的には疑問なのだ。
何しろ、当時の技術伝播ルートは本州からの北上であろう事は概ね出土遺物から推定可能なので。
参考として提示する。

キリシタンの関与
実は阿仁の「伝承館」ではキリシタンの存在は知らないとの事。
ただ、院内銀山に於いては、阿仁鉱山との鉱夫の行き来はあったとの事なので、全く関与が無いとは考え難い。
では、尾去沢は?
江戸期に尾去沢は南部藩領。
なので、上記の粗銅は、
・尾去沢
当初…米代川を下り、能代湊から上方へ
後…馬で陸路で野辺地湊へ運び上方へ
と、変遷している(久保田藩が水運費用を上げた為)
・阿仁
当初…米代川を下り、能代湊から上方へ
後…加護山精錬所へ運び、製銅と銀精錬を行う
以上となる。
さて、尾去沢鉱山キリシタンは、坑道に礼拝堂が作られ、密かに信仰がされていた事は概報。

折角なので…
これが、慶長年間の坑道礼拝堂の十字架の彫り込み。
当然、ある程度黙認されていたと考えられている。
関与の物証。

③金銀銅らの選鉱,選別
両山共に元々金山だった伝承を持つ。
特に尾去沢は、慶長の坑道が金鉱脈であり、金堀の痕跡を残す。
砂金や擂り潰した金の破片は、揺板を水に沈め比重差で選鉱する。
揺板は、概ね底が凹んだお盆型の物を想像するだろうが、実は角型の物もある。
更に…

今回気が付いたのが「かさかけのお椀」。
上記の5,の扇舟で選別後に、更に選別する時に使った様だが、確かにお椀で選鉱した方が細かく見る事は出来そうだ。
ましてや黒漆塗りなら水に入れても保ちは良いし、光る「黄金」なら目立つだろう。
利に叶っているとも考えられる。
漆器」と言えば…?
北海道のアイノ文化期の墳墓副葬に漆の塗膜がある。
生前の愛用品とされ、食に使ったものと解釈されているが、他に装飾品や職業柄に合わせた物が主。
これが「砂金の選鉱」に使った物なら?
対比色と言うなら、土師器や擦文土器も内側が黒い杯がある。
漆器以前に使ったとしたら?利には叶いそうだが。
まぁ邪推はここまで。
「選鉱に黒漆の椀が使われた実績有り」…ここまでは事実。
因みに…
選鉱した中の鉱石以外の岩石の再粉砕、より細かくするのに石臼を使ったのは知られるが、それだけではないようだ。
阿仁の「伝承館」には臼型のものがある。
要は乳鉢の化け物。
どうも地方色はある様だ。

④「カラミ」について
これが何か?解るだろうか?



これが「カラミ」。
上記7,−③の工程で「カワ」を剥がした後に発生し、状況に応じ4種類位の形になるようだ。容器に入れ固まればレンガ状、叩けば砂状…の様に。
当然、銅精錬においてはゴミ扱いで廃棄されるが、大規模鉱山として運用された阿仁では、これが大量に出た。
阿仁合駅裏手にこの「カラミ山」が見られ、レンガ状にしたものは住宅の土台として利用され今も建ってるものがあると言う。
ざっと目算で高さ2m✕数百m位は積まれるが、同様の「カラミ山」は数カ所あるそうだ。
銅山に限らず鉱山にはつきものでもある。
銅の鉱石の主なものは黄銅鉱で化学式は「CuFeS2」なので、必ず鉄(Fe)と硫黄(S)はつきまとう。
上記の様に1200℃位なら鉄は溶けず、更に比重が鉄の方が軽い為に溶解した銅に「浮かぶ」事になる。
なので「掻き出す」事が可能なのだが。
さて「カラミ」。
主成分は酸化鉄と岩石由来の酸化ケイ素になるが、粒状のものの見てくれは殆ど砂鉄だし、不定形なものは製鉄の鉄滓とよく似てる。
筆者が「天工開物」や「デ・レ・メタリカ」を見始めて疑問だったのが比重差。
鉄は銅より軽いので浮く。
ルツボらで固化するのを待てば底の形はトレースしない。
が、答えは「浮いた物を掻き出し集めたから」。
これなら写真の様に底の形をトレースする。
と、言う訳で、先の「①参考資料として」に戻って戴きたい。
北海道では、製鉄炉は見つかっていない。
フイゴ羽口や鉄滓?のみ。
なら、実は北海道の遺構,遺物は元来製鉄遺構ではなく、「カラミ」の様な酸化鉄の廃棄物を伴う鉄以外の精錬遺構ではないのか?…だ。
勿論、鉄滓と「カラミ」の成分を比較した訳ではないし、関連論文もまだ探してはいないので、当てずっぽうに近い。
が、奈良の大仏建立以降であれば、金銀銅の需要は拡大し、用途も仏像だけではなく「和同開珎」ら国内銅貨らへの利用と、需要は拡大し、価値は自ずと上がる。
これなら、当時貴重な鉄器とも同等以上のレートで交換可能となる。
無理に製鉄なぞやらずに、自分達が得意なものと交換すれば良いのだから。
擦文期、交易の民である…これを「前提」にすれば、割と合理的に「何故製鉄をしなかったのか?」説明出来てしまうのだ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/18/201824
何せ江戸初期に、彼等は銀精錬は知っている。
むしろ、それがいつ頃からやっていたのか?と言う着目で思考するならば、こんな想像も成り立ってはくる。
邪推はここまで。
我々は素人集団。
通説に拘る必要も、同系統の学閥論理に縛られる事も、一定のストーリーに捕われる事も、ー権威に頭を垂れる義務もない。
自分達の疑問を自由に学べば良いだけ。
こんな発想もあってよい。
こんな東北との違いから考え…
そもそも、北海道で本当に製鉄をやろうとしたのか?違っていたのではないか?…と。
間違っても修正するだけ。









参考文献:

「平成二十五年度第一回鉱業博物館特別展 -阿仁の絵巻がつむぐ150年前の銅プラント-図録」 秋田大学大学院工学資源学研究科附属鉱業博物館 平成26.3月

観光アイノをどう評価していたか?、あとがき…「古いアイノと新しいアイノを分ける」意味と、吉田菊太郎翁が語る「函館市民の祖」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/25/212430
少し続けてみる。
吉田菊太郎翁にして、荒井源次郎氏にして、何故「古いアイノと新しいアイノと分けるべき」…に拘るのか?
勿論、それはよく話に出る「迫害,差別」らの根幹に対し、彼等がどう考えていたのか?…ここに現れるだろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/10/204415
勿論、「古いアイノ」に対する松浦武四郎らの記述は荒井氏も言及している。
その上で、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/20/193847
荒井氏も松前藩時代より、幾分幕府直轄時代の方を評価している節があるのは、これら対応策が古書らで残り、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/17/211327
幕末に、皆で豊かさを求め、役人、請負人,支配人と蝦夷衆が一帯となり開拓を進めていた事をそれなりに評価していたから…かも知れない。
何しろ、荒井氏は一次直轄→再度松前藩統治となった事をボロクソ書いている。

では、わざわざ二つに分けるべきと指摘する「新しいアイノ」への「差別,迫害」らについてはどうなのか?
これ…
実は吉田菊太郎翁が「アイヌ文化史」で当時の状況を解説しており、何故二つに分けて「現在の「新しいアイノ」を理解して欲しい」「観光アイノは同族の敵」と指摘するか?の基本的な考えを書いている。
引用に当たり、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/28/205158
彼等の歴史観金田一博士のこれに近く、往古より東日本に住んでいた「蝦夷の末裔」と言う事が前提になっている。


「扨てその間の消息を物語るに現行の北海道旧土人保護法の上ではアイヌ人のことを旧土人と呼んでゐるが是は救恤(筆者註:きゅうじゅつ、貧乏人や被災者を救い恵む事の意)を行ふ場合に於ける一般和人に対する事実上の区別に過ぎない。故にその族籍上に於いても其の他法令上に於いてもアイヌとか土人とかの区別を表したものは一つとしてなく正しくは日本人であり社会人である。一般人同様憲法上に保証されたる権利を享有し得るは言ふ迄もなく国民に負担されるすべての義務に服するのである。」

「此の傾向は(筆者註:東日本に棲み地勢上文化が遅れた為、China王朝で使われた「東夷,毛人」を当てられた傾向の意)今日に於いても一洗されず殊に地元北海道に於いては一層著しきものがあつたので進歩した男女になると如何に同化向上してゐても郷里にゐては家系が判明し素性が知れてゐるから頭上りがないのみか就職するにも結婚するにも色々支障を来すと云う状態であるから素性の知れない他府県に向つて転出す。津軽海峡さへ渡つてしまへば東北にしろ北陸にしろ千年も前にアイヌの姿は同化し切つてゐる土地故にアイヌの事なんか忘れてしまつて差別待遇もしなければ素性も判らぬ。そこで始めて大手を振つて世渡りが出来ると言ふ事もあり「アイヌ人は須らく(筆者註:すべからく)津軽海峡以北で住む勿れ(筆者註:なかれ)」とは同族青年男女の豪語する処でもあつたが蓋し(筆者註:けだし)当然だと言はざるを得ない。」

「私が知った範疇に於いても道内市町は勿論本州都市にも相当のアイヌ人が居住してゐるけれ共是等の都市から一人の土人統計も計上されてゐない。安政年間迄三千人近くも居たと云はれてゐた国後択捉島アイヌ人は海路の関係で概ね函館に渡つて現在の函館市民となつたと云はれるが今日函館市の人口統計にはアイヌ人は一人もゐない事になつている。斯くしてアイヌ人は移動に依つて静かに而も最も自然的に同化し否同化し終つてゐる。洵に結構な事であり、社会の為めにも同族の為にも真に幸福を齊す所以である。」

アイヌ文化史」 吉田菊太郎 昭和33.5.10 より引用…

基本的に吉田菊太郎翁は「早くに同化すべきだった」と述べていたので、筆者的には驚きはしない。

①法的には全く区別はされていない
②「滅びゆく」や「文化が低い」らのイメージが先行し、なかなか就職,結婚らに踏み込めず
③若い世代は北海道から他地域へ行き、自立の道を進む…これが盛んに言われていた
④行った先で幸せを掴み豊かな暮らしが出来ているなら誠に結構な事だ
⑤どうしても、身近でお互いの素性が解る北海道においては「古いアイノ」イメージ払拭が出来ていない
⑥上記①~⑤を踏まえ、古いイメージを匂わせる「旧土人保護法」も「観光アイノ」も止めてしまえ…
こんな感じになるか。
その上で…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/12/203509

自由平等友愛の
旗幟は高く掲りけり
旧き衣は脱ぎ捨てて
和人土人の区別なく
水平線の只中に
同化向上の一線を
いざ活き抜かん同胞よ

と、説き、北海道に住む同族の若者達にエールを送った…
これが吉田菊太郎翁の主張だろう。
荒井氏も「新旧アイノの違い」や「観光アイノは敵」とする事から、元々は概ね同様なんかと思う。
昔の世相を鑑みると…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/28/203440
教育に関して。
読み書き,会話が厳しくば、雇い入れる方も二の足は踏むだろう。
酒に溺れ働かぬイメージが付きまとった若者に、当時の親が自分で手塩に掛け育てた子の結婚を許すか?を考えると微妙だと思う。
歴史観の正否は別にして、「もう自立可能」と自認し、活動のトップランナーであった吉田翁や荒井氏にすれば、なんとか改善したいと考えて然るべし。
彼等が「新旧アイノの違い」や「観光アイノは敵」とした理由はこれではないだろうか?
吉田翁が調べたところの幕末以降の北方四島や道東での人口減少や「加賀家文書」にも記述がある労働世代の減少の理由はこんなところがその理由なんだろう。

彼等が言う「観光アイノ」の弊害、現状各施策と比較してどうだろうか?
彼等の主張と比べれば、かなり微妙だと思うのだが。


さて、然りげ無く吉田翁が記述しているが、彼が理事長として調べた限りでは、国後,択捉島の人々は函館へ移り住み、「クリル土人」「アイノ」「旧土人」を名乗らず、函館市民の祖として同化していったと言う。
確かに、開港して都市化が進む函館なら、従来と全く違う職業に付き、頑張れば出自なぞ気にせずに生きていけたかも知れない。
SNSでよく聞く話…「昔から敢えて昔の事は相手に尋ねない」と言う話も何となく納得。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/03/074515
グループで話す様になり始めてから、ずーっと言ってきた人口インパクトの中の「明治以降の北海道人口の倍々増」の一部は、期間限定ではあるが、各場所らで把握しきれなかった千島や道東からの道内への移動,拡散も一部あるのかも知れない。
道東等で減った分を東北らからの移住や出稼ぎ等で補充しつつ。
ここでも、幕末~明治での人口移動の痕跡は見える…と言う事かも知れない。

上記は、筆者が学ぶ過程で捉えた見方なので、全てに当てはまると言うものではない。
が、断片として、これも「成立しうる」とみて欲しい。
「差別等は受け手の感情による」と言う前提なれば、吉田菊太郎翁らの指摘も無視は出来まい。

その時代の限定された世俗の中でも、誰だって「幸せを求める権利」はある。
血統や習慣から離れ、稼ぎ、子を育て、幸せを得た人々を責める事なぞ出来ぬハズ。
吉田翁が言うように、それは結構な事だと言えるのが本当は素晴らしい事なんだと思うが。

吉田翁は何ら「権利の主張」はしてはいない事を付記しておく。







参考文献:

アイヌ文化史」 吉田菊太郎 昭和33.5.10

アイヌの叫び」 荒井源次郎 北海道出版企画センター 昭和59.8.20

協会創生期からのリーダー達の本音…彼等は「観光アイノ」をどう評価していたのか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/26/174417
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/27/202733
さて、こちらを前項として。
少々またSNS上で話題になった事を。
観光アイノを協会創生期のリーダー達がどう見ていたか?である。
現実には、以前より北海道の観光イメージとして利用されたり、古い古潭の生活や祭祀して各地で事業展開されたり、予算を引っ張る為に「推進法」利用しているのは、飛び交う報道で見えてくる。
ならば、そんな現実を民族運動の先頭に居た方々がどう思っていたか?だ。


「明治・大正期 から「アイヌ風俗」の見 られる地として紹介 されてきた旭川(近文地区)や白老より遅く、昭和に入ってから急激に観光 地として脚光を浴びた阿寒は、湖畔地区だけでも今なお年間150万人の入り込みがある人気の場所である。それだけに、阿寒でアイヌ文化に触れ、理解を深めたいと考える旅行者は少なくないと思われ[ペウレ・ウタリの会 1998]、アイヌ文化を普及するためのさまざまな新しい試みも始められている。」

「阿寒観光とアイヌ文化の関する研究ノート -昭和40年代までの阿寒紹介記事を中心に-」 斎藤玲子 『北海道立北方民族博物館研究紀要第8号』 1999.3.31 より引用…

「さて明治五、六年ごろの事であろうか~中略~これより川村モノクテが酋長となり~中略~川上コヌサは和人の測量など手伝って和語に巧みであり、従って何かと勢力のあった上に、旧土人博物館をその屋敷に設け、観光客を相手にしていたことから、便宜上酋長を名乗る様になり、さては一部族に両酋長がいると怪しまれたり、昭和十二年にはついに本家争というような紛議まで起きるようになる。」

旭川市史 第一巻」 旭川市編集委員会 昭和34.4.10 より引用…

この様に、古いとされる旭川(近文)で初めて博物館を作ったのは「川上コヌサ」のようで既に明治5~6年位には開始されていた様で。


ではまず、以前から紹介してきた戦前の協会理事長「吉田菊太郎」翁から。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/12/203509

「このように過去と現在を区別してアイヌ人を見る人が幾何あろうぞ之がアイヌに対し理解に乏しい者の中にはアイヌを利用して金儲けをする輩も少なくないといはれ、此の事に就てはアイヌ自体も誤つてゐるからである。過去の事ではあるが自業宣伝のため或は興業師等がアイヌを利用し観光其他に於て自他共に訳も判らぬ出鱈目な表現や振舞をさせ観客を欺く事を敢て行うという。」

アイヌ文化史」 吉田菊太郎 昭和33.5.10 より引用…:

添付でも引用していたが、彼は「過去と現在の二つのアイノ」とし、出鱈目な表現,振る舞いも含めて好意的とは考えては居なかった様だ。
何より、古いイメージでフィルターを掛けられるのを嫌い、それを助長する様なものには賛成しかねると言う感じか。
自分達自身も「古い古潭の生活は完全に滅びた」とはっきり言った上で、それを「保存」する意味で「北海道アイヌ文化保存協会」を設立し考古館を建設、初代会長に就任している。
これが彼からのメッセージ。


では、他には?
折角だから、上記旭川市に合わせてこの人物の主張…「荒井源次郎」氏。
彼もまた若手として、吉田菊太郎翁と同道し、上京したりした人物。
こちらは吉田翁の「アイヌ文化史」より時期を下り、‘80sに出版された「アイヌの叫び」からだが、吉田翁よりかなり過激。
何せその章の章題は「アウタリ(同族)の敵・観光アイヌ事業」とある。

アイヌの酋長制度は何時の時代に始り、何時の時代に終ったか明らかではないが、観光用としてのいわゆる自称酋長が誕生したのは今から四十年位前と記憶しているが、見世物的酋長或は古風の笹小屋など未だ跡を断たない。
ところが今日、和人がこれらの酋長を利用、商魂からのいわゆる観光用の自称酋長を使ってアイヌを見世物的俳優的な行為をさせている。勿論、彼等偽酋長も所詮生きんがために選んだ職業に外ならないが、こうした一部同族の所業から受ける多くの同族は著しく迷惑を蒙むる。こうしたことから利害の相反する両者が反目しいざこざが絶えないのは当然の事である。
しかも最近北海道の紹介書や観光案内のパンフレットを見ると、殆ど例外なしに往時のアイヌ風俗の紹介が載せられており、観光アイヌ所在地が示されてる。アイヌは恰も昔のままの生活をしているかのように紹介され、そのようなアイヌコタン(部落)が今日なお実在しているかのように取り扱われている。」

「現に本道における観光アイヌ地を大別すると、白老外数カ所に存在する。とりわけ白老は歴史的にも古くその規模も大きく、従って全道的に有名な観光アイヌ地である。次は規模において上川アイヌモシリであるが、運営は何れも和人が主体で町を挙げての観光事業であり、その他はアイヌ同志で観光組合を結成、或は個人的な経営であるが、ここで問題になるのは勿論現地の実状を観察するに、和人が実権を握りアイヌはこれに追従いわゆる利用されていることである。その一例を指摘すれば、みやげ品店のほとんどが和人の経営でアイヌは見世物的に別扱いをなし、一角に閉じこめて入場料を取り、アイヌの歌や踊りを観覧に供して利益を得る。そこには一部和人の不労所得者も介在するという噂もある。また、元々アイヌだけが生産をしていた民芸品の多くは、和人の機械製で、これを正真正銘のアイヌ製品なりと宣伝販売している事実は詐偽的行為といわざるを得ない。また、観光客に対するアイヌの紹介にしても、観光客を瞞着し、更にアイヌに対し侮辱的とも受けとめられる言辞を弄するなど、観る者聞く者をして憤慨せざるを得ないのである。」

「現に、アイヌ問題が一般に議論されている折もおり、観光客を相手にアイヌを売ものにしている輩がその多きを加えてきた。昔も今も存在しないアイヌの風俗生活習慣などの絵はがきや写真を宣伝販売、その他驚くべきことは、これも過去現在に存在しないアイヌ人形(木彫)を大量に作って海外まで宣伝している事実、こんなことでは何時の時代になってもアイヌは一般人から誤った認識で見られ、相互の理解を深める上に大きな障害になることは自明の理である。」

「普通いわゆるアイヌという概念は、厳密にこれをいうならば、往時のアイヌと現代のアイヌとに区別されるべきで、勿論人類学的には両者は同一であるにせよ、往時のアイヌは悠久なる太古から尾を引く古来のアイヌ文化を背負っていたが、現代のアイヌはそのような殻を破って日本文化を直接うけているのだから、往時のアイヌと現代のアイヌの間に区別の一線が認識されなければならない。〜中略〜現に往時のアイヌと現代のアイヌを区別してアイヌを見る観光客がどれだけいるか、また利用される側の同族にしても、コタン(部落)において昔のエカシ、フチ(先祖)たちが正しく行った神聖な祭り事をする、或はさせるというなら、歓んで賛同するものもあろうが、ウタリたちが観光事業に参加し売ものにされ、アイヌの宗教まで冒瀆し全く良心のない観光的見世物としてのアイヌの宣伝行為は人道上からも到底忍びないことで、勿論同族の子弟教育上心理的に及ぼす悪影響の大なることを特に憂慮されるのである。
今やアウタリ(同族)有志の間にアイヌの持つ真正なる文化保存活動に真剣に取り組んでいる際、心ない和人やこれに利用されている一部同族によって、毎年多くの観光客に対し虚偽のアイヌ宣伝をされるのは甚だ迷惑千万であって、勿論正しいアイヌ文化は根本的に破壊されアイヌを誤った認識で見られ、同族の尊厳を傷つけられる。
こんなインチキ業者の存在は断じて許されないのであって、またこれに追従している一部アイヌのためにアイヌ全体が律せられ、批判される。それだけアイヌを正しく評価されていないことになるが、その理由は一般社会的にも連帯責任があるが、このような観光アイヌ事業が存在する限り差別と偏見は具体化し正当化されるのである。勿論、酋長と呼ばれることが、一般観光客の心を強くとらえ、そこで観光客相手の商売は繁昌、生活も豊かになることはわかるが、悪徳和人たちに煽動されて同族を売ものにして、徒らに観光客に対し熊送りや踊りを振舞って過去のアイヌの生活風俗習慣など誤った紹介や実演をして、これを観覧に供して謝礼をもらって生活する同族の如きはアイヌ全体の敵である。
今後、利用する側とされる側の両者は大いに反省し自粛を強く求めるものである。」

アイヌの叫び」 荒井源次郎 北海道出版企画センター 昭和59.8.20 より引用…

あれ?
川上コヌサ氏の本家争いの時期と符号するような…
まぁ、置いといて…
荒井氏も往時と現代とで見方を別けるべきとはっきり指摘する。
その上で、往時をイメージさせる様な観光アイノははっきり自粛すべしと語っている。
なんと「白老」「近文」は名指し…
ぶっちゃけた話だが、普通に暮らす、個人で努力する…それでも「アイノと言う色眼鏡」で見られれば、それは耐え難いだろう。
以前から言ってるが…
出自の誇りは自らの心の内で持つべき物で、他人に見せるものでもないだろう。
それを誇張拡大し大々的にやるのも如何なものか?

筆者が修学旅行で見た(実際には直ぐにパスに戻った)観光アイノの違和感は、まんま荒井氏の怒りが端的に説明してくれた。
何十年前の違和感の答え。
さて、では現状はどうだろうか?
正しくアイノを知ろう…などと言って「観光アイノ」をやっているのでは、荒井氏の逆鱗に触れてしまいそうだが。
終いにそれを政府広報や事業でやってしまっているなら、尚の事ではないだろうか?

荒井氏が言う「利用される側の者」が誰の事か?は明確に言及されてはいない。
現在の「利用される側の者」が、何方側にいるのだろうか?


こんな視点もあると思う。
本当に、「現状の形で良いのだろうか?」
まぁ、そんな投げかけをして、この項は閉めようと思う。

「現状の形で良いのだろうか?」
そして、
「これが吉田翁や荒井氏が求めたものなのだろうか?」







参考文献:

「阿寒観光とアイヌ文化の関する研究ノート -昭和40年代までの阿寒紹介記事を中心に-」 斎藤玲子 『北海道立北方民族博物館研究紀要第8号』 1999.3.31

旭川市史 第一巻」 旭川市編集委員会 昭和34.4.10

アイヌ文化史」 吉田菊太郎 昭和33.5.10

アイヌの叫び」 荒井源次郎 北海道出版企画センター 昭和59.8.20

推挙を受けての三役任命、そして…「加賀家文書」に残る「雇い方願上」にある労働システム

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/18/210005
前項では、役アイノの推挙の話を。
では、改めてその後どうなるか?をみてみよう。
これは、一次幕府直轄以後の流れと見るべきところ。
その前、つまり松前藩施政下はどうか解らない。
同じかも知れないし、違うかも知れない。
蓋然性有りと言えるのは、幕末の東蝦夷地とされた地域の事だと言う事。
だが、幕府直轄では賃金やシステムの統一化はある程度予想可能。
何故なら、人足費用らは統一され、松前藩に戻された時代、後の二次直轄や東北諸藩に分割された時代もそれが踏襲されているから。

では、役アイノの任命から。

安政七年 役アイヌ申渡

安政七年申年
閏三月二十三日
アツケシ喜多野殿様
御用所御出席
当御詰合様同断

御申渡
惣名主役被仰付候 庄屋後見
惣年寄 仁助(ヘツカイ)

庄屋役人被仰付。
陣平(会所元・子モロ)

惣年寄役被仰付候
礼吉(ホニヲイ)
八蔵(ホニヲイ)

名主役被仰付候
正治(ホニヲイ)
喜吉(チウルエ)
鉄治(サキムイ)
三治郎(ウヘンヘツ)

殿様から年寄役 御直に被仰付候
鷹助(会所元・子モロ)
耕作(ウヘンヘツ)

会所から申立(年寄役)
重蔵(チウルエ)
才吉(シベツ)
四郎吉(ヘツカイ) 」

一応、解説には、安政七年は三月十八日をもって改元、三月十九日以降は万延元年になっているが、文書的には改元が反映されていない模様。
仁助が惣名主(惣乙名)となり、名主(乙名)と年寄(脇乙名)が厚岸代官立会で任命された時の「申渡書」になるのだろう。
厚岸の代官…仙台藩になるか。
この様に、役アイノは基本的に藩や函館奉行所から任命されるのだろう。
仁助はニシベツ川事件での活躍を経て、この地域のアイノのトップ「惣名主(惣乙名)」まで上り詰めた事に。
藩境とされる河川では、その利用権で上流と下流で揉めているのは概報。
この一件は白黒を付けるまで徹底的に役アイノ同士、又、藩を巻き込み話し合いをやっている様は、加賀家文書にも残る処。
役アイノ(役土人)任命はこの様な感じ。

では…

アイヌ雇い方願上

「恐れ乍ら書付けを以てお願い申し上げます

一当御場所のアイヌたちをこれ迄お貸し渡になり漁業に差し支えなく仕事をしてきました。有難く仕合せに存じ上げます。そのようなときところ、この度、御領地になりましたので、これまでの通りお貸し渡になられたくお願い申し上げます。尤も(筆者註:もっとも)、雇い方のことは漁業へ組み入れる者は
幕府の支配中からの仕切りの通り、漁割合勘定とし、その外大工・木挽・鍛冶・馬方・炭焼・畑作・山稼・二つの通行所詰人足・御用状持夫・通行人足等に使う者、これもまた先の規約通り賃金を差出します。勿論、食事等は入念に特別の手当等をして雇いたいと存じますので、恐れ乍らお願い申し上げます。以上
文久元年八月六日
御詰合様
御役人中様
子モロ支配人
善吉 印


御付札
書面 全て是までの通りと心得、アイヌの介抱は尚又念入に手当が行き届くように取計らうべき事 」


どんな時代か?
文久二年に皇女和宮の将軍徳川家茂とのご婚礼。
上記の通り、場所請負人の任期に合わせ、丁度幕府直轄領で仙台藩が警備の為の出張陣屋を開いていた時に、陣屋へ「アイノ雇い方願」を出したものか。
これを見る限り、統率しているのは藩、又は函館奉行所で、場所請負人や支配人は「その労働力を借り受け、雇い入れる」と言う形になっているのが解るだろう。


上記二つを見る限りでは、
・独立性はこの段階では無い。むしろ、幕府や藩直属の漁師,工人衆的な存在。
・幕府や藩から任命された役土人がそれら人民を率いる。
・場所請負人やそれに雇われた支配人が、幕府や藩に対して「その労働力を借り受け、雇い入れる」形で場所運営を行う。
・漁師は「漁獲高に相応した歩合」で、工人は「幕府が設定した給料」で、それぞれ支払われる。
以上。

随分イメージが違うと思うが、残されている「加賀家文書」に則ればこうなる。
故に、働きが良い者や家族円満,出産,長寿,死亡時には、幕府又は藩から場所を介して手当(ボーナス)が支給されたと。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/22/200203
更に「非課税」。
税金は、場所請負人が運上金として支払う。
本人達が払う必要はなかった。
この他に、役土人にはオムシャらで酒や煙草その他の「役付手当」が支払われ、後に上下の着用が許可されると。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/17/201757
この他、本州の名主や庄屋が行った世話役としての機能も支配人らが担い、賃金の台帳管理や戸籍(宗門改に必要)らも代行していたと言う事に。
何より本州との違いは、名主,庄屋を介して意見が言えた事。
下手に集まり逆らう様な意見を言おうとするなら、一揆とみなされ磔が待っている。
故に連座する時は円形に代表者が解らぬ様に署名したのは、あちこちの資料館でも展示が見られるだろう。
ここまで見た限りで、そのような連座署名はない。
場所経由又は乙名直接であれこれ陳情があったからこそ、赤裸々な話まで残されている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/20/071952
構造的欠陥も幕府直轄で随分解消されたと言わざるをえないか。
で、なければ、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/17/211327
こんな総力戦での開拓事業が、役土人含めて行われる訳もない。
勿論、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/10/204415
中には極悪非道と思われる場所もあったであろうが。
ただ、それも松浦武四郎等の様に、直接函館奉行らにリーク出来る者により、待遇検討余地が広がったりしているのも確かであろう。


さて、どうだろう。
史書から、それらを発行するために使われた史料に遡れば、こんな記事も存在するのだ。
本来、歴史学も体系的に組み上げられているハズなのだが、これら細かい施策が提示されている史書って少ないのでは?
「弾圧印象」が各文献でも先行し、感情論的に解釈された事が記載の多くに割かれているのもまたあるのではないだろうか?
多角的に他支店での検証が必要だと考えるのは、我々だけであろうか?

折角、某博物館も出来たのだ。
見直しすべきタイミングでもあるのではないだろうか?
勿論、それをやるのは「その組織の中に身を置く者」の役目だと思うのだが。
自浄努力は組織にとって必須、無ければ腐るだけ。
責任を持って「矢面に立って」戴きたいものだ。
多額の「税金」を使って存立しているのだから。





参考文献:

「加賀家文書 現代語訳第五巻」 別海町 平成17.3.31

江戸期の支配体制の一端…「加賀家文書」に記される役アイノ推挙の記録

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/17/201757
もう少し「加賀家文書」を観てみよう。

「乙名は部落長、脇乙名はその補佐役、小使は乙名の命によって部落の者を号令するもので、これを三役と称し、部落の統治はこの三役を通じて行われたのである。~中略~乙名以下役土人の任命は、もともと松前藩がまったく新たに選任したのではなく、蝦夷の慣習によって選ばれた酋長なり有力者なりが、乙名や役土人にたったのであるが、後にはしだいに和人の干渉が加えられら和人の都合のいいものが選ばれるようになった。」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和45.4.30 より引用…

まず第一点…
新北海道史に於いても、
・藩役人との上下関係は寛文九年蝦夷乱(シャクシャインの乱)後の起請文により成立していた事は認めている。
・その選任は慣習により決められた。
ここは認めている。
実際、豊臣秀吉からの朱印状で松前慶広の独立が認められた段階で「逆らえば、秀吉討伐軍が来る」と脅しているので、松前との上下関係は、そこの気もするが。

では、幕末どうだったのか?
加賀家文書をみてみよう。

①シベツ住年寄宅蔵名主への繰上願

「恐れ乍ら書付けを以てお願申し上げます

シベツ住年寄 宅蔵
右の者、日頃から実意をもって仕事に励み、アイヌたちも従って居りますので、この度名主へ繰上を言い付けられますよう、恐れ乍らこのことをお願い申し上げます。
文久元年八月二十八日 子モロ支配人 善吉

郡御役所 」


②シベツ村名主力助隠居、同所住アイヌ喜蔵年寄に取立

「恐れ乍ら書付を以てお願い申し上げます

シベツ村名主 力助
右は四年前から病気を患っていたところ、いよいよ老衰し、役を勤めかねるとのことを度々願出ていますので、どうぞ隠居を仰せつけられますよう、恐れ乍らこのことをお願い申し上げます。 以上
万延二年二月十八日
通辞 伝蔵
支配人 善吉


恐れ乍ら書付を以てお願い申し上げます

シベツ村住アイヌ 喜蔵
右の者、常日頃から真心を持って働き、村中のアイヌの評判も良いので、お取立になって下されたいと、役アイヌたちから願出てますので、年寄役にお取立に下げ置かれますよう、恐れ乍らこのことをお願い申し上げます。 以上
万延二年二月十八日
通辞 伝蔵
支配人 善吉

代官所

「加賀家文書 現代語訳第五巻」 別海町 平成17.3.31 より引用…

これら推挙により、代官所で検討の上、「役土人申渡」の書付で、申渡されるシステムの模様。

確かにこれを見ると推挙状は通辞,支配人名で行われている。
介在しようと思えば出来る事は出来る。
但し、見逃していけないのは、
①仕事ぶりの評価を下すのは支配人なので、推挙までは可能であろう。
②仮にここで無茶振りをしても、直接代官所へ申し出る事は可能。なので、余りに無茶振りな事は難しくなる。
③何より、全く慣習から外す訳にはいかない。
④勿論、代官には拒否権もあるであろう。
⑤「撫育」に協力的な者は「新シヤモ」として取り立てられた事は以前から指摘している。
これらは考慮が必要。

さらに…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/27/202733
川村カ子トと川上コヌサの力関係はこう。
川村カ子トが元々の乙名(名主)を継いだ家系で、役土人制度が無くなる明治までこんな風な慣習は続いていた。

なら、加賀家文書と旧旭川市史の中間は?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/01/223305
ベンリクゥの力は絶大。
周囲の者は逆らえない。
つまり、単に支配人らの思惑のみで決定出来る程、簡単ではないと考える事が出来る。


まぁ、少なくとも前項も合わせ、上記の段階では、支配体制の歯車に組み込まれているのは解るだろう。
つまり、明治政府の思惑で組み込まれた訳ではない事は解るだろう。
何せ、最終的には代官所からの書付で効力を発揮するのだから。
独立性を訴えるのは少々難しいのではないか?、何せこんな物証があるのだから。
明治ではない。
「少なくとも」江戸期、それも寛文九年蝦夷乱直後には、こんな風になっていたのは事実だろう。






参考文献:

「加賀家文書 現代語訳第五巻」 別海町 平成17.3.31

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和45.4.30

幕府や松前藩は本当に弾圧したのか?…「加賀家文書」に記される赤裸々な報告や史料の断片

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/08/062222
さて、一夫多妻ら家庭環境について。
前項にある、

「このようにアイヌが多くの妾をもつということは、裕福な和人が痴情的征服欲から妾を蓄えるものとはちがい、亡弟の後事を見てやるという深い愛情の発露から生じたものであり、また当時のアイヌ社会の労働力を根幹とした経済性から発生したものであった。」

平取町史」渡辺茂/河野本道 平取町 昭和49.3.31 より引用…

少々引っ掛かりが。
では、他の史書ではどう表現されているのか?

「結婚は自由ではなく、おそらく近親婚をさけるためであろう、~中略(男系は父からシロシ継承、女系は母から貞操帯継承の主旨)~同じ系統に属する男女は結婚を許されない。したがって、未亡人は実家へ帰っても結婚する相手がいないので、婚家にとどまり、夫の系統の者に再婚するか、その世話ななるほかはない。ゆえに勢力がある者はこうした婦人と婚し、又は養って、一夫多妻の形をとることがあった。」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和45.4.30 より引用…

ここも得意の「おそらくと言う推測」が微妙だが、感情論と言うよりは同系統での結婚を避けた「風習」を理由としているので、説得力はある様な気もする。

さて、ここまでが「前提」。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/10/204415
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/17/211327
先の平取町史やらで記載された「番人らの妾」や酷使の問題だが、松浦武四郎ら間接的に聞いたり関わった者ではなく、直接の当事者がどんな記録を残しているのか?知りたくはないか?

「加賀家文書」をご存知だろうか?
実は秋田県公文書館にもそれがあり、筆者も目にした事があった。
これは、中身の8割程度を残した「加賀伝蔵」を中心にして、4代に渡り場所支配人、通辞、番人らを歴任した一族が残した記録で、別海町の「加賀家文書館」で公開されている様だ。
幕末〜明治初期頃の執政者からの通達や支配人らからの報告書(家屋数や人口調査含む)、黒船来航への対応、住民らからの訴えへの対処等々が含まれる。
勿論、昔から知られて各研究で引用されたりしている一級資料。
加賀伝蔵は秋田県八森(八峰町)の出身で、兄らが道東で通詞らをやった為か15歳で北海道へ渡り、飯炊きから下積み、通詞や支配人まで上り詰めた人物で、晩年は引退し八森へ戻り余生を過ごしたと言う。
その記載に関係する地域は常呂周辺から厚岸周辺、国後,択捉までで、主に標津や別海周辺になる…正に幕末の東端の状況が記されている。
別海町では、この加賀家文書の現代語訳版を発行している。
その中で先述の家族関係やらを手持ち資料からピックアップして「糾弾される」側の視点も確認してみようではないか。
主には、どんな施策を行っていたのか?だ。
では…
※註釈
細かい引用文書は「参考文献」を参照下さい。


①場所の支配人・通辞・番人が心得ておく事


一 規則の趣旨を第一に心得る事
一 異国船を見かけたならばすぐに訴え出る事
アイヌの人たちの世話を念入りにし、道理に合わないことが無いようにする事
一 変わった出来事が有ったならばすぐに申し出る事
一 いつも生業を怠りなく一生懸命に心掛ける事
アイヌたちが各自貯えて置く食料や換物の外、油などの非常の際やいつも差し支えがないようにたっぷりと囲んでおく事
一 男女にかかわらず孤児・独り身・病人・障害者には、一際念入りに世話をする事
一 出生・死亡のアイヌの人がいたならばその都度会所へ届ける事但し、出生のときは 米八升、麹二升、死亡のときは 米四升、麹一升を遣わす事
アイヌの人たちへ諸品を売るときは、幕府が定めた値段の通りにする事
アイヌの人たちから軽物や他の産物、使用品等を買入れるときは、幕府が定めた値段通りに買入れる事
アイヌの人たちへ払う木挽き・飯炊き・山仕事、その外の賃金は、幕府の行ってきた通りに払う事
アイヌの人たちへ番家から与える酒や外の物は、幕府の行ってきた通りに与える事
アイヌの若者で独身の者がいないよう、乙名たちへ申し聞かせ、それぞれ縁組をさせる事
一 懐妊の女性アイヌに手荒く働かせたり、人夫等に出したり、重い荷物を背負わせるようなことは決してしてはならない。尤も幼児の養育は念入りににすることを申し付ける事
一 親孝行、関心な心がけや行いの者がいたなら申し出る事
一 病気のアイヌが薬用願を出したならば申し出る事。勿論薬用中は白米飯を与え、番人に度々見廻りさせ、戴いた薬等粗末にならないようにいたす事
一 番人並びにアイヌの変死、急病のときは届ける事
一 御用状の継ぎたては遅れないように心がけ、速達の御用状は番人が付き添い、急ぎの御用状は役アイヌ、その外少しばかりのものを与える事
一 役アイヌの内、病死で退役し、後役を申し付けるときは、乙名・小使たちに選ばせ、依怙贔屓のないよう正しく取り扱う事
一 御制札はいつも大切にし、風雨のときは見廻りをし、万一破損のときはすぐに届ける事
一 新規に漁場を開き、新規に家や蔵を建てるときは届け、総て初めてのことは届け出る事
一 各船の船頭たちはアイヌと交易のようなことをさせてはならないのは勿論アイヌの家へみだりに入らせないよう気を付ける事。但し、船手の者が勝手に山入りしてはならない、近くの番屋へ届けた上、樹木をとらせる事
アイヌの人口のことは五月中に調べ、六月に入ったならば差し出す事
一 旅アイヌの人口のことは、当年から御城下へ書き付けを出すことになったので、毎年アイヌの人口、生死ともその時々に届ける事
一 御詰合様が場所見廻りのときは、小頭役の者に役アイヌをつけて次の番屋へ送り届ける。しかも、止宿される所では夜廻り等までする事
一 年始の挨拶として、メナシ、その外から各番家から小頭の者は役アイヌと同道の上来られる事
一 寒中の挨拶として、メナシから総代として和人ひとり役アイヌひとり別海・幌茂尻・花咲はこれまでの通り役アイヌを連れて来られる事
一 毎年会所へ差し出している男の子たちの給料は、会所から払うので、その番家から払わない事
一 御詰合様見廻りは勿論、御通行の御役人様の往復の引き船を出し、丁寧に取り扱う事 但し、国泰寺様の僧侶の回向も同様の事
御目見アイヌの順番に当たる番家は、前の年から心得の指し図を受ける事 但し、来る未の年は順年でこざいます。

以上の各項目の通り心得ている事 以上

弘化二巳のとし
加賀屋常蔵殿 同徳右衛門 」

現代語訳版第二巻「御手本」より。
年代に少々疑義ある様だが、概ねこれを熟知し任務に当たる事としていた様だ。
一次幕府直轄の後の松前藩領となった頃の話で、直轄時の政策踏襲の様だ。
註釈には、
・各自の備蓄食らの他に根室では11箇所の備蓄蔵が有った様だ。
取引価格は幕府設定の継続した。これは同書や史書にも一覧されている。
不正しない様に記載あるが、運上屋や会所には担当役人が居て、不正の申出が出来るシステムにはなっていた。
事実、根室と釧路では河川の使用権で揉めており、最後は乙名同士が呼ばれそれぞれの言い分を聞く事態にもなっており、代官による裁定が下ったケースは同書や史書にも記載がある。
また、「撫育政策」としての各項目への事例は②以降に記していこう。
薬用願では註釈に仙台藩の医師が別海住居女土人3名への治療を行った事例が付記されている。
人口調査も「旅土人」、移動している者も報告対象となり、人別帳が残される。
御制札とは?、要は「邪宗門や外国人へ従う事は厳罰」等三箇条の「掟」を書いたお触れ「高札」の事。
これらに伴い「不正は役人に届け出る事」はお触れで周知されていた。
一次直轄後、不正と思われる事が減って行くのは、松前藩の「無為に治める」→幕府の「掟厳守」への転換によるとも言えるのではないであろうか?


②伝蔵へ、赤子訓導役申し渡す

根室通辞
伝蔵へ
一 幼児の教え導き役人を申し渡します
この度、幼児の教え導き役に定めた趣意は、アイヌ人不足で不毛の土地でも人数が増へ漁業が年毎に盛んになるよう場所請負人は勿論、アイヌ至るまでかげながら助けにもなるようにして置きたき処、アイヌが増える基は赤娘を産み養育が行き届くことが第一のことであり、その根源は妻がいない男や夫がいない女が無いように、十分なお世話をされれば、自らアイヌが増え、場所の引立てになりますので、この趣旨をよく理解し精勤する事。」

現代語訳版第一巻「雑綴」より。
日付がないが、前後に綴られた物を見る限り、第二次直轄時の事か。
最大の目的は人口減少が元で場所運営が滞る事ではあろうが、子供の養育と特に土地の者同士の結婚斡旋をする事がその任務の記載がある。
現代なら「少子化対策」になるか。
当然、先述の同族以外でなければ結婚出来ない風習とはバッティングしそうだが、その辺は場所を複数受け持っているので仲人的に動いたりも出来そうではある。
あくまでも乙名との調整になるだろうが。
公儀からの通達上はこんな事もやっていた。
これも断片ではあろうが、人口減少は場所運営に差し障り、直近の問題だった事が解るだろう。
又、上記通り、夫がいない女性だけでなく、妻の居ない男性も対象なので妾云々で済む話ではないのも付け加えておく。


③老女ペテレクテへの手当て

「標津住居女アイヌ ヘテレクテ 九十八歳

その方は親子、兄弟、縁者もいなく、孤高のもので難渋しているので、米五斗と古着一枚をくださる。

(安政六年) 六月 」

④ヲン子シトカへの手当米

「ヲンネシトカ

その方は、いつも家族が仲良く、一生懸命働いていると聞いたので、米八斗をくださる。

(安政六年) 未六年 」

③,④共、現代語訳第一巻「雑綴」より。
身寄り無き高齢者や、家族仲良く仕事に励む者への特別手当が支給された事例。
所謂「撫育」の一環だろう。
別に同化政策だけやっていた訳でもない。
努力する者には褒美を出したり、協力し仕事に励めばボーナスが出たりする。
勿論、幕府はある程度相場を決めていた様だが、この他に、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/22/200203
全てが非課税…この特別優遇措置は大きいのではないか?
実は、善蔵も若い頃から行った先々で開梱をしており、巡検使見回りの折に作物献上し、ご褒美が下されていた事も残されている。


⑤申渡

根室・花咲・野付三郡の全てのアイヌへ親しく申し付ける

一、「天子様」を大切になされ、「御制札」の内容並びに「御知らせ」のあの事この事をしっかりと守る事。

一、何事によらず、世の常ならざることをみかけ次第直ぐに申し出る事。

一、御命令が有るまでは、総て前の通りに心得、…
…一同なりわいに精を出し尽くし、親しく、家業が繁盛するようにする事。
追加、取り扱に於いて頭の者を始めとして番人たち、その外の者たちが自分勝手で一同が困ることになれば、なんの遠慮もなく訴え出る事。
(明治五年) 月 日

開拓使

現代語訳第一巻「雑綴」より、開拓使からの申渡。
解説ではこの年、
村名設定や撫育が行われ、年末にオムシャの禁止令が出された。記録上、根室最後のオムシャだそうで。
御制札(高札)も含め、明治に変わっても暫くは、従来の生活が続いた事になる。


⑥老女死亡届

「恐れながら書付を以申しあげます
幌茂尻住居
アイヌ女性 ソロホク
八十三歳

右の者はかなり高齢となり、急病を患いろいろと手当てをしましたが、そのかいもなく、昨夜十一時頃病死とのこと、幌茂尻の番屋守から申し出がありましたので、おそれながらこのことをお届け申し上げます。以上

慶応元年五月十六日 根室場所支配人
善吉 印
正三郎様 」

現代語訳版第三巻「萬覺帳」より。
宛先の「正三郎様」は、仙台藩根室出張陣屋代官の「本多正三郎」か。
各番人から報告が上がり、場所支配人が直接に代官へ報告していたのが解る。
他項でも記載したが、あくまでも場所請負人は統治している函館奉行や各藩から人的資源を借りているに過ぎない。
①の人口調査報告の事例。


⑧標津アイヌメノコビの事

「標津住居
母 マツヌイ
倅 センコムケ
妹 キトエ
同 シュツエ
嫁 メノコビ
家内五人
男一人
女四人

右の芋キトエと嫁のメノコビが以前から不和であったところ、この度マツヌエ・センコムケ・シュツエ等がメナシの方へ伐木のために行ってて留守の最中、特別なもめごとがまずあって、どうしようもなく当座の凌ぎのため、根室に居る親類の女のシトナウカル・ヤカムの方へ行っていた。標津へ帰る時になってふとした出来心で釧路の親類の方へ立ち寄ったとのこと。御答え申し上げておぎすのでお含みになって下さい。

女 キトエ
夫 チヤレ
この二人は別家に居合わせていて、このことを知っているとのこと

女 メノコビ
母テハクエ
右に同じく、知っているとのこと。

この件は厚岸の御用所でお決めになられるとのこと。内々に承っめいることです。」

現代語訳第四巻「大實恵」より。
嫁と小姑の揉め事の模様。
加賀家文書でもさすがにこれ一編のみだそうで。
解説でも「家庭内不和は国や民族を問わず永遠の出来事」と…いや、時代も問わずだろう。
注目すべきは、これら家庭内の事も訴えあらば役所や通辞が関わり、仲裁したりしていたようだと言う事だろう。
より身近な問題でも、相談役としての機能をやらされていた事になるのか。


⑨釧路女アイヌヲシタエが標津へ逃げ帰った一件

「前略〜

釧路場所 女アイヌ ヲシタエ
右 口述

私は釧路場所を逃げ出し、根室場所の内の標津の番家へ参りましたことをお調べ中にございますのでこのことを申し上げます。私は、元標津生まれで、両親共幼少の時に亡くなり、同所のアイヌハツテシユの女房マウンヌルと言う者に養育され、成長の後所々へ縁付いたが、兎に角不幸で嫁いだ先々で夫が病死したり、離縁等をされたり、仕方なく親類たちの厄介になり、漁業をしていたところ、四年前から同所の番家守の世話で乙名力助(筆者註:アイノ名カモイサイケ)の女房になり、睦まじく暮らして居たところ、一昨年十二月中釧路場所内へ厚子用の皮を取りに行って、広場の小屋で休息していたところ、同所の御役人でえる小田井蔵太様が山中御見回りとして御通行になられ、その時役アイヌのメンカクシが付き添われこの広場で捕まり、一通りお調べの上蔵太様が御立ち戻るまでの間、このメンカクシへ御預けなり、足枷を打たれ、会所へ引き連れられてきたところ、御同人様に同所で言い聞かされたのは、米なり酒や又は古着なり亭主なり、何不自由のないようにするので、釧路アイヌだと理解することと言い聞かされ、この故か当分の内は、十日目に玄米四升、また十日目に二升というように同所から貰っていたところ、安政三年の春になり
子供位な、チカフウカヲと言う者をメンカクシの世話で夫婦になった。実は不服であったが、御役人並びにメンカクシの威勢を恐れ、仕方なく夫婦になったことで、このチカフウカヲ亭主にしたからには、もう会所からの手当もないことをメンカクシが言い聞かせ、それ以来夫婦で昆布を取りに各場所へ稼ぎに行っていたところ、この昆布一把を会所に持っていけば、玄米一升と引き換えになり、その時は一把に付米一合の手当て米を貰い受け、漸くその日暮らしをしていた。
そうして居るうちに、私も老年になり、夫のチカフウカヲから昼夜の区別なく交合のことをせがまれ、夫の言うなりになっていたが、今申し上げました通り、夫は若者の盛り、せがまれるままにもなり兼ねたので、時にはつれなく断る事も有った。その時な飯等もくれないで、空腹で過ごすことも度々あって、標津へ帰ればこんなこともないものをと、ふと気付き、その上同所には夫の親類はいるが、釧路には情けをかけてくれる身寄りもいないので、打ち明けて相談する手段もなく、元々標津は出生の村で、両親の墓所も有って、且つ、夫の力助へも久しく会ってなく、かれこれ朝夕苦しく思っていたところ、釧路場所の桂恋へ夫に付き添って、昆布取りの稼ぎに行ってたところ、やはり前に申し上げました通り、交合を毎夜せがまれ、とてもこの上は添え遂げることができなくなったので、仕方なく同所から逃げ出したことでございます。この上どのように言い付けられても釧路へ帰る気は毛頭ございません。
力助並びに親類等を慕って参りましたことですので、私一人を御助け下されると思われ、特別の御慈悲で、右漁業科せきをしたいと思いますので、なにとぞこのことを御許し下さいますようひとえにお願い申し上げます。
右に申し上げました通り少しも相違ございません。 以上

右 ヲシタエ
根室御用所

前書の趣旨、私も参り通訳しましたところ、ひとつひとつ相違ございません。
従って奥夏季に印鑑を押して差出します。 以上
通訳代 伝蔵 印 」

現代語訳第四巻「大實恵」より。
赤裸々である。
前略部分は、ヲシタエと言う女性を標津で預かった事と、それまでの経緯である。
概ねどういう事か?

・ヲシタエは元々身寄りが少ない女性で、夫とも離別を繰り返していた。
・標津の番人の世話で標津の乙名である力助と結婚し仲良く暮らしていた。
・釧路場所へアットゥシの皮を取りに行った所、釧路の役人(小田井)と釧路の乙ナ(メンカクシ)に「捕まる」。釧路側へ入り込んだ事やヲシタエの祖父と母は釧路出身な事が根拠の模様。
乙名に足枷を付けられ釧路へ連れていかれ、釧路アイノであると言い聞かせられ、手当米を充てがわれる。
・釧路乙名の斡旋で子供程に歳が離れた夫と結婚をさせられる。この時点で手当米はカット。
・若い故に昼夜問わず性行為を迫られ、拒むと飯を減らされる。この時は飯一合/日。
・耐えられなくなり、標津場所へ逃げ出す。取調が行われ、標津の役人2名(金井,名取)が立ち会う。標津の支配人は善吉(善蔵の兄)、通辞が善蔵。
・取調の内容を通辞の善蔵が纏めて書簡にして、根室の御用所へ送付した。
こんな感じ。
この時は釧路→仙台藩、標津→会津藩だったのでは?
藩境を超えたが故か?、それだけ人口減少が問題だったのか?、足枷を付けた乙名のやり方も中々エグい。
実はここの解説は簡素で「色々な事が見えてくる」とはあるが、重要な事に触れていないような…
再三我々は指摘してきたが、役人の横暴と言えばそうなるのかも知れないが、ご覧の通り、乙名等、役土人が関与している事だ。
当然なのだ。
請負人、支配人、通辞、番人ら場所の人々は、労力を借りているに過ぎない。
職制上は、藩役人の下に乙名等の役土人が着く。藩役人が動けば役土人も付き添う。
この通り、釧路乙名が介在している。
場所間の行き来はあり、釧路アイノが根室場所で雇われ場合により根室各地に定住したりしている様だ。
この一件、松浦武四郎の地図と合わせ、ヲシタエが逃げた時の滞在地らは特定されている模様。
人口減少は直近の問題でもあったのだろう。


如何だろうか?
これが支配人,通辞や番人が残した記録。
視点が変わると印象も変わろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/10/204415
簡単に悪逆非道とだけ言うわけにもいかないと。
勿論、これは断片の一つに過ぎない。
相対的に根室や釧路らの記録らとの突き合わせや松浦他の史料との整合性をとる必要はあるだろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/20/071952
歴史に正邪無し。
構造的欠陥を修正しながら今に至る。
現にこれらのような施策が打たれていたのは間違いはないだろう。

加賀家文書は、昭和50年代には史書資料編に掲載されたり、この数値で交換レートや人口を割り出したり利用された史料。
専門家なら知っているであろうし、目にしているだろう事は付記しておく。
こんな記録もあるのだ。
一方的に見ても断言してもいけないと言うことだ。
加賀家文書は千通に及ぶと言う。
まずは手持ちの第一~五巻までサラリと抜粋してみたが、筆者はこの先何巻迄出版されているか?は確認していない。
中々赤裸々で面白い史料だと思う。
興味ある方は御一読を勧める。
幕府や松前藩の施策のイメージが少し変わるかも知れない。







参考文献:

「加賀家文書 現代語訳第一巻」 別海町 平成13.3.31

「加賀家文書 現代語訳第二巻」 別海町 平成14.3.31

「加賀家文書 現代語訳第三巻」 別海町 平成15.3.31

「加賀家文書 現代語訳第四巻」 別海町 平成16.3.31

「加賀家文書 現代語訳第五巻」 別海町 平成17.3.31

平取町史」渡辺茂/河野本道 平取町 昭和49.3.31

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和45.4.30