時系列上の矛盾…厚岸町に残された貝塚は、「送り場」と言わずとも「産業廃棄物廃棄場」でも説明可能

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/14/201205
我々には「ホットスポット」と考える場所が幾つかある。
その1つは散々取り上げ、未だ文献収集中の西の「余市」。
実は、東のホットスポットにはなかなか触れてこれなかった…資料が少ない。
が、この場所の発掘調査報告書をガッツリ抑えると、江戸期の状況は解りやすい。
何せ一次資料たる「運上屋書類」や「日記」、二次資料たる「史書」等に結構登場するからだ。
そこは?…「厚岸」。
何せ、北方四島、千島らの玄関口の湊町。
やっと何とか発掘調査報告書を入手した…
と思ったら前項「赤蝦夷風説考」やら千島絡みがボコボコ出て来て、更に…
https://twitter.com/porun778/status/1371138119781642241?s=19
SNS上でこんな著書が紹介された。
蝦夷地場所請負人 山田文右衛門家の活躍とその歴史的背景』
ロバート G・フラーシェム/ヨシコ N・フラーシェム
厚岸場所の研究書。
その引用文中に「牡蠣」とあったので、筆者は思わず反応した。
読み出した発掘調査報告書に「牡蠣殻」があったので、渡りに船、絶妙なトスがピンポイントに来た如く…
なので、ここは、本来紹介しようとした部分に先駆けて、「Bクイック」でスパイクを打つべし…

前提条件は、
1600年代に運上屋が出来…
牡蠣は江戸期を通した「交易品」である…
この二点を把握した上で読んで戴きたい。
貝塚についてである。

「三回に亘って発掘した貝塚の散布範囲は、東西20m、南北50mと帯状にみられ、当初かなり大規模なものを予想させたが、本来の貝層は、竪穴のある5m段丘を中心に斜面に沿って弧状に分布しているのであった。したがって、斜面上部に浅く、下るにつれて厚く堆積し、その下層に発掘区によって多少の違いをもちながらも、包含層は黄褐色砂質土層、魚骨腐蝕土層、泥炭層、粘土層を介在させ、青色粘土層上面をもって遺物の出土は尽きる。しかし、貝塚は単一時期のものだけではないらしい。」
「遺物の出土傾向は大まかにみて、純貝層の上にくる混土貝層中には続縄文、擦文、オホーツク式土器が出土し、純貝層以下の層位から続縄文の前半の土器群が出土している。」

貝塚の発掘は一つには良好な包含層を求めて回を重ねた面もある。にもかかわらず、全トレンチにおいて随所に撹乱層がみられ、異常な状況を示していた。」
「このことと関連して、清野謙次博士は大正15年の人類学雑誌上に興味ある通信を寄せている。博士はこの年、人骨を求めて7月から8月にかけ、本町に滞在し、大別、チラカベツ、尾幌、オカレンボウシ、筑紫恋の貝塚などを発掘した。それを報じた中で、筑紫恋を除く他の貝塚いづれも数年前に建築用の貝灰の原料としてカキの殻を採取したため、これらの貝塚の大部分が荒らされ、特に神岩の貝塚は全滅したと述べている。」
「このことについて、この辺の事情に詳しい本町在住の田口省一朗氏に聞いたところ、大正4、5年頃から数年の間に、厚岸湖周辺の比較的便利な場所に存在した貝塚は、軒並み貝灰用の貝殻を得るため乱掘されたという。同氏も大正6年から一時それに従事した。その堀り方は次のようなものである。まず表土を剥ぎ、保存の良い部分カキ殻を手当たり次第掘り出し、破砕された貝類及び石その他邪魔物は次々と後ろへ投げ捨てるか、或いは掘った穴へ埋め戻し、掘り進む。貝は真竜にあった貝灰工場に運び換金したという。」
「この様なわけでオボロ貝塚は全滅に近い状態となり、対岸の大別貝塚を荒らし、別寒辺牛川を渡って神岩周辺の貝塚に手をかけたのである。尾幌川の河口で貝塚採集中に得た人骨頭部を当時来町した河野常吉氏にあげた記憶があるといっている。このことは清野博士も記録している。下田ノ沢については、湖岸寄りの部分の貝層は掘ったが、奥は手をつけなかった筈といっているが、誰か別の人が手をつけている可能性はあるという。これによって、ほゞ異常なまでの層序の混乱は説明がつく。今後この一帯の貝塚の調査に当たっては、この事実に充分留意する必要がある事が解った。」

…「厚岸町下田ノ沢遺跡」 厚岸町下田ノ沢遺跡群調査会 昭和47年3月25日 より引用…

以上である。
①牡蠣は交易品で大量に必要となり得た。
②続縄文期位から、厚岸湖周辺では大量に牡蠣が採られ、その牡蠣殻は周辺に廃棄されていた。
③廃棄は、時代を跨ぎ、高台から川や湖の方向へ断続的に行われた。
④近世~近代で、牡蠣殻を貝灰原料として掘り出し、工場に売却した。
⑤それに寄って失われたり撹乱された貝塚は多数に登る。

ここまでは事実だろう。
まるで鉱山。
ここを読んでる時に、上記情報があったのでピンと来た。
元々我々は、「何故こんなに貝、特に牡蠣殻を残す必要があったのか?」考えていた。
何故なら、あまり郷土料理等で貝を使った物を見てはいなかったからだ。
当然、食べたであろう。
貝塚はあちこち海辺中心に検出されている。
だが、時代複合とは言え、工場用原料として使えた規模となれば話は別。
コタン規模から考えて食いきれる量だととても思えず。

「売る(交易)為に、牡蠣を捕った」…
つまり産業として成立していたのなら、話は別だ。
海運を使うなら、保存も含め乾燥して出荷したであろう。これは全時代においてである。
当然、大量の貝殻を廃却する必要が出てくる。
勿論、誰が廃却したか?は別にしてだが。
これが「江戸期に大規模貝塚が再登場」する理由には、十分。
よく、この手を「送り場」として、宗教行事場と称するのは、幾つかの発掘調査報告書に記載され考察されるのは散見される。
だが「アイヌ民族は食べきれぬ量は捕らない」…これはどうなのだ?
産業として、生業として、大量に採った…つまり産業となっていたのなら、これは「送り場」なる宗教行事場ではない。
「産業廃棄物廃棄場」となる。
勿論、先の通り、産業廃棄物廃棄場に誰が廃棄したのか?、全ての貝塚がそうなのか?これは別の話。
この点は留意する必要はある。

こんな事を書くと、また一定の主張をする輩が沸いてくるので、下記を添付しておく。
各地の教育委員会も、貝塚が誰が作ったものかなぞ、断定する「物証」なんぞ得てはいない。

「これら貝塚を残したのが人々が和人なのかアイヌ民族なのかという問題がある。余市地方では中世以降、本州からの文物が早くから使用されており、近世社会ではアイヌ社会の生活様式が和人化していることが考えられるからである。一般に陶磁器類についてはアイヌ民族はあまり使用されず漆器が主体と言われるが、骨格器は地元での製作であり、アイヌ民族との関わりが強いと考えられる。このような状況をどのように理解すべきか今後の調査と研究の課題としておわりとする。」

「大川遺跡発掘調査報告書 -大川橋線街路事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-」余市町教育委員会 平成12年3月25日 より引用…

以上。
当然だ。ごちゃ混ぜに種々の文化の遺物が出土し、時代も混ざる。
特定なんぞ直ぐにはムリ。
文句がある方は、各地の教育委員会へどうぞ。
これで各教育委員会にクレームをつける様な方は「ムダに採らない持続性文化」を自称している事を無視する「文化的レイシスト」とでも呼ばせて戴だく。


冷静に考えて戴きたい。
自分が牡蠣殻を廃棄するとしたら何処に棄てる?
・自分の目の前には置かない…
・自分の足元より高い場所には棄てない…
・従来廃棄されている場所に棄てる…
斜面や凹み、且つ以前から棄てられた形跡がある場所を選ぶのが自然なのだ。
更に東北の実例…
宗教と廃棄を含め「捨て場」と呼ぶ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/02/191856
まぁ「捨て場」→「送り場」となるのだと、こう言いたい方はこちらをどうぞ。
聖地白老だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/30/161755
その変化は、火山灰が降り注ぐ前後からだと、認めて戴ければ宜しい。
つまり、ここが文化が変わるターニングポイントとなると認めてしまえば良い。

東北の「捨て場」…これとの関連?
それは今後、別の項にて。
まだまだ、厚岸町の歴史を楽しもうではないか。



参考文献:
厚岸町下田ノ沢遺跡」 厚岸町下田ノ沢遺跡群調査会 昭和47年3月25日

「大川遺跡発掘調査報告書 -大川橋線街路事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-」余市町教育委員会 平成12年3月25日

樺太,千島と本州人との両血統持ち、帯刀した人の痕跡…「択捉島」で出土した人骨と日本刀

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/14/201205
本項も「赤蝦夷」つまり千島方面の人々の話になる。
関連項はこちら。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/13/213724
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/10/114329

たまたま何故か筆者が持っていたコピーなのだが、ただでさえ千島,カムチャッカ系の話は薄い。
では引用してみよう。

「以上の土器石器は、共に竪穴地帯よりの出土品であるが、前記の如くこの地より二三町離れた地域に刀及び人骨が発見された。」
「刀は現長一尺六寸五分を有し、その内、身の長さ一尺二寸六分。両端は各々缺失するも、鍔の状態から観ると刀身の長さ二尺三四寸前後の打刀であつたと思はれる。一般に酸化甚だしく、刀身は平造で、背はやゝ圓味を持つも稜角なく、全長に對して約三四分以上の外反りを有したらしい。それを包んだ鞘は現在腐朽してその木質のみ見られるが、極めて扁平な製作に係り、江戸時代に行はれた日本刀の鞘とはかなり外観の異なるものと考へられる。」
「尚その一部に幅約二分…前後の樺櫻の表皮を同一の間隔を置いて笛巻状に纏いた所謂樺櫻纏きの部分が遺存して居るのは特記しなければならない。他にこの刀の特色としては、木瓜形の表裏に柏葉を意匠した柩穴のない青銅製の鍔のあることを挙ぐべく、又元来この刀には脛巾金を用ゐて居なかつたことゝ、革切羽が嵌つて居り且切羽と鍔との間に布片が介在して居る様なことも看過すべきでなからう。」
「この刀は、近世のアイヌの墓地より発見せらるものと類似して居るが、その年代の推定に就いては鞘の手法・様式等の相當古式を示すに反し、鍔は様式上少なくとも室町時代を遡ることはない。又刀身もその平造は或いは古い作風を示すとも考へられぬ事もないが、寧ろそれは製作の粗雑に基くものであつて、鍔の推定年代と大きな隔りはないと思はれ、全體を通じてやはり室町時代頃に置くのが妥当であらう。」

考古学雑誌 二十三巻六号 「千島択捉島出土の土器及び石器」 齋藤忠 昭和八年六月 より引用…


元々、この発掘は、昭和七年に択捉島の湖沼や動物採取の調査に入った研究チームが、紗那郡別飛町で無数の竪穴住居跡と思われる凹みを発見し、合わせて考古学調査も行ったと言うもの。
縄文の土器,石器を検出したが、近くの凹みで人骨と日本刀も発見した。
頭位は東の仰臥葬。
腰付近にこの様な室町期と推定される日本刀されていたと言う人骨は、熟年男性とされた。
人骨はこの他にも壮年女性と思われるものかあったとの事。
この様に、これら人骨を骨格学見地から解析したのは、中山/三宅両博士。
京大の清野博士の研究チームである。

実は、問題はその骨格傾向。
ではそちらも。

「二例共に長さ約五尺、幅約二尺の長方形の土穴中に東首仰臥伸展位にて埋葬され、第一號人骨(第九〇九號A)は右側腰部附近より鐵刀を出したが、第二號(第九〇九號B)よりは副葬品と認む可きものを伴出しなかつた。本人骨の保存状態は二例共甚だ不良で、殊に四肢骨に甚だしく、頭蓋及び下顎骨以外の計測は全く不可能である。」
「然し、本方面の研究が全くないことゝ、本人骨の不完全だといふことゝは、満足の結果を得ることは勿論出来ない。以下周圓民族殊に樺太アイヌ・北海道アイヌ現代日本人人等に依つて比較研究することにする。」

考古学雑誌 二十三巻六号 「千島択捉島別飛出土人骨の人類学的研究」 中山英司/三宅宗悦 昭和八年六月 より引用…


まだこの周辺の人類学は創成期。
殆ど研究はされておらず、故に結論は先としながら、比較したとある。
実際、本文中には、千島アイノは本道アイノ、カムチャッカアリューシャンの人々、更にロシア、そして本州とのやり取りがあるのは、中山,三宅両博士も熟知。
どんな「人種」か興味があると記載がある。
先の関連項ら同様に、バラムシロ(北千島)人骨、吉胡,津雲人骨らも合わせて検討した模様。
あれこれ書いてはあるが、残念ながら筆者には骨格学知識は無いので割愛する。

結論として上げているのは、保存状態やらが悪く、且つカムチャッカ,アレウト等の検証不足で、明確な結論は得られなかったとしつつ、その特徴は…

①大概に於いて、他の人骨より「樺太アイノ」に近い傾向を示す。
②全く「本道アイノ」の特性を持っていない。
③むしろ、北陸・畿内の「現代日本人」の特徴に近い部分を持つ。

以上三点。
この段階では、本道アイノをすっ飛ばして、(樺太系に近い特徴持つ)千島系と本州人の両血統を持つ、つまり混血している可能性が示唆されたとある。
つまり、夷船で十三湊や秋田湊に来ていた人々の一派は、北海道を飛ばして、既に本州と婚姻関係を持ち、帯刀する者がおり、それは室町期位に遡る可能性を持つと言う事。
さて、この時代、古書記載に残される統治者は誰?
「安東氏」になる。
勿論、時代によっては「南部氏」や「浪岡北畠氏」の可能性もなくはないが、少なくとも、婚姻関係を結ぶ程になっていた事にはなる。

又、少なくとも骨格学上は、江戸期において、口蝦夷と言われた「本道アイノ」と赤蝦夷と言われた「千島アイノ」は全くの同系統に非ず。
別の系統を持ち、実に様々な人々が居て、中には本州の血統を持つ者も居たと博士達は考えていた様で。

この報告の細かい場所や発掘状況は、択捉島が陸軍管轄下で、シークレット。
択捉島紗那郡別飛町のみ記される。

室町期ですら混血し、数点の標本で大勢を判断出来る状況には、既に無かった可能性もあったと言う事。
まぁアリューシャンカムチャッカも千島も火山爆発はあった訳で、待避したりは当然あったであろうと言う事だ。
むしろ、混血してくるのが自然なのかも知れない。
当然ながら、これら真実がどうであるかなぞ「机上の研究や単一の学問だけ」で解ろうハズも無いと付け加えておく。


参考文献:
考古学雑誌 二十三巻六号 「千島択捉島出土の土器及び石器」 齋藤忠 昭和八年六月

考古学雑誌 二十三巻六号 「千島択捉島別飛出土人骨の人類学的研究」 中山英司/三宅宗悦 昭和八年六月

時系列上の矛盾…「コロボックル」?、赤蝦夷風説考にある赤蝦夷の人々の姿

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/08/124743
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/08/192041

せっかくなので、もう少し「赤蝦夷風説考」に触れていく。
と言うのも、樺太沿海州方面の話はよく聞くのだが、千島~カムチャッカ,オホーツク方面の話は格段に少ない。
なら、全体像として、赤蝦夷の人々がどう描かれてあるか?を引用してみよう。


「一 人物ひくき方、顔の色薄赤く黒き方、髪は黒し。顔のはゞひろし、はながとがり、眼くぼむ、眉うすし、腹大きくたれたる方、手足やせたり。肩程よくはゞひろき方、食するに手を以てして洗う事なし。」
「家は小屋に居て、四束五束の(足のたけを一束といふ)ふかさに土をくぼくほりている。四本はしらを建て、上に二階あり。外とは土にてぬる。二階のうへに四角なる穴をあけて、上窓煙出し戸などあり。」
「漁猟を第一とす。皮を着る。様々の獣皮も着す。顔をぬりなどして唇の方をのこす。女はのこらず、黒く成す。銀の鐶を耳にかける。日本人にては○○○○○(筆者註:ヲランダ文字?「ヲクエツ」のルビ有り)といふ。」

「右ゼヲカラーヒ(筆者註:「書ノ名」のルビ有り)の説(これは赤ゑゾの古来よりの人物の記事にて、ヲロシアの人物にはあらず)」

「北方未公開古文書集成 第三巻」 寺澤/和田/黒田 「赤蝦夷風説考」 工藤平助 昭和五十三年七月五日 より引用…


工藤平助はオランダ版万国地理誌(ゼオガラヒー)から引用した模様。
上記は下巻より。
下巻は主に万国地理誌らからの解説が主になる。
本文的内容、主たる主張は上巻にあるが、こんな事も書かれている。


「さて又、前に申す所のゑぞの金山掘り方入用の事は、他の金山と事かわりたる子細有り。ゑぞ地、金、銀通用これなく、只、米、酒、塩、たばこの類ばかりを好むゆへ入用と申すに、金銀は費へず、只山内はたらきの人の給分入用ばかりにて、これも地付きのゑぞを交えてはたらくゆへ、給分は皆俵物にて、正金は入らぬ見込なり。夫ゆへ入用多くかゝりても、掘出高をもって交易金のたすけと成すべきなり。」

「北方未公開古文書集成 第三巻」 寺澤/和田/黒田 「赤蝦夷風説考」 工藤平助 昭和五十三年七月五日 より引用…

まずはこちらから。
蝦夷衆は金銀は欲しがらず、食料たる米や嗜好品ばかり欲しがるので、給料として米を充てると言う事。
実の話、工藤平助の主張とは、
①北海道の開拓で金銀を確保し、我が国の資源とする…
②周辺の蝦夷衆を雇い入れ、鉱山で働かせ米を給料として払う…
③産出した金銀らで、正式にロシアとの通商を開始し、西洋の物品を得る…
④上記をロシア南下で、千島の人々が全てロシアに飲み込まれる前に行うべき。
と言うもの。
ぶっちゃけ、眼と鼻の先迄南下すれば、密貿易を取り締まる事は不可能と説く。
現実、国後場所を開いた後、場所役人や請負商人へ接近している事態が起こっているし、松前の密貿易は疑われていた。
その辺の事情を工藤は掴んでいた模様。

まぁ…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/27/200716
工藤平助や林子平の提言でこんな話になっていた。
止められないのなら、しっかり管理すべし…と言う事だ。


さて、本題。
万国地理誌から引用し、工藤平助は「ヲロシア人となる前の赤蝦夷の人々」と註釈を付けた上で、それがどんな人々か解説している。
つまり、西洋人が見た「千島~カムチャッカ~オホーツク」の人々と言う事になる。
随分、具体的で何時の間に調べたのか?
万国地理誌が書かれたのは1600年代の模様で、工藤平助らは1700年代の人物。
書かれた百年後の人物だ。
そして、工藤の時代、既にオホーツク,カムチャッカはヲロシアの一部とされている。
まぁ西洋人から見たら…
背は低い訳で、
小屋の様な竪穴住居に住んでる、
ピンと来る方もいるだろう。
「コロボックル」伝承だ。
蝦夷の人々が、元々どんな部族でどんな血統を持つかは別として、そこに住む人々はこんなだと言っている訳だ。

さて、これを時系列を考慮すれば、Ta-aTa-b等の降灰も含めた時期を挟み、百年ギャップはある。

万国地理誌成立

蝦夷の人々がロシア人から内容を聞く

蝦夷から本道に伝播

ユウカラに反映…

…これは可能性としては成り立ってくる。
この時、口蝦夷(元々北海道に住む蝦夷衆)
への伝播は、
①通商による口伝…
②赤蝦夷が降灰後に本道に渡る…
でもどちらも可能だし、有り得る事になる。
故に『「コロボックル」伝承は、万国地理誌に描かれた「赤蝦夷」の姿である』…
時系列的には充分に可能だ。

四本柱の竪穴住居なら、発掘調査報告書で今までも見てはいる。
取り立てて違和感も無し。
と言うか、ここまで見てきた限り、降灰直下にあるのは、多くは竪穴住居。
中世迄竪穴住居に人々が住んでいたとしても、何の矛盾はないのだ。
寒さをしのぐには利に叶っているのだから。

まぁ今までも我々はこんな報告をしてきた。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/05/135443
特段取り立てて驚きはない。
ロシア情勢やその他の内容と「赤蝦夷風説考」の内容が合致し、それが「コロボックル」伝承に拡大又はそれすら背景を増強する内容と成り得ると言っているだけ。
これなら、遺跡の発掘結果とも近くなる。
合理的な思考ならこうなると言っているだけの事だ。



参考文献:

「北方未公開古文書集成 第三巻」 寺澤/和田/黒田 「赤蝦夷風説考」 工藤平助 昭和五十三年七月五日

古代~中世にも、環境問題は存在した…東北史のお勉強タイム、その2

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/20/054441

さて、久々に直接北海道~東北の関連史に繋がらないかも知れないネタいってみよう。
昨今、某国会議員が「コンビニ等でのプラスプーン有料化」らの話題で、「国産間伐材の割りばしを探して購入,使用している」とのツイート。
ふと思い出したのが、秋田での古代~中世の環境問題の研究だったので、ちょっと勉強のつもりで引用してみよう。


「洲崎遺跡は13世紀後半から16世紀末までほぼ断絶することなく継続していたとみる、これは出土陶磁器類や遺構変遷から後付けが可能である。その一方で、豊富な木製部材・製品を対象とした年輪年代測定を光谷拓実氏(当時:奈良国立文化財研究所)に依頼した結果、極めて偏った年代が提示された。井戸部材や曲物等51点を測定きたところ、樹皮樹皮または最終形成年代が残るものでは、最古が1285年、最新で1328年とされた。ここから導き出されることとは、測定に耐えうる年輪の目の詰まった良材は14世紀第Ⅰ四半期頃を最後に入手が困難となり、以降は年輪の目の荒い材を使用せざるを得ず、結果とした年輪年代測定が不能となったと推測される。」

森林伐採と環境の変化の問題は、秋田県内陸南部に位置する横手盆地の古代遺跡でも認められる。城柵である払田柵跡(大仙市・美郷町、9世紀初頭~10世紀後半)に隣接する厨川谷地遺跡(美郷町)は、払田柵専用の祭祀場であるがここでは旧河川内から厚さ1m以上もの炭化物を含む粘土堆積層が認められ、微高地でも約0.3mの厚さがある。出土遺物からみた堆積の時期は9世紀後半から10世紀初頭段階に特定された。同時期・同様の事例は払田柵跡内や八卦遺跡(横手市雄物川町)でも確認されている。このことは奥羽山脈西麓一帯ですら大規模な森林伐採と木材の焼却が広範囲で行われ、山地・丘陵部が裸地化した結果と類推される。実際に盆地内では9世紀初頭に払田柵が造られ、莫大な量の木材が奥羽山脈の森林から切り出された。その後も多くの須恵器窯が築かれ、燃料材も大量に消費される。9世紀中頃には払田柵内の建物や外郭材木塀も一新される。いわば大規模な開発行為の代償として耕地が荒廃し、水田稲作などの生産性が不安定となった可能性が考えられる。」

「環境問題の事例は陸奥国にも認められる。胆沢城(岩手県奥州市802年造営)や周辺の関連集落に須恵器や瓦を供給した瀬谷子窯跡群(北東北最大の窯跡群、200基以上)が立地する古代江刺郡内でも森林破壊と土壌の劣悪化が認められるとの指摘もある。また、紫波城(盛岡市、803年造営)でも城からわずか数年が経過したころから付近一帯は水害の常襲地帯に急変した。それは城造営に伴う大規模な森林伐採を主因とするようである。事実、発掘調査の結果、城跡の北側外郭施設が大きく抉られるように消失しており、付近の集落では9世紀初頭から全葉にかけての竪穴建物はほとんど認められなくなる。紫波城は弘仁3年(812)に南の徳丹城に移転することになる。(伊藤 2010)。」

「木の中世-資源・技術・製品-資料集」 考古学と中世史研究会 「木都の誕生-秋田県洲崎遺跡の発掘が及ぼしたこと-」 高橋学 2014年7月5日 より引用…

実際、古代官衙造営と共に、人口増加や須恵器窯,製鉄炉らが作られ、需要が増える。
秋田周辺では、特に鳥海山の爆発による山体崩壊で由利本荘にかほ市、又は山形は真室川町周辺で「古代スギ」と言われる埋没樹が出土するので、古代からスギの森林が豊かであった事は立証されている。
それも、大規模に切ったり燃やしたりすれば、そうなるか…
後の江戸期でも、大量伐採と森林枯渇は久保田藩の古書に残されている。18世紀に山林の再調査や植林らが行われている。
それらが徐々に実り、近現代には、木材積出港の能代は「東洋一の木都」と呼ばれる迄になる。
ご先祖らは、こんな事からも、山が荒れる怖さを知って、持続可能にするにはどうすべきか…実行してきた訳だ。

秋田では、概略スギらの植生で、小氷河期が何時頃だったか推定出来ている。
男鹿半島のマール「一ノ目潟」に堆積する花粉らで解析されてる。
特に、AD1370~1420年とAD1670~1750年は寒冷期。
これ江戸期の飢饉の時期と合致するだろう。
なので、大量伐採だけでなく、気候の影響迄含めた考察での考察だ。
旺盛な木材需要と、飢饉による食べ物不足や燃料、ましてや鉱山の燃料等。
山は荒れた。
御留め山の解放ら含めて、山の管理の必要性か求められた…生活にダイレクトに反映していたと言う事。

この他にも本書には、中世貴重となった良質木材の再利用らに言及する論文,資料らもあるが…それはまたの機会にでも。
手入れだけではない。
大事に使う事や利用方法まで含めて、ご先祖は経験値を積んで我々に伝えてくれている。

そう言えばソーラー発電らで、妙な切り開き方をしているな…と思わせる場所もあるが、それらはもしかしたら、上記の様に我々にしっぺ返ししてくるかも知れない。
歴史を改めて学んでみると、過去の実績上、やってはいけない事はある。
なにより、林業や農業等の一次産業は、国土を守る為の役割も果たしてきた事も考慮すべき点である事は間違いないだろう。


さて、そう言えば…
北海道でも、炭化物を含む黒色土や粘土堆積層はあった記憶…
あれ?
多少含みを持たせなければ、何の為にブログを残しているか解らなくなるので、匂わす程度で…



参考文献:
「木の中世-資源・技術・製品-資料集」 考古学と中世史研究会 「木都の誕生-秋田県洲崎遺跡の発掘が及ぼしたこと-」 高橋学 2014年7月5日

必ず言語系につきまとう「壁」…「赤蝦夷風説考」に記される「国別聴こえ方の違い」の事例

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/08/124743
「赤蝦夷風説考」からもう一項取り上げてみたい。

言語系である。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/23/193547
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/10/052507
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/09/074422
幾つか言語系の話は例えば、「アイヌと使い始めたのはジョン・バチェラー」等紹介している。

さて…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/21/052745
ここにある通り、言語系研究者が以前から言う、『「ネイ」「ナイ」等共通の言葉から、近世以降のアイノと東北の関係を示唆させる』…これはたまに散見される話で、「奥州市埋蔵文化財センター」では、わざわざ「言語系からの指摘は把握しているが、北海道系住民の「ムラ」は発見されていない」とはっきり書かれる始末。

筆者はたまに、お国言葉でSNS投稿をするが、自分で話した事をひらがなで落とすとまるで呪文になり、本人が何を書いたか解らなくなりそうになる。
そりゃそうなのだ。ズーズー弁と言われる東北弁は、実は「鼻濁音」や「中間音」的な発音をする為、まんまひらがなに変換不能

同じ様な話がこの「赤蝦夷風説考」に記載される。
引用してみよう。


「赤蝦夷の国も、カムシカットとも、カムスカトカともいふ。こなたの好事の輩並に長崎人などの昔よりいゝ習わせる所なり。その根元は、万国地図唐山反訳に加模西葛杜加と有り。~中略~これ唐山人のヲランダの羅甸(筆者註:ラテンと読)の読法といふ事を知らぬ故なり。カムスカトカと文地を一トクサリにしていへば、カムサスカという様に聞こゆるなり。惣て蕃字の心得に、外国人はすべて語音の出所違ゆへ、慥にしるしがたし。ムスコビヤとヲランダと隣国ながら各別に違い、唐 日本とは尚更なり。たとへばほととぎすも聞にほんそんかけたと書しるすなれど、てつぺんかけたるも、不如帰とも、郭公とも、皆その聞人の心によりて、いづれもほとゝぎすの調子にはかなわず。このカムサスカもその通りにて、松前人の耳にカムサスカと聞こゆれば、それを証拠にしてカムサスカと記がよし。~中略~ホルランデヤを日本にてはヲランダと聞、唐にては和蘭と聞がごとし。さすればカムサスカと記してよし。万国地図もみるに、カムサスカの地、赤ゑぞなる事明らかなり。しかれば赤蝦夷はカムサスカという国としるべし。」

「RUSSIAヲランダ文字しるす所、かくのごとくルユツシヤなり。しかれども前条のとをり、松前人の耳にまかせてヲロシアを書記すものなり。一千年以前よりこの国保て、王号を称する国なり。王城のこれある都をムスカウと称す。故に国をムスカウビアとも称するなり。欧邏巴境の国なり。(ムスコウビヤか。ヤの字は国下につく語勢の助語の熟語なり。アカサタナハマヤラワの音の勢にて付て称するなり。即ムシクワなり。~後略)」

「(ヤクツコエはヤクツコイのあやまりとみへたり。コイ(エ)トいふ事は方言なり。ヤクツコイと云国有り。国名の下につく又考にヲランダの耳にはコイと聞、松前人はコエと聞かこの段ははかりがたし。)」


「北方未公開古文書集成 第三巻」 寺澤/和田/黒田 「赤蝦夷風説考」工藤平助 昭和五十三年七月五日 より引用…


この様に、ロシアの国名や地方名らを、オランダ語書物と比較しながら、オランダ人の耳、松前の人の耳らで聴こえ方が違うとか、本来はこうであろうが、「ほととぎす」の事例から間違いではない等、解説している。
この時代の蘭学者らは「知識の塊」。
言語から地理、地制学、算術、地質学だろうが美術だろうが医学だろうが見境なく知っている。秀才揃いと言わざるおえない。

工藤平助曰く…
発音された言葉により、
ヤクツコイの最後の「イ」の字は、
オランダ人には「イ」
松前人には「エ」に聴こえるのではないかと言う。
確かに前にも紹介したが、戦国~江戸初期に来日していたバテレンたちは、
出羽(でわ)→gewa(ゲワ)
院内(いんない)→inai(イナイ)
松前(まつまえ)→matomae(マトマエ)
等、自分にどう聴こえたかで、そのまま記載しているのだろう。
つまり言った本人がどう発音したか合致する訳ではない。
「赤蝦夷風説考」ではそれらを説明している。

ましてや、バテレンらが書いたものを現代の我々が読んだとすれば、言った本人からすれば二重にフィルターが掛かる事になる。
我々はそれを、現代ある単語に当て嵌め、推定していくしかない。
極当然の事。
つまり、本当に正しいか?「解らない」のだ。

これが、言語系につきまとう「壁」。

特に北海道~東北はお国訛りが混じり、上記の通り鼻濁音や中間音にまみれて会話している。
それが…
スペイン人に…
ポルトガル人に…
オランダ人に…
イギリス人に…
ロシア人に…
どう聴こえたか?は、彼らが我々が元々言おうとした単語との差異を比較するなりしないと解読不能だって事。
工藤平助は、自らの万国地理誌らとの比較で証明しようとした。


さてでは…
ポルトガル人のバテレンに聞こえたこれ、
「ainomoxiri」と記載された地。
これを持って中世の蝦夷衆の言葉と近世アイノが繋がり、「アイノ(後にバチェラーによりアイヌ)」された根拠の一つ。

aino moxiri…
ain omoxiri…
ainom oxiri…
もしくは
wa inom oxiri…
wa in no simosiri…

切る場所も何も解らずなのに、どうやって本当に話した人の言ってる事だと立証出来るのか?
それ以前に残された古書上にあるのは「蝦夷」「夷」「狄」「口ゑぞ」「赤ゑぞ」…これは時代によりその対象となる人々が住む地域が変遷し…
地名は時代により「渡嶋」「蝦夷ヶ嶋」「蝦夷ヶ千島」「蝦夷地」らと、時代変遷し、その対象が微妙に変わったりしている。

更に、筆者が公文書館で聞いた話…
古文書は、単語でなく文脈で読めと教えてもらった。
実際昨日も明治の文書で、どこで切って良いのか解らない事例があった。
上記引用を見ても、蝦夷だったりゑぞだったり、ひらがなだったり、送り仮名が無かったり有ったりだ。
文章全部読まないと解らない。
言われた通りだ。

我々は、別に真実が解れば良いだけだ。
aino moxiriが真実であるなら、それらを一次資料を持って立証すれば良いし、「アイノ」ではなく「アイヌ」が真実なら、それを証明すれば良いだけなのだ。
これは、我々がやる仕事ではない。
それを主張する方々がやれば良いだけ。

文字を探せば良いではないか。
複数の言語を駆使し、文字を扱える蝦夷衆は存在する。

樺太系なら「ヤエンクル」
何せ彼は「清朝」から書状貰う人物だ。

千島系でも「赤蝦夷風説考」にある「エハンテ」なら、國語ベラベラでキセルにひらがなで三十一文字の唄を書く、ロシア語らとのバイリンガル

辿って文字を探せば良いだけだ。
但し、その段階で「アイノには文字が無い」と言う前提は崩れ、「識字率が低い」に変わってくるが。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/09/201054
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/20/192453
我々は端から「北海道には文字がある」と言い続けて探している真っ最中なので、一辺たりとも困らない。
むしろ朗報。

一言で済む。

「やる気があるなら地道に片っ端から探せ」

やる気の無い者の主張なぞ聞く耳無し。
何故なら、我々は知識「0」からそれを実行しているからだ。

やりゃ良いだけだ。



参考文献:
「北方未公開古文書集成 第三巻」 寺澤/和田/黒田 「赤蝦夷風説考」工藤平助 昭和五十三年七月五日

時系列上の矛盾…ロシア南下の危機と蝦夷衆の様子を書いた文献の口火を切った「赤蝦夷風説考」を観てみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/05/135443
関連項はこれになる。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/04/224207
前項では、林子平の「三國通覧図説」に触れた。
時は天明元年、ロシア南下への警鐘を世に知らしめたのは実は林子平が最初ではない。
口火を切ったのは同じ仙台藩士の「工藤平助」の書いた「赤蝦夷風説考」。
二巻構成で出版されている。
なら観てみるしかないだろう。
冒頭からなにやら凄まじいので、それを引用してみよう。


「一 松前人の物語を聞くに、蝦夷の奥丑寅に当りて国有り。赤狄〔アカエゾ〕といふ。ゑぞの東北の末の海上に千島と名付て島々大小数々あり。この島続より折々交易する事むかしよりこれあるよし。」
「あかゑぞの産物、からさけ鯨あぶら類その外、ゑぞ物品々出るよし、こなたよりも塩、反物、鉄の細工もの、刃物、庖丁など渡して、口ゑぞとの交易これある事、昔より承伝る所なり。」
「然るに近来漂流と号して、折々ゑぞの地、『ウラヤシベツ』『ノツシヤム』の辺え着船す。その有様むかしとはかわり、船の作りおらんだ船の通りして、人物衣服の仕立ておらんだ人に類して、羅紗 天鳶絨 猩々緋の類の着し、通詞もつれ来る。」

「ゑぞ通詞 日本通詞ありて、日本の言葉を遣ひ、かたかなをかき、何事も通ぜずといふ事なし。ゑぞ通詞もよくくちゑぞ言葉をつかひて能く通弁す。キセルのラウなどに、片かなにて、三十一文字の歌なぞ焼印の様につけたるもあるよし。いかなるわけかとたづぬるに、通詞のいう様、むかしより日本人この国にふきながされて来る時、厚くいたはりて妻縁をさづけ、子孫日本言葉をよくいひ、日本事に通づるを家業とすなり。『タツ〔ヤク〕コイ』といふ国に一郭をかまへてこれを撫育す。我々も先祖は日本人なるよし物がたり、その国の名をたづぬれば『ヲロシア』といふ。」
「船中に丁子、肉桂、沈香、胡椒、砂糖の類品々有り、羅紗猩々緋、びろうどの類、サラサ類、その外緒器物類も有るよし。舟中、食器、手道具、銀器多く、至りて美々しく、きらびやかなる事のよし。」

「内心日本と交易の心にて、わざと漂流と号して船を寄せたるとおもはる。古来よりゑぞ産物と違ひ、新規なる品々これある故、許容せず追及したるよし。又或時は理不尽に陸へ上り、陣取などの様に取懸り、飛道具を用ひとゑぞ人と合戦に及、手負 死人など互にありて引退く事も有り、但、これ等の人物は最初にいふ所のおらんだ人などの様にみゆる人柄にあらで、古代のまゝの赤蝦夷の類にて、赤ゑぞの地付の夷ともおもはるゝ人柄のよし。いづれにも極北海の地にて、ゑぞよりは又格別の島夷なるに、近来かゝる有様怪しむべきの儀なり。」


「北方未公開古文書集成 第三巻」 寺澤/和田/黒田 「赤蝦夷風説考」工藤平助 昭和五十三年七月五日 より引用…


長いのでこの辺で。
これがロシア南下,脅威や当時の蝦夷の姿を書いた書籍の原点。
これが林子平や本多利明、最上徳内らに続いていき、田沼意次水戸藩らの目に留まり、蝦夷探索から東北諸藩の北方警備、黒船来航や幕末動乱へと繋がっていく。

概略は…

北海道北東にカムチヤツカと言う国があり、それを松前では「赤蝦夷」と読んでおり、古来よりやり取りある千島だと言う…

最低工藤平助は、「口ゑぞ」「赤ゑぞ」と、住んでる地域を分けて蝦夷衆を記載しており、赤ゑぞは「ヲロシア」支配下にあると書いてある…

最近は、オランダ船に似た船で来るようになり、胡椒ら含め従来赤蝦夷が持ち合わせなかった物まで積んでいる。
交易をしようと、難波したふりをして上陸したりしており、中には陣を構えたり、土地の蝦夷と戦闘になる事がある…

松前藩は、それを認識もしていたって事…


さて、このブログを読まれた方は、日本人に連なる通訳が気になるかと思う。
二巻に、工藤平助が松前から説明されたこれら人々が描かれるので書き出してみよう。

①日本語通訳
ヤクツコイ国の役人、名は「エハンテ」
上着…柿色の羅紗
下着…花色の羅紗
股引…柿色のテヤウン
笠 …黒のビロード
髪 …白苧色
服装らはオランダ人の様で、鍔無し銀粉鞘の太刀を持つ。
この人物が日本人の子孫。

②赤蝦夷の頭でオランダ語通訳
ヲロシアの官人?、名は「ハシンサバリン」
上着…花色の羅紗
下着…(記載なし)
股引…白のビロード
笠?…西瓜二つ握り位の頭布を持つ
靴 …黒皮(模様あり)
髪 …白
眉 …白

蝦夷の通訳
千島の人?、名は「シリイタリ」
上着…紺色の唐木綿
下着…萠黄色の羅紗
帯 …真綿で真田撚りの縒物
髪 …黒髪でグミを組む
服装はオランダ人の様で、北海道の蝦夷衆の面影あり、眉は一文字で、耳金(耳環)は無い。

④同乗者
カムサスカ人、名は「ハキシンコンテ」
上着…鼠色の羅紗
下着…同上
股引…藤色の木綿
笠 …黒の羅紗(騎射笠の様)
髪 …白苧色
服装はオランダ人の様

⑤同乗者
ムシクハ(モスクワ)人、名は「ハリエントン」
上着…花色の木綿
下着…藤色の木綿
股引…メリヤス
笠 …鼠色
髪 …白苧色

素人画だが、この五枚の絵図を見たとの事。
割と「赤蝦夷風説考」では国や地域名が混雑している感じはある。
ただ、この時代の国名はとして記載されるのは、「陸奥国」「大和国」「長門国」ら地域名、それらの総称として「日本」と書いている。
なので
「ヤクツコイ国」…サハ(ヤクート)
「カムサスカ国」…カムチャッカ
「ムシクハ」 …モスクワ
となり、それらの総称として「ヲロシア」としてる模様。
この工藤平助はかなり裕福で、当時世界的名著とされた「万国地理誌」やロシア誌(ペシケレイヒング、ハン、ルュスランド)とか言う書籍を入手し、片っ端から読破したらしい。


ところで、随分派手に商売していた様だ。
地方役人の小遣い稼ぎの範疇を越えている。
元々ロシアがオホーツクに拠点構えたのは、千島と言うより、ベーリング海~アラスカ方面まで含め毛皮取引する為。
上記の通り、船に胡椒やら沈香まで積んでるので、南方まで取引行ってるか、もしくはオランダ通訳が出来る人が居るので、オランダ人とも交易していたかも知れない。
確かに江戸初期、外国船は我が国太平洋側に難波しているし、うろちょろしているのはポツポツ古書に残されている。
かなりマジに権益拡大狙っていてもおかしくはない。

さて、日本人の血を引くと言う「エハンテ」氏、日本語駆使だけではなく、ひらがなついたキセル迄持つ。文字が読めたと言う事だろう。
何せサハには日本人コロニー?があったと言う。
それら含めて、赤蝦夷、つまりシベリア~オホーツク辺りの人々のイメージは、随分違うと思う。
未開な感じはここからは伺えない。
まぁ、既にオホーツクはロシアが取ってるので、取り入れる者と逃げる者が居るだろうって事に。
少なくとも、サハ(ヤクート)の人々は、ロシア東進へ抵抗反撃し、逆に弾圧食らったと言う。
見る限りでは、
沿海州の靺鞨~樺太方面…
サハ等シベリア~オホーツク~千島方面…
この2つのルートはあると考えるべきではないだろうか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/02/205112
ちゃんと「諏訪大明神画詞」に蝦夷ヶ千島は333の島で構成されてると書いてある。
となれば、
前者が古来「唐人」と言われた人々のルート…
後者が古来「日ノ本」と言われた人々のルート…
ともとれる。
まぁ特に樺太沿海州辺りとの繋がりを指摘する方は多いが、これの後者はあまり語られたのを見たことが無いのは何故だ?


で…この「赤蝦夷風説考」は、天明元年(1781)に書かれている。
「国後目梨の戦い」より前の姿なのだ。
ちょっと話が違ってくる。
何せ、古書では上記通り、何でもかんでも「蝦夷」なのだ。
つまり、日本人虐殺は、ロシア側についた赤ゑぞ衆が北海道本道を「侵略」し行われた可能性はどうか?
この段階で、松前とやり取りした赤ゑぞ衆ははっきり「オロシア」だと言っているのだから。
そんな事や、南からの交易物資積んだ船が着き、千島,カムチャッカがもはや未開とは言えない状況だったと言う視点も持たねばなるまい。
地付きの蝦夷衆の中には、西洋に近い生活をする者もいたのだから。
もはや西洋列強が世界中でドンパチやっていて、北海道が影響ないハズもない。
近場にロシアが近づく中、むしろ最前線だったと言う事だ。
そこで、この事態を打開の為、何があったか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/30/223653
身銭切って、旧式装備、命掛けで東北諸藩が警備に向かった。
ちゃんとその人々は今日現在、祀られてるのか?
現代は誰がやるのか?
それらも考えるべき点。
オランダ人はロシアの脅威をかなり強調していた様だ。
だか、そのオランダもインドネシアで何をし、ロシア船を見る限りでは、そのロシアと交易をしていた感じもある。
少なくとも、かなり緊迫感が増していた事は間違いない。
目と鼻の先に「産業革命」が待っていた時期だ。


さて、中世へ飛び…
何故安東氏が「日ノ本将軍」を名乗った(それも帝も朝廷も容認し)か?
「赤蝦夷風説考」にある「カムチヤツカ国」を制海権下に収めたから…これはどうだろう?
SNS上の指摘だと、内耳鉄鍋の出現はこの頃と合致する。
我が国から見て、丑寅の方角、つまり北東。方向性は合致。
これらも視点に入れねばなるまい。


どうだろう?
あまり、「赤蝦夷風説考」「三國通覧図説」そして、「赤夷動静」らは、引用される事が少ない。
実際見物した最上徳内間宮林蔵松浦武四郎らが主。
但し、最上らは、この「赤蝦夷風説考」ら海外情勢を読み、学び、蝦夷地へ向かった。つまりこれらバックボーンを熟知した工藤らの弟子に当たるのだ。
勿論、最上徳内が本多利明に教えを受けたり、実見聞の推薦を受けたりだ。
その点を忘れてはいけない。
時系列的に、最上らはこのバックボーンを踏まえて、敢えて細かく触れていない事もあるのは、忘れてはならない。


参考文献:
「北方未公開古文書集成 第三巻」 寺澤/和田/黒田 「赤蝦夷風説考」工藤平助 昭和五十三年七月五日

亘理続報2…「田村氏」だけではなく「伊達公」も洗礼を受けていた

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/06/135923
久々に伊達藩、特に亘理伊達氏とキリシタンの関係について続報である。
またもやたまたま、まさか伊達市の市史でなく、室蘭市史にあると思っていなかったので。

前項では、
田村顕允氏は、北海道移住後キリスト教へ改宗し、教会創始者となった…
それを教化したのは、亘理伊達氏家臣団の新妻興左衛門の孫で、仙台のキリスト教布教のキーマンの一人である吉田亀太郎氏ら…
ここまでを報告した。

だが、実は洗礼を受けてクリスチャンになったのは田村顯允氏だけではなかった様で。
引用しよう。


日本基督教会は、明治十九年(一八八六)はじめ吉田亀太郎伝道師を仙台から室蘭に派遣して伝道していた。この伝道集会に出席した当時の郡長田村顯允は大いに共感し、函館にきていた押川方義(東北学院院長)を招いて演説会を開いた。」
「押川は翌年まで三回も室蘭・伊達で布教伝道を行い七十六人が洗礼をうけた。そのなかには田村顯允をはじめ伊達邦成(亘理藩主)、赤城信一(室蘭病院長)、島田操(同)や幌別の片倉景光(旧白石藩主小十郎の嫡孫)、斉藤良知(同家老)、日野愛熹(同)などがいた。仏教側ではこれに対抗して弁士を雇って耶蘇教攻撃の演説会を開き、百五十人が集まって気勢をあげたという。」

「明治十九年から翌二十年を室蘭におけるキリスト教の黄金時代とよんでいるほど発展したが、二十年四月、田村が郡長を辞任して伊達に移ってからは活動も下火になり、赤城、島田ら中心人物も室蘭を去り、日野愛熹が幌別戸長として転任したあとは、室蘭の日野宅を講義所として少人数で集会が開かれていた。」


室蘭市史 第三巻」室蘭市史編さん委員会 平成元年三月二十五日 より引用…

と言う風に、伊達邦成公も洗礼を受けていた。
と言うか、見る限りだと旧伊達藩勢、それも旧藩首脳部が中心人物となって、布教に力を入れていた感じがうかがえる…
まさか、藩の気風にキリシタンの要素があり、親和性高いのか?
まぁ伊達藩としたら、「後藤寿庵」も居たし…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/18/055912
大籠も伊達領。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/17/190920
犬切支丹に…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/09/064523
「ゴールドラッシュとキリシタン」シリーズよりキリシタン墓発掘の話。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/12/194837

実際、ブログ化してない書籍内容やフィールドワーク内容はまだまだあるが…
一応…
江戸期のキリシタン弾圧や潜伏キリシタンと繋がるか?は「不明」であり、キリスト教布教がオープンになった後なので、基本的に問題はない事は書いておく。


実は、室蘭のキリスト教布教は、この後にまた苦難の時を迎える。
それは、武家社会からの脱却を意味する「帝国憲法発布記念行事」で小学校の祝賀行列の指揮を任ぜられた教師が、伝道師に「聖日である日曜日」に開催と言う事を相談したところ断るのが良いと言われ、それを理由に拒否したから。
まぁ明治維新で、世の中を変えて行こうの風潮の最中にそれなので、校長や町民がこれに激昂し、その教師は免職、その後クリスチャンは教職に採用されなくなると言う事件に迄発展。
まぁ今でも似たような話はありますが…
現在、平日にやると言えば「休みじゃなければ父兄が観られないではないか!」とのクレームになりそうだが。
この当時、こんな話は幾つもあったようで。

と、言う訳で…
関連は別として、こんな事実はあると言う事を、報告しておく。



参考文献:
室蘭市史 第三巻」室蘭市史編さん委員会 平成元年三月二十五日