生きていた証、続報38…ならそもそも、北海道〜東北に馬が伝わったのは何時なのか?、そして…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/05/194001
久々にランドパワーの要「馬」を学んでいこう。
北海道での駅逓制度は江戸初期から。
そして前々項、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/26/203315

「北海道における馬の遺存体例は縄文時代と云われている3例を除くと、上之山町勝山館(上ノ国町教育委員会『上之国勝山館Ⅳ』1983年、『上之国勝山館Ⅷ』1992年)と寿都町津軽陣屋跡(寿都町教育委員会寿都町文化財調査報告書Ⅱ』1983年)の2箇所である。」

千歳市ユカンボシC15遺跡(3)-北海道横断自動車道(千歳-夕張)埋蔵文化財発掘調査報告書-」 (財)北海道埋蔵文化財センター 平成12年3月31日 より引用…

ユカンボシC15遺跡の蹄跡や勝山館の動物遺存体、この辺が確実且つ現在遡り得る上限…なのか?
これに記載のある、縄文の馬の動物遺存体には現在まだ辿り着けてはいない。
ならば、手を広げ、北海道〜動物としては何時なのか?を探ってみよう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/20/203914
ここにあるように平安(擦文)期の「延喜式」上、陸奥を最上級として出羽を含め東北は馬の最大産地であったのは解った。
それが何処まで遡る事が可能なのか?だ。
実はこのテーマ、元々は「馬」を学ぶところから出てきた訳ではなかったのだが、それは後程…
と言いつつ、取り上げる文献の初っ端からいきなり記載があるので、引用してみよう。

宮城県角田市古ノ内一号墳で楕円形鏡板付轡・古式馬鐸(図6-16)が出土した。北海道余市郡余市町大川遺跡九六号(筆者註:56号を誤植?)土壙墓では、屈葬された遺体にベンガラが塗られ、曲刃鎌・刀子・鉄鏃・短冊状鉄斧とともにガラス小玉・蛇紋岩製小玉の首飾を副葬し、ペンダントヘッドに朝鮮半島製の方形立聞鏡板残欠(図16-15)を用いていた。五世紀前半の続縄文時代の墓と考えられる(日高、二〇〇三)。古墳時代中期の武器・武具の増大に伴い、北方狩猟民は大量の海獣を含む動物皮革、毛皮・矢羽根の供給に特化することで、鉄器類を入手したと想像される。」
「それを裏付けるように、北上川中流域の岩手県水沢市中半入遺跡では、古墳時代前期〜後期までの住居跡一〇〇以上に加え、方形溝と柵列を廻らす豪族居館もみつかった。当地は最北の前方後円墳角塚古墳の北北方ニkmに位置し、住居からは多量の須恵器(~中略~)、石製模造品、玉類、宮城県湯倉産の黒曜石スクレイパー四〇〇〇点、馬歯、続縄文土器(後北式・北大式)も出土し、続縄文文化集団と古墳文化倭人の毛皮交易拠点と考えられる。宮城県仙台市藤田新田遺跡の木製輪鐙は、五世紀中葉に遡るほか、福島県本宮市天王壇古墳の土製馬(図6-17)は鑣轡・木心鉄板張輪鐙・鞍の古式馬装を表現したと推定される。山形市の大之越古墳では、蓋上に楕円剣菱形杏葉を伴う尻繋(図6-18)が置かれ、象嵌環頭太刀は百済・龍院里古墳群例と対比される。福島県南相馬市高見一ニ号墳では内湾楕円鏡板付轡(図6-19)が出土した。」

「日本列島における馬匹と馬具の受容」 桃崎祐輔 『馬と古代社会』 佐々木/川尻/黒済 八木書店 2022.1.15 より引用…

結語から要約すると…
・騎馬文化は四世紀末~五世紀前半には、三燕,高句麗色をとどめた伽耶,新羅,百済の物が入り、初期段階で東北や南九州へ到達する。
この段階では王権による独占はなく、飼育や馬具技術を持つ渡来系集団は全国の有力豪族へ分配を余儀なくされた様だ。
出土遺物のデザインに統一性もない。
だが、五世紀中葉以降、東北南部~北九州まで同一規格化が起こり、畿内→中部での牧の展開らから、畿内での王権の統一なされ国内生産品が拡散したと考えられる…
このような流れか。

ここで、何故四世紀末とされるのか?
実は大陸から馬を運ぶ為の構造船、つまり刳船の存在が意味を持つ様だ。
それなりの大きさの船が無ければ、馬を運べない…それが現状その位の時代しか遡れていない事が、馬伝来の上限となる模様。

一応、他の章でも遺伝子研究ら含め、モンゴル系の「蒙古馬」が、
大陸→朝鮮半島対馬→北九州→全国へ…
これが現状もっとも支持される移入ルートで単一起源説が最も有力。
我が国の有史創生期に関わる出来事の一つ。
東北には、かなり初期から馬が持ち込まれ、飼育され乗馬としてまた使役する馬として使われており、東北における38年戦争で阿弖流為が騎馬戦を行ったのではないか?という説は時系列的に矛盾なく、黒ボク土の分布からも「北東北の陸奥馬」が最上級グレードとして扱われるに至る事も、その飼育条件や経験の長さから全く問題はないのだろう…納得…

いや、まだ問題はある模様。
本書にある問題点として…
・考古遺物の謎
仮に朝鮮半島経由して入った場合、
①木製品がほぼ「アカガシ」の木を使用しているが、樫の木は硬くて我が国では古来から使用されているが、朝鮮半島で使用実績が無い。
②馬の飼育に塩を大量に使うが(塩水を飲ませる)、製塩土器が朝鮮半島で検出されていない。
こんな話があるようだ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535
延喜式の時代なら、津軽湾の野辺地周辺でも大規模な製塩事業は検出される。
陸奥馬の生育に問題は無いし、仙台湾では縄文から製塩土器は出土、やはり問題ない。
塩水を飲ませるのは我が国では古書記載あり、本当に渡来系集団が教える事が出来たのか?ベールの中にある。
少なくとも、我が国土着の工人衆が関わり共生していた事は解るのだが。

更に、ルート。
支持は薄い様だが、
「前略~朝鮮半島とは別に、沿海州から間宮海峡樺太島から宗谷海峡、北海道島から津軽海峡を渡る三海峡二島を経由する水陸交互経路「北の馬みち」の存在が想定された(新野、一九八八)。それは陸地が完全無視できる距離範囲での土を積載した大型筏の曳航によって相染神とともに日本列島北部に伝わったとする指摘であった。事実、相染神信仰が東北地方に広く伝承、分布することもそれを物語るものと思われる~後略」

「エミシの馬 -狄馬-」 黒済和彦 『馬と古代社会』 佐々木/川尻/黒済 八木書店 2022.1.15 より引用…

確かにこれなら、
・モンゴル系をダイレクトに持ち込める
・岩塩→製塩と変更すればノウハウ上の謎は解消可能
・特に陸奥馬が珍重された理由である中型馬の系譜(出土する馬の動物遺存体は小型馬が殆ど)の説得力が増す
ら、遙々の問題は解決可能だが、馬具の薄さらからか、あまり支持を得てはいない模様。

特に、北海道での出土遺物が、先の余市「大川遺跡」になる…
いや、もう一件これには記載がある。
恵庭市柏木東遺跡(茂漁古墳群ニ号墳)の鉸具と留金具。
恵庭市と言えば、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/08/204335
八世紀頃だが終末古墳群もある。
だが…そこまで。
この二点だけで、牧の存在や搬入ルートを説明するのは無理がある。

如何だろうか?
少なくとも、五世紀の古墳時代には馬が東北に入り、飼育が少しずつ広がって八~九世紀、38年戦争の頃には量産体制に至る…その過程で、馬具としての怪獣や獣皮革の必要性から、北上周辺での続縄文文化集団と古墳文化集団との交易が盛んに行われていた…この辺までは言えそうである。
アヨロ遺跡の井戸様遺構、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/26/205914
これらから鑑みても、古墳(続縄文)期、奈良,平安(擦文)期においても、北海道と東北は現在考えられているより遥かに「開かれた」場所であった事は推測可能なのではないだろうか?
それは、「馬」と言う小さな断片でも想像に易しい。
前述の、縄文と推測された馬の動物遺存体はまだ探し当ててはいないが、仮に「北の馬みち」が存在したならば、元々少数居たのか?その時代のものが混入したか?それらも考慮可能にはなってくる。
まだまだ謎だらけ。


さて、何故馬に至ったのか?
この件、元々は馬を追ったものではなかった。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/16/192303
黄金と辰砂を追う段階で、阿弖流為降伏後に、胆沢周辺から2000人規模で関東への移住が行なわれた。
所謂「蝦夷(エミシ)の赤い龜」が、八王子 上ツ原遺跡で出土している。
これがコンパチならば、相模原や秩父で産金開始とが重なってくるのではないか?と、推測したから。
何せ、日本初の産金場は宮城県涌谷、38年戦争開戦のエミシによる桃生城攻撃から。
桃生城と涌谷は隣の様な地理関係。
そこから、先の辰砂に至り、その周辺でも同時期に私的「牧」の拡大らの話を教えて戴いた事から「馬」に至る。
故にテーマ的には、「蝦夷(エミシ)とは何か?」と言う事になるのか。
特別な存在ではない。
多くの東北人の先祖に当たる。
むしろ中世以降の農家が自給自足的に、何でもかんでも自己調達で賄った事を鑑みると、土豪を中心とした「(農業をも含む)工人集団」的な要素を持っているようにも見えてくる。
本書でも「牧」の運営には、鍛冶や製塩ら、特殊な工人が絡む。
集団の中で、産金や辰砂の採取,加工も含み知識と技術を持つ者が居れば、殖産のスタートが割とアッサリ始められる訳だ。
勿論、権力者が強い畿内においては、豪族や寺社で、長吏の下に工人衆として囲い込まれたであろうが。

まだまだ入口。
時代ごとにその対象が変わる「蝦夷、夷狄」とは、それぞれとんな人々なのか?
まだ入口。






参考文献:

千歳市ユカンボシC15遺跡(3)-北海道横断自動車道(千歳-夕張)埋蔵文化財発掘調査報告書-」 (財)北海道埋蔵文化財センター 平成12年3月31日

「日本列島における馬匹と馬具の受容」 桃崎祐輔 『馬と古代社会』 佐々木/川尻/黒済 八木書店 2022.1.15


「エミシの馬 -狄馬-」 黒済和彦 『馬と古代社会』 佐々木/川尻/黒済 八木書店 2022.1.15

その後彼の姿を見たものはいない…江戸初期にあった「西洋人の消息不明」の事例

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/03/08/123257
さて、探していた事例がもう一つ記載あったので紹介する。
結論から書こう。
我が国に来て、そのまま土着又は「消息不明」になったバテレン
土着した有名なところでは、遠藤周作の「沈黙」のモチーフになったイエズス会会士「沢野忠庵(クリストファン・フェレイラ)」など。

では「消息不明」は?
ディエゴ・デ・サン・フランシスコ…
フランシスコ会士でスペイン人宣教師。
南蛮人のみた日本」の著者、佐久間氏はこのディエゴ・デ・サン・フランシスコの報告書を翻訳したりしている。
要約してみる。

・1612(慶長17)年
来日。
・1614(慶長19)年
高山右近らのフィリピン追放に合わせ、バテレンの強制追放令が出た時に、数十名のバテレンと共に山中潜伏開始したが、江戸で捕縛され、一年半牢獄へ。
ここで幕府船奉行の向井将監忠勝に着目され、メキシコに戻るスペイン船に同行させ離日。
・1618(元和4)年
再び来日。潜入
・1626(寛永3)年
イエズス会との軋轢を避け長崎へ、そして日本海ルートを船で北上し、酒田湊へ到着し、布教開始。
・1629(寛永6)年
武士に変装し、再び永崎へ向かう。
・1632(寛永9)年
再び、酒田湊へ。
そして、この時の書簡を最後に報告は一切途絶え、消息不明となる…
だそうだ。

西廻り航路開設、所謂北前船就航は1672(寛文12)年で、まだ酒田湊は主要湊とはなってはいない。
幕府直轄で、主に商人衆による自治的要因があったから潜伏し易かったか?
この先は記録が途絶えるし、この著書段階では捕縛,処刑も記録がない様だ。

正に、「その後彼の姿を見たものはいない」…の模様。

さて、ここで地理的要因を加えてみよう。
酒田から遊佐を越えれば象潟に至る。
まだ、地震による隆起前なので、象潟は湾となっていた。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623
象潟衆が自らの船で北海道入りした事例は同時代か少し時代を下ってある。
まだこの時点ではゴールドラッシュの最中で、同乗して蝦夷地入り出来れば、ほぼ足取りは追えない。
史書を見る限りでは、沖の口奉行らの取締等の記載があるが、民衆レベルで考えたら割と気楽に商売に向かっている。
松前の湊をスルーすれば、取締はガバガバだった可能性は高い。
ここは案外、学術レベルでの盲点なのだろう。

更に…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/18/201824
時系列的には、樺太にはスペイン人の影があった…これとは矛盾はしないので、初歩的仮説的には「酒田湊周辺から蝦夷地入りして、樺太迄到達」…
これを疑う事も出来なくはない。
但し、立証は限りなく困難。
仮にその後、山丹交易の延長線上に、大陸の会士と接触出来れば何らかの書簡が出ただろう。
だがそれもない。
全くの「消息不明」。

事実、潜伏し捕縛から逃れたバテレン達はどうなったのだろうか?
因みに…

「(筆者註:1626年)長崎の魚屋町の入り口の前にある肉屋町の溝に沿って歩いているとき、信仰を棄てた黒人奴隷ベントゥーラがわたしの後をつけて来て、前に立ってわたしを注視した。」

南蛮人のみた日本」 佐久間正 主婦の友社 昭和58.2.17 より引用…

この時、ベントゥーラは長崎奉行に士官し、バテレンキリシタン捕縛に従事していた模様。
ベントゥーラは独りの為、周囲の者に捕縛協力を求めたが協力者がなく、フランシスコ神父は逃亡に成功と報告している。
つまり、スペイン,ポルトガル人(南蛮人)、オランダ,イギリス人(紅毛人)だけではなく、アフリカ系の奴隷として来日した者も土着したと思われる者は居たのだろう。
後の追放から子孫が逃れられれば、血を引く者は居る事に。
さて、真実は如何に?

備忘録として綴っておく。






参考文献:

南蛮人のみた日本」 佐久間正 主婦の友社 昭和58.2.17

バテレン追放令を施行したもう一つの理由…「南蛮人のみた日本」にある「人身売買」の事例

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/06/203305
これを前項として、巷でよく言われる、豊臣秀吉バテレン追放令施行の理由としての「もう一つの事例」も紹介しよう。
ズバリ「人身売買」。
話としてはよく出てくるが、実態を事例としてハッキリ書かれている事は少ないだろう。
巷では「キリシタン大名バテレンと組み、人身売買を行った」的に言われる事が多いかと。
当然、秀吉の追放令の中にも、そんな条項は記載されるので。
が、どうもそれだけでははなさそうだ。
では、佐久間正著「南蛮人のみた日本」から、著者が引用した部分を抜粋し引用してみよう。

九州征伐のとき秀吉の側近にいた大村由己は、『・・・・日本仁(人)を数百、男女に由らず、黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付け、舟底に追い入れ、地獄の苛責にもすぐれ・・・・』と書いている。奴隷にされる原因はさまざまで、はなはだしい場合は掠奪誘拐つまり人さらいである。金銭によって売買されるのは戦いによる捕虜か貧困によるもので、数多くの記録がある。」

「『薩摩の兵が豊後で捕えた捕虜の一部は肥後で売られた。しかし肥後の住民はひどい飢饉に苦しんでいたから、自分らの生活すら困難で、いわんや購入した奴隷を養うことは不可能である。それゆえ羊か牛の如くこれを高来(長崎県)運んで行って売ってしまった。こうして三会や島原ではしばしば四十人もまとめて売られることがある。豊後の婦女小児は二、三文で売られ、その数ははなはだ多かった』(フロイス)」

「『このころ(一五九四年・文禄三)朝鮮での戦役は激しくなり、すでに十万を超える将兵がかの地へ渡っていて、この日本へも捕虜を満載した多数の船が戻ってきたが、捕虜は安い値段で売られた』(ヒロン)」

南蛮人のみた日本」 佐久間正 主婦の友社 昭和58.2.17 より引用…

一つ目は秀吉による九州征伐の頃の事なので、1586~1587(天正14~15)…
二つ目は1578年(天正6)の薩摩の島津と大友氏による「耳川の戦い」の後くらいであろうか?…
三つ目は、文禄・慶長の役の頃…
カッコ書きの「ヒロン」とは、フィリピンから来日していたスペイン人貿易商人「ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン」の事で、当時の様子を「日本王国記」として出版、その一部の様だ。

着目したいのがルイス・フロイスが報告している島津氏。
島津義久らは確かキリシタン大名とは認識されてはいないかと。
つまり、九州における人身売買はキリシタン大名だけが行った訳ではない事になる。
当然ながら売買先はポルトガル人商人になるのだろう。
南蛮渡来の文物をポルトガル人商人から購入する費用の一部として使った様で。


では、その人身売買を等のバテレン達はどう考えていたのか?

マカオに来るポルトガル人はみな人間の本性を忘れている、それは貿易上の欲と女奴隷のためである、と宣教師は歎いた。東洋にあってこの悲惨な奴隷の状況を目撃した宣教師は、これが布教の妨げになることを訴えている。一五七〇年(元亀四)にはポルトガル国王が日本人奴隷売買禁止の法令を発布し、一五九六年(慶長一)一五九八年にはイエズス会は破門の罪をもって、これを禁止した。」

南蛮人のみた日本」 佐久間正 主婦の友社 昭和58.2.17 より引用…

とはいえ、祖国から離れた地で、そんな事は守られる訳もなく…
こんな風に言っているバテレンも、ではそれを本当に止めたのか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/22/195207
メキシコを持つスペインと違い、ポルトガルは日本から銀を調達せねば香辛料が手に入らない。
実際は、各大名らとのやり取りはバテレンを仲介して行われ、布教しようにも商人が船に乗せてこなければ来る術はない訳で。
板挟みになり、黙認せざるを得なかったのではないか?とも言えそうだ。
故に仲介するバテレンへ矛先が向かったと。
こんなところであろうか。
清廉潔白のように報告書を書いてはいるが、バテレン自身も奴隷を使い、こんな本音も垣間見せる。
ポルトガル(イエズス会)に代わり、交易しようとしたフィリピンのスペイン(フランシスコ会)の宣教師ジェズースの本音はこれか?

『ミアコ(京都)にスペイン風の教会が造られると、日本人はその周囲を歩きまわり、ある武士はすでにこれを模倣した家を造ろうとしています。彼らは猿であって、マニラで見たものをすべてこちらで作ります。マニラにいる日本人には大砲の製造方法を教えないで下さい。』

南蛮人のみた日本」 佐久間正 主婦の友社 昭和58.2.17 より引用…

家康が将軍になった頃の話。
まだフィリピンには数千人の日本人がいたが、横暴,傲慢,好戦的な上、海賊行為を行うものはおり、評判は悪かった様で、スペイン側の者からの印象はこんな感じ。
「猿」に布教してもムリかとは思うが、バテレン追放令後に地下潜伏したイエズス会に代わり、フランシスコ会は慈善事業らにより信者を増やしたのは事実。
が、施政者である大名にとっては、布教より交易利権が目的で、最終的には侵略の疑いで禁教令と鎖国令により排除。
こんな経緯の様で。


筆者はこれらの最大の理由は、「バテレンキリシタンによる従来秩序の破壊」ではないか?と考えている。
だが、弾圧までに至るには一つの理由だけで行われる訳ではないだろう。
勿論、これも数々ある理由の一つとして考えるべき事例だと思う。


さて、折角だから、一つ備忘録として付け加える。
前述に「薩摩」が上がったが、薩摩はもう一度登場する。
ジェズースが家康と謁見した際に、二つの不満をフィリピン総督宛に送っている。
一つは、宗教。
当然、バテレン追放令は家康も継続しており、宣教師たるジェズースが謁見できるのは「交易の仲介者」だから大目に見ると言う事。
もう一つは、船の廻し先。
大坂の陣の前とはいえ、既に幕府は開かれていた。
家康は関東へ船を廻す様に話し、ジェズースもそれを約束していた。
だが、実際に船が廻されていたのは?

「しかしこの三、四年関東には船が来なかった上に、彼(筆者註:家康の事)の不満をさらに大きくしたのは、敵対している薩摩に船が入ったことです。その為に彼は閣下が真実友好を望んでいるかどうも疑っています。」

南蛮人のみた日本」 佐久間正 主婦の友社 昭和58.2.17 より引用…

長崎方面だけでなく、フィリピン総督は薩摩にも船を廻していた様で。
…備忘録。





参考文献:

南蛮人のみた日本」 佐久間正 主婦の友社 昭和58.2.17

言語研究からの視点…金田一京助博士が記す「北海道と北東北で会話出来た事例」と「金田一説の結論」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/14/191435
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/10/052507
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/07/202607
前項はこちら。
折角、ジョン・バチェラーの主張を見たのだから、今までも書いて来たが反論していた「金田一京助」博士の論も見てみよう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/08/22/203614
以前、「秋田城跡歴史資料館」の特別展で、平安期、都から来た官吏と渡島衆の通詞は秋田蝦夷(エミシ)が行い、城内に常駐したのではないかと考えられている事を紹介したが、金田一博士は江戸初期の古書事例と北海道,東北に残された言語の痕跡でそれを説明している。
では、その部分の概略を引用してみよう。


「前略〜(筆者註:津軽半島の)突端あたりを外ヶ浜というのです。その外ヶ浜に四十三軒の一々の戸主の名前をずっと挙げております。その中には宇多村の伝蔵、それから藤崎村の長次郎という日本名もありますが、綱不知村のゼモン、奥平部のヤクローなどというのがありまして、だんだん行きますと、袰月村のイカホイ、小泊村のイソタイヌ、それから釜の沢村のマコライヌ、宇鉄村の四郎三郎〜後略」

「前略〜(筆者註:寛文九年蝦夷乱時、江戸への書状を送る時)えぞが島と津軽半島との間の使船の役をしたのが、先程挙げた外ヶ浜の万五郎というアイヌと四郎三郎というアイヌだったのです。それでそのとき公けの文書には「万五郎アイヌ」「四郎三郎アイヌ」と書いてあります。」

「(筆者註:寛文九年蝦夷乱後に幕府から津軽藩の調査指令の時)ところがこのときに両方とも通辞を連れて行きます。牧只右衛門の方は万五郎を通辞に連れ、秋元六左衛門は四郎三郎を連れて行くのです。これは先に万五郎アイヌ・四郎三郎アイヌといって活動したあの二人が今度は通辞の役をさせられます。通辞の役をするんですから、北海道アイヌと奥州の蝦夷と同じことはを使ったという証拠です。」

「西海岸は「ひのもと将軍」の家中の人々だと歓迎の気持さえあって巧かったんですが、東の方の奥地というものは、今の日高あたりというものは、内地の日本人などというものを全く知らないアイヌたちだったために、内地から行ったということを云っても受付けない。あべこべに戦争になりかけた。(筆者註:そこで秋元と四郎三郎は諦め撤収)〜中略〜その時に秋元が四郎三郎に向って、あの山一面に生えている木はなんという木だねと尋ねたら、「あれはトドロップです」と答えたと秋元の復命書にそうかいてあります。これは私にとってはとてもびっくりする程喜ばしい記事なのです。トドロップというのはトド松のことです。トド松を日本語で何故トド松というかといえば、トドロップの下略の…形なのです。ところが今日北海道のどこへ行ったってトドロップとは何のことかといっても知っているアイヌに出合わないのです。今日は、北海道の口もとの方はアイヌが早く日本化して、アイヌ語を知っている者は一人もいなく、皆日本人になっているから。また奥の方のアイヌは、奥の方のアイヌ方言で口もとのアイヌ方言とはちがうからであるらしい。口もとのアイヌはトド松のことをトドロップといったということは、松前家の藩士松前広長という学者が『松前志』という八冊の博物の書物を書き残してくれました。その中にトド松の条で「トド松をばこの辺の蝦夷はトドロップという」とかいてあるのです。だから松前地方のアイヌのことばと、津軽地方の、すなわち本州の果のアイヌのことはとは、同じアイヌ方言に属していたとわかります。」

「古代蝦夷アイヌ 金田一京助の世界2」 金田一京助/工藤雅樹 平凡社 2004.6.11 より引用…

金田一博士が言語学からみた姿の概略。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/24/205912
寛文九年蝦夷乱(シャクシャインの乱)に関わる部分で、津軽藩士らの行き来で活躍した蝦夷衆に含まれる人々だろう。

松前津軽の間を外ヶ浜の「狄村」の人々が行き来する「使役」を提供していた。
②寛文九年蝦夷乱の際、幕命で津軽藩が調査に入る時、万五郎アイヌ・四郎三郎アイヌのニ名をそれぞれ通詞として藩士は向かう。
③東ではまともに話が出来る状況ではなく戻る事に。対して西側では「日ノ本将軍の家中」とされ好意的に協力を得る。
④東へ向った秋元と四郎三郎、戻る途中に秋元があの山の木は何だと尋ねたら四郎三郎は「トドロップ」と答えた。
⑤トドロップはトド松の事で、元々トドロップのトドを残した略語である。そして別古書では松前周辺もトド松を「トドロップ」と言っているとする記載がある。
⑥これにより、松前周辺の人々や津軽周辺の人々に言語の共通点があり、言葉は通じた…
としている様だ。
因みに、元文期、幕府金座の坂倉源右衛門が北海道へ度々渡る時に、船待ちの時にこの四郎三郎の家へ訪れて暇つぶしした模様。
この人達は松前蝦夷と出くわすのを好まなく、系図で区別を説明した…こんな記録もある。
所謂、江戸初期には口蝦夷と本州蝦夷は言葉が通じたと言う事になる。
津軽の狄村の人々は、ある程度混生しており、魚の売り買いらもしていた様だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623
それなら、これは成立する。
故に、秋田から江戸初期に「稼いで来ます!」感覚で北海道に行ってもそれなりに会話は可能だったであろう事になる。
実際に、十三湊や秋田湊へ「夷船」が訪れたのは他の記録でも残される。
古代秋田城、十三湊,秋田湊、江戸初期…
断片ではあるが、少なくとも「口蝦夷−北東北人」は、一般的な会話は不都合なく出来たと考えても良いのではないだろうか。

次…
少なくとも、西側の人々は「日ノ本将軍」、つまり安東氏を知っており、何らかの行き来ら関係を持っていた事になる。
原文を確認していないので、どの様に歓待されたかは解らないが、近い年代なら、秋田湊へ来ていたか?
寛文九年蝦夷乱で松前藩と殺気だっていたであろう中でも、安東家中なら別扱いだった事になる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/27/092649
この辺との関連性はどうであろうか?
確かに西の長「ハシタイン」は上ノ国入を許された。
東より西の方が、交流が強かったのでは?

さてまた次。
前出の坂倉源右衛門、四郎三郎宅へ押し掛け会話を楽しんだ際、松前側の人々と同族の様に話をしたところ、松前蝦夷とは出くわす事を好まず、わざわざ自分の家系図を持ち出しそれを差別したとある。
江戸期には武家も「格式」を重視し、それを家格としてランキングしていた様な話はあるだろう。
蝦夷衆も同様だった様だ。
それは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/170920
敵と味方が存在したり、蝦夷日誌でも家系図を持つ者の存在や平取の格付けが高い等の格差社会の片鱗を見せる。
一枚岩ではなかったという事なのだろう。
更に、「家系図を持つ=文字を持つ」者が居た事になる。

では、もう一点…
「トドロップ」…何故この言葉が消えた?
上記の通り、金田一博士は「奥蝦夷は口蝦夷とは訛が違う」としている。
実際、金田一博士が辞典作成の為に自ら収集したアイノ語資料は何故か誰かに破棄され、本人が呆然とした様な逸話がある様で、彼は地域差があり失われたのか?時系列的に失われたのか?等細かい検討まで至ってはいなかった様だ。
つまり、この点は課題として残った事になる。
実は、この文章は講演をそのまま文字起こししており、金田一博士は自ら考古学や骨格学の視点は無い事をハッキリと言っている。
故に、それら知見による時系列的な分別らもされてはいない。
どの時期まで「トドロップ」を使い、それがどのように消えていくか?らは、博士は結論を出せてはいない。
あくまでま、古書文献と現代に残る言語のみにクローズアップして論文を書いている。
当然それには、その根拠の一部が地名に残る「ナイ」「ベツ」ら、も含ませるが、「口蝦夷と奥蝦夷の文化の差」や「擦文期→アイノ文化期の変遷過程」らは、当然金田一博士は知らない。
そして、その時点まででの自らの研究の結論は、別の章に記載されている。

「前略〜(筆者註:南北を行き来する)蝦夷アイヌの相違は、つまりは本州にいたアイヌ蝦夷で、北海道にのこった蝦夷アイヌであった。換言すれば、蝦夷アイヌの相違は根本にあるのではなくして、ただ地方的の差、即ち人種の差ではなくして支流の差でありはしないだろうか。これが私の結論である。」

「古代蝦夷アイヌ 金田一京助の世界2」 金田一京助/工藤雅樹 平凡社 2004.6.10 より引用…

上記と合わせると…
①言語の共通点から鑑みれば、少なくとも口蝦夷についてはエミシとアイノは同族だろう。
②民族と言うような独立したものではなく、同じ様な言語や文化のルーツを持つ「地方的支流」である。
この時代の金田一博士としての結論がこれになる。
後に埴原モデルらと合わせた上で、時系列観念を与えて東北の地方史書で説明してるのがこれ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/14/191435
元々差は無いが、その段階でまだアイノ文化が出来てないので「古代蝦夷をアイノと呼ぶのはナンセンス」というもの。
言語系研究では、「独立したものではなく地域的支流」という博士の結論を踏まえた上で論じられているであろうが、巷では無視されている訳だ。
博士は当然ながら、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/10/114329
清野博士らの骨格学から見た視点らも知っており、それぞれを尊重した上で「自分の結論はこれ」と言っていたに過ぎない。
それは当然。
他の知見が無いし、自分でも課題を残していた。
総合判断までは至ってはいないのだ。

金田一説のスタートラインはあくまでも「古日本文化を持ち、地方差で分派した支流である」であり別人種の様なものではない…だ。
同時に、同じ言語圏且つ血の繋がりがあり、同一経済圏にいた…これを抜く訳にはいかんと思うが。

これが、金田一説のスタートライン。
・江戸期以前の状況が不明で時系列的証明が出来ていない。
・他の知見との総合的判断が必要、特に中世は空白。
・この論が優勢ならば、古来から北海道に住んでいた事にはなるが「独立した集団」とは言えなくなる。むしろ、地域的支流でしかない。
・この論が優勢でないならば、古来から北海道に住んでいたと言う立証が難しくなる。
と、考えるのだが、如何であろうか?

仮に、最後の点だとすれば…
現在、ロシアによるウクライナ侵略の最中、ロシアは先住民族と認めたとあるのだが、そこは心配は要らない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/15/174010
中世でこれだ。
ロシアが南下するのは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841
これ。
武家の片鱗と北陸の血を引くであろう、我々と血を分けた人々は既に千島に到達している。
当然、現状考えられる経済圏は?
十三湊や秋田湊が最も有力。
ロシアが南下したのは昨日,今日のつい最近。
それも、そこに住む人々と揉め事を起こしながら侵略紛いに南下しているのは記録に残される…と、言う訳だ。
まぁ択捉島国後島の「遺跡」が、現状どの様になっているかは知る由もないが…
金田一博士は、同じ日本人だと言っていたのだ。
あくまでもスタートラインはそこ。

とはいえ、我々が金田一博士の説を鵜呑みに支持する訳ではない。
ここから、どの様に誰がどの様な説を唱えてきたか?時系列で順番に下れば、その学術的系統を必然的に追うことも可能だろう。
そこから「独立した民族」の様に置き換えた者も解る。


如何だろうか?
そう言えば、先日筆者はSNS上で粘着とな成りすましをされた事がある。
その人物に「学が無い」と書かれたで。
筆者はブロックしていたので見ることは出来ないが。
当然である。
我々メンバーに歴史学や考古学、このブログに書いている種々学問の学位を持つ者はただの独りも居ない。
「学が無い」のは当然。
我々は「0」から学んでいるのだから。
だから、古い原点から時代を下ってきている。
無知を知ったからこそ。
さて、何年あればその人物に追い付けるであろうか?…なんて、そんな事を考える暇も相手をする暇も無し。
他人と比べる為に学んでいる訳ではない。
故に「権威による格付け」も不要。
ひたすら学ぶのみ。




参考文献:

「古代蝦夷アイヌ 金田一京助の世界2」 金田一京助/工藤雅樹 平凡社 2004.6.11 より引用…

滅多にやらぬ遺伝子の話…「酒に強い」のは円筒土器文化圏?、と言うことは?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/14/191435
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/12/103223
忙中閑あり…ではないのだが、この項は気楽に見て戴きたい。
滅多にやらぬ遺伝子レベルの雑談。

さて、SNS上で話をさせて戴いた中にこんなものが…
お酒の強い遺伝子をもつ都道府県別ランキングだそうで。
https://getnews.jp/archives/3217933

一位 青森
二位 沖縄
三位 岩手
四位 秋田
五位 山形
六位 宮城

だそうで。
沖縄を除けば、ほぼ東北六県が上位を占め、それに北陸勢と北関東が続く。
近隣、北海道が十二位、福島が十三位。
下位は奈良や岐阜、和歌山、宮崎。
割と畿内〜東海付近か。

さて、雑談。
たまたま筆者は、某衛星TVで、「酒の知られざる真実」を見ていた事を思い出した。
https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20200127/index.html
基本的に動物は「酒」を飲まない。
では何故、人類のみ「酒」を飲むのか?について解説していた。

①周囲の大型動物に対して脆弱な人類の祖先は餓えをしのぐ為に、発酵食を食える様にアルコール代謝能力を進化過程で身に着けた。

②農耕開始や人が集団化した事により、コミュニケーションの為に酒を使い始めた事で更にアルコール代謝能力を高めた。
そして蒸溜酒まで手に入れる。

③水田耕作開始と共に低地に降りたアジアの祖先は微生物や病原菌と戦う脅威にさらされだした。そこで身に着けたアルコール代謝能力を低下させ、分解過程で発生したアセトアルデヒドを対生物兵器として利用する為にアジア人ではその能力を下げた。

最近の研究では、酒と人類の関係はこんな感じらしい。
当然、酒の強い,弱いは父母からの遺伝で概ね決まるであろう事は想像に易しい。

さて…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/10/052507
古い論文ではあるが、割と納得がいくものかと思う。
骨格からみれば、父母が出会う頻度が、そのまま遺伝子を繋ぐ確率に繋がるであろう事もこれまた想像に易しい。
まぁ、父母が出会って×××しなけりゃ遺伝子は引き継がれないので、当然より地理的に近い方が出会う機会は多い。

北では北方から南下、南では大陸,半島から東へ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/05/135443
そんな移動痕跡はあちこちあるし、何せ「オホーツク文化」も北方からの流入と考えられる。
まだ国家の概念なぞ無い時代、より住みやすく、より多くの食料を得られる場所に移動するのは当然だろう。
人の流入は当然だろう。
それに結婚,出産で混雑していくので、いきなり大量流入する必要もない。
大量流入があるなら、ある突然から一気に文化が変わるだろう。
だが、弥生文化の形成すら時をかけて少しずつ変わったものとなりつつある。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535
そうでなければ、文化グラデーションなぞかかりはしない。

地理的に人の流入からもっとも離れた地域、これが最も混雑し難いので、それ以前からの能力のまま維持される。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/31/064811
つまり、円筒土器文化圏の地が、もっとも大陸から遠く且つ他との混雑が少ない地域ならば、酒に強い遺伝子をより多く持つ事に…
割と筆者的には納得。

北海道?
まさか明治の開拓使流入した人々へフィルターをかけられるものでもないし、むしろ道南の人々が強いであろうし、北方からの流入者がアルコールに強いか弱いかを先に調べる必要はあるだろうから、筆者には解りません。
まぁ江戸中期での松前蝦夷地の人口は50:50。
そう言えば…
バテレン報告では、蝦夷衆は多少飲んだ程度では酔わなかったとあったハズだが、明治以降は酒に強い感じは無い。
これもそのうち再度見つけてみようと思う。

因みに、筆者の家族の殆どは、アルコールパッチテストでは「多少赤くなる」又は「全く変化無し」なので、円筒土器文化圏の血を引くのか。
「酒は命の水。美味しく楽しむべし」が家訓である。

度々登場する「辰砂」とは?2…家康公や政宗公が真に欲しかったものとは?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/16/192303
さて、「朱の考古学」からもう少し「辰砂=水銀」については学んでみよう。
基本的にこの著書は前項で紹介した鍍金らよりもむしろ、古墳における辰砂の使用らについて解説がさかれている。
が、たまたま辰砂や鍍金と万葉集との関連記事があるのだが、その中に興味を引く一文があったので引用しよう。

アマルガム金銀精錬法は一五五七年メキシコで鉱山技師のバルトロメー・メディナにより発見され、佐渡金山においては慶長年間に行われていたことが明らかになっている(注3)。徳川家康はメキシコ産銀額の豊富なことを知り、アマルガム金銀精錬法についてフィリピン総督ロドリゴ・ヴィヴェロとの接触の際に関心を示していたという(注4)。おそらく、日本では慶長年間にはじめてアマルガム金銀精錬法を導入したものであろう。それはヨーロッパの技術であり、万葉の時代に金銀精錬法が存在したにしても、その技術的系譜とは明らかに異なっている。以上のことから「吹く」は単にアマルガム鍍金法を示すにすぎないと思う。アマルガム鍍金は六世紀半ばには日本でも開始され、万葉集歌の枕詞として成立する史的背景は十分に持っている。」

「増補 朱の考古学」 市毛勲 雄山閣出版 昭和59.9.5 より引用…

著者は、古代からの辰砂→黄金は、鍍金レベルだと考え、量らも限定的で、1557年のメキシコでの金銀精錬法を待つまでは、大規模なアマルガム精錬は行っていないと推定している。
で、家康公はそれにかなりの興味を示していたと言う。
これも、今迄も触れてきたが、ハッキリと書いた文面はあまりなかった。

と言う訳で、サン・ファンバウティスタ号…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/15/105131
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/20/141907
元々、この船は伊達藩の完全単独建造ではない。
先に三浦按針が指導した洋式船の船奉行らも、家康公の意向で参加している様だ。
メキシコ迄の航海は、家康公と政宗公の共同。
で、その目的は、メキシコの銀山鉱山のノウハウ習得が重要なウエイトを占めており、この「アマルガム金銀精錬法」を含む事になる。
まぁ当時、最大最新の技術を寄越せと言うのだから、なかなか。
むしろ、家康公の興味はこの鉱山・精錬技術だと思うが、如何だろうか?

勿論、メキシコとの交渉もスペイン,バチカンでの調整も不調に終わるがゆえ、正式な形での技術移管は行われず終わる。
その割には、「南蛮吹きの話」は伝承が残る。


と言う訳で、織豊~江戸初期の話。
島根県のHP「石見銀山の歴史」…
https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/ginzan/outline/outline_08.html
これによると、佐渡金山同様、石見銀山でもアマルガム金銀精錬法はテストされた記録がある様だ。
古書上は佐渡での使用が最初と考えられる。
こちらによれば、鉛を使った「灰吹法」も1533年から。
結局、バテレンや商人から何らかの形で概略の内容は聞いていたんだろう。
基礎知識と原材料は持っているので概ねの話でも再現出来たかも知れない。

更に…
鉄砲伝来からの「弾丸需要」も含め、大名達は「鉛」も欲しがった対象。
考えてもみれば、
鉄砲の弾丸は「鉛」製。
→鉄砲らを買う為に「金銀」が必要。
→金銀を得るためには「鉛」が必要。
…堂々巡り。
ここで水銀で精錬可能なら、弾丸を含む需要へ鉛を回せる事になる。
家康公,政宗公が「アマルガム金銀精錬法」を欲しがったは、こんな事情もあったかも知れない。


さて、実は筆者は、上記を纏めながら、また疑問に辿り着いていた。
アマルガム鍍金はやっていたが、水銀精錬まではいってなかった…
・灰吹法も水銀精錬も戦国~江戸初期に導入…
この2点だ。

理由は極簡単を
①平安期の平泉では、既に金粒付着の坩堝片が出土している。
→熱したであろう事が解る
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/10/203836
当然、伝承は事欠かず、坑道の話もある。
②南部氏系居城、「根城」「
聖寿寺館」「三戸城」「九戸城」らでは、城内で金銀銅らを操る坩堝らが出土している。
→分離させていた=精錬していた可能性がある
③鉛山としての伝承はなかなか早い。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/22/102500
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/17/201849
慶長年間で安東実季公は、自前船で敦賀経由で鉛を売買する算用状が残る。
太良鉱山か、なかなかの儲け。
これ、豊臣家に上納した物では、五奉行の返答付でやり取りしている。
蝦夷船が秋田湊で買ったのは「衣服,鉄器,鉛」。その決済に金銀を使い、秋田では銀を好んだとバテレン報告…
じゃ、その鉛は何に使った?

実際の規模は当然ながら不明だが、江戸初期頃と言わずとも、鍍金からの延長で水銀、又は地の鉛で精錬を行った可能性はありそうだ。
前項からの経緯を考えても、何らかの精錬を継続していたと考える。


採金や鍍金を我が国で最初に実践したのは「陸奥エミシ」。
技術を持って南下する事も考慮すべきではないのか?
各技術は、大陸又は朝鮮半島から伝来したと言う。
なら、蝦夷衆を介し満洲,沿海州方面から技術を導入…なんて事も考慮必要があるのでは?
勿論、それはトップシークレット。
何故なら、がめつい都の貴族や鎌倉得宗家、室町幕府に寄越せ!と、言われるのは目に見える。
「文字が無い」接点を作る格好の材料とも、言えるが。
思われるより、東北は都に近い。
そして、北海道は大陸に近い。






参考文献:

「増補 朱の考古学」 市毛勲 雄山閣出版 昭和59.9.5

度々登場する「辰砂」とは?…「水銀」と、当時の「黄金」への認識を学ぶ

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/12/105552
これを前項とする。
今迄も、文化に直接関わるアイテムについて「○○とはなんぞや?」として竈,ろくろ,船らを取り上げてきたが、今回は「朱」である。
縄文~続縄文~弥生でも、顔料や血液を表すら生活に密着したものとして使われていたのは考古学で証明される。
朱は、
①辰砂(朱砂,真朱も同様の物)…HgS(硫化水銀)
②弁柄…Fe2O3(酸化鉄)
③丹…辰砂又は鉛丹…鉛丹はPb3O4(四酸化三鉛)
往古から使われるのは、主にこの三種とか。
この中から「辰砂(水銀)」を取り上げる。
この様に…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/20/185409
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/16/201849
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/15/193225
「金」と共に、水銀を取り上げている。
何故か?
これは水銀が特異な性質を持つから。
常温の水銀は、他の金属を溶かし込み合金を作る性質がある。
これを「アマルガム」と言う。
溶かし込み込み易さが金属で違う。
そこで、特定の金属を溶かし込んだアマルガムを約350℃位に熱すると、水銀のみ蒸発し、特定の金属のみ取り出す事が可能。
つまり「金属の精錬」が出来る。
古代では、一種の「錬金術」と考えられてきた模様。
では、これらを踏まえ、古代に辰砂や水銀がどう捉えられたのか、背景を学んでみよう。

ここで一つ定義をする。
引用以外の部分で、
・黄金→精錬後で価値を持つ「金」
・砂金→天然産出する「金」の粒
とする。


「日本古代の鍍金法は、水銀に金をとかし、それを銅表面に塗り加熱して水銀を蒸発させる、アマルガム鍍金である。水銀は常温で金をとかしアマルガムとなる。金は大きな塊でもよいが、細ければ細かいほどアマルガム化が速い。金アマルガムは水銀五・金一の割合ででき、作る時は水銀液中へ金を入れてつくるので、余分な水銀、つまりアマルガム化しない水銀は除去する必要がある。和紙や鹿皮で漉すと、金アマルガムが残る。これを銅表面に塗るわけで、銅表面はわずかにアマルガム化が生じ、金アマルガムと密着する。炭火などで熱すると、水銀は蒸発して金と分離し、薄い金膜が銅表面をおおい、まだらな場合はこれを何度も繰り返して鍍金が完了する。アマルガム鍍金に不可欠な水銀は、周知のように天然に産することもあるが、多くは真赤な岩石=辰砂を精錬して得られる。」

アマルガム鍍金に不可欠な水銀は、周知のように天然に産することもあるが、多くは真赤な岩石=辰砂を精錬して得られる。後閑文之助氏は辰砂と鍍金について「漢の武帝は神仙学を信じ、方士の李少君を重んじていた。李少君は元光二年(前一三三)に釜を作り、中に辰砂を入れて熱すれば丹砂は化して黄金となるべく、黄金をもって飯器とすれば生命は長く」と説き(注1)、辰砂即鍍金の技術が漢代の神仙術のうちに存在していたかのような解釈を行った。これ『史記』封禅書の「少君言上曰。祠竈即致物。致物而丹沙可化為黄金。黄金成以為飲食器存在益寿。」(注2)と言う記述によったもので、この記述では「致物」によって辰砂が黄金に変化するわけで、その黄金で飲食器を作るのである。つまり、もののけがかまどに集ることが辰砂の黄金化の条件で、加熱が行われたものである。少君はアマルガム鍍金を辰砂の黄金化として漢の武帝に信じさせた。竈は辰砂を精錬し、あるいは飯食器を鋳造する設備ではなかったか。この話は『漢書』郊祀志(上)にも取り上げられ、武帝は辰砂を黄金にかえることに専念したとある。」

「『漢書』郊祀志(下)には、「他に永説上曰…黄冶変化…」とあり、小竹武夫氏は「丹砂を冶しふきわけて黄金と化し」(注3)とやくした。これは「普灼曰黄者鋳黄金也。」(注4)によっているもので、「黄冶変化」は道家修練の術の一つであり、辰砂→水銀→アマルガム→金膜という過程のなか、精錬・アマルガム化が省略されている。『抱朴子』に、「水銀が丹砂から出ることを知らぬ者がいる。そう教えても信じようとはしない。『丹砂は本来朱い物。どうして水銀のような白い物になることができようか』(注5)という記述があり。道家の間ではよく知られたことであっても一般には知られず、あるいは秘密の法としていたことが考えられる。辰砂即黄金(実際は鍍金のこと)が道家の説いた修練の術であり、人々をまどわすものであった。つまり、古代中国では、鍍金するには水銀ではなく辰砂が必要なものと一般に信じられていると理解される。『天工開物』では、「凡朱砂・水銀・銀朱、原同一物。所以異名者、由精粗老嫩而分也。」と記しているところによれば、辰砂と水銀は同種のものと理解され、アマルガム鍍金は辰砂さえ得られれば可能ということが漢代以後、後々まで続いたことを意味するのではないか。以上のような古代中国における辰砂即鍍金という理解は、アマルガム鍍金の技術が中国、朝鮮をへて日本に渡来したものである限り、日本でも流布したに相違ない。記録に従えば、日本での鍍金は鞍作鳥の鋳造仏像が最初というべきであろう。『日本書紀』には、推古天皇十三年(六〇五)、天皇の命によって鞍作鳥が造仏工となり、翌年、丈六銅像は完成し、元興寺に安置されたとある(注7)。それは鍍金の記述を欠くが、高句麗の大興王から黄金三〇〇両の献上があったことや仏像体表の金色は仏の三十ニ相のなかでもとくに重要であることから、鞍作鳥の指導によってアマルガム鍍金がおこなわれたことは間違いない。鞍作鳥は鞍部多須奈の子、多須奈は鞍部村主司馬達らの子で、漢系渡来人である。」

「増補 朱の考古学」 市毛勲 雄山閣出版 昭和59.9.5 より引用…

以上。

凄く平たく言えば…
古代Chinaでは漢の武帝の時代から、神仙術の錬金術と考えられていて、渡来人によりそれが伝わった後も、
・黄金…辰砂から錬金術で作るものと考えていた
・砂金…その辺の光る砂粒
で、と言う認識で、奈良の大仏作るまでは、我々の先祖達もそう考えていたであろうと言う事。
現代で我々は、砂金を弄くれば黄金になるのを知ってるので、オー!となりますが、先祖達はそんな認識はしていないと言う事。

6世紀半ばには、漢系渡来人や秦系渡来人によるアマルガム鍍金の実績は記載され、伊予に辰砂を取りに行った等の記述はある。
で、東大寺大仏鋳造に至る。
これは国家事業として純国産の自然銅,砂金でまかなわれ、水銀については国産辰砂があり且つ施朱の風習があったので純国産だったと推定される。
これ、水銀鉱山の探査も同時に行われ、万葉集にも詠われるそうで。
練金10,439両、水銀58,620両→比率1:5.6でアマルガム鍍金に対してほぼ正確。
でこの水銀を得るために集めた辰砂が概ね2倍だったのは、大仏建立の為の記録に残される。

で、ここからが重要。
7~8世紀、仏像鍍金が活発な時期、辰砂→黄金と言う理解が一般的なのは前述の通り。
水銀と言う記述の初見は続日本記の和銅六(713)での「伊勢水銀」からで、それまでの「辰砂,丹砂,真朱」の記載から「水銀,水金」に変わり始めたと言うのも根拠に挙げる。
よって、奈良の大仏から、このアマルガム鍍金への理解と工法の公開により、技術が広まったと思われる。
つまり辰砂→黄金であるので地方に於いて砂金がそこいらにあっても、それを黄金と見なす者は居なかった事になる。
何故、渡来人が一定の勢力を保てたか?
技術がトップシークレットで、公開していなかったから。
百済王敬福」が、砂金を探し当てられたのは全くの偶然ではなかった可能性がある。
何せ、彼は陸奥介で多賀城にいた。
で、彼が概ね技術を知っていたなら、誰も金だと認知してない砂金を入手出来た。


当然、黄金山の陸奥エミシは、大仏での技術公開より先に日本で最も早く、このアマルガム鍍金のからくりや砂金=金である事を公開されていたと。
何故、38年戦争勃発するか?
何故、陸奥エミシを移住させたのか?
砂金では見えなくても、辰砂を見れば想像出来るのではないか?
陸奥エミシが、その技術を知り、好き放題に金を作り得たから…なのでは?

まぁ少なくとも、我が国に於いて「黄金」に価値を付加したのが仏教であり、上記の通りの認識であれば、その辺の川に転がっている「砂金」はただの砂粒。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/22/195207
海外交易の盛んな中世ですら、「実用性の無い物に価値無し」と言う認識。
ましてや土器作りでも土や砂を厳選していたご先祖にすれば、焼結の邪魔をするであろう金属粒子をわざわざ「価値あるもの」とは思わないであろう。

如何であろうか?
この認識ならば…
①膨大にあった「砂金」に手を付けなかったのか?
②何故、突然取り始めたのか?
③その時期は何時で誰が取り始めたのか?
これら疑問をほぼ説明可能となる。
何せ価値の無い「砂金」が、水銀を使う事で都人が喉から手が出る程欲しがる「黄金」に出来る事を知らなかったのだから。
それを知っていたのは「技術を知る渡来人」のみ。


この辺が接続出来れば、これも説明可能。
以前から述べているが、東北の金山開山伝承には波がある。
尾去沢鉱山…8世紀
これは、黄金山の延長で説明可能。
故に朝廷又は陸奥エミシ。
・秀衡街道周辺…12世紀
これは奥州藤原氏だろう。
・太良鉱山…13世紀
これは、蝦夷管領の安東氏か。
・阿仁鉱山…14世紀
これは南北朝騒乱による南朝方か(南部居城でも鍍金開始)。
・院内鉱山…17世紀
言わずとしれた南蛮技術を持つキリシタンら。
伝承だ…
そこで止めず、経済や必要とする者が誰なのか?を考えると、欲しがる者が誰か?は浮き出てくると思うのだが。
平泉の金色堂には北海道の金が使われたとか。
なら、そういう事だとしても、全くの「荒唐無稽」ではないと言う事。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/170920
何せ彼等は金銀の価値を知っていた。
知らぬとされるのは江戸中期以後だ。
これも「ミッシング・リンク」なのだ。






参考文献:

「増補 朱の考古学」 市毛勲 雄山閣出版 昭和59.9.5