「防御性集落」とは?…道南〜北東北のその時代を学んでみよう

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/25/061606
前項はこちら。
北海道の対岸側はどうだったか?
9~11世紀辺りを中心に見てみたが、ここで出たのが「防御性集落」。
では、この「防御性集落」とは何なのか?
改めて学んでみよう。
結論から書けば、まだ研究者の意見は纏まっておらず、なんの為に構築されたのかははっきり解ってはいない。
F34fC9F4NEMW5e2ファンガンマ様から紹介戴いた「北の防御性集落と激動の時代」と言う文献がある。
この中でも研究者達が直接激論を飛ばす様が見られる。
同書から、ざっと概略を見ていこう。

○ここで言う「防御性集落」とは?
平安期に北海道〜北東北で構築された「土塁,空堀らで周囲を囲んだ集落」「高地の平坦地らに築かれた集落」「空堀や大溝で区画整理された集落」らの総称。
同単語には弥生期に本州で構築されたものも含むが、ここではあくまで「平安期に北海道〜北東北で構築された」を前提とする。
前項で紹介した「二十平(1)遺跡,向田(35)遺跡」、「高屋敷遺跡」らが該当する。
分布は道南〜北緯40度線が主。
正確な開始時期と廃絶時期は研究者によりまちまちで、まだ未確定。
時代背景を前後の状況で並べてみると…
①5〜6世紀
東北…
南東北への朝廷の北上や古墳構築
北海道…
縄文文化、一部オホーツク文化
阿倍比羅夫の北進−
②7~8世紀
東北…
赤い瓷を作るエミシと終末古墳構築
多賀城、秋田城ら築城
後に38年戦争勃発
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/10/180459
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/20/200523
北海道…
江別,恵庭古墳群ら構築
土師器の検出と擦文文化が始まる
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/05/171231
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/08/204335
③9世紀(前半)
東北…
38年戦争終結鎮守府胆沢城,志波城,徳丹城築城
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/01/054317
征夷の中止と支配体制の変化
北海道…
擦文文化が拡大
④9世紀(後半)
東北…
元慶の乱勃発
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/121137
製鉄や須恵器窯らの技術拡散
北海道…
擦文文化が拡大
⑤10世紀
東北(〜道南)…
『防御性集落』構築
北海道…
擦文文化が拡大
⑥11世紀
東北…
安倍氏,清原氏台頭
北海道…
擦文文化が拡大、道東へも
⑦12世紀
奥州藤原氏が勢力を盤石に
ざっとこんなところか。
防御性集落の時代は主に⑤〜⑥。
丁度、秋田城や胆沢城が廃絶しそうな時期から検出し始めると思われるが、廃絶時期については、例えば高屋敷遺跡の事例で言えば…
・堀を渡る柱の分析では12世紀と出ている事や内耳土器,取手付土器が出土しており12世紀まで続く
・内耳土器らと供出する杯の編年経過らを見れば11世紀で廃絶
と言う感じでほぼ百年ギャップが出ている。
ここで⑥と被るので、政治体制らの影響が絡み、アッサリ断言出来る状況でない。
が、野辺地や浪岡の状況をみると北海道との経済活動は全く切れてはおらず堅調。
北方の物資が如何なるルートで誰が都へ供給したか?らが絡むので、慎重にならざるを得ず。

○どんな遺跡が?f:id:tekkenoyaji:20220415193803j:plain
現在想定されている物はこんな感じ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/13/210459
道南十二館比定地の「原口館」も実は発掘で防御性集落跡だと推定される。
又、この研究のトップランナーである三浦圭介氏が分類した内容がこれ。
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上北型…
段丘の先端らに集落を作り、最高部を堀で隔絶→支配層が出来上がっているのでは?
津軽型…
集落そのものが堀や土塁で囲まれる→支配層が明確ではないのでは?
ら、日本海津軽平野と三八上北地域で地域差がありそうだと提唱する。
この分類も研究者により幾つかのパターンがあり、まだ統一的には扱われていない。
当然、この時期にこれら遺構が検出されるのは北海道〜東北のみ。
故に蝦夷(エミシ)や俘囚との関連が示唆されるのだが、考古学者の意見も文献史学者の意見も微妙に折り合わず、朝廷勢力や出羽,陸奥国司、秋田城介,鎮守府将軍との関係も意見がまちまち。
よって、この時期の擦文文化の人々との関係もまだ確定はしていない。何故なら、この地域の人々は、道内の擦文文化の主流からも外れているから。
五所川原窯跡らの須恵器が流通するのは上記④〜⑥位。
経済圏で考えれば、北海道〜南東北の仲介者的に動いていた可能性はあり、北海道〜南東北と一体に連動はしていたであろうが、先述の通り支配体制との関係がまだ未確定であるのは確か。

○防御性はどうなのか?
ここも意見は分かれる。
前項の高屋敷遺跡の事例にも書いたが、
本来の防御性を考えたら、堀→土塁(柵列構築)→中心郭…これが最強となろう。
が、遺跡により、これが逆であったりする。
研究者によっては、堀構築の際の土の処理が土塁の意味なのでは?と考える方もいる。
これが秋田の「大鳥井山柵」なら、湿地→傾斜→土塁→堀→土塁(逆茂木有り)→堀→柵列→居住区と畝状空堀群を形成しており、殆ど山城、別格。
さすがに高屋敷遺跡らではこんな複雑ではない。
但し、三浦氏の研究では、11世紀まで存続した集落で防御性を持たぬものはほぼ無いとか。つまり、威嚇の意味も含めて機能していた証ではないかと考えている模様。
が、防御性の意味ではなく、区画整理や宗教的聖域を区分けした意見もある。
この根拠は、これら防御性集落にほぼ「戦闘痕跡」が無いとされる事なのだが。
ここで一つだけ、戦闘痕跡が検出された遺跡が発見される。
それが八戸の「林ノ前遺跡」。
大量の鉄鏃や明らかに戦闘により死亡した様な痕跡を持つ遺体が検出されたとの事。
林ノ前遺跡は、規模が他の防御性集落の数倍あり最大級。
製鉄工房,馬の遺体や金,銀らを扱った坩堝が出土している。
工藤雅樹氏によれば、安倍富忠じゃないかと推定され、前九年合戦においては当初安倍氏方だったが、源頼義の諜報で裏切りそうなので和議に行った惣領「安倍頼時」を攻撃し、深手を追った安倍頼時は、鳥海柵で息を引き取る。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%AF%8C%E5%BF%A0
跡目を継いだ「安倍貞任」に殲滅戦くらって全滅させられたと仮説してる模様。
防御性集落の長はほぼ特定されていないので、この仮説が正しければ唯一の事例となる。
いずれにしても、丁度、朝廷城柵の時代と安倍,清原氏の時代を繋ぎ、当に動乱や勢力図が作り込まれる時代であるのは間違い無さそうである。

さて、最大の問題…
この土塁や堀は誰から集落を守る為?
1.朝廷勢力への反逆
2.北方、つまり北海道からの侵入者
3.拡大した安倍,清原氏
4.集落間の緊張
どれか?
当初は当然1と考えられたが、開口部らの位置関係等を考えると不自然なのだそうで。
2も同様。
現状は3又は4、それも4の可能性が高いと考える研究者が増えている模様。
我々的に考察してみよう。
経済圏が一緒だと前提すれば、地消地産した余剰分は当然、大消費地に売却される。
この場合、最大消費地は都だろう。
金や馬ら富の象徴は東北が最大産地。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/10/203836
更に北方の物資の集約点でもある。
無理に1や2と敵対する必要はないだろう。
ならむしろ、他の集落に対する防御や「別将」として警察権を付与され利権拡大した後の安倍,清原氏の様な存在に対する警戒が必要だろう。
経済や物流が止まっていないのは、研究者達も一様に指摘するところ。
大きな動きとしては、そんな解釈が妥当なのではないだろうか。

恐らく、150年くらいの過渡期の時代。
概ね、前九年合戦で勝利し地方出身初の鎮守府将軍清原武則」や後に延久蝦夷合戦で活躍したとされる「清原真衡」らにより束ねられ、それを引き継いだ「藤原清衡」により隆盛していく過程で、その姿を消していくのではないか?というのは、概略としては一致するところ。

さて、では、北海道のチャシとの関連は?
はっきりした答えはまだ出ていない。
当然。
東北の状況が細かく解っていないから。
が、割と研究者が推定しているのは…
防御性集落が消えていく過程で北海道はある程度取り残され、同族同士の緊張緩和がされずチャシ構築に至る…というもの。
しかし…江別古墳群に付帯する「江別チャシ」らはその先代から。
それもどうも納得し難いような…


どうだろう?
38年戦争移行〜奥州藤原氏の時代迄でも、こんなに入り組んでいる。
同書でもあまり金らについての言及は無く、我々的にはそのエッセンスを考えながら学んでみようと考えていた訳だ。
また、政治体制や「富」に拘り、進めていこうと考える。
これが擦文文化期の対岸の状況の一部。
割と単純な変遷をした訳ではない。
そして、擦文文化を作る中には東北から北上した「蝦夷(エミシ)」が関与している。
全く関係ない訳はあり得ない。
実は、文献史学的にはこの時代における「蝦夷」は道内〜北緯40度線までの人々の事。
擦文文化期の北海道系住民は含まぬ様だ。
そして、まだアイノ文化の片鱗は無い。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/14/191435
そして、奥州市埋蔵文化財センターの展示パネルよりf:id:tekkenoyaji:20220415211547j:plain
「北海道系住民のムラは無い」
蝦夷(エミシ)を、その時代無かった文化人「アイノ」なぞと、時代を遡って呼ぶのは「ナンセンスの極み」言わざるを得ないと言っておこう。







参考文献:

「北の防御性集落と激動の時代」三浦圭介/小口雅史/斉藤利男 同成社 2006.8.10

「蝦夷(エミシ)の赤い瓷」…それを作った陸奥蝦夷(エミシ)集団と、朝廷や北海道の関連性を想定してみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/16/192303
これを前項とする。
一見、本項と全く関係無さそうであるが、実は大有。
実は、この辰砂を学ぶキッカケは、この「蝦夷(エミシ)の赤い瓷」から始まった。

では、本題。
「赤彩球胴瓷」とは?
北上市立博物館、常設展示より。
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この様な土師器。
以前行われた特別展の解説図録より、どんなものか?書いてみる。

奈良~平安に北東北陸奥国側で主に出土した土師器。
大きく外反する口縁部と丸く張った胴部が特徴。
その口縁部に1~5条の縦線、胴部全面に成形段階でベンガラ(酸化鉄)を塗り、後に焼成し、赤色を施す。
彩色に実用効果はないので、祭祀用と考えられる。
また出土場所は北上川沿いやその支流を中心に陸奥国内で北は八戸から、南は宮城県北部とかなり限定的。
また、出土時期も8世紀後半~九世紀前半、つまり東北における38年戦争とほぼ一致しており、それらとの関連が指摘される。
その成立は出土数増加により、

・第1期
→古墳期後期の全面赤彩土師器文化集団と続縄文文化集団の接触

・第2期
→双方文化集団の文様を組合せた初期赤彩精製土器の出現…

・第3期
→文様の複雑化や幅広網状文様した赤彩精製土器の出現…

・第4期
→口縁部の縦線と胴部全面赤彩化した初期赤彩球胴瓷の出現…

・第5期
→胴部の球胴化や文様らの形式確立と和賀川流域への分布の偏りと盛期化「赤彩球胴瓷の完成」…

6期→赤彩の粗雑化や関東からの出土と共に衰退…
と変遷してきた事が判明してきた。

概ね3期で7~8世紀前半、4期で8世紀前~中期、完成する5期で8~9世紀前半と比定される。
北上市立博物館では完成期を「赤彩球胴瓷」とし蝦夷(エミシ)の赤い瓷と定義し、その出現時期がほぼ38年戦争と被る。

この内…
・3期出現と北東北の土師器様式の確立、続縄文土器の消滅がほぼ一致する事から、続縄文土器の祭祀的意味合いを赤彩精製土器が引き継いだ…
・赤彩は当時宮城中心の、装飾横穴式石室を持つ文化集団の赤彩文化を引き継いだのではないか…
らの説が唱えられ、北東北の古墳文化の影響を、蝦夷(エミシ)の祭祀文化が受けて、赤彩精製土器→赤彩球胴瓷と変遷したと考えられている模様。
また、その終焉は鎮守府胆沢城や徳丹城築城らの後も続くが、彩色の粗雑化や墨書土器共伴らから祭祀的意味合いの縮小らが考えられている。
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更に、関東での出土は、阿弖流為降伏による38年戦争終結後の蝦夷(エミシ)の各地への移住も想定されている。

参考文献は「蝦夷の赤い瓷 -最強の蝦夷和賀川にいた- 展示解説図録」 北上市博物館 令和2.11.13より。

先の我々が辰砂に着目したのは実は、この第6期で、東京都多摩市「上っ原遺跡」でこの「蝦夷(エミシ)の赤い瓷」が出土したのを知ったから。
終焉期に関東での出土がある→蝦夷(エミシ)の移住との関連を疑うのは自然であろう。


さて、参考文献でも指摘する問題点を3点ピックアップしてみる。

①何故「赤い瓷」が出来たか?
第1期の説明にあるように、元々その源流は、北に居た「続縄文土器文化集団」と南(宮城県北部)の横穴式石室を持つ「古墳,土師器文化集団」の接触と交流にあるとされる。
縄文土器文化集団は、土器に沈線で文様を描く。
対して、古墳,土師器文化集団、特に横穴式石室を持つ集団は古墳石室らにベンガラによる赤い装飾を施す文化を持っていた。
上記にある2説は、それらから主張されている。
特に「赤彩精製土器→赤彩球胴瓷」に至る過程で、38年戦争勃発し、
・戦乱から逃れた人々が疎開する…
・北方からの援軍を得る為に、元々南の流れをくむ集団が北の民である事を強調する必要が出た…
らと説明する。
特に38年戦争勃発後は、北上川支流の和賀川流域、江釣子古墳群ら周辺に出土集中する事がその根拠。
北の古墳群は周溝を持つ土壙墓だが、江釣子古墳群周辺は、石組みによる石室を持つ事から横穴式石室を持つ集団との関連性が示唆されている訳だ。
この様に、続縄文土器文化集団と古墳,土師器文化集団が融合し、祭祀用として生まれ変遷したのではないか?と考えられている。

②赤い瓷の終焉は、38年戦争敗北で蝦夷(エミシ)は征服され「祭祀文化」を失ったからか?
現状そうとは限らないと考えられている。
現地の陸奥国蝦夷(エミシ)に対して、新技術の供与ら優遇政策がとられたと見られる事が解ってきた為だ。
それは「赤彩球胴瓷」の出土遺跡で「精銅遺構」「須恵器工人住居」と考えられる遺構が検出されている事から。
これは、何も陸奥国だけの話ではない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/121137
38年戦争だけではない。
出羽で起こった元慶の乱でも終結後に、製鉄や須恵器窯の技術伝播が発生し、地方土豪の勢力拡大へ至っている。
これが北東北における古代の大乱終結の傾向だとも言えるのではないか。
また、「赤彩球胴瓷」を必要としなくなる理由は、その当時の城柵や周辺の状況で説明は可能だと考えられる。
城柵築城には、必ず神社仏閣が付帯しており、中央での神道や仏教の伝来が発生している。
それを拡大伝播させるのは、修験者ら。
それは「国見廃寺」らに見られる様に、勢力を拡大した土豪達に庇護され、末端まで徐々に浸透していく流れを考慮すれば、陰陽師らが使う中央の祭具らに取って変わられ、赤い瓷の必然的用途は無くなっていく…これで説明可能だ。
時期を重ねても矛盾は発生しない。
自然と縮小し終焉を迎えていくと考えられているんだろう。

③関東への移住は強制か?
②や移住先での牧場の拡大を鑑みと、関東移住はむしろ38年戦争で発覚した「陸奥蝦夷(エミシ)の進んだ牧畜」ら技術を伝播させる為に「指導する立場で派遣」された事も考慮せねばならないと指摘している。
これらが、考古学研究の伸展で解って来ている。

さて、③がでたところで…
我々が疑ったのは、これが「牧畜指導」だけではなく、鉱工業でも同様なのではなかったのか?と言う事だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/16/192303
同書では馬を中心とした牧畜で想定しているが、我々は産金に着目してきた。
で、産金に当時必要としていた砂金採金や辰砂…これを考えていた訳だ。
産金は上記2~3期辺りになるのか?
採金や精錬技術を全国規模に拡大する為に技術集団「蝦夷(エミシ)」を各地へ派遣した…こんな想定。
実は…
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1512710956635533313?t=L-HIx9-q0uQZPsXeXXhw9g&s=19
現実、全国に「移住」させてような話はある。
各地の必要状況に合わせて牧畜又は産金と集団を選択すれば良い。
どうだろう?
当然ながらその後、牧場も金鉱山らも全国規模に拡大するのは言うまでもない。
特に、金は「無かった」と認識されていたのにも関わらず…だ。
一応、筋は通るかと考える。


更に…
北海道に目を向けよう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/05/171231
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/08/204335
・続縄文→擦文土器の変遷を担い…
・江別,恵庭に古墳を築き…
・古代北海道を開拓していく…
これら古墳を作る文化を持つ陸奥蝦夷(エミシ)が何故、北上するに至ったか?
これらは上記「赤彩精製土器」を作った第3期辺りに相当する。
擦文土器形成時期はほぼ3期、つまり38年戦争の前、陸奥蝦夷(エミシ)と朝廷がまだ対立する前且つ涌谷町での日本初産金が成功した頃と概ね一致すると言えるのではないか?
仮に、陸奥蝦夷(エミシ)の列島各地への移住が牧畜や産金の為と想定可能なれば、それより先んじ北上も同様の目的を持っていたとしてもとおかしくはないだろう。


何気に古代の列島の動きについて、ぼちぼちカードが集まってきたので、敢えて纏める意味も含めて考察してみた。
一応、断片のみなのでまだまだ仮説までもいかないだろうが、断片の中にある物証だけで組み立てれば、こんな話も成立してくるだろう。
擦文以前も北海道と東北の関係は切れた事はない。
全く独立した文化であったというのは、むしろ最新研究を無視する事だ。

さて…
蝦夷(エミシ)の赤い瓷」から広がりを魅せる、北海道〜東北〜朝廷との関連性がどのようなものか?興味は尽きない。
この後…
律令制下、多賀城,秋田城,鎮守府胆沢城ら城柵と官衙による統治時代…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/20/200523
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/01/054317
・防御性集落らの出現…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535
陸奥安倍氏,出羽清原氏、そして奥州藤原氏の時代…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/18/222411
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/10/203836
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/20/203914
と、変遷していく。

だから我々は言う。
北海道と東北は古代から繋がっている。
それが切れた事は無い。
そして、都も他の地方もまた繋がっている…と。






参考文献:

蝦夷の赤い瓷 -最強の蝦夷和賀川にいた- 展示解説図録」 北上市博物館 令和2.11.13

「令和2年度特別展「蝦夷の赤い瓷 -最強の蝦夷和賀川にいた- 」関連事業 誌上フォーラム」 杉本良 他 『北上市立博物館研究報告 第22号』 北上市立博物館 2021.3.26

本当に「竪穴→平地住居化はアイノ文化への変遷の指標」になるのか?…「新編天塩町史」に記述される幕末迄竪穴住居が使われたとされる事例

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/03/15/144234
さて、アイノ文化における「住居」についてである。
前項では、本道、樺太、千島では住居事情が違うと書いた。
だが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/29/202212
旧「旭川市史」においてはトイチセ…所謂竪穴住居の事例を紹介した。
これは樺太の影響も考えねばならない。
で、「本道における竪穴住居使用」の事例を見つけたので紹介しよう。
「新編天塩町史」からである。
かなり具体的に記載されているので、まずは引用から。

「幕末(文久元年=一八六一)にこの地の赴任した庄内藩士原半右衛門の残した「蝦夷地風俗絵巻」にある〈テシオの風景〉には川口基線遺跡ないし、そのごく近隣と思われる箇所に「夷人の家」として屋根が直接地上に葺きおろされた表現をとり、和人の側壁を有する住居と明らかに区別できる数戸の竪穴式と思われる住居群の描写が認められる。そのような描写は、数カ所に認められ、位置の比定は正確にはできないが、ひとつは、川口基線遺跡の同期の竪穴外から近世陶磁器、吊耳式鉄鍋など近世遺物の出土がみられ(大場・山崎、一九七一)、近世のある時点にアイヌの人々が同遺跡の範囲内に居住した可能性は高く、何らかの形で幕末まで竪穴居住の風が存続したことも十分に考えられる。また、前述のように東大の調査に際しては、「江戸時代末期以後のもの」と推定される遺物が出土しており、また明治期におけるアイヌ居住の聞き取りがあるように、アイヌの人々は明治に入っても継続して当遺跡の界隈に居を定めていたことは確かのようだが、おそらく、竪穴居住の風は当時すでに廃用されていたのであろう。」

「新編天塩町史」 天塩町 同成社 平成5.3.15 より引用…

ポイント…
①第二次北方警備で天塩周辺を担当した「庄内藩士」が「夷人の家」として竪穴住居と思われる住居を記載している。
②それは正確に場所特定は困難だが、川口基線遺跡らの遺物と概ね合致し、幕末まで竪穴住居を使用していた事が考えられる。
③明治期では、聞き取り調査らで竪穴住居の使用は検出されず、明治期にはその風習は失われて平地住居へ住んでいた。
と、言うもの。
単に伝承だけではなく、古書記載と考古遺物とが概ね合致している事例と言えるだろう。

「新編天塩町史」のこの記述の後には、明治の樺太での話が続く。
トイチセを使っていた樺太の事例では、多来加(タライカ)で明治38(1905)年段階で悪性感冒流行の為の居住地放棄で竪穴住居の使用を止めたとある。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/11/173848
実は、穴居跡を記した松浦武四郎の「蝦夷日誌」でも天然痘流行の際に、居住地より奥地に逃げた話は記述あり、当時感染症は厄神の祟りと考えられた事は知られた話。
実は、ここでは「竪穴の不衛生より、文明接触で持ち込まれた」のでは?と説明しているが、多来加と言えば…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/18/201824
既に獲った獲物を交換して暮らす「交易の民」なのだが。
当然、後の久春古丹ら樺太場所もあり、全く未開の地…なんて事はないであろう事は、通史で見れば気がつくことなのだが。
まぁそこは置いておいて…

ここでは、幕末まで竪穴住居の使用記録が記載。
前項にある様に、本道のアイノ文化期への変遷要因に「竪穴→平地」居住があるとするならば、ここ「天塩周辺」においては「幕末」になるという矛盾が生まれる。
まさか、アイノ文化期への移行が幕末だ、などとは言えまい。
なら、本当に「竪穴→平地住居化」をアイノ文化期移行への指標として使えるのか?という疑問に辿り着くハズだ。

我々が今迄学んだ中で、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/11/143552
こんな幕府が出した触れの一件がある。
これならむしろ、幕府直轄での衛生指導で床張りとなり、竪穴→平地住居化が進んだ…こちらの方が説得力があるような気がするのだが。
更に…
何せ、学術調査は観光アイノより遅れる。
勿論、チセの再現はそれより遥かに時代が下る。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/23/194902
何せ、再現した萱野茂氏は「昭和6年に父親が建てたチセの記憶と古老のアドバイスをもってして昭和30年代の観光チセを再現した」とハッキリ書いている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/26/174417
明治・大正で既に「観光アイノ」がはじまっているので、これら住居事情がひっくり返る危険性はあるのだ。
本当にそれは「チセ」なのか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/06/081134
まぁ我々の疑問に対する答えとしては、出来すぎなのだが。
少なとも、松浦武四郎も「夷家」は一発で判別していた模様。
わざわざそう表現しているので特徴があった事は示唆される。
体系的に積み重ねられている「学問」の中で、これ、大丈夫なのか?。
ぶっちゃけた話をすれば、近世アイノ文化の痕跡を探す為に考古学上で掘立の柱跡を探しているが、仮に幕末近く迄竪穴に住んでいたなら、それは全く的外れになっちまう危険性が出るって事ではないのか?
で、それを研究者は知ってるハズだ。
何故なら、火山灰は重機で取り去ってるから…。
そこに近世の遺構はないものとして発掘をしているからだ。
穴居は全て擦文文化期らのものだとして。

さて、どうだろう?
これは、地域の教育委員会らで見解が違う可能性もあるので、他の史書らも確認していく必要はあるし、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/02/182851
古い時代の研究では地域差があったり、移動痕跡を指摘しているので一様ではないかも知れない。
とすれば…
断片だけで判断する限り、「竪穴→平地住居化」はアイノ文化期への移行指標として使う事は出来ない危険性が出てくる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/08/120652
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/28/205158
まぁ住居事情だけでなく、「夷語」も江戸期途中で失われていた指摘がある。
驚く事ではない。
むしろ、体系的に組まれているハズの「学問」の方がこれらを「忘れてしまっている」事が驚愕に値するのかも。
いや、学問はちゃんとしている上で、政府広報らが歪めている危険性もある。
だが、それなら「政府広報らは間違いである」と、学問に身を置く者が糺さないのはおかしいと考えるのだが。

さて、真実は何処に?
普通に幾つかの文献を読むだけで、この位の疑問は出てくるが…







参考文献:

「新編天塩町史」 天塩町 同成社 平成5.3.15

この時点での、公式見解41…改めて最大の問題点を「新編天塩町史」から抽出してみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/28/222326
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/30/194418
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/31/053428
さて、先に「新北海道史」にあった「近世アイノと古代がまだ繋がっていない」…これについて、割と解り易い解説があったので紹介しよう。

「新編天塩町史」である。
天塩町は、天塩川河口付近を中心に縄文,続縄文,オホーツク,擦文と各文化の遺跡が揃う場所。
引用文内に筆者が註釈を①〜③までつけてみたので、その点について後に書いてみようと思う。
まずは、引用から。

「擦文文化はいつごろ終末を迎えたのだろうか。これまでに十ニ世紀末から十七世紀説まで諸説が提示され、結論を得ていない。問題は、この後に十六世紀後半前後から記録に明確化するアイヌ民族(近世アイヌ)と擦文文化の歴史的な継承にも関わっている。擦文文化の担い手がアイヌ民族、特に北海道アイヌの人々の直接の祖先であることは明らかとなっている(筆者註釈:①)。したがって、例えば、十二世紀説に立てば、十三世紀〜十六世紀の間のいわば「中世」アイヌの人々の遺跡・遺物の存在の立証が必要となろうし(筆者註釈:②)、十七世紀説に立った場合は十六世紀以降次第に明らかとなる文献記録上に擦文文化人としてのアイヌ民族の風俗を反映した記事かわ認められて良いはずである(筆者註釈:③)。」

「新編天塩町史」 天塩町 同成社 平成5.3.15 より引用…


擦文文化の終わり→近世アイノ文化の始まりが何時かはまだ未確定…ハッキリ書いてある。
先の時代が何時終わり、後の時代が何時から始まるか解らないのだ。
理由は簡単。
途中である「十二〜十六世紀の姿」がまるで解らない為。
この文に続き、続縄文,オホーツク文化が擦文文化へ移行する時期は、北海道西側と東側では一〜二世紀ズレるとある。
確かに、擦文文化遺跡が北海道全体を飲み込むのは、道央→道北→道東の順で時計回りに広がる傾向はある。
勿論、文化移行が、ある日を堺にパンと変わるなら、それこそ天災や侵略により、空白の地に入り込むか?武力で屈服させるか?しか思いつきもしないが、それらは明確な形で出現したりはしてはいない。
よってグラデーションが掛かりつつ、徐々に移行したとは考えられてはいる。
さて、それを踏まえて…

では①から…
まずここで疑問。
②や③がまだ未確定であるにも関わらず、何故①「擦文文化人がそのまま近世アイノ文化人に変化する」…を断言出来るのか?…ここが疑問。
この前後に、その根拠は明示されていないのにも関わらずだ。

ここで②と③について、現在成すべき事がしっかり記述されている。
ここは我々も強く同意する所だ。

②…
十三世紀以降位から十七世紀位までの間に、人の定住や生活痕を示す遺跡・遺物が殆ど無いのは事実。
よって、それを発掘調査らで明らかにして、この説を立証するしかない。

③…
近世に繋がりそうな古書記録が登場するのは、十五世紀後半から。
それもむしろ、国内よりバテレンの記録が多いかも知れないのは、各史書らで引用される事が多いから。
それを一次文書を中心に紐解き、立証するしかない。

実は、この「2~3百年の空白」をハッキリ示す物が殆ど無い…
これが最大の問題点なのだ。
この間がまるで解らない為、何時、何処で、どの様に文化変遷したのか?繋がっているのか?全く文化が流入したのか?…これらが立証出来ていない、と言う事。
ここが紐解かれなければ、先の疑問に戻るしかない。
更にそれも、「種の保存が可能なレベル」での痕跡が必要になる。
この解明は簡単な事ではないと思うが。
この時代を明確に示す痕跡は渡島半島と一部と余市位しかない。

が、それでも…
・繋がっていると主張するなら②,③を「探せば良いだけ」…
・繋がっていないと主張するなら「何処から来たのか?」を遺跡・遺物で立証すれば「良いだけ」…
これらを見れば、結局やる事はどちらにしても同じ事…中世の解明になるのだ。
中世が解らない中で各論こねくり回すより、重箱の隅を突く様に証拠を探すしかない。
そこが解かれば、答えは勝手に出る。

よくSNS上で「鎌倉時代に入って来た」、「いやいやずーっとここに住んでいた」らと罵声の浴びせ合いを見る。
我々に言わせれば、「まず明確な物証を伴う根拠を示せ」…一言で終了。
無いから研究者は血眼になり、それを探している。
だって、無いんだから。
あればこんなもん解決の糸口が見つかっている。
不毛な議論より、お互いに持つ物証を建設的に出し合い、論を組み立てる方が先。

ぶっちゃけ「蝦夷」って単語だけで決定出来る物は無い。
理由は簡単…時代毎に、記述される対象が変わっているからだ。
・古墳期に誰を指す?
・奈良,平安期に誰を指す?
・中世が空白で「対象者が見えず」
・江戸期に誰を指す?
全部、場所も対象者も変わっている。

北海道本島の地理的呼称さえ変わる。
・奈良,平安期は「渡島」
・鎌倉期に「蝦夷ヶ島
・織豊〜江戸期は「蝦夷(Yezo)」

今、確実に言えるのは「立証出来ていない」…だけ。
全て仮説。
だって「中世」が無いんだもの。
当然、「北海道の歴史が明治から」…これは大間違い。

我々的には、ぶっちゃけ擦文文化期を「先史時代」と位置付ける理由も理解不能
何故、それらを有史時代と位置付ける事が出来ないのか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/20/200523
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/14/154855
地方領主なんてもんじゃない。
「都」と直結した明確な物証があるにも関わらず。
余程、都合が悪いのだろう。
まぁ辻褄は合わなくのは確か。
その結果、某団体らが主張する年代が、ここ数年でもガンガン下って来たという。
元々上記②の如く十二〜十三世紀説から昨今は十七世紀、つまり江戸期まで時代が下りつつある。
そりゃ擦文文化期を有史時代とは出来ないだろう。
それとて…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/12/194837
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/170920
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/27/052730
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/05/135443
ゴールドラッシュ以降に入る金堀衆やキリシタンの人口インパクトや災害痕跡、人の移動痕跡から見れば、少々疑義が出て当然なのだが。


さて、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/03/28/124812
時は「ロシアによるウクライナ侵略戦争」の真っ最中。
ロシアのプーチン大統領は2018年12月のモスクワでの人権評議会において「アイヌ民族をロシアの先住民族に認定」したとか。
その辺の前後で所謂「アイヌ推進法」らの活動が激しく進められたのも確か。
https://plaza.rakuten.co.jp/airhead39/diary/202203120000/
まぁ、この手の話はネット検索していけば、あれこれ出ては来るだろう。
真偽の程は別として、北海道の皆さん、大丈夫?
ロシア軍の本質は、そんなもんだが。
筆者の記憶では、国連の我が国に対する「敵国条項」は削除されていなかったかと。
なら、ウクライナ同様もあり得なくもない…
まぁ自国の歴史を知らなければ、反論すら出来ず侵攻されても…
仮定の話はこの辺で。
横暴な国ってそんなもの。
歴史をプロパガンダに利用してくる。
そんな国に隙きを与えないのも、また歴史学の重要な部分かと。

やる事は決まっている。
古代〜中世〜近世〜近現代を、合理的に物証をもって通史として繋ぐ事。
それだけ。







参考文献:

「新編天塩町史」 天塩町 同成社 平成5.3.15

「錬金術」が「科学」に変わった時…全てを網羅した「デ・レ・メタルカ」の出版

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/17/162536
さて、こちらが前項。
辰砂の話や今迄のゴールドラッシュらの話で、少しずつ我が国における鉱山や鉱物に対する捉え方を学べてきてはいる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/16/192303
どちらかといえば錬金術の延長、もしくは職人技術的な捉え方をされていたと言えるかも知れない。
では世界はどうか?
実は、西洋では概ね錬金術→科学に変わる瞬間が解っている様で。
では、引用。

中央ヨーロッパ最大の鉱山地帯の中心地ボヘミアのヨアヒムスタール市の医師長となったアグニコラは、過酷な環境で働く鉱夫たちの怪我や病気の治療にあたっていくなかで、次第に鉱物や鉱山そのものに興味を覚え始めた。ついに医業の余暇の全てを、鉱山や精錬所を訪ねること、鉱山、採鉱に関する古代のギリシャ語文献やラテン語文献を読むこと、鉱夫たち自身の経験を聞くことに充て、これらの知識を総合して一書にまとめたのが本書である。」
「12章からなる本書は、第1章では序論として鉱山の理論と実践一般、第2章では採鉱についての鉱山師の心得と採鉱、第3章は鉱脈について、第4章は鉱区の測量法、第5章は採掘、第6章は鉱山に用いられる様々な道具、器具と機械装置について、第7章では鉱石の試験や試金法、第8章は選鉱法、第9章は冶金について、第10章は貴重金属の精錬法、第11章は金と銀の精錬法、第12衝撃では塩、ソーダ、明礬、硫黄、ガラスなどの製法について述べられている。このように、極めて組織的、網羅的に鉱山の技術について書かれており、本書によって初めて体系的な鉱山学、金属学が樹立された。以来200年以上にわたり鉱山学、金属学の教科書として用いられ続けた。また17世紀には中国へ伝わり、1637年に明の宗応星が著した『天工開物』に影響を与えたと言われている。天工開物は江戸時代に日本に伝わり、日本の技術に大きな影響を及ぼしていて、例えば佐渡金山の開発など日本の鉱山、金属技術にも影響を与えている。」
「鉱山は当時の先端技術集約型産業であったため、あらゆる先端的な技術が惜しみなく用いられていた。本書では、水力利用の揚水装置や排水ポンプ、馬や風の力を応用した坑道の通風換気装置や溶鉱炉用のふいごなど鉱山用機械装置の数々が、画家ルドルフ・マニュエル・ドイチュの手による美しい木版画でわかりやすく明快に力強く描写されており、当時の機械技術を理解する第一級の技術史資料となっている。」

「世界を変えた書物 -科学知の系譜-」 竺覚暁 グラフィック社 2017.11.25 より引用…

まんまズバリ。
アグリコラ(ゲオルグ・バウアー)著の「金属について(デ・レ・メタルカ)」の初版は1556年。
これを持って鉱山学や金属学が体系化され、錬金術や職人技の世界が科学になったとも言えるのではないか。
そして、これらがメキシコ銀山の精錬らに受け継がれる…家康公や政宗公が喉から手が出る程に欲しかったものの原点。
ボヘミア…なかなか怪しい位置かも知れない。

この「世界を変えた書物」は、科学の世界の変遷らを図説したもの。
アリストテレスから始まり、ユークリッドアルキメデスコペルニクスケプラーガリレイニュートンデカルトオイラー、ヤング、テニエ、ギルバート、フランクリン、クーロン、ヴォルタ、アンペールフーリエ、ファラデー、ジュール、エジソン、ベル、マクスウェル、レントゲン、キューリー、長岡半太郎湯川秀樹ローレンツアインシュタインハイゼンベルク、etc…
何処かで耳にした科学の巨人達の名前が並ぶ。
アグリコアもそんな中の一人として挙げられる。
正直、思っていたより時代が下る印象。
が、比較的遅れて来日したバテレンや商人なら、これらの一端は見ていてもおかしくはないのかも。
当時欧州で行われた鉱山技術の一端は知っていた様なので。

備忘録的ではあるが、覚えておこう。





参考文献:

「世界を変えた書物 -科学知の系譜-」 竺覚暁 グラフィック社 2017.11.25

ロシア軍の本質とは?…旧ソ連から戦犯指名された「樋口季一郎」とはどんな人物か?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841
現在、ロシア軍によるウクライナへの侵略の最中。
気になり、当ブログのアップが出来ていない事実。
筆者的には今回の侵略は、
核兵器保有軍事大国且つ安保理常任理事国の、非核兵器保有の独立国家に対する侵略…
こんな視点なので、深刻に受け止めている。
前項の通り、帝政ロシア時代から武力侵攻とロシア正教教化らでシベリア征服や千島への南下を進め、明治の富国強兵政策へ舵を切らざるを得なくした一端であろうことは間違いないだろう。
現実、その後「日露戦争」は引き起こされている。
近現代は敢えて取り上げていない中、どうしようかと考えたが、一応ポツダム宣言受諾連絡からロシア(当時は旧ソ連)軍が何をやったかは記しておこうと思う。

それも敢えて「樋口季一郎」中将目線にしてみよう。
昨年石狩市に「樋口季一郎記念館」が出来たのもあり、何時かは触れるべきかと思う事もあったので良い機会かも知れない。

樋口季一郎中将は旧陸軍将校。
ネットらでも検索されているのでサラリと、キーワードは3点。

ナチスドイツに追われたユダヤ人の脱出ルートの確保…
1938(昭和13)年、ハルビン特務機関長だった樋口は、満洲国西部の満洲里駅の対岸ソ連領オトポールにユダヤ人難民が姿を現す報告を受ける。
当然これはナチスドイツの「ニュルンベルク法」から逃れる為。
一次旧ソ連満洲やChinaからの攻撃の緩衝地帯やスターリンの暴虐イメージ払拭、シベリア開発の労働力として受入をしようとしたが、農業経験がない都市部のユダヤ人が殆どで労働力とならぬ事を悟ると一変し滞在拒否に転じる。
ここで満洲国は入国ビザ発行を拒否。
理由はもやは日独防共協定を日本が締結していたから。
ハルビンは当時、多くのユダヤ人が住んでおり、当時ソ連内でも行われていたユダヤ人差別が殆どない場所で、逃れようとする者は当然ここに押し寄せようとする。
当時欧州では、何処の国でも差別的に扱われていたのは間違いなさそうだ。
イギリスやフランスでも同様。
ここで樋口はアブラハム・カウフマンというユダヤ人医師に出会う。
ハルビン特務機関の最大の任務は満洲,内蒙,ソ連の監視や満洲への指導という諜報部門。
ハルビン外でのそんな状況は熟知。
オトポールに難民が集まる3ヶ月前にカウフマンからの依頼で「第一回極東ユダヤ人大会」て演説を求められた樋口は、軍服でなく平服で一日本人として出席、ナチスの対ユダヤ人政策の批判とユダヤ人による国家建国と擁護らを演説したとされる。
勿論、これ、日本国内で報道されてはいない模様。
で、「人道上の問題」として難民受入の指示を出し、カウフマンには食料や衣服手配を要請。
樋口自身は南満洲鉄道総裁の松岡洋右を訪ね特別列車の運航を依頼、満洲国外交部は滞在ビザ発給を行う事になる。
実はこれ、「杉原千畝の命のビザ」の2年前になる。
よく2万人の命と言われるが参考文献の著者である早坂隆氏によるとその数字はハッキリしない様であるが、樋口の開いた「ヒグチルート」は独ソ戦勃発まで何らかの形で3年間有効だった可能性があり。
第一陣で18人、その後100~200人は概ね具体的な数字は追えたが、その後は不明。
徐々に増え担当者が手間で忙殺された等手記が残り、累計ではかなりの数となる様だ。
後に、在ハルビンユダヤ人が感謝大会を開いており、そこでユダヤ人協会から示されたのが「2万人」。
樋口の行動は人道上とは言うが、ユダヤ人を「利用」してイメージアップらを考えた節もある。
が、当然外交上の問題にはなり問題視され、ナチスドイツからも抗議が出る。
樋口は関東軍から出頭命令が出るが植田司令へ人道上間違ってはいないと弁明書簡を送り、出頭した東條英機へ「ヒトラーのお先棒を担いで弱い者いじめする事を正しいと思われるか」と言い放ったとか。
結果、東條英機参謀総長が下した結論は「不問」。
これらの後、樋口は1942(昭和17)年、北部方面司令として札幌へ赴任する。

②初の「玉砕」と「パーフェクトゲーム」の司令官…
将口泰浩氏著の「アッツ島キスカ島の戦い」によれば、アメリカ軍空母「ホーネット」から発進したB-25による本土空襲で虚を突かれた参謀本部ミッドウェー海戦と同時にアリューシャン列島のアッツ島キスカ島の確保も同時に進める。
なるべく前線を遠ざけ空襲を防ぐ目的の様だが、アメリカとしてはアリューシャン列島に重い戦略価値は持っていなかった様でほぼ戦闘無しで占領、星条旗の代わりに日の丸がはためく。
が、ミッドウェー海戦勝利から奪還戦に向かった米軍、補給もままならなくなった陸軍海軍混生部隊では持久戦しかなくなる訳で。
当然、司令官として援軍と補給要請するものの、参謀本部からの回答は、南方戦線が熾烈で回せる戦力無し、つまり放棄。
ここで樋口は決断を迫られる。
放置すれば全滅。
樋口が出した条件は、アッツ島の放棄とキスカ島から全軍撤収に海軍が全面協力。
結果これが採用される。
この時、アッツ島守備隊への電文に、初めて「玉砕」が使われたとか。
アメリカ軍はアッツ島を3日で再占領する為に守備隊の5倍の兵力を投入。
守備隊は一時、上陸隊を海岸沿いまで押し返すものの、2650名は300名までとなり陣地壊滅。
最後は100名×3中隊で突撃を敢行。
怪我の気絶らで倒れ捕虜となった者は約1%、降参を迫る拡声器の声を無視して、鬼気迫るそれを見た米兵は「バンザイアタック」と言い恐怖した様で。
「生き残りの将兵はわれわれの目の前で手榴弾を自分のヘルメットにたたきつけた。日本兵は最後の一人まで戦い、そして斃れた。この光景を孤穴に潜んで間近に見ながら、生まれて初めて恐らく今後再び経験することがない戦慄が顔を覆った。」
…従軍記者ウイリアム・ウォルドン(AP)
いや、それはその後終戦迄続く。
そして報道でも朝日新聞により、初めて「玉砕」が使われる。
3日で終了するハズの作戦は18日間に引き伸ばされ、その間にキスカ島撤退戦の準備がなされる。
撤退戦は当初潜水艦を考えた様だが、アッツ島陥落で制空権も制海権アメリカへ。
やむを得ずこの海域特有の濃霧を利用し巡洋艦阿武隈」による撤収へ変更。
艦長の「木村昌福」が指揮をとる。
ここで問題が。
港への滞在時間は一時間が妥当、これの実現。
武器携帯で手間取る事はガダルカナル島撤収で解った樋口は独断で「武器を放棄して可」の判断を下す。
勿論これは問題になるが、樋口曰く「武器は作れるが、人は作れない」。
さて、作戦に開始にはなるが濃霧にならず第一次撤退戦は中止、戦闘態勢へ戻される。
当然、守備隊は諦めの境地。
約10日後、再度二次突入へ。
前日、濃霧とレーダー誤作動でアメリカ艦艇がゴーストに対し砲撃し、補給の為海域を離れる空きに、守備隊の撤収準備させ入港。
遺品遺骨以外の荷物は一個迄とし、菊の御紋付きの歩兵銃は波打ち際へ全投棄し一時間で5200名を収容し出航し、全員帰投に成功。
翌日から、アメリカ軍はキスカ島への上陸作戦を敢行。
アッツ島からの教訓で、艦砲射撃や航空爆撃を中心に徹底的に行い上陸前にあらゆる施設を破壊する作戦へ。
航空写真により各地の施設が破壊されたのを確認しているが、何故かアメリカ軍は撤収後だと気が付いていなかった模様。
高射砲らが無反応なのに、各員から灯火や曳光弾が見えた等の報告がされている。
「バンザイアタック」の軍が、島を無人にするはずが無いと思い込み?
数日後、百隻の大艦隊で上陸作戦が実施されるが、思い込みから同士打ちらも発生。
結果、艦隊や上陸部隊が3週間足留めされたキスカ島上陸作戦の戦果として「捕虜は雑種犬三頭」と発表され、日本軍の正式な捕虜としてカナダに連行された。
米軍はこのキスカ島撤退戦を「パーフェクトゲーム」と呼び称賛した。
戦史研究家はこれを「史上最大の最も実践的上陸演習」、「太平洋アメリカ海軍作戦史上、最も「屈辱的」」と記す。
ただ、樋口は戦後の回顧録らでアッツ島放棄が最も重い事だった模様。

ポツダム宣言受諾後の自衛戦…
これが本項の主題。
1945(昭和20)年、広島,長崎への原爆投下から、同8月9日に旧ソ連が日ソ中立条約を破り、宣戦布告。
9日未明には満洲北部らへ雪崩れ込み、民間人を含め殺戮や略奪を開始。
それは樺太や千島への攻撃に広がる。
元々特務機関で樋口が研究していたのはこの対ソ連戦。
樺太,千島でも徹底応戦する事に。
が、8月14日夜に参謀長萩中将が樋口を訪れ口にしたのは「ポツダム宣言受諾」。
翌15日には玉音放送され、16日に戦闘停止命令がだされ、17日には全軍末端まで戦闘中止した。
が、北部方面司令として樋口は「自衛戦闘も18日午後四時まで」と訓示、ソ連の手口を知っていた。
樋口の懸念通り、旧ソ連は武器を置く事はなく、樺太では戦闘継続の上、18日未明に占守島への侵攻を開始した。
当然、旧ソ連の目的は北海道の占領。
もう戦闘停止が決まっている日を狙い、上陸戦を仕掛けた事になる。
実は、占守島守備隊には、キスカ島から戻った部隊も含まれるそうで。
当然ながら戦闘は熾烈を極め、なんとか優勢まで運ぶ。
樋口はこれを大本営に対し、
「今未明、占守島北端にソ連軍上陸し、第九十一師の一部兵力、これを邀えて自衛戦闘続行中なり。敵はさきに停戦を公表しながら、この挙に出るははなはだ不都合なるをもって、関係機関より、すみやかに折衝せられたし」
大本営はこれを受け、マッカーサーに連絡し、旧ソ連のアントノフへ停戦を求めるが拒否。
現地でも、軍使により停戦交渉を試みるも旧ソ連軍には停戦の意志無し。
基本的に四時段階で、優勢のまま積極的戦闘を停止、散発的戦闘は19日迄続く。
再度軍使により停戦が成立、23日より武装解除から行われる。
元々スターリンは北海道北部占領計画を持っており、それをトルーマンに反対されていた様だ。
つまり、占守島で押し戻し停戦まで持ち込めなければ、そのまま南下され北海道占領を許す事になった危険性は高いのだろう。
ここで食い止め、作戦見直しさせている内に、アメリカ軍は北海道へ進駐軍を送る。
が、武装解除後の8月28日に択捉島、9月1日には色丹島、9月2日に国後島へ不法占領。
北方四島の占領経緯はこんな様になる。
丸腰故の不法占領なのだ。
さらに、シベリアへの日本兵抑留も言うまでもないだろう。
後の日ソ共同宣言で旧ソ連が出した抑留者は6万人だが、現実はその十倍とも言われる。
旧ソ連領に振り分けられた人々は劣悪な環境下で重労働を強いられ、帰国出来ずその地で亡くなられた方も多い。
その後、当然ながら極東軍事裁判の話はある。
樋口も捜査された様だが、北部方面隊での捕虜への残虐行為等はないとされ釈放される。
この過程で旧ソ連側から樋口の身柄を引渡要求が出るが…そう、①のユダヤ人救出の為のヒグチルート開設があり、アメリカ国内のユダヤ人スクールがGHQへ強い働き掛けがあり、却下されたとか。
これが、現在ウクライナを侵略している「ロシア軍の前身組織」のやり方だ。
SNS上やマスコミで降伏しろなぞと言っている人が見受けられるが、現世代の祖父、曽祖父の時代でこれ。
軍組織がペレストロイカソ連崩壊で大変革でもしているか?
装備はそれでも基本的な志向まで変わったなぞと考える方がおかしくはないか?
ロシア軍が圧倒的敗北で根本的に変わる機会があった事なぞないのだから、本質を変える必要は無い。
同じ事をすると言う事。


さて、樋口季一郎とはこんな方。
一部には、彼を英雄的に言う方も見受けられるが、これらを読みながらそんな人物ではなく…
・困った人には手を差し伸べる
・上司の命令には従うが、その中で出来るだけ部下の命を守り遂行する事を考える
・信念は曲げない
こんな普通の日本の親父だったんじゃないかと、筆者は考える。
先の大戦で戦った方々は、皆さん普通に家族や周りの人々を守りたかっただけ。
現在のウクライナを見て、そう思う。
だって、我々はそんな人々の血を受け継いでるんだから。





参考文献:

「指揮官の決断 満洲とアッツの将軍 樋口季一郎」 早坂隆 文藝春秋 2010.6.20

アッツ島キスカ島の戦い 人道の将、樋口季一郎木村昌福」 将口泰浩 海竜社 2017.6.30

こんなに違う、住居文化…想像より北海道,樺太,千島で三者バラバラ

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/29/202212
さて、「住居」の話である。
かなり降って湧く様にではある。
実は、今回の話は発注品番を間違って全然関係ない本を買ってしまったのだが…
届いてペラペラ捲る内に、そのうち調べようと考えていた事例が載っていた。
ムダにならんかった…いや、この際はご先祖や神仏が「こっちを読め」と啓示してくれたのだろう、と勝手に考える事にする。

では、出だしから解り易い説明なので、いきなり引用する。

「北海道において、竪穴式住居の使用は擦文文化の末期あたりまでしか確認されていない。いわゆる「アイヌ文化」の要素の一つである平地式住居の発掘例もまたきわめて少ない。「擦文」から「アイヌ」への変遷過程において、住居はカマドから炉へ、竪穴式から平地式へと移る。カマドの廃絶については、その過程を類推しうるだけの発掘資料が得られている。またその理由も、鍋の流入により効率的熱源として炉を再利用することにある、との有力な仮説が呈示されている。しかし、竪穴式から平地式への変化は、竪穴の深さが減少するところまでしかつかめず、その理由も明らかではない。」

「一方、北海道北方の島々では竪穴式住居の使用が明治期に入っても継続され、鳥居龍蔵博士をはじめ先学により紹介されている(2)。ことに注目されるのは、冬の家(Toi-chise)として使われる竪穴式住居である。ここの島々の人々は夏の家(Sawa-chise)と冬の家を季節的に使いわけていたことが知られている。通常、冬の家は竪穴式のものが多く、夏の家は北海道アイヌの家(Chise)に類似した規模・構造の平地式をとる場合がある。馬場修氏によるサハリンでの記録によれば~中略~季節により集落が移動するのである。藤本強氏は擦文文化において、季節による集落の移動を想定されている。しかし、住居構造は同一であると考えられている。一方、北海道アイヌの人々が、季節により集落を移動させていたという例を筆者は知らない。」

「竪穴式住居と平地式住居の季節的選択の一例」 石川直章 『考古学と移住・移動』 森浩一 同志社大学考古学シリーズ刊行会 1985.3.20 より引用…

要約しよう。
①平地式住居は「擦文文化」→「アイノ文化」への変遷の構成要素。
勿論、竈→炉の変化も含む。これは鍋の導入によると思われる。
②但し、①の変遷が、「何時?何処から?なんの理由で?起こった」は、まだ謎。
③北海道より樺太,千島においては、明治迄竪穴住居は事例報告されている。
特に樺太では、夏→平地式住居で冬→竪穴住居と、集落を季節間移動する事例がある。
④季節間集落移動の事例は、北海道本島においては見られない。

以上。
前項で引用された金田一博士の説もあろうが、考古らと照らし合わせた学術的検証では、本道アイノ文化では季節毎に移動し住居を移動する実績はなく、住居文化が樺太,千島とは合致しない事になる。
竪穴住居は「消えるとされている」のだから。
現実、金田一博士も認める所だが、考古学見識や時系列の見方が抜けているのは御本人の指摘。
博士は樺太からの移住が先なのは踏まえて発言している。


さて、ここまで踏まえた上で、石川氏が紹介する別の事例。
アメリカの「ヒッチコック氏」が1889年に来日、北海道らの調査しており、その一部として記録されたものの様だ。
場所は色丹島
とは言え、この人々は元々色丹島在住ではない。
占守島ら北千島に住んでいたとの事。
1875年の千島・樺太交換条約で、我が国領となった後に、国防上の理由で色丹島へ移動した方々である。
ではどんなものか?

「調査時、色丹島住民は戸数は一八戸であった。人口は六〇〜六四人であろうといわれている。この数は移住以来五年間で1/3に減じている。これはら環境の変化と肺結核のためだろう、。かれらの衣服・宗教などは北千島にいたときからすでに、かなりロシア化されたものである。しかし、住居は独特のものである。」
「住居は夏用のかやぶきの家(thatched house)と冬用の土の家(earjh-dwellings)からなる。一八戸の住居はいずれも海岸べりにつくれている。このうち、二戸のみは冬の家だけで構成されている。他は冬の家と夏の家との間をおおいつきの廊下てまつないでいる構造を示している。 」
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ヒッチコック氏は、これに続いて「土蜘蛛」との関係について意見をのべている。それはさておき、サハリンにおいてカマドの使用例とともに報告されている土の家(Toi-chise)が、この報告では炉、そしてきわめて北海道の家(Chise)に近い形のものともに存在している点に留意すべきであろう。」
「平地式住居がもつ有利な点は種々ある。しかし、竪穴式住居のもつ利点は、まず「暖かさ」であろう。ヒッチコック以外の報告例の中に、これを裏づけるような聞き込みも記されている。平地式住居の採用が、すくなくとも北の地域ではすくに竪穴式住居の廃絶につながらないのは、このことが一因となっているのであろう。なお、サハリンにおいてもこのような類例が存在したらしい。明治三〇年代頃、サハリン東海岸、白浜の北、小田寒(いずれも当時の地名)において使用されていた、とのことである(3)。これらはいずれも、北海道存在のクループとは、厳密にいえば、別のグループである。したがって、これに例示したものが、直接北海道における竪穴廃絶の過程を示しているとは筆者も考えていない。しかし、地域的、気候的条件を考慮すれば、やはり、注目すべき形態といえよう。」

「竪穴式住居と平地式住居の季節的選択の一例」 石川直章 『考古学と移住・移動』 森浩一 同志社大学考古学シリーズ刊行会 1985.3.20 より引用…

竪穴部は、地面を30~50㌢程度掘り込み、幅2m×奥行き2.25m×高さ1.3m程度で、平地部分とは廊下で繋がれ、狭いアーチを潜り中へ入る事が出来る。
中はベッドの他、炉が作られ暖かく眠れる様にされる。
屋根の上は土で被され、こんな竪穴部が1~2つ平地部に接続されており、樺太の事例の様に集落ごと移動するのではなく、家を使い分けた事になる。
これなら、夏涼しく、冬暖かくは実現出来そうな気もするが。

纏めてみよう。
①本道
擦文文化の竪穴→アイノ文化の平地…
だが、何時、何処から、何故変遷したか?は謎。
樺太
明治迄竪穴は使用。
集団により、冬は竪穴→夏は平地と、居住区を変えるのに伴って家の構造まで変わる。部分的に「竈」も残る。
③千島
特に北千島では竪穴,平地の併用家屋で、夏と冬では部屋を変える。

もっとも、これらは中世の遺跡発掘調査とリンクしておらず、あくまでも明治の調査の結果に過ぎない事も加味する必要はある。
一応、この研究段階での占守島で行われた発掘調査では、平地式住居の痕跡は無かった様だ。
仮に周辺調査らと整合出来てくれば、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/15/174010
こんな人々の素性も少しずつ明らかにできたとは思われるが。
とりあえず、住居文化に差があるのは解った。
毎度ではあるが、中世との接続に問題があるのは否めない。
消えた中世に、北海道の先祖達はどんな風に暮らしていたのか?
まだ謎なのだ。








参考文献:

「竪穴式住居と平地式住居の季節的選択の一例」 石川直章 『考古学と移住・移動』 森浩一 同志社大学考古学シリーズ刊行会 1985.3.20