最古のアイノ絵は本当に「紙本著色聖徳太子絵伝」なのか?…著者本人の記述で検証してみよう

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/24/204435

「最新研究の動向を確認してみよう…「つながるアイヌ考古学」を読んでみる」…

さて、あとがき的ではあるが、前項で引っ掛かった事を検証してみよう。

それはどの部分か?

いきなり改めて引用してみよう。

アイヌの姿を描いた最古の史料としては、元亨元年(一三二一)に製作された重要文化財「紙本著色聖徳太子絵伝」(茨城県那珂市上宮寺蔵)が知られている(高倉新一郎編一九七三『アイヌ絵集成』番町書房)[図2]。場面は、敏達天皇一○年(五八一)に起きた蝦夷の大蜂起の際、一〇歳の聖徳太子天皇に建言して、大和国三輪山麓を流れる初瀬川(大和川の上流)の辺りでみずから蝦夷の巨酋綾糟を説服されたという伝説にもとづく「十歳降伏蝦夷所」である。おそらく描いた絵師は実際にアイヌを目にしたことはなかったと思われるが、アイヌの伝統的衣装の一つで「ラプル」とよばれる鳥の羽根でつくった衣を身にまとった人が描かれていることからわかるように、アイヌに対する知識はある程度持っていたようだ。注目されるのは、蜂起を諫める馬上の太子の前にひざまずく四名の蝦夷のうち、三名が持っている半弓とよばれる短い弓と矢筒である。当時和人がアイヌに対して弓矢に長けた人々というイメージを強く持っていたからこそ、このような絵が描かれたにちがいない。」

「つながるアイヌ考古学」 関根達人 新泉社 2023.12.15 より引用…

この「最古の絵は「紙本著色聖徳太子絵伝」」としている点。

この様に、関根氏はほぼ断定的にそうだと記述しているが、どう考えてもこれは

擦文土器消失が14世紀だったとして、事件のある581年とは約900年、北上市三輪山の距離約700kmの時空を消し飛ばす「キング・クリムゾン効果」。

ならば、引用文献「アイヌ絵集成」上、編集した高倉新一郎博士がどんな意図を持ってこの絵をアイノ絵だとしたか?…気にならないか?

気になるなら、片っ端から確認する…これが我々グループのモットー。

と言う訳で、「アイヌ絵集成」を入手した。

本書は、江戸期に書かれたアイノ絵を集成した「図録巻」と美術史的内容も含めた解説が載る「解説巻」のニ巻構成。

有名なところでは「夷酋列像」らも収集されている。

編集は「高倉新一郎」博士。

本ブログでも度々取り上げているが、各地方史書の編纂や「松前旧記」を収集らに尽力された方、北海道史の重鎮であったのは間違いない。

後代の研究者が取り上げて当然の一人。

では、その高倉博士が上記部分をどう記述していたのか?…下記に引用する。

 

「今日残る最古のアイヌ絵は茨城県那珂町上宮寺所蔵、重要文化財聖徳太子絵伝』中 「十歳降伏蝦夷所」と説明した箇所に描かれたものである。この絵は敏達天皇十(五八一)年 に蝦夷の大蜂起があって洛中が震駭した際、当時十歳の聖徳太子天皇に献言して自ら蝦夷の巨酋綾槽を説服されたという伝説を絵にしたもので、馬上の太子の前にうずくまっ た者の外二名の蝦夷が描かれている。元享三(1三三三)年の作といわれ、鎌倉末の作品である。ここに描かれている蝦夷は必ずしもアイヌだとはいえない。全体として唐画の人物に似ていて、異民族であることを表現するために、唐絵に倣ったのだともいえるが、眼がくぼみ映がなく、眉毛および鬚が濃くて、それと相対している和人と著しい対照をなす容貌に描かれているだけではなく、頭を包み、筒袖で脞までのアイヌのアツシを思わせる衣服をつけ、鳥毛の衣服(アイヌ語=ラブリ)、毛皮の衣服(ゥリ)を重ね、脚胖をはき、腕にアイヌが伝承するものに似た矢筒(イカョップ)をつけ、半弓を持っているところは、すくなくとも筆者が、当時のアイヌを頭に描き、これを現わそうとしていたと見ても強いたものとは言えない様である。

この頃になると、京都の勢力が直接アイヌの世界である蝦夷ヶ島即ち今日の北海道に及ぶようになった。文治五(一一八九) 年源頼朝の奥羽征討から百三十余年、北陸を通じて京都と蝦夷島の交通は次第に類繁となり、文化の中心京都のアイヌに対する興味と知識はかなり豊富になりつつあった。この絵伝より少し後れて、延元三(一二三三四)年、足利尊氏の秘書小高円忠が信濃国諏訪神社に寄進した『諏訪大明神絵巻』には、元享・正中から嘉暦(一三11 7人) 年間にかけて奥羽を騒がせ、蝦夷管領として奥羽の奥地並びに蝦夷島に勢力を張っていた安東太一族の乱を、諏訪明神の神威によって平定した顛末が記されてあり、その中に、安東太に味方したらしい「蝦夷ヶ千島」の蝦夷即ちアイヌの記事をのせている。これによると、アイヌには三つの類があるが、髪髪が多く、全身毛深い、禽獣魚肉を食として五穀の農耕を知らず、九訳を重ねても話が通じにくい。此の中に霧を起こす術、身を隠す術を知っている者があり、戦場に臨むときは、男は甲冑弓矢を帯して前陣に進み、婦人は後にあって木を削って幣帛の様なものを造り、天に向って呪文をとなえる。至って身軽で、飛ぶ鳥や走る隙に同じく、矢は骨を鏃として毒薬をぬり、一寸でも皮膚に触れると死ぬと、アイヌについてかなり正確な情報をのせている。これには名の示す通り絵が伴っていたはずであるが、残念ながら失われて、今日伺う術がない。しかし、アイヌの情報がこれだけ京都にあったとすれば、蝦夷を描くのに、これによらないはずはないと思うのである。但 し、記述も、絵も、実見をした人によって描かれたのではないから、精々それらしい姿に描いたというにすぎなかったと思われる。本当のアイヌ絵が現れるのは、更に三百八十年ほど後、江戸中期、享保以後のことであった。」

アイヌ絵集成」 高倉新一郎  番町書房  昭和48.5.20  より引用…

 

以上である。

記述順に、ちょっとポイントを…

①最古の絵は「聖徳太子絵伝」である

聖徳太子に諭された「蝦夷2名」が描かれる

③描かれている蝦夷は必ずしもアイヌだとはいえない

④唐画風に装飾

⑤京の勢力の影響が北海道に及んで交易らが盛んになる時期の作で、北海道の情報は京にも伝わっていただろう

⑥代表例は「諏訪大明神画詞」

⑦実見ではなく、情報からの想像だろう

⑧実見による本当の意味での「アイノ絵」出現は、更に380年後の江戸時代…

こんな感じか。

割と支離滅裂っぽいが、他でも肯定→否定→肯定した理由の解説…こんな構成の文は、新北海道史でもあったかと思うので、意図してやられているのだろう。

さてこれを見て、高倉博士は肯定しているか?

③にあるように一度否定しており、断定している訳ではなく持論を述べている事になるだろう。

③の部分は同書では改頁された処に記述されるので、関根氏が次頁を読まなかったと言う事はないだろう。

とするなら、関根氏は高倉博士の持論を支持してあんな記述をした…こんな感じなのだろう。

そりゃそうだ。

何度も書くが、後代に生まれた文化名、それも距離が離れる場所、それらを直接結びつけられる訳がない。

いずれにしても、引用元の文章では「高倉博士は断定まではしていない」事は間違いなさそうだ…ここまでは解った。

 

ではさて…

高倉博士は、何故そんな時空を隔てた物を繋がるものだと「仮説したのか」?

実はこれ、高倉博士はその答えを別の文章に書いてあるのだ。

それは「新北海道史」。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/31/053428

「この時点での公式見解⑭…新北海道史が示す「アイヌ民族が古代と繋がっている」根拠」…

既に紹介済だか、これは高倉博士が持つ史観に関わるので改めて引用しよう。

「東北の蝦夷

蝦夷とはわが国最古の史書古事記日本書紀では愛弥詩または愛比須と訓じているが、えみし、えびすはともに異民族のことである。東北に進んだ大和民族と対抗した人々を和人はこう呼んだ。しかしこう呼ばれた人々が今日のアイヌ人種に属するかどうかはわからない。記録に現われた蝦夷に関する記事には、今日のアイヌであることを的確に語ってくれるものは何もないからである。蝦夷はまた毛人とも書かれているので、世界で一番毛深い人類に属するアイヌを指したとする説があるが、これは中国の地理書に東北の海に粛慎国があり、そのさきに毛人 があるとの説から、中国の東方の異民族を夷と呼んだと同じ考えで毛人と呼んだもので、必ずしも毛深いことを現わした語とはいえない。事実今日東北地方で発掘された人骨は北海道アイヌとの類似を的確に示しているものはまだないし、明らかにアイヌ語に基因する地名は陸奥地方にやや濃厚に残されているだけである。

蝦夷すなわちアイヌ

蝦夷がすなわち今日のアイヌを意味するようになったのは、東北の異民族といえばアイヌしかほかにいなくなった時以来のことである。それは我国の勢力が奥羽の北端近くに伸び、蝦夷をえぞと呼ぶようになった平安朝末のこと、真に蝦夷アイヌであることを確実に語ったものは、正平十一(一三五六)年にできた諏方大明神画詞である。」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和45.3.20 より引用…

先の項から改めて書き直し…

・近世以降アイノと名乗る人々は居た→

・近世アイノは千島,樺太の人々に近い→

諏訪大明神画詞の日ノ本,唐人はそれらに近い…

古事記,日本書紀蝦夷と書かれた人々がいた→

・それらは異民族→

・東北の蝦夷(エミシ)が朝廷に「服從させられ」、異民族と呼べる人々がアイノしか居なくなった…

これで「蝦夷=アイノ」と言う図式を解説している。

で、その根拠となる古書は「諏訪大明神画詞」だ…こう書けばわかり易いか。

恐らく、ほぼ無条件で「蝦夷→アイノと直訳」している方の論理はこうなのだろう。

まずは、「蝦夷」と言う人々のイメージの源流は「古事記日本書紀」による…と解った。

ではそのイメージはどうなる?

「和漢三才図会」寺嶋良安  吉川弘文館  明治39.11.21  より引用…

 

「和漢三才図会」は1712年、寺嶋良安の手により出された、謂わば「江戸期の百科事典」…筆者の手持ちは明治に再版されたものだが。

江戸期の蝦夷に触れる記述と言えば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/24/195739

「生きていた証、続報35…「東遊雑記」に記された「竈無し」と秋田県史との矛盾、そして「夷人」登場」…

その江戸期の武士層からみて「遅れた人々」みたいなイメージだろうか?

ここまで来たら解るだろう。

これ、「古事記,日本書紀」らに書かれたイメージが、ずーっと我が国では踏襲されてきている事になる。

平安での「安倍宗任」へのイメージ、同じく在地勢力で最初に就任した「鎮守府将軍清原武則」へのイメージ…

まぁ都の御貴族様方には、あまり良い印象で捉えられてはいない様だが。

古事記,日本書紀」で形成されたイメージが、読みつがれそのイメージをベースに「聖徳太子絵伝」らの絵図を描かれ、それは「和漢三才図会」までも受け継がれているのではないか?

と言う事は「事実とは別に」似た様な者が描かれる事になる。

これはある意味当然で、元々「古事記,日本書紀」は我が国の史書として編纂されたのだから。

言い難い事を書けば…

蝦夷をアイノと直訳する」事は、「古事記,日本書紀」に描かれた史観にアイノ文化を当て嵌める行為。

思い切りの「皇国史観」になるのでは?

戦後教育は「皇国史観」からの脱却を最重要目的とされたのは言うまでもない。

更に言えば、今迄のブログを読んでみて戴ければ解るが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/12/203509

「この時点での公式見解-39…アイヌ協会リーダー「吉田菊太郎」翁が言いたかった事」…

吉田菊太郎翁はこんな史観。

これは戦前生まれなので当然そんな教育を受けたから当然かも知れない。

では、考古学での発掘事例で出てくるものは?…殆ど本州産で異民族的なものは殆ど無い事実があり、蝦夷っぽいものはと言っても、奈良〜平安で既に小異はあれど、竈付きの竪穴住居に住み、末期古墳を造営し、毛皮は着るが都に出荷したのは「毛布狭布」…etc…そんな大異があるのか?宗教も大差なくなるのに。

これなら「南北朝位には同化していた」…こんな結論に至っていてもおかしくはないのでは?

なら、何故わざわざそんな結論、吉田菊太郎翁が持つ史観にせず、その「皇国史観」に近付ける必要があるのか?

これはある意味想像し易い。

・朝廷に服從させられた…

・権力で押さえつけるた…

そんな「対立軸」が霧散してしまうから…ではないのか?

故に「文化区分の定義」、つまり象徴アイテムらの設定で「文化による学術的時代区分」を明確にする事も出来ない…そう見えるのだが。

これは極めて「政治的判断」と言わざるをえないだろう。

学術的判断は、事実の探求による「普遍なもの」で、新事実の発見でアップデートされていくもの。

政治的判断は、時代の背景や世論,世相で常に変化するもの。

考古学の実績が積み上がってきた今日、わざわざ「皇国史観」に近付けず、アップデートした方が良いのでは?

この辺が筆者には理解不能なのだが…

 

話を元に戻そう。

最新刊だけ読めば最古の絵図は「聖徳太子絵伝」と思えて来るが、引用した原版では必ずしもそれを「断定していない」事は解って戴けたであろうか?

そして無条件に「蝦夷→アイノ」と直訳する事は「皇国史観」に基づく事になる…これは高倉博士の話を読んで、その根拠を確認していけば想像に易しい。

こんな感じである。

まぁ、直訳している方々がそれに気付いている様には見えないのだが…良いのだろう。

引用した著者は、その辺を理解,踏まえた上で仮説する。

その辺の理解が無い方は、著者の仮説を鵜呑みにする。

せっかく引用文を紹介してくれているのだ。

気になったなら、遡り確認すべきである。

「原版まで遡れ」…これは我々がずーっと言ってきた事。

我々はただ、実践しているに過ぎない。

 

因みに高倉博士は、喜田貞吉博士の影響を受けていたかと…

それなら、何となく納得である。

 

 

参考文献:

「つながるアイヌ考古学」 関根達人 新泉社 2023.12.15 

アイヌ絵集成」 高倉新一郎  番町書房  昭和48.5.20

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和45.3.20 

「和漢三才図会」寺嶋良安  吉川弘文館  明治39.11.21

 

何時から擦文文化→アイノ文化となったか?…いや、むしろ「そもそもアイノ文化って何?」じゃないの?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/24/204435

「最新研究の動向を確認してみよう…「つながるアイヌ考古学」を読んでみる」‥

さてここを前項として、関連項はこちら、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/12/185631

「定義や時代区分はそれで良いのか?、あとがき…河野氏の問いかけに答えられる者はいるのか?」…

である。

勿論、前項で紹介した関根氏の「つながるアイヌ考古学」でも触れているのだが、何時擦文文化が終焉し、何時からアイノ文化化するのか?…は、現状も閑々諤々で結論をみない。

考古学からのアプローチでは、基本的に「擦文土器消失→鉄鍋化」又は「竪穴住居→平地住居化」がベースとなるのは概報。

関根氏、いや、関根氏のみならず、北海道を回って尋ねてみれば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/14/211625

「弾丸ツアー報告-1、恵庭編…江戸期の物証的「空白期」、そして「アイノ文化を示す遺物は解らない」」…

厚真と千歳の事例をもってして「中世と近世が繫がった!」と言う話になる。

ここで厚真の実績やTa-b降灰らの遺跡喪失らを絡めて話を続けると沈黙となり、「諸説あり」と教示戴けたりする。

結論から書くと、擦文文化→アイノ文化を含む時代区分がどうなのか?は「諸説あり」になる。

考古学でのアプローチは先述したが、アプローチの仕方により捉え方が一致しないと文献に書いてある。

では、どんな風に捉えられているか?確認してみよう。

 

①擦文文化終焉時期…

たまたま入手した文献にあった小野裕子氏の論文より。

この論文時点でも擦文→アイノの変容点は何時からか?については、「北奥蝦夷の道央への移住」からという大井説の「11世紀前」から始まり、多くが支持する「10世紀半ば」とされる。

更に擦文文化終焉に関しては概ねの「12〜13世紀代」に対して、「15世紀前半」や「商場設置時期」とするもの迄それぞれ数百年の差がある。

だが、これらに共通する点は、

・中世日本海交易らを始めとした本州との交易,接触がアイノ文化化を引き起こす…

・擦文→アイノの変容は「連続的である」…

この2点。

ここで問題となっていたのがこれ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130

「この時点での、公式見解42…本質は「古代と近世が繋がってない」で、問題点は「中世が見当たらない」事」…

前項でも関根氏が「ミッシング・リンク」に触れていたと書いたが、丁度過渡期の中世遺跡が薄くて、連続性や変容する様を確認する事が出来ない…だから「厚真の実績」が如何に重要な位置を占めるか?、「繫がった!」と敢えて記述する根拠とされる訳だ。

前項で我々がそれに対して主張するのは、

・厚真だけの実績で、全道を示す事が出来るの?

・「修験」の影響を重く見れば、本州と同化の方向に向かうだろう(宗教の根源が共通になる為)

・人の移動に伴い変容するのは同意だが、交易量拡大らを伴うとすればやはり同化の方向に向う…これは道央〜日高ライン上で顕著になり、口蝦夷〜奥蝦夷〜赤蝦夷の文化グラデーションが出来てくる…

こんな感じ。

中には、ここまでハッキリ書かないとピンと来なかった方もいるかと思うが、ずーっと言ってきたのは平たく書けばこうなる。

擦文文化段階で、東北とかなり近いものになってくれば、更に接触が増える中世で異文化化してくるか?…極単純な考え方。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/15/174010

樺太,千島と本州人との両血統持ち、帯刀した人の痕跡…「択捉島」で出土した人骨と日本刀」…

こんな事例もあるのだし、より遠くへ(商売上の)活路を見い出せば、外部(それが例えばイテリメンやニヴフ等)と混雑して外部文化が口蝦夷より濃い方向に行く。

謂わば「半連続的」又は「連続的」と「断続的」との複合…と、言うべきか。

恐らくこの「連続的」を半ば否定するのが「タブー」なのだろうが、我々は学会とは何の関連も無いので問題無くこれを言えてしまう訳。

おっと、話を戻そう。

小野氏は「日本海交易隆盛期移行に全道的アイノ文化化促進」との立場なので「15世紀前葉」との事。

その根拠としているのが「土器消失→鉄鍋化」のタイミングな様だ。

「鉄鍋と確実に共伴した擦文式土器の事例はこれまでのところ未確認である。鉄鍋の存在を窺わせる内耳土器との共伴は、ごく僅かだが知られており、中でも根室の西月ヶ岡遺跡七号竪穴住居址からは良好なセットが確認されている 〔八幡他編 一九六六〕。オホーツク海側にある 常呂町周辺の擦文式土器では終末段階に土器が小型化することが指摘されているが「藤本一九七二、四三三〕、この七号竪穴の組成は(図1)いずれも口径一〇㎝前後の擦文土器、および口径一五㎝の内耳土鍋からなるが、小型高坏が伴う点で終末段階より多少遡るものと思われる。」

「他方、現在までのところ、道内で確認される鉄鍋は十四世紀中葉以降のものである〔越田二〇〇三〕。東北地方では例数は少ないものの、平泉柳之御所奥州市玉貫遺跡で十ニ~十三世紀の鉄鍋が出土しており、しかも十二世紀前半代頃を下限として土器が集落址において検出されないので、北海道が特殊な状況であることは確かだろう。しかし、道内における土器の廃用時期についての主流の見方は、陶磁器や古鏡、あるいは東北北部との関係から十二、十三世紀代とするものである。その場合、鉄鍋の確認時期との空白は、内耳土器の使用を想定するか〔宇田川 一九八〇〕、資料の出土率に関わる要因に求めるか(越田 前出、一二二〜一二三、あるいは鋳物師による回収〔瀬川 一九八九〕などの要因によって解釈されている。このうち内耳土器の普及段階を挟んで鉄鍋へと移行するという点については、鉄鍋の高価さから見て、入手が難しい場合内耳土器を持って充てるということは十分考えられる。しかしこうした事態は、 必ずしも全道一斉に生じる訳ではなく、入手し易い地域や集落間、あるいは対価の獲得に長けた世帯間とそうでない個でばらつくことが予想され、移行期として普遍的に設定する事は難しいと思われる。」

「このように擦文期とアイヌ期の移行期に関わる銛頭に機能強化と見られるタイプが出現していることは、上で述べた交易対価の獲得に向けた動きと捉えて良いだろう。これが「十四世紀中葉」以降に確認例が増え始める鉄鍋のあり方と連動する可能性は十分あると思われる。現時点では、十四世紀中葉~十六世紀中葉以前とされる鉄鍋のさらに個別的な年代は得られていないので、ライトコロ川口十一号上層遺構における内耳土鍋、同鉄鍋、そして機能強化を窺わせる結頭の存在から十五世紀前集前後にはアイヌ文化が道東部においても確立していたと考える。小論では僅かに銛頭の事例を挙げるに留まったが、冒頭で触れたように、交易対価の獲得に向けた努力は、アイヌ社会におけるイオルの成立に見るように、擦文社会の土地と資源の配分のあり方を変化させたと考えられるので、擦文終末期の遺跡と近世アイヌ期の遺跡の比較分析を通じてこの動きを捉えることが必要である。

さて、これまで論じてきたことからアイヌ文化への変容は商場設置段階より早い時期から始まっていた可能性が強いことが言えると思う。特に、東北北部への自由な航行が可能であれば、利器を始めとする必要品は和人との交易を 通じて獲得することができたと考えなければならない。しかし、一つ大きな問題がある。それは東北北部における擦文式土器は、道東部を中心に分布する最終段階の土器群を含まないことである。それまでの土器を伴う東北北部への擦文人の進出が利器の入手を始めとする交易目的とされていることは周知のことだが、この最終段階の土器が東北ではもはや出土しないことは、擦文人が東北北部に出向いて交易をしなくなったことを意味するのだろうか。天野が指摘しているように道東部の擦文文化の鉄器保有率は、前半期にくらべかなりの増加を見せる〔天野一九八九〕。道東部の集団はその器をどこから入手していたのだろうか。一つの考え方は、道央部との交易を行うことである。道央部と道東部の終末年代の併行性の根拠に土器群の類似性を挙げる意見が一般的だが、筆者は両地域の土器群には時間的ズレがあると考えている〔小野裕子 二〇〇七5)。道東部集団が擦文終末期にどのような地域と、如何なる交易をおこなっていたか、これについてはまだ多くの検討課題が残されている。

さらに、冒頭に挙げた終末年代のズレについてだが、筆者の場合もまた、他の諸氏の十三世紀前葉頃という年代観とは二百年ほどの開きがある。」

「擦文文化の終末年代をどう考えるか」  小野裕子  『アイヌ文化の成立と変容』  法政大学国際日本研究所  2007.3.31  より引用…

小野氏は土器消失→鉄鍋化の補足で「銛頭」の変化を合わせ検討し、上記の様な論へ至った様だ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/15/120448

空堀は何工数,何日で築かれたか?のきっかけ…入口として「遠矢第二チャシ」をみてみよう、ただ…」…

ありゃ?

道東は関連有りとされる遺構である「チャシ」の中にはMe-aで被覆される物が。

こうなると、道東での連続性に疑問が出てくるのだが…良いのかな?

と言う訳で、2007年段階でも土器消失→鉄鍋化の時期や遺物の解釈には数百年ギャップがあり一致をみておらず、それは関根氏の本でも触れられている。

ただ、今迄で触れてきたが、擦文文化期の遺跡の移動,拡大が道央→道北,オホーツク→道東と時計回りに行われた事、

「十一〜十二世紀の擦文人は何をめざしたか」  澤井玄  『アイヌ文化の成立と変容』  法政大学国際日本研究所  2007.3.31  の竪穴の移動と鮭鱒→矢羽根用猛禽類の羽根の需要(武士の台頭による)らの朝貢品,交易品のトレンド変化、これらによるものとの見解は割と一致している様だ。

この移動状況と商品変化について澤井氏は、『季刊考古学別冊42  北海道考古学の最前線』においても同様の見解を寄稿している。

要は「生業」としての商品変化に着目し、特に本州との接触が文化変化の引金となる…と言っている様だ。

これについても、我々の見解は上記通りである。

現状は「アイテムを並べ、それで変化点を見る」様な手法がトレンドとして続いている模様。

ただ、一つ疑問を投げ掛ければ…

「変化点は見えるが、それをアイノ文化の源流と言えるのか?」、「接触の増大で異文化化が可能なのか?」に対しての答えにはなっていないのでは?…これが、我々が当初から持っていた疑問でもある。

 

さて、これだけで終わっては面白くもなんともない。

では、上記考古学的視点以外での視点はどうなるか?

これも『季刊考古学別冊42  北海道考古学の最前線』に記述あるのでそれから。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134

「和鏡特別ミッションの続報…「国見廃寺」と俘囚長安倍氏、そして道具に対する解釈は?」…

こちらで引用した簑島栄紀氏がまとめている。

謂わば「研究史」と言う事になるのか?

それぞれの時代で影響を及ぼした研究者と論文,書籍,概念を羅列していこう。

・「アイ丿文化期」概念の成立…

河野広道・名取武光

「北海道先史時代」…1938

大場利夫

「北辺の先史文化」…1959

宇田川洋

アイヌ考古学」の概念…1980年代

以上、3点…

1938年段階では「アイノ文化期」と言う概念はまだ未成立で、1950年代に河野広道博士がそれを提唱し始め、大場氏がそれを継承したとしている。

簑島氏が注目したのがこれ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/31/053428

「この時点での公式見解⑭…新北海道史が示す「アイヌ民族が古代と繋がっている」根拠」…

「今日では、丁度日本人の先祖が石器、土器を製造したことを忘れてしまったと同様、近代アイヌも忘れてしまったのであって、北海道の先史時代遺物はほぼ確実にアイヌの祖先が製造したものであると考えられるに至った。」…この考え方だ。

元々から擦文文化→アイノ文化での断続を強調してはいない。

我々的には貼付の通りこの考え方、継続性を「前提条件」としないと成り立たないのでは?…これ、再三書いてきた。

話を戻す。

ここで宇田川氏が「アイヌ考古学」を本州の中〜近世に規定したそうで。

「独自の民族文化の歴史として正当に位置づけよう」としたのは宇田川氏の様で。

 

・「アイヌ文化期」概念の展開と課題…

埴原和郎・藤本英夫・浅井亨・吉崎昌一・河野本道・乳井洋一

「シンポジウム アイヌ−その起源と文化形成−」

渡辺仁

アイヌ文化の成立−民族,歴史,考古諸学の合流点−」 『考古学雑誌』1972年

以上、2点。

この内、前者のシンポジウムとはこれの事。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/11/185850

「定義や時代区分はそれで良いのか?…「河野本道」氏が問いかける事とは?」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/12/185631

「定義や時代区分はそれで良いのか?、あとがき…河野氏の問いかけに答えられる者はいるのか?」…

後者は興味深いので、渡辺仁氏の部分について引用してみよう。

「「シンポジウム アイヌ』の歴史認識の、もう一 つの重大な問題性は、同様の論理を、過去の文化集団だけでなく、近現代のアイヌ文化にもあてはめようとすることである。そこでは、近現代に大きな変容を被ったアイヌ文化・民族は、もはや「真正のアイヌ文化」とはみなされなくなってしまう。

「シンポジウム アイヌ」と同年に発表され、今日も大きな影響力を有する渡辺の学説にも、 同様の課題を指摘できる。渡辺は、「アイヌ文化」とは「民族学的に周知のアイヌの文化」「民族誌的現在に於けるアイヌの文化」であるとして、 「アイヌ民族アイヌ民族たらじめてある中心的文化要素は何か」「それがなければアイヌとはいへなくなるような基本的文化要素は何か」と問う。そして、「アイヌ文化の中核(真髄)」を、 「クマ祭文化複合体」と規定する。

和人研究者が「典型的なアイヌ文化」「アイヌ 文化の本質」を抽出し、定義しようとする行為に対しては、佐々木昌雄による厳しい批判がある。 佐々木は、「ここにいわれているのは。〈アイヌ〉 の〈アイヌ〉たる所以、〈アイヌ〉の特徴を「絵葉書でみるアイヌというもの、一般にアイヌ的といっている顔や身体つき」とまず考えているのだということである」とし、「〈アイヌ〉だけを厳密に規定しようとして我が身(シャモ)がスポッと抜けおちているような発想」として、「日本史」 と「アイヌ史」とのあいだの不均衡、非対称性を鋭く指摘した。

上記の議論は、現実に生きる人々、現に存在する集団を、他者が「定義」しようとすることの権力性をあらわにしている。

1989年採択のILO169号条約第一条2項は、先住民族の集団性に関する基本的な判断基準として、自己認識(self-identification)を重視する。また、2007年の国連宣言に結実する、コーボ報告書(1983)の論理や、先住民作業部会(WGIP)の議論も、「定義は本来、先住民族自身に委ねられるべきもので、自らを先住民族と決定する権利が先住民族に認められなければならない」ことを強調する。今日、先住民族において、その「定義」や、集団のメンバーシップの決定は、当事者による自己決定権の重要な一部としてとらえられるようになっている。考古学や歴史学も、こうした現代社会の動向に向き合い、対話していくことが求められる。」

アイヌ史の時代区分」 簑島栄紀  『季刊考古学別冊42  北海道考古学の最前線』 2023.6.25  より引用…

簑島氏始めとした研究者が引っ掛かっているのはこの点だろう。

おいおい…文字や遺物を持って散々「都に対して遅れる」と筆者の先祖たる「蝦夷(エミシ)」を馬鹿にし…もとい、指摘してきたのは誰だ?

それに基づき「北奥蝦夷の移動」…へぇ~…

あれ?「ILO169号条約第一条2項」って我が国、批准してたっけ?

で、歴史を扱うと言うなれば、その主張の変遷を踏まえて「集団がどう考えてあるか?」確認するのが、本来の「寄り添う」スタンスになるのでは?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/12/203509

「この時点での公式見解-39…アイヌ協会リーダー「吉田菊太郎」翁が言いたかった事」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/25/212430

「協会創生期からのリーダー達の本音…彼等は「観光アイノ」をどう評価していたのか?」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/26/045821

「民族運動第1世代との差異は何か?…現代「その血を引く人々」の発言ついての備忘録」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/21/073146

「何故度々「縄文=アイノ論」が浮上するのか?…'70の活動家の主張と当時の世相を学んでみよう」…

ざっと、今迄読めた部分での「活動家第一世代〜第三世代」迄の主張はこんな感じで変遷している様だ。

同時に、当時の世相の一部を背景として貼っておく。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/210128

「開道百年記念行事と道立野幌自然公園とは?…報道視線からその目的らを見てみる」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/22/214116

北海道庁爆破事件とは?…当時の状況はどうだったのかについての備忘録」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/12/054834

「河野広道博士についての二題…発掘,研究への気構え&「人送り(食人)」伝承について」…

世相は重要。

そうでなければ「知里真志保博士による、河野広道博士に対する糾弾事件」なぞ発生はしないであろう。

知里博士の側に居たのは誰か?…

まずは次へ行く。

 

・時代区分の指標としての「交易」論…

ここは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/24/204435

「最新研究の動向を確認してみよう…「つながるアイヌ考古学」を読んでみる」‥

ここで駒井和愛移行の研究史としてざっと触れているので割愛。

'70sの定義付けらは棚上げし、交易らにより「過去の復元」へ舵を切り直した印象も受けるが、気のせいだろうか?

簑島氏はこれらを踏まえ、

「上記の研究史を踏まえて、簑島は、倭、日本 との交流・交易の変遷を基軸として、およそ3~ 13世紀の北海道地域で人々が繰り広げた歴史を、「アイヌ史的古代」(アイヌ史における古代)とすることを提案した。鉄器の普及状況などからみて、統縄文後半期(3~7世紀)は、北方圏における交流・交易の大きな画期であり、当該期の対外交易は、北海道の経済・社会・文化のゆくえに幅広い影響を及ぼした。蓑島の「アイヌ史的古代」 は、瀬川の指摘する構造変動が10世紀に一斉に進んだとは限らず、より段階的に進展した側面を重視するものでもある。」

アイヌ史の時代区分」 簑島栄紀  『季刊考古学別冊42  北海道考古学の最前線』 2023.6.25  より引用…

と提唱している。

 

以上がざっと研究史から見た擦文文化終焉→アイノ文化形成の状況と、時代区分や定義,規定の変遷について拾ってみた。

定説,通説とはあれこれ言われるが、むしろまだ問題がごまんと積み重なった状況。

故に定義付けや区分も、進んではいない様だ。

上記を書きつつ思うのだが…

元々論文とは、ある一定の視点から「事象を規定,定義し、それを調査し突き詰め、論を書いたもの」だと思うのだが。

裁判で最初にやるのは「争点設定」。

当然、学問なら「規定,定義された論」が成り立つのか?…これが論戦の争点なんだろう。

渡辺仁氏の論の件を「興味深い」と思ったのは、その辺である。

問題点を指摘するのは良しとして、「渡辺説そのものが成り立つか?」…本来やるべき事はこちらなのでは?

浅学のド素人的には…

その「定義設定者がダメ」と言うなら、我々の様に各時代の集団側の指摘する集団定義を抽出し、「そこに至る迄の過程を明らかにする」…必要なのはこちらなのでは?

例えば…

渡辺説の定義なら、熊送りが明確なのは江戸期になる…これ当然の事。

集団側が「熊送り」を重視したのは事実であろうし、断絶に至る過程では、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/30/193033

「「アイヌブリな葬送」は虐待ではない…藤本英夫氏が記した「家送り」と、当時のマスコミの世論操作」…

家送りの断絶や世相、そして時の首長の判断らが強く影響しているのも間違いないだろうし、それ以前に自ら止め、殆どが観光として行われていたのは言うまでもないので、渡辺説には妥当性があるのでは?

例えば…

ムックリに設定すれば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/26/174417

「この時点での公式見解-28…「旭川市教育委員会のスタンス」と、旧「旭川市史」に記された「ムックリ,琴は本道アイノの文化に非ず」との関係」…

明治になる。

例えば…

鉄鍋に設定すれば、上記通り15世紀だろうし…

これらの源流を追い、それを束ねた上で交易論らを乗せていく…こんな作業をやれば良いだけだと思うのだが。

集団サイドから「文化真髄と考える物はなにか?」を聞き取りだして、その源流を追うのが「最も寄り添った形」になるだろう。

まずここに書いているのは「文化論」で、「血統論」ではない。

どんな血統であれ、そこに住んでいた者がそんな文化で暮していた…これを立証していくだけで、それらに血統論を乗せるのは「文化形成過程が固まってから」なのでは?

で、これは別に北海道に限った事ではない。

現状でも、日本史研究で事象の源流を追う事はやっている訳で。

最終到達点は現在の「我々は憲法で定義された日本国民である」に至るだけの話なのだが。

話を戻そう。

本来、学問として追求すべきは何時からアイノ文化期が始まるか?…ではなく「アイノ文化とは何か?」、同時に「日本文化とは何か?」だと思うだが…違うのだろうか?

「アイノ文化とは何か?」が決まれば、自ずと文化開始時点も決まり、そこに至る過程は「過渡期」になる。

先日もSNS上で話をしたが、漠然として定義化されていないと言う話があったが、それは「上記の様な事情による」のだろう。

学問はタブーなぞなく、自由に論戦を繰り広げて良いと思う。

真実の追求こそ、学問の真髄…こう「定義」するなら。

学問の自由は保証された権利。

ただ、筆者が考えるに、その自由を行使するにはたった一つ負うべき義務があると思う。

それは「政治に干渉しない」だ。

何故なら血税が動き、利権が発生する根拠を作り、権威を与える危険性を帯びるから。

政治に干渉した段階で「道義的責任」からは免れない…当然の事。

政治に干渉したか?否か?は、その委員会らでの主張らと論文とで物証が担保されるので、オフレコでは済まないだろう。

 

さて、我々も闇雲に掘り下げでいた訳ではなさそうだ。

案外、研究史らで指摘される部分を抑えている様で。

だから先行ブログを貼付出来る…だったりする。

さて、次へ…

 

参考文献:

「つながるアイヌ考古学」 関根達人 新泉社 2023.12.15

「擦文文化の終末年代をどう考えるか」  小野裕子  『アイヌ文化の成立と変容』  法政大学国際日本研究所  2007.3.31

「十一〜十二世紀の擦文人は何をめざしたか」  澤井玄  『アイヌ文化の成立と変容』  法政大学国際日本研究所  2007.3.31 

「擦文社会の動態」 澤井玄『季刊考古学別冊42  北海道考古学の最前線』 2023.6.25

アイヌ史の時代区分」 簑島栄紀  『季刊考古学別冊42  北海道考古学の最前線』 2023.6.25

最新研究の動向を確認してみよう…「つながるアイヌ考古学」を読んでみる

さてさて、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/19/071331

「時系列上の矛盾「方形配石火葬(荼毘)墓」…「有珠オヤコツ遺跡」ってどんなとこ?…※追記1」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/04/103246

「中世墓はどう捉えられているか?…「事典」で「山」たる基礎知識を学ぼう」…

一通り、簡易的な予備知識を入れた処で、最新研究の動向を確認していこう。

この本の出版は「中世墓資料集成」確認作業中で知っていた。

SNS上で「こんな最新版を読め」みたいな話を見た事があるし、自分で見た物と研究者の最前線との隔たりがどの位なのか?は確認の必要はあるので、買ったまま平積みして順番待ちにしていた。

筆者は右も左も無いので、提示された資料を読むなんて事に躊躇はない。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/28/194019

「南部氏の城館を追う…安東vs南部抗争と北海道史との合致点」…

この「陶器底部線刻」を教えてくれたのはウポポイのマーク氏。

もっとも、それを元に確認した結果は真逆のこれだが。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/01/31/162842

「「線刻を施す食器」は、勿論在地の物…似たようなものは秋田にもある」…

厚真のこれは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/09/191537

「時系列上の矛盾、厚真町⑤…「オニキシベ2遺跡」に中世遺構はあるのか?」…

粘着性を持つアカウントからの情報。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803

「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…

ちゃんと現地迄足を運び、レクチャーを受けてきた。

知識0から始めた筆者にとっては、情報提供は有難い事。

多少「学がない」「古い文献しか知らないのか?」と罵られ様がそんなものはどうでも良い事で、そこから掘り進めて確認すれば良いだけの事。

もっとも、至る結果は教えてくれた方々の話とは真逆の結果に辿り着く事が多いのは何故なのか?

まぁそれもどうでも良い事だ。

 

と、言う事で、早速中身を読んでいこうではないか。

まず、冒頭から「最前線からの前提条件」を同書から引用しておく。

「すなわち考古学では編年研究が進み、縄文文化アイヌ文化は直接つながるもので ・はなく、少なくとも一千年以上の開きがあることが明らかにされた。」

「北海道の縄文文化は、植生の境界にあたる道央部の石狩低地帯や、北海道南西部渡島半島つけ根の黒松内低地帯を境に、道東・道央・道南の文化圏に大別されるが、黒松内低地帯以南の道南部は縄文時代を通して本州北部と一体の文化圏を構成しており、津軽海峡が文化圏の境界になることはほぼない」

「つながるアイヌ考古学」 関根達人 新泉社 2023.12.15 より引用…

前提①

よくSNS上で縄文とアイノ文化の直接の継続性を語る方々が居ると聞いているが、それは考古学的には「否定」されている事だ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/06/174150

「時系列や層別らの重要性…河野廣道博士からの警鐘」…

ここで我々も述べているが、既にそんなものはとうの昔に否定され、北海道観光が活況を浴びる度にマスコミにより焚き付けられているだけのもの。

昭和初期でも最新研究でもハッキリ指摘されている。

これを語る事は「学問への冒涜」「亀ケ岡文化の否定」に繋がる。

きっぱり「止めておけ」と言いたい。

前提②

縄文期段階で「津軽海峡が文化圏の境界になることはほぼない」のも、学術的に認められた話。

「デカくて塩っぱい川」と例えられるのはその為。但し、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/20/122947

「何故、十三湊や秋田湊である必要があったのか?…「津軽海峡」を渡る為の拙い記憶の備忘録」

どんな川でも渡るには「コツが要る」事を忘れてはいけない。

この二点を「前提条件」としておく。

同書は、

・第1章  アイヌ文化へのまなざし

・第2章  アイヌ研究の歴史

この2章で背景や研究史の解説、

・第3章  アイヌ文化成立前の北海道

・第4章   アイヌ文化の形成と特徴

・第5章  和人の進出とアイヌ文化の変容

この3章で文化成立のプロセス解説、

・第6章  本州アイヌ樺太アイヌ

ここで外部文化との関連性、

・第7章  アイヌ考古学の展望

と言う構成。

 

①背景…

著者は、

・最古史料→「今昔物語(12世紀)」

・姿を描いた最古史料→「紙本著色聖徳太子絵伝(1321年)」等同系絵巻

・中世詳細史料→「諏訪大明神絵詞」

・近世最も古い史料→「蝦夷志(新井白石,1720年)」

菅江真澄の一連文書

他、近代ではモース,シーボルト,ディキンス,ミルン,坪井正五郎,ヒッチコックらが取り上げたとして挙げている。

同書内で取り上げた主な古文献は他に

新羅之記録」「アンジェリス&カルバリオ神父の報告」「フリース船隊航海記録」等。

おっと待った…

「今日知られるアイヌを記した最古の史料は、一二世紀に書かれた『今昔物語」と考えられている (海保夫一九八七「中世の蝦夷地」吉川弘文館)。『今昔物語」(国史大系本)では、陸奥国奥六郡(現在の岩手県奥州市~盛岡市)の支配者である安倍氏を古代東北の蝦夷(エミシ)に列なる「酋(エビス)」 の長、これよりさらに奥の住人を「夷(エゾ)」とし、エゾとエビスが区別されている。 」

「エミシ」と「エゾ」の分布定義をこうした直後に「紙本著色聖徳太子絵伝」について、

「場面は、敏達天皇一○年(五八一)に起きた蝦夷の大蜂起の際、一〇歳の聖徳太子天皇に建言して、大和国 三輪山麓を流れる初瀬川(大和川の上流)の辺りでみずから蝦夷の巨酋綾糟を説服されたという伝説にもとづく「十歳降伏蝦夷所」である。おそらく描いた絵師は実際にアイヌを目にしたこと はなかったと思われるが、アイヌの伝統的衣装の一つで「ラプ ル」とよばれる鳥の羽根でつくった衣を身にまとった人が描かれていることからわかるように、アイヌに対する知識はある程度持っていたようだ。注目されるのは、蜂起を諫める馬上の太子の前にひざまずく四名の蝦夷のうち、三名が持っている半弓とよばれる短い弓と矢筒である。当時和人が アイヌに対して弓矢に長けた人々というイメージを強く持っていたからこそ、このような絵が描かれたにちがいない。」

としている。

矛盾に気がついただろうか?

・アイノ文化成立は擦文土器消失と規定…

聖徳太子の時代はまだ国衙が東進,北進の時代で東北には到達せず…

仮に擦文土器消失が14世紀だったとして、事件のある581年とは約900年、北上市三輪山の距離約700kmの時空を「吹っ飛ばして」アイノの姿とするのか?

筆者はこれを「キング・クリムゾン効果」と呼びたい。

荒木飛呂彦氏の漫画「ジョジョの奇妙な冒険第五部」のラスボス「ディアボロ」が使うスタンド(特殊能力)「キング・クリムゾン」は、正確な予知をして「自分の考えに不要な時間数秒を吹っ飛ばす」事で能力者の都合の良いように前後の時間を繋ぐ事。

前提①もそうだが、ここでも時系列上900年、距離700kmの時空を吹っ飛ばして、聖徳太子の時代の事件と後代文化を接続している。

先の略定義を逸脱した上で最凶版「キング・クリムゾン効果」は如何なものか?

これが、遺物と伝世品による接続が完成しているなら良いだろう。

だが、まだ擦文土器消失すらハッキリ規定出来ない現状。

その絵図に描かれたのは、エミシ?エゾ?

まぁ特段驚く事はない。

ぶっちゃけ「あるある」なのだ。

付記すると…

「またこの時代以後の他の記録には「糠部の駿馬」の起源でもある狄馬や、鹿角地方の特産品である毛布狭布、あるいは貂裘・粛慎羽(北方産の鷲の羽か。写真60)・胡籙などがみえ、中央から、北の 世界独特の物品が強く求められるようになっていた様を知ることができる。

毛布狭布とは、麻・苧の狭布に山鳥・野兎の毛を混ぜて織っ たもので、仏教思想によって毛皮を着られない京都貴族の冬の必需品ともいわれているものである。これを産する鹿角は、それゆえに「けふの郡」とも呼ばれた。三十六歌仙の一人能因法師の和歌(『後拾遺和歌集』・写真61)にもこの布が登場するほど都では著名なものであった。」

「新編 弘前市史 通史編1(古代・中世)」

新編弘前市史編纂委員会  平成15.11.28  より引用…

拾遺和歌集の成立は11世紀頃。

この頃に鹿角はもう俘囚扱いだろう。

今昔物語や紙本著色聖徳太子絵伝成立前から「毛布狭布」は都で珍重されていたのが解る。

まだアイノ文化の欠片もなく世は擦文文化真っ只中、直結は出来ないのでは?

それに、延喜式上、出羽国は我が国最大級の「絹の産地」である事を忘れてはいけない。

さて、考古学としては、駒井和愛、渡辺仁、宇田川洋、佐藤宏之、天野哲也、瀬川拓郎…で関根達人らの実績を挙げる。

って、河野広道博士の名前が無い…

戦前から後藤寿一氏らと江別,恵庭古墳群やアイノ墓標の識別ら、草分け的存在なのに…ただ、この辺は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/12/054834

「河野広道博士についての二題…発掘,研究への気構え&「人送り(食人)」伝承について」…

「糾弾事件」らで察するべし。

学閥や如何に「ムラ社会」なのか?解かろうものだ。

因みに…

「敗戦により外地のフィールドを失った研究者が、北海道・沖縄・奄美対馬といった「内なる外地」に目を向けるようになった戦後である。一方、人類学や民族学では、「混血或いは異文化との接触に 依って、アイヌ民族固有文化は急速に消滅しつつあるのであって、速やかに人類学的民俗学的総合調査を運行しないならば、遂に永遠にアイヌ文化の究明は不可能となるかも知れない」(日本民族学協会」 一九五○「アイヌ民族総合調査の計画」『民族学研究』一五-一、三四頁)との認識のもとに、一九六〇年代までは アイヌの遺骨収集や親族関係調査が続けられた。しかし一九七〇年代にはさまざまな社会運動と交 したアイヌ民族復権運動のなかで、それまでの人類学や民族学によるアイヌ研究にも厳しい目がむけ られるようになり、それらの分野でのアイヌ研究は後退せざるを得ない状態となった。」…

だそうだ。

その辺の背景は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/21/073146

「何故度々「縄文=アイノ論」が浮上するのか?…'70の活動家の主張と当時の世相を学んでみよう」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/22/214116

北海道庁爆破事件とは?…当時の状況はどうだったのかについての備忘録」

我々も捉えている。

活動家第一世代の後見人をやった河野広道博士と、'70sの活動家に同調した研究者…著者がどちらに近いスタンスかはこの辺で見られそうだ。

第一世代が非常に「観光アイノ」を嫌っていたか?は、ずーっと述べてきている。

 

②文化編纂…

第3章についてはほぼ書く事がない。

と言うか?

同書でも、
・縄文
・→続縄文
・→擦文
・→何らかの理由,影響で「土器喪失」
・→アイノ文化化に文化変容…

ここまでは最早通説的に言われている事で、それを解説している。

ここでハッキリ、

恵山式は弥生土器の影響を受け、江別太式は恵山式の影響を受ける」

「擦文土器は土師器の影響で成立」

「大陸系のオホーツク文化は擦文文化に吸収される」

との認識を記述している。

この辺はもう他の論文を読んでも、異論は出ている様子がなく、概ね見解の一致をみている様だ。

ここに「キング・クリムゾン効果」は発動のしようがない。

故に「何時何をキッカケに擦文土器消失し、何の影響を受けるのか?」…これが現在の研究者達の課題である。

縄文〜擦文迄、北海道が孤立し独立した歩みだったと言う事実は無い。

実は著者、江別古墳群らの被葬者は、「北上したエミシの支配層」と言うスタンス。

その上で、擦文文化の成熟過程で在地の人々と同化,吸収されただろうと述べている。

文化伝播に留まらず、少なからず移住を伴うと言う事。

対岸の東北らとの関係の影響を受け、行き来し、都の動向も反映した上で文化成立している事を忘れてはいけない。

ここで、著者はオホーツク文化とアイノ文化の類似性についても3点の問題点を挙げている。

これは当然なのだ。

オホーツク文化が擦文文化に吸収されるのは土器消失以前なのだ。

よく「熊送り(イオマンテ)」の原型をオホーツク文化に求める論はあるが、これも「キング・クリムゾン効果」と言える。

現実には、オホーツク文化で見られる熊の頭骨を並べるらが、擦文文化へ吸収された後に再出現するのは江戸前〜中期の古文献で、考古学的にも文献的にも約450年の空白がある。

これを埋める為に必要な鍵として

・「 九~一〇世紀、擦文文化によるオホーツク文化の同化の過程で、擦文文化のなかに組みこまれたオホーツク文化の文化要素を抽出する。」

・「 一三、一四世紀のアイヌ文化のサハリン・千島列島への北上にともなう大陸文化の受容を明らかにする。」

・「アイヌ文化を構成する文化要素の系譜をオホーツク文化と擦文文化に限定せず、ヤマト文化も視野に入れて検討する。」

を挙げる。

理由は極簡単。

近世以降のアイノ文化に対し、擦文文化やオホーツク文化がどの様に受け継がれたか?の系譜が全く未解明だから。

それぞれの要素を分解し大陸,本州も含め系譜解明しなければ、そんなもの解かろうハズもない。

最重要課題でもあろうが、熊送りはそんな確認すべき要素の一つでしかない。

では、個別に著者がどう見ているか?

 

A,墓制…

第1章に記述があるのだが、

・アイノ文化…土葬,伸展葬,厚葬,非墓石文化

・日本文化…土葬,座葬,薄葬,墓石文化

琉球文化…洗骨,再葬,非墓石文化

こう定義する。

だが、これは近世以降の比較でしかない。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」…

著者が述べるアイノ文化形成〜近世初期迄の墓制確認は行った。

本州の座葬が広がるのは近世初期、主に都市化された後。

そこまでは土葬と火葬が入り混じり、屈葬と伸展葬が入り乱れる。

アイノ墓にしても、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/11/123006

「これが「近現代アイノ墓」…盗掘ではない発掘事例は有る」…

最終到達点はここ。

本来、この定義に至り最終到達点へ向かうプロセスがないと、説明出来ないのではないか?

何より重要なのは前項でも述べているが、「アイノ墓の伸展葬化は末期古墳から」…これを述べていない。

一般書だからこそ書くべき事だ。

これらの実績が河野広道,後藤寿一博士らによるもの。

 

B,ミッシング・リンク

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130

「この時点での、公式見解42…本質は「古代と近世が繋がってない」で、問題点は「中世が見当たらない」事」…

こんな事は無いと言う方も居る様だが、著者はこれを認めている。

と言うか、明確に中世を謳える遺跡数が少な過ぎて、擦文土器消失や代替プロセスが見えない→文化変遷が証明不能

著者はその上で、厚真の一連の発掘調査、

・宇隆1遺跡の経壺…

・上幌内2遺跡の和鏡…

これらが平泉ら東北との繋がり、

・ワイヤー製垂飾…

北宋銭,ガラス玉…

これらを大陸系、特に沿海州との繋がりを示し、双方との「交易の民」としての初源的アイノ墓と推定している。

和鏡,ワイヤー製垂飾,北宋銭は同一墓の副葬で、和鏡の下部には毛皮があり、熊の毛と判定されたとの事。

その上で、著者は厚真の成果を根拠に中世でのミッシング・リンクの解消を示唆している。

だが…

これ見方によっては逆なのだ。

後述する伊達市方面の成果迄入れても、余市と厚真を繋ぐライン…「新羅之記録」にある「鵡川から余市迄村々里々」、このライン上の臨海、又は近い点でしか中世の痕跡は見つかっておらず、前時代擦文文化遺跡の広がりが急激に萎むプロセスを説明出来ていない。

現状は「厚真頼み」に成らざるをえない点をどう説明するのか?

と、この項で著者は、奥州藤原氏は交易と仏教をセットで接しようとしたが、擦文文化人は権威財は受け入れても「仏教を受け入れる事は決してなかったのてまある。」…としているが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803

「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…

厚真の見解は「文化の源流に修験有り」だ。

神仏習合…明治以前の我が国ではこんな考え方。

諸仏が権現と化し神の力を揮う…か。

切り離されたのは明治の廃仏毀釈からで、修験の受容は即仏教、それも密教要素の受容になる。

 

C,擦文とアイノを分けるもの

・鍋,漆器

細かくは書かないが、当然ながら土器消失段階で代替食器として鉄鍋+漆器と変遷したと。

だが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/08/070139

「生きていた証、続報34…食器と言う視点で北海道~東北を見てみる」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/12/185112

「鍋について学んでみる…その東北,関東における起源と変遷」…

鍋については何度か取り上げた。

ぶっちゃけ、鉄鍋+漆器文化圏は北海道,北東北,京、ポツポツ北陸…だろうか。

面白い事に、中世墓の副葬だが、鉄鍋してカウントしているが、最初に書いた通り土鍋や瓦質羽釜もカウントしていて、関西以西は見事な迄に鉄鍋でなく土師質,瓦質に変わる。

北陸では、貸し鉄鍋+メンテナンスが商売として成立。

樺太,千島は内耳土鍋製造が近代迄継続した。

で、内耳土鍋の出現が早いのは南東北だったりする。

なので、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/29/201710

伊達政宗公の野望のルーツ-2…「長井市史」に記される、「内耳土鍋」を作る頃の伊達氏は?」…

こんな事を探る。

これをどう解釈するか?

鉄鍋+漆器文化圏が京と北東北と同一に起こる本道は、別に特徴的な出来事として語る必要はなく、日本海交易の延長線上で切り替わる…で説明可能で、奥州藤原氏からの交易量増大によるで問題ないのでは?

・装飾品

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/01/08/210833

「コイル状鉄製品のルーツとなり得るのか?−2…螺旋形状をした事例3点の備忘録」…

この辺が、中世墓確認からの延長上で、本州事例らの確認最中。

但し、ガラス玉は何度も書いているが、中世墓への副葬事例は日本中にある、「数珠」と表現され。

ガラス玉は割と水晶玉と合わせて九州辺りで多くなるのではないだろうか。

著者は中世のガラス玉生産地を大陸に求めているが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/27/184710

「「ガラス玉」の背景、あとがき…主な産地の一つは「インドネシア」、そして…」…

大航海時代後の最大産地はインドネシアだし、それは大陸へ送られていたし、引用している「フリース船隊航海記録」に樺太らで乗組員がばら撒いてる記述を著者は読んでいるハズ。

国内でも「一乗谷朝倉氏遺跡」にガラス玉工房跡は検出するし、何より江戸期に倹約令で廃れる前迄関西で作っていたのは確認済。

まだ当たれていないのは耳飾位か?

とは言え、これも引用しているアンジェリス&カルバリオ神父の報告にある様に、彼らが報告した「yezo」はテンショ(天塩と樺太方面)、メナシ(目梨泊と千島方面)の人々の様なのは著者も読んでいるハズ。

何故、国内事例と比較せず、山丹交易しか意識しないのか?

因みに後の項にあるが、19世紀頃に松前城下町でガラス玉の製作をしていた事を発掘調査で明らかになった著者は記述している。

そして、伝世品としてのタマサイの分析として5段階に細分出来るそうだが、最も古い年代で、17世紀後半迄「遡る」そうだ。

ん?

これは逆ではないか?

17世紀迄しか「遡れず」、まだ中世迄接続出来てはいない…ではないのか?

1600年代後半…Ta-bら火山噴火や寛文九年蝦夷乱の時代。

それなら納得。

実は「山丹交易」と強調はされているが、記録される物は魚や毛皮,皮革とされ、伝世品で明確にそれを証明する物は殆ど無いそうで。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/07/063354

「北海道弾丸ツアー第三段、「平取編」…「何故古い物の展示がないか?」には、明確な理由が理由がある!」…

これも平取と厚真でご教示を受けた通り。古い物が無いのには明確な理由がある。

端から伝世品が少ないのだ。

・チャシ…

著者は軍事施設か?祭祀施設か?…

これには「本来の機能は祭祀施設」で軍事機能は後に付加と判明としている。

ここは至極同意である。

但し、B,を見て戴ければ、我々が言いたい事は解るかと。

著者もその根拠に挙げる、厚真のヲチャラセナイチャシ、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/28/202837

「時系列上の矛盾、厚真町⑧…これが本命「ヲチャラセナイチャシ」とは、どんな遺跡か?」…

これが「護摩堂」ではないか?と考えている。

つまり、「修験道場や神社仏閣跡」。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/23/194651

余市の石積みの源流候補としての備忘録-5…内容精査し、北東北の中世城館石積みの傾向を見てみよう」…

土台、我々にとって「中世墓」の確認も修験の影響確認も、最終到達点は「余市の石垣は何か?」ここに至るプロセスの一つでしかない。

中世墓の分布やチャシ,中世城館の分布らと照らし合わせているのも、その手段である。

これは「今後として」だが、北海道式の形態区分で日本中の中世城館の形式分類をするつもり。

これなら、これら「祭祀施設」を北海道へ伝えた集団系譜が見えるだろう。

以前、チャシは14世紀位からと言われて来たが、著者も11世紀位から出現するようだと指摘している。

チャシそのものの発掘事例が少ないのもあるが、今後事例が増えればもっと明確に「構築時代が遡る」だろう…北東北の「防御性環濠集落」時代までだ。

・イクパスイ…

著者は現状最も古いイナゥやイクパスイと考えられる(又は源流)ものは「ユカンボシC15遺跡」の平安(擦文文化)期のものとしている。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/28/080712

「時系列上の矛盾…ユカンボシC15遺跡出土の祭祀具等木工品は「本州産木材」」…

これの事。

ここで著者も「材質が本州から持ち込まれたスギやアスナロ」だとして、特別な理由があったと指摘する。

著者はここで踏み込む…

現状、同様のアイテムはニヴフ,ウイルタらでも確認され、中世位に出現する様だ。

つまり、ユカンボシC15遺跡のそれがそうだとしたら、13世紀のアイノ北上に伴い、彼らが外部のニヴフ,ウイルタへ伝播させた可能性が出てくる訳だ。

それもオリジナルは本州産材質に「拘りを持ち」だ。

あの…

秋田城ら平安に機能した「国衙・城柵」には必ず一名「陰陽師」が派遣され、地方での祭祀に当たっては教えを受けた者が代行したのではないか?とされているのだが…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/02/191856

「時系列上の矛盾…「斎串,祭祀場」との関連性を見る為、能代「樋口遺跡」を確認してみる」…

こんな感じ。

その少し後だろうか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/05/111841

「お陰様で㊗50000アクセス、なので地元ネタ…「十字型火葬墓」がある場所はどんなとこ?」…

この辺の地域と重なってくるか。

こんなところが再三言う「勝手にパズルのピースが組み上がる」と言うところ。

陰陽師」の指導で地方祭祀を代行したのが「修験僧,山の聖,行者」なら、修験の北上と概ね合致してくるが。

別に驚く事でもないのでは?

・火葬墓…

この辺が興味を持ったところ。

「合葬墓や茶毘墓もまた沿海地方に起源を求めることができる。沿海州アムール川流域のアムール女真文化では、一一世紀末の土坑墓の墓地において埋葬地点の上で火葬(クレマーツィヤ)する習俗がみられる。ウラジオストク近郊のナデジ ユジンスコエ墓地では、女性と幼児の合葬例や、「埋葬焼却の仮屋」の痕跡も確認されている。 アムール女真文化の火葬は、靺鞨以来の伝統的な土葬に「エグスグマーツィヤ」とよばれる遺骨掘り出しや棺焼却をともなう除厄浄化儀礼が 加わり、発達・複雑化したものと考えられてい る。ロシア沿岸地方オクチャブリ地区のスイフシ川右岸に位置するチェルニャチノ5遺跡から発見された墓はすべて二次的な火葬を受けており、そのなかに、土坑の底部に石を敷き詰め、遺体を納めた棺もしくは木製構造物を置いて火をつけるものや、土坑内に遺体を納めた棺もしくは木製構造を置き、土坑の周りを石で囲い、それらを焼く墓が報告されている。」

ほう!

靺鞨は元々土葬で、何らかの影響で火葬を始めた…か。

さて、中世墓を確認段階でも書いているが…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/19/071331

「時系列上の矛盾「方形配石火葬(荼毘)墓」…「有珠オヤコツ遺跡」ってどんなとこ?…※追記1」…

11世紀の沿海州の事例に14〜15世紀と判断する余市「大川遺跡」、有珠「オヤコツ遺跡」の事例を重ねると、300年程度の「キング・クリムゾン効果」なんだが…

ここで、本州の事例比較らは一切無い。

北陸なら、同時期に方形配石遺構での火葬実績はあるのだが。

渤海国」は唐が認めた仏教国。

仮にその形式が渤海から伝わったとしても、北陸経由が時系列上の矛盾が消えるのだが。

それに、方形配石遺構に蔵骨器を埋葬した「火葬墓」は、持っと遡る事が出来るのだが。

方形周溝墓なら尚更で、これも中世東北で検出を見る。

大体、火葬そのものが仏教形態の一つとして持ち込まれたものではないのか?

靺鞨も渤海時代から火葬を開始したのであれば、そりゃ火葬の受容もあるだろう。

「アイノは仏教を受容しなかった」と著者の指摘を適用するなれば、火葬の受容は有り得ないのでは?

 

と、ここまで書いたら、お気付きだろう。

著者が北方系文化の受容として捉える部分を「修験の北上」へ置き換えれば、恐らくミッシング・リンクを含めた「時系列上の矛盾」はほぼ消えると考える。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/09/051702

羽黒山鏡ヶ池に眠る「羽黒鏡」とは?…出羽三山信仰の核の一つを学ぶ」…

北海道で検出される「和鏡」の意味を考えた事があるのだろうか?

目の前に、和鏡を根幹に持ち日本中の信仰を集め、鎌倉幕府執権にすら物申せる「大信仰集団」があるのだが。

「一つ穴の和鏡」はこれで事例は確認出来る。

そして、修験の北上の影響を最大限に見れば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/11/201720

「修験らの影響を加味した場合「消えた中世」はどうなるのか…現状迄の素案の一つとしての備忘録」…

こんな風に、矛盾は消える。

そして、その場合、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/08/07/201518

「丸3年での我々的見え方…近世以降の解釈と観光アイノについて」…

こんな風に推移してきたのでは?

 

本書で気になった他の部分を付記すれば…

・厚真の指摘の「修験」は登場せず…

東通村「浜尻屋貝塚」を本州アイノと捉えており茶道具の出土迄指摘しているが、それより先に「アイノは仏教,茶の湯」を受容しないとしている。なら重ねて良いのか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/09/124507

「浜尻屋貝塚の遺物を確認&下北半島の中世城館に石積みは?…再び下北半島を回れ!」…

また「硯」については一言も無い。

ここの人々は文字を持つ…

・蠣崎波響の「夷酋列像」を一つの根拠にしているが、メナシ衆且つ、蠣崎波響は彼等と直接合って書いたのではないハズ。根拠になるのか?

同様に、奥州仕置の九戸城内の夷衆へ言及しているが、その「氏郷記」は年代らが不明だと思うが。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/21/210518

それらの史料批判はされたのか?…

・有珠らの「畠の畝跡」に言及し焼き畠系かとしているが、それこそ「突如それまて検出しない畝が出来る」理由へは触れていない…

etc…

まだ解明すべき点はあるかと思う。

 

率直な感想…

筆者は資料館巡り、疑問に思った事を無造作に文献で調べてきただけだが、割と最新版でポイントとして指摘された事は押さえられていたかな…だ。

視点や解釈は違えども、著者が参考文献されていた文献の幾つかは既に発注した。

ここから、知見を増やすステップとして良い学びになった。

感謝である。

敢えて最後に…

北海道研究の「大穴」は「本州との事例比較が殆ど無い」事だろう。

関根教授は「弘前大」だが。

目の前に材料が揃っているのに、何故そことの接続を行わないのか?

よく話す方とも「勿体ない」と…

まぁ、我々が学ぶのは「北海道〜東北の関連史」。

人は人、我々は我々…

それがメインロードの研究者であっても、我々のスタンスは何も変わりはしない。

 

 

参考文献:

「つながるアイヌ考古学」 関根達人  新泉社 2023.12.15 

「新編 弘前市史 通史編1(古代・中世)」

新編弘前市史編纂委員会  平成15.11.28 

時系列上の矛盾「方形配石火葬(荼毘)墓」…「有珠オヤコツ遺跡」ってどんなとこ?…※追記1

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」…

前項をこれに。

と言うか…

既に前項で少々触れたが、「方形配石火葬墓」があるという「有珠オヤコツ遺跡」がどんな所か見てみようではないか。

まずはこれがその「方形配石火葬(荼毘)墓遺構」。

で、実はこの「有珠オヤコツ遺跡」、発掘調査報告書を検索した段階でピンときた。

論文で散々見てきたが、今迄どんな立地なのか?、地の利がなくて解らなかったのだ。

これが余市町「大川遺跡」なら、既に発掘調査報告書を持っていたので即確認出来たのだが。

で、

上の4冊、有珠善光寺遺跡,有珠4遺跡,ポンマ遺跡は既に持っていたが、検索して「有珠オヤコツ遺跡・ポンマ遺跡」とあったので、即どんな場所にある遺跡なのか?配線が繋がった。

この辺一帯の遺跡、実は隣接している。

だから、詳細を見る前から、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718

「時系列上の矛盾&生き方ていた証、続報30…まだまだあった伊達市「有珠4遺跡」に広がる「はたけ跡」」…

「あ、畠跡があるとこか(笑)」となった。

江戸期のアイノ文化の記録には「農耕はやらず」で、「最上徳内」が一部教えた話迄ある位だ。

で、Ta-b直下の黒1土層に検出された「畠跡は誰が作った?」これを

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/15/205140

「時系列上の矛盾&生きていた証、続報29…東蝦夷地は旧虻田町高砂貝塚」にある畑地の畝の痕跡」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/27/201947

「時系列上の矛盾…今度は西蝦夷地、稚内「声問川2遺跡」にあった畑跡、そして…」…

こんな風に追い掛けた事がある。

実際に確認出来た中では、有珠周辺から噴火湾沿いに虻田や森町,八雲町周辺迄と畠の畝跡は続く。

「畠の畝跡」「有珠善光寺」…

これなら「修験系の墓」があっても全く矛盾は無い。

元々の「有珠善光寺」が信州「善光寺」の末寺なら八宗共学だろう。

なら、諏訪大社の縁起「諏訪大明神画詞」と繋がっても何らかの違和感も出ない。

善光寺を回った修験が諏訪大社を訪問、伝えればそれでOKなのだから。

 

では、本題。

「有珠オヤコツ遺跡」とはどんな所か?

立地は先の地図を確認戴きたい。

平安(擦文文化)期とTa-b直下の中世〜江戸初期と考えられる遺跡があちこちある地域だ。

では基本層序を。

アスファルト(発掘区が市道)

・基礎工事のバラス…50cm

・撹乱層

・Us-b1,2(1663年降下)…

この下から基本土層とする、

・Ⅰ層…明黃白色砂層

・Ⅱ層…黒色腐蝕土質砂層

・Ⅲ層…暗黒褐色砂層

・Ⅳ層…黄褐色粘土質砂層

・Ⅴ層…黒色腐蝕土質砂層

・Ⅵ層…淡黄褐色粘土質砂層

・Ⅶ層…黄褐色粘土質砂層

・Ⅷ層…淡黄褐色砂層→40cm以上掘ったが変化なく地山層とした

との事。

但し、発掘区で途中が消えたり少々複雑な模様で、遺物包含層を見ると、鉄器,擦文土器,須恵器,土師器らは一点(鈎状鉄器)を除くとほぼⅢ層から出現し、Ⅳ層はあまり検出しないがⅤ〜Ⅶ層にかけて増えるとある。

また、場所によりⅩ層位迄積み重なり下部に岩盤がある発掘区もある様だ。

土層も砂層メインなので、主な発掘区は元々磯場でそこに砂が堆積した砂洲や砂浜…と言う事なのか?

なら、一部層の欠落は「海岸線の移動」を指すのだろうか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/27/052730

「地質学,地形学から見た北海道歴史秘話四題…北海道の先祖達は「生き延びる事が出来たか?」」…

北海道の海浜遺跡で海岸線の移動の痕跡を見る事はある。

ここにある厚岸の事例や泊村等、磯場〜湿原を繰り返したり生活面の移動や撹乱が検出される事例はある。

先へ進む。

主な遺構は、

貝塚…50

・焼土…110

・集石…31

・土坑墓…2

これは「方形配石火葬(荼毘)墓」とは別である。

2基共にUs-b(1663年降下)直下のⅠ層で被覆され、Ⅱ層から掘り込まれている。

それぞれ長方形,隅丸長方形の仰臥伸展葬で南頭囲、1号墓は女性小児、副葬が刀様鉄製品と漆塗膜、2号墓は熟年程度の青年男性で副葬が太刀,刀子×3,骨鏃×27(束ねられ、矢柄は無しで膠の様なもので固定)。

・柱穴…計23で、建物だとしても小屋程度

・溝状遺構…1

そして「方形配石火葬(荼毘)墓」…2基である。

ここは引用しよう。

「北海道の先史時代の墓には、環状列石墓、積石墓のように、石を構造的に定形化して配布した配石墓のほかに、石狩低地帯(恵庭、千歳、苫小牧)で発掘された周堤墓のように、墓域の縦軸の先・後に、基標石とでも考えられる立石を配する墓もある。また、規模は小さいが、墓域の周囲に、数個乃至数拾個の石を用いた墓は、縄文時代以降、数多い例証があげられよう。

方形配石墓は、一辺が4〜5m前後で、東西、南北に方形に石を積み上げた区画墓である。構築の手順は、あらかじめ方形の溝を掘り、人頭大の石を配して基礎配石とし、その上に3〜5段の石を積み重ねていく。被葬者は、配石の内側に南頭位仰臥伸展で合葬されている。副葬品は、 墓域内に置かれる。配石の外側には、溝などの遺構は特に認められない。

発見された二基の配石墓は、南北に対峙して並び、被葬者の骨は火を被って焼けていた。発見の順から、南側をⅠ号、北側をⅡ号とした。共に墳丘(盛土)をもたない。調査された札幌医科大学百々幸雄教授等は、1号墓の被葬者は1・2号の合葬で成人男性・女性、Ⅱ号墓は1-5 号の合葬で、順に熟年男性、9〜10歳男性、12〜15歳女性、壮年女性、14〜16歳男性であると 報告された。

Ⅱ号墓では、1号人骨の脚部を囲むように、木棺と思われる箱形の腐植土の痕跡が認められ た。

Ⅰ・Ⅱ号墓の人骨、副葬品の一部は火を被っていたが、特にⅡ号墓は、全被葬者の上を炭化材(板材,柱材)が広く被覆しており、炭化材の上に堆積する腐植砂土に検出された柱穴群との関係から、葬送儀例に伴う構造物が設けられ、次いで火を掛けて燃やしたのではないかと想像される。副葬品は、刀装具、非実用鍔、内耳鉄鍋、皿状銀製円板、玉類、漆器等多種に及んでおり、時代決定と歴史的な背景には今後の調査研究に委ねるところが多い。

以上、構造、葬法、副葬品の組み合わせ等、これまで全国的に類例が無かった当該遺構につ いて、ここに改めて「方形配石墓」の名称を冠することとしたい。」 

 

「配石の層位は、先にオヤコツ遺跡の層位で述べたものと大きな相違はない。しかし、254m内の区間では、砂丘形成や生活の場の環境条件によって、必ずしも一致しない個所もある。そういう中で、基本層位(例えばⅢ層, VI層)を決定し、配石Ⅰ~Ⅱ号の東壁の層位を細分して 基本層位を当て嵌めて記述することとした。

東壁層位

1. アスファルト、路盤砂利,

2. Us-b1・2 (1663年降灰),

3.明黄白色砂層,

4. 黒褐色砂土(貝層を含む) Ⅲ層,

5. 黄褐色砂,

6.褐色砂 IV-VI層,

7. 黑褐色砂 (貝層を含む) VI層, 

8. 淡褐色砂(乾くと黄白色砂),

9. 黄褐色砂(下部褐色を帯びる)Ⅶ層,

10.茶褐色砂Ⅸ層  である。」

 

「5)方形配石墓Ⅰ号(図45,図版6)

構造

配石は、地表(L5.268~5.276m) から-75cm前後で全体の輪郭が現れ、配石の上部は幅広く崩れていた(図45-1)。配石の上面はL4.38~4.49mで、Ⅲ層が被っていた。崩れた石はⅣ〜VI層を被っており、Ⅶ層に基礎配石が埋められていた。以上からⅠ号配石はVI層上面 につくられたと考えられる。上面の崩れた石470個をとり除き基礎配石を示したのが図45-2で ある。基礎配石の幅は平均50cmである。基礎配石249個を除くと、幅30~50cmの浅い凹みが方形に現れた。この凹みは、Ⅱ号のようにあらかじめ掘り込んだというよりは、若干区画の手を 加えた後に、石の重みで凹んだという可能性がある。

人骨と副葬品の出土状態

232D-233D区に2体が南頭位伸展で並ぶ合葬である。人骨の保 存状態は良くない。1号人骨は、成人男性で中央より東寄りに頭蓋骨、歯、上腕骨,大腿骨そ の他が検出された。頭部西側上方に骨飯類がまとまって2ヵ所、頭蓋の上方に、布片が貼りつ いている鉀、左側頭部から腰部にかけて骨製彫刻の柄をもつ太刀と飾金具柄の太刀が2振り、柄を上方に向けて置き、刀子とともに出土した。2号人骨は、成人女性で中央より西側寄りに、 頭蓋骨,脊椎骨,大腿骨,下肢骨が検出された。左側頭部西側に刀子1振、左肩部に骨鏃類が出土した。頭蓋の西南に2個の大形木炭片が、また周囲にも木炭が散在していた。

1号人骨から離れた東側232C区には、口縁を伏せた内耳鉄鍋1個が置かれ、234D区からは、鋤形の大形鉄製品が検出された。その他、非鉄金属の小円板、釣針、釘等が出土した。

配石内・外の遺構

崩れた石を除くと232E-234E区に8個の小ビットが検出され、それと並ぶ北西隅から漆器腕 (?)が検出された。配石外からは、231G-232G、235Gに径50,80 cm、厚さ3cmの焼土が2ヵ所発見された。ビットは棒杭を並列して刺し込んだと思われ、配石外の焼土と併せ、西側に設けた墓前祭的性格を持った遺構と考えることができようか。   (竹田輝雄)」

 

「7) 方形配石墓Ⅱ号(図49.図版8)

構造

Ⅱ号墓の配石は、地表から深さ90cm~1m10cmで輪郭が現れた。シン航空による実測図(図49-1)は配石の全体が現れたときのものである。配石の上面は標高4m30cmで配石は崩れて内外に広がっていた。崩れた配石をみるとⅦ層の黒褐色砂層,黑茶褐色砂層の下部に崩れた自然石の円礫があり、この層位的位置が生活面と考えられる。Ⅶ層の上部層は方形配石の東側で配石を覆っていた。241F区の擦文土器片2点は崩れた石のわきから出土したⅦ層の土器である。配石の礫は火山岩を含む平均径20cm前後の大きさで、人が容易に持ち運びできる重さで、小石などは含まれていない。方形に積まれている配石は溝を掘って積み上げている。 石の数は総数1277個で現在の海岸にはなく旧河口や旧河川流域にみることができる。

構造を調べるため、配石の広がりを調べて崩れた配石を除去した。配石の北東角にある副葬品の鉄鍋の上にあった崩れた石と溝に積み上げた石をみると、どれが本来の積み石であったのか区別が難しいほど積石に規則性がない。配石は方形の溝を掘って石を入れ、積み重ねている。 溝の幅は50cm~65cm、掘り込みの溝は一定していないが横断面がU字形で深さが40~60cmであ る。北壁は深く60cmで、溝の幅50cm、245D西から245F東にかけて一段と深く245Eで70cmのところもある。その間約2mで、合葬人骨の北側にあたる。溝の断面にみる石積は溝に石を投 げ入れた状態で、斜め,縦,横とまちまちである。上面になると横が多くなる。方形に積まれた石は溝上に傘形に積んでいるが、空間に砂が混じり、平面図(図49-2)の空間の砂を除くとまた石が出てくる状態であるが、基礎配石の幅70~100cm、高さは50cm程度であったと思われるが墳丘はない。

合葬人骨は5体、さらに焼けた人骨が少なくとも1体以上あるが、人骨は薄い黄褐色砂と木炭層に覆われていた。墓壙内の炭化材は南の配石から北の配石に広がり、厚い所で5cm、薄い所 で2cm程度、木炭末の多い所の分布は243Dの西、244Dの西、242E,、243E、 244E、245Eの南、242Fの東、244Fと245Fの東と合葬人骨を覆っている。柱と板材がみられ、炭化の柱は径10cmほどで、244Dから244Eに東西方向に1本、243D、243E、242Eにかけて南西から北東方向に1本と並行する243Eから242Eの2本がある。細いものもあるが部分的である。板材は243E、242Eで柱と重なっているが、板材が厚く柾目状のものは中央から南西に分布し、配石の上に伸びている。埋葬人情が焼けて炭化しているのは1号墓でも見られたが炭化材がなく木炭末が散在している程度しか認められなかった。Ⅱ号墓の炭化材から人骨を埋葬後黄褐色砂で覆い儀式的仮小屋を建てて焼いていたことがわかった。

仮小屋は、方形配石の4m以内の大きさと思われるが、方形配石内外に柱穴は認められなか った。この地域での柱穴は、炭化材分布層の上層であるVI層の淡褐色砂層と黒褐色を帯びた層に柱穴11個が発見されている。分布は方形配石墓の西側から配石の西にかけてあり、柱穴の径8〜11cm、深さ4〜19cmの円形で、これらは発掘区域内発見の柱穴と同じようなもので、直接方形配石墓の炭化材層と関係がなく、244EのVI層で三葉尾羽根文の帯執紋金具が出土している。

埋葬の問題

Ⅱ号墓は、南北3m、東西2m55cmに方形の浅い鍋底状の墓壙を掘り、5体から 6・7体の人骨を埋葬し、太刀,刀子,紐付飾鐔などを副葬している。太刀は1号人骨男性熟年の東、紐付飾郷は4号人骨女性壮年の東と3号人骨12~15歳の女性の東に副葬し、1号人骨の北で配石に近くコの字形木棺の一部と下腿骨と思われ部分が輪郭をとどめていた。合葬人骨の周 辺はやや高くなって配石となるが、配石の内側、東にガラス玉と金属金具の付いた装飾品、文様のある朱漆塗膜、北東に鉄鍋と朱漆塗膜、西に朱漆塗漆器椀と思われるもの11点と骨鏃が束ねられていたような状態で出土した。骨鏃束は2個と考える。

墓壙床は、配石の溝の上面から20〜25cmの深さで周囲が高く木炭や木を敷いた痕跡はない。人骨埋葬後、周囲に方形の溝を掘って石を積み重ねているが、埋葬人骨と副葬品を黄褐色砂で覆う。砂の厚さは2~5cmであるが、溝を掘った砂をかけてから黄褐色砂で覆う。仮小屋は砂で覆ってから建て、短時間に焼いている。Ⅱ号墓の規模は南北4m25cm,東西3m93cmである。

人骨の出土状態

人骨の保存状態はよくない。札幌医科大学解剖学教室百々幸雄教授らによ って取り上げられ、調査された結果、5体合葬で他に焼かれた遺体が少なくとも1体以上埋葬の可能性がある(付篇88頁)。人骨は頭蓋、下顎骨など出土した位置から頭位は南が4体、中央からやや北に1体があった。頭位南の人骨は、やや中央に位置する1号人骨、熟年男性。東に太刀が添えられ、腰に刀子がある。東の配石に近く5号人骨,14~16歳男性。5号人骨と1号人骨の 間に3号人骨、12~15歳女性で東に飾鍔がある。1号人骨のすぐ西に2号人骨,9~10歳男性がある。頭位北と考えられるのは4号人骨で壮年女性、東に紐付飾鎌があった。女性の近くには飾鍔があり、12〜15歳女性のものは壮年女性のものよりやや小さい。

頭蓋の炭化して崩れたものが、2号人骨の西側と4号人骨の北側にあった。採集できた人骨21点の内、炭化した人骨は11点で、太刀の上に炭化した骨があったり、4号人骨の下顎が逆に刺 っていたり、大腿骨が横にあるなどから改葬墓の可能性も考えられる。

副葬品

Ⅱ号墓と周辺出土の遺物は54点で、墓境内からは太刀1振、刀子3振,剣状の鉄器1 点,銀,銅製飾金具3点、飾鍔2点、ガラス玉と付属金具1連、束ねられた状態の骨鏃(II- 23-1,2),朱漆膜残片で個体と考えたもの11、鉄鍋1点、その他鉄残片など21点の45点他が出土した。墓域内の配石近くに朱漆塗木器が多く、西配石の北寄りに集中し、北配石では鉄鍋と漆器、東配石では胸飾りと思われる玉と漆器が出土した。金属製品、漆器、ガラス玉、骨製品については、それぞれの編目で報告されているので参照されたい。

課題

方形配石墓と合葬人骨の埋葬、儀式的仮建物と焼失、被葬者の社会的地位と埋葬法、副葬品にみられる異文化との交流などの問題をこれから考えていかなければならないと思う。方形の配石墓で規模、頭位、合葬墓で類似しているものが、中国のトウニン,ダチエンズイにある。イブリエフ、A、L、「中国の北東渤海発見に関する研究」でジエン エンチジェンの 論文が紹介されている(ソ連科学アカデミー、極東支部ソ連極東中世考古学新資料論文集」 ウラジオストク、1989)。ロシア連邦科学アカデミー一極東支部考古学委員長E. V. シャクウ ノフ氏はオヤコツ遺跡の方形配石墓について、写真資料などから渤海国の墓や古記録から北海 道と沿海州の関係があったのでないかという。   (千代  肇)」

 

主要部分はこんな感じだ。

ちょっと気になる点2つ…

「以上、構造、葬法、副葬品の組み合わせ等、これまで全国的に類例が無かった当該遺構につ いて、ここに改めて「方形配石墓」の名称を冠することとしたい。」…

あれ?

「方形配石墓」と言う呼称は、オヤコツ遺跡が最初なのか?

配石で基壇を作り、塚を伴わず、蔵骨器を埋納し、五輪塔,宝篋印塔を建てる…こんな平安には出現している墓制も方形配石墓と書かれているが…

その辺は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」…

散々見てきているが、全くの別物扱いなのか?

この辺がよく解らないところ。

横穴式墓−やぐら…もそうだが、用語らの統一がされているのだろうか?

基本的な繋がりやグラデーションを持つ伝播はあるが、細かい地域差はある。

基本的な様式,用語の定義とそれによる層別がないと、全国一環した判断は出来ないと思うのだが…

これは、「中世墓資料集成」と言う同一書籍を通してみてみた感想でもある。

と…北海道,北東北だけだが、中世城館資料でも感じた事だ。

「層別」は同一フィルターで分別していきその傾向で「解析」を行う為にやるのであって、層別したから終わりではない。

基本的な様式,用語の定義…統一した同一フィルターで行わないと意味がないのだが…

この辺が基礎が無い筆者にとっては理解不能な点。

「方形の配石墓で規模、頭位、合葬墓で類似しているものが、中国のトウニン,ダチエンズイにある。イブリエフ、A、L、「中国の北東渤海発見に関する研究」でジエン エンチジェンの 論文が紹介されている(ソ連科学アカデミー、極東支部ソ連極東中世考古学新資料論文集」 ウラジオストク、1989)。ロシア連邦科学アカデミー一極東支部考古学委員長E. V. シャクウ ノフ氏はオヤコツ遺跡の方形配石墓について、写真資料などから渤海国の墓や古記録から北海 道と沿海州の関係があったのでないかという。」

①も絡むが、論文らを読んできて、オヤコツ遺跡,大川遺跡のこのタイプの方形配石火葬(荼毘)墓…似た事例は本州にもある。

発掘調査報告書に記述されるので、北方との関連はここからスタートしているのだろう。

本州の中世墓研究から「似た事例はある」らの指摘や反論はなかったのか?

ここも素朴な疑問。

渤海が唐が認める仏教国だったのは知られた話。

本州以西の方形配石墓も仏教導入から成立したんだろう。

そもそも火葬がそうだろう。

誰も本州を迂回して伝播したとは考えなかったのか?

ソ連研究者の指摘そのまま今に至り、本州以西との事例比較はしていないのか?

え…?????

渤海って926年に滅んで、その後の国々は仏教系なのか?

その形式が「中世にオヤコツ遺跡,大川遺跡に出現」すると?

では、これが「トウニン・ダチエンズイ」の方形配石火葬墓として同書に紹介された図。

では中世墓資料集成より、大分豊後高田市「ナシカ谷遺跡」14世紀。

比較してみよう。

「オヤコツ遺跡」

配石は溝を掘り基礎配石と配石で盛り上げ、開口部は無い。複数の合葬。Ⅱ号墓に再葬?

「トウニン・ダチエンズイ」

配石は枠状で、開口部を設け建物的にしている。複数の合葬。

「国内事例」

浅い溝を掘り配石で盛り上げ、開口部は無い。基本的に単独葬だが連続的に並べる物が出現していく。火葬の合葬事例は近畿に蔵骨器に再葬する形式である。

共通点が多いのは「国内事例」では?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/04/103246

「中世墓はどう捉えられているか?…「事典」で「山」たる基礎知識を学ぼう」…

発掘調査報告書のⅡ号墓に再葬の記述があるので、

アイヌ墓には伸展葬の火葬があり集骨はなく、和人墓には集骨がある。」…

この定義は発掘段階から崩れている。

国内事例でも、全て蔵骨器埋葬する訳ではない。

そのまま集石,覆土する場合も、火葬施設内に掘った土坑に納める場合ある。

疑問を持つのは筆者だけか?

 

さて、話を戻そう。

長くなるので、遺物には本項で詳細は触れないでおく。

層序から見ると、擦文土器が出土するⅣ〜Ⅶ層位に掘り出し面があるようなので平安(擦文文化)期かともとれるが、14世紀位と論文で指摘されるのは副葬からの年代推定なのか?Ⅱ号墓の木質からC14炭素年代で割り出したか?その後の研究からの判断なのだろう。

遺骨は、百々幸雄教授らの検討ではアイノ系…仮に平安(擦文文化)期であればまだアイノ文化と言う文化指標が使えないので、我々的には「在地系」の可能性が高いとしておこう。

と、ここまで読んだ上で、本項最初の部分を読んで戴きたい。

・「トウニン・ダチエンズイ」より「国内事例」に近くないか?…

・仮に渤海の影響を帯びたとしても「仏教要素」は入り得る…

・少なくとも被葬者ではなく葬送者が「仏教要素」を持つ…

・「有珠善光寺」と近い立地を持ち、有珠善光寺寺伝播で平安開基→一度荒廃→松前慶広再興とあり、周囲に「仏教要素」を持つ者が居ても整合は取れてくる。

・先述通り、周囲立地として、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718

「時系列上の矛盾&生き方ていた証、続報30…まだまだあった伊達市「有珠4遺跡」に広がる「はたけ跡」」…

Us-b,Ta-b直下で畠の畝跡が検出しており、「仏教要素」、遺物の多くが本州産、後代農耕を行う等、生活文化的に殆ど本州以西と差が無い…

胆振〜日高に居たとされる「シュムクル集団」は、近代聞き取りでは「本州から渡った」伝承を持つ…

ここまで揃えば、この有珠周辺の中世の姿は、「アイノ文化」を持っていたと言うよりは、極本州に近い文化集団だったのではないか? …と推定出来そうなものなのだが。

更に言えば、オヤコツ遺跡は有珠4遺跡より層序的には若干古い可能性が高い。

理由は基本層序のⅡ層黒色腐蝕土質の上に、Ⅰ層の砂層が乗る。

少なくとも廃絶後に飛砂層が乗る。

それと同等、若しくは若干後の時代に確実に農耕を開始している。

つまり、アイノ文化化したのではなく、北東北と文化同化する方向だと言う事ではないか?

どうやったら、違う文化化すると言うのだ?

それこそ「時系列上の矛盾」だ。

やはり、引用原文の確認は必要だ。

ちゃんと北方由来とするスタートラインがソ連研究者の論文によると「書いてある」。

だが、この方はこの段階で我が国の国内事例比較をやっているのか?、いやそれは我が国の研究者の仕事だろう。

 

周辺遺跡との関連性と時系列上の傾向をみれば、こんな考え方もあっても良いハズだが。

不思議でならない…

 

※追記1

備忘録として、同書から下記を引用しておこう。

アイノ文化の象徴的に扱われる「骨角器」。

近世,近代と古代〜中世を繋ぐ物的に捉えられている様だが、こんな話もある様だ。

では…

「擦文期の骨角製品は、アイヌ期に類似するが、時代的変遷を経て形作られる。苫小牧市埋蔵文化センターが実施した弁天貝塚の調査でも多く資料が得られている。アイヌ期を明治以降としたとき、擦文文化を含めて蝦夷期と考えられる。土器が消えた中世の14・15世紀で前半と後 半が分けられるが、オヤコツ遺跡の骨角製品は、金属器利用の時期で擦文文化中期から後期にあたり、鉄器の種類も多く、銅製品、銅と銀の合金製品、銀製品が移入されている。毛皮などの交易による金属器移入と考えるが、鹿や海獣の狩猟は、狩猟具の改良となり、骨角製品にも変化がみられる。墓壙2号の時期を何世紀と考えるか。方形配石墓Ⅰ号墓・Ⅱ号墓の時期決定も調査中であるが、墓墳2号も蝦夷期のものであり、骨角製品の変遷もこれから進められると思う。

図29の参考図は比較のため、オヤコツ遺跡の骨角製品を前段に後段には酒詰仲男教授らが行った同志社大学先史研究会の神恵内観音洞窟資料と市立函館博物館の旧蔵品のなかから銅を装着させた鹿骨製鏃柄を前段の右に図示したものである。両者に類似性がみられるが時代の新しい銅鏃装着の鎌柄の作りは、旧蔵品と墓壙2号の資料は共に粗雑さが目につく。   ( 千代肇)」…

 

千代肇氏は、共通点はあるにして、骨角器は時代変遷しており、それを元に時代分類すると(研究途上だが)下記の様になると言っている様だ。

①明治期以降…アイノ文化期

②江戸期〜中世…蝦夷期(後半)

③14~15世紀…土器喪失期

④中世〜奈良,平安(擦文文化)期…蝦夷期(前半)

だ。

ここで…

③を経て、②と④では差異があり、経年指標となり得ると予測していた模様。

勿論③は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130

「この時点での、公式見解42…本質は「古代と近世が繋がってない」で、問題点は「中世が見当たらない」事」…

これの事。

金属器系に触れているので、例えば「燕尾型回頭銛頭」らでみると、④…奥尻島「青苗遺跡」や余市町「大川遺跡」の事例と②Ta-b直下の出土遺物では若干の差があると言っているのだろう。

さてでは、①は?

「伝世品」との比較になるのだろう。

ただ、何も変わらないならわざわざここで分ける必要があるのか?

ここで一つ問題がある。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/07/063354

「北海道弾丸ツアー第三段、「平取編」…「何故古い物の展示がないか?」には、明確な理由が理由がある!」…

伝世品から辿ろうとしても、そんな古い物は「存在しない」事。

そして、昭和30年代から更に変化している事。

現存し展示されている物に、そんな古い時代の物は無い。

故に②を強調する必要がある訳で。

①と②で変化があるなら、②との繋がりを立証しなければならなくなる。

但し、その場合はこんな問題点が更に出る。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/14/211625

「弾丸ツアー報告-1、恵庭編…江戸期の物証的「空白期」、そして「アイノ文化を示す遺物は解らない」」…

火山灰降下による「江戸期内」での情報断然。

ついでに言えば…

中世に於いても問題点はある。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/09/124507

「浜尻屋貝塚の遺物を確認&下北半島の中世城館に石積みは?…再び下北半島を回れ!」…

「ウポポイ」らに貸し出しされている「燕尾型回頭銛頭」だが、データ上直結させる訳にはいかないだろう。

ここ「浜尻屋貝塚」には、「竈があり、文字(硯の出土)があり、茶を嗜む」事と、明確に中世を通して貝塚が形成されたのは「ここだけ」と言う事実。

つまり「浜尻屋貝塚」のデータを使うなら、竈,文字,茶道の受容を認めた事になる。

さて、その辺をどう考えているか?

まぁ新しい論文や文献も読んでみようではないか。

辻褄の合う説明がされているのだろう。

…なら、こんな風にはなっていないだろうが。

 

参考文献:

伊達市 有珠オヤコツ遺跡・ポンマ遺跡」 伊達市教育委員会 1993.3.31

北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?

さて、「九州・沖縄編」で日本国内を見てみたこの項、並べてみよう。

 

北海道…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/25/105821

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4…本命「北海道の中世墓」、だが何故か「長方形墓と楕円墓が併用」されている、そして…」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/08/130357

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがき…ならその「北海道の中世墓」事例を見てみよう」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/13/210344

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがきのあとがき…これって早い話、「金掘衆や場所の姿を投影しただけ」なのでは?」…

※…参考…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/10/195717

「ゴールドラッシュとキリシタン-34…最新キリシタン墓研究と「火山灰直下の墓」の共通点についての備忘録」…

 

東北…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/16/192421

「北海道中世史を東北から見るたたき台として…東北の中世墓の傾向や宗教北上の傾向を見てみよう」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/28/195142

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、東北編のあとがき…津軽側と南部側の差異を再確認」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/05/111841

「お陰様で㊗50000アクセス、なので地元ネタ…「十字型火葬墓」がある場所はどんなとこ?」…

 

北陸…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/20/195630

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−2…東北の延長線上で北陸の傾向を見てみよう」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/02/201220

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、北陸編のあとがき…ならば「方形型火葬墓」を並べてみよう」…

 

関東…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/26/195206

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−3…東北の延長線上で北関東の傾向を見てみよう」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/01/24/190914

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−7…南関東はどう?「関東編(2)」を確認」…

 

中部・東海…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/12/08/210411

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−6…信濃や伊勢はどうか?「中部・東海編」を確認」…

 

近畿…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/25/194855

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−8…本命?「近畿編(1)(2)」を確認」…

 

中国・四国…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/23/194835

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−5…折角だからの「四国編」」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/08/225208

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−9…懲りずに「中国編」」

 

九州・沖縄…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/15/205006

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−10…到達、これが最後の「九州・沖縄編」」…

 

そして、予備知識として…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/04/103246

「中世墓はどう捉えられているか?…「事典」で「山」たる基礎知識を学ぼう」…

 

以上…で終わったら、何をやってきたか?解らない。

なら、分別してみよう。

予め…

開始時点で書いた様に、カウントはある程度明確に土葬か?火葬か?記載ある「発掘事例数」の比較である。

百基検出しても発掘事例として1なら1でカウントしている。

何故ならば、

・屋敷墓の様に検出数が低い事例が、大規模墓域に潰されてしまう…

・大規模遺跡の場合は一度の発掘では終わらず、自ずと事例数が増えてくる…

こんな理由で代数的にカウントしているので、総数基準で表した場合とでは差は出てくるだろう。

筆者的には、まずは概ねの傾向を掴む事と、特異点的な墓制の抽出が最大の目的なので、代数で構わない訳だ。

これが今後の叩き台となれば良いのだ。

では、「土葬(発掘事例)率」として…

・9割以上…赤マーク

「東蝦夷地」、佐賀、長崎、沖縄

・9〜8割…黃マーク

「西蝦夷地」、愛媛、福岡、大分、熊本、宮崎、鹿児島

・8〜7割…緑マーク

「道南」、「南部」、岩手、山梨、香川、岡山、山口

・7〜6割…靑マーク

津軽」、三重、奈良、大阪、島根、広島

・6〜4割(殆どイーブン)…マーク無し

秋田、山形、新潟、富山、茨城、栃木、群馬、千葉、東京、神奈川、長野、岐阜、愛知、滋賀、京都、和歌山、兵庫、徳島、鳥取

・4割以下(火葬が強い)…紫マーク

宮城、福島、石川、福井、埼玉、静岡、高知

こんな感じである。

見難いのはご容赦を🙇

敢えて、途中で行った「北海道3分割」「青森二分割」はそのまま使ったが、旧国別で更に細分化すれば、若干の動きの差は出るかと思う。

見ての通り、最もカウント数が多いのが「ほぼイーブン」、京都以東の大都市圏がそれに当たり、北陸,関東から南東北掛けてが火葬が強く、徐々に京都から離れると土葬の比率が高くなっていく傾向は見れそうだ。

また、火葬が強い地域と一致しそうなのが

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/12/08/210411

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−6…信濃や伊勢はどうか?「中部・東海編」を確認」…

ここで書いた「T型火葬墓」の分布。

何故か南都奈良周辺の「長方形型」からの派生なのか、伝播過程で吸気穴が付くように変化した上で拡散,増殖した感じなのか?

火葬墓形態は、京都〜日本海側全体に掛けては不規則土坑に集石が目立つ。

何故そんな差が生まれたのかは解らないが、伝播媒体によるのだろうか?。

ただ、ここは言っても良いのではないだろうか…

「そんな変遷をしても、隣地域との繋がりはある」…だ。

特異点的な少数を除けば、いきなりドンと変化したり、墓制が極端に違っていると言う感じではない。

伝播媒体が徐々に伝えて、それが隣地域へ影響を及ぼし拡散した…こんな様は見える気がする。

要は「日本中繋がり無き地域は無い」とも言えそうだ。

比率の違いは、伝播速度の違いでもあるかも知れないし、比較的早めに伝播可能な日本海ルート側の火葬墓の形が似通うのも、そんな伝播媒体の差とも見えなくもない。

 

さて、この項で問題視した「方形配石火葬(荼毘)墓」にも触れねばなるまい。

北海道

余市町「大川遺跡」

伊達市「オヤコツ遺跡」

ここからアイノ文化の起点…こんな見解があるが、上記を見てどうだろう?

今迄各項で散々書いてきたが、

・元々は平安で既にある「方形配石墓」からの派生で、「方形配石墓」自体は配石の小型化や連続区割りら簡素化が起こり、中世末位には消えてゆく…

・特に、それまで他所で火葬(荼毘)後収骨→蔵骨器へ入れる→配石中央へ蔵骨器を納める→配石し五輪塔,宝篋印塔を建てる…こんなプロセスから配石利用し火葬(荼毘)を行う様になったのではないか…

・それは運用年代から鑑みて北陸の石道山,医王山,白山らの修験の手により始まり、運用され続けた…

・戦乱らの理由により、一部が地域脱出の上、他地域へ移動し伝播させたのではないか?…

・伝播過程では、京都(比叡山当山派),出羽三山ら大集団には定着せず、飛び越えた地域へ飛び、船での移動を考慮する必要があるだろう…

・北海道だけではなく、

松江市「下がり松遺跡」 室町後半…

東広島市「別所古墳群」14~15世紀…

鞍手町「山鹿城跡」 中世後期…

豊後高田市「ナシカ谷遺跡」14世紀…

と、西日本にも出現し、北海道と似た時代が想定されており、活動(又は回避移動等)は北だけでなく西へも行われている…

これらを鑑みれば、最早北海道固有でも、北方由来でもないのではないかと推定しても良いのではないだろうか。

再び敢えて問う。

吾妻鏡らに畿内から放逐された悪党の記述があり、それは新羅之記録上では渡党の祖と記述される

・中世、法華宗の日持や武田信広の北陸からの招聘も含め、僧が北海道へ渡った記述はあるのに、何故北方由来を語る必要があるのか?

・厚真では「修験の影響」を示唆している。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803

「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…

我が国固有の宗派であるのに、何故北方由来とするのか?

・特に「オヤコツ遺跡」の立地を見ると、

直ぐ北にあるのが「有珠善光寺」。

それに隣接する様にあるのは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718

「時系列上の矛盾&生き方ていた証、続報30…まだまだあった伊達市「有珠4遺跡」に広がる「はたけ跡」」…

畑跡だ。

畑跡はここから西へ、入江高砂貝塚→旧虻田町→森町方面へ駒ケ岳火山灰(Ko-d)直下で検出している。

これがアイノ文化とリンクするのか?

だから我々はこういう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/11/201720

「修験らの影響を加味した場合「消えた中世」はどうなるのか…現状迄の素案の一つとしての備忘録」…

そう、「オヤコツ遺跡」の方形配石火葬(荼毘)墓こそ、北陸の修験の移動や墓制伝播の証ではないのか?…と。

それは畠跡らで「極本州に近い文化で暮らしていたのではないか?」へ直結する。

そもそも論、「本州以南の実績との比較検討をやったのか?」だ。

北方ばかり見て、やってないのではないか?

現に「方形配石火葬(荼毘)墓」は国内に存在し、北方よりより近い時代にそれはあるのだ。

ド素人の我々が見つけられる物を、専門家が見つけられない訳はない。

つまり、恣意的に比較検討をしていない…そう言わざるを得ない。

 

また、「十字型火葬墓」に関しては秋田周辺の他には、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/02/201220

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、北陸編のあとがき…ならば「方形型火葬墓」を並べてみよう」…

上ノ国町「夷王山墳墓群」…

市原市「新地遺跡」…

近似として、

長岡京市長岡京右京区 西陣町遺跡」…

のみで、西日本では確認する事が出来なかった。

何らか古い形から変遷したのだろうか?

この「十字型火葬墓」については、秋田県内で「火葬施設→火葬+埋葬」の変遷が見られる。

つまり、「方形配石墓→方形配石火葬(荼毘)墓」の変遷が他の事例として有り得る事を裏付けるものとも言えないだろうか?

この辺は古代火葬墓の傾向を更に確認していこうとは考えている。

 

では、遺物…

まずは「垂飾」。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/15/205006

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−10…到達、これが最後の「九州・沖縄編」」…

京丹後市弥栄町「御殿口古墓」

」…

大和町「久池井一本松遺跡」 …

この2事例は記載を確認出来た。

「九州・沖縄編」でも書いたが、螺旋状を論ずる前に、「垂飾」そのものを論ずるべきではないだろうか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/10/180435

「真に守るべきものは?…東北史のお勉強タイム-5」…

ここで紹介した「切り紙」だが、特に高野山周辺で発達した様だ。

理由は「周辺で米があまり採れず、藁が潤沢でない」とか。

結界に使うべき「縄」が限られる為に、大陸発祥の「切り紙」を代替したところから発達したらしい。

これは邪推ではあるが北海道では、

・藁は無い…

・紙も製造技術伝播していない…

よって中世、潤沢に使える状況には無いだろう。

よって代替に鉄線を利用…

こんな考え方も出来るのではないだろうか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/28/080712

「時系列上の矛盾…ユカンボシC15遺跡出土の祭祀具等木工品は「本州産木材」」…

平安(擦文文化)期、不思議と祭祀具に持ち込まれた「ヒバ(アスナロ)、スギ」が使われている。

本州から持ち込まれた鉄線や鉄の母材を代替利用するなら、鍛冶は行われていたので「撚る事」は可能。

まぁ邪推はこの辺迄。

いずれ、螺旋状以前に「似た形状での垂飾」副葬事例はあると言う事だ。

 

また、「ガラス玉」も強調されているアイテムではある。

だが、北海道以外では「数珠」としてガラス玉が副葬されるケースは多々ある。

畿内の様に「木工技術」が確立された地域では木製の数珠玉もある。

九州周辺ではむしろ主流は「ガラス玉」「水晶玉」又はその混成。

北海道では、近世実績から「シトキ,タマサイ」と判断される様だが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/07/063354

「北海道弾丸ツアー第三段、「平取編」…「何故古い物の展示がないか?」には、明確な理由が理由がある!」…

中世迄遡る「伝世品」が皆無な中で、それを「シトキ,タマサイ」と断定可能な検証は行われているのか?

これが上記迄の「修験に関する」記述を読んで戴ければ、中世ならこんな話は成立するだろう。

「巫女の数珠」。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/09/051702

羽黒山鏡ヶ池に眠る「羽黒鏡」とは?…出羽三山信仰の核の一つを学ぶ」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134

「和鏡特別ミッションの続報…「国見廃寺」と俘囚長安倍氏、そして道具に対する解釈は?」…

和鏡も同様で説明可能。

 

さて、如何であろうか?

改めて、北海道…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/25/105821

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4…本命「北海道の中世墓」、だが何故か「長方形墓と楕円墓が併用」されている、そして…」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/08/130357

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがき…ならその「北海道の中世墓」事例を見てみよう」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/13/210344

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがきのあとがき…これって早い話、「金掘衆や場所の姿を投影しただけ」なのでは?」…

ついでに「チャシ・中世城館」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/21/204519

余市の石積みの源流候補としての備忘録-8…中世城館資料の北海道版「北海道のチャシ」に石垣はあるか?、そして…」…

今のところ、全国の中世墓を俯瞰してみた限り、明確な差があるか?と問われれば「見当たらない」としか答えようがない。

似た事例が有り過ぎるのだ。

それに、北海道の特殊事例と着目されるもの(遺物,遺構含め)は、何故か全体像の中の一部「特異点」をピックアップしている様にしか見えないのだ。

仮にそこが「文化の分岐点」とするなれば、「その後に事例は増える」のではないか?…現実にはそれが顕著に見えるケースは殆ど「無い」。

伝世品も伝承江戸末期位迄が限界で、中世との繋がりを立証出来るところまでは至らない。

「疑問」しか出ない。

まぁここはあくまでもスタートライン。

これから最新版でどの様に解釈されているか?らも見てみようではないか。

疑い深いだろうか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/19/204031

「建築系論文に見られる「時空のシャッフル」…「学術」と「観光」の区別はあるのか? ※追記有り」…

こんな事がまかり通るのだ。

疑い深くもなる。

仮に我々の主張の可能性が高まるなら、北海道研究の致命的欠陥は「日本全体との事例比較が甘過ぎる」事になるのだろう。

まぁ我々が気付く程度、先行論文があるハズだ。

無いとしたら…そっちが恐ろしい。

 

参考文献:

伊達市 有珠オヤコツ遺跡・ポンマ遺跡」 伊達市教育委員会  1993.3.31

北海道中世史を東北から見るたたき台として−10…到達、これが最後の「九州・沖縄編」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/08/225208

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−9…懲りずに「中国編」」

さて、北海道中世史を東北から見る基礎知識として我が国の全体像を見てみる中世墓確認ツアーも、ここ「九州・沖縄編 」で終焉を迎える。

早速見てみよう。

 

福岡県…

・遺跡総数

657

・土葬or火葬

土葬→308

火葬→79

・特徴ある副葬

古銭→23

ガラス玉(水晶,土玉含む)→7

鏡→21

鉄鍋→4

鉄釘→45

刀剣(刀子含む)→69

陶器,かわらけ→324

漆器→7

仏具(五輪塔,板碑含む)→21

・特徴ある墓制

周溝墓→9

鍋被り→0

石積塚→10

 

佐賀県

・遺跡総数

174

・土葬or火葬

土葬→106

火葬→15

・特徴ある副葬

古銭→9

ガラス玉(水晶,土玉含む)→4

鏡→5

鉄鍋→0

鉄釘→11

刀剣(刀子含む)→11

陶器,かわらけ→109

漆器→4

仏具(五輪塔,板碑含む)→10

・特徴ある墓制

周溝墓→15

鍋被り→0

石積塚→2

 

長崎県

・遺跡総数

12

・土葬or火葬

土葬→10

火葬→1

・特徴ある副葬

古銭→1

ガラス玉(水晶,土玉含む)→0

鏡→0

鉄鍋→0

鉄釘→3

刀剣(刀子含む)→1

陶器,かわらけ→11

漆器→0

仏具(五輪塔,板碑含む)→1

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→2

 

大分県

・遺跡総数

193

・土葬or火葬

土葬→72

火葬→16

・特徴ある副葬

古銭→7

ガラス玉(水晶,土玉含む)→7

鏡→13

鉄鍋→1

鉄釘→20

刀剣(刀子含む)→37

陶器,かわらけ→75

漆器→2

仏具(五輪塔,板碑含む)→6

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→2

 

熊本県

・遺跡総数

134

・土葬or火葬

土葬→77

火葬→16

・特徴ある副葬

古銭→2

ガラス玉(水晶,土玉含む)→2

鏡→3

鉄鍋→1

鉄釘→7

刀剣(刀子含む)→10

陶器,かわらけ→75

漆器→1

仏具(五輪塔,板碑含む)→7

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→2

 

宮崎県…

・遺跡総数

109

・土葬or火葬

土葬→38

火葬→7

・特徴ある副葬

古銭→15

ガラス玉(水晶,土玉含む)→4

鏡→4

鉄鍋→4

鉄釘→5

刀剣(刀子含む)→11

陶器,かわらけ→35

漆器→2

仏具(五輪塔,板碑含む)→4

・特徴ある墓制

周溝墓→3

鍋被り→0

石積塚→2

 

鹿児島県…

・遺跡総数

44

・土葬or火葬

土葬→17

火葬→7

・特徴ある副葬

古銭→5

ガラス玉(水晶,土玉含む)→2

鏡→1

鉄鍋→0

鉄釘→0

刀剣(刀子含む)→3

陶器,かわらけ→19

漆器→0

仏具(五輪塔,板碑含む)→0

・特徴ある墓制

周溝墓→3

鍋被り→0

石積塚→1

 

沖縄県

・遺跡総数

41

・土葬or火葬

土葬→29

火葬→1

・特徴ある副葬

古銭→0

ガラス玉(水晶,土玉含む)→2

鏡→1

鉄鍋→0

鉄釘→1

刀剣(刀子含む)→1

陶器,かわらけ→15

漆器→0

仏具(五輪塔,板碑含む)→1

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→6(但し岩陰墓への石積み追加を含む)

 

以上である。

では従来通りのテーマごとで。

 

A,土葬or火葬…

各県毎の比率は、

福岡…ほぼ80:20

佐賀…ほぼ90:10

長崎…ほぼ90:10

大分…ほぼ80:20

熊本…ほぼ85:15

宮崎…ほぼ85:15

鹿児島…ほぼ75:25

沖縄…殆ど土葬

となる。

九州一帯であまり大きな差は出ておらず、殆ど火葬墓が記載されない沖縄を除けば割と近似。

一応、沖縄の歴史はよく解らないが、火葬(?)事例を挙げておく。

浦添市浦添ようどれ」13後世紀?・15世紀~近代…

「墓の型式的な呼称はないが、掘込墓石の範疇と考える。岩盤を掘り込み、短い墓道を有する墓室を2基(英祖王陵と尚寧王陵)造り、石厨子(石棺)を置く。この墓室の奥には複室と言われるやや小さな墓室がさらにある。この墓の前面には付属施設と思われる大規模な石積みが大きく3段造られ、各々平坦面が形成される。その平坦面には13世紀後半および14~15世紀の瓦溜りや金属工房跡とされるとりべや銅滓や青銅剥片や銅製品が出土する地点がある。」

「石厨子は中国産輝緑岩製で、家形を模す。その台座には蓮弁、鹿・馬などの動物、棺身には阿弥陀如来地蔵菩薩の像容が彫刻される。屋根には、蓮弁(高麗系)、巴(大和系) 瓦などグスク・近世の瓦を模す。」

「墓室の石厨子は英祖王陵には3棺、尚寧王陵には4棺の石厨子(石棺)が ある。この石厨子の中には、焼骨および洗骨したものと思われるものなども納められている。浦添ようどれも、玉陵と同じく、伝承にある年代に現在の形で構築していたかは不明である。墓室前面に尚寧王代の万暦四年(1620) 碑文があり、そのころに修復したと書かれる。金属工房跡で見つかった銅製品は、木製厨子(木棺)の飾金具とされる。」

との事。

 

B,特徴ある副葬について…

気になった二点を紹介しよう。

・螺旋状?…

この上,右が螺旋状に巻いている様に見えた。

北九州市「椎木山遺跡」中世前~中・18世紀中…

折角なので左隣の円盤、下の玉ごと発掘調査報告書で確認しよう。

「5.鉄製品(第29図、図版第六一)

第Ⅲ地区の第40号墓から出土した副葬品である。28は錆が著しく、一部を欠損しているためその形状は明確ではないが、本来長辺10.5cm、短辺9.5cm、厚さ0.3cmを測る不整八角形の板状を呈するものと推定される。厚さはほぼ一様であ る。ほぼ中心にはタガネのようなもので一方から孔が穿たれ、そのために反対側は肥厚している。副葬時に布で被われていたらしく、一部に布目の痕跡がみられる。布目は孔を穿った面より反対側の面に多くみられ、しかも布が重なり合っているところから孔を穿った面を表とし、 余った布を裏で重ねたものと思われる。これは出土状態とも一致するところである。

29は28の上に乗った状態で出土したもので、28と同様錆が著しい。一部を欠損しているが復元は可能である。径3.5cm~4.5cmの小型の鉄輪を径7cm~8cmの大型の鉄輪に繋げたもので、大型の鉄輪は2個あり、それぞれに小型の鉄輪が7個及び8個繋がっている。さらにこの大型の鉄輪は互いに繋がっているものと思われる。また鉄輪はいずれも断面円形を呈し、径は0.4cm ~0.5cmを測る。いずれも用途は不明である。」

「6.玉(第29図、図版第六一)

第Ⅲ地区の第40号墓から鉄製品と伴出したものである。3個以上が出土したが風化が著しく原形を保っているのは1個だけであった。径約1.4cm の球形に近い形状を呈し、ほぼ中央部に径約2.5cmの孔が穿たれている。表面は研磨され、色調は灰白色を呈する。石材は長石が使用されている。」

以上で、同じ墓の副葬。

残念ながら螺旋状に巻いている訳ではなく、大きな環に小さな環を通して繋げている様だ。

仮にこの円盤が八稜鏡の破鏡を模した「儀鏡」であれば、環は「錫杖」、玉は「数珠」で説明がついてしまいそうだが。

因みにこの「第40号墓」、こんな風なのだ。

火葬を別で行い方形配石内の小穴に火葬骨を収めた「方形配石火葬墓」で、周辺は集石,配石を行った46基の中世火葬墓群で、火葬骨は蔵骨器,小石室,小穴らに納められている。

残念ながらビンゴとはならない。

・垂飾

また、九州では「数珠」だけでなく「ガラス玉,水晶玉」の材質記載も多く見受けられる。

そんな中、「垂飾」の記述がある。

これも早速、発掘調査報告書を。

佐賀県大和町「久池井一本松遺跡」 9中~10中世紀…

「(4) 玉類(Fig. 194)

SP33土壙墓から一対の水晶製垂飾165.

166が出土した。いわゆる流滴形で,長さは1.2 cm,上端に両側から径1mmの孔を穿けている。透明であるが、火熱を受けた為か、2点ともひび割れが進んでいる。」

この「久池井一本松遺跡」は、古墳期〜中世で造営された古墳群,墳墓群「礫石遺跡」群の中の一つ。

古墳期から古墳造営され出し、一度8世紀位に縮小、9〜10世紀位にバタバタ木棺墓や土坑墓が増え出している。

火葬に纏わると思われるのはこのSP33のみで、周囲に対しては特異点

記述もここまでで、詳細等に言及はなかった。

さて…

「垂飾」についての記述は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/25/194855

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−8…本命?「近畿編(1)(2)」を確認」…

京都に続き2例目。

ふと気が付いたのだが…

そもそも、北海道「美々4遺跡」の「垂飾」も流滴形。他の事例は「石質」なので螺旋状にはならないのは当然。

螺旋状に拘る必要があるのか?

何故ならば、茄子型や流滴形を金属で簡易的に作るならどうするか?

貴金属にすれ鉄線にすれ、単にクルクル巻いて上下から潰せば簡単に作る事が可能だからだ。

この垂飾をわざわざ「螺旋状,コイル状」とカテゴライズする必要があるのだろうか?…だ。

何故、そんな事を考えたのか?

・用途不明である。

・北海道一連の副葬である「ガラス玉」「和鏡」も北海道で作られた訳ではなく、その双方とも本州以西で出土実績がある。

この二点から。

装飾品の「チェーン」の製作工程をググってみると、

①金属線を棒らにコイル状に「巻く」

②金ノコらで縦に切る

③環状にバラけた物を繋げていく

これが一般的な様だ。

巻く工程は入る模様。

さすがに鉄線を金ノコで切るのは大変だろう。

が、加工母材が鉄線しか無ければ、鎖状にするだろうか?

素朴な疑問。

とりあえず、「垂飾」の用途や意義がまだ解っていないので、その辺はおいおい確認してみるとする。

 

C,周溝を含めた墓制変遷…

D,集石塚について…

さて、上記「椎木山遺跡」の様に、「火葬(荼毘)を行わず、埋葬のみ行う方形配石火葬墓」は今迄もあちこちにあった。

概ね、

①他の火葬施設で火葬して収骨

②蔵骨器へ納められる

③方形配石の基壇に蔵骨器を納めて上から集石

④基壇中央に五輪塔,宝篋印塔らを建てる

こんなプロセス。

北海道余市町「大川遺跡」と伊達市「オヤコツ遺跡」の各一事例、そして北陸では、方形配石内で火葬(荼毘)…被熱痕と火葬骨検出…ここが違いだと言うのは概報。

では九州は?

実は「有る」様だ。

二点報告する。

・福岡県鞍手町「山鹿城跡」 中世後期…

「山鹿城跡内に造営された墓地で、五輪塔・宝篋印塔を墓標とする火葬墓が残る。調査区内から石囲いした区画墓内に墓標を設置。9基の墓が確認されている。」

ウィキではあるが…

「天慶年間鎮西奉行となった藤原秀郷の弟・藤原藤次により、築城された。藤次は姓を山鹿に改め、山鹿氏は当城を代々の居城とした。寿永2年(1183年)の平家の都落ちの際には、安徳天皇をはじめ平氏一門を山鹿秀遠が当地に迎えた。秀遠は平氏とともに敗れ、当城も鎌倉幕府に没収された。鎌倉時代には宇都宮家政に山鹿氏の旧領が与えられ、以後は山鹿姓を名乗った。室町時代には庶流の麻生氏花尾城で権勢を伸ばし、本家の山鹿氏も支配下に入った。やがて大内氏が北九州方面に進出すると、麻生氏とともに麾下に組み込まれた。戦国時代には麻生氏の出城となり、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐後は廃城となった。」…

と、あるので「麻生氏」の墓になるのか?

実はアッとなったのは、そこではない。

この城の三ノ丸、現在「白山神社」なのだそうだ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/20/195630

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−2…東北の延長線上で北陸の傾向を見てみよう」…

発祥は北陸は白山。

勿論、現状はここまで。

さて、北陸と繋がるだろうか?

確認続行である。

豊後高田市「ナシカ谷遺跡」14世紀…

「12×5mの範囲に集石が認められるが、3群が連結した形態を持つことが観察される。この集石下には4基の墓が確認されている。1・4号墓器は石積みによる方形の石室状遺構が確認でき、一方、2・3号墓は素掘りの土壙状を呈する。2・3・4号墓からは、被熱痕跡や焼土・炭化物

が確認されている。」

「1号墓(短刀1点・土師質土器片)、2号墓(鉄釘33点・土師質土器片・ 瓦器碗)、3号墓(土師質土小皿3点・土師質土器坏3点・瓦器椀1点、4号墓(土師質土器小皿7点・土師質土器坏4点・短刀1点・鉄釘)」

特に4号墓はピタリ合致、それも鉄釘が検出されるとなると、木棺に入れてから火葬(荼毘)したのだろう。

この国東半島そのものが「六郷満山信仰」の地で、山を挟む杵築では磨崖仏が有名な修験の山。

納得である。

少なくとも「ナシカ谷遺跡」はビンゴだろう。

他にも幾つか確認したい遺跡はある。

北海道以外にも、火葬(荼毘)を伴う方形配石火葬墓はあり、修験に関わりを持つと思われる地にそれはありそうだ。

なら、北海道は?

 

E,十字型火葬墓について…

残念ながら十字型を成すものは見当たらない。

 

F,鍋被り墓について…

残念ながら中世では見当たらず。

西には今のところ無し。

 

さて、如何だろうか?

国内全体像や特異点として取り上げた内容に関してはもう一項書いてみたいと思う。

あくまでもここが今後の資料館巡りや種々確認の基礎知識となる。

つまり、スタートラインに過ぎない。

これからである。

 

参考文献∶

「中世墓資料集成−九州・沖縄編(1)−」 中世墓資料集成研究会 2004.10月

「中世墓資料集成−九州・沖縄編(2)−」 中世墓資料集成研究会 2004.10月

「椎木山遺跡-若松区大字蜑住字椎木山所在火葬墓群の調査-」 北九州市教育委員会  1977.3.31

「礫石遺跡-九州横断自動車道関連埋蔵文化財発掘調査報告書(9)-」  佐賀県教育庁文化課  1989.3月

北海道中世史を東北から見るたたき台として−9…懲りずに「中国編」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/25/194855

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−8…本命?「近畿編(1)(2)」を確認」…

さて、サクサク続けて行こう。

次は「中国編」。

 

鳥取県

・遺跡総数

94

・土葬or火葬

土葬→42

火葬→27 

・特徴ある副葬

古銭→23

ガラス玉(水晶,土玉含む)→3

鏡→5

鉄鍋→4

鉄釘→23

刀剣(刀子含む)→17

陶器,かわらけ→34

漆器→8

仏具(五輪塔,板碑含む)→19

・特徴ある墓制

周溝墓→7

鍋被り→0

石積塚→5

 

島根県

・遺跡総数

40

・土葬or火葬

土葬→22

火葬→13

・特徴ある副葬

古銭→13

ガラス玉(水晶,土玉含む)→4

鏡→3

鉄鍋→1

鉄釘→6

刀剣(刀子含む)→6

陶器,かわらけ→22

漆器→0

仏具(五輪塔,板碑含む)→10

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→2

 

岡山県

・遺跡総数

76

・土葬or火葬

土葬→40

火葬→17

・特徴ある副葬

古銭→11

ガラス玉(水晶,土玉含む)→3

鏡→4

鉄鍋→6

鉄釘→22

刀剣(刀子含む)→22

陶器,かわらけ→43

漆器→6

仏具(五輪塔,板碑含む)→10

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→0

 

広島県

・遺跡総数

225

・土葬or火葬

土葬→42

火葬→21

・特徴ある副葬

古銭→13

ガラス玉(水晶,土玉含む)→3

鏡→3

鉄鍋→3

鉄釘→21

刀剣(刀子含む)→19

陶器,かわらけ→43

漆器→5

仏具(五輪塔,板碑含む)→15

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→21

 

山口県

・遺跡総数

124

・土葬or火葬

土葬→60

火葬→18

・特徴ある副葬

古銭→13

ガラス玉(水晶,土玉含む)→3

鏡→3

鉄鍋→2

鉄釘→21

刀剣(刀子含む)→21

陶器,かわらけ→54

漆器→10

仏具(五輪塔,板碑含む)→14

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→5

 

以上である。

では何時も通り…

A,土葬or火葬…

各県毎の比率は、

鳥取…60:40

島根…65:35

岡山…70:30

広島…ほぼ65:35

山口…ほぼ75:25

となる。

これは、「陸路繋がりで都から離れると土層比率が高い」法則(?)発動であろうか?

 

B,特徴ある副葬について…

あまり目立つと思われる物は見当たらないが山口に至り、銅碗(又は似た形状)の物が登場する。

山口市瑠璃光寺跡遺跡」15~16前世紀の「銅製紅皿」、防府市「下右田遺跡」室町期の「金銅製碗」。

瑠璃光寺跡遺跡」は山口県下最も大規模な中世墓域とあり、土葬,火葬双方あり、それこそ「ガラス玉,水晶玉」「錫杖」らも検出している。

周辺の墓相変遷が見える貴重な遺跡とある。

 

C,周溝を含めた墓制変遷…

D,集石塚について…

幾つか特徴的な物があるので纏めて。

方形配石火葬墓が北陸以西で見つかった。

松江市「下がり松遺跡」 室町後半…

「基壇状遺構1基。火葬墓3基。火葬 墓は基壇上から2基、基壇から少し離れた場所で1基を検出。いずれも荼毘跡と考えられる。」

「(筆者註:副葬等は)土師質土器片。五輪塔残欠、瓦等。 瓦には 「□永十□□戌甲七月口」の 紀年銘がある。」

また、それらしいものとしては、

東広島市「別所古墳群」14~15世紀…

「集石遺構7基。うち、3期(筆者註:3基の間違い?)に土壙墓が伴う。また、集石遺構のうち2基から火葬骨が検出され、火葬墓が確認されている。また、集石に混ざり、五輪塔・宝篋印塔の残欠、石仏が検出されている。」

「土師質土器坏・皿、鍋片、羽釜、火鉢片、亀山焼系甕片,備前焼擂鉢片」

収骨有無に言及していないので「それらしい」とした。

とりあえず、西日本にも「方形配石火葬墓」は飛び石的に伝播している様だ。

とは言え、鳥取,島根や特に広島は方形配石を伴う墓自体は多く、その多くは通常の「蔵骨器を伴う方形配石墓」。

上記の様にハッキリ荼毘墓、それらしいものらの年代は解る限りでは14世紀〜室町後期。

さすがに北陸の事例迄は遡るのは難しい様だ。

となれば、その事例の多さも含めると「北陸由来」の蓋然性が高そうである。

また、鳥取の「周溝を伴うもの」と広島の「集石塚」に近いものを2例紹介しよう。

鳥取市「大熊段遺跡」15~16世紀…

「土坑墓4基、墳丘・周溝を伴うもの 1基 (荼毘墓)、周溝を伴うもの1 基(土葬墓)の合計6基。」

「1号墓:焼骨、釘、土師器皿1点、2号墓:骨、釘、土師器皿2点、銭貨12点(繊維で包む)、3号墓:土師器皿2点、4号墓:骨、土師器皿、銭貨6点(竹籠入り)、5号墓:白 磁、土師器皿、6号墓: 夾紵製容器の漆片、銅製座金具、刀子」

広島県高田町「山手1・4号古墓」中~近世…

「基壇状遺構2基。いずれも基壇下から土壙墓を検出し、うち1基は火葬墓の可能性がある。1号墓は五輪塔が基壇上に置かれ、4号墓は墓標の大礫が置かれていた。」

「土師質土器皿・釜片、青磁碗片、五 輪塔残欠。」

鳥取には、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/05/111841

「お陰様で㊗50000アクセス、なので地元ネタ…「十字型火葬墓」がある場所はどんなとこ?」…

「磐若台遺跡」の様な「日の字」の様な周溝も検出する模様。

 

E,十字型火葬墓について…

残念ながら十字型を成すものは見当たらない。

主な火葬墓の形は方形又は円形,不定形の土坑+上に集石…が多い様で、T字型やI字型も中国地方には見当たらない。

これも広域ではあるが、地域性か?。

又は宗派の影響だろうか?

 

F,鍋被り墓について…

残念ながら中世では見当たらず。

西には今のところ無し。

 

以上の通りである。

とりあえず、方形配石火葬墓の実績には辿り着く。

残るは九州,沖縄。

土葬:火葬比率はどうか?

方形配石火葬墓や十字型火葬墓に辿り着けるか?

Coming Soon…

 

参考文献∶

 

「中世墓資料集成−中国編−」 中世墓資料集成研究会 2005.3月