弾丸ツアー報告-2、江別編…まんまやん

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/14/211625
報告第二弾は、最北の末期古墳群が残される地、江別。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/29/105815
今迄も再三江別,恵庭の古墳群は取り上げ、この古墳群からの遺構,遺物で、本州との繋がりが立証されてきたのは事実だろう。
先の恵庭で「古墳群」が見たいと話たが、ご担当からは古墳の形で現存しないとの事なので、是非江別では…と考えていた。
では…



おっと…
三枚目は江釣子古墳群。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/05/171231
勿論、覆土で保存してるので(江釣子は石室を持ち、江別は主体部が土饅頭と土坑)、それを比較してもあまり意味はないが…大きさや形がまんまやん。
写真をシャッフルして見分けがつくのか?…難しいと思う。
むしろ、石室を持たない点や周溝が厳密には円でなくC字型である点らは秋田の蝦夷塚古墳群らにそっくりと言えるんだろう。
何故かこの周溝、古墳だけではなく、青森は浪岡の高屋敷遺跡の住居らを囲う周溝でも出入口?の如く空きがある。
不思議なのだ。
先に、江別市郷土資料館訪問、事前に蕨手刀らを見学しているので、やはりまんまやん。
前項に書いた事が現実化した。
遺跡で大笑い。
そりゃ北海道式古墳と銘打っても、これだけ似通えば「まんまやん」としか言葉は出ない。
学術的には細かい差異はあるだろう。
が、同じ系統と言ってしまえばその差異とて系列上の分派で説明出来てしまう。
ここは、野幌丘陵上で且つ旧豊平川(現状三日月湖)への断崖に近い。
江別の主だった遺跡は野幌丘陵に点在するが、この辺にはまだ発見されていない古墳群があるのでは?と、妄想させられる。
周辺が墓域なら有ってもおかしくないであろうから。
これら古墳群の研究の延長線上にあるのがこれ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323
擦文土器は、陸奥の土師器集団の移住により出来上がる…まんまだろう。
朝廷との関連も須恵器で十分説明可能。
何故ならば?、改めて引用しよう。

「須恵器
本州で作られた焼き締めの器(せっ器)。窯で焼かれるので、土器より硬質で灰色なのが特徴。須恵器の窯は北海道内では発見されていない。最北の窯は青森県五所川原市にあり、北海道で発見される須恵器のほとんどは五所川原産と考えられる。大麻3遺跡では、現在の大阪堺市で日本で最初に作られた頃のものと考えられる破片が発見されている。」

「江別ガイドブックシリーズⅴ 江別の遺跡をめぐる」 江別市教育委員会 2010.3 より引用…

続縄文期且つ堺の須恵器窯で焼かれたもの。
まだ秋田城も五所川原も須恵器窯なぞ無い時代だ。
それが飛び地的に東北をすっ飛ばして江別,恵庭に検出されているのだから、言う事もなかろう。
残念ながら、上記「大麻3遺跡」の須恵器、資料館で確認したが、「解らない」との事だった。
考古学や歴史系のご専行ではないのだろう。
一応、宿題にはしてきたが…


敢えてここに付記しよう。
二箇所の資料館で「アイノ文化の特異性」を強調されたが、筆者はそれにこう答えた。
「全く逆に共通性が非常に目についた」と。
目を丸くされたが、漆塗、古墳、蕨手刀、勾玉、御幣、刺し子、間切包丁と拵に施した彫刻etc…見慣れたもんばかり。
何が特異なのか?
現に江別古墳群で大笑いした自分が発した言葉は、「まんまやん」。
それしか言葉が出なかった。
これで、前項で恵庭でお聞きした言葉の意味が解るだろう。
「何をもって擦文→アイノとするかは、諸説あり固まってはいない」
この特異性が登場するのは、江戸期の絵図やらからしかない。
が、そこに至る前には「空白」があり、その直前のTa-aら被覆前の遺物は本州由来のものが殆どで、明確な差異なぞ立証出来ない。

北海道の方でも歴史戦と口にする方は居る。
筆者は江別古墳群に立つ事が出来た。
敢えて書く。
北海道史に疑問を持つなら…
江釣子古墳群」を見てみるべき。
「秋田城」を見てみるべき。
「十三湊」を見てみるべき。
双方見て比較すれば納得出来る。
机上の空論より、縁ある地に立って見るのが解り易い。
何故なら現地研究者を含めて「特異性」ばかりに囚われているから。
これは、双方を感じたから言える事だ。








参考文献:

「江別ガイドブックシリーズⅴ 江別の遺跡をめぐる」 江別市教育委員会 2010.3

弾丸ツアー報告-1、恵庭編…江戸期の物証的「空白期」、そして「アイノ文化を示す遺物は解らない」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/29/105815
筆者は先に北海道弾丸勉強ツアーを敢行した。
その時の報告をしていこうと思う。
テーマは前項にあるように、擦文と古墳群とは?、そして、余市茂入山の石垣を探せ…である。
移動時間が全く読めないので、近辺にあるキウス周堤墓群やカリンバ遺跡ら全てカットし、現場の地形,空気や資料館での質問に時間を費やすと言うピンポイント砲撃。

何回かに分けて書いていくが、まずは「恵庭」から。
従来から我々が気にしている点を、現地の研究者がどう見ているか?、そんな視点でこの項は進めてみたい。
まずは前提条件。
恵庭市郷土資料館の認識を先に。
資料館パネルより引用…
「考古学では7~12世紀頃を擦文文化、19~18世紀頃をアイヌ文化と呼んでいます。ですが、擦文文化からアイヌ文化にある日突然変わったわけでも、人種が変わったわけでもありません。アイヌ文化は擦文文化がオホーツク文化や本州の影響を受けて徐々に変化したもので、家は竪穴住居から平地住居へ、調理器具は土器から鉄鍋へと変わっていきました。」
擦文文化期とアイノ文化期の違いに対する認識は、これが前提で展示されていると言う事であろう。
では2点について報告する。


①江戸期の火山灰の処理と擦文文化,アイノ文化に対する認識…

いきなり核心をぶつけてみる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/19/203842
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/16/185453
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/04/192347
今迄も火山灰の壁について報告している。
北海道の祖先達は生き延びる事が出来たのか?…これに伴う疑問をどう見るか?だ。
それら火山灰層までは、試掘後には「重機でよせる」と発掘調査報告書には記載される。
だが、アイノ文化の生活痕がそこに出てこないとおかしいのだ。
そこは今迄も報告してきた。
ではなんでそんな事が出来るのか?をストレートにぶつけた。
答えは?…
現実問題として、開拓段階らで、表土層は殆ど撹乱され、遺構遺物の検出そのものが難しいのだそうだ。
展示パネルより…


恵庭に於いては、1667年の樽前山-b火山灰(Ta-b)は有っても局部的に被覆,多くは土層にパラパラ交じる程度だが、1739年の樽前山-a火山灰(Ta-a)はパネルの通り概ね古い土層を被覆している。
早い話、発掘時は、この「火山灰被覆がある→その下層は撹乱されていない」を前提としているとの事。
火山灰より上は「混ぜられ破壊されている」と言う考え方だ。
???
お気づきだろうか?
つまり、恵庭では「1739年以降の遺構,遺物は破壊されている」…と、見なしているのだ。
これに合わせ展示されている「アイノ文化の展示物に古い物かない」事を絡めてみた。
ここでは「ムックリ」も展示されている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/27/202733
概報だが、ムックリは「樺太」のもの。
学芸員さんは、これを熟知、楽器類は樺太アイノのものと知っており、その上で寄贈者からのコレクションとして同時展示しているとの回答。
そう、資料館側は本道には楽器が無かった事を知っている。
その上で、「考古学的には樽前山-a以降は空白期であり、検討に当たりその後は絵図ら古文書で担保するしかない」…との事だ。
アイノ文化期における古い展示が無い理由は、「考古学的に検出不能で、無い又は解らない」と言う事。
これは他地域でも共通なのだろう。
ここでもう一つ。
恵庭の場合は1739年の火山灰。
他地域では1664年の場合もあり得る。
ここで約100年のギャップがある。
絵図が残され始めるのは幕末の直轄化らの時代で1800年前後。
三国通覧図説(これは図有り)や赤蝦夷風説考が書かれたのが1700年代中〜後半。
そこまでは空白になり、明治以降の物がそれぞれ寄贈され展示。
虫食い状態が実態だそうで。
因みに、マキリ…いや、間切包丁が酒田打なのはご存知なかったので林子平の三国通覧図説にあると指摘してきた。
そして、火山灰降灰前の各遺物が何処まで遡るかも不明。
中世遺構は殆どないのも当然熟知(厚真が注目されていると)。
折角だから、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/09/191537
大丈夫なのか?と尋ねると、非常に精密に発掘はしているが、元々北海道は土砂堆積が少なく数千年が数十㌢で、編年指標も乏しい為に発掘はかなり苦労されているとの事だ。
年代特定も炭化物の放射性炭素(Ç14)測定とそれと共伴の遺物らで組立てるしかない事もあると。
その上で、現実としては、年代特定も本州移入品だらけな事も合わせて、「何の遺物を持って『アイノ文化の確実な指標』とするかは、諸説有りで固まってはいない」とお答え戴いた。
現実的には、中世以降の事は指標が確実な指標が無さ過ぎて、明確な文化移行がどうかすら解らないのだ。
擦文迄はある程度確定に近い事は解る。
前項の通り。
最低でも、「中世の空白」「江戸中〜後期期の空白」は埋めるに至らず、前後の時代を無条件にくっつけざるを得ないと言う事なのである。
本当に、幕末の絵図同様だったのか?は未知数。
勿論、専門家はそれらは熟知。
当然、我々アマチュアもそれは熟知しておかなければならない。
だが、巷のSNSらでは知ってる素振りはまるでなし。
敢えて言おう…「勉強不足」。
大体、我々以外にSNS上で「中世は空白」と言う話をあまり聞かない。
飛び交うのはコシャマインが〜等…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/13/210459
アホか?
歴史戦やりたいなら真面目に学べ。
専門家はこれを知っている。

②銅椀の存在…

恵庭でも銅椀が出土していた。
これは筆者は認識していなかった。
勿論、グループ内で「佐波理の銅椀」の話が出たからこそ、学んでいるのだが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/22/201652
勿論、資料館の方の説明は「裕福な土豪の交易品」と推定するので、ぶつけてみた。
修験者の六器では?と。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/15/193225
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535
同じ平安(擦文)期、野辺地や千歳では錫杖が検出し、修験者が来道してもおかしくはなく、且つその次第の銅器の価格が高位貴族しか持てる様なものではない事からだ。
さすがに、その点についての話は知らなかった様で、明確に回答は戴けなかった。


以下の通り。
A、
江戸初期の火山灰降灰以降の土壌は撹乱,破壊されていると見なされているので重機で取り去る。
B、
A、より、江戸中〜後期にも遺構,遺物に空白は存在する。
故に絵図らで補完しているに過ぎず、現物は存在しない。ハッキリ言って解らないが現状。
C、
アイノ文化を象徴する物としての現物は諸説あり。理由は本州を中心とした移入品ばかりだから。
勿論、ムックリら楽器は、樺太の物。
そして、B、の空白が存在するために、何時から使われてるらは不明。
D、
銅椀の検出理由は交易品と推定しているが、明確には解らない。

まぁ30分位時間を戴き、質問をさせていただいた結果はこんな感じ。
結構解らない事だらけなのだ。
それは当然。
「空白」があるから。
真摯な対応戴き、恵庭市郷土資料館のご担当者には、この場を借りて改めて深謝したい。
ありがとうございました。

ちゃんと質問すれば、ちゃんと回答は戴ける。
割と我々が学んだ事や謎としている事とズレはない。
当然の事。
教育委員会発行の文献をメインに学んでるから。
その上で矛盾を質問すれば「謎」と回答されるのは当たり前なのだ。

以上、報告第一弾。

「錬金術」が「科学」に変わった日−5…中南米で行われた水銀アマルガム法とはどんなものか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/31/195723
さて、再三出てくるメキシコの銀精錬は「水銀アマルガム」であると…
徳川家康伊達政宗が欲しがったのがこの技術。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/17/162536
しかし、後に紐解こうと思う「デ・レ・メタリカ」も鉛による灰吹法のようだ。
少々フライングであるが、それらのゴツい研究書の前に、予習をしよう。
青木康征著「南米ポトシ銀山」と言う著書がある。
基本この著書は鉱山技術と言うよりむしろ、当時のスペイン,ポルトガルの状況やチリにあった「ポトシ銀山」の経営方法、強制労働と捉えられがちな「ミタ労働」らの鉱山労働の背景がメイン。
なので、あまり技術面には触れてはいないが概要は記されるので、スペイン,ポルトガルのやり方もサラリと学ぶには良いだろう。

では、まず筆者が欲しかった「アマルガム精錬法」とは?、ここから学んでみよう。

まずはポトシ銀山とは?
南米はチリの標高4000mを超すアンデスの高原にあり、ポトシ山そのものは800m位。
が、元がそんな高原なので特異性はある。
当然ながら、アステカやインカを征服した後にこの辺にも進出した事になる。
発見は1545年、現地インディオの「グアルバ」と言う人。
発見経緯は諸説あるが、いずれにしてグアルバが密かに山で産銀し、突然羽振りが良くなった事から仲間に問い詰められ、話してしまった事からスペイン人にバレて、話が広まったと。
そこから、スペイン人もインディオポトシ銀山周辺へ移り住み、あっという間に20000~25000人の鉱山町に発展し、時のスペイン王フェリペ2世から「帝国町ポトシ」の称号が授けられてからは、最大16万人位にまで膨れ上がった様で。
因みに1610年頃の人口は、
マドリッド…15万5千人
セピリア…18万人
ミラノ…29万人
ロンドン…22万5千人
江戸…約15万人
大坂…約20万人
京…約3~40万人
※日本の人口はバテレン推定
だそうで。
日本の人口で驚くかも知れないが、我が国はこの辺で既に大名の居城中心に都市化が進んでいた。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/22/195207
一連、これらを読んだが、スペイン,ポルトガルが日本を攻める事が出来なかったのは、仮に九州の都市を攻めたとしても、隣の都市から援軍が来るのは目に見えている。
ましてや戦国乱世の生き残り。
凶暴だったのはそちらの通り。
なまじ敵対すればフィリピンが危機に訪れるは必至。
出来ようハズもない。

さて、ポトシ銀山町が形成されたが、いきなり水銀アマルガムを始めた訳ではない。
現地インディオは元々インカの末裔で、金銀銅を知っていた。
採銀と精錬はインディオが担う。
スペイン人は?採掘権を得て、人を集め坐す。
と言うより、欧州的な手法では歯が立たなかった模様。
前項らで説明の一度目の焼成工程(鉱石を焼き酸化させ硫黄を抜き「焼鉱」を作る)で、フイゴを使っても全く上手くいかなかった様だ。

インディオはインカ伝来の「グアイラ(風炉)」と言う、あちこち穴の空いた土器製の炉を使ったと言う。
移動式も固定式もあり、移動式で径40cm×高さ100cm位らしい。
で、
①底に石炭を敷く。
②上に鉱石を載せる。
③風が強く吹く場所に山上や斜面に設置。
④燃やす。(夜にはグアイラの明かりが林立)
⑤燃え切り、残った銀を尺八の様な物で不純物を吹き飛ばし、精錬。
以上、インカ式酸化精錬法。
著者の青木氏は、標高の為?鉱石の性質?と推定するが、ハッキリは解らない。
採掘権者はこうやって取り出した銀の1/5を税として、品位鑑定等経費1%を支払った様で。
ただ、かなりの量が闇に消え、どの程度産銀していたかは不明らしい。
税からの量,額は解るが、横流し横行で正確な分は「解らない」。
まぁ現地副王から許可された鉱山主が、採掘権者に権利を貸出し、駆り出されたインディオが掘り精錬をする。
発見当初は、銀品位が高いが、割に合わなくなると鉱夫たるインディオが居なくなるので余計に人不足を起こして衰退していく。
この打開の為に、メキシコで開発された水銀アマルガム法を導入した…となる。


では、詳細は別書でも確認を並行していくが、まずは簡単な手法を。

①鉱石をハンマーで砕く。
②水車を回し、鉄先を付けた杵で鉱石を粉砕する。
③粉砕した鉱石を篩にかける。
④容器に移し、鉱石に塩水と水銀を加える。
⑤泥状になるまでよく撹拌(アマルガム生成)する。
⑥流水で泥を流し沈殿物抽出。
⑦抽出物を布で包み、水分を取る。
⑧加熱し水銀を飛ばし、銀を分離。
以上。

ここでの特徴。
キモ…
・粉砕,選鉱する事で低品位の鉱石が使える。
・常温でアマルガム生成すれば燃料不要。
・非熟練者でも作業可能。
問題…
・水銀が安価で入手可能か?。
・粉塵や蒸気水銀の健康被害
アマルガム生成に2~3週間要す。

実は、品位が低下してきた時に、それまでは廃棄物として山と積まれた鉱石がかなりストックされていたそうで、それを精錬する事で打開しようとした様だ。
この技術はメキシコ「パチュカ銀山」でスペイン人パルトロメ・デ・メディーナが1555年に完成させている。
グアイラより精錬精度が高く、標高が高くても高温を必要とはしない…これはメリットが大きい。
反して、水銀の入手の必要と、日数が掛かると言うデメリットが発生する。

さて、デメリットに対する策は?
・水銀鉱山開発
メキシコの「パチュカ銀山」の水銀は、スペインの「アマルデン水銀鉱山」から供給したとの事。
メキシコでの成功を元にスペインより中南米での水銀鉱山開発の話が出ていた。
そこへアマルデン水銀鉱山で火災事故発生で水銀生産が麻痺し、開発の必然的になる。
ここでペルー「ウアンカベリカ水銀鉱山」が発見される。
これ、割と簡単だったのかも知れない。
当時首都リマのインディオ女性の間で、頬に紅をさす事が流行していたそうで。
インカ一地方の風習で、戦地に赴く男は顔を赤く染め、王家の女性は祭の時に、目元から額に赤線を引いたと。
探索技師はそんな紅を見て、一発で解ったそうで…「辰砂」だと。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/17/162536
以上でスペイン,チリ共に水銀の安定供給が可能となったと。

アマルガム反応時間短縮
これは後の鉱山技師の研究によるものらしい。
アマルガム精錬⑤の工程で、
1.鉄粉を加える。
2.釜で低温加熱する。
この後の工程改善で、
水銀の量は1/10になり、反応そのものが4~5日で可能となった様だ。
ここ迄が、概ね1580年代で完成に至り、これが19世紀に「シアン化法」が開発されるまで、中南米での銀精錬の主流として続けられた。
敢えて続ければ…
やはり、周囲の木々が切られ、燃やされ、環境負荷は上がった様だ。


ここまでが大体の工程。
各部材の量らは、ここにはない。
後に、佐渡でこの方法が試された話はあるので、そちらの文献にあるか?確認していく。
鉱石を粉砕したり選鉱する辺りは、院内や阿仁、尾去沢らと技術的には変わらない。
また、水銀アマルガムを取り出すのに紙を使ったりするところは、奈良の大仏建立らの記事と似たような感じではある。
正直、酸化鉄を添加&加熱以外の部分では、あまり変わってはいない様だ。
我が国であまり進まなかったのは、水銀の調達であろうか?
その辺はおいおい、専門書で。

技術論以外は、敢えて割愛する。
実際、巷では過酷な労働や強制労働的な部分がクローズアップされているが、どうも微妙に違うところがある。
この辺は、我が国における鉱山やキリシタンの話で過酷な部分がことに強調されるのと同様な気もする。
例えば…
スペイン王が命令してやらせた、と言うよりは「バチカンに裏打ちさせた上で、渡航や採掘を「承認」する立場」で、渡航者のリスクが大きい…
中南米インディオは、基本的には市民権を持っていた…
・メキシコでは基本的に自己選択で就職した形…
・強制とされる「ミタ労働」も、宣教師の反対らで極一部対象に限定されるし、通貨で租税すれば逃れる事は可能(最大半数がその手で鉱山へは行かなかった)。
・当時の周辺の人口減少と鉱山での事故や過労,健康被害らに明確な因果関係が立証出来ない。むしろ、感染症まん延や割の良い場所への移住のインパクトが無視出来ない。
etc…
なかなか人を集められない副王は、インディアス審議院宛でこう嘆いたという。

「貴方方は、勘違いをしている。
インディオは怠け者で、働くくらいなら餓死を選ぶ。
エスパーニャは誇り高く、ツルハシを持つくらいなら餓死を選ぶ。
アフリカ奴隷は、高地と寒さで役には立たない。」

なかなかである。
興味が出た方は、それぞれ学んで戴きたい。




参考文献:

「南米ポトシ銀山」 青木康征 中央公論新社 2000.7.25

この時点での、公式見解43…「江別古墳群」らを初めとする「擦文文化」が研究者にどう捉えられているのか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130
先日、筆者は道民の方から資料を送付戴いた。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/05/165357
たまたま末期古墳群の項を書き終えた頃に「江別市郷土資料館」へ行ったとのお話を戴き、そこでしか入手出来ない関連パンフレットらがあるとの事だったので、ブログらに活かして欲しいとの事。
早速、使わせて戴く事としよう。
この場を借りてお礼をしたい。
ありがとうございます。

本項のテーマはズバリ。
「江別古墳群」を初めとする「江別文化」が、地元らの研究者にどう捉えられているのか?だ。

これまでも、江別古墳群については取り上げてきて、SNS上で江別古墳群の現地へ行った方が妙に失望する感じがあったのだが、パンフレットを観てGoogle Earthの画像と並べて理解出来た。


https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/08/204335
最初の発掘者、後藤寿一博士にちなみ「後藤遺跡」や「北海道式古墳」と言われた江別古墳群や周囲の遺跡は、開発で殆ど破壊されている。

では、まずその「江別古墳群」が、どう捉えられているのか?を引用と絡めて記載しよう。

・系譜…
「本州の東北北部には、丹後平・原(青森県)、岩野山・柏原(秋田県)、浮島・猫谷地(岩手県)など、「末期古墳」と呼ばれる多くの古墳群が存在しています。〜中略〜「群集墳」とも呼ばれ、出土する土師器の分布の様相などから大和朝廷(律令国家)の東北経営勢力の北上と密接な関係が考えられています。
東北北部の末期古墳は、主体部の構造の違いなどから大きく三つに大別されますが、小規模な墳丘を有し、周囲に溝を巡らせた構造は、江別古墳群や恵庭の茂漁古墳群と同じです。また、遺物についても同様の土師器や須恵器、蕨手刀などの鉄器が出土しています。このように、古墳の形態や副葬品のうえで共通した特徴を持っている江別と恵庭の古墳群は、東北北部の末期古墳群の系統を引くものと考えられています。」

・古墳群に眠る人々は?…
「江別古墳群をはじめとした北海道の古墳群は、東北北部の末期古墳を源流とするみかたは大方一致しています。一方、その被葬者については諸説あります。
大きく分けると、本州の東北地方(陸奥・出羽)からの移住者とその子孫とする説と、石狩低地帯に成長した律令国家と交流を持つ在地集団とする説の二つになります。
被葬者を移住者とする説は、さらに、東北の蝦夷(筆者註:「えみし」のルビ)の系統か、あるいは征夷に参加した倭人という説に分かれます。」
「江別古墳群に関わる人々は、その主の由来は別にしても、大和政権の東北経営政策を背景とした北方情勢の変化の中で、続縄文文化から擦文文化へ移行を実現した共同体を構成する集団、またはその首長的階層と推定されます。」

「江別古墳群 −石狩平野を望む北の古墳−」
江別市教育委員会 平成10.2.1 より引用…

かなりズバリと記載している。
引用部の被葬者が移住者説の中には、「兵士集団とそれを支える農民集団」とする説、在地者説では渡島蝦夷の中の朝貢で官位や刀剣を得て支配者層となったらがある。
更には、それらから日本書紀の、
斉明天皇四年の条
安倍臣、船師一百八十艘を率て、蝦夷を伐つ。(出羽の恩荷らの位階授与)
斉明天皇五年の条
安倍臣を遣わして、船師一百八十艘を率て、蝦夷國を討つ。(後方羊蹄への政所設置指示)
斉明天皇六年の条
安倍臣を遣わして、船師ニ百艘を率て、粛慎國を伐たしむ。(渡島蝦夷からの粛慎討伐願いと仕官願い)
を記載する。

律令国家と北日本の年表を載せた上。
つか…
この遺物見りゃ至極当たり前の結論だろう。
勿論、鈴谷式土器ら北方からの物資も検出はする。
が、それは北方と本州を結ぶ交易接続点だから当然なのだ。
添付した発掘当時の後藤寿一・河野広道・後藤守一博士の主張では、鉄器に注目しこれらが大陸由来か本州由来かを特定出来れば、どちらの影響を帯びるか?は断定出来るとしていた。
現在、XRFら科学分析の発達で、これらはほぼ産地特定され、本州から持ち込まれたと断定される。
これが擦文文化。

江釣子古墳群らからの流れ…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/05/171231
江別,恵庭に至り…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/08/204335
土師器の影響で擦文土器が生まれ…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323
宗教や祭祀が伝播し…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/28/080712
だが、製鉄は成功に至らず…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/21/194450
官位らの権威により、古墳を作る意義が消え…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/05/165357
対岸の北東北と連動して…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/25/061606
出羽国府、秋田城と行き来し…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/20/200523
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/14/154855
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/20/192453
何故か?北海道では先史時代人とされる…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/21/101118
これが「擦文文化人」と言う人々を指す。
これが「擦文文化」と言う。
これが「公式見解」だ。
で、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130
この擦文文化と後の近世アイノ文化との繋がりが希薄且つ中世遺産が殆ど検出されないので…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/31/053428
その繋がりの根拠は「諏訪大明神画詞」しかないと言ってるのが公式見解。
だって、繋がりが見つかってないし。
むしろ、それを繋げる為に研究を進めている…これが実態だろう。
概ねここまで連々並べれば、江別古墳群や江別文化とされる江別の変遷の意義が解るだろうと思う。

擦文文化は、北東北どころか大和朝廷が北上しなけりゃ成立しないのだ。
で、北海道の考古学研究者や教育者はこれらを熟知している。
そんなもん「当然」。
新北海道史に一連記載がある。
全部知った上で、現状の歴史教育をしたり、見解を出しているって事。
もう、一年半前には、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/28/222326
我々は書いてある。

で、これだけではない。
グループ内では話はしているが、筆者はブログ上、擦文期より前の続縄文,オホーツク期の事を取り上げてはきていない。
何故か?
白頭山−苫小牧火山灰層や十和田火山灰は900年代初〜中葉。
丁度、擦文文化期途中に検出されるので、編年指標となっている。
これは日高〜十勝位までで、道東や網走方面での検出が薄いので、接続し難い。
それ以前の火山灰による編年指標が明確ではないので、意図して取り上げていないだけ。

では、追加で滅多にやらない続縄文期の本州と繋がりの意義も少し出しておこう。
「江別の遺跡をめぐる」より、続縄文時代の土器をどう捉えられているのか?

恵山式土器
東北地方の弥生土器の影響を受けて、道南地方で成立した土器で、恵山貝塚(函館市)から発見された土器を標識とする。」

前期…アヨロ1類
中期…アヨロ2類
後期…アヨロ3類

「江別太式土器
恵山式と江別式の中間的な特徴を示す土器で、恵山式の特徴だった器形のメリハリがさらになくなり、お寺の鐘をひっくり返したような器形になる。」

「江別式土器
江別式土器(後北式土器)は、河野広道氏によって坊主山遺跡出土の土器を標識に、古い順からA式・B式・C1式・C2式・D式に分類される。」

「北大式土器
北海道大学構内で発見された土器によって設定された土器。器形は、江別式と次の擦文土器との中間的な特徴を持つ。」

「擦文土器
北海道における土器文化の最後を飾る土器。本州で作られた土師器の影響を強く受け、器形は土師器そっくり。仕上げに木のヘラなどで器面をこする技法が使われ、「擦ったあと」が見られるので擦文土器と呼ばれる。」

「土師器
本州で作られた土器。ロクロが使われ始め、底には糸で切り離した渦巻状のあとが見られる。文様は見られないが、表面を磨いて仕上げ、わずかに光沢を放つものもある。また内側にススをつけて磨き、水のしみ込みをおさえる工夫がなされたものもある。」

「須恵器
本州で作られた焼き締めの器(せっ器)。窯で焼かれるので、土器より硬質で灰色なのが特徴。須恵器の窯は北海道内では発見されていない。最北の窯は青森県五所川原市にあり、北海道で発見される須恵器のほとんどは五所川原産と考えられる。大麻3遺跡では、現在の大阪堺市で日本で最初に作られた頃のものと考えられる破片が発見されている。」

以上「」内は、「江別ガイドブックシリーズⅴ 江別の遺跡をめぐる」 江別市教育委員会 2010.3 より引用…

これが北海道での主な土器識別と土器変容。
そう言えば、古い考古学雑誌らで河野博士らは続縄文の土器を「薄手式土器」とか表現していたが、その初期「恵山式土器」をして、「弥生土器の影響」で薄い土器が作られる様になったと判断している様だ。
興味深いのは「大麻3遺跡」の堺で作られた最古級の須恵器。
5世紀の古墳期のものが、最早江別に伝わっていると言う。
まぁ…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/26/205914
白老「アヨロ遺跡」の井戸様遺構も、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/02/163712
余市「大川遺跡」の弥生式土器弥生文化との接触痕跡も、何の違和感は無いと言う事だ。
弥生文化が無いのではない。
弥生文化の影響や接触の果てに、恵山文化他が生まれた事を示唆していると言う事。
更に、先にたまたまSNS上で話題にしていたのだが…
恵山文化の「元江別1遺跡」の副葬だか、琥珀玉(大陸由来と考えている模様)と共に「碧玉管玉」も一緒に副葬される墳墓があるが…

「前略〜色は濃緑色をしています。玉の作りは精巧で、水準の高い制作技術をもった人々によって作られたことがうかがえます。これら管玉に使われた碧玉は、佐渡猿八産といわれており、本州からもたらされたことを示す出土品のひとつです。」

恵山文化の道具 −重要文化財北海道元江別1遺跡土壙墓出土品−」 江別市教育委員会 平成12.3.1 より引用…

これについては、同様のものが余市「大川遺跡」「入船遺跡」でも検出され、

「結論
今回分析を行った入船遺跡の遺構外出土の管玉1個の蛍光X線・ESRの両分析による総合判定では佐渡猿八三碧玉と同定され、余市町では佐渡産碧玉は、大川遺跡の管玉10・17・18・20・21に使用されていることは明らかになっていて、これで余市町では佐渡猿八産原石を使用した管玉は合計6個発見されたことになる。したがって、佐渡との交流がより確かであったと推定しても産地分析の結果と矛盾しない。」

「1995年度余市入船遺跡発掘調査概報 −余市川改修事業に伴う埋蔵文化財発掘調査の概報Ⅶ−」 余市町教育委員会 1996.3 より引用…

と…
続縄文期の遺物でも堺や佐渡との行き来の痕跡も特定され、続縄文土器が弥生期や古墳期の本州の影響を受けて成立したとしても、全く矛盾はしないと指摘している。
まぁその段階では弥生文化の特徴「大規模水田」が寒い気候故に、栽培技術まで伝播せず、土器らの特徴のみ影響を受けた…でも説明出来るのではないか?
と言う訳で、各教育委員会発行の文書の断片だけでも、この位は学べる。
そりゃそうだ。
縄文期で既に道南〜北東北では「円筒土器文化圏」を形成し、その最終バージョンが「亀ヶ岡文化」。
先時代からの流れを考えたら、別にどうと言う事もないだろう。
既に縄文の先祖達にとって津軽海峡は「デカい塩っぱい川」に過ぎなかったのだから。
ざっと、以上である。
書いてある。
どこをとっても、本州の影響は帯びているし、交流痕跡もある。
北海道の文化が全く独立して変遷していたなんて事実は無さそうだ。
大陸文化と言っても、むしろ上記日本書紀斉明天皇六年の条では、粛慎が攻撃して来ると阿倍比羅夫に助けを求めている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/19/184154
W/Wの人口の動き,文化変遷と重ね合わせても、あまり矛盾はないだろう。
なら、阿倍比羅夫の北進は迫りくる粛慎に対する最強の援軍とも言えるのではないか?。
考古学と文献史学が割と合致しそうだが。
つまり、考古学やろうが文献史学をやろうが、北海道の研究者はこの程度知っている。
必ずぶち当たるから。


これら「擦文文化の意義」は概ね、専門書を読まずとも、博物館,資料館巡りと、そこで出している出版物、各道市町村史「だけ」でも十二分に学ぶ事は可能。
わざわざ、小難しく書いてある論文集や市販書籍でなくても理解可能な範疇。
だから我々は言ってきた。
「博物館,資料館へ行こう、親子で学んでみよう」…と。





参考文献:

「江別古墳群 −石狩平野を望む北の古墳−」
江別市教育委員会 平成10.2.1

「江別ガイドブックシリーズⅴ 江別の遺跡をめぐる」 江別市教育委員会 2010.3

恵山文化の道具 −重要文化財北海道元江別1遺跡土壙墓出土品−」 江別市教育委員会 平成12.3.1

「1995年度余市入船遺跡発掘調査概報 −余市川改修事業に伴う埋蔵文化財発掘調査の概報Ⅶ−」 余市町教育委員会 1996.3

「錬金術」が「科学」に変わった時-4、あとがき…阿仁銅山にキリシタンは居たのか?、阿仁合を訪ねる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/31/195723
さて、あとがき…
「阿仁文化保存伝承館・異人館」の訪問時に尋ねた「キリシタン伝承は?」に対して、「聞いた事は無い」との話だった事は報告済。
だが、同じ久保田藩で、同系列と思われる「院内銀山」にその伝承があって、阿仁銅山に無いのも引っ掛かる。
勿論、荒川鉱山の様に1700年以降であればそれなりに納得だが、阿仁は古い。
と、言うわけで、折角なので改めてフィールドワークしてみた。
今実は、阿仁合駅を起点として約4kmの「阿仁街歩き」というお寺巡りの企画をやっている。
なら、お寺に話を聞けば…
この阿仁合の町、何故かこの周囲4kmの中にお寺が六ヶ所もある。
善導寺(浄土宗)
・専念寺(浄土宗)
・善勝寺(浄土真宗)
法華寺(日蓮宗)
・長福院(真言宗)
・福厳寺(曹洞宗)…
この内、中世にこの周辺を治めた加成氏と縁ある福厳寺は室町期からあるが、他は概ね開山は江戸初期以降。
現在、長福院以外の5箇所のお寺には御住職が居られるので、挨拶に合わせ「キリシタン伝承はあるか?」尋ね、境内散策させて戴いた。
一応…
・古い採掘,精錬方法を知りたい
・仮に西洋技術が入るとしたら、それをもたらしたのはバテレンキリシタンとなる
キリシタン伝承で確認する
・院内や尾去沢には存在する…
これを説明した上で、伝承有無を尋ねた。
では報告。

キリシタン伝承の有無…
各寺共に聞いた事は無いとの事。
但し、5寺中2寺でそれぞれ一基ずつ、例の「円空の位置に「心」がある」お墓があった。

紀年は明治,大正の様なので、江戸期禁教令下の話とは合致しない。
と言うか、禅宗のお寺ですらなかった。
一部風習として溶け込んでいたものなのか?
勿論、筆者は専門家ではないので、断定のしようもない。
他の内容と合わせ、今後も追っていく。
各お寺でも、聞いた事は無いが、無い事もないだろう…と言う感じ。
実は、寺院巡りの前に立ち寄った阿仁合駅前の「内陸線資料館」でも、たまたま展示入替えに来ていた方に聞いてみたが、「そういえば飲み会の折にそんな話を年寄りが話していたような…」こんな感じだった。
明確に伝承されている感じではないか。
因みに、ここには「へっつい」の展示は無い。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/08/081429
が、阿仁合と七輪の里「浦田」は結構近く、

実は阿仁方面に来る際、何度か浦田を通過していたと言うオオボケをかましてしまっていた。
解りにくいが、今でも珪藻土を掘っている場所が、写真の山だろう。
なんたる事…
勿論、浦田から比内方向に向かえば、七輪を売ったという「扇田」がある。
この辺は大館「へっついの里」、軽井沢らも割と近い事も備忘録として記述しておく。

②山中の不思議な墓石…
これは、
・某お寺の御住職
・別のお寺の御住職の知人のご近所の方
お二方からの聞き取り。
熊撃ちや山菜採り、お務めらで山の中に入ると、時々全く墓所と離れた所にポツリと墓石がある事があるそうで。
特に前者の御住職は、そんなお墓を探し経をあげ供養するもお務めの一つと、山中に入るそうだ。
御住職曰く、「ルーツ探しをする方はおり、問い合わせが来る。その中に山中のお墓と合致した事がある。」とこ話を聞けた。
因みに北海道の方だったそうで。
又、ご近所の方曰く、「熊撃ちは一発で仕留めないとダメ。手負いのままにすると後で凶暴化する。当然仕留めに掛かるが、あちこちある穴に逃げ込む事がある。昔、試掘した穴はあちこちある。」との事。
未だ砂金が出る沢はあるようだが、労力を考えるとやってられないそうで。
銅山以前に金山として始まったと言う阿仁鉱山の片鱗はある訳だ。

③謎の移設…
最低2寺で、お寺を移設した伝承があるが、何故か細かい移設理由らが解らないとの事。
某御住職によると、そちらは開基より400年で一度別箇所へ移転しているが、他地方なら寺伝の欠落を郷土史らで補い纏められる事が多いが、なかなか進まないとの話だ。
更に、現在の場所に戻った時、元々は鉱山資材置き場だった場所へ再移築したと言う伝承だったが、直近の本堂建替えによる発掘ではそれらしい痕跡はなかったと言う。
こちらのお寺は、火災ら災害が全く無く、過去帳らが揃っているとの事(かなりレアらしい)なのだが、移設と再移設が何故行われたか(理由や必要性)?が、謎らしい。
一度、改宗が行われたとの事だが、どうもそれと移設らの関連がないニュアンスで聞いていた。
関連すれば…
①の通り、各お寺の境内のお墓は一通り学ばせて戴いたのだが、筆者が見た感じ(専門家でないので確定ではない)、戒名らをみると宗派が入り混じっている気もしたのだが…
この辺が、日本全国から人が集まった鉱山の特異性なのだろうか?
勿論、現在も御先祖が眠る宗教の場。
ちゃんと拝ませて戴いた。
非常に勉強になった。

④カラミ及びカラミレンガ…
鉱山街ならではの話。
先の報告でも書いたが、精錬過程で発生するカラミ(銅以外の酸化鉄,珪素主体の不純物)はレンガとしても使われた。

実はお墓の基礎部分でも使われていた。
基礎以外でも、破片がポロポロと石の様に転がっており、先の某お寺の御住職とご近所さんにカラミ片について話したところ、至るところにあるとの事。何せ酸化鉄の比率が高いので、まるで「鉄塊」の様に重くてよせていられず、何かで出てこようものなら最悪だと苦笑されていた。
当然ながら、草鞋や雪駄の類いで蹴飛ばそうものなら、足の方が怪我しそうなもの。
カラミレンガもこれまた丈夫で、石やレンガより壊れにくそうな代物。
これ以上錆びにくい成分だろうから、風化している様子がまるで無かった。
このカラミも鉱山での廃棄物の応用ではあるか、非常に興味深い様が見れた。

⑤この際、疑問をぶつけてみる…
こんなチャンスはなかなかないので、法華寺の御住職に疑問をぶつけてみた。
法華寺さんは、秋田最古の日蓮宗のお寺から分かれたとの事。
これがどうも、秋田をスルーして北海道に向かってる様だ。
一応、史実と古書らによる伝承は別で、各研究者が論文らで検討しているのは前提だが…
北海道における日蓮宗伝播伝承は、1295年、日蓮の高弟「日持」の蝦夷島への渡道からと伝わる。
秋田では、これより遅れるらしい。
御住職も疑問に思われていたそうで、そんな話をしたりするそうだ。
そんな話の中では、陸奥から奥大道を北上した為では?と言う話にはなるが、御住職はしっくりきていなかった模様。
せっかくなので…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/19/112656
・比較的秋田沖は船の航行がし易い事。
・考古学上、秋田における技術,文化伝播は秋田城を起点に、雄物川,米代川,小吉川を遡る事。
・十三湊における「安東氏」の隆盛。
・織豊期では九州→佐渡→秋田湊→北海道の定期航路があり、アンジェリス&カルバリオ神父が計4回渡道している事。
らを伝えた。
船で一気に北海道へ向かえば、目的地が北海道なら風待以外で長期に留まる事もないかも知れない可能性を少々説明させて戴いた。
拙い筆者の話が如何程役に立つのか不明ではあるが。
御住職も、船を考えてはいた様だが、想像より日本海ルートが開けていた事までは考えていなかった様で、興味を持って聞いて戴けた。


ざっとではあるが、阿仁合を歩き回った一部の報告である。
コースは先の訪問で、阿仁文化保存伝承館・異人館で戴いた寺院巡りのリーフレットを参考にブラブラ歩き回った感じ。

突然の訪問に、対応戴いた各お寺には感謝しかない。
この場を借りて…
ありがとう御座いました。
勉強になりました。

それぞれが竈と炉に直結する「似て非なるもの」…改めて「鍋・釜」を学んでみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/13/053204
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/08/070139
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/16/123121
さて、今回は「鍋」と「釜」である。
漠然と釜・窯・竈・鍋らと言ってはいるが、違いは何か?
実は古来、ちゃんと使い分けされていた様だ。
そこから学び直してみようと思う。
また「ものと人間の文化史」から「鍋・釜」である。
予め…著者の朝岡氏は、食器や考古学ではなく、著書より見る限り鉄器文化がご専門。
この本の中でも土鍋らではなく、鉄器である鉄釜,鉄鍋へ焦点を当てている。

では、まず同書から予備知識を拾っていこう。

・鋳造と鍛造…
「鉄器」と言っても、実用する段階での鉄が何種類かある事はご存知だろうか?
これはその後の使い方と深く関係する。
①鋳造
「鋳物」の事。
熱で鉄を溶かし、金属や土で作った「型」に流し込み固めて作るので、同形状で量産し易い。
これは鋳物師の仕事になる。
②鍛造
熱で柔らかくした鉄を叩いて鍛えたり、伸ばしたり、曲げたりして成形して作る。
刃物が解りやすいか。
これは鍛冶屋の仕事になる。

・素材…
「鋳造と鍛造」を踏まえ、実はその素材もそれぞれに分かれる。
①銑鉄
主に鋳造(鋳物)で使われる。
炭素を3%程度含み、鉄を精錬する上では先に取り出される。
これを鍛造しようとすると割れてしまう。
これも古い時代は二種類に分かれ、
・鼠銑鉄
断面がグレーで、溶かすとサラサラなので「型」に流し易い。
錆びるし、後加工可能。
・白銑鉄
断面は結晶質で、溶かすと粘りがあり「型」に流し難い。
但し、錆難く、硬くて後加工はほぼムリ。
②軟鉄
炭素はほぼ含まない。
鍛造で一般の鉄器として使う。
柔らかく自由に加工出来るが強度は無い。
③鋼
炭素を1.5%以下含む。
粘りと強靭さを備え、更に再加熱→急冷すると硬度が増す(焼入れ)。
刀剣や包丁ら刃物がこれ。

銑鉄を再精錬して軟鉄や鋼を作る。
ここで…
鋳物の素材として、西洋では(Chinaでも後の時代に)、鼠銑鉄が使われた。
サラサラなので精密な型に流し込める為。
我が国は?
ほぼ白銑鉄を使ったそうで。
錆びにくく、強いから。
つまり、古代~中世の鋳物はほぼ白銑鉄であり、故に茶器らで現存するものがある。
釜や鍋には最適だったと言うことになるが、そんな茶器らでも底の部分は何度も熱せられるので当然痛む。
現存する物も実は、補修された跡かあるそうで。
この補修を「鋳掛け」と言い、「鋳掛け師」と言う商売が、戦後まで存在していたそうで。
鋳掛けについては、また後程。

・伝搬
さて、鍋・釜は鉄器ではあるが、その文化にはw/wで地域差があるそうで。
①東アジア
鍋・釜らは古来ほぼ鋳造、つまり鋳物で作られた。
元々、Chinaからの伝播と考えられている。
で、ここがミソ。
・Chinaは鍋文化
朝鮮半島は釜文化
・我が国は鍋・釜を使い分ける文化
②西洋や中央アジア
鍋はほぼ鍛造、つまり叩いて伸ばしたり曲げて作っていたそうで。
これは鉄以外の素材でも鍛造の様だ。
つまり、鍋・釜を鋳物で作る文化は東アジア固有の文化との事。

因みに、「鍋」と「堝」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/08/070139
元々Chinaでは「堝」は、正に金属精錬らに使う「坩堝」を意味する漢字だった様だが、我が国では「堝」は土鍋を指す様に変化した様だ。これは「延喜式」らに記述で使い分けされている事から、
堝→土鍋
鍋→鉄鍋 と判断可能な様で。


さてではここから本題に入ろう。

A、鍋と釜の違い
実は「鍋」と「釜」は元々の機能も製造工程も違うものなのだそうで。
更にこの他に関連する物がある。それが「鼎」。

①鍋
・機能
「煮る、炒る、焼く、炒める、揚げる」に使うもの。
・製造工程
鍋は口縁部が最大径になる。
よって「型」は内側,外側の二つ必要で、 鍋を逆さまにして、底の部分から溶けた鉄を流し込み外側に広げる。

②釜
・機能
元来は「お湯を沸かす」に使うもので、二次的に機能を追加されたもの。
その機能が「茹でる」「蒸す」そして「炊く」。
それに特化している理由が最大径。
釜は、鍔が付く場所を最大径として、口縁部に向かい同径か窄まり小径になる。
鍔は竈や五徳に載せた場合に、その径で固定される。
鍔~口縁部は、お湯の沸騰による「吹きこぼれ」対策でもあると言う。
ここが一つポイント。
・製造工程
機能に書いた様に、口縁部が窄まる→内側の「型」を抜く事が不可能。
よって「型」は、鍔~口縁部、内側(壊れやすく作る)、鍔~底の最低三つ必要になる。
で、元々鍔は「型」の合わせ目に出るバリを逆利用して鍋の固定用として活かしたと著者は解説する。
実は、金属器の場合、鍋・釜のどちらが先か?…これ、釜が先になるそうで。
元々が高価な為に宮廷らでの使用に限定され、工人集団が出来上がり技術が高度化していき釜が発達。
金属器の拡大や鋳物技術の拡散が起こり、民需使用の為に、より簡単且つ「型」の複数利用らを進めて量産化していったと考えている様で。
先述の様に、人口が格段に多いChinaが鍋文化になったのはここからの様で。
なら、朝鮮半島は?
金属器を使えるのは一握りの両班に限られ、オンドルと言う竈て火を焚く時には釜でお湯を沸かしていた事で、釜文化になったと推定している様だ。
と、書けばおわかりだろう。
元々釜は竈とセットから発達し、
China→竈に鍋にを掛ける様に変遷
朝鮮半島→そのまま竈に釜をかけるのを維持したとも言える。
我が国では?
ここで独特なのは、宗教的要素も著者は考慮する。
お湯を沸かす事に神聖な意味も持つ様だ。
例えば「湯立神楽」。
水蒸気を立て清めたりする。
例えば「地獄絵図」、ここで登場するのが「鼎(かなえ)」。
釜状だが三本の脚かついていて、竈に掛けるのではなく、脚の下で火を焚く。
これを「地獄の釜」として描いている。
末法思想下では、それも浄化の一つとか。
日本の地獄絵図は、攻め具が日常にある物だというのが特徴らしい。
例えば「竈神」。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/13/053204
こちらでは割愛しているが、竈神は所謂「戸籍無き神々」。
古事記らには記されぬ神故に、朝廷が出来る前からの古い土着信仰からきたとも考えられる様だ。
例えば「風呂」
禊や水垢離で身体を浄める…
本格的な湯沸かし装置を使った蒸し風呂や湯風呂は寺院に設置された様で。
中世での風呂の様子は古絵図で残され、掛け湯用の小さい竈&釜、湯風呂用の大きな竈&釜が並ぶ姿が書かれている。
これも「風呂釜」。
元々の「竈と釜はセットで湯を沸かす物」と言う部分と機能が違う点が残ったのはそんな事なのだろう。
確かに、竈を「カマ」とも言う。

では、釜に追加された機能とは?…「炊く」。
元々米は、土器と甑(こしき)で蒸して強飯として食べたと言われる。
他方、中世「一遍聖絵」では、鍋・堝に雑炊の様なものが描かれる。
これが、「貴族,僧侶らは強飯、庶民は雑炊」等らの根拠の様で。
「炊いたご飯」は、その中間的でもあるかも知れない。
先の鍋と釜の機能の違いを思い出して欲しい。
煮る(鍋)と茹でる(釜)の違いは、お湯が出来てあるかないか?の違い。
「煮る」は、汁と対象物が両方常温から温度を上げても成立する。
「茹でる」は、先にお湯が沸騰していなければ成立しない。
それぞれの機能から筆者は考察する。
では「炊く」は?
「前略〜上手に飯を炊くには「初めちょろちょろ、中ぱっぱ」と言われているように、炊き上がるまでになんどか火力を調整する必要があるとされている。「中ぱっぱ」の時には、出来るだけ大きな火力を用いて強く沸騰させるのがよい。そして、この時に蒸気圧に負けない重い蓋が乗っていると、内圧が高まるから早く芯まで熱が通る。「飯炊き釜」に分厚い木蓋が載っているのはこのためである。
このようにして、「炊く」は「焚く」に通じて、比較的に弱い火で時間をかけて加熱を続ける「煮る」とは、火の性質が異なることになる。「炊く」過程の当初の「ちょろちょろ」は「煮る」に類似するが、米に含水が進行して水が沸騰点に達すると火力を上げて「中ぱっぱ」の状態になる。それは「焚く」段階であるといってよいであろう。こうして十分に焚かれると、ここで徐々に火を落として余熱を保ちながら「蒸す」ことになる。
この場合に、「焚く」為の強火が可能になるのは、竈が使用されているからである。」

ものと人間の文化史72 鍋・釜」 朝岡康二 法政大学出版 1993.6.1 より引用…

あれ?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/08/18/124751
似たような事を考えていた様で。
「炊く」は、煮る要素、焚く(蒸気加圧)の要素、蒸す要素を火加減で連続工程で行う。
本来は竈&釜のセットであろう事は解る。
故に飯炊き釜。

西日本の様に土間に竈を設置する文化に対して、東日本、特に東北では、竈より囲炉裏文化とされ、竪穴住居→平地式住居で竈の痕跡が消える為に中世は竈を使わなかったかも知れないと言う話になっていた。
これが「生きていた証」シリーズの「中世、東北に竈はあるか?」に繋がる。

そして、鍋は?
実はこちらは炉(地炉)や囲炉裏とセット。
これ、鍋の系譜を追うと畿内を中心とした弦付鍋(堝)や東北中心の内耳鍋(堝)の様に弦で吊るす事が出来る構造。
勿論、持ち運びの要素もあろうが、自在鉤で吊るし、火力調整可能。
低温でコトコト「煮る」には非常に便利と言うわけだ。


ここまで解ってきたところで、こんな話を見つけた。

①鉄器文化の系譜の違い…

「『延喜式』四十二、東西市司を見ると、京の東市には「鉄、金器商」が入っており、西市には「土器商」が出てくる。西市の「土器」売りの商品の中には当然ながら堝が含まれていたと考えられ、東市の「金器売り」には鍋・釜が含まれていたと推測される。」
「前略〜「なべ」の金属化の進行は『延喜式』が書かれた十世紀ごろから始まって、以後に主として交易を通してゆっくりと全国に及んでいったのだと考えておきたい。
ただし、このことは、鍋の金属化の拠点が畿内に限られていたということを意味するものではない。歴史考古学の成果からみると、東北地方や北陸には畿内と異なる鍋型がふきしたらしいからである。東北・藤原氏の拠点であった柳之御所からは内耳鍋が出土しており、東日本の鍋も案外に古くから生産されていたらしく、それは畿内とは異なる朝鮮半島との交易を背景にしていたかもしれない。」

ものと人間の文化史72 鍋・釜」 朝岡康二 法政大学出版 1993.6.1

土鍋は技術的に簡単で、商品としての「堝」のみならず製造技術も伝播する。
が、鉄鍋は技術的に難しい為に工人集団が組織化され、技術の囲い込みが起こる。
よって、商品としての「鍋」は拡散するが、技術伝播はしなかった…と、著者は言っている。
その上で、東北・北陸には畿内とは別系譜の「鍋」が存在すると。
この引き合いが柳之御所の内耳鉄鍋。

これが「岩手県立平泉歴史遺産ガイダンスセンター」のレプリカ。
これだと11~12世紀となるか。
東北の鉄鍋文化と言えば、これが代名詞。
同様のものは、金沢柵・陣館遺跡でも出土している。
金沢柵は「後三年合戦」で兵糧攻めで落ちたとされるので、もしかしたらこちらが古い…?
いや、実はもっと古い東日本最古級の鍋・釜は存在する。

八世紀の「釜」と、

10世紀の「把手付鉄鍋」。
鋳物であろうから、一個しかない訳ではなかろう。
釜は朝鮮半島ではなく、渤海国の影響だろう。
なら、把手付鉄鍋は?
絵図では見た事がない現物がここにある。
全く畿内とは別系譜は、平泉より先に秋田城で胎動したかも知れないのではないだろうか?
この時期、勿論まだ「平泉」は都市化していない。
何故、軽々しく「別系譜が…」と言えるのか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/121137
元慶の乱
これ以後、製鉄,須恵器技術は秋田城を起点に雄物川に沿い内陸へ。
同時に能代,由利から米代川,子吉川を遡り拡大。
それが津軽に北上し、津軽平野一帯に広がり、五所川原らへ到達、北海道との交易に使われた。
ここでは、畿内の様な「工人集団の技術囲い込み」は無い。
どうだろう?

延喜式には「置き竈」の記述がある

「『延喜式』の巻二、神祇の部、四時祭下には、神事に必要とされる供物や器具類が事細かく書き上げられてあり、このなかに「釜」と「堝」とが出てくる。たとえば、新嘗祭にともなう供料のうちに、各種の器と共に、「堝十口。火爐二口」と出てきて、新たに築いた炊殿で土堝を置炉にかけて用いたことがわかる。
伊勢神宮新嘗祭においても同様の方法を採っており、神祇後、斎宮の項には、やはり新嘗の供料として「土火爐二脚、……堝各十口」と出てくる。ここでは、当時の宮廷神事において「鍋」ではなく「堝」が用いられたこと、それは土器時代の名残りであると考えられることに注目しておかなければならない。」
「ところで、次に「年料供物」のところを見ると、「銀盞一合。銀鋺一合。銀匕四枚。銀堝子一口。並供御料長物」と挙がっており、斎宮に供するために銀鍋が用いられていたことも、またわかり、高貴の御方の日用食器には銀器が使用されていたらしいと推定される。
そして、続いて「韓竈二口。銅旅竈一具。木蓋十一枚。鐵火爐位置枚。土火爐四枚」とあるから、ここから、当時、竈と炉の二種類の加熱装置の使い分けがあったことも知ることができる。この記述だけでは韓竈・銅旅竈・鐵火爐・土火爐のあいだにどのような具体的な違いがあるのかはわからないが、竈の名称のなかに「韓竈」があって、韓国との結びつきを暗示していることに注目しておきたい。「銅旅竈」とは金属製の置竈のことで、後代の「風炉」に相当するものであろうから、これも新しく伝来したものであると思われる。」

ものと人間の文化史72 鍋・釜」 朝岡康二 法政大学出版 1993.6.1

宮中行事伊勢神宮新嘗祭らでは、使う食器らが細かく定められ、行事に合わせ「調(特産物での租税)」として納品された様だ。
ここで「鍋・堝」は奈良や大阪から運ばれたものとしている。
対して「釜」は、記載が無いそうで。
よって、釜は規格物と言うより、個別オーダーメイドだったのではないか?と著者は推定している。
そして、「韓竈」「銅旅竈」「鐵火爐」「土火爐」は「調」で調達されていた事が記載される。
祭祀用ではあるが、租税対象として製造され、必要に応じ流通していた事は明白。
では…東北では?
まさか、新嘗祭らを国衙でやらんとは思えない。
ここはと思い、「秋田城跡歴史資料館」に突撃を敢行した。

Q:秋田城で新嘗祭らの行事はやられたか?
A:やったであろうが、記録は見つけられていない。

Q:木簡や漆紙文書でこれら準備リストはあるか?
A:現状は、周辺から米を運んだり、鯛を持ち込んだ物は出土してはいるが、食器や火器が記載されたものは検出していない。

以上、残念。
釜の写真の様に、仮に秋田城の工人が試作していたら、移動式竈の系譜は「秋田城」から始まる事もあり得る事に。
ここは、延喜式らでの国衙での状況を確認する作業は行っていきたい。
取り敢えず、ヒントは出た訳だ。
以前から延喜式や和名抄らの確認は意識していたが、やらねばなるまい。
上記にある「風炉」とは、茶湯で使われた移動式竈で、金属又は陶器製、湯釜を掛けて「湯を沸かした」との事。
ポツポツそれらしいものはあるのが解る。
又、たまに出てくる「金輪」と言うものがあるが、元々は竈の竈口にはめ込み羽釜の鍔を受ける物が脚を付けて地炉,囲炉裏で使う様になった物…つまり、五徳の事だそうで。
中世の古絵図では地炉に五徳を備え、鍋,堝を掛けている。
ところで…
著者の朝岡氏は「韓竈」を韓国との関連を考えているが、浅学故の疑問…この当時、朝鮮半島に「韓」の字を当たのだろうか?
確かに、原三国期では辰韓,弁韓,馬韓となってはいるし、この時代には「百済王氏」は中流貴族として陸奥国司らで赴任してきているので、解らないでもないのだが。
まぁこの辺は、我々は系統立てた学問として学んではいない証左。
疑問に思えば都度学び見識を増やせば良いだけの事。
我々は「0」からスタート、何も知らない。

③何故、鉄鍋や釜が現存し難いか?
これは上記にある程度答えがある。
・白銑鉄を使ったので耐久性があり、長年使用した。
・鉄鍋は高価なので貸出制度があった。
前田藩の「塩釜」らの事例が記載されているが、鋳物師が大量に保有し貸出して、冬に回り貸賃を取る制度があった。
途中で穴が空けば「鋳直し」で補修し、使用に耐えられなくなれば回収して、鋳物の材料にしたり、鍛冶屋に売却して鍛造の素材として使った為に殆ど現存しなくなる。
特に鍛造の素材としては、鉄鉱石や砂鉄からの精錬は必要なく、大鍛冶で対応出来たり、軟鉄の先端に白銑鉄を乗せ農具の刃先(硬さを利用)としたりしたそうで、手間を掛けず良質の素材としてリサイクルした模様。
鋳物師や鋳直し師は、世襲された特定の「大工(親方)」が利権を独占しており、領主らに庇護されていて、末端の小工(工人,職人)の訪問先らの調整らも決める権限を付与されていた。つまり完全に囲い込みを行われていた事になる。
何処かで聞いた様な話では?
まぁ江戸期の関八州なら…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/144412
置いておく…
鋳直しは、戦後まで続けられていた。
今の様に、穴が空けば廃却…こんなのは極最近で、アルミ鍋でも穴が空けばリベットで塞ぐ様な事は我が国の悠久の流れでいけばつい最近までなかったことになるか。
で、ここでも尚、大工(親方)によるルート統制は続けられていたそうで。
どういう事か、わかるかな…?


単に鍋・釜でも、こんな風になってしまう。
食文化史、技術史、宗教史、民俗史そして考古学や文献史学と数多の要素が入り組み、現実的には細かいところまで解っていない事が多い様で。
全然書き込めていないのだ。
鍋・釜だけても、我が国の文化はこれだけ色濃いという事か。
まるで泥沼の様に深いのだ。
「中世に竈はあるか?」…たったこれだけでも、周囲や背景まで学ばねば本当の事は解らない。
一つの断片だけでは理解し得ないのが、歴史学なのかも知れない。
ジワジワ学んでいこうではないか。







参考文献:

ものと人間の文化史72 鍋・釜」 朝岡康二 法政大学出版 1993.6.1

時系列上の矛盾、厚真町⑤…「オニキシベ2遺跡」に中世遺構はあるのか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/30/204530
では、続きをいってみよう。
今回は「オニキシベ2遺跡」。
前項の「上幌内モイ遺跡」の南西側にほぼ隣接する。
これがSNSで、北海道では数少ない「中世遺跡」があると教えて戴いた遺跡。
詳細が解らなかったが本命とも言えるもの。
先の史料同様、入手に当たっては旭川市「旭文堂書店」様にご配慮戴いたものだと改めて報告する。
感謝しかない。
ありがとうございます。


改めて基本層序…

0層…撹乱・耕作土
Ⅰ層…表土
Ⅱ層a…樽前a(1739年降灰)
Ⅱ層b…駒ケ岳c2(1694年降灰)
Ⅱ層c…樽前b(1667年降灰)、層厚15cm
Ⅲ層a…Ⅱ層cを含む黒褐色シルト、層厚1cm
(近世包含層)
Ⅲ層b…黒色シルト、層厚5cm、上位が中~近
世アイノ期包含層で下位が擦文期包含層
Ⅲ層c…Ⅲ層bとの境界に白頭山-苫小牧火山灰
が部分堆積。続縄文~縄文晩期包含層
Ⅳ層…樽前c(2500~3000年前降灰)
Ⅴ層…黒色腐植土。a~cに分かれ、縄文初期
~縄文晩期までの包含層。
Ⅵ層…暗褐色シルト。縄文早期包含層。
以下割愛…
この辺は、周辺とほぼ共通である。

遺構から…

・アイノ文化期…

平地式住居跡…1、土壙墓…4、集中区…2等で、平地住居には地炉跡と思われる焼土跡が3箇所付属する。
結論から言うと、この焼土跡(Ⅲb中位)の中のクルミ(2個)のC14炭素年代は1270、又は1280~1400年(2σ)である。
前項ではⅢb層上位が1400年前後、Ⅲb層下位が1200年前後なので矛盾はしてはない。
主な遺物は叩き石、小刀、鉄斧、棒状鉄片(H型に潰れた形跡ある角柱)等。

また、土壙墓からは、

1号墓…
小刀,短刀、鉄斧、鉤状製品、針、ニンカリ、腕輪、ガラス玉、白色金属円盤、古銭、木棺片、そして漆皿の塗膜片等。
1号墓には南東方向に墓碑跡と思われる土坑がある。
ガラス玉らはタマサイとして組み上がっていた事も考えられる。
人骨は無し。
特筆すべきは漆皿には「上下向かい鶴紋」と思われるスタンプ紋が残り、これが鎌倉~南北朝頃流通とされ、鎌倉市佐助ヶ谷遺跡に類例があるそうで。
この塗膜片のC14炭素年代は1258~1305年(2σ)。
また古銭の最も新しいものは景定元寶で1260年初鋳。
近世アイノ文化期の土坑墓に近い様相。

2号墓…
根穴撹乱あるが、男女不明の熟年、華奢な人骨を伴う。
墓碑跡と思われる土坑あり。
副葬は刀二振り等。

3号墓…
壮年男性と思われる人骨を伴う。
墓碑と思われる土坑あり。
副葬は装身具を伴う刀,小刀,刀子ら八振り、内耳鉄鍋、矢筒の残欠等。

この矢筒には九曜紋状に配置された銀主体の装飾がある。
又、内耳鉄鍋の形状傾向から13世紀後半頃を想定している。

4号墓…
熟年女性と思われる人骨を伴う。
副葬は小刀等三振り、針、古銭破片、黒曜石転礫等。
主体部の先が崩落し、墓碑跡らは不明。
これが中で最も新しいとしている。
黒曜石転礫は近辺の続縄文の遺構遺物が混じった可能性もあり。

と、言った感じで、C14炭素年代、内耳鉄鍋の傾向、古銭の最新初鋳らから与えられる遺構の構築年代は、概ね13世紀後半位ではないかと推定される。
と、すれば前項の中世年代の中間で大体、南北朝期位の遺構となり、アイノ文化期の始まりに近付いた事に…これは目出度い!
道南や余市の他に、北海道の失われた中世を示す遺跡に…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130
いや、ちょっと待った。
極単純な物理的疑問がある。
上記の様に1号墓は木棺に葬られたとされる。
これを前提に各墓の主体部の寸法を長軸×幅×深さ(cm)で示す。
1号墓…228×98×16
2号墓…204×90×40
3号墓…288×120×30
4号墓…202×70×38
この深さで「木棺に入れ」、棺上に「副葬をのせ」、埋葬可能なのか?
因みに参考…
手元の物で…
近世アイノ文化期の墓として有名な二風谷のユオイ・ポロモイ・二風谷遺跡の土坑墓で木棺無しで三層上面から37~50cm。
江別,恵庭古墳群でも概ね50~60cmは掘り込む。これも木棺無し。
さすがに1号墓の深さ16cmで埋葬出来るのか?
2~4号墓の傾向から考えても最低14cmほど浅いのも引っ掛かる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/13/213724
時代は下り、近世アイノの酋長は古い甲冑,挂甲,刀剣を所持、副葬されたのは知られた話。
勿論、1号墓に14cm足せば、墓の掘り込みはⅢ層の上迄達する。
実は「1号墓は近世に掘り込まれ、古い物を副葬した」…これを完全に否定可能だろうか?
難しいのではないだろうか?
物凄く単純な疑問。
何せ、この1号墓が最もアイノ文化的様相を保つ。
年代特定は慎重に行うべきではないだろうか?

だが、その疑問を残したとしても、南北朝期前後のC14炭素年代は勿論有効であり、例えば平地式住居の使用年代とは合致するであろうから、十分中世遺構だと言う事に疑義はないし、かなり貴重な遺跡であろう事は間違いないと考える。
ただ、村落を示せそうな様相はない。


・擦文文化期…
ここでは、竈を伴う竪穴住居が検出される。
実は、9世紀位の擦文の「竈付き竪穴住居」は、この2010年の発掘で厚真町としては初見なのだそうだ。
まだここでは、擦文の住居群は発見されてはいない事になる。
少々驚きだ。
この段階では、村落と言うより、キャンプ的要素が強いと言える。
細かいところはここでは割愛するが、厚真周辺では遺跡数が、縄文で増加→縄文後期で減少→続縄文で増加→擦文に入り減少→擦文中期以降で増加とある。
盛んに東北、特に秋田城と交流した時期に、この周辺は海岸線を除き人口が薄かった事になるか。


とりあえずここまでにして、折角中世遺構と言える物があるのだから、中世に特化して少々時代背景を重ねてみよう。
土坑墓の掘り方には疑義を持てど、焼土らから得られたデータがある。
本遺跡に於いてそれは概ね14世紀後半位としている。
なら、そこから今迄学んだ事で、北海道や北東北に関連するワードはあるだろうか?…ある。


新北海道史において、空白の中世を唯一繋ぐとしていた「諏訪大明神画詞」の成立は1356年とされる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/30/133440
蝦夷管領「安東氏」への記載はあるが、道東側の記事は無かった様な…
記載内容はさておいて、少なくとも、北海道の情報を伝播されるルートとして、道南、余市、そしてこの厚真周辺と、細いなりに幾つかありそうだと言うことは間違いなさそうだ。
自然科学的分析では、刀剣ら鉄器のXRFデータ上、地金の供給先…つまり元になる砂鉄又は鉄鉱石の産地や精錬場所が日本列島中なのは間違いないが、擦文期とこの時期では異なると言う。
平安の津軽や秋田から、違う場所になっていると言う事の様だ。
そうなると、自ずと太平洋ルートの可能性が出てくるのではないか?


これを…
建武二年(一三三五)二月三十日、北畠顯家は野辺地を伊達宗政に与え、その執行を師行に命じた。資料は残されていないが、師行は宗政に対して、野辺地の領地を受け取るならば代官を派遣するように要請したはずである。結果、宗政は領地を受け取り、代官を派遣することを決め、師行に伝えた。師行は、三月二十四日にその旨を国府に報告している。」

「南部師行-陸奥将軍府で重用された八戸家当主-」 滝尻侑貴 『南北朝武将列伝 南朝編』 亀田敏和/生駒孝臣 戎光祥出版(株) 2021.3.18 より引用…

年代的に、南北朝
丁度、北畠顕家陸奥将軍府で采配を取った時期と合致する。
さて、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/17/195055
北畠顕家とは、こんな人物。
陸奥下向の目的の一つは北方の資源(富)を南朝方で確保する事もあるとの指摘がある。
で…
伊達氏の野辺地受領…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/21/072428
北海道対岸の野辺地の古代~中世…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535
野辺地受領は1335年、14世紀中頃。
つまり、この時代の北海道の情報を諏訪大社に伝える事が出来たのは、何も蝦夷管領安東氏だけではないと言えるのではないか?
それはなにもここだけに非ず。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/15/174010
それは後に食器にも表れる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/08/070139
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/29/201710
で、この後頃に安東vs南部や蝦夷動乱期へ至る。


https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/28/194019
南部氏の中の「三戸南部氏」の居城である「聖寿寺館」の築城が1300年代中庸とあるので14世紀中頃と合致する。
この「三戸南部氏」が南北朝期途中で北朝方に寝返り、元々の主家系統である「根城(八戸)南部氏」や最後まで抵抗した「七戸南部氏」の降伏後の処遇らで調整役として動いたとか…
「聖寿寺館」こそ、後の時代の工房跡で骨角器の中柄やシロシ?とも見える陶器らが出土している場所。それに先駆け、築城の時期が合致している様だ。
聖寿寺館では、鍛冶工房らから金銀銅らを精錬した坩堝らも出土している。
ここで、どうも根城,三戸南部氏の藤崎,十三湊侵攻や出羽への進出は、応永年間辺りには開始されている様だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/02/083230
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/23/201045

上記①~③と厚真周辺の状況が今のところ直結する古文には行き当たってはいないが、対岸の北東北では、中央史に直結した南北朝の戦いに連動して諸将が動いていた。
当然、北海道と直接交渉を持つ土豪や民間商人らもそれに巻き込まれている。
何の影響も受けないとは考えられない。
しかも、北海道で出土している中世を示す遺物に武具が含まれるのも確かな話だ。
日本海ルート、太平洋ルート、それぞれを確保しようとしたのだから、それ相応に動いていたであろう事は想像せねばなるまい。


さて、どうだろう?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/29/165629
「厚幌1遺跡」の確認から始めた厚真町の発掘調査結果シリーズも断片的にはここまで揃ってきた。
村落までは辿り着かないが、ポツポツ中世の片鱗は検出する様だ。

実は、本書まとめの章では、各土坑墓はその方向から、北に位置する「ヲチャラセナイチャシ」の方角を向くとされる。
この周辺の検討のトリは、そのチャシ周辺遺跡にしようと思う。






参考文献:

厚真町 オニキシベ2遺跡 -厚幌ダム建設事業に係わる埋蔵文化財発掘調査報告書4-」 厚真町教育委員会 平成23.3.30

「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61.3.26

考古学雑誌第二十四巻第二号 「北海道の古墳様墳墓に就て」 河野廣道 日本考古学会
昭和9.2.5

「南部師行-陸奥将軍府で重用された八戸家当主-」 滝尻侑貴 『南北朝武将列伝 南朝編』 亀田敏和/生駒孝臣 戎光祥出版(株) 2021.3.18