ゴールデンロード⑥&ゴールドラッシュとキリシタン-35…北海道の「採金施設」とはどんな場所か?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/15/193225

「ゴールデンロード⑤…遠野と金山,水銀との繋がり、そして修験道の関与は?」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/10/195717

「ゴールドラッシュとキリシタン-34…最新キリシタン墓研究と「火山灰直下の墓」の共通点についての備忘録」…

「ゴールデンロード」と「ゴールドラッシュとキリシタン」…両シリーズで攻めてみたい。

 

・様似のゴールドラッシュの伝承と状況…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/16/201849

「ゴールドラッシュとキリシタン-27…様似町史に記された「黄金伝説」は「キリシタナイ伝説」だけに非ず」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/07/174555

「北海道弾丸ツアー第三段、「様似篇」…観音山に石垣はあるか?、金鉱山の痕跡は?、秋田県民との意外な繋がり?、そして伝説の「キリシタナイ」は何処か?」

旭川のポテンシャル…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/20/185409

「砂金&水銀は「様似」だけに非ず…旧「旭川市史」に記された「旭川」のポテンシャル」…

・そして、近世,近代の状況…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/02/131535

「ゴールドラッシュとキリシタン-29…近代北海道にもゴールドラッシュは発生していた。そして…」…

・予備知識として…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/16/191817

「「錬金術」が「科学」に変わった時-7…武田信玄の軍資金、甲斐の金山とはどんな所か?」…

錬金術」が「科学」に変わった時シリーズで。

こんな風に江戸期のゴールドラッシュについて追ってきているが、なら実態はどうだったのか?についてはイマイチ肉薄出来ていない感。

前から欲しかったのは、実際に金鉱石なり砂金なりの採金場がどんな風だったか?だが、あまり出回らない。

やっと古書に出ていたのを見つけて入手した。

「今金町 美利河1・2砂金採掘跡  -後志利別川美利河ダム建設用地内埋蔵文化財発掘調査報告書-」である。

実際に江戸初期の北海道の砂金場分布はこうなるそうだ。

なかなか興味深い地図である。

キリシタン処刑で知られる大千軒岳を源流とする「知内川」を始め、その後に開山された記録がある

・島牧(1631)

・シブチャリ(1633)

・アイポシマ(1635)ら、知内川の衰退に先んじて探索作業は進んだとしている。

ただ、この後志利別川での採金記録はあまり詳しくは記録が無い様だ。

では報告していこう。

 

発掘に至る経緯は、

・周辺は以前から江戸〜明治での砂金場伝承、明治〜昭和のマンガン鉱山等が行われた地。

後志利別川へのダム建設の話が出る。

・ダム工事に伴う粘土採取で旧石器時代の遺跡(ピリカ遺跡)を確認、周囲を調査。

・砂金場については、多数の石垣,石積み,水路らが広範囲に有った事は知られていたが、詳細は不明。

・それらがダム築堤、国道付替、満水時の水没地域に掛かるので、大規模な二箇所が発掘する事になった…

と、言うもの。

昭和57年度に「2砂金採掘跡(750×150~300m範囲)」、昭和63年度に「1砂金採掘跡(900×50~250m範囲)」の調査を行った。

後志利別川は、長万部岳を源流として南下後、この美利河周辺でチュウシベツ川,ピリカベツ川と合流し西へ、瀬棚から日本海に注ぐ。

また、周辺の山々を源流にする川は多く、噴火湾側へ注ぐのが国縫川…そう、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/22/095523

「この時点での公式見解④…新北海道史の「シャクシャイン像」」…

漢文九年蝦夷乱の際に、松前藩軍とシャクシャインが衝突した「最も松前に近い」のが国縫で、ここが落ちれば瀬棚〜長万部の採金場ごと奪取されかねない事態。

謂わば「最終防衛線」だったのだろう。

松前軍六百数十名の中には、利権を守るべく161名の金掘衆が参戦していた記録がある。

その後、幕末に再度砂金採取や調査が始まり、安政年間では函館奉行が佐渡の技術者を招聘したり、明治では外国人技術者のブレークやマンローの地質調査、先述の枝幸に先んじて小泉衆が探索,採金したりしているとの事。

関連ある史料も「クンナ井砂金山絵図」ら未公開だったものも含め、同書に掲載される。

付記するが、後志利別川,チュウシベツ川では砂金は出るが、ピリカベツ川では殆ど出ないそうだ。

どんな遺構か?

概略はもう、図面あらば言葉は要らないかも。

・美利河1砂金採取跡

A地区…

B地区…

B地区断面図…

北からC→A→D→B→Eに地区分けされ、

C地区…石垣,石積みは散見するが保存状況は良くない

A地区…上記通り

D地区…住宅地,農地,採石で遺構は殆ど残存せず

B地区…上記通り

E地区…チュウシベツ川に最も近く、大部分は撹乱され、ほぼ遺構は残存せず

で、各地区共採取場は概ね長方形の凹地として残される。

水路は最大のもので底幅1.5~3m、深さ1.0~5m。

石垣は水路に沿い概ね1.5mの高さに積まれ、石積みも16箇所に及ぶ。

 

・美利河2砂金採取跡…

A地区…

B地区…

石積部分の断面…

北からA→C→D→Bに地区分けされ、

A地区…上記通り

C地区…保存状況良好で、このまま保存

D地区…現在の道路を作る段階で全体的に平滑され、殆ど残存せず

B地区…上記通り

で、概ね各遺構の大きさらは1砂金採取場跡同様。

A地区の石積みのトレンチ土層断面は上記通り。

・各採取跡に伴う導水路…

特に2砂金採取場跡での最長導水路はチュウシベツ川から約東方1kmの位置から取水し、約800m遺構が確認出来、深さ50~70cm、両岸に石垣を施す部分もある。

ざっと、解り易い部分の図がこんな感じ。

後志利別川右岸の段丘やチュウシベツ川に導水路を築き水や砂金らを引き込み、「石垣」造りの水路や流れを調整したり掘った土砂,石らを積み上げた「石積み」を築き、採取場に導き採金。

「大流し」と言われる採取法で、広範囲の砂礫層から砂金を取る為に水路で水を引き込み流水を導入するもの。

上流から水路を引き、砂金を含む砂礫層へ流し込む為に、大規模且つ多人数を要する大規模工事が必要になる。

これを行っていた事を示す遺構になる。

驚愕である。

単に川に入り、砂金がありそうな場所で揺り板を揺する…こんなものではない。

一度周辺の砂礫層を洗いざらいにして、水路を変えながら砂礫層を掘り進むを繰り返す様だ。

あまりに大規模に堰や石垣,水路を築くので「大流し」の場合、採取終了してもそのまま放置される事が多いそうだ。

故にこんな感じで残ったのだろうとしている。

水路は縦横に走るが、水利を考慮し幾つかのブロック分けされそこから枝状に分岐していると考えられる。

さて問題、この遺構が何時作られたものか?、ここは「まとめ」の部分に記述されるので引用する。

「両採掘跡の明確な年代については、今回の調査だけではその結論を出すにはいたらなかった。しかし、「クンナ井砂山絵図」によって幕末期の採掘の様子がある程度できるため、それとの比較で若干の見通しを示すことができるようになった。

「絵図」によれば、幕末期の採掘は「赤淵沢」,「本山」,「黒岩」など、利別川の支流が主体で、本流ではあまり行っていない。また、「大川トシへチ」と「久春屋仁川」の合流点より下流部の美利河2砂金採掘跡に相当する部分には全く書き込みがされていない。さらに 美利河1砂金採掘跡に相当する「大川トシヘチ」の右岸部には「上  ばん」の語句がみら れるだけである。以上の点から、幕末期においては両採掘跡での採掘はほとんど行われていない可能性が強い。さらに、両採掘跡とも段丘上の高台に位置し、導水路なくしては水を確保できないという点から、かなり大規模で組織的な採掘が行われていたことがうかがわれる。また、明治以降においては、マンローらの調査こそ行われるが、大規模かつ組織的な採掘は行われていない。したがって、両採掘跡で砂金採取が盛んに行われたのは江戸初期、松前藩によってであることが、かなり確実になったといえる。」

以上の通り、発掘調査段階では消去法ではあるが、江戸初期の発掘実態を伝える遺構である可能性が高いと判断されている。

 

さてでは、そんな石垣や石積みを金掘衆が行う事が可能だったのか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/10/212151

「ゴールドラッシュとキリシタン-22…石を扱う技術集団として、この痕跡を追ってみる ※1追記あり ※2写真追加」…

新北海道史を引用したが、

「築城は六年を費して、同十一年(註釈:1606)八月落成をみ、福山館と称した(松前家譜、松前史)。そこで、元和三年から五年(註釈:1615~1617)にかけて、大館町および寺町を福山城下に移し、寛永六年(註釈:1629)鬱金岳(千軒岳、浅間岳ともいう)の金堀に城の石垣を修築させ、しだいにその形を整えていったが、同十四年(註釈:1637)城中から火を出し、硝薬に点火して建物が多く焼失したため、同十六年(註釈:1639)六月これを修造した。」

とあり、ゴールドラッシュ時点で金掘衆に石垣構築技術を持つ者が居たのは、福山城の石垣が証明している。

更に…

「翌(筆者註:元和)三年東部音津己(福島町字松浦)および大沢(松前郡松前町)から砂金を出し、同六年公広は砂金一百両を幕府に献じるにいたった。ところが幕府はその金ならびに金山を公広に賜わったので、藩はその採掘を奨励したらしく、採金業は急に盛んになった。有名な知内の砂金は、元和七年ころから多量の産出をみ、知内川の水源である千軒岳の金山は、寛永五年に創開され、当時金山奉行は蠣崎主殿友広および蠣崎右近宗儀であった。また西部にも西部金山奉行を配置し、厚沢部、檜山、上ノ国付近の砂金を管理していた。金師は仙台の人で喜介という者でその下に山尻孫兵衛、水間左衛門などがいた。同八年西蝦夷地島小牧から砂金を出し、同十年東蝦夷地ケノマイ(日高国沙流郡慶能舞)、シブチャリ(日高国静内郡)、同十二年には十勝、運別(日高国様似郡内)の両所に採金の業開け、ついで国縫、夕張にもまた砂金が採掘されるようになった。」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和45年3月31日  より引用…

と言う訳で、ここで「仙台の人」が登場する。

勿論、直接の関与は解らないが、仙台藩に石垣や水路の技術があったのか?と言うなれば即答でYES。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/03/080215

「ゴールドラッシュとキリシタン-4-a…「後藤寿庵」と言う武将(増訂版)」…

「寿庵堰」や先んじたとも言われる「茂井羅堰」で実証され、未だ補修を続けながら現在も使われている。

仙台藩在住の技術者なら、これらを知る可能性はあるだろう。

まして、当時の鉱山技術者は全国区。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/15/203519

「ゴールドラッシュとキリシタン-26…「院内銀山」は全国区、そしてそれを支えるネットワークが出来るのは必然」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/22/185916

「ゴールドラッシュとキリシタン17…徒弟制度&相互扶助?、リアルな「友子制度」の実態」…

出来つつある「友子制度」でネットワークで、仙台藩以外でもその辺は成立する。

江戸初期の遺構であろう…状況証拠としては、かなり高めの背景となろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/03/074515

「ゴールドラッシュとキリシタン…無視出来るハズが無い人口インパクト」…

カルバリオ神父の報告はゲタを履かせているとは思うが、鉱山町は人口が集中したであろう事は想像が容易。

半数でみても、当時の北海道の人口に匹敵又は凌駕する人々が雪崩込んだ事となる。

それに、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/18/200305

「ゴールドラッシュとキリシタン-31…この際アンジェリス&カルバリオ神父報告書を読んでみる②」…

正規で申請したなら、租税しない限り戻れないシステム、なかなか途中足抜けも難しい。

また、金掘衆は食料は自前なので、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623

日本海航路は開かれた世界…「島原の乱」「シャクシャインの乱」と象潟の蚶満寺、そして秋田県民との不思議な繋がり」…

半ば闇市同然で商売に行ってもそれは成立させられる。

関ヶ原,大坂の陣の残党やキリシタンを含む「牢人」を含むであろうので、人集めもそれなりの規模で可能なのは考えられる。

水利,石垣の技術、人集めの面の背景的には問題なさそうだ…というよりは、大量に「牢人」が発生した江戸初期たからこそ可能なのかも知れない。

ならば、最初の地図の如く短期間で広域の砂金場や金山を探索,開発するのは可能なのか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/14/065055

「「黄金山産金遺跡」で何が行われていたか?…その推定の備忘録」…

我が国最初の砂金場開発段階で、砂金そのものや「もち石」を探り河川を遡るスタイルで行われている事や、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/16/191817

「「錬金術」が「科学」に変わった時-7…武田信玄の軍資金、甲斐の金山とはどんな所か?」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/22/210608

「「錬金術」が「科学」に変わった時-6…佐渡の鉱山史を学んでみる」…

砂金場から露頭箇所、金鉱脈を手繰る事は甲斐や佐渡の実績でノウハウが有ったのは解る。

先述の通り「全国区」である事を鑑みれば、何の問題もない。

つまり、冷静に背景を見れば、偶然でもたまたまでもなく、「なるべくして」あの様な大規模工事を擁する砂金場が出来て、組織的に一気に他地域に展開されていった…で説明出来る。

それは同時に、瀬棚〜国縫ラインのみでなく、他の砂金場でも同様の砂金採掘跡遺構がある(又はあった)可能性も予想出来る…と、言う訳だ。

 

如何であろうか?

背景を添えれば驚く事ではなく、有り得る事だろう。

そして、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/10/195717

「ゴールドラッシュとキリシタン-34…最新キリシタン墓研究と「火山灰直下の墓」の共通点についての備忘録」…

我々が「本当にこれで大丈夫なのか?」と危惧する理由も解って戴けたと思う。

当時の鉱夫の寿命は短い。

帰る故郷も既に他人のもの。

身寄りも少ない。

なら、少ない身の回り品は?…子孫に託されるより副葬される…だ。

なら、本州から渡って土着した人々が奥地に居てもおかしくはあるまい。

なんとか当時の砂金場実態を少し覗う事が出来た。

まだまだこれから。

少しずつ積み上げ、迫っていこうではないか。

 

 

参考文献:

「今金町 美利河1・2砂金採掘跡  -後志利別川美利河ダム建設用地内埋蔵文化財発掘調査報告書-」  北海道埋蔵文化財センター  平成元.3.30  

 

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和45年3月31日

「つくられたエミシ」より、そもそもエミシって本当に居たの?…我々がぶち当たる「蝦夷とはなにか?」、そして支配体制への一考

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/12/16/211012

「「牧」を示す「黒ぼく土」…「尾駮の牧」研究から中世北海道に馬がいたか?の検証の為の備忘録」…

前項はこちら。

度々筆者が書いてきた事だが、事東北人である筆者的に興味深く、グループ的にはぶち当たる壁「蝦夷とはなにか?」である。

前項にある「尾駮の駒・牧の背景を探る」で黒ぼく土について解説したのが東海大松本建速教授。

で、相互フォロワーさんから、ちょっと偏りは見えるけど面白いと紹介して戴いたのが今回紹介する「つくられたエミシ」という本。

通説的に言われる…

「しかし、これまでの考古学や文献史学では、東北地方の古代のエミシはアイヌ民族となる可能性があったけれども、中世以降に日本民族になったのだと説明されてきました。エミシの考古学について 多くの著作を残した工藤雅樹氏は「東北の蝦夷は、平安時代の末までは政府の直接の支配の外にあって、蝦夷としての実態を有していたのであるが、平泉藤原氏の時代あたりから政府側の直接の支配が 及ぶようになり、さらに鎌倉時代になると幕府の支配が東北北部まで及んで、蝦夷としての実態を失い、日本民族の一員となった」 (工藤 2001)と述べています。

文献史学の立場からエミシについて研究してきた熊谷公男氏も、『続日本紀』にエミシと話すのに通訳が必要だったと解釈できる箇所があることとアイヌ語地名が東北北部に数多く分布する事実を示して「7世紀以降の東北北部の蝦夷たちは、(中略) 言語や社会構造、そしておそらく信仰など、より本質的な基層文化の分野で倭人とは異なる独自性を長期にわたって保持し続けたことも十分に認識しなければならない」 (熊谷 2015) と記しています。」…

「市民の考古学⑮  つくられたエミシ」  松本建速  同成社  2018.8.15  より引用…

 

これの検証を、言語、歴史、そしてご専門の考古学から再検証しようとしたもの。

これを少し紹介してみたい。

中身をざっと紹介しよう。

第一章

東北地方にエミシがいたと言い出したのは誰か

第二章

記されたエミシ

第三章

東北北部の人々の暮らしとその文化系統

第四章

考古学から見たエミシの持ち物

第五章

エミシとは誰か

となっており、第一章で言語系の分布、第二章で記紀らの記録や「毛人」「蝦夷」について、第三,四章で考古学系の検討、第五章でまとめである。

半ばネタバレ的に、松本氏が導き出した本書での結論をザックリ書けば、「エミシという集団は東北北部に居らず、何らかの理由で政権側に異文化の民として創作された」という感じか。

特に「エゾ征伐」が強調され出したのが明治以降で、コロボックル論やエミシ→アイノ論、紹介した、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/10/114329

「近代学問創世記からの警鐘…アイヌ問題は今始まった訳ではない」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/10/052507

「ある意味一刀両断…言語,文学博士達の警鐘」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/06/174150

「時系列や層別らの重要性…河野廣道博士からの警鐘」…

この辺の話の時代より前から。

早い話、明治政府の意向が絡み、その辺の侃々諤々を経て、最初の引用の様な通説に至るのだが松本氏は、平たく言えば「東北の遺物傾向は他の列島内地域とあまり差が無く、別文化の集団が居たとするなら北海道(続縄文文化らの事)、征討で政権が領土を広げた事実を残す為に、古書上でプロパガンダした」だという結論か?

面白い考え方だと思う。

実は東北人である筆者は、通説的には「エミシの末裔」になる。

では、こんな風に歴史の再勉強をしてみて強く感じる事をたまにつぶやいているが、「古書を記述した都の連中が勝手にエミシだ蝦夷だと言ってただけで、俺の先祖は東北の地で普通に生業を営み暮らしていただけ」…だ。

ぶっちゃければ…

田畑を耕し獣や魚を狩猟して食い、租税し、家族を養い、それを繰り返して筆者に至っただけの事で、何ら特別な存在ではない。

時の派遣された施政者が無茶苦茶や約束破りをやれば、38年闘ってみたり、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/121137

元慶の乱…ぶちギレた秋田県民と北海道の選択」…

国衙郡衙を燃やし尽くして暴れてただけの事。

まぁ田舎者と蔑まれても、都の者が羨望する地の食い物や蓄財品に囲まれて笑いながら暮らしていただけで、畿内と何が違うのか?遺物も同じだ…って事になる。

松本氏は文化的に違うのは北海道とは言うものの、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/29/105815

「この時点での、公式見解43…「江別古墳群」らを初めとする「擦文文化」が研究者にどう捉えられているのか?」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/04/103246

「中世墓はどう捉えられているか?…「事典」で「山」たる基礎知識を学ぼう」…

・じゃ、こんな考古資料の一致の話はどうなるの?…

・血統論で話ているの?文化論で話ているの?、文化論ならアイノ文化化した時期の特定は出来ていないがどう考える?

・言語は成立時期を担保する学問じゃないが、それが往古より変わらず使用されたと担保可能なのか?

・Ta-bら🌋で、そこに住めたの?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/27/052730

「地質学,地形学から見た北海道歴史秘話四題…北海道の先祖達は「生き延びる事が出来たか?」」…

・まだアイノ文化が無い時代迄遡って判断するなら、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/12/185631

「定義や時代区分はそれで良いのか?、あとがき…河野氏の問いかけに答えられる者はいるのか?」…

定義や象徴アイテムはどうしますか?、吉崎教授は「擦文文化と東日本一帯とで明確な差はないからゴッチャで良いのでは?」と指摘してるが。

直接話す機会があれば、これらを質問するだろう。

この辺、昨今の論文でも割と「アイノ文化像」をモヤッとボカシながら、論が組み立てられているケースは多いなと感じる。

相互フォロワーさんが「偏りがある」と仰ったのはこの辺かと。

ただ、プロパガンダで筆者の先祖に「エミシというレッテルを貼った」…と言うのは腑に落ちるのだ。

本音を言えば、もう一踏み込み…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/11/115652

「この時点での公式見解-38…旧旭川市史にある「第一~三次近文コタン土地問題」が、民族問題の火付け役」…

集団自認が昭和だと言ってるのに、そんな往古に自分達を単一集団と認識出来たのか?…なら、北海道においても「エミシレッテル」同様ではないのか?にアタックして戴きたかったな、が本音。

ただ、松本氏は北海道出身な様なので、ここは難しいだろう。

紹介してくれた相互フォロワーさんもそう指摘したら笑っておられた。

 

むしろ、おー…と思わせられたのは、北東北と他地域の生活が遜色なさそうだとハッキリ指摘した事。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/12/16/211012

「「牧」を示す「黒ぼく土」…「尾駮の牧」研究から中世北海道に馬がいたか?の検証の為の備忘録」…

馬についてはこちらの方が詳しく記述されている。

ブログにも書いているが、相互フォロワーさんとは「津軽や糠部は、出羽側のコントロール下」なのでは?と話しさせて戴いている。

六ヶ所村立郷土館のパネル。

白石の石帯。

また、

北海道〜東北は、長めの煙道の竈又は竈+地炉の竪穴住居が七世紀位から拡散し、作る土器類も土師器ベース。

しかも「ロクロ引き」迄伝播し、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/19/054652

「大災害が起こった時、人はどう行動するか?…平安期の「十和田噴火,白頭山噴火」が住む人々へ与えたインパクト」…

十和田噴火前後で既にロクロ使用で、親朝廷、否親朝廷との区分が出来そうだとの知見、そして「尾駮の牧」の存在…

これ、支配体制的な考え方を見直すべきとの一石を投じる事にもなるのではないだろうか?

東北北部は、エミシの領域と記紀らから言われ、鎮守府将軍となる「清原貞衡」の北伐や鎌倉の御家人配置により征伐完了…こんな考え方が主流だろう。

だが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/18/222411

「北東北は中世化が早い…「弘前市史」に記される「中央政府国司〜庶民との乖離」」…

国衙,郡衙による統制を捨て中世化、各地土豪を臣下にし統率する手段に切り替えた…とするなら、尾駮の牧が登場する10世紀には既に統率下に入ったとも言えるのではないだろうか?

文献系の考え方を改めさせる考古学知見の深化が必要だと考えるが。

実は、各地を周り雑談させて戴くと、あくまでも「私観」としながら、「本当に北東北は化外の地だったのか?」と疑問を仰る方は居たりする。

先の「白石の束帯」に重きを置くか?軽くみるか?で、解釈が変わりかねないのだ。

重きを置けば、

生活物資は共通且つロクロ引きや製鉄,須恵器技術迄流出させるのだから中世的支配体制下にある、又は親朝廷と非親朝廷(敵対したかとは別)が混在した…

軽くみるなら、

従来の通説同様…

と、なるのだろう。

だが、都で知られた「尾駮の牧や駒」や砂金ら蓄財品が絡むので、軽くみるのはどうなのか?…これが筆者が気になる点。

それこそ独占しようとすれば、都に流入する富をコントロール出来る事にもなりかねない。

プロパガンダで「何を隠そうとしたのか?」…ここが問題になるだろう。

 

あまり細かい話しは書かずにおく。

せっかくなので、読んでみて、上記を思い出して戴きたい。

北東北も北海道も本当に化外の地なのか?…少々疑問が出てくるかと。

 

 

参考文献:

「市民の考古学⑮  つくられたエミシ」  松本建速  同成社  2018.8.15

 

「尾駮の駒・牧の背景を探る」 六ヶ所村「尾駮の牧」歴史研究会 2018.7.30

中世墓はどう捉えられているか?…「事典」で「山」たる基礎知識を学ぼう

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/01/24/190914

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−7…南関東はどう?「関東編(2)」を確認」…

中世墓を見ていくシリーズも北海道、東北、北陸、関東、中部,東海、四国、此処まで見てみた。

これらは謂わば「森」だと筆者は思っている。

そして、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/13/210344

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがきのあとがき…これって早い話、「金掘衆や場所の姿を投影しただけ」なのでは?」…

こんな風に個別の遺跡や墓を見ていくのが「木」を見る事。

以前から書いているが、「木を見て森を見ず、森を見て木を見ず」はNG。

話をして、論文を読んでるがその論の元となる引用文や史料確認をしない方は結構いらっしゃる。

筆者はその手の専門教育は一切受けていないので、疑問を持てば根拠となる発掘調査報告書迄遡らねばならない。

現在、森を見ながら木を見ている訳だが、森だけではなく「山」も学ぼうではないか…専門家が森や木をどんな捉え方でみているか?の概略だ。

コトバンクより、事典とは?

「物や事柄をあらわす語を集めて一定の順序に並べ、説明した書物。百科事典など。」…

「事典 墓の考古学」という本を紹介していただいたので、そこからそれを学んでみようかと。

この本は我が国の原始・縄文期からの墓制,古墳らについて時代毎に纏めている。

まぁ筆者は現在中世墓に特化しているが、前後の時代も接続出来ると考えればラッキーだ。

 

では中世墓の特徴から。

「中世は武士の時代である。その武士の墓は貴族の墓の模倣から始まった。平安貴族に近づいた奥州藤原氏が栄華を誇った平泉の中尊寺金色堂は、数少ない平安時代後期の墳墓堂遺構で、その須弥壇内に藤原清衡以下三代の遺体と四代泰衡の首級を埋葬することはあまりにも有名である。同時期の平安京では、天皇や貴族の遺体・遺骨を堂塔内に埋葬する事例が増加しており、奥州藤原氏がそれらの状況を意識しなかったはずはない。」

 

「事典 墓の考古学」 土生田純之  吉川弘文館  2013.6.10  より引用…

 

本書では中世は鎌倉〜江戸期迄の間を取り扱っている。

ズバリ「武士の時代」の到来。

その前、奈良,平安期では、古墳→墓陵や大化政権の薄墓令による副葬の簡素化、古代火葬の導入、北海道~東北における末期古墳の造営etc…が起こる。

踏まえてまずは、

京の貴族の「墳墓堂」が平泉の奥州藤原氏

→鎌倉殿らが意識し導入

→都では霊場信仰や舍利信仰から高野山霊場への納骨(髪)が開始、後に共同納骨へ

→同時に火葬の復活

→屋敷墓の開始

→鎌倉周辺で「やぐら」登場

→石組(配石)墓の造営とそれに伴う五輪塔ら石塔造営開始

→配石から集石、宝篋印塔らから石塔へ簡素化

→そして近世には、火葬の衰退と土葬墓の復活…

中世全体を俯瞰して、こんな流れが中世墓の特徴だとしている。

つまり、中世墓としての最終形態は墓標としての石塔の採用と簡素化になるのだろう。

勿論、墓制や宗派の伝播速度差が出るので、畿内と地方ではタイムラグや前代迄の踏襲らが関わるので、当然ながら地方色が出てきたりするし、特異点となる墓制が登場する訳だ。

ここで、

・墳墓堂…

特徴的なものは奥州藤原氏四代が眠る「中尊寺金色堂」。

他で墳墓堂採用の記録は、源頼朝北条政子北条義時、足利義兼ら。

実は北条義時の墳墓堂は発掘迄されているのだが、遺構残存度が低く埋葬方法も含めて詳細不明なのだそうだ。

霊場納骨…

12世紀位の天皇や中枢貴族が高野山へ納骨したりを始めたところから始まる。

時の宗教背景は、末法思想や念仏信仰が強まる時期。

弥勒浄土とされた高野山らへの納骨が記録される。

これは同時に陶磁器らを主に蔵骨器として使用する…ここも特徴的かも知れない。

古代火葬墓では金属の筒や球状の舍利へ納めた様で、それが白磁四耳壺らに置き換わる。

蔵骨器は古代火葬墓では、地方任官した中級貴族が現地で亡くなり、それを本地に戻す…こんな事も考えにあった様で(後に衰退、現地埋葬が主流に)、火葬は遺体の急速な白骨化と細片化から持ち運び可能となるメリットも考慮した模様。

それが拡散し、地方の寺社への納骨も起こる。

・屋敷墓や土壙墓、火葬墓…

墳墓堂が衰退し、皇族や上位の納骨が始まる12~13世紀に畿内以西を中心に各地で土壙墓の造営が開始される。

主流は屈葬か足だけ曲げた屈肢葬で、祭祀に用いられた土器類が共伴する事が特徴。

これは今迄の確認でも、土師質、瓦質、山砂碗、陶磁器類が多くカウントされる事でも頷けるだろう。

又、土豪らの屋敷墓は11世紀位から開始され、14世紀頃に衰退する様だ。

これは記述はなく筆者の想像だが、そう言えば北海道~東北での山城への「館神」や塚の造営もこの屋敷墓の延長上にあるのか?

更に、石組墓(配石墓)に五輪塔ら石塔を建てる形態も大凡13世紀後半位には出現する様で、石塔の地下だけではなく五輪塔の「水輪」内部を彫りそこに納骨したケースもあり、遺骨は地下のみでなく塔内に埋葬するケースもあった様だ。

同時に、西側で集石の火葬墓や火葬土壙が拡散する。

これも前項の通りで、

鎌倉以西や東北に多い円形や不定形の浅めの土壙で火葬後に蔵骨器をそこに埋め集石で覆うタイプ、関東中心のT型火葬墓の拡散が起こる。

で、先の石組墓(配石墓)らは、小型化や連結化が15世紀位に起こり、石組(配石)が消滅、単なる集石型へ簡素化を起こしていく。

またT型火葬土壙墓の出現らもこの辺の時代らしい。

その後、この火葬墓の小型化や簡素化が顕著になっていき、小型の物が群集する様になる。

集落の墓域化であろうか?

特に火葬土壙墓は群集が多く、同一エリアを火葬執行空間として維持したと考えられ、そこには墓域を管理し、火葬専門に行う技術者の存在を匂わせるとの事。

先の左上の京都「京大構内遺跡 火葬塚」の様な、都会での共同火葬場の登場もそんな職能集団の存在を想起させる。

「長吏管轄」になるのだろう。

この様な小型化,簡素化傾向は15~16世紀に顕著化するが、一部を除き17世紀迄は継続はしない様だ。

火葬が廃れ出し、並立していた土葬化が顕著になっていく訳だ。

・やぐらの登場…

やぐらは屋敷墓の終焉頃に鎌倉中心に開始されるとある。

だが…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/01/24/190914

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−7…南関東はどう?「関東編(2)」を確認」…

どうもやぐらは鎌倉周辺に留まらず、神奈川東部〜旧安房国周辺に遍在し、似たものは後は北陸。

この辺、北陸の一部については言及しているが、旧安房国(千葉県南部)には触れていない。

13世紀位の鎌倉の都市化や御家人ら武士の集住がその理由として挙げられている。

・土葬墓…

何せ往古から最もポピュラーな墓相、ここは断片的に引用しよう。

「土葬墓は、遺体を残す死体処理として原始以来、命脈を保ち続けてきた葬法であり、火葬導入後も社会の多くの階層が継続していたと考えられる。古代以降に造営される墓の多くが、四角形の墓墳を掘り、内部に遺体を置く葬法て、墓壙内に礫や炭化物を敷くものも散見される。遺体を墓壙内にそのまま置くものを土坑墓、さらに木製の棺に納めるものを木棺墓としている。多くの場合、木質が失われていることが多く、木棺を構築する際に用いられる鉄製の釘の存在から、木棺を想定する場合が多い。また遺体を置く墓城床面にのみ板材を敷くものや、蓋のみをふせるものなど、多様なあり方を見せる。」

「遺体の埋置姿勢は、全身を伸ばす伸展葬、全身を曲げる屈葬、肢のみを曲げる屈肢葬の三者があり、身体の向きを仰向けにするもの、伏せるもの、横向きに置くものの違いがある。現在、「死者の北枕」という表現が用いられるが、中世における北枕志向、いわば釈迦の涅槃図を模し頭北西面を意図したものは、人骨が残されている例からみると、多くの地域で規範的に作用 しているとは言い難い。人骨が残存していないものでも墓城主軸を観察すると、必ずしも南北軸を基調とするわけてはなく、頭位方向は造墓集団が置かれた社会的環境によって異なり、シンボル的な山や海、集落の地割に規制されているものが存在している」

「死者ならびに死者を冥界へ導くものへの供えとしてさまざまなものが献じられてきた。供えものには、その時々、場所において当時の人々の死者に対する思いと表裏の関係として、みずからの冥界への備えの表現として多様な行為として現れる。死者の出現から死穢の除去に対するさまざまな場においてモノが献じられてきた。死者を飾る死装束、弔いからくる共食のための食材を盛る器、仏具など、死者に供えられるものすべてが副 葬・供献という行為の表現として見ることができる。改めて「副葬」「供献」という用語について整理してみると、それは死者との距離(関係性)において使い分けが行われる。副葬は、死者に最も近く・深く・重い関係性を有するもので、死者の愛用品や冥土への「所持品」などが該当する。一方、供献は死者と遺族との関係において献じられるもので、副葬行為よりは、死者との距離がやや遠ざかるものである。しかし、相互の区分けは単純ではなく、すべては「供える」という行為から残された結果を見ることになる考古資料のみでは理解し難い。現象面の理解として棺内埋置事例を副葬、棺外埋置事例を供献として便宜的に理解しているが、それが葬送者の思いを表現しているのかは、理解の再構成を図る必要がある。

次に埋置位置について見てみよう。副葬品の多くは、遺体と墓壙、棺の形状から規定され、四角形に対する人体形状から 頭部両脇、足部脇の二ヵ所に隙間が存在し、一頭部両脇における隙間への埋置例が最も多い。」

「副葬・供献される品々は、死者に対する遺族の思いを表現するように、死者の生前に使用していたものや冥土への供物、さらには死者を魔物から守るための道具が供えられている。具体的には、武器、食器、化粧道具、装身具から工具までさまざまな品々が出土し、被葬者の社会的位置を知る上で、多様な情報を与えてくれている。武器には、刀子、小刀、刀が、食器には輸入陶磁器、国産陶器、黒色土器、瓦器、土師器、石製品、鉄製品などの供膳具、貯蔵具、調理具が、そして化粧具、装身具には鏡、毛抜き、玉類がある。工具類には、鉄製の鎌、鉄をはじめヤットコなどの鉄生産に関わるものも納められている例がある。その他として漆製品、木製枕や銭貨があり、これらの組み合わせによって被葬者の階層が分けられる。これらの品々は、食器・化粧道具類は、頭位左右ないしは頭頂部より上の空間に置かれていることが多く、武器は胸部ないしは左右の手の部分に、工具類も左右の手の部分に置かれている事例が多い。あたかも、冥土への旅立ちに際し、「身」を守るための道具類は、 即時使用に備えるかのように遺体の身近に置き、その他の品々は、墓墳や棺の隙間的空間への埋置を行なっている。

性差と品々との関係は、人骨と副葬・供献物が揃う事例が限られているため、普遍化することには躊躇するが、これまでの 検出事例では、武器は男性に、化粧具は女性との相関性が高い。また中世においては男女とも副葬・供献品の保有率に差は認められない。」

 

「事典 墓の考古学」 土生田純之  吉川弘文館  2013.6.10  より引用…

 

と言う訳だ。

つまり、中世墓においては、

「北枕」はステレオタイプ

「火葬メイン」もステレオタイプ

「副葬位置」はむしろ墓内空間と人体形状の隙間による…

往古より最も使われた墓制なので、多様且つ背景や経緯が複雑に絡み、地域差を生んだりする様で。

実際の墓から割り出せばこうなる。

現実、中世墓資料集成を見てきた限りでは、時期等によりゴチャ混ぜだし宗派によるのか?同じ墓域で変遷したりする。

地域内で同様な傾向を持つ場合もあるが、それがその地域内固有で継続する訳ではないようだ。

筆者が先に「宗派の影響」を示唆したのが正にそれで、時系列的変動は新宗派の伝播や移住者比率の変動の影響も鑑みる必要はあると考えるからだ。

それまで明確な墓標が無かった所に時宗が伝播すれば、板碑が建つ様になるだろうし、その信仰比率が上がれば当然板碑群が形成されだす…こんな事があるだろうからだ。

ましてや、それに往古から続く墓制を継続する一族があれば、そりゃ複雑に入り組む様になるのは目に見える。

全体像だけで判断出来る訳ではないと言う事になる。

予想通り。

故に、山を見て、森を見て、木を見る…と考える。

さて…ではクライマックスといこう。

北海道だ。

アイヌ墓には土葬墓として周溝墓・盛土墓・土坑墓、火葬墓として配石墓・土坑墓があり、和人墓には土葬墓として 盛土墓・配石墓・土坑墓、火葬墓として盛土墓・土坑墓がある。

墓域をアイヌ墓のみで構成する遺跡は北海道東北部から道南部にまで広くみられるのに対して、墳墓を和人墓のみで構成する遺跡は道南部に限られる。

たとえば、道央部石狩の千歳市末広遺跡ではアイヌ墓の墓域に和人墓が点在し、道南部檜山の上ノ国町夷王山墳墓群では和人墓の墓域にアイヌ墓が点在する。両遺跡では墓域の共有はあっても墓制の融合は認められない。」

アイヌ土葬墓は伸展葬であるため墓坑は小判形・隅丸長方形・楕円形・方形・長台形である。和人土葬墓は(仰臥・側臥) 屈葬であるため墓坑は楕円形・小判形・略方形・方形である。アイヌ墓のみにあるのは一次葬の合葬、和人墓のみあるのは鉢被り葬・火葬施設である。周溝・列石は和人墓になくアイヌ墓にある。和人墓の封土・葺石は墓坑直上を覆う小規模なものであるが、アイヌ墓のそれは広く覆う。火葬は両方の墓制にあるが、アイヌ墓には伸展葬の火葬があり集骨はなく、和人墓には集骨がある。アイヌ墓の副葬品は骨・骨製矢中柄などの自製品と太刀・ 鉄鍋・刀子・漆器・ガラス玉など少量の移入品によって構成され、和人墓は銭(六道銭)・漆器・数珠がある。

以上より、アイヌ墓と和人墓には分布域と外部施設・内部施設・副葬品の相違があり、和人が本格的に進出した十四世紀後半には二つの墓制が並立しており墓制の融合はない。

アイヌ墓における埋葬姿勢は伸展葬がほとんどであり、この初出は擦文文化期の九世紀中葉で、それ以降継続する。墓坑平面形のうち、小判形は擦文文化期以前に遡り、小判形・隅丸長方形・楕円形・方形は中世的平面形であり、長台形は新しい平面形である。四辺を板材で囲む槨構造は、古墳時代後期並行である続縄文時代後葉(いわゆる北大式期)から平安時代並行である擦文文化期に類似があり、低平な封土・浅い周溝・周溝平面形は擦文文化期の盛土墓・周溝墓に類似があり、封土規模が墓坑平面形規模に規定される造墓方法も共通する。アイヌ墓制は、内部施設・外部施設は擦文文化以来の伝統を受け、副葬品が新来の要素を受容した墓制である。

和人墓の系譜を示す遺構には、板碑・火葬墓・火葬施設(火葬土坑)があり、六道銭の副葬もみられる。和人墓制は渡島半 島に進出した和人が本州から持ち込んだのであるが、詳細な系譜は今後の課題である。

アイヌ墓制の階層性については、元和四年(一六一八)、松前 で布教したキリスト教宣教師アンジェリスの報告書訳文によると「富裕な者は死骸を納める大きな一つの箱を備えて、直ちにそれを埋葬する。貧乏人は一つの嚢の中に死骸を入れ、同様の方法でそれを埋葬する。」とあり、木槨の有無が貧富の差を示す。盛土・周溝が擦文文化期以来の伝統であり、被葬者は伝統を重んじていたことを示す。一方、木槨・外部施設がある墓が 墓域について隔絶性を表現してはいない。これらより、木槨・ 外部施設が階層差を示すというよりも擦文文化期からの伝統継承と考えられる。ただし、伝統継承が特定階層によって行われたかどうかは未証である。副葬品については、種類と量が被葬者の性差(=性分業)に由来し、個人的な志向が強く影響することを示している。内部施設には個人的状況が反映され、外部施設には伝統という集団における状況が反映される。副葬品には 貧富の差といった個人の当時の状況が反映したといえる。

和人墓の様相としては、夷王山墳墓群においては、標高の高低によって特定の墓域を形成する。一方、利別川河口遺跡の和人系火葬墓は墓坑規格・副葬品の差異がなく、階層を想起させる状況はない。夷王山墳墓群は勝山館館主蠣崎家と家臣団の墓地であり、利別川河口遺跡は一般集落の墓地だからであろう。」

 

「事典 墓の考古学」 土生田純之  吉川弘文館  2013.6.10  より引用…

 

ここの参考文献は、

・児玉作左衛門他「蝦夷に関する耶蘇会士の報告『北方文化研究報告』九  1954

・加藤邦雄「北海道の中世墓について」    石附喜三男編『北海道の研究』二所収  1984

・田村俊之「北海道における近世の墓制」 『北海道考古学』一九、1983

・宇田川洋「チャシ跡とアイヌ墓」(宇田川洋・野村崇編『擦文・アイヌ文化』所収  2004

・鈴木信「アイヌ文化期の墓制」  狭川真一編『日本の中世墓』所収  2009

との事。

では中身を纏めてみよう。

①傾向…

・アイノ系

土葬墓→周溝墓・盛土墓・土坑墓で伸展葬。

火葬墓→配石墓・土坑墓。

一次葬の合葬、周溝・列石はアイノ系のみで、火葬で収骨は無い。

・本州系

土葬墓→盛土墓・配石墓・土坑墓で仰臥,側臥の屈葬。

火葬墓→盛土墓・土坑墓。

鉢被り葬・火葬施設は本州系のみで覆土らの規模は小さく、火葬での収骨有り。

②形状…

・アイノ系→墓坑は小判形・隅丸長方形・楕円形・方形・長台形で伸展葬が理由

・本州系→墓坑は楕円形・小判形・略方形・方形で仰臥・側臥屈葬が理由

③副葬…

アイノ系→骨・骨製矢中柄などの自製品と太刀・ 鉄鍋・刀子・漆器・ガラス玉など少量の移入品。

本州系→銭(六道銭)・漆器・数珠

④系譜…

アイノ系→擦文文化期の九世紀中葉に出現した伸展葬が伝統的に継続。

本州系→本州から持ち込まれたが、詳細は不明。

以上、こんなところか。

さて、お気付きだろうか?

 

考察してみよう。

①系譜…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/08/204335

「㊗️二百項…時系列上の矛盾を教えてくれた「江別,恵庭古墳群」」…

考古学系で筆者が一番最初に手にしたのがこの考古学雑誌。

発掘者の生の声を読みたかった。

で、上記④系譜…の部分に付いては正にピタリなのだ。

恵庭古墳群は末期古墳と土坑墓の複合遺跡なのだ。

古墳→本州系、土坑墓→在地系と考えらる。

そう、引用文の八世紀中葉はこの末期古墳からの系譜。

この段階でも土坑墓は伸展葬ではなく、楕円主流の仰臥屈葬が主で、理由が続縄文文化の墓がそうだからだ。

故に、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/29/105815

「この時点での、公式見解43…「江別古墳群」らを初めとする「擦文文化」が研究者にどう捉えられているのか?」…

こんな判断が成り立つ。

自ら、「本州の古墳文化の末裔」と言ってる様なもんなのだが…

大体、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/121137

元慶の乱…ぶちギレた秋田県民と北海道の選択」…

蝦夷だエミシだとされる東北では、38年戦争や元慶の乱で、政府軍と戦った経緯がある。

元慶の乱で渡嶋衆がどちらについたか?、政府軍側だ。

そんな親朝廷の集団が、どうやって北海道固有の集団に成り得るか?

古墳文化を受け入れ、従来の屈葬を「止めた」…この辺の経緯をすっ飛ばしてそういうのは、如何なものか?

つまりこれが真逆に、北海道土着の続縄文文化での屈葬主流を継続していたなら、土着文化を継承者だと納得出来る。

だが、現実は本州の古墳文化を需要後、それを継承したと書いている。

これで「往古から単一の土着固有」と言えるのか?…ムリなのでは?

墓制のみで見れば、そう言わざるをえないのではないか?

②傾向と形状,副葬…

筆者が「え?」と思ったのは、本州系の系譜が解っていないと言う記述。

本州から「渡った」と自ら書いてあるのにだ。これ、道内比較しかしていないのではないだろうか?と考えたからだ。

土葬は往古から行われ、「本州でも多様且つ規範より地の状況により規制される」…これは本州以南での傾向として記述される。

ここで敢えて「森」をみてみたい。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/25/105821

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4…本命「北海道の中世墓」、だが何故か「長方形墓と楕円墓が併用」されている、そして…」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/28/195142

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、東北編のあとがき…津軽側と南部側の差異を再確認」…

そして、「木」を。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/08/130357

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがき…ならその「北海道の中世墓」事例を見てみよう」…

遺構繋がりでチャシは?こう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/21/204519

余市の石積みの源流候補としての備忘録-8…中世城館資料の北海道版「北海道のチャシ」に石垣はあるか?、そして…」…

まだ、土葬:火葬の比率からではあるが…

津軽〜糠部,下北半島の傾向はトレース出来そうだし、現実として「森」は北東北からの流れと合致しそうだ。

「木」としても「①系譜…」や個別の特異点とされる部分は、近世副葬の垂飾や耳飾らを除けば本州以南にもありそうだし、墓の形態も個々にある。

古銭もガラス玉も双方にある。

これなら同じものをアイノ系では「古銭,ガラス玉はニンカリ」本州系なら「六紋銭,数珠」と読んでる様なもの。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/01/24/190914

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−7…南関東はどう?「関東編(2)」を確認」…

「やぐら」の様に、明らかに墓制が違うなら一目瞭然だが、本州からの流れを無視し同様のものがあるのにも関わらず、「北海道土着固有の文化」と言えるのか?

全体像を捉えた上で「ここが変化点だ」…と言える部分を解明出来たなら、話は別だが、本州からの流れを無視してるなら、それはムリな話だろう。

そもそも論なのだが、アイノ系と本州系とされるものは融合をみない…二度くらい書かれるが、これ、どうやってアイノ系か本州系か元々を決めたのか?、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/12/185631

「定義や時代区分はそれで良いのか?、あとがき…河野氏の問いかけに答えられる者はいるのか?」…

文化定義や時代区分すら明確に設定出来ないのにも関わらず。

ここで、民俗系で近世,近代では火葬の記録が極薄い割に、考古学では火葬もありと言い、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/11/123006

「これが「近現代アイノ墓」…盗掘ではない発掘事例は有る」…

あくまでも最終形態はここに行き着くのだ。

近代迄ある程度管理された墓域で、伸展葬も屈葬も火葬もゴチャ混ぜ。

さて、本当はどんな時間軸経緯でここに行き着くのか?

継続してると言うなれば、説明する義務を負う。

 

さて、如何であろうか?

どんな生活文化だったか?は、住居や墓の発掘事例からの変遷を辿るのは必須だろうし、「事典」にある→一般的認識だろう。

つまり、大学らでそちら系を習得するなら、避けて通れぬ道…学習していると言う事。

筆者は書いてきた。

「専門家はこれらを全て知っている、知った上でこう主張している」と。

こと中世に着目したが、知っているとする根拠はこれ。

学習している。

その上で、北海道を切り離して見てるだけ…そう見えるのは筆者だけか?

まぁ、我々的には通説に拘る必要はない。

多分、我々と似た様な論文はあるだろう、あまり引用されてはいないだろうが。

まだまだ入口…先は長い。

 

参考文献:

「事典 墓の考古学」 土生田純之  吉川弘文館  2013.6.10

㊗500項は、After GEWAの「秋田城介」…「三春町史」にある「安東(秋田)実季」のその後

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/02/183834

「最新刊ではどうか?…「奥羽武士団」に記述される「陸奥安東氏&出羽秋田氏」」…

本ブログもとうとう500項を数えてしまった。

丁度節目なので、ブログを象徴しそうな何かを記念に…などと考えても範囲が広過ぎて象徴もなんも無い感じ。

ならばと、この際は「宿題」をやろうと思う。

安倍姓安東氏「秋田氏」のその後である。

前項を含め安倍姓安東氏の難解?な通史は紹介してきたが…(諸説あり)

神武天皇に最後迄弓を引いた「長髄彦」に関わる一族の出身…

②前九年合戦で陸奥守,鎮守府将軍である「源頼義,義家」親子を壊滅寸前迄追い込んだ「安倍頼時,貞任」親子の末裔…

津軽藤崎から十三湊へ進出、二代執権兼陸奥守「北条義時」に「蝦夷沙汰」を付与され関東御用津軽船を運用…

後に南北朝では北朝方として「蝦夷沙汰」を安堵され十三湊にて隆盛を極める…

④最隆盛時の「安東盛季,日ノ本将軍康季」親子の時期に南部氏の侵攻にあい十三湊陥落、北海道へ回避し再奪還を図るも宗家滅亡…

南北朝期又は④の時代で秋田湊へ進出し、「安東鹿季が上国湊安東氏」立上げ…

⑥南部氏が傀儡を狙い宗家を継がせた「安東政季」が南部氏へ反旗を翻し、北海道へ。後に秋田の檜山へ移り「下国檜山安東氏」を立上げ…

⑦檜山の「安東舜季,愛季」が檜山と湊を統一…

⑧愛季の死により「安東実季」が家督を継ぐが湊騒動勃発、秀吉の惣無事令に触れたとして所領の1/3を秀吉領として召し上げられその代官とされ、この頃檜山→秋田湊へ。

又、蝦夷地代官の「蠣崎(松前)氏」が秀吉の朱印状で独立…

ざっと、こんなところ迄は紹介してきた。

なら、その後は?

ざっと書く。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/153312

「同じ「出羽国」でも、鳥海山の裏側はどうだったのか?…「立川町史」に「庄内地方」の歴史を学ぶ」…

「北の関ヶ原」とされる最上氏vs上杉氏の戦いは、立川町史より庄内の歴史で取り上げた。

この両氏、それ以前から庄内への扱いで揉めており、出羽三山の荒廃の元となったのは概報。

安東改め「安倍姓秋田実季」はこの時に徳川方に付き、上杉氏と結んだ小野寺氏や矢島氏を攻撃し攻略しているが、問題はタイミング。

関ヶ原がアッサリ終わった為、終戦後にまだ攻撃していたと最上義光徳川家康に讒言、実季が弁明、将軍御前での対論となった。

場所は大久保相模守邸…とは言え、当の家康は鷹狩にで、最上義光はお供。

「三春町史」によれば、最上義光の家臣、坂紀伊守が実季に詰問し実季が答える形になったと言うので、完全出来レースだったと…

それでも、最後には坂氏をやり込めて「十分の利運ニなり申候而 座ヲ立」と言い放ち席を立ったとか。

⑨結果は宍戸五万石として転封決定。

とは言え、最上義光は57万石に加増…結果は出ていたのだろう。

詳細は割愛…

⑩実季は嫡子俊季と藩政内容で揉める様になり、幕府裁定により実季は伊勢朝熊山へ蟄居、俊季は正式に宍戸藩主となる。

この裁定はかなり微妙なものらしい。

実季は一度幕府に領地没収され、それを俊季に与えた様な形なのか?

当時、吉野や熊野は家康,秀忠により、関東の大名,武将の蟄居の場と指令されていた様だ。

⑪三春へ転封となるが、俊季は三春の地を踏む事なく勤番中の大坂で病死、嫡子盛季が二代三春藩主となる…

で、初代俊季から十一代映季まで三春藩主を務める。

三春の資料館で見た秋田氏の評価は「可もなく不可もなく」…と言った感じか。

とはいえ、実季の幕府への対応や実季と俊季の仲違いが幕府裁定までに至っていたのにも関わらず改易に至らなかったのは、実季正妻且つ俊季の母円光院が「お犬の方(信長,お市の方の姉妹)」の娘で、三代将軍家光と俊季が又従兄弟だからと言う話も。

義光後の最上氏が最上騒動で改易の憂き目を見ている事等を考えても、特徴的かも知れない。

 

さて、本題。

秋田秋田城介実季は朝熊山でどんな暮しを?

以前概報なのは「秋田家文書」の編纂作業。

日ノ本将軍と呼ばれた安東康季が再建した福井羽賀寺の住職らと文のやり取りをしていた事は史料が残された様で。

 

「一河内守俊事から今日にいたるまでの年寄たちは、その筆頭人にいたるまで、ことに家の系図などの事は、何の役にも立たない事だと思っている奴らである。むかし、豊臣秀吉様の時代には、自分をはじめ、そうした考えだったものだが、徳川家の時代になり、家の系図のよい侍が、将軍様のおぼしめしがよいと考えられている。(後略) (『小浜市史』所収「羽賀寺文書」》」…

自分の正妻が信長の姪に当るので、この時代としては、箔はついているのは確か。

最早、戦国の世は終焉間近。

幕府からの要求で、俊季が一度家系図を幕府に提出しているらしい。

晩年まで、それに不備があったり薄いと考えていた幽囚の実季はこのことを不満におもい、系譜を正すことに精力を傾けた。

そこで、執念で資料を集めたりしたようで。

権威の世の中になるのは解っていたのかも知れない。

この系図は、二代藩主孫の盛季の元に届けられる。

どうやら、実季と盛季は啀み合う事はなかった様だ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/05/192830

安東愛季公が官位を授かる為の壁「勅勘」… 公卿らの勘繰をねじ曲げさせる織田信長公の実力」…

盛季以降はどうやらこの家系図を提出するに至る様で、それは明治政府に対しても同様だったと。

 

実季は、朝熊山永松庵(今の永松寺)に預かりの身となり極近臣の者と共に移り、寺内の草庵で特に寵愛していた側室の片山氏と娘千代(千世)の3人で暮らす。

かなり質素な暮らし向きだった様だ。

家系図編纂の他、実季は和歌俳諧に通じていた様で「宗実」又は「凍蚓」の号で和歌や書画を残し、「明良洪範」なる逸話集に記され江戸期に広く知られた人物だったとある。

蹴鞠や勿論、茶湯にも通じた文化人だった様だ。

 

又、面白い逸話が残される。

医学が本格的に研究される様になったのは江戸後期〜幕末。

それまでは家伝薬らが中心。

で、秋田実季はそんな薬学にも長けていたとされる。

「三春町史 第9巻  近世資料2(資料編3)」 より…

 

「 [朝熊万金丹暖簾〕

安倍奥州田村城主 秋田城介侯御教方

朝熊万金丹 本場 岩城仙寿軒

「皇国元始

あさままんきんたん 秋田教方 」 

伊勢市 岩城たに蔵〕」

 

勿論、諸説ありだろうが、実季は蟄居中の朝熊で世話になってる人物にその家伝薬の処方を教えたそうで。

それを伊勢岩城仙寿軒が「本場あさままんきんたん」として代々販売するに至ったと伝わる。

先に千代、そして片山氏を失い独りとなった実季の波乱の人生は、約30年の蟄居生活の中執念で纏め上げた家系図を孫盛季へ与えた翌年に幕を降ろす。

 

「日本国の北方殆ど北極の直下に蕃人の大なる国あり。彼等は動物の毛皮を着し、毛全身に生じ、長き鬚髯あり、飲まんと欲する時は棒を以て其髭を上ぐ。甚だ酒を好み、戦闘に勇猛にして、日本人は之を恐る。戦闘中傷を受くる時は他に薬を用ひず、塩水を以て之を洗ふ。鏡を胸に懸け、頭に剣を縛し、其先端は肩に達す。法律なく、天の外礼拝する物なし。国は甚大にして都より三百レグワあり。彼等の中にゲワの国の大なるアキタと称する日本の地に来り、交易をなす者多し。日本人彼地に到る者あれど、彼等の為め殺さるゝが故に其数は少し。此種の事にして記すべきもの多しと云へども、本書翰は既に長くなりたれば及ぶ丈省略すべし。」

 

蝦夷管領、日ノ本将軍、秋田城介と呼ばれた「北海の覇者」の一族は、海から離れた山国、三春の地を治めるに至った。

そして、一族最後の北海を知る秋田城介は、北海から遠く離れた熊野に葬られた。

何とも皮肉な話ではある。

 

参考文献:

「三春町史 第2巻  近世(通史編2)」  三春町  昭和59.10.30

「三春町史 第9巻  近世資料2(資料編3)」  三春町  昭和56.3.25

北海道中世史を東北から見るたたき台として−7…南関東はどう?「関東編(2)」を確認

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/12/08/210411

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−6…信濃や伊勢はどうか?「中部・東海編」を確認」

さて、久々に「宿題」の続きをいってみよう。

中世墓資料集成より、関東編(2)…つまり南関東である。

当然関連項は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/26/195206

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−3…東北の延長線上で北関東の傾向を見てみよう」

北関東だろう。

ぶっちゃけなのだが、さすがに中世となると鎌倉や小田原を要する「神奈川県」は他の関東の中世墓数を凌駕する。

とうとうこの南関東で、北,東日本は制覇、四国編は確認済なので、中国,九州,沖縄、そして関西となっていく。

メイントレンドは比叡山,高野山,奈良,吉野を有する関西が元になるのだろうが、実際はどうなのであろうか?

 

では早速どんなものか見てみよう。

 

東京都…

・遺跡総数

90

・土葬or火葬

土葬→20

火葬→16   

・特徴ある副葬

古銭→13

ガラス玉(水晶,土玉含む)→0

鏡→0

鉄鍋→1

鉄釘→1

刀剣(刀子含む)→1

陶器,かわらけ→12

漆器→0

仏具(五輪塔,板碑含む)→18

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→2

 

神奈川県…

・遺跡総数

661

・土葬or火葬

土葬→131

火葬→109   

・特徴ある副葬

古銭→66

ガラス玉(水晶,土玉含む)→5

鏡→1

鉄鍋→7

鉄釘→18

刀剣(刀子含む)→9

陶器,かわらけ→139

漆器→2

仏具(五輪塔,板碑含む)→71

骨角器→4

・特徴ある墓制

周溝墓→2

鍋被り→0

石積塚→26

やぐら→196

以上。

ではまたテーマ毎に確認していこう。

 

A,土葬or火葬…

双方共に土葬:火葬は55:45程度。

火葬が強かった埼玉を除けば、大体他の関東圏と似た傾向と言えるのではないだろうか。

 

B,特徴ある副葬について…

副葬は薄く、土師系や山茶碗の様なものが主になり、陶磁器らでも特に貿易陶磁器の様なものはあまりないし、金属器の様なものも極薄くなる。

仏具系は概ね板碑や五輪塔らの石像物が殆どになる。

馬,牛,貝類が共伴する墓らがあるのも関東からかも知れない。

と、骨角器は4件ある。

鎌倉市「佐助ヶ谷遺跡内やぐら」13~15世紀→骨製笄

鎌倉市由比ヶ浜中世集団墓地遺跡(若宮ハイツ)」13後~14後世紀→鹿角製賽,骨製笄

鎌倉市由比ヶ浜南遺跡」13後~14世紀→骨製笄,骨製ピン状製品,加工骨ら

鎌倉市「長谷小路周辺遺跡(河合ビル)」11末~12末世紀→骨鏃

鎌倉市「釈迦堂ヶ谷遺跡(エクレール浄明寺)」中世→鹿角製双六駒

残念ながら本書には骨角器の図は無い様だ。

由比ヶ浜南遺跡」に加工骨が検出しているので、この周辺に骨角器の加工集団が居た事になるのだろうが、鎌倉市周辺にその分布が集中しているのが気になるところ。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B1%E6%AF%94%E3%83%B6%E6%B5%9C%E5%8D%97%E9%81%BA%E8%B7%A1

一応ウィキではあるが、かなり変わった場所であるのは確かな様だ。

 

C,周溝を含めた墓制変遷…

まず目立つのは神奈川における「やぐら」、約3割に及ぶ。

位置的には、

川崎市横浜市横須賀市三浦市葉山町、逗子市、鎌倉市三浦半島側に集中している。

関連項にある様に、千葉県で初見,23%で、館山市安房郡、鴨川市勝浦市いすみ市茂原市、富津市で、旧安房国周辺に分布、北陸で似たものがある他は東日本では殆ど記述がない。

中には、入口に火葬施設、奥の祭壇に骨臓器を供える形式もあり、土葬,火葬両方ある様だ。

東日本では東京湾の外側〜太平洋に掛けてのこの一帯にのみ、この特徴的な墓制を持つ集団が暮らしていた事になる。

なら、ここに住みこの風習を継続した集団は何者なのか?…こんな疑問も出てくる。

先行論文らを読んでみたいものだ。

ここまで地域として特徴的なら独特の墓制文化圏と言えそうだ。

なら、北海道はどうなのだろう?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/25/105821

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4…本命「北海道の中世墓」、だが何故か「長方形墓と楕円墓が併用」されている、そして…」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/08/130357

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがき…ならその「北海道の中世墓」事例を見てみよう」…

そんな大きな墓制文化の差異があると言えるのか?

特異点ばかり追いかけていて、全体像が見えないていのではないだろうか?

 

D,集石塚について…

集石と言うより、A,に関連するが、東京と神奈川、特に鎌倉より西側では火葬施設の形が違う様だ。

これが東京。

他の関東と共通のT型火葬墓が主。

対して神奈川西部がこれ。

東北や中部,東海の様な円形又は不定形の火葬施設の上に集石したり、集石の上で火葬し骨臓器に収めるか…の様な形が主になる様だ。

と言う事は、T型火葬墓が関東独特で、メジャーなのは集石を伴う火葬墓なのか?

やぐらの件もあり、案外関東そのものが特異点…ということはあるのか?

 

E,十字型火葬墓について…

残念ながら見当たらない。

 

F,鍋被り墓について…

残念ながら中世では見当たらない。

 

以上となる。

やぐらや鎌倉があった特異性から興味深い遺跡が多く周辺域の墓制変遷も見ていたいが、目的は全国の傾向の把握、この辺にする。

全体像把握の上で、墓制の専門書らは再確認するつもりである。

中世だけでもこれだけ多様だと解る。

むしろ、北海道より関東の方が特異性が強く感じるのは筆者だけだろうか?

少々意外な展開になっている気もするのだが…

まずは「前へ」…

 

参考文献∶

「中世墓資料集成−関東編(2)−」 中

世墓資料集成研究会 2005.3月

 

「中世墓資料集成−関東編(1)−」 中

世墓資料集成研究会 2005.5月

コイル状鉄製品のルーツとなり得るのか?−2…螺旋形状をした事例3点の備忘録

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/08/16/182820

本年最初のブログは、コイル状,螺旋状の物の第2報とする。

何気に買っていた文献やふらりと訪れた資料館,博物館、そして埋文にもポツポツそんな特徴を持ったものはあったりする。

勿論、関連性らは何も解らないが、そんな事例を増やしていけばいずれ共通の風習や宗教らに辿り着く可能性が無い訳ではない…故に「備忘録」。

今回は各時代の3点についてそれぞれ報告しよう。

 

①馬具…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/12/16/211012

「「牧」を示す「黒ぼく土」…「尾駮の牧」研究から中世北海道に馬がいたか?の検証の為の備忘録」…

ここで参考にした「尾駮の駒・牧の背景を探る」に記載された内容である。

「東北北部で出土した馬具類のいくつかを図示しました(第2図)。図の1~4は轡です。1・2は八戸市丹後平古墳群出土のもの、3・4はおいらせ町阿光坊古墳群出土のものです。どれも七~八世紀の墓から出土していますが、2や3は六世紀の朝 鮮半島で製作されたものと推定されています。5・6は杏葉といって馬に着せた飾りの一部です。7~10も、馬に着せる飾りに用いられていた金具です。このような飾りを着せた馬が七~八世紀の東北北部にいたのです。」…

とある。

阿光坊古墳群と言えば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/10/210140

「「阿光坊古墳群」に残される墓参と思われる痕跡…末期古墳を作った人々の断片と製鉄ルート」…

訪問済。

実は筆者は見ていたりする。

ワイヤー状に「寄り」を入れている物が半島系や渡来系と捉えられている訳だ。

 

②鑷子状鉄製品…

今年最初の遠征より一件。

昨年最後の遠征は新潟であった。

そこから北陸方面へ展開してみたいと思っていたが、元旦の「能登半島地震」から落ち着く迄は控えるべきと判断。

で、今年最初はいきなり関東へ。

群馬県渋川市である。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/01/11/063157

「生きてきた証、続報42…これが平地住居の「煙道無し竈」、驚愕の黒井峯遺跡」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/01/15/193659

「これが東日本最古級とされる「古代精錬遺跡」…黒井峯遺跡を支配したであろう豪族居館「三ツ寺Ⅰ遺跡」」…

黒井峯遺跡らの遺物や特に「平地住居の煙道無し竈」を見てみたいと常々思っていたので、「渋川市埋蔵文化財センター」「群馬県埋蔵文化財センター」を訪れてみたが、その中で目についたのがこちら。

展示パネルより。

「石で囲って作られた棺(箱式石棺)の中には、古墳に葬られた人(被葬者)が生前に所有していた鉄製の剣が3振、そして鑷子状鉄製品と呼ばれる毛抜きに似た鉄製品1点が副葬されていました。これは剣や刀を腰から下げる時に使われた道具と考えられます。

この古墳がつくられたのは、古墳時代中期(5世紀後葉)です。すぐ東側に「甲を着た古墳人」が出土した金井東裏遺跡があり、その関連が注目されています。」

筆者が気になったのは左側の鑷(毛抜)部分ではなく、中央〜右にある接続金具。

これ、ワイヤー状に拠りが入ってる様に見えたから。

検索してみるとやはり①の様に渡来系との関連の記述があるものもある様で。

現物展示をしておらず、対応戴いた学芸員さんも現物は見た事がない(多分防錆処理上)との事だが、やはり拠りが入ってる様な感じの認識の模様。

何に使われたものか詳細は不明の様で。

因みに、群馬県埋文でうかがったが、群馬で現状確認されている「製鉄炉遺構」は7世紀の「箱型炉」だそうだ。

その辺も含め、「この辺の古墳期のワイヤー状の遺物」は大陸や渡来系からの移入品と判断されるのだろう。

 

③縄文の「糸玉」…

先述の去年最後の遠征で、新潟県埋蔵文化財センターで、

初めて見た時に「あれ?」と思ったものだ。

展示パネルより。

縄文時代の漆利用は、約9,000年前にさかのぼり、世界最古の歴史がありました。新発田市青田遺跡では竪櫛や腕輪のほか、この製作に使われた漆容器がみつかりました。赤漆塗り糸玉は、植物の繊維を撚った糸に赤漆を塗り重ねてから、数千本を束ねて結び目をつけたものです。アクセサリーのほかに、結び目の数 や配置などで意思を伝える道具の可能性があります。同様の糸玉は福島県奈良県でもみつかっており、広範囲で糸玉が使われていたようです。」

何故「あれ?」と思ったのか?

瞬間的に思い出したのがこの「垂飾」。

勿論、単なる思い付き。

ただ、引っかかるのは「繊維を紡いだもの」だ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/30/121516

「「樹皮繊維も特別な物でなかった」あとがき…紡績技術の継承が無い!」…

こんな話である。

糸玉は別称「つぐり」と言うのだそうだ。

「つぐり」は「松ぼっくり」や「髪を束ねて後頭部で球形に丸めた結髪方」の事でもある様だ。

これが古来からの養蚕ら繊維に纏わる「信仰具」に有れば…ふと考えたのはそれ。

養蚕の「絹」にして、苧,麻にして、古来から衣服らで使われ租税対象だったのは言うまでもない。

勿論、養蚕に関しては独自の信仰もあるかと。

この辺は今後の展開になるだろう。

昨今、修験らを追い掛けているので、血相変えて探し回らずとも仮に繋がりや近似の信仰具が出てくれば勝手にぶち当たる…こんなお気楽モードで待ちをかけるのも悪くは無い。

②にして③にして、ふらり思い付き遠征で見つけたもの。

単に「大陸に似たものがある」ではなく、「信仰対象である」とでどちらが蓋然性が高いか?…筆者は後者と考えている。

問題はむしろ、時代背景かも知れない。

 

我々グループのモットーは「楽しむ」。

こんな妄想から裏がとれたら儲け物。

とはいえ、それらは捨てたもんじゃない。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/164447

余市町茂入山…冗談とチームワークと執念」…

現に「ここなら城の条件ピッタリじゃね?」が、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/27/212200

「これが「余市の石垣」…現存している石垣を確認」…

石積み,石塁,石垣の現存確認に至り、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/21/204519

余市の石積みの源流候補としての備忘録-8…中世城館資料の北海道版「北海道のチャシ」に石垣はあるか?、そして…」…

石工の活動や、技術を伝えたであろう修験者らに至り、こんな話迄に膨らんでいる。

発想は自由で良い。

後は、それが仮説として成り立つか?を何処まで追い掛けるか?だけの話…筆者はそう思う。

故に「楽しむ」。

「子曰く

之れを知る者は之れを好む者に如かず。 之れを好む者は之れを楽しむ者に如かず」…

片道470kmの遠征も楽しくてしょうがない。

 

参考文献:

「尾駮の駒・牧の背景を探る」 六ヶ所村「尾駮の牧」歴史研究会 2018.7.30

 

「丸山古墳」 渋川市教育委員会  昭和53.3.31

1890(明治23)年段階での北海道の馬や馬具への備忘録…A・H・サベージ・ランドーアの独り旅からのレポート

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3

「対雁に移住した樺太の人々達はどんな暮らしを?…東大英語学者「ジェームズ・メイン・ディクソン」のレポート」…

明治段階での西洋人のレポートをもう一件しよう。

関連項は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/12/16/211012

「「牧」を示す「黒ぼく土」…「尾駮の牧」研究から中世北海道に馬がいたか?の検証の為の備忘録」…

馬である。

と言うか、この資料集には「A・H・サベージ・ランドーア」と言う人物が1890(明治23)年に北海道を独り旅した時のレポートが記載される。

函館→室蘭→沙流→十勝→釧路→厚岸→根室→千島→斜里,紋別→宗谷→石狩、と周遊しているが、訳部分は29章ある内、釧路〜斜里,紋別の5章だが、その中に厚岸→根室での駅逓の中で、どんな馬具が使われていたか?の記述が載っており、非常に興味深い。

ぶっちゃければ、

こんな形。

我々がイメージする轡の形をしていないし、材質も木製。

では、その馬についての記述を引用してみよう。

「私が、約八哩(筆者註∶8マイル)更に東方にある次の駅であるリルランに向って、わが道を進めなければならなかったのは、このような深い海霧の中に於てであった。道路は、間もなく只の踏み分け道になって、主に草原地帯である、うねうねと波うつ土地を通って走っている。回り合せがそうさせたのであろうか、賃借りした私の馬は、リルラン駅逓に所属する馬であり、それは私の思いと同じく、其処に行きたいと熱望しているようであった。馬は道を知っていたが、私は知らなかったので、馬の案内に任せたのである。時々、風が加速度を加えて吹き、海霧がその僅かの間だけ吹き飛ばされて、美しい景色がいくらか目に入った。周囲の土地は、総て草地で、見馴れた鬱蒼たる樹木の岡が背景をなしている。」

「岡から岡へと昇り降りがつづき、丈夫な小さい馬は、自分の以前の故郷に、調 子よく進んでゆく、だが、私は生きているものには、何一つとしてまだ出遭って いないのである。此処では、この暗黒色の肥えた土地で働き、耕す労働者はいな いのである。馬鈴薯畑、自分たちの野菜畑の構想をもった小屋、緑の牧場の上に 撒き散らしたような牛と羊−全てが力強くて、有效な農耕の象徴であるが−は、 エゾ地へ向おうとする旅行者たちが、期待はずれで、失望する事物にほかならな い。どこもが、孤独で単調である。」

「前略〜馬のいななきは、私がリルランの駅に着いたことを告げた。 そして数分後には、私の荷物と荷鞍は、湯気を立てている四足獣からとり除かれ、次いで新しい馬が私の携行品を背負わされた。この様な駅逓は、通例その所有者と家族の住む一戸の小屋から成っている。小屋の傍らには、水平に並べた木の枝と幹で作られた一つの粗末な囲いがあって、処々地中に埋めた木で補強してあった。馬は、日中この囲いの中に入れて置くが、夕方には外に出される。そこで馬たちは、食糧を求めて、それがある所ならどこでも−普通、近くの岡の上に−行くのである。早朝、駅逓勤めの数人のアイヌが、馬を再び捕らえるために出かける。そして、悪戦苦闘の末、馬の群を牧場につれ帰るのである。半野生馬の習性について、よく知らない読者のみなさんは、一旦拘束されない土地に自由に解放された馬たちが、みんなで奥地に逃げはしないか、そうすれば馬たちを再び捕らえることが困難になるであろう、と疑うに違いない。更に又、読者は、馬たちを全部回収するのは、アイヌの馬番にとって、さぞかし困難な仕事である、と考えるであろう。というのは、馬は一頭づつ、てんでんばらばらに、違った方向に逃げていると、恐らく想像しているであろうからである。しかし、これは事実でない。一群の馬が放されると、馬たちは常に決ってーしょに同一方向に行くのであるが、普通年長の馬たちの行くところに従う。そして、年長の馬の首には、鈴がぶら下がっているのである。馬たちが本来の餌場に来ると、全部の馬はお互い数嗎内に集って餌を食べる。そして、その群が必要以上には、一歩も群の外に出ないのが、好都合なのである。つまり、馬たちは一番恐ろしい敵である熊が、極めて近い岡に横行していることを、よく知っているのである。馬群の飢が満たされると、共に肩で押し合って円陣を造り、その中央に幼馬が置かれる。斯の様にして幼馬は、熊の害からよく保護されるのである。つまり、熊が四分の一程も接近すると、強力な自衛力をもつ後ろ足の蹄で、手痛い反抗を知らされることになるのである。アイヌは、優れた追跡者であ って、馬群がどの方向に移動したかを発見するのに、殆ど困難を感じないのであ る。この準備が確認されてから、馬番は、よく世話をして後方に置いていた速い馬にまたがって、日の出の約一時間前に駅逓を出発したのは、日の昇るまでに の群に行きつくのに充分な時間をとるためであった。彼は、自衛の円陣を作って いる馬を発見した。長い杖でその列を分けて、大声で叫び、あちこち荒々しく馳け回って、馬たちを追いつづけ、囲いの中に入れたのである。馬が全部囲いの中 に納ると、一本の重い木製の横木が、二段になっている二本の棒の上に置かれる が、こうしたものが入口の各々の側に一つづつあって、馬の出入りを閉しているのである。そして、馬たちは終日こゝに止め置かれて、この海岸に沿って馬を必要とする人や商人の需要を待つのである。

駅逓の多くは、日本人かアイヌの混血者の所有のである。その周辺地区の必要性によって、あるものは多数の馬をもち、あるものは僅かしか所有していない。 一頭の平均市場価格は、5円乃至10円であって、英国の通貨にすると、ほぼ15志(筆者注∶英国通貨のシリング)乃至30志である。

駅逓の馬は、僅かしか労働させられないので、時には少額の金で、よい馬が手に入る。しかし乍ら、大きい植民地の傍の駅逓−その辺では、他の村々との商売が、全て荷駄によって運ばれている−で は、大変気の毒な動物で、粗末な荷鞍の 震動のために生ずる、皮膚の傷の塊りを、背中につけているのである。更に、又仔馬を、時には40乃至50哩(筆者註∶マイル)の遠距離間を雌馬の後に従わせる可哀そうな習慣は、見ていて胸の痛む光景であるばかりでなく、飼育上有害である。エゾ地の馬は、 長い体毛と、たて髪をもっているのが特色である。馬の背丈は低く、頑健で、ず んぐりした動物で、10乃至12掌幅(註釈 馬の高さを計る尺度、4吋)以内の多少大型でどっしりとした頭と太く曲がった脚をもっている。彼らは、決して外観はよいといえず、手入れもされていない−実際、全く手入れをされていないといってよい−で、北海道の粗末な道路と嶮しい荒地に、立派に役立っているのである。 従って、その馬たちは、わたしたちが自分の馬に要求する特質は、何一つもっていないけれども、馬たちの住む地方に適応させた特色を持っているのである。彼らの巨大な耐久力、ほとんど足で登りえないような最も嶮岨な道を越えてゆくことのできる不思議な技倆、そして絶壁にそって進む時の確実な歩み、波が通行不可能にし、私たちの良い馬では脚を挫かずには、進みえない岩石の海岸上に、その道を掘って進む驚くべき能力が、天賦の才能の全てであることを、エゾ馬の名誉のために附加して置かなければならない。馬たちは、蹄鉄をつけていず、又 殆ど訓練もされていない。実際上、もし旅行者が熟練した乗り手であるならば、完全に条件の揃った馬を手に入れるのが得策であろう。それは、私の経験から言いうることがあるが、騎馬がたとえ多少刺戟的であろうとも、進行のためにかなりの鞭うちを要する。使い古して、背中に傷ついた“安定した馬”よりは、総体的に完全な馬と行を共にする方が、間違なく快適な旅を約束されるのである。」

「馬を制御するために、珍しい方法がとられている。それは、単純であるが、巧妙にできている。それは、馬を制御するのに必要な轡の代わりの役をするもので あり、長さ約12吋、幅2吋の2枚の木の棒で、その間3時を置いて、一端を共に縛っているものが轡の代りに装置される。この棒の真中には、一本の紐が通っていて、それは馬の頭の耳の後方に通っているのであり、棒自身はこの様に保持され、鼻の両脇に1つづつ密着しているのである。もう1本の紐は、5呎乃経6呎の長さで、手綱として使われるものであり、 棒の片方の下位に固着されていて、 穴を通して他方に至っている。この様に、簡単な考案は、挺子の原理に基いて、丁度クルミ割り器かクルミを挟むように、馬の鼻を正確に締めつけるのである。 この構造の欠点は、手綱が1本しかないために、右又は左へ向けようとする度に、 調が馬の頭上を行き来しなければならないことである。こうして、手綱を強く引 っぱると馬の鼻を圧迫し、頭は引っぱられた方向にむけられるのであり、その結果、馬は直ちに自分の行き可き方向を知ることになるのである。又、馬が走り出 したならば、頭を尻の方向に引いて止めることができる。つまり、馬が続けて走るのを、やめさせることになるのである。この場合、屡々、殊に訓練されていない馬の場合に起こるのは、馬が頭を体の側から押し出して、ねじれた首を真直に直そうとすると、円形に疾走することになり、その結果は、大底馬と乗り手の双方が、ひどい倒れ方をすることになるのである。

又、もう一つ注意を要するには、足を獰猛な歯の到達外に置くことである。というのは、人間が動物を罰する代りに、動物の方が人間に報復することが、稀ではないからである。そして、不注意な旅行者は、シドニー・スミスの意見を悟り、 英国の馬車馬に対すると同様に、エゾ馬に対して"すべての肉は草である”事実 に気づくことになる。」

少し拡大してみると、

こんな使い方をしている。

まぁあくまでも、明治23年段階での話ではあるが、近世,近代でも馬具らしいものが出土しない理由は「木製且つ構造が違う」と言う可能性もある事になる。

案外、仮に出土していても、こんな単純な板であれば「轡」と考えるであろうか?

勿論、これが何処迄遡るか?、どんな地域迄広げられるか?も未知数だが。

ただ、これは言えるのだろう。

本州にして、北海道にして、牧を作ったとして無理に柵を設けて閉鎖空間を築く必要は無かったと。

熊なり絶滅したニホンオオカミなりに警戒した馬は集団行動をとりチリヂリバラバラになる事はないので、早馬一頭だけ手元に置けば一箇所に集める事は可能だったと。

で、懐く事をせず、自らの意志で何処までも踏み分け走破し、荷物を積もうが疲れる事を知らぬ馬…

まるで平安の昔の「尾駮の駒」そのものではないか?

特に軍馬はサラブレッドの様に整地された馬場を走る訳ではない。

鵯越え」すらやってのける踏破性を求められるだろう。

サーキット専用のF1マシンでは役に立たない。

むしろ必要なのは、ラリーマシンかラリーレイドの4WD。

トップスピードより、砂漠だろうが砂利だろうが岩山だろうが駆け抜ける能力の方がより必要。

舗装路を走る訳ではないのだから。

そんな軍馬を手に入れたら、極端な話、騎馬軍団を通す為の道を予め作る必要すらなくなる。

尾根伝いに国境を越え、電撃戦を仕掛ける事すら可能。

背後から高速戦車に襲われる事を考えたら、より高い場所に監視台を作らなければ陣地保持なぞ不可能。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/112501

「北海道弾丸ツアー第四段、「中世城館編」…現物を見た率直な疑問、「勝山館は中世城館ではないのでは?」」…

だから言う。

平安此の方、軍馬に求められる特性を熟知している当時の武将が、こんな城館を築城するか?

安東氏の最大の敵は「南部氏」。

陸奥馬を投入されれば、上陸戦に気を取られる内に、背後から襲われ瞬殺される。

守れるハズもなかろう。

だから構造が???なのだ。

何せ、自分達が馬を使っている。

同じ「武器」を想定しないハズかあるのか?

ましてやこの轡であれば手綱は一本。

常に片手は空いているので、刀剣や薙刀,槍を振り回せる。

 

如何であろうか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/20/193208

「時系列上の矛盾&生きていた証、続報39…ユクエピラチャシから出土した鉄器、これ「馬具」では?」…

中世でも轡と思われるものはあるが、それは権威者たる武将だけ装備すれば良い。

自ら進むルートを決められ、集団で行動可能な馬あらば、あんな轡でも良いかも知れない。

少し、思い込みを止め、柔軟に考えるべきなのかも知れない。

 

参考文献∶

「ひとり蝦夷地をゆく −釧路・根室・千島・北見の部−」  A・H・サベージ・ランドーアアイヌ民族オホーツク文化関連研究論文翻訳集』 北構保男/北地文化研究会 2005.10.20