対雁に移住した樺太の人々達はどんな暮らしを?…東大英語学者「ジェームズ・メイン・ディクソン」のレポート

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/28/203440

「この時点での公式見解-30…旧「旭川市史」に記された北海道の教育創成記の実態 ※写真追加」…

これを前項に、古代〜中世から少し脱線しよう。

ちょっと欲しい古書があったが3冊SET、この際と思い購入したが、欲しい文献とは別の文献の中にJ・M・ディクソンが明治の北海道で見聞したレポートが記載ある物が含まれていたので紹介しよう。

紹介文から検索すると、どうやら「ジェームズ・メイン・ディクソン」と言う方らしい。

多分、大学で文学系を選考された方は知ってるのだろう。

明治の東大で1880年から12年間英語学を教えた方で、我が国の英語学に多大な足跡を残した方と。

ググってみると…どうも「夏目漱石」や日本の英語学の第一人者「斎藤秀三郎」にも英語を教えたと。

とはいえ、元来文学系に全く興味無く、学も無い筆者にとっては未知の人物。

その辺、興味ある方は個々に確認して欲しい。

このレポートは「対雁アイヌ人」といって、1875(明治8)年に千島・樺太交換条約の折に対雁に移住した人々の元に1882(明治15)年に本人が出向きインタビューした内容。

移住から約8年後の姿としている。

これが「明治大正期北海道写真集」にある移住者に割当られた漁場の写真。

前項にある、住民の希望で建設された学校の開校式が明治11年なので、その4年後になる。

白瀬南極探検隊に参加した「山辺安之助」もここの出身。

関連項として、移住時に関与した人物の一人が「松本十蔵」。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/06/101544

「サムライ魂を持つ助っ人…極近代の札幌と鶴岡の関わり」…

対雁に拘る黒田に対し、なるべく樺太に近く漁業に専念させるべきとした松本とが意見の衝突、松本は職を辞して故郷鶴岡へ帰郷する。

鬼と言われた「酒井玄蕃」を擁し幕末最強とも言われた庄内藩、明治に入れば逆賊扱いを払拭される為の努力は並大抵ではなかった事は、サムライシルクの逸話や関連項にある札幌桑園開墾への助っ人にも滲み出る。

 

前置きはこの位にして、本題に移ろう。

①序文より、古老の首長は移住をどう考えていたか?

 

「ッイシカリ(対雁)は札幌市から約12哩ほど東方に位置している、平野の中の小集落であり、そこに植民しているアイヌ人は、サハリン即ちいわゆるカラフトからやって来た人々の一集団である。彼らが日本政府の勧めにより故郷の島をあとにしてから、約8年を経ている。老齢者たちは、ここに移住した、1875(明治 8)年以前の時代について、痛惜の念をもって語っている。つまり樺太の河川と海浜は、石狩の河流や流入する海港よりもいっそう大型で、良質の魚族が豊かであった、というのである。1863 (文化3) 年から同75(明治8)年まで、日本はサハリンに於ける国境問題についてロシアとの間で決着をつけるよう努力し、北部千島諸島をサハリンの領有部分と交換することで終結させた。1875 (明治8)年日本は、この地に定住したいと希望する かなり多数の日本所属サハリンアイヌ人たちを、石狩河岸の土地に居住することを許容したのである。7~8百人が到着して、石狩川の河口から約12哩溯った豊平川石狩川との合流地点に、自分たちの藁ぶき家屋を建設したのである。彼らの首長(オテナ)の名はチコビルと言い、今では老人となっているが昔のことを非常に悔んでいた。彼の家は、他の同族に比較してもけっして勝ったものではない。つまり簡単粗雑の点でそうであって、ただ少しばかり大きいというだけである。一種の鳥居、つまり出入口が、その区別に役立っているという唯の一点だけである。」

 

レポートはここからスタートする…

あれ?、いきなり気になる点。

実は ディクソン の紹介文では、

「この樺太アイヌ人の対雁強制移住は、明治政府の失政の一つとも言われるが、学者の調査としては数少ない貴重なものとなっている。」

とある。

時はまだ我が国に於ける西洋式学問の萌芽期であるので、数少ない西洋人学者による聞き取り調査であった事は間違いなさそうで、対雁移住直後の姿のレポートは極貴重になるのだろう。

で…

紹介文上では「強制移住は明治政府の失政の一つ」としているが、ディクソンはそんな事は書いてはいない。

「この地に定住したいと希望する かなり多数の日本所属サハリンアイヌ人たちを、石狩河岸の土地に居住することを許容した」…であり、

・元々日本に帰属

・北海道への定住希望者

・居住を許容した

と、ハッキリ記載している。

よく出る「強制移住」とは全く書いてはいない。

少なくとも調査するにあたり、ディクソンはそういう認識だった事になる。

改変したのは誰か?…学者の言う事を認識改変するのは「学者」になるだろう。

まぁこの辺は地方史書を紹介する度に言うが、史書も論文も何時誰が書いたのかは記載が必ずある。

つまり論調の変化が何時誰の手により行われて、それが一般化されたかは辿る事は可能。

政治系の発信をされている方々が何故それをやらぬか?…これが我々には理解不能なのだ。

まぁ、置いといて…

古老の首長は、移住を後悔しているとある。

ただ、その理由は「樺太の方が漁場が豊かで、大きな家にも住めた」からの様だ。

但し、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/07/133243

「この時点での公式見解-35…新旧「旭川市史」にある石狩川の特異性とその背景にあった「北海道労働環境の変遷」への説明」…

この時点で既に石狩川の資源は枯渇気味になってきていたのはこの通り。

割当の漁場の写真は前述の通りで、周囲に割当られた漁場とそんなに変わりはしない。

本書で読む限りでは「希望して移住はしてみたものの、思ったより豊かになれない」事を悔やんでいる模様。

まぁ折衝の一端は松本が担っていたから、黒田と衝突したのは理解可能だろう。

逆賊の汚名返上に遁走する松本が、樺太の人々の意見を聞かずに動くと思うか?…と言う事だ。

 

②容姿…

・男子…

高く形良い額と無邪気な顔つき、前頭部を剃り残りの前髪は後ろへ。

堂々且つ闊達で、人により底抜けに愉快。

戸外の生活をする英国人より多毛ではない。

・女子…

立ち居振る舞いは内気で尻込みしがち。快い哀調を帯びた音声と感情に満ちた黒い瞳を持ち、口の周りに入れ墨をする。

入れ墨の染色薬はハバの木(樺?)の樹皮や山桜の樹皮。

・服…

丈が短い事と袖が手首側にいくほど細くなる以外は和服によく似る。

材質はオヒョウで、色は淡白色〜赤褐色。

それとは別に外来布地で作った服を持つ。

帯は、

男子∶2∼3インチで先端にガラス玉をあしらう。

女子:金輪と貨幣が付く革製で、財布として使う。

男子は短い服の前にエプロンを掛け、脛当てと、冬は鮭革の靴、鮭革に毛皮を縫い付けた手袋を使う。

・武器…

木製で6フィートで、沙流の人々より長い。

矢は2.5フィート、山丹鉄平打の鏃で、見る限り毒は使わず。

剣(エムシ)や匕首(合口,マキリ)を持つ。

海獣狩りの際は銛を使う。

・煙草…

男女共に喫煙、特に女性は常に煙を吐く。

・楽器…

口琴は二種類、金属製と木製。

木製の五絃琴

ほぼ、女性が独占。

インタビューした一人曰く、「自分達はロシア歌謡を歌う事に慣れている」に対しディクソンは「西洋人と同じ音階を持つ」と考察する。

 

③生活…

・生業

本質的には漁撈民で、主食は米とすり潰したウバユリの根茎。

若干数が幌内へ伸びる鉄道の労働者や馬方、札幌近隣の低賃金の仕事へ就職し、漁撈を生活の足しにする。

鹿狩はしない(近所に見当たらず)が、熊狩はする。

武器は弓と鈍器の様な剣で、熊との対峙は誇り、「臆病」という単語がないそうで(沙流にはある)。

・住居

気になる点があるので引用する。

アイヌ人の家屋は、木の丸太の粗雑な構造物を草本の薬で覆って造られている。 それには普通玄関つまり入口が付いているが、時には水桶やその他の家財道具を収容するに充分な大きさをもつものがある。ここかしこの窓 (ブヤラ) から明かりの入る家の内部は、板を葺いた床があり、また煙の嗅いがしている。中央には薪を焚く火が燃やされる炉が位置し、その煙は屋根の開き窓 (ブヤラ)を通して 出てゆくのである。炉の傍らには煤で汚れた老婆が、キシェリ (煙管)を吸い、動くものすべてをじっと見つめている姿をみるに違いない。ちょっと離れた左側の隅には、家宝一漆塗りの容器 (シンドコ) や家族の所有する何か他の伝来の家財等が置かれている。その家宝の前は来客用の名誉ある座席である。いくつかのイナウォつまり木製の形象物が、恐らく炉の近くに打ち込まれているに違いない。

ひとりの老人の語ったことだが、ずい分以前サハリンでは、その同族はトイチセィ(土の家)と呼ばれる地下式家屋に住むのが例であったという。春になると 彼らはその地下式家屋を去って、霜や雪が再び彼らをして屋根で覆われた竪穴一 洞穴ではないーの地下の棲家に隠れ家を求めるまでの間は地上で生活することになるのである。類似の竪穴の遺跡は、今日もなお札幌の新しい博物館付近でみられるが、それがアイヌ人によって用いられていたか、あるいは更に先住の一民族によってなるものかは不確かである。

アイヌ人は陶磁器をほんの僅かしかもっていないし、またその所有する僅かのものも、日本人から入手したものである。彼らの自家製什器類は木製で、最も粗製の類のものである。匙、柄杓、魚や飯の容器、お盆、ウバユリの根茎を摺り潰す大型の枠と日等のものが、彼らの所有するほとんどすべてである。

アイヌ人の倉庫(プ)は地上から数呎(筆者註:数フィート)、柱の上に建て上げられている物置で、その下には犬橇(シケニ(筆者註:犬ぞり))が冬期間使用するために用意されているが、それは極めて幅が狭くほっそりした構造である。滑り木には骨が履かせてある。

プのように若干呎地上に建ててある熊の檻 (イソチセイ)は、幼い熊を飼育するために構築されているが、熊の極めて幼い時期にはアイヌ人の主婦は自分の乳を飲ませるのである。こうした仔飼いの熊は九月の熊送り祭において、正式な儀式によって殺されるのである。」

ちょっと羅列する。

A,「違いない」と2箇所出てくる。

「炉の傍らの老婆」と「炉の脇のイナウォ」だ。

この文ママなら、この二つはここには無かった事になるのでは?

B,「トイチセ」への言及。

まだこの時代は「コロボックル」の話が生きているのだろうが竪穴住居について札幌周辺にあると記述する。

で、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/13/185111

「時系列上の矛盾…明治の北海道民は、真の北海道の姿を知っていた」…

この様に明治期で竪穴跡の分布調査は行われ、それらが学術調査として発掘され出したのは大正〜昭和初期から。

擦文文化期…つまり奈良,平安期辺りを主にした遺跡であった事は発掘で解っている。

但し、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/16/184916

幕別町「白人古潭」はどの様にして出来たのか?&竪穴住居は文化指標になるのか?…「幕別町史」に学ぶ」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/02/201117

「本当に「竪穴→平地住居化はアイノ文化への変遷の指標」になるのか?…「新編天塩町史」に記述される幕末迄竪穴住居が使われたとされる事例」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/29/202212

「この段階での公式見解-31…消された竪穴住居「トイチセ」の存在」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/11/173848

「ゴールドラッシュとキリシタン-28&生きて来た証、続報39&時系列上の矛盾…松浦武四郎が記す、多くの金坑跡&穴居,畑跡」…

これらの様に、幕末位まで竪穴住居が使われたという話もある。

で、その実物を見て記述があるのは幕末〜明治頃。

これ、結構大きな問題かと思う。

アイノ文化開始の指標の一つが「竪穴→平地化」であるからだ。

この指標を用いれば、天塩や幕別周辺の十勝らは幕末迄が「プレ・アイノ文化」となろう。

で…

萱野茂氏が再現したのは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/23/194902

「時系列上の矛盾…建築者「萱野茂氏」本人が記す、チセの再現過程」…

昭和初期の住居。

そして、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/19/204031

「建築系論文に見られる「時空のシャッフル」…「学術」と「観光」の区別はあるのか? ※追記有り」…

建築系学術調査に対して、送付されたデータには「明らかに観光要素が入る」物が添付されている。

本当はどうなのだ?

文化化指標に出来るのか?

とはいえ、近世〜近代での竪穴住居を確認するのは少々難しいだろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/14/211625

「弾丸ツアー報告-1、恵庭編…江戸期の物証的「空白期」、そして「アイノ文化を示す遺物は解らない」」…

重機でぶっ壊していた。

まぁ、先へ。

C,生活必需品…

通常の食事らに使う什器は、木を削った自家製で、その他僅かな陶磁器や漆器らは本州側で作られたものとある。

また、樺太の人々は犬ぞりを使う。

D,熊の檻への言及…

所謂「熊送り」用の小熊を入れる檻の模様。

因みに、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/18/201824

「「1643年」の北海道〜千島〜樺太の姿…改めて「フリース船隊航海記録」を読んでみる③「樺太編」※1追記あり」…

1643年時点で、フリース船隊の乗組員が「熊の檻」に言及するのは、北樺太で見聞した時が初見。

さて、熊送りは何時本道へ?

伺った話では18世紀より遡れない様だが。

なら、これを指標とすればアイノ文化化は18世紀となってくるが。

陶磁器に関しては、少々不思議。

中世が陶磁器だらけなのに?

・生活,慣習…

家族は概ね4〜5人住まい。

男子の名前の付け方は、

昔…祖父の名の一説をとる

明治…父親の名の一説をとる

と変節し、一歳になった時に名付けられる。

結婚は男子二十歳、女子十八歳で、結納金無しだが、妻側が自分の衣服や什器を準備する事が期待される。

幾許かのお金は、先の女子用帯…

で、夫に先立たれた妻は、夫の兄弟か、居ない場合は最も近い親族に嫁ぐ…いや、ディクソンは「妾」として説明しており、正妻と妾間の差別はあるが少々で、子供達は平等に扱われているとしていて、ディクソンはこんな事例を対雁では14~15例聞いたとしている。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/08/062222

「この時点での公式見解40…平取町史に記された「アイノ文化が一夫多妻」である理由」…

この慣習も良し悪しは別だ。

渡辺茂氏の解説も現代的感覚の過去への持ち込みと言う偏りがある。

同様に持ち込むなら、

夫に先立たれた妻が路頭に迷わぬ様に一族で面倒を見る…と見るか?

一族へ縛り付け、実家へ戻ったり他と再婚の機会を奪う…と見るか?

現代感覚なら、後者を取る方の方が多い気もするが。

歴史の解釈に現代感覚を入れたり、思想を入れるのは如何なものか?

だが、正式に教育委員会で発行した文書なのは事実である。

 

・病気や医療、葬祭

ディクソンは元来健康だとしており、不潔な為の疥癬は多数いるが、日本人が危険視している結核への罹患が極少ないとしている。

理由は胸板が厚いから。

あまり風邪の症状も苦しむ様子は少ないとしているが、むしろ恐れているのは水腫と痰、腫れ物の様だ。

水腫に関しては「習慣的のんだくれが蒙って」と記述する。

あれ?

水腫には、利尿剤投与と水,ナトリウム制限……塩?

治療は薬草や生薬を飲んでいる。

死者が出ると、巫術師が2(夏)〜3(冬)日付き添い世話をする。

死者へは水と米が捧げられる。

その期間が過ぎると、木製の櫃(鍋,椀,剣,イコロが副葬)に遺体を入れて、身内の者で森の奥まった場所や川の傍らの丈の長い草地に埋葬するとある。

ディクソンを墓に案内した「ヤノスケ」と言う人物は、案内した事を内緒にするよう懇願したそうで(バレると酷い目にあう)、外国人が対雁の人々の墳墓を見るのは初めてだと説明している。

ここは、墳墓を記録した本道との違いだとしている。

彼は事前に「ショイベ」「シーボルト」「イザベラ・バード」のそれら記録を確認していて、対雁→見せない、本道→見せる…この差を指摘している訳だ。

又、本道では死者の家は焼却するが、対雁ではそのまま跡取りが住み続ける差も指摘する。

因みに、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/30/193033

「「アイヌブリな葬送」は虐待ではない…藤本英夫氏が記した「家送り」と、当時のマスコミの世論操作」…

本道は十勝での焼く事例。

申請すれば許可が出る可能性は以前はあった。

主に巫術師は中年男性で、太陽神、月女神、熊神、海の神、火の神、全般的な神に祈りを捧げ、その声により上記葬祭や医者として投薬したりする様だ。

・言語

対雁の人々は本道の人々の言葉は理解出来ない。

発音や単語にも違いがある模様。

自家製の什器も、対雁で入手したものを有珠に持っていき見せたところ何であるか?解らなかったとしている。

又、対雁の人々はロシア歌謡を歌えるが、ディクソンが前年に南樺太を訪れた時には、ロシア語習得に苦労する現地の人々にインタビューしている。

あれ?

その上で、この段階で英語学者から見て、対雁の人々は幾らか日本語に同化する傾向を見ている模様。

ぶっちゃけ、平取とはまるで発音方法が違う様だ。

とりあえず、こんな指摘。

それはこれとは別にレポートされている模様…

 

如何であろうか?

これは「日本アジア協会雑誌第11号」に掲載されたものを翻訳して資料集成したもの、当然各論文や地方史書に反映されているかとは思う。

また、また対雁移住前の状況を知る古老が存命の中で且つ移住から間もない状況でインタビューされた貴重な内容で無視出来ようもないだろう。

多視点で見るのを旨にしている我々的には「こんな記録もある」と紹介しておく…程度なので、これで全てでもない。

ただ、こんなレポートを読むと、少し現在巷で囁かれる話とはイメージが違うと思う。

あくまでも、1882年段階の対雁の状況はこうだとして「過去の復元」をしていけば良いのではなかろうか?

少なくとも、その段階では対雁の人々と胆振,日高の人々には、それなりの違いや距離があった事は読み取れるかと。

で、この人々から伝播,文化借用で観光要素が作られたのは、過去に複数の史書に掲載されていた処。

現在の教育委員会に関わる方々が知らぬ存ぜぬでは済まぬ事。

知らぬ、決まっていないと言ったら、そりゃ発言責任は発生する。

どんな内容にせよ「公的資金」で行われているのだから、地元住民に対する道義的責任は果たすべきと思うが。

 

参考文献∶

樺太アイヌ人 1882」 J・M・ディクソン  『アイヌ民族オホーツク文化関連研究論文翻訳集』  北構保男/北地文化研究会  2005.10.20

「明治大正期北海道写真集」  北海道大学附属図書館  1992.3.30

北海道と南部方面,中央政権との交流、そして安東氏vs南部氏の抗争しなければならぬ理由?…「尾駮の牧」研究から検証する為の備忘録

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/12/16/211012

「「牧」を示す「黒ぼく土」…「尾駮の牧」研究から中世北海道に馬がいたか?の検証の為の備忘録」…

「尾駮の駒・牧の背景を探る」からもう少し取り上げてみよう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/14/064047

「末期古墳,蕨手刀,須恵器が示すもの…その物流ルートと人的,文化的移動ルート」…

鈴木琢也氏によれば、擦文文化(奈良・平安)期の遺跡の動向では、交易的側面は日本海側、人的文化的な側面では太平洋側の影響が濃いとの指摘。

どうしても秋田城→秋田湊,十三湊のイメージで考えればそちらのパイプが図太いと考えがちだが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535

「北海道の対岸の状況はどうだったのか?…野辺地町史に見える古代~中世の文化到達の片鱗」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/20/122947

「何故、十三湊や秋田湊である必要があったのか?…「津軽海峡」を渡る為の拙い記憶の備忘録」…

野辺地の動向や海流を考慮すれば、

余市,石狩低地→日本海側…

・道南→陸奥湾の8の字海流を使い外ヶ浜や野辺地…

胆振,日高→太平洋側…

と、なってきそうだ。

なら、中世はどうか?、且つ南部氏側の資料に交流を示すものは無いか?

それが一部同書にあるので、備忘録として見てみようではないか。

何故その辺に拘るか?

前項に書いた様に、その時代から奥入瀬川以北のコントロールをある程度秋田城側が行っていたら?

更に…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/28/195142

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、東北編のあとがき…津軽側と南部側の差異を再確認」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/25/105821

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4…本命「北海道の中世墓」、だが何故か「長方形墓と楕円墓が併用」されている、そして…」…

中世墓の傾向を見る限り、日本海側同士と太平洋側同士で土葬∶火葬比率がトレースされていそう→鈴木氏の指摘通り、人的,文化的交流は中世も維持されていたのではないのか?…と考える事が出来そうだ、と考えられるから。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/14/201908

「「通商の民」に不足する物、続編…南部信直公が教えてくれた「蝦夷船ドック」」…

現実的に我々も一通、小型船造船についてのそれを見つけており、それは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/18/060108

「時系列上の矛盾…白老の蝦夷の人々が逃げる前の姿の一端」…

白老町「アヨロ遺跡」出土の和船である程度合致出来そうである事から。

 

前置きが長くなったので、先へ進めよう。

同書の「建武期の糠部と尾駮の牧」 伊藤一允氏の寄稿より。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/17/195055

「南部氏の後ろ楯、陸奥将軍府北畠顕家」とは?…東北史のお勉強タイム-4」…

時は建武政権陸奥将軍府北畠顕家陸奥国府下向に伴い帯同した一人が「南部師行」はこの項でも取り上げ済。

この時築城されたのが八戸市「根城」で、北奥の拠点と言う意味で北畠顕家が名付けた伝承と八戸市史にある。

南部師行が任ぜれた「糠部郡奉行」の仕事は糠部,比内,鹿角,久慈,閉伊に於いて、

①糠部の軍事的制圧と北条氏得宗領の残党追討

陸奥将軍府発行の給付状に沿って、新たな領主への受け渡しや受取報告

③牧らで行われた不法行為らに対する治安維持

が主なもの。

ここで③について、新撰八戸市史によると中世陸奥馬の馬畜方法は「鬼柳文書」や後代戦国期の気仙郡浜田の事例から、

「前略〜年に一度野馬取りがおこなわれ、観音社において捕獲した馬の祓いがおこなわれていたこと(「末崎村誌」)などの事例から、野馬追いの形態をとっていたと考えられる。牧の経営は粗放的なものであり、野馬は追い込みによって捕らえられていたのであろう。その上で、牧ごとの「焼印」と、また右耳に切り込みを入れる「印」が付けられた。鎌倉や京都において羨望の的とされた「戸立」や「糠部の駿馬」というブランドは、こうした野馬取りの牧の世界の中で生み出されていたのである。」

とあり、このやり方なら、

・傾斜を含むかなり広大な土地…

・餌のイネ科植物が育つ条件がある…

・更に監視が効く場所…

・「馬頭観音」…寺社…

が、必要となる。

というのも、元々この陸奥馬とは…

奥州藤原氏の役割だった朝廷に対する「貢馬」の儀礼に使われる。

鎌倉幕府でもその役割は継承され、所領に牧を持つ御家人が幕府へ複数の貢馬を調進、献上用の馬を選定し、鎌倉殿による貢馬御覧の儀の後に六波羅探題へ送られ、在京御家人が調進した馬具で飾り帝の御前へ…

中世でこんな意味を持つ。

出荷段階でお祓いら祭祀を行う迄がSETになろう。

で、野生に近い状態で育てられるので、簡単には懐かないが、逞しく鍛えられた馬が出来た…と言う事か。

陸奥はそんな地が確保可能だったので後に黒ぼく土が広がった。

それと同等以上を作ろうとしたら?

結構条件は厳しいかも…東北の他なら北海道や九州を除けば。

①,②に関しては、領地の安堵状、給付状、降人(投降者)報告らに記述が残る。

どちらかと言えば、津軽側で得宗領側の抵抗が強く伝承されるので津軽側寄りの解釈が多いと伊藤氏は指摘するが、糠部側で抵抗が無かった訳ではない。

ここで一つ問題になるのが、1334(建武元)年の「津軽降人交名注進状」との事。

これは建武政権軍に降伏した給人(領主)リストだが、津軽とはあるがこの中に糠部の領主も含まれるのではないか?と伊藤氏は記述する。

理由はこのリストの降人数十人の中で、17人が「安藤又太郎」に預けられているとしている。

この安藤又太郎は鎌倉幕府を揺るがしたとされる「津軽大乱」時に鎌倉幕府から代官職を許された「安藤五郎三郎季久」が安東氏惣領となる時に「安藤又太郎宗季」と名乗り変えたとしており、建武政権軍北進時点で嫡子「安藤五郎太郎高季」へ、

津軽鼻和郡…絹家嶋尻引郷・片野辺地

・糠部郡…宇曽利郷・中浜御牧・湊

・同…西浜

を安堵した「御教書」が発行されているとしている。

当時も西浜は津軽半島西側、糠部のハズはないのだが、少なくとも後も十三湊含むこの周辺を拠点としている事実があるので、西浜には間違いないだろう。

宇曽利郷には「たや(田谷)、たなふ(田名部)、あんとのうら(安渡浦)」が記述され、現在のむつ市東通村下北半島北部を示すのだろう。

不明なのは中浜御牧。

伊藤氏はここが「尾駮の牧」ではないか?と指摘する。

これらを合わせると、安東宗季,高季親子が代官として治めたのは津軽半島西側海岸線〜岩木山を超え弘前手前と下北半島北端〜六ヶ所村周辺迄と伊藤氏は解釈する。

これなら日本海ルートの本州側北端と、道東,道南とアクセス可能な地域をほぼ押さえていた事になる。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/05/204149

「対岸の状況はどうだったのか-3…東通村尻屋崎「浜尻屋貝塚遺跡」に眠る安東氏の痕跡、そして…」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/09/211342

「対岸の状況はどうだったのか-3、あとがき…「浜尻屋貝塚遺跡」に暮した人々は?を「東通村史」に学ぶ」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/09/124507

「浜尻屋貝塚の遺物を確認&下北半島の中世城館に石積みは?…再び下北半島を回れ!」…

東通村にある安東氏の痕跡についてはこれまでも報告してきたし、浜尻屋貝塚の人々も、文字を書き、茶を嗜む人々であったのは間違いない。

更にそれだけではなく、鎌倉〜南北朝期に於いては、平安で「をふちのこま」と詠われた駮馬の管理迄していた事になる。

伊藤氏は解釈を拡大して、上記御教書にある湊は八戸と仮説し、その根拠を平安末の「安倍富忠」の統治範囲を想定する。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/15/190213

「「防御性集落」とは?…道南〜北東北のその時代を学んでみよう」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/28/205257

「東北最古の「金銀銅」処理の痕跡…そして、何故その立証が困難なのか?」…

金銀銅の精錬や製鉄、尾駮の牧の運営らを手掛けて、「前九年合戦」時に惣領「安倍頼時」に致命傷を負わせて嫡子「安倍貞任」に殲滅戦を受けたとされる人物の統治範囲迄。

この内、九戸四門地域は糠部郡奉行に明け渡し、代わりに津軽鼻和郡を…

これがどうも伊藤氏の想定らしい。

前提に書いた様に、米代川流域〜奥入瀬川北岸迄のルートを想定すれば統治者としては別として、住む民衆レベルでは文化的には近いのかも知れない。

これについては、同書で入間田宣夫氏が「「尾駮牧」「糠部駮馬」をめぐる人・物・情報の交流について」で、興味深い記述をしている。

「七時雨峠のルートを越えて平泉や陸奥国府、さらには京都・鎌倉方面を目指した品目の最たるものが、糠部駿馬だっだことは、いうまでもありません。

だが、そればかりではない。驚羽・水約皮ほか、夷が島方面からの貢上物が、海峡を渡って、奥大道を経て、峠を越えて行きました。希婦細布なる鹿角方面の特産物も、奥大道を経て、南下していきました。

それらの品目は、いずれも、政治的な色合いの濃厚な貢上物でありました。そのうえに、長遠な峠道を越えてゆくことが可能な馬疋ないしは軽物ばかりでありました。民間レベルにおける通常一般の交易物とは性格を異にする、すなわち採算ベースを顧慮する必要がない特殊な貢納物ばかりでありました。そこのところに、注意することが肝要であります。」

「それにたいして、すなわち七時雨峠越えの政治的なルートに対して、民間レベルの交易路は、海上のルートを経由し日本国側に繋がっていました。 

たとえば、珠洲系須恵が、北陸方面から北緯四〇度線を越えて、日本海を経由して、津軽に運ばれてきました。あわせて、白磁ほかの輸入陶磁器も将来されました。八重樫忠郎二〇一六によって指摘されている通りです(第5図)。

北奥・夷が島方面、すなわち北方世界には、津軽発の伝統的な物流のルートが張り巡らされていました。五所川原産須恵器の事例に確かめられている通りです。

その既存の物流のルートに便乗することによって、日本海経由の陶磁器類は、津軽から、比内・鹿角方面へ、糠部方面へ、さらには夷が島方面へ運ばれていくことにもなりました。

ふり返ってみれば、遠賀川系土器によって象徴される稲作文化もまた、七時雨越えのルートにはあらず、日本海を経由して、一足飛びに、津軽に到来し、そのうえで、比内・鹿角・糠部方面にまで拡散してきたのでありました。

同じく、鎌倉発の板碑文化にしても、一足飛びに、津軽に到来して、比内・鹿角・糠部方面にまで拡散してきたのでありました。

その一方で、平泉方面に到来した板碑文化は、北上平野を北上して、岩手郡にまで拡散したものの、七時雨峠を越えることはできなかったのです。

それをもってしても、民間レベルにおける陸上の物流を分断する北緯四〇度線のバリアとしての七時雨峠の存在感は鎌倉期に至るも、解消されることがなかった。そのことが明らかであります。

ただし、日本海側の交易路ということでは、津軽を経由しないで、米代川を遡って、直接に、比内・鹿角・糠部方面に到達するルートも、あったらしい。

 米代川ばかりではありません。雄物川ほかを遡り、脊梁山脈の峠越しに陸奥側に到達するルートも、早くから開かれていて、民間レベルの交易に利用されていたようです。八重樫さんの図によっても、それが明らかですね。

あわせて、それらの脊梁山脈の峠越しのルートは、多賀城や胆沢城の政治的影響力が七時雨峠越しに延びてくるよりも早くに、秋田城や払田柵の政治的影響力が北奥方面に、さらには岩手・紫波郡のあたりにまで伸びてきていた素地を提供していたようです。」

…というように、公の貢物や軽物、自ら歩く事が出来る「馬」の様な物は、八幡平の七時雨山の峠を越す事は可能ではあったが、民間ベースの交流ルート,物流ルートはむしろ米代川→十和田→奥入瀬川→糠部…こんなルートだろうとしている。

これは、昨今我々も言っている事に近い見解の様だ。

それはそうだ。

何でもかんでも陸路を使う必要は無い。

陶磁器の様な重量物なら、水運の方が確実且つ野盗に襲われる心配も減る。

製鉄や須恵器窯の伝播の延長線上で考えねば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/10/071915

「改めて「古代製鉄」を学ぶ…岩手県立博物館「古・岩手のクロガネ」に見る東北の古代製鉄炉、そして「北海道の矛盾」」…

北上市以北の古代製鉄空白地帯は生まれない。

そして、その民間ベースの交流ルートは、奥州藤原氏蝦夷管領としての安東氏によって北海道側へも伸びていたのは言うまでもない。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/09/191537

「時系列上の矛盾、厚真町⑤…「オニキシベ2遺跡」に中世遺構はあるのか?」…

筆者的には、墓のsizeらに引っかかりはあるが、八戸市史上ではオニキシベ2遺跡の漆器塗膜のスタンプ紋様は、

鎌倉市「佐助ヶ谷遺跡」,松島町「瑞巌寺遺跡」と共通点を持ち、得宗家や得宗領代官として海運を担う安東氏との関係を指摘している。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803

「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…

この辺は厚真でご教示受けた内容とはリンクするし、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/14/194659

「対岸の状況はどうだったのか-3、あとがきの後日談…「姓氏家辞典」にある安藤氏、そして「修験道日蓮宗、九曜紋」と言うキーワード」…

牡鹿半島周辺には、安東(藤)一族の話は伝わる。

中央政権と北海道との繋がりは、日本海ルートだけではなく、下北半島側の太平洋ルートでも広げられていた可能性がある訳だ。

 

さて、主題にあるもう一点。

ここが大問題なのだろう。

先の安東宗季,高季親子へ陸奥将軍府、ひいては建武政権に出した安堵状では「蝦夷沙汰」には一切触れていない。

安堵された所領が伊藤氏が想定した安倍富忠とした場合、九戸四門地域は安堵されず南部氏らに取り上げられ、代わりに鼻和郡を代替した事になる。

陸路でのルートは遮断されるし、太平洋側は湊以南と隔絶される。

むしろ内陸側と取り換えた事に。

これについては考え方は色々あるかと思う。

藤崎に近い地域を手に入れたとすれば、安倍姓安東氏発祥地に近い地域を手に入れた事にもなる。

鎌倉と繋ぐ太平洋ルートを考慮すれば不利でもある。

ただ、どちらにしても「蝦夷沙汰」を取り上げられ海運を自由に行えなくなれば、ドル箱を取り上げられる事になる。

当然、糠部側でそれを行使するのは誰になるか?

「糠部郡奉行」ではないか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/17/195055

「南部氏の後ろ楯、陸奥将軍府北畠顕家」とは?…東北史のお勉強タイム-4」…

再び。

陸奥将軍府の目論見が、糠部の馬や周辺の金銀銅、北方利権迄建武政権、後の吉野朝に上納させる気であれば、安東氏としては納得出来ないだろう。

伊藤氏はその辺を指摘する。

元々、東北の鎌倉御家人衆は、足利尊氏建武政権から離脱した段階では日和見主義。

大体、鎌倉倒幕の流れになる前から、東北に得ている飛び地に移り、自分の所領を確保しようとした節すらある。

さて、得宗領代官として戦うではなく建武政権側についた安東氏宗家、この後どうしたか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/05/233328

「では、安倍姓安東氏はどんな人達?…秋田家家系図を追う」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/23/201045

「十三湊安東氏は何時から秋田に?…宗家「下国(檜山)安東氏」より難解な「上国(湊)安東氏」」…

北朝方の足利尊氏の呼び掛けに呼応し、建武政権から寝返り所領と「蝦夷沙汰」を安堵させる。

又、吉野朝側として赴任している葉室氏を討ち取ったのは十三湊から南下した安東氏説…

この後、十三湊を拠点とした安東氏は隆盛を極め、南朝方として戦った南部氏は最後に降伏する。

南部氏にしたら建武政権から得た「蝦夷沙汰」を欲するし、安東氏にすれば寝返り「蝦夷沙汰」の恩恵を維持した。

この段階でまだ下北半島「宇曽利」は安東氏が統治…

なら、安東氏vs南部氏の主因は「蝦夷沙汰」の確保ではないだろうか?

現に、織豊期に八戸の根城南部氏は、前提の様に、小型船の造船を行い売っている。

民間か?領主か?は別にして、交流は続くし、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/112501

「北海道弾丸ツアー第四段、「中世城館編」…現物を見た率直な疑問、「勝山館は中世城館ではないのでは?」」…

志苔館跡の様な伝承は残らないだろうし、交易せねば大量の埋蔵古銭も出ては来ない。

ここには「南北朝の戦い」から離脱し、津軽海峡を渡ったとする伝承…何も無くして、自領を捨てて迄北海道へ移住する必要は無い。

 

如何であろうか?

これは断片に過ぎない、故に備忘録。

青森は面白い。

資料館や史書をみると、津軽側と糠部側では見解に差がある。

で、西浜方面と弘前方面では微妙に温度差があるし、同じ糠部方面でも八戸を始めとした九戸四門地域と下北半島地域では温度差がある。

で、三戸&盛岡と八戸の見解も違う。

主には南部氏に対する評価の違いかと思う。

だが、本当に起こった事は一つしかない。

我々は他地域のエッセンスを入れて精度を上げるのみ。

それは北海道でも同様。

 

参考文献:

「尾駮の駒・牧の背景を探る」 六ヶ所村「尾駮の牧」歴史研究会 2018.7.30

 

「新編 八戸市史 通史編Ⅰ  原始・古代・中世」  八戸市史編纂委員会  2019.9.30

 

厚真町 オニキシベ2遺跡 -厚幌ダム建設事業に係わる埋蔵文化財発掘調査報告書4-」 厚真町教育委員会 平成23.3.30

「牧」を示す「黒ぼく土」…「尾駮の牧」研究から中世北海道に馬がいたか?の検証の為の備忘録

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/03/13/150428

「生きていた証、続報38…ならそもそも、北海道〜東北に馬が伝わったのは何時なのか?、そして…」…

前項をこれにして。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/13/210344

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがきのあとがき…これって早い話、「金掘衆や場所の姿を投影しただけ」なのでは?」…

こちらで「馬・牧」について触れたので、北東北の研究にも触れてみよう。

 

さて、「尾駮の牧」…

古今和歌集勅撰和歌集らに「をぶちのこま」として登場するらしい馬を育てた牧らしい。

都の貴族が「陸奥馬」を欲し、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/20/203914

「ゴールデンロード② …「金」だけではない、出羽,陸奥を統べる奥州藤原氏の真の実力」…

延喜式で高い価値が認められ、私的取引の横行を禁ずる命令が出されていた事は概報。

和歌では懐かぬ荒馬的な表現で使われるとか。

さて、その産地「尾駮の牧」は何時からあるか?…それを「黒ぼく土」生成から探ったのが本書の「六ヶ所村に馬は何時からいたか?」、東海大の松本氏。

5世紀位には国内は拡散、古墳の北上と共に岩手県南部迄まで伝播したとする。

7世紀には末期古墳の阿光坊,丹後平古墳群に馬具の副葬がされている事から、八戸周辺迄は到達したと考えられる。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/10/210140

「「阿光坊古墳群」に残される墓参と思われる痕跡…末期古墳を作った人々の断片と製鉄ルート」…

確かに。

では、それ奥入瀬川以北、尾駮の牧比定地の六ヶ所村周辺は?

馬畜を示す物には、直接的な物証として「馬具の出土」がある。

但し、間接的物証となるのが「黒ぼく土」。

これは、馬畜と共に生成される事があるので「牧」の存在を間接的に示す事になる。

では、黒ぼく土とは?

・火山灰と腐植成分からなり、腐植成分が多いと黒くなるので表土となった場合は表土付近が黒くなり徐々に褐色系になっていくらしい。

同時に火山灰由来の為、リン酸の含有係数が高い。

・保湿性や透水性に富む。これは嵩密度が低くホクホクし隙間が多い為。

・我が国の場合、降水量が多く温暖で微生物が活発に活動する為に酸性土壌になりがちで、リン酸が鉄やアルミニウムイオンと結合し易く植物が根からリン酸を吸収し難いとか。よって中和作業が必要となる。

さて、この「黒ぼく土」生成について松本氏は興味深い説明をしてくれている。

黒ぼく土の元は火山灰と植物の腐植成分。

火山灰降灰の後に最初に生える植物はイネ科だそうだ。

理由は他の植物に有害とされるアルミニウムイオンをイネ科の植物は好んで吸収する為。

このイネ科の植物が生える条件が、

①湿潤且つ冷温~温暖な気候…

②水が下方へ浸透しやすい台地か丘陵の地形…

だそうで。

で、黒ぼく土生成の為のもう一つの条件が、

③火入れ、焼畑、焼狩ら人間の関与…

だ。

火山灰から簡単に黒ぼく土が出来、積み上がる訳ではなく、人的関与が必要らしい。

ここで…

イネ科の植物は「馬の好物」且つ、粟や稗,麦らは我々ヒトの食料ともなる。

焼く→種を植える→イネ科を増やし収穫と馬の飼料へ→焼く…この繰返しでホクホクした黒ぼく土が積み重なり、黒ぼく土、黒色土層、黒褐色土層、褐色土層…と積み重ねられる。

広大な領域になれば単にヒトの食料だけでなく、馬の牧の可能性が浮上する訳だ。

この牧での火入れについては、718年編纂の「養老律令(厩牧令)」に行う様に規定され、春先に枯れ草を焼き払っていた様だ。

ここで、

黒ぼく土と古代官牧の分布。

官牧の多くは黒ぼく土の生成地域に重なるとしている。

ここで…

六ヶ所村周辺では、7〜8世紀での集落跡らは現状無いそうだ。

9世紀後葉頃から突然竪穴住居らが作られ、10世紀頃から集落化していった様だ。

十和田の噴火や白頭山噴火…

その前後に集落が作られ始める。

これは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/19/054652

「大災害が起こった時、人はどう行動するか?…平安期の「十和田噴火,白頭山噴火」が住む人々へ与えたインパクト」…

我々も「災害史」の視点でとらえている。

移住には、朝廷の意志も関与していそうだ…こんな話があった。

で、この頃の竪穴住居は廃絶後に黒ぼく土が堆積する事から集落として移動した後も牧として周辺が利用されたのではないかとしている。

八戸周辺から北上、又は米代川流域の準黒ぼく土地域からの移動と考えている様だ。

で、集落の移動時には再度そこに戻る事は無く、廃絶した分牧の拡大がなされた様だ。

何故ならば竪穴住居の切り合いがなく、廃絶されたら黒ぼく土の堆積が繰り返されたから。

ん?

何処かで聞いた話…

で、10世紀に和歌で「をぶちのこま」が読み出され始める。

また、以前にも触れた事があるが、六ヶ所村の「表館遺跡」では、

白い「石帯」が出土している。

同書の「東北地方北部出土の石帯とその背景」田中氏によると、「養老律令(衣服令)」では当初金属製を使っており、それが797年に銅銭鋳造の為に金属→石帯となる。

白い石帯は796年段階では国家意志決定する参議以上に限定され、それが809年に官位五位以上迄引き下げられる。

この時概ね、

大国の「守(国司)」が従五位上、上国の「守(国司)」が従五位下

陸奥国は大国、出羽国は上国なので、白い石帯を着けた国司が収めた事になる。

これ、927年段階で白い石帯は従三位と四位の参議のみに限定されるので、東北で出土する石帯は8〜9世紀と限定されるのだろう。

考えて見れば、秋田城,城輪柵,鎮守府,多賀城はそれぞれ出羽国司,秋田城介、鎮守府将軍,陸奥国司が饗給を行う場で、帝の「御言持ち」として着任したのが関与するのだろうか?

故に簡単に入手出来る物ではない。

少なくとも「表館遺跡」に居た人物は、これら国司級に近い人物と接触を持てた事になる。

良馬の産出に寄与した人物?も可能性として話を聞いてきた。

先の移住の件でも、米代川流域が関与したとなるとむしろこの周辺は秋田城側のコントロール化にありそうな感じも。

後世、米代川流域〜十和田湖奥入瀬川流域〜六ヶ所村周辺には馬頭観音信仰ルートがあったそうだ。

奇妙な繋がりである。

この辺は宗教性を墓制なりで確認してみての話も含めると、関連あるのか…と思わせられる節もある。

 

以上。

…と、ここで終わってしまえば、何の為に六ヶ所村の事例を紹介したか解らない。

先の写真を見て戴きたい。

北海道にも黒ぼく土はある。

表土層と考えば、畜産が盛んになった頃からの生成となるのでそこだとも言える。

松本氏は北海道の渡島蝦夷と北東北の蝦夷(エミシ)の最大の差はこの馬畜の有無だと言う。

確かに論拠として「江戸期にアイノ文化を持つ者は馬畜していない」としている。

なら、江戸期は?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/13/210344

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがきのあとがき…これって早い話、「金掘衆や場所の姿を投影しただけ」なのでは?」…

北海道での見解は「黒0層はアイノ文化の痕跡」とする。

松本氏は馬畜はしていない。

だが千歳市北部には馬の蹄跡。

で、我々は…簡単に黒色土層、むしろ黒ぼく土が短期に生成される訳は無いので、むしろ馬畜を含めた「場所の活動痕跡」だろう、勿論支配人も本州系もyezoも含む…だ。

案外的を得ている様な気がするが。

 

また、中世まで遡ろう。

本当に馬具は無いか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/20/193208?s=09

「時系列上の矛盾&生きていた証、続報39…ユクエピラチャシから出土した鉄器、これ「馬具」では?」…

中世には馬具と思われる物がある、それもチャシ跡。

そもそも、チャシの立地を考えた時、何故あの丘陵の先端なのか?

複数のチャシで、放牧した馬の監視をすれば?

段丘の上から、水が得られる川筋も含めて見る事が可能。

 

もう一つ…

擦文後期迄遡る。

これが八戸市田面木平(1)遺跡の焼失家屋跡7〜8世紀。

先程何気に書いたが、この牧周辺の竪穴住居は切り合いがなく、移動したら放置。

これ、擦文の竪穴住居の特徴でもある。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/10/104637

「時系列上の矛盾…根室「西月ヶ岡遺跡」に眠る「竪穴式木造住居」の痕跡」…

具体的にはこれがその根室市「西月ヶ岡遺跡」の焼失家屋跡。

勿論竪穴住居ではあるが、壁や屋根に板材が使われ、所謂「チセ」とは構造が違うのだ。

年代特定には至らなかった様だが、Me-a火山灰に被覆されている。

つまり、ユクエピラチャシと同年代の可能性がある。

で、燃え方が「田面木平(1)遺跡」とそっくり。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/21/204519

余市の石積みの源流候補としての備忘録-8…中世城館資料の北海道版「北海道のチャシ」に石垣はあるか?、そして…」…

チャシに関しては、信仰や墓制と絡める必要があるだろう。

と、黒色土層、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803

「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…

カフカの黒ぼく土こそ、凍結と解凍で絞まっていくのでは?

勿論、火山噴火や地震による振動も含めてだが。

極端に黒色土層が薄い理由の一つになりはしないか?

これも、河川氾濫が少ない事も理由ではあるが。

黒0層も局部的にしか出ないのも…

 

如何だろうか?

本当に中世位に北海道に「牧」は無かったのか?

まぁまだここいらは備忘録。

他の事象と絡めながら、同時に馬具や宗教具を探しながら追って行けば良いだろう。

まだ先は長い…

 

 

参考文献:

「尾駮の駒・牧の背景を探る」  六ヶ所村「尾駮の牧」歴史研究会  2018.7.30

古代東北に「渡来系」はどの程度関与したか?…陸奥国司,出羽国司に任官された「百済王氏」の備忘録

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/14/065055

「「黄金山産金遺跡」で何が行われていたか?…その推定の備忘録」…

日本最初の産金の立役者は「百済王敬福」で陸奥国司経験者。

「秋田城跡歴史資料館」の展示、「第11号漆紙文書」。

「出羽守・介が署名した解文

「解」と呼ばれる下級役所から上級役所へ提出する文章です。出羽守(長官)の「小野朝臣竹良」と出羽介(次官)「百済王三忠」が署 名(サイン)しています。ともに歴史書にも名前が記録されている人物です。しかも二人がサインをしていることから、ともに秋田城に駐在したことがわかります。

二人の在任期間から天平宝字年間の三年(七五九年)までに書か れたものと考えられます。文書は、出羽国陸奥国を取りまとめる 「按察使」に出されたものかもしれません。」…

この通り、出羽国介として「百済王三忠」が秋田城に在任していた事が漆紙文書に残され、それは他の古文と整合出来ている。

では、東北に於いて渡来系の関与はどの程度あったのか?

この際史料集から辿ってみようと思う。

「奥州藤原史料」より…

この史料集はSNS上で歴史学者の野口実氏が使っていると上げていたが、按察使についての話だったので取り寄せてみたところ、平安までの按察使だけでなく鎮守府将軍,陸奥国司,出羽国司がリストアップされていた。

ここから百済王氏を抜き出してみよう。

名前の左は、(守)→国司、(介)→国介である。

 

陸奥出羽按察使

按察使には記事無し。

 

鎮守府将軍

・(副)百済王俊哲宝亀11(780)年

・(權副)百済王英孫…延暦4(785)年

・(副)百済王俊哲延暦6(787)年に解任記述

百済王俊哲延暦10(791)年

百済王教俊…大同3(808)年(見)

 

陸奥国

・(介)百済王敬福天平10(738)年頃

・(守)百済王敬福天平15(743)年

・(守)百済王敬福天平18(746)年

・(介)百済王教俊…大同3(808)年

 

出羽国
・(介)百済王三忠…天平宝宇4(760)年(見)
・(守)百済王三忠…天平宝宇7(763)年
・(守)百済王文鏡…天平神護2(766)年
・(守)百済王武鏡…宝亀5(774)年
・(守)百済王英孫…延暦4(785)年
・(守)百済王聴哲…延暦16(797)年

・(守)百済王教俊…弘仁3(812)年

 

以上。

さすがに陸奥と出羽の調整を計る按察使には任じられてはいない様だが、陸奥国司、出羽国司、鎮守府将軍にその名がある事が解る。

影響を見るにはちょっと解り辛いので、時系列に並べ直そう。

※に、今迄取り上げた事がある事象を付記する。

 

・724…多賀城築城…※1

・733..出羽柵北上…※2

・738頃…  百済王敬福陸奥国

・743  百済王敬福陸奥国

・746  百済王敬福陸奥国

・748  百済王敬福涌谷町黄金山からの砂金を上納…※3

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/14/065055

「「黄金山産金遺跡」で何が行われていたか?…その推定の備忘録…」

・759  桃生城、雄勝城築城…※4

・760  百済王三忠…出羽国

・760頃 出羽柵→秋田城へ改称…※5

・763  百済王三忠…出羽国

・766  百済王文鏡…出羽国

・774  百済王武鏡…出羽国

・同年  桃生城襲撃事件、775に鎮圧…※6

・780  宝亀の乱(伊治呰麻呂の乱)勃発…※7

・同年  百済王俊哲…副将軍

・785  百済王英孫…權副将軍(5月任)

・785  百済王英孫…出羽国司(9月任)

・787  百済王俊哲…副将軍(解任記述)

・789  巣伏の戦い(阿弖流為蜂起)…※8

・791  百済王俊哲…将軍

・797  百済王聴哲…出羽国

・801  坂上田村麻呂、征夷終了報告…※9

・802  鎮守府胆沢城築城…※10

・803  志波城築城…※11

・804  払田柵築城?…※12

・808  百済王教俊…将軍(見)

・808  百済王教俊…陸奥国

・811  文屋綿麻呂による征夷軍活動…※13

・812  百済王教俊…出羽国

・同年  徳丹城築城…※14

 

各城柵築城、産金、陸奥国38年戦争について付記した。

一応、念の為。

鎮守府将軍については、同書一覧に従ってリストアップ。

鎮守府胆沢城が築城されたのは※10の延暦21(802)年。

鎮守府に着任し、そこで直接政務を取る役職になったのはその後になるだろう。

百済王敬福の産金だけでなく、各城柵の築城の頃に着任していたり、陸奥国38戦争時に従軍しているのが解る。

それぞれがどんな政策を行ったかは、同年の行政文書らを追う事になるが、その辺は後で。

ただ、秋田城改称の頃となると、渤海との外交施設機能を持っていたのは間違いない。

また、38年戦争で鎮守府に関わりを持ち、幻の城柵「払田柵」築城の前後頃に鎮守府に居たのも間違い無さそうだ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/05/111331

「幻の城柵「払田柵」…羊蹄柵が有り得る根拠」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/04/071045

「秋田の石積み構築年代上限と「和鏡探し」の特別ミッション…秋田県南を回れ!、そして宗教的背景を探れ!!」…

 

東北史に於けるターニングポイントに東北に居たのは間違い無さそうである。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/14/065055

「「黄金山産金遺跡」で何が行われていたか?…その推定の備忘録…」…

これにある様に、百済王敬福は信頼出来る従者を上総から呼び寄せているので、それらが活動を行う事もある訳で。

それらの中に、現在追う「石積み,石垣」や「修験の活動」「製鉄,精錬」に関わりが出る内容が出てくれば、関与の度合いは出てくるかも知れない。

 

まずは備忘録である。

 

 

参考文献∶

「奥州藤原史料(東北史史料2)」  東北大學東北文化研究會  昭和53.9.10

北海道中世史を東北から見るたたき台として−6…信濃や伊勢はどうか?「中部・東海編」を確認

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/23/194835

さて、続けていこう。

ある意味、筆者が最も興味があった場所の一つを確認みよう。

中部・東海編。

諏訪大社,善光寺を擁する「信濃」、伊勢神宮が鎮座する「伊勢」…この辺がどうか?だ。

 

長野県…

・遺跡総数

187

・土葬or火葬

土葬→68

火葬→99   

・特徴ある副葬

古銭→70

ガラス玉(水晶,土玉含む)→0

鏡→1

鉄鍋→13

鉄釘→18

刀剣(刀子含む)→9

陶器,かわらけ→60

漆器→2

仏具(五輪塔,板碑含む)→13

鈎,ヤス→0

甲冑→0

骨角器→0

装飾品→0

・特徴ある墓制

周溝墓→1

鍋被り→1

石積塚→20

 

山梨県

・遺跡総数

313

・土葬or火葬

土葬→39

火葬→14  

・特徴ある副葬

古銭→35

ガラス玉(水晶,土玉含む)→0

鏡→0

鉄鍋→2

鉄釘→0

刀剣(刀子含む)→1

陶器,かわらけ→20

漆器→0

仏具(五輪塔,板碑含む)→17

鈎,ヤス→0

甲冑→0

骨角器→0

装飾品→0

・特徴ある墓制

周溝墓→2

鍋被り→0

石積塚→0

 

静岡県

・遺跡総数

119

・土葬or火葬

土葬→12

火葬→30

・特徴ある副葬

古銭→8

ガラス玉(水晶,土玉含む)→1

鏡→3

鉄鍋→4

鉄釘→5

刀剣(刀子含む)→6

陶器,かわらけ→29

漆器→1

仏具(五輪塔,板碑含む)→7

鈎,ヤス→0

甲冑→0

骨角器→0

装飾品→0

・特徴ある墓制

周溝墓→1

鍋被り→0

石積塚→2

やぐら→1

 

岐阜県

・遺跡総数

66

・土葬or火葬

土葬→12

火葬→13 

・特徴ある副葬

古銭→7

ガラス玉(水晶,土玉含む)→0

鏡→3

鉄鍋→0

鉄釘→2

刀剣(刀子含む)→3

陶器,かわらけ→20

漆器→1

仏具(五輪塔,板碑含む)→6

鈎,ヤス→0

甲冑→0

骨角器→0

装飾品→0

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→3

やぐら→1

 

愛知県…

・遺跡総数

168

・土葬or火葬

土葬→55

火葬→47   

・特徴ある副葬

古銭→17

ガラス玉(水晶,土玉含む)→1

鏡→4

鉄鍋→4

鉄釘→1

刀剣(刀子含む)→12

陶器,かわらけ→62

漆器→0

仏具(五輪塔,板碑含む)→16

鈎,ヤス→0

甲冑→0

骨角器→0

装飾品→0

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→0

 

三重県

・遺跡総数

272

・土葬or火葬

土葬→60

火葬→41  

・特徴ある副葬

古銭→16

ガラス玉(水晶,土玉含む)→1

鏡→3

鉄鍋→5

鉄釘→13

刀剣(刀子含む)→23

陶器,かわらけ→82

漆器→2

仏具(五輪塔,板碑含む)→18

鈎,ヤス→0

甲冑→0

骨角器→0

装飾品→0

・特徴ある墓制

周溝墓→1

鍋被り→0

石積塚→0

 

では…

A,土葬or火葬…

長野→1:1.5

山梨→2.8:1

静岡→1:2.5

岐阜→1∶1

愛知→1.2∶1

三重→1.5∶1

従来通り「遺跡数」なので、全体像を捉えるのは微妙だが、土葬が強い山梨、火葬が強い静岡を除けば、イーブンに近い印象。

だが、こんな事例を二つ。

・長野県中野市「安源寺遺跡」中世~近世…

「段状に造成した南斜面に火葬墓11 基、土葬墓4基ある。火葬墓は、小石を円形に敷くもしくは囲み、中央部に火葬骨が集積する形態 (Ⅰ類) と、粘土の盛土上部に砂利を敷き、多量の人骨が集積する形態(Ⅱ類) に分類される。土葬墓からは人骨が出土し、1号土葬墓の人骨は頭位を「北に向け顔が西面する横臥屈葬。」

「11号火葬墓より須恵質の擂鉢、1号土葬墓より銭貨 (12枚)と鉄釘、2土葬墓より刀子出土。」

「火葬墓は一定の間隔で配列するため、あまり時間差が認められない。墓は長方形の掘り込みをもつ土葬墓I類(中世中頃)→火葬墓群 (中世中頃)→マウンドを 伴う土葬墓Ⅲ類(近世中頃)と変遷。これは宗派の変化が起因。副葬品の乏しさと埋葬方法の簡素さから、造墓者は庶民クラスと推定。」

三重県嬉野町天花寺小谷赤坂遺跡」13後~16前世紀…

「土坑墓群と集石墓群を検出。集石墓群は、一定の区画をもつものや五輪塔が伴うものがあり、下部に火葬墓を備える。」

「蔵骨器として常滑産壺や瀬戸産壺、 土師器鍋が出土。集石上部からは、 葬墓 五輪塔各種や宝篋印塔のほか、銭 貨、土師器皿が出土。」

「中世墓の時期変遷から、土坑墓群から火葬墓を伴う集石墓群へと移行する 状況が窺える。」

地域により、土葬→火葬→土葬や土葬→火葬と墓域中の墓制変遷が伺える場所が幾つか記載される。

長年継続(又は断続的に使用)した墓域では、宗派等の変化で変遷するのだろう。

特に中部・東海地方は当然ながら畿内らの状況を直接受ける事になる。

新規宗派の立ち上げにして、動乱らによる人の移動にしてだ。

さて、「安源寺遺跡」でお気付きだろうか?

火葬墓に集石と記載がある。

実は長野県に於いては、

・長野県小布施町「玄照寺跡」13後~15後世紀…

北関東で見られたT字型火葬墓(又は火葬施設)は見られるのだが、以西では見られなくなっていく。

円形や隅丸方形の底に石を敷いたり、逆に焼土の上に集石したりだ。

それぞれの発掘調査報告書迄確認出来ていないので漠然とだが、西に行くほど北陸や東北と似た集石での火葬施設に近い傾向はあるかも知れない。

土葬の土坑墓にしても集石を伴うものがあるのも確かである。

どちらかと言うと、関東らにあるT字型火葬墓の方が地域性が強いと見えるのは筆者だけだろうか?

ここはまだ南関東を確認していないので、長野県らにあるT字型火葬墓が飛び地なのか?は解らない。

この辺は随時確認である。

 

B,特徴ある副葬について…

この辺から副葬そのものが薄くなる。

陶器やかわらけでも、東北らである貿易陶磁器らより土師質や瓦質のものが多い。

鍋に関しては、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/08/070139

「生きていた証、続報34…食器と言う視点で北海道~東北を見てみる」…

伊勢型との記載があるので、こちらにある南勢型が該当するかと思われる。

中部地域では副葬としては薄く、東海に増える傾向で、産地に近い→希少性が少ない…なのだろうか?

 

C,周溝を含めた墓制変遷…

検出数が少なく割愛する。

 

D,集石塚について…

・長野県山ノ内町千手寺経塚」中世後半~近世…

「直径約3mの塚。マウンド中央北側に石室があり、礫石経(一字一石経) とともに焼骨出土。焼骨は石室奥壁で炭化物とともに出土。」

「塚の西側より宝篋印塔 (相輪部)1 点出土。」

「墓跡的性格を持ち合わせ た経塚。」

こうなれば思い切りの集石塚、それも経塚だけでなくケールン状の石積みを伴うと言えそうだ。

ただ、これだけ明確なのは目立たない。

又、方形配石火葬墓だが、

・長野県中野市「田麦中畝3,4,5号墳」中世…

千曲川右岸に南北にのびる長丘丘東端 に立地する。眼下に夜間瀬扇状地が展 開する。」

「3基の土盛状遺構は丘陵上に約10m間隔で配置。3・4号墳とも方形のマウンドをもち、表土を除去した面に方形の配石あり。3号頃の配石中央部の石集中箇所からは、有機質を含む土が充填。」

「3号墳から須恵質の破片が出土。」

「3.4.5号墳は、信仰施設または墳墓遺構の性格が考えられるが、骨が確認できず峻別が困難、構造的に3号填は信仰施設 (基壇)、4号墳は墓とも仮定できよう。」

この様に可能性ではあるが有機質を伴うものがありそうだ。

但し、中部・東海地方で方形を伴う場合に多いのはこちらの事例。

三重県鈴鹿市「椎山中世墓」山茶碗6式~古瀬戸前Ⅱ…

「段上の平滑部に石組みの図れたと骨臓器を納める。特に第Ⅳ段東方部には石を方形に区画し骨臓器を埋納。」

「段状に造られた平坦地上に長期間にわたって造られた中世墓群。五輪塔も出土。」

山茶碗6式…13世紀中葉位で良いのか…?

こうなると土器や陶器の編年指標の知識が必要だが。

が、これは火葬そのものを行った訳ではなく、他で火葬なり再葬する時点で骨臓器に骨を入れ、石で覆い真ん中に五輪塔や宝篋印塔を建てる形の模様。

仮に13世紀に火葬をしたとしても、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/02/201220

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、北陸編のあとがき…ならば「方形型火葬墓」を並べてみよう」…

北陸の方が古く且つ明確に数が多そうだ。

この墓制から北陸の方形配石火葬墓が生まれたとしても、方形配石火葬墓としては北陸で主流だったのは間違い無さそうだ。

ここ「椎山遺跡」周辺には、日本武尊の白鳥塚古墳や加佐登神社がある様だ。

さすがに修験者が居ても全く違和感が無い。

 

E,十字型火葬墓について…

残念ながら見当たらず、中部・東海地方由来ではなさそうだ。

だが、こんな墓制が。

・愛知県知立市「荒新切遺跡」中世後半…

「火葬施設62基検出。」

「鉄釘、土師皿、銭貨」

「ほぼ同一方向で隣接して作られ、しかも長辺に並行して煙道部を設けるという画一的な構造をとることから、時間的に大きな幅を持たせることは是認しがたい。」

見ての通り、I型火葬施設の様だ。

何故かこれも主流と言う訳ではなく、この周辺にのみ出現している様だ。

人の移動に伴うのだろうが。

愛知では他に、

安城市「加美遺跡」15~16世紀

西尾市「八ツ面山北部遺跡」16世紀

で、見られる模様。

かなり限定的な様だが、特定の宗派の影響だろうか?

荒新切遺跡にして八ツ面山にして弥生~古墳期の遺跡がある様だ。

実はこの中部・東海地方では割と顕著だが、古墳の周辺を再利用して中世墓を造成した記述はかなりあり、他の地域でも「やぐら」「横穴式石室」の再利用等、古代の墓の再利用やその周辺を利用するのは普通にやられている様だ。

そこに先祖らが眠る事を知っていたかの様に。

何らかの伝承らで関連が出てくるのかも知れない。

 

F,鍋被り墓について…

残念ながら見当たらない。

 

G,板碑の伝播ルート…

四国同様に、この中部・東海地区でも板碑はあまり見掛けられず、五輪塔や宝篋印塔が主。

 

以上、如何であろうか?

どうも十字型火葬墓へは辿り着けていない。

何処がルーツなのか?

と、方形配石火葬墓はボツボツ近いものはあるが、やはり北陸が現状強い状況だ。

まぁここで止める訳にもいかない。

南関東や関西、中国地方も少しずつ確認していこうではないか。

日本全国に至った時に何が見えるのか?

まぁそこは見てからのお楽しみ…

 

 

参考文献:

「中世墓資料集成−中部・東海編−」 中世墓資料集成研究会 2004.3月

北海道中世史を東北から見るたたき台として−5…折角だからの「四国編」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/25/105821

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4…本命「北海道の中世墓」、だが何故か「長方形墓と楕円墓が併用」されている、そして…」…

折角だから、この際他地域へ同様の確認を伸ばしてみよう。

理由は簡単。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/02/201220

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、北陸編のあとがき…ならば「方形型火葬墓」を並べてみよう」…

「方形配石火葬墓」については、こんな推測をしてはいるが、そのルーツが何なのか?はまだまだ。

本当に北陸で良いのか?

更に「十字型火葬墓」が全く見えて来ない。

これが逆に北方由来で…なんて話になれば、話があべこべになる。

と言う訳で、ある程度そのアウトラインが見える迄は文献を探して確認をせざるを得ないと考えたからだ。

で、順番通りとも思ったが、そこは文献入手の難易度にもよる。

近いとは言え、北海道同様に本州と海を隔てる「四国編」に行ってみようではないか。

勿論、同じ視点,カウント方法を続ける。

 

香川県

・遺跡総数

26

・土葬or火葬

土葬→16

火葬→5    

・特徴ある副葬

古銭→2

ガラス玉(水晶,土玉含む)→1

鏡→2

鉄鍋→1

鉄釘→3

刀剣(刀子含む)→9

陶器,かわらけ→16

漆器→0

仏具(五輪塔,板碑含む)→1

鈎,ヤス→0

甲冑→0

骨角器→0

装飾品→0

・特徴ある墓制

周溝墓→1

鍋被り→0

石積塚→1

 

徳島県

・遺跡総数

36

・土葬or火葬

土葬→12

火葬→12    

・特徴ある副葬

古銭→0

ガラス玉(水晶,土玉含む)→16

鏡→0

鉄鍋→4

鉄釘→2

刀剣(刀子含む)→3

陶器,かわらけ→16

漆器→1

仏具(五輪塔,板碑含む)→5

鈎,ヤス→0

甲冑→0

骨角器→0

装飾品→0

馬具→1

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→0

 

愛媛県

・遺跡総数

78

・土葬or火葬

土葬→33

火葬→3    

・特徴ある副葬

古銭→2

ガラス玉(水晶,土玉含む)→2

鏡→4

鉄鍋→3

鉄釘→3

刀剣(刀子含む)→4

陶器,かわらけ→33

漆器→2

仏具(五輪塔,板碑含む)→5

鈎,ヤス→0

甲冑→0

骨角器→0

装飾品→0

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→0

合葬墓→1

 

 

高知県

・遺跡総数

28

・土葬or火葬

土葬→4

火葬→7   

・特徴ある副葬

古銭→3

ガラス玉(水晶,土玉含む)→1

鏡→2

鉄鍋→0

鉄釘→0

刀剣(刀子含む)→1

陶器,かわらけ→9

漆器→0

仏具(五輪塔,板碑含む)→0

鈎,ヤス→0

甲冑→0

骨角器→0

装飾品→0

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→1

 

以上である。

では、同様の検討を。

 

A,土葬or火葬…

概数で比率を表すと下記の通り。

香川県→3:1

徳島県→1:1

愛媛県→11:1

高知県→2:1

記載を見る限り、「地域の墓域」と言うより「屋敷墓」と言う感じである。

平地建物に隣接するケースがあるせいか、屋敷墓と言う記述が目立つ為だろう。

愛媛県で火葬が目立つのは、寺社隣接で検出されたのが大きいかも知れない。

一般の墓と考えれば、若干土葬が多い傾向なのではないだろうか。

土坑墓の形は「隅丸長方形」又は「長楕円」が多く、明確に人骨検出の場合は主に仰臥伸展葬か仰臥屈葬の模様で、あまり小判型&屈葬…みたいな物は記載ない。

また火葬墓は南東北〜北関東一帯の主流であるT型はほぼ無い。

ここで見る限りは方形に石を並べた物が多いかと見える。

 

B,特徴ある副葬について…

地域により差があるもので、北関東,北陸より北に比べて副葬が少ない気はする。

レアなケースを紹介する。

香川県綾南町「西村遺跡」S31-ST01/12世紀

「十瓶山南麓から派生する斜面地上に立地する。土器生産を生業とする集落。」

「(川北地区)S31-ST01/調査区西辺において土坑群に接して単独で検出された。上部では須恵器大・壺を破砕して埋置していた。」

「S31-ST01/白磁椀、刀子、紡錘車、環状鉄製品、鉄鈴、須恵器甕・壺、土師器坏、黒色土器が遺体の右側から出土。」

「S31-ST01/人骨残存。西向き側臥屈葬。環状鉄製品は桶状容器の部品と推測できる。」

なかなかドキっとする画だが、「耳飾」ではなく桶状容器の部品と推測している。が、その桶状容器の本体が何故か副葬品の中に無い。

わざわざ外して入れたのか?

と、一番気になるのは「黒色土器」だ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/05/204628

「関東視線で見た「蝦夷(エミシ)の赤い瓷」…赤彩球胴瓷、長い竈の煙道、馬の飼育、黒色土師器、そして「エミシの移配」とは何だったのか?」…

幾ら土器生産集落とは言え、8∼9世紀では関東ですら古い様式とされる「黒色土器」を副葬?

黒色土器は他に徳島県板野町「古町遺跡」13~14世紀位か。

「くすんだ」古い形態か?「光沢ある」東北型か?気になるところ。

西村遺跡では、別地区で四国の中世副葬で殆ど無い「漆の塗膜」が検出されたり、刀が検出したりして、若干見慣れた感。

少々引っ掛かる遺跡な気も。

高知県土佐市光永・岡丿下遺跡」12~14世紀

「 SK-7・SK-11は楕円形の土壙で、リン分析より土壙墓と判断される。SK-52は明確な掘方は確認さていないが、遺物の出土状況より土壙墓と判断される。」

 「SK-7からは短刀,SK-11からは短刀と瓦質土器が出土。SK-52からは湖州方鏡1面,古銭1点,刀子1点,土師質土器杯2点,白磁碗1点が近接した状態で出土。」

と、あり「湖州方鏡」の登場。

湖州鏡は方鏡以外なら、愛媛県松山市「平田七反地遺跡」12~13世紀、同「古照遺跡」13世紀前に事例がある。

鉄鍋は一件のみで、他はほぼ土鍋で羽釜も土釜の様だ。

 

C,周溝を含めた墓制変遷…

我々がよく見る円形周溝ではない形だが、香川県善通寺市「旧練兵場遺跡」12末~13前世紀。

「調査区東端から検出。土壙墓付近から軸を合わせるL字状の溝を検出。」

「小刀1、刀子2、不明鉄器1(全て肩 右)、砥石、瓦器椀、土師器椀・坏

が出土」

「周溝で区画された塚であった可能性あり。」

とあり、土坑墓の周囲に方形周溝が施されている。

丸亀市「川西北・原遺跡」12前世紀でも同様に方形周溝が施された遺構がある。

図の様に、単なる区画整理の溝ではなく、墓それぞれに溝がある様で、同時代のトレンドなのだろうか?

 

D,集石塚について…

一箇所「方形配石火葬墓」がある。

高知県中村市「具同中山遺跡群」14∼15世紀。

「集石遺構を8基検出し、内3基は方形 の基壇を有する。掘立柱建物跡の周囲に墓域を形成していたとみられる。」

「被覆に混じって常滑焼、白磁皿,土師器杯・皿,瓦質土器釜,スラグ等が出土。」

中村市鎌倉時代初期には九条家の荘園となり、1250年には一条家へ譲渡されたとされる。また、本遺跡は中世寺院である香山寺の周辺に位置する。なお、平安時代後期の須恵器を骨壺とする火葬墓も確認されている。」…との事で、他の調査区では火葬骨が検出された同様遺構もある。

方形配石を土壇とし五輪塔を配した土葬墓は幾つかあるが、この一帯のみの模様。

ちょっと検索してみた。

https://shinden.boo.jp/wiki/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E3%83%BB%E9%A6%99%E5%B1%B1%E5%AF%BA

神殿大観様のページ。

「南仏は金剛福寺中興とされる僧侶。一条天皇の時代、御所の左近の桜、右近の橘が同時に枯れたので諸国の僧を招いて祈祷させたが効がなかった。南仏は山伏の南光と共に上洛して祈祷したところ木はたちまち蘇った。褒賞を訊かれた南仏は「笑い不動」を所望し、与えられた。南仏は金剛福寺に帰らず、香山寺に留まりこの地で没した。南仏の像が作られ祀られていた。南仏堂はなくなったが像は現存するという。」

南仏という山伏が関連する模様。

関連あるのだろうか?

一条天皇は概ね11世紀なので、少々時代背景は合わないが、ここは弘法大師縁の地で、当山派修験が関連してもおかしくはない。

現状はここまで。

 

E,十字型火葬墓について…

残念ながら見当たらず、四国由来 ではなさそうだ。

 

F,鍋被り墓について…

残念ながら見当たらない。

 

G,板碑の伝播ルート…

四国では板碑より五輪塔主流の模様。

 

H,その他…

少し気になった事例を。

愛媛県玉川町「奈良原山経塚」平安末

「銅宝塔1基・銅経筒1口・和鏡(円鏡 3.方鏡2)・桧扇2柄・金銅簪1本。 青白磁合子2口・短刀18口・小鈴および瓔珞金具等・瓶3口分・銅銭250余枚」

昭和9年、標高1,042mの山頂に位置する奈良原神社境内南東裏から 発見された。埋納品は国宝に一括 「指定されている。」

これは逆さまにした瓶の中に銅宝塔,経筒を納めた?

小堂に見立てたのだろうか?

ここまでのものは初めて見た。

国宝指定との事。

 

愛媛県松山市「平田七反地遺跡」12∼13世紀

松山平野北部、高縄山系に源を発する小河川によって形成された扇状地に位置する。中世においては河野氏の家臣、大内氏支配下にあった。」

「土坑墓3基(c-1区)、土坑墓1基(d-2区)」

「c-1区より楠葉型瓦器が出土し男女1対の遺体が埋葬(1号土坑墓)、土師器皿,瓦器椀,湖州六花鏡(2号土坑墓)が出土し女性の遺体が埋葬 (2号土坑墓)、須恵器、土師器,瓦器片・菊花萩双鳥鏡が出土し女性の遺体が埋葬されていた (3号土坑墓)、d-2区1号土坑墓からは遺物は出土し。」

「飛鳥~奈良時代の赤色彩土師器や10世紀前後の緑釉陶器が出土しており、古代において周辺に公的施設・有力階層の居住区があった ことを想定している。また中世には大内城などの中世城館が点在し ている。」

この遺跡、先の湖州鏡の件で紹介したが、気になったのは実はこちら1号土坑墓が写真の左上の様に「合葬墓」である事。

かなり珍しい。

ここで「河野氏」登場。

ここは河野氏の家臣団「大内氏」の支配地域とある。

で、合葬墓…

何故、河野氏

・元々が伊予水軍の将の一族。

承久の乱後鳥羽上皇についた「河野通信」は捉えられ、陸奥国江刺へ流配され出家し、国見山極楽寺で生涯を終える。この国見山極楽寺こそ、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134

「和鏡特別ミッションの続報…「国見廃寺」と俘囚長安倍氏、そして道具に対する解釈は?」…

国見廃寺の後の姿と伝わる事。

・「河野通信」の孫が、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/15/204214

津軽,秋田に残る金石造文化財…紀年遺物に刻まれた安東氏の宗教観」…

十三湊安東氏が信仰した「時宗」の開祖「一遍上人」であること。

そして東北各地に「時宗の板碑群」が点在する事。

・南部氏侵攻により十三湊陥落後、傀儡化→反旗を翻し島渡りした「安東政季」に帯同したのが「河野政通」で、伊予河野氏の後裔を名乗った事…

etc…

割と河野氏に縁がありそうな点は本ブログでもポツポツ登場してきている。

あまり見慣れない「合葬墓」で、この様に「河野氏」が登場するのもなかなか不気味ではある。

まして、湖州六花鏡や菊花萩双鳥鏡…

まぁ、邪推はここまで。

 

以上の通り。

如何だろうか?

二点触れたい。

①墓の形態…

こんな風に一連で墓制を見てくると、東北らで見られた「小判型土坑墓+屈葬」は四国ではあまり見られない。

むしろ、長方形、隅丸長方形、長楕円形の墓が主流に見える。

あれ?

北海道の中世は?

よくよく考えてみると前にも書いたが、

・続縄文系→小判型+屈葬…

・後に本州末期古墳集団の影響で周溝を伴う長方形…

・中世では隅丸長方形や長楕円形…

むしろ中世では、関東以西に近い?

四国の実績では、河野氏縁の墓のなどはかなり似ているのは確か。

これ、ただ単に似るだけなのか?

そうでもないのかも知れない。

何故なら、吾妻鏡にある「蝦夷ヶ島に賊や海賊を流刑にした」…この記述とは一致して来る感じなのだ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/25/193945

「実は「蝦夷の人々」の定義そのものがバラバラ…この際、「新羅之記録」を読んでみる」…

「そもそもその昔は、この国は上りに二十日程、下りに二十日程かかっていた。松前から東側は阪川(筆者註:ムカワのルビ)まで、西側は與依地(筆者註:ヨイチのルビ)まで人が住んでいた。右大将源頼朝卿が進発して、奥州の泰衡を追討された時に、糠部津軽より多くの人たちがこの国に逃げ渡って居住したという。彼らは薙刀を舟舫に結び付けて、櫓櫂にして漕ぎ渡ったという。このことから、この国の艋舴の車楷は薙刀の形をしていたという。奥狄の舟は近頃まで楷を薙刀の形に作っていた。今、奥狄の地にその末裔の狄となってそこに住んでいるといわれる。」

「また、実朝将軍の代に、強盗・海賊の仲間共数十人を捕まえて、奥州外ヶ浜(現青森市付近)に送り、狄の嶋に追放された。渡党というのはそれらの末裔である。」

「それ以外にも嘉吉三(一四四三)年冬、下国安東太盛季が小泊(現青森県中泊町)の柴館を落とされ海を渡った際に、あとを慕って大勢の人々が押し寄せたという。今において、その末裔の侍共がここにあるのである。」

皆さん大好き「新羅之記録」である。

ここで改めて北海道へ渡ったとされる集団を住んでる地域に当て嵌めると…

A,元々住んでいた人々は、「鵡川余市迄」居住。

B,奥州藤原氏の落人は川を遡り奥蝦夷領域に行き、末裔は狄化している。

C,鎌倉幕府に流刑にされた人々は、渡党として暮らした(奥蝦夷領域へは行かず…か?)

D,十三湊陥落後に安東盛季に帯同した人々は道南へ。

となると、口蝦夷領域に住んだのはA,とC,になる。

C,の場合は元の居住地が都や畿内、鎌倉周辺ら都市部が主であろうから、そちらの墓制文化を持ち込んでも違和感無しだろう。

こんな風に考えると、吾妻鏡と一致…としても、そんなハズレはしなくなってくる。

この辺は、先ずは一連の資料集成を拡大していくしかないだろう。

②鍋の副葬…

実は松山市「古昭ゴウラ遺跡」で一件「鉄鍋」の出土があるが、これはイレギュラーケース。

四国は殆どが土師器系の土鍋、土の羽釜迄ある。

これも追加確認は必要だが…

鍋の副葬は多い少ないは別として、今迄確認した地方の何処にでもある。

北海道固有とは言えないだろう。

で、北海道〜東北で目立つ鉄鍋は、北陸や北関東、そして四国に至れば土鍋が主になる…これ、単に主に使われる生活用品としての「鍋文化圏」か鉄or土、これを表すだけではないか?だ。

北海道に限らず鉄鍋文化圏なら鉄鍋を副葬するし、土鍋文化圏なら土鍋を副葬しているだけの事。

特別視する必要があるのか?だ。

各地の墓相を俯瞰して見てくると、そんな風に感じるのだ。

北海道ではかなり強調される傾向はあるのだが。

つか、こんな視点で他の地方と比較した事があるのだろうか?

考えてもみて欲しい。

鉄鍋にしても漆器にしても中世道内で作った記録は無いのだから、産地を追えばそことの物流痕跡は見えてくる。

何故、北海道はそれをしないで、単独で物事を済ませようとするのか?…これが全く理解不能

敢えて言うなら、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/08/070139

「生きていた証、続報34…食器と言う視点で北海道~東北を見てみる」…

土師器系や瓦質系が主流の各地に比べ、かなり純然とした「鉄鍋+(貿易含む)陶磁器+漆器」…この食器文化は、北海道、東北そして都になる様だが。

勿論これ、平安期からの様で、平泉との関連が考察される様だが…あれ?①の件は……はて?

 

さて…

あれこれ書いたが、もっと日本列島の中世墓相の比較を続けていこうではないか。

こんな風に並べてみても、人の流れが見えて来たりする。

因みに…

先に時宗の板碑と一遍上人に触れたが、時宗南無阿弥陀仏の念仏と共に日本中に広めたのは一体誰か?

最近気がついたが…

室町成立の「七十一番職人歌合い」の山伏と巫女。

巫女の赤丸のこれ…鏡では?

さて、先へ進もう…

 

参考文献:

「中世墓資料集成−四国編−」 中世墓資料集成研究会 2004.3月

北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがきのあとがき…これって早い話、「金掘衆や場所の姿を投影しただけ」なのでは?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/08/130357

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがき…ならその「北海道の中世墓」事例を見てみよう」…

こちらを前項に。

実は、こちらを纏めながらふと考えてしまった事がある。

斜里町「オネンベツ川西側台地遺跡」…この遺跡を紹介しながら「あれ?」と思いついた。

それは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/10/195717

「ゴールドラッシュとキリシタン-34…最新キリシタン墓研究と「火山灰直下の墓」の共通点についての備忘録」…

こんな本州の近世墓との共通点を確認してみて増幅されたのも確かなのだが。

結論を先に書けば、かなり身も蓋もない。

よくTa-bら火山灰直下、黒0層での遺跡で「アイノ文化期のアイノ文化の担い手達の活動」を表すと強調されがち。

だが、オネンベツ川らの状況から見てみると、これらは「商場知行地や請負場所の活動」を単に表しているだけではないか?という視点だ。

前項で取り上げた「美々8遺跡」周辺を中心に墓制と共にどんな活動が行われていたか?見てみよう。

①美々8遺跡…

基本土層や墓制については前項で述べているので割愛する。

では、第2分冊にある「低湿部」でどんな活動がされていたか?を覗いてみよう。

「美々8遺跡付近は、18世紀頃から 「シコツ越」、「ユウフツ越」 と呼ばれた日本海側と太平洋側をつなぐ水上交通と陸上交通の中継地点が存在したとされる地点である。これまでの調査において、低湿部に続く斜面部の0黒層やI黒層上面に建物跡、焼燒土、道跡、ただしい数の杭跡等の分布が確認さ れ、低湿部内に17~18世紀の江戸時代(アイヌ文化期)に相当する舟着場あるいは住居等の構築物が存在すると推測されていた。平成2年度の調査ではそれらに関連すると考えられる遺構・遺物が多数出土し、低湿部で生活が営まれていたことが明らかとなった。アイヌの民具を含む多量の木製生活用具などは、この時代の物質文化を検討する上で欠かすことのできない貴重な資料である。」

美沢川の河岸付近、現水面下の標高3~8mの湿地帯の水を抜きながら発掘を行った様だ。

特に標高4.5m以下が黒0と黒Ⅰ層上面に当たり、主に黒0層で木製品が大量に出土した訳だ。

遺構は黒0層では道跡と杭跡,立杭。

遺物は磁器片,石器ら石製品,鉄鍋,煙管雁首,カスガイ,銅銭(洪武通宝)等とここ「美々8遺跡」の象徴的遺物である大量の木製品(舟の側板,櫂,住居建材,ヤス,弓,仕掛け弓台,鍬や斧の柄,箸や桶・樽等々)である。

当初の引用部にある予想通り、住居建材や舟の部品らやヤスや鈎ら漁具等が検出され、船着き場やそれに伴う家屋、漁場らを想像される木製品が大量に出土した様だ。

 

さてでは、同書に記載ある手持ちの発掘調査報告書を確認してみよう。

②「ユカンボシC15遺跡」

・同書の記述…

「中世〜近世(1739年以前)」

「中世の土坑墓1(AP-3)、墓坑平面形は長方形。近世土坑墓2基(AP-1・2)、墓坑平面形は長台形。」

「AP-1からは刀子 (3) ・太刀 (1)・ 鉤? (1) ・斧(1) ・錫製形耳飾(1) 、AP-2からは内耳鉄鍋 (1)、 AP-3からは刀子 (1) 碗 (1)」

「AP-1・2に盛土あり」

・基本土層…

気になるのは台地部から低湿部にかけて特にTa-a層の土層の厚さが違う事。

単に高低差で斜めになっただけではなく、地滑りや水害で低い方に流れたか?

Ⅰ層…表土

Ⅱ層…Ta-a(1739年)  厚い所で30~40cm

Ⅲ層…黒0層  0~20cm

Ⅳ層…黒Ⅰ層  5~20cm、低湿部では主に4層に分かれ、ⅠB1が近世、ⅠB2が近世~擦文後期、1B3が擦文文化期で途中にB-Tmを挟み、ⅠB4が続縄文~縄文のそれぞれ遺物含包層となる。

・発掘調査報告書実績…

該当報告書では3基の中〜近世墓が検出。

長方形墓:楕円墓は3:0

他特徴的なものは、

円形周溝を持つ…0

2体合葬墓…0

耳飾,垂飾等検出…1

・AP-1…

黒Ⅰ層上面からの堀込で近世墓と判断されるが人骨は検出出来ず、遺物の金属製品は墓坑の北壁に沿う様に底面で一括検出。長軸は北東向き。

遺物は刀子×4、太刀×1、鉄針×1、鈎状鉄製品、Ω型の耳飾?×2等。

耳飾?は錫70~80%,鉛20~30%で、太刀拵の部品?は概ね銀製品。

・AP-2…

近辺遺構との関連性より近世墓と判断されるが、人骨は検出出来ず。

遺物は墓坑近辺に内耳鉄鍋があるが、鍋に付着した土をC14炭素年代測定したところ990±60y B.P.(960年位)と出ているとの事。

・AP-3…

中世墓と判断している様だが、人骨は検出出来ず。

遺物は刀子×1と漆塗椀で、底面ではなく覆土最下層上面での検出となる。

この漆塗椀のC14炭素年代測定したところ610±60y B.P.(1340年位)と出ているとの事。

以上。

近世墓と判断される墓でΩ型の耳飾?が検出されているのが興味深い。

これは前項で紹介した「末広遺跡のIP-111」近似としている。

さて、この遺跡は以前ブログで紹介している。

これだ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/26/203315

「生きていた証、続報26…ユカンボシC15遺跡に残された北海道江戸期の『馬蹄跡』の存在」…

Ta-a層直下の馬の蹄跡が検出される遺跡の事。

Ta-a,Ta-b火山灰降下前の馬の存在を示す文献は見つかってはいないが、馬の蹄跡から「金掘衆が掘り出した砂金を運び出す為の馬の野生化」を想定している。

ここで、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/05/194001

「生きていた証、続報27…室蘭市史に記された、北海道の駅逓制度の始まりは江戸初期」…

馬繋がりで辿ると、Ta-b(1667年)後として松前藩主の司令として、

「元禄四年(一六九一)、松前藩十代矩広が、町奉行に対して「私領分(注・藩士への給地)百姓伝馬宿次無ニ遅々-様可ニ申付-候事」と通達した。つまり人馬継立はおくれるのとのないよう急いて申し付けるべきである、というのである。」とある様に、商場知行制を拡大に伴い、その知行地間を陸路で繋ぐように指令している。

発掘調査報告書にもある様に、実は千歳周辺が東蝦夷地と西蝦夷地の接点になっている。

新北海道史によると時代は下るが寛政年間頃の千歳周辺の場所と知行主では、

西蝦夷地側

・シママップ(島松川付近)

下国岡右衛門

蝦夷地側

・ロウサン(千歳川付近)

直轄

・マス(同上)

牧田源八郎

・ヲセッコ(同上)

厚谷新下

・イザリ(漁川付近)

今井善兵衛

・モイザリ(同上)

佐藤三郎左衛門

・ヲサツ(千歳市長都)

小平甚左衛門

となっており、末広遺跡やユカンボシの遺跡群は長都場所が最寄りになるのだろうか?

いずれ、グーグルアースで簡略計測してみると、末広遺跡から美々の遺跡群迄概略5㌔程度、末広遺跡からユカンボシ川付近迄概略6㌔程度と、極近い立地なのは確かである。

地理的に見ると千歳周辺は、美々川勇払川は太平洋側に注ぎ、千歳川らは石狩川に合流し日本海側へ注ぐ、分水嶺的な位置関係を持つ。

松浦武四郎の「蝦夷日誌」によると、

「又當所(勇払の事)より石狩越新道有。ビゞと云迄は小舟も通じ頗る便利なり。前に橋有(三十餘間、ユウブツ川)、往古は橋東にて、惣場所の賣場買場と有、交易せし由なるが、寛政十二(申)年より會所一軒と定む。其後文化元 (子)年に橋東は風波にて欠崩度々有、損ぜし故、今の地に土居を築き移したると。地所タルマイ〔樽前〕より千歳をかけ平地にし、土味肥沃なれども、七八寸下に燒沙有。然し雑穀野菜は能く成出來、又近頃詰合鈴木尚助藍を試られしが、至極土地によく合しや、追々出稼の者も漁事の暇等作り初しかば、其功勲を愛でゝ、

世の中の

ためとて藍を植初し

心の色の

淺からぬかな」

往古からの往来では、美々側は勇払から勇払川らを船で川を遡り、千歳周辺は陸路で、ここから千歳川を船で下り石狩川から日本海側と連絡していた事が伺える。

時代背景を当て嵌めると、

①ゴールドラッシュによる金掘衆の活動と馬の導入

②Ta-b(1667年)降下

③寛文九年蝦夷乱とその鎮圧後の商場知行地拡大

松前藩主による陸路建設の指令(1691年)と旧道開削、「牧」設置又は拡大

⑤建設らに伴う売り買い場が出来る

⑥Ta-a(1739年)降下

⑦場所請負制への移行

⑧幕府直轄領化に伴う会所設置や石狩~勇払新道開削…ここで第Ⅰ層である表土層へ。

とすれば、ユカンボシC15遺跡に現れる馬の蹄跡は③~④で「牧の設置」→黒0層形成…これで復元可能なのでは?

①については、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/10/195717

「ゴールドラッシュとキリシタン-34…最新キリシタン墓研究と「火山灰直下の墓」の共通点についての備忘録」…

こんな考え方も可能だろう。

時代により変遷する上に、バテレン(宣教師)が不在なので、その葬送方法は従来在地のやり方を反映する事も考えられる。

 

さて、如何だろうか?

この様に江戸期に於いて千歳周辺は、

蝦夷地側…安平川水系の水運

西蝦夷地側…石狩川水系の水運

この2つを繋ぐ交通の要衝(若しくは水運で結べないウイークポイント)だったのは間違い無さそうだ。

必然、人々の往来や人口の集中は起こって然るべき。

美々8遺跡を「点として」見ればアイノ文化の象徴的な意味合いで解説されるが、ユカンボシC15遺跡やユカンボシC2遺跡の馬の蹄跡迄含めた黒0層の「面として」見れば、その往来から場所や交通要衝としての意味合いが強まる解説になるだろう。

美々8遺跡低湿部の発掘調査報告書でも、交通要衝としての意味合いは記載ある。

勿論、この周辺を調べている研究者はこれら「面として」捉えた場合にはどうなるか?は熟知しているハズ。

同一土層でほぼ同じ年代、それも黒0層という極限定された時期を限られた地域の中で共有するのだから。

ましてや、そこに馬が居たからこそ、極限定された期間で黒0層の形成が可能となったのではないか?

恐らく「面として」遺跡と古文の照合をしていけば、一帯の時代的復元は可能だと思うのだが。

 

本題に戻ろう。

「商場知行地や請負場所の活動」を単に表しているだけではないか?…この視点に対する疑問、解って戴けたであろうか?

ならば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718

「時系列上の矛盾&生き方ていた証、続報30…まだまだあった伊達市「有珠4遺跡」に広がる「はたけ跡」」…

これら、噴火湾一帯に存在した畠跡も、周辺の漁場や金掘衆への供給を目的に広げられた…で、説明可能だし、それは本州系かそれに近い文化を持つ口蝦夷の活動痕跡として考える事が可能だろう。

もっと古くに遡れば、末広遺跡には「錫杖」の出土がある。

江戸期でこんな状況なら、修験者は有珠や苫小牧方面からそこに至ったと考えられるのでは?

同時に少し遡り、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/08/204335

「㊗️二百項…時系列上の矛盾を教えてくれた「江別,恵庭古墳群」」…

恵庭の古墳に眠る人々は斧や槍鉋,鎌を副葬される。

これらを鑑みれば、奈良,平安から既に、日本海側と太平洋側を結ぶ陸路の開拓は道民一致した「悲願」の一つだったのかも知れない。

そんな風に捉えれば、この千歳周辺の遺跡群の価値は高まろうと言うもの。

何せ、千年の「悲願」である、馬を使い自由に往来出来る陸路の開拓に成功した証なのだから。

遺跡の位置付けや価値は、その視点で大きく変わる。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/12/054834

「河野広道博士についての二題…発掘,研究への気構え&「人送り(食人)」伝承について」…

「遺跡の発掘は遺跡の破壊である。一度こわされた遺跡はいかにしても原型に復することはできないのだから、発掘-調査は破壊を代償としてなおかつ十分な価値あるものでなければならないはずである。」

河野広道博士の言葉。

千年の悲願を解明した遺跡群…と言うなら、これ程価値のある遺跡は他に少ないだろう。

既成概念に拘るあまり、価値を矮小化していないだろうか?

ここまで言えば、単なる一つの集団だけの問題ではないのだが。

 

 

参考文献:

「美沢川流域の遺跡群ⅩⅤ -新千歳空港建設用地内発掘調査報告書-」 北海道埋蔵文化財センター 平成4.3.27

「よみがえる北の中・近世−掘り出されたアイヌ文化−」(財)アイヌ文化振興・研究推進機構 2001.6.2

千歳市ユカンボシC15遺跡(3)-北海道横断自動車道(千歳-夕張)埋蔵文化財発掘調査報告書-」北海道埋蔵文化財センター 平成12.3.31

蝦夷日誌(上)」 松浦武四郎/吉田常吉  時事通信社  昭和37.1.15