中世墓はどう捉えられているか?…「事典」で「山」たる基礎知識を学ぼう

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/01/24/190914

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−7…南関東はどう?「関東編(2)」を確認」…

中世墓を見ていくシリーズも北海道、東北、北陸、関東、中部,東海、四国、此処まで見てみた。

これらは謂わば「森」だと筆者は思っている。

そして、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/13/210344

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがきのあとがき…これって早い話、「金掘衆や場所の姿を投影しただけ」なのでは?」…

こんな風に個別の遺跡や墓を見ていくのが「木」を見る事。

以前から書いているが、「木を見て森を見ず、森を見て木を見ず」はNG。

話をして、論文を読んでるがその論の元となる引用文や史料確認をしない方は結構いらっしゃる。

筆者はその手の専門教育は一切受けていないので、疑問を持てば根拠となる発掘調査報告書迄遡らねばならない。

現在、森を見ながら木を見ている訳だが、森だけではなく「山」も学ぼうではないか…専門家が森や木をどんな捉え方でみているか?の概略だ。

コトバンクより、事典とは?

「物や事柄をあらわす語を集めて一定の順序に並べ、説明した書物。百科事典など。」…

「事典 墓の考古学」という本を紹介していただいたので、そこからそれを学んでみようかと。

この本は我が国の原始・縄文期からの墓制,古墳らについて時代毎に纏めている。

まぁ筆者は現在中世墓に特化しているが、前後の時代も接続出来ると考えればラッキーだ。

 

では中世墓の特徴から。

「中世は武士の時代である。その武士の墓は貴族の墓の模倣から始まった。平安貴族に近づいた奥州藤原氏が栄華を誇った平泉の中尊寺金色堂は、数少ない平安時代後期の墳墓堂遺構で、その須弥壇内に藤原清衡以下三代の遺体と四代泰衡の首級を埋葬することはあまりにも有名である。同時期の平安京では、天皇や貴族の遺体・遺骨を堂塔内に埋葬する事例が増加しており、奥州藤原氏がそれらの状況を意識しなかったはずはない。」

 

「事典 墓の考古学」 土生田純之  吉川弘文館  2013.6.10  より引用…

 

本書では中世は鎌倉〜江戸期迄の間を取り扱っている。

ズバリ「武士の時代」の到来。

その前、奈良,平安期では、古墳→墓陵や大化政権の薄墓令による副葬の簡素化、古代火葬の導入、北海道~東北における末期古墳の造営etc…が起こる。

踏まえてまずは、

京の貴族の「墳墓堂」が平泉の奥州藤原氏

→鎌倉殿らが意識し導入

→都では霊場信仰や舍利信仰から高野山霊場への納骨(髪)が開始、後に共同納骨へ

→同時に火葬の復活

→屋敷墓の開始

→鎌倉周辺で「やぐら」登場

→石組(配石)墓の造営とそれに伴う五輪塔ら石塔造営開始

→配石から集石、宝篋印塔らから石塔へ簡素化

→そして近世には、火葬の衰退と土葬墓の復活…

中世全体を俯瞰して、こんな流れが中世墓の特徴だとしている。

つまり、中世墓としての最終形態は墓標としての石塔の採用と簡素化になるのだろう。

勿論、墓制や宗派の伝播速度差が出るので、畿内と地方ではタイムラグや前代迄の踏襲らが関わるので、当然ながら地方色が出てきたりするし、特異点となる墓制が登場する訳だ。

ここで、

・墳墓堂…

特徴的なものは奥州藤原氏四代が眠る「中尊寺金色堂」。

他で墳墓堂採用の記録は、源頼朝北条政子北条義時、足利義兼ら。

実は北条義時の墳墓堂は発掘迄されているのだが、遺構残存度が低く埋葬方法も含めて詳細不明なのだそうだ。

霊場納骨…

12世紀位の天皇や中枢貴族が高野山へ納骨したりを始めたところから始まる。

時の宗教背景は、末法思想や念仏信仰が強まる時期。

弥勒浄土とされた高野山らへの納骨が記録される。

これは同時に陶磁器らを主に蔵骨器として使用する…ここも特徴的かも知れない。

古代火葬墓では金属の筒や球状の舍利へ納めた様で、それが白磁四耳壺らに置き換わる。

蔵骨器は古代火葬墓では、地方任官した中級貴族が現地で亡くなり、それを本地に戻す…こんな事も考えにあった様で(後に衰退、現地埋葬が主流に)、火葬は遺体の急速な白骨化と細片化から持ち運び可能となるメリットも考慮した模様。

それが拡散し、地方の寺社への納骨も起こる。

・屋敷墓や土壙墓、火葬墓…

墳墓堂が衰退し、皇族や上位の納骨が始まる12~13世紀に畿内以西を中心に各地で土壙墓の造営が開始される。

主流は屈葬か足だけ曲げた屈肢葬で、祭祀に用いられた土器類が共伴する事が特徴。

これは今迄の確認でも、土師質、瓦質、山砂碗、陶磁器類が多くカウントされる事でも頷けるだろう。

又、土豪らの屋敷墓は11世紀位から開始され、14世紀頃に衰退する様だ。

これは記述はなく筆者の想像だが、そう言えば北海道~東北での山城への「館神」や塚の造営もこの屋敷墓の延長上にあるのか?

更に、石組墓(配石墓)に五輪塔ら石塔を建てる形態も大凡13世紀後半位には出現する様で、石塔の地下だけではなく五輪塔の「水輪」内部を彫りそこに納骨したケースもあり、遺骨は地下のみでなく塔内に埋葬するケースもあった様だ。

同時に、西側で集石の火葬墓や火葬土壙が拡散する。

これも前項の通りで、

鎌倉以西や東北に多い円形や不定形の浅めの土壙で火葬後に蔵骨器をそこに埋め集石で覆うタイプ、関東中心のT型火葬墓の拡散が起こる。

で、先の石組墓(配石墓)らは、小型化や連結化が15世紀位に起こり、石組(配石)が消滅、単なる集石型へ簡素化を起こしていく。

またT型火葬土壙墓の出現らもこの辺の時代らしい。

その後、この火葬墓の小型化や簡素化が顕著になっていき、小型の物が群集する様になる。

集落の墓域化であろうか?

特に火葬土壙墓は群集が多く、同一エリアを火葬執行空間として維持したと考えられ、そこには墓域を管理し、火葬専門に行う技術者の存在を匂わせるとの事。

先の左上の京都「京大構内遺跡 火葬塚」の様な、都会での共同火葬場の登場もそんな職能集団の存在を想起させる。

「長吏管轄」になるのだろう。

この様な小型化,簡素化傾向は15~16世紀に顕著化するが、一部を除き17世紀迄は継続はしない様だ。

火葬が廃れ出し、並立していた土葬化が顕著になっていく訳だ。

・やぐらの登場…

やぐらは屋敷墓の終焉頃に鎌倉中心に開始されるとある。

だが…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/01/24/190914

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−7…南関東はどう?「関東編(2)」を確認」…

どうもやぐらは鎌倉周辺に留まらず、神奈川東部〜旧安房国周辺に遍在し、似たものは後は北陸。

この辺、北陸の一部については言及しているが、旧安房国(千葉県南部)には触れていない。

13世紀位の鎌倉の都市化や御家人ら武士の集住がその理由として挙げられている。

・土葬墓…

何せ往古から最もポピュラーな墓相、ここは断片的に引用しよう。

「土葬墓は、遺体を残す死体処理として原始以来、命脈を保ち続けてきた葬法であり、火葬導入後も社会の多くの階層が継続していたと考えられる。古代以降に造営される墓の多くが、四角形の墓墳を掘り、内部に遺体を置く葬法て、墓壙内に礫や炭化物を敷くものも散見される。遺体を墓壙内にそのまま置くものを土坑墓、さらに木製の棺に納めるものを木棺墓としている。多くの場合、木質が失われていることが多く、木棺を構築する際に用いられる鉄製の釘の存在から、木棺を想定する場合が多い。また遺体を置く墓城床面にのみ板材を敷くものや、蓋のみをふせるものなど、多様なあり方を見せる。」

「遺体の埋置姿勢は、全身を伸ばす伸展葬、全身を曲げる屈葬、肢のみを曲げる屈肢葬の三者があり、身体の向きを仰向けにするもの、伏せるもの、横向きに置くものの違いがある。現在、「死者の北枕」という表現が用いられるが、中世における北枕志向、いわば釈迦の涅槃図を模し頭北西面を意図したものは、人骨が残されている例からみると、多くの地域で規範的に作用 しているとは言い難い。人骨が残存していないものでも墓城主軸を観察すると、必ずしも南北軸を基調とするわけてはなく、頭位方向は造墓集団が置かれた社会的環境によって異なり、シンボル的な山や海、集落の地割に規制されているものが存在している」

「死者ならびに死者を冥界へ導くものへの供えとしてさまざまなものが献じられてきた。供えものには、その時々、場所において当時の人々の死者に対する思いと表裏の関係として、みずからの冥界への備えの表現として多様な行為として現れる。死者の出現から死穢の除去に対するさまざまな場においてモノが献じられてきた。死者を飾る死装束、弔いからくる共食のための食材を盛る器、仏具など、死者に供えられるものすべてが副 葬・供献という行為の表現として見ることができる。改めて「副葬」「供献」という用語について整理してみると、それは死者との距離(関係性)において使い分けが行われる。副葬は、死者に最も近く・深く・重い関係性を有するもので、死者の愛用品や冥土への「所持品」などが該当する。一方、供献は死者と遺族との関係において献じられるもので、副葬行為よりは、死者との距離がやや遠ざかるものである。しかし、相互の区分けは単純ではなく、すべては「供える」という行為から残された結果を見ることになる考古資料のみでは理解し難い。現象面の理解として棺内埋置事例を副葬、棺外埋置事例を供献として便宜的に理解しているが、それが葬送者の思いを表現しているのかは、理解の再構成を図る必要がある。

次に埋置位置について見てみよう。副葬品の多くは、遺体と墓壙、棺の形状から規定され、四角形に対する人体形状から 頭部両脇、足部脇の二ヵ所に隙間が存在し、一頭部両脇における隙間への埋置例が最も多い。」

「副葬・供献される品々は、死者に対する遺族の思いを表現するように、死者の生前に使用していたものや冥土への供物、さらには死者を魔物から守るための道具が供えられている。具体的には、武器、食器、化粧道具、装身具から工具までさまざまな品々が出土し、被葬者の社会的位置を知る上で、多様な情報を与えてくれている。武器には、刀子、小刀、刀が、食器には輸入陶磁器、国産陶器、黒色土器、瓦器、土師器、石製品、鉄製品などの供膳具、貯蔵具、調理具が、そして化粧具、装身具には鏡、毛抜き、玉類がある。工具類には、鉄製の鎌、鉄をはじめヤットコなどの鉄生産に関わるものも納められている例がある。その他として漆製品、木製枕や銭貨があり、これらの組み合わせによって被葬者の階層が分けられる。これらの品々は、食器・化粧道具類は、頭位左右ないしは頭頂部より上の空間に置かれていることが多く、武器は胸部ないしは左右の手の部分に、工具類も左右の手の部分に置かれている事例が多い。あたかも、冥土への旅立ちに際し、「身」を守るための道具類は、 即時使用に備えるかのように遺体の身近に置き、その他の品々は、墓墳や棺の隙間的空間への埋置を行なっている。

性差と品々との関係は、人骨と副葬・供献物が揃う事例が限られているため、普遍化することには躊躇するが、これまでの 検出事例では、武器は男性に、化粧具は女性との相関性が高い。また中世においては男女とも副葬・供献品の保有率に差は認められない。」

 

「事典 墓の考古学」 土生田純之  吉川弘文館  2013.6.10  より引用…

 

と言う訳だ。

つまり、中世墓においては、

「北枕」はステレオタイプ

「火葬メイン」もステレオタイプ

「副葬位置」はむしろ墓内空間と人体形状の隙間による…

往古より最も使われた墓制なので、多様且つ背景や経緯が複雑に絡み、地域差を生んだりする様で。

実際の墓から割り出せばこうなる。

現実、中世墓資料集成を見てきた限りでは、時期等によりゴチャ混ぜだし宗派によるのか?同じ墓域で変遷したりする。

地域内で同様な傾向を持つ場合もあるが、それがその地域内固有で継続する訳ではないようだ。

筆者が先に「宗派の影響」を示唆したのが正にそれで、時系列的変動は新宗派の伝播や移住者比率の変動の影響も鑑みる必要はあると考えるからだ。

それまで明確な墓標が無かった所に時宗が伝播すれば、板碑が建つ様になるだろうし、その信仰比率が上がれば当然板碑群が形成されだす…こんな事があるだろうからだ。

ましてや、それに往古から続く墓制を継続する一族があれば、そりゃ複雑に入り組む様になるのは目に見える。

全体像だけで判断出来る訳ではないと言う事になる。

予想通り。

故に、山を見て、森を見て、木を見る…と考える。

さて…ではクライマックスといこう。

北海道だ。

アイヌ墓には土葬墓として周溝墓・盛土墓・土坑墓、火葬墓として配石墓・土坑墓があり、和人墓には土葬墓として 盛土墓・配石墓・土坑墓、火葬墓として盛土墓・土坑墓がある。

墓域をアイヌ墓のみで構成する遺跡は北海道東北部から道南部にまで広くみられるのに対して、墳墓を和人墓のみで構成する遺跡は道南部に限られる。

たとえば、道央部石狩の千歳市末広遺跡ではアイヌ墓の墓域に和人墓が点在し、道南部檜山の上ノ国町夷王山墳墓群では和人墓の墓域にアイヌ墓が点在する。両遺跡では墓域の共有はあっても墓制の融合は認められない。」

アイヌ土葬墓は伸展葬であるため墓坑は小判形・隅丸長方形・楕円形・方形・長台形である。和人土葬墓は(仰臥・側臥) 屈葬であるため墓坑は楕円形・小判形・略方形・方形である。アイヌ墓のみにあるのは一次葬の合葬、和人墓のみあるのは鉢被り葬・火葬施設である。周溝・列石は和人墓になくアイヌ墓にある。和人墓の封土・葺石は墓坑直上を覆う小規模なものであるが、アイヌ墓のそれは広く覆う。火葬は両方の墓制にあるが、アイヌ墓には伸展葬の火葬があり集骨はなく、和人墓には集骨がある。アイヌ墓の副葬品は骨・骨製矢中柄などの自製品と太刀・ 鉄鍋・刀子・漆器・ガラス玉など少量の移入品によって構成され、和人墓は銭(六道銭)・漆器・数珠がある。

以上より、アイヌ墓と和人墓には分布域と外部施設・内部施設・副葬品の相違があり、和人が本格的に進出した十四世紀後半には二つの墓制が並立しており墓制の融合はない。

アイヌ墓における埋葬姿勢は伸展葬がほとんどであり、この初出は擦文文化期の九世紀中葉で、それ以降継続する。墓坑平面形のうち、小判形は擦文文化期以前に遡り、小判形・隅丸長方形・楕円形・方形は中世的平面形であり、長台形は新しい平面形である。四辺を板材で囲む槨構造は、古墳時代後期並行である続縄文時代後葉(いわゆる北大式期)から平安時代並行である擦文文化期に類似があり、低平な封土・浅い周溝・周溝平面形は擦文文化期の盛土墓・周溝墓に類似があり、封土規模が墓坑平面形規模に規定される造墓方法も共通する。アイヌ墓制は、内部施設・外部施設は擦文文化以来の伝統を受け、副葬品が新来の要素を受容した墓制である。

和人墓の系譜を示す遺構には、板碑・火葬墓・火葬施設(火葬土坑)があり、六道銭の副葬もみられる。和人墓制は渡島半 島に進出した和人が本州から持ち込んだのであるが、詳細な系譜は今後の課題である。

アイヌ墓制の階層性については、元和四年(一六一八)、松前 で布教したキリスト教宣教師アンジェリスの報告書訳文によると「富裕な者は死骸を納める大きな一つの箱を備えて、直ちにそれを埋葬する。貧乏人は一つの嚢の中に死骸を入れ、同様の方法でそれを埋葬する。」とあり、木槨の有無が貧富の差を示す。盛土・周溝が擦文文化期以来の伝統であり、被葬者は伝統を重んじていたことを示す。一方、木槨・外部施設がある墓が 墓域について隔絶性を表現してはいない。これらより、木槨・ 外部施設が階層差を示すというよりも擦文文化期からの伝統継承と考えられる。ただし、伝統継承が特定階層によって行われたかどうかは未証である。副葬品については、種類と量が被葬者の性差(=性分業)に由来し、個人的な志向が強く影響することを示している。内部施設には個人的状況が反映され、外部施設には伝統という集団における状況が反映される。副葬品には 貧富の差といった個人の当時の状況が反映したといえる。

和人墓の様相としては、夷王山墳墓群においては、標高の高低によって特定の墓域を形成する。一方、利別川河口遺跡の和人系火葬墓は墓坑規格・副葬品の差異がなく、階層を想起させる状況はない。夷王山墳墓群は勝山館館主蠣崎家と家臣団の墓地であり、利別川河口遺跡は一般集落の墓地だからであろう。」

 

「事典 墓の考古学」 土生田純之  吉川弘文館  2013.6.10  より引用…

 

ここの参考文献は、

・児玉作左衛門他「蝦夷に関する耶蘇会士の報告『北方文化研究報告』九  1954

・加藤邦雄「北海道の中世墓について」    石附喜三男編『北海道の研究』二所収  1984

・田村俊之「北海道における近世の墓制」 『北海道考古学』一九、1983

・宇田川洋「チャシ跡とアイヌ墓」(宇田川洋・野村崇編『擦文・アイヌ文化』所収  2004

・鈴木信「アイヌ文化期の墓制」  狭川真一編『日本の中世墓』所収  2009

との事。

では中身を纏めてみよう。

①傾向…

・アイノ系

土葬墓→周溝墓・盛土墓・土坑墓で伸展葬。

火葬墓→配石墓・土坑墓。

一次葬の合葬、周溝・列石はアイノ系のみで、火葬で収骨は無い。

・本州系

土葬墓→盛土墓・配石墓・土坑墓で仰臥,側臥の屈葬。

火葬墓→盛土墓・土坑墓。

鉢被り葬・火葬施設は本州系のみで覆土らの規模は小さく、火葬での収骨有り。

②形状…

・アイノ系→墓坑は小判形・隅丸長方形・楕円形・方形・長台形で伸展葬が理由

・本州系→墓坑は楕円形・小判形・略方形・方形で仰臥・側臥屈葬が理由

③副葬…

アイノ系→骨・骨製矢中柄などの自製品と太刀・ 鉄鍋・刀子・漆器・ガラス玉など少量の移入品。

本州系→銭(六道銭)・漆器・数珠

④系譜…

アイノ系→擦文文化期の九世紀中葉に出現した伸展葬が伝統的に継続。

本州系→本州から持ち込まれたが、詳細は不明。

以上、こんなところか。

さて、お気付きだろうか?

 

考察してみよう。

①系譜…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/08/204335

「㊗️二百項…時系列上の矛盾を教えてくれた「江別,恵庭古墳群」」…

考古学系で筆者が一番最初に手にしたのがこの考古学雑誌。

発掘者の生の声を読みたかった。

で、上記④系譜…の部分に付いては正にピタリなのだ。

恵庭古墳群は末期古墳と土坑墓の複合遺跡なのだ。

古墳→本州系、土坑墓→在地系と考えらる。

そう、引用文の八世紀中葉はこの末期古墳からの系譜。

この段階でも土坑墓は伸展葬ではなく、楕円主流の仰臥屈葬が主で、理由が続縄文文化の墓がそうだからだ。

故に、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/29/105815

「この時点での、公式見解43…「江別古墳群」らを初めとする「擦文文化」が研究者にどう捉えられているのか?」…

こんな判断が成り立つ。

自ら、「本州の古墳文化の末裔」と言ってる様なもんなのだが…

大体、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/121137

元慶の乱…ぶちギレた秋田県民と北海道の選択」…

蝦夷だエミシだとされる東北では、38年戦争や元慶の乱で、政府軍と戦った経緯がある。

元慶の乱で渡嶋衆がどちらについたか?、政府軍側だ。

そんな親朝廷の集団が、どうやって北海道固有の集団に成り得るか?

古墳文化を受け入れ、従来の屈葬を「止めた」…この辺の経緯をすっ飛ばしてそういうのは、如何なものか?

つまりこれが真逆に、北海道土着の続縄文文化での屈葬主流を継続していたなら、土着文化を継承者だと納得出来る。

だが、現実は本州の古墳文化を需要後、それを継承したと書いている。

これで「往古から単一の土着固有」と言えるのか?…ムリなのでは?

墓制のみで見れば、そう言わざるをえないのではないか?

②傾向と形状,副葬…

筆者が「え?」と思ったのは、本州系の系譜が解っていないと言う記述。

本州から「渡った」と自ら書いてあるのにだ。これ、道内比較しかしていないのではないだろうか?と考えたからだ。

土葬は往古から行われ、「本州でも多様且つ規範より地の状況により規制される」…これは本州以南での傾向として記述される。

ここで敢えて「森」をみてみたい。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/25/105821

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4…本命「北海道の中世墓」、だが何故か「長方形墓と楕円墓が併用」されている、そして…」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/28/195142

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、東北編のあとがき…津軽側と南部側の差異を再確認」…

そして、「木」を。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/08/130357

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがき…ならその「北海道の中世墓」事例を見てみよう」…

遺構繋がりでチャシは?こう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/21/204519

余市の石積みの源流候補としての備忘録-8…中世城館資料の北海道版「北海道のチャシ」に石垣はあるか?、そして…」…

まだ、土葬:火葬の比率からではあるが…

津軽〜糠部,下北半島の傾向はトレース出来そうだし、現実として「森」は北東北からの流れと合致しそうだ。

「木」としても「①系譜…」や個別の特異点とされる部分は、近世副葬の垂飾や耳飾らを除けば本州以南にもありそうだし、墓の形態も個々にある。

古銭もガラス玉も双方にある。

これなら同じものをアイノ系では「古銭,ガラス玉はニンカリ」本州系なら「六紋銭,数珠」と読んでる様なもの。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/01/24/190914

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−7…南関東はどう?「関東編(2)」を確認」…

「やぐら」の様に、明らかに墓制が違うなら一目瞭然だが、本州からの流れを無視し同様のものがあるのにも関わらず、「北海道土着固有の文化」と言えるのか?

全体像を捉えた上で「ここが変化点だ」…と言える部分を解明出来たなら、話は別だが、本州からの流れを無視してるなら、それはムリな話だろう。

そもそも論なのだが、アイノ系と本州系とされるものは融合をみない…二度くらい書かれるが、これ、どうやってアイノ系か本州系か元々を決めたのか?、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/12/185631

「定義や時代区分はそれで良いのか?、あとがき…河野氏の問いかけに答えられる者はいるのか?」…

文化定義や時代区分すら明確に設定出来ないのにも関わらず。

ここで、民俗系で近世,近代では火葬の記録が極薄い割に、考古学では火葬もありと言い、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/11/123006

「これが「近現代アイノ墓」…盗掘ではない発掘事例は有る」…

あくまでも最終形態はここに行き着くのだ。

近代迄ある程度管理された墓域で、伸展葬も屈葬も火葬もゴチャ混ぜ。

さて、本当はどんな時間軸経緯でここに行き着くのか?

継続してると言うなれば、説明する義務を負う。

 

さて、如何であろうか?

どんな生活文化だったか?は、住居や墓の発掘事例からの変遷を辿るのは必須だろうし、「事典」にある→一般的認識だろう。

つまり、大学らでそちら系を習得するなら、避けて通れぬ道…学習していると言う事。

筆者は書いてきた。

「専門家はこれらを全て知っている、知った上でこう主張している」と。

こと中世に着目したが、知っているとする根拠はこれ。

学習している。

その上で、北海道を切り離して見てるだけ…そう見えるのは筆者だけか?

まぁ、我々的には通説に拘る必要はない。

多分、我々と似た様な論文はあるだろう、あまり引用されてはいないだろうが。

まだまだ入口…先は長い。

 

参考文献:

「事典 墓の考古学」 土生田純之  吉川弘文館  2013.6.10

㊗500項は、After GEWAの「秋田城介」…「三春町史」にある「安東(秋田)実季」のその後

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/02/183834

「最新刊ではどうか?…「奥羽武士団」に記述される「陸奥安東氏&出羽秋田氏」」…

本ブログもとうとう500項を数えてしまった。

丁度節目なので、ブログを象徴しそうな何かを記念に…などと考えても範囲が広過ぎて象徴もなんも無い感じ。

ならばと、この際は「宿題」をやろうと思う。

安倍姓安東氏「秋田氏」のその後である。

前項を含め安倍姓安東氏の難解?な通史は紹介してきたが…(諸説あり)

神武天皇に最後迄弓を引いた「長髄彦」に関わる一族の出身…

②前九年合戦で陸奥守,鎮守府将軍である「源頼義,義家」親子を壊滅寸前迄追い込んだ「安倍頼時,貞任」親子の末裔…

津軽藤崎から十三湊へ進出、二代執権兼陸奥守「北条義時」に「蝦夷沙汰」を付与され関東御用津軽船を運用…

後に南北朝では北朝方として「蝦夷沙汰」を安堵され十三湊にて隆盛を極める…

④最隆盛時の「安東盛季,日ノ本将軍康季」親子の時期に南部氏の侵攻にあい十三湊陥落、北海道へ回避し再奪還を図るも宗家滅亡…

南北朝期又は④の時代で秋田湊へ進出し、「安東鹿季が上国湊安東氏」立上げ…

⑥南部氏が傀儡を狙い宗家を継がせた「安東政季」が南部氏へ反旗を翻し、北海道へ。後に秋田の檜山へ移り「下国檜山安東氏」を立上げ…

⑦檜山の「安東舜季,愛季」が檜山と湊を統一…

⑧愛季の死により「安東実季」が家督を継ぐが湊騒動勃発、秀吉の惣無事令に触れたとして所領の1/3を秀吉領として召し上げられその代官とされ、この頃檜山→秋田湊へ。

又、蝦夷地代官の「蠣崎(松前)氏」が秀吉の朱印状で独立…

ざっと、こんなところ迄は紹介してきた。

なら、その後は?

ざっと書く。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/153312

「同じ「出羽国」でも、鳥海山の裏側はどうだったのか?…「立川町史」に「庄内地方」の歴史を学ぶ」…

「北の関ヶ原」とされる最上氏vs上杉氏の戦いは、立川町史より庄内の歴史で取り上げた。

この両氏、それ以前から庄内への扱いで揉めており、出羽三山の荒廃の元となったのは概報。

安東改め「安倍姓秋田実季」はこの時に徳川方に付き、上杉氏と結んだ小野寺氏や矢島氏を攻撃し攻略しているが、問題はタイミング。

関ヶ原がアッサリ終わった為、終戦後にまだ攻撃していたと最上義光徳川家康に讒言、実季が弁明、将軍御前での対論となった。

場所は大久保相模守邸…とは言え、当の家康は鷹狩にで、最上義光はお供。

「三春町史」によれば、最上義光の家臣、坂紀伊守が実季に詰問し実季が答える形になったと言うので、完全出来レースだったと…

それでも、最後には坂氏をやり込めて「十分の利運ニなり申候而 座ヲ立」と言い放ち席を立ったとか。

⑨結果は宍戸五万石として転封決定。

とは言え、最上義光は57万石に加増…結果は出ていたのだろう。

詳細は割愛…

⑩実季は嫡子俊季と藩政内容で揉める様になり、幕府裁定により実季は伊勢朝熊山へ蟄居、俊季は正式に宍戸藩主となる。

この裁定はかなり微妙なものらしい。

実季は一度幕府に領地没収され、それを俊季に与えた様な形なのか?

当時、吉野や熊野は家康,秀忠により、関東の大名,武将の蟄居の場と指令されていた様だ。

⑪三春へ転封となるが、俊季は三春の地を踏む事なく勤番中の大坂で病死、嫡子盛季が二代三春藩主となる…

で、初代俊季から十一代映季まで三春藩主を務める。

三春の資料館で見た秋田氏の評価は「可もなく不可もなく」…と言った感じか。

とはいえ、実季の幕府への対応や実季と俊季の仲違いが幕府裁定までに至っていたのにも関わらず改易に至らなかったのは、実季正妻且つ俊季の母円光院が「お犬の方(信長,お市の方の姉妹)」の娘で、三代将軍家光と俊季が又従兄弟だからと言う話も。

義光後の最上氏が最上騒動で改易の憂き目を見ている事等を考えても、特徴的かも知れない。

 

さて、本題。

秋田秋田城介実季は朝熊山でどんな暮しを?

以前概報なのは「秋田家文書」の編纂作業。

日ノ本将軍と呼ばれた安東康季が再建した福井羽賀寺の住職らと文のやり取りをしていた事は史料が残された様で。

 

「一河内守俊事から今日にいたるまでの年寄たちは、その筆頭人にいたるまで、ことに家の系図などの事は、何の役にも立たない事だと思っている奴らである。むかし、豊臣秀吉様の時代には、自分をはじめ、そうした考えだったものだが、徳川家の時代になり、家の系図のよい侍が、将軍様のおぼしめしがよいと考えられている。(後略) (『小浜市史』所収「羽賀寺文書」》」…

自分の正妻が信長の姪に当るので、この時代としては、箔はついているのは確か。

最早、戦国の世は終焉間近。

幕府からの要求で、俊季が一度家系図を幕府に提出しているらしい。

晩年まで、それに不備があったり薄いと考えていた幽囚の実季はこのことを不満におもい、系譜を正すことに精力を傾けた。

そこで、執念で資料を集めたりしたようで。

権威の世の中になるのは解っていたのかも知れない。

この系図は、二代藩主孫の盛季の元に届けられる。

どうやら、実季と盛季は啀み合う事はなかった様だ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/05/192830

安東愛季公が官位を授かる為の壁「勅勘」… 公卿らの勘繰をねじ曲げさせる織田信長公の実力」…

盛季以降はどうやらこの家系図を提出するに至る様で、それは明治政府に対しても同様だったと。

 

実季は、朝熊山永松庵(今の永松寺)に預かりの身となり極近臣の者と共に移り、寺内の草庵で特に寵愛していた側室の片山氏と娘千代(千世)の3人で暮らす。

かなり質素な暮らし向きだった様だ。

家系図編纂の他、実季は和歌俳諧に通じていた様で「宗実」又は「凍蚓」の号で和歌や書画を残し、「明良洪範」なる逸話集に記され江戸期に広く知られた人物だったとある。

蹴鞠や勿論、茶湯にも通じた文化人だった様だ。

 

又、面白い逸話が残される。

医学が本格的に研究される様になったのは江戸後期〜幕末。

それまでは家伝薬らが中心。

で、秋田実季はそんな薬学にも長けていたとされる。

「三春町史 第9巻  近世資料2(資料編3)」 より…

 

「 [朝熊万金丹暖簾〕

安倍奥州田村城主 秋田城介侯御教方

朝熊万金丹 本場 岩城仙寿軒

「皇国元始

あさままんきんたん 秋田教方 」 

伊勢市 岩城たに蔵〕」

 

勿論、諸説ありだろうが、実季は蟄居中の朝熊で世話になってる人物にその家伝薬の処方を教えたそうで。

それを伊勢岩城仙寿軒が「本場あさままんきんたん」として代々販売するに至ったと伝わる。

先に千代、そして片山氏を失い独りとなった実季の波乱の人生は、約30年の蟄居生活の中執念で纏め上げた家系図を孫盛季へ与えた翌年に幕を降ろす。

 

「日本国の北方殆ど北極の直下に蕃人の大なる国あり。彼等は動物の毛皮を着し、毛全身に生じ、長き鬚髯あり、飲まんと欲する時は棒を以て其髭を上ぐ。甚だ酒を好み、戦闘に勇猛にして、日本人は之を恐る。戦闘中傷を受くる時は他に薬を用ひず、塩水を以て之を洗ふ。鏡を胸に懸け、頭に剣を縛し、其先端は肩に達す。法律なく、天の外礼拝する物なし。国は甚大にして都より三百レグワあり。彼等の中にゲワの国の大なるアキタと称する日本の地に来り、交易をなす者多し。日本人彼地に到る者あれど、彼等の為め殺さるゝが故に其数は少し。此種の事にして記すべきもの多しと云へども、本書翰は既に長くなりたれば及ぶ丈省略すべし。」

 

蝦夷管領、日ノ本将軍、秋田城介と呼ばれた「北海の覇者」の一族は、海から離れた山国、三春の地を治めるに至った。

そして、一族最後の北海を知る秋田城介は、北海から遠く離れた熊野に葬られた。

何とも皮肉な話ではある。

 

参考文献:

「三春町史 第2巻  近世(通史編2)」  三春町  昭和59.10.30

「三春町史 第9巻  近世資料2(資料編3)」  三春町  昭和56.3.25

北海道中世史を東北から見るたたき台として−7…南関東はどう?「関東編(2)」を確認

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/12/08/210411

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−6…信濃や伊勢はどうか?「中部・東海編」を確認」

さて、久々に「宿題」の続きをいってみよう。

中世墓資料集成より、関東編(2)…つまり南関東である。

当然関連項は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/26/195206

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−3…東北の延長線上で北関東の傾向を見てみよう」

北関東だろう。

ぶっちゃけなのだが、さすがに中世となると鎌倉や小田原を要する「神奈川県」は他の関東の中世墓数を凌駕する。

とうとうこの南関東で、北,東日本は制覇、四国編は確認済なので、中国,九州,沖縄、そして関西となっていく。

メイントレンドは比叡山,高野山,奈良,吉野を有する関西が元になるのだろうが、実際はどうなのであろうか?

 

では早速どんなものか見てみよう。

 

東京都…

・遺跡総数

90

・土葬or火葬

土葬→20

火葬→16   

・特徴ある副葬

古銭→13

ガラス玉(水晶,土玉含む)→0

鏡→0

鉄鍋→1

鉄釘→1

刀剣(刀子含む)→1

陶器,かわらけ→12

漆器→0

仏具(五輪塔,板碑含む)→18

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→2

 

神奈川県…

・遺跡総数

661

・土葬or火葬

土葬→131

火葬→109   

・特徴ある副葬

古銭→66

ガラス玉(水晶,土玉含む)→5

鏡→1

鉄鍋→7

鉄釘→18

刀剣(刀子含む)→9

陶器,かわらけ→139

漆器→2

仏具(五輪塔,板碑含む)→71

骨角器→4

・特徴ある墓制

周溝墓→2

鍋被り→0

石積塚→26

やぐら→196

以上。

ではまたテーマ毎に確認していこう。

 

A,土葬or火葬…

双方共に土葬:火葬は55:45程度。

火葬が強かった埼玉を除けば、大体他の関東圏と似た傾向と言えるのではないだろうか。

 

B,特徴ある副葬について…

副葬は薄く、土師系や山茶碗の様なものが主になり、陶磁器らでも特に貿易陶磁器の様なものはあまりないし、金属器の様なものも極薄くなる。

仏具系は概ね板碑や五輪塔らの石像物が殆どになる。

馬,牛,貝類が共伴する墓らがあるのも関東からかも知れない。

と、骨角器は4件ある。

鎌倉市「佐助ヶ谷遺跡内やぐら」13~15世紀→骨製笄

鎌倉市由比ヶ浜中世集団墓地遺跡(若宮ハイツ)」13後~14後世紀→鹿角製賽,骨製笄

鎌倉市由比ヶ浜南遺跡」13後~14世紀→骨製笄,骨製ピン状製品,加工骨ら

鎌倉市「長谷小路周辺遺跡(河合ビル)」11末~12末世紀→骨鏃

鎌倉市「釈迦堂ヶ谷遺跡(エクレール浄明寺)」中世→鹿角製双六駒

残念ながら本書には骨角器の図は無い様だ。

由比ヶ浜南遺跡」に加工骨が検出しているので、この周辺に骨角器の加工集団が居た事になるのだろうが、鎌倉市周辺にその分布が集中しているのが気になるところ。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B1%E6%AF%94%E3%83%B6%E6%B5%9C%E5%8D%97%E9%81%BA%E8%B7%A1

一応ウィキではあるが、かなり変わった場所であるのは確かな様だ。

 

C,周溝を含めた墓制変遷…

まず目立つのは神奈川における「やぐら」、約3割に及ぶ。

位置的には、

川崎市横浜市横須賀市三浦市葉山町、逗子市、鎌倉市三浦半島側に集中している。

関連項にある様に、千葉県で初見,23%で、館山市安房郡、鴨川市勝浦市いすみ市茂原市、富津市で、旧安房国周辺に分布、北陸で似たものがある他は東日本では殆ど記述がない。

中には、入口に火葬施設、奥の祭壇に骨臓器を供える形式もあり、土葬,火葬両方ある様だ。

東日本では東京湾の外側〜太平洋に掛けてのこの一帯にのみ、この特徴的な墓制を持つ集団が暮らしていた事になる。

なら、ここに住みこの風習を継続した集団は何者なのか?…こんな疑問も出てくる。

先行論文らを読んでみたいものだ。

ここまで地域として特徴的なら独特の墓制文化圏と言えそうだ。

なら、北海道はどうなのだろう?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/25/105821

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4…本命「北海道の中世墓」、だが何故か「長方形墓と楕円墓が併用」されている、そして…」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/08/130357

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがき…ならその「北海道の中世墓」事例を見てみよう」…

そんな大きな墓制文化の差異があると言えるのか?

特異点ばかり追いかけていて、全体像が見えないていのではないだろうか?

 

D,集石塚について…

集石と言うより、A,に関連するが、東京と神奈川、特に鎌倉より西側では火葬施設の形が違う様だ。

これが東京。

他の関東と共通のT型火葬墓が主。

対して神奈川西部がこれ。

東北や中部,東海の様な円形又は不定形の火葬施設の上に集石したり、集石の上で火葬し骨臓器に収めるか…の様な形が主になる様だ。

と言う事は、T型火葬墓が関東独特で、メジャーなのは集石を伴う火葬墓なのか?

やぐらの件もあり、案外関東そのものが特異点…ということはあるのか?

 

E,十字型火葬墓について…

残念ながら見当たらない。

 

F,鍋被り墓について…

残念ながら中世では見当たらない。

 

以上となる。

やぐらや鎌倉があった特異性から興味深い遺跡が多く周辺域の墓制変遷も見ていたいが、目的は全国の傾向の把握、この辺にする。

全体像把握の上で、墓制の専門書らは再確認するつもりである。

中世だけでもこれだけ多様だと解る。

むしろ、北海道より関東の方が特異性が強く感じるのは筆者だけだろうか?

少々意外な展開になっている気もするのだが…

まずは「前へ」…

 

参考文献∶

「中世墓資料集成−関東編(2)−」 中

世墓資料集成研究会 2005.3月

 

「中世墓資料集成−関東編(1)−」 中

世墓資料集成研究会 2005.5月

コイル状鉄製品のルーツとなり得るのか?−2…螺旋形状をした事例3点の備忘録

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/08/16/182820

本年最初のブログは、コイル状,螺旋状の物の第2報とする。

何気に買っていた文献やふらりと訪れた資料館,博物館、そして埋文にもポツポツそんな特徴を持ったものはあったりする。

勿論、関連性らは何も解らないが、そんな事例を増やしていけばいずれ共通の風習や宗教らに辿り着く可能性が無い訳ではない…故に「備忘録」。

今回は各時代の3点についてそれぞれ報告しよう。

 

①馬具…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/12/16/211012

「「牧」を示す「黒ぼく土」…「尾駮の牧」研究から中世北海道に馬がいたか?の検証の為の備忘録」…

ここで参考にした「尾駮の駒・牧の背景を探る」に記載された内容である。

「東北北部で出土した馬具類のいくつかを図示しました(第2図)。図の1~4は轡です。1・2は八戸市丹後平古墳群出土のもの、3・4はおいらせ町阿光坊古墳群出土のものです。どれも七~八世紀の墓から出土していますが、2や3は六世紀の朝 鮮半島で製作されたものと推定されています。5・6は杏葉といって馬に着せた飾りの一部です。7~10も、馬に着せる飾りに用いられていた金具です。このような飾りを着せた馬が七~八世紀の東北北部にいたのです。」…

とある。

阿光坊古墳群と言えば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/10/210140

「「阿光坊古墳群」に残される墓参と思われる痕跡…末期古墳を作った人々の断片と製鉄ルート」…

訪問済。

実は筆者は見ていたりする。

ワイヤー状に「寄り」を入れている物が半島系や渡来系と捉えられている訳だ。

 

②鑷子状鉄製品…

今年最初の遠征より一件。

昨年最後の遠征は新潟であった。

そこから北陸方面へ展開してみたいと思っていたが、元旦の「能登半島地震」から落ち着く迄は控えるべきと判断。

で、今年最初はいきなり関東へ。

群馬県渋川市である。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/01/11/063157

「生きてきた証、続報42…これが平地住居の「煙道無し竈」、驚愕の黒井峯遺跡」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/01/15/193659

「これが東日本最古級とされる「古代精錬遺跡」…黒井峯遺跡を支配したであろう豪族居館「三ツ寺Ⅰ遺跡」」…

黒井峯遺跡らの遺物や特に「平地住居の煙道無し竈」を見てみたいと常々思っていたので、「渋川市埋蔵文化財センター」「群馬県埋蔵文化財センター」を訪れてみたが、その中で目についたのがこちら。

展示パネルより。

「石で囲って作られた棺(箱式石棺)の中には、古墳に葬られた人(被葬者)が生前に所有していた鉄製の剣が3振、そして鑷子状鉄製品と呼ばれる毛抜きに似た鉄製品1点が副葬されていました。これは剣や刀を腰から下げる時に使われた道具と考えられます。

この古墳がつくられたのは、古墳時代中期(5世紀後葉)です。すぐ東側に「甲を着た古墳人」が出土した金井東裏遺跡があり、その関連が注目されています。」

筆者が気になったのは左側の鑷(毛抜)部分ではなく、中央〜右にある接続金具。

これ、ワイヤー状に拠りが入ってる様に見えたから。

検索してみるとやはり①の様に渡来系との関連の記述があるものもある様で。

現物展示をしておらず、対応戴いた学芸員さんも現物は見た事がない(多分防錆処理上)との事だが、やはり拠りが入ってる様な感じの認識の模様。

何に使われたものか詳細は不明の様で。

因みに、群馬県埋文でうかがったが、群馬で現状確認されている「製鉄炉遺構」は7世紀の「箱型炉」だそうだ。

その辺も含め、「この辺の古墳期のワイヤー状の遺物」は大陸や渡来系からの移入品と判断されるのだろう。

 

③縄文の「糸玉」…

先述の去年最後の遠征で、新潟県埋蔵文化財センターで、

初めて見た時に「あれ?」と思ったものだ。

展示パネルより。

縄文時代の漆利用は、約9,000年前にさかのぼり、世界最古の歴史がありました。新発田市青田遺跡では竪櫛や腕輪のほか、この製作に使われた漆容器がみつかりました。赤漆塗り糸玉は、植物の繊維を撚った糸に赤漆を塗り重ねてから、数千本を束ねて結び目をつけたものです。アクセサリーのほかに、結び目の数 や配置などで意思を伝える道具の可能性があります。同様の糸玉は福島県奈良県でもみつかっており、広範囲で糸玉が使われていたようです。」

何故「あれ?」と思ったのか?

瞬間的に思い出したのがこの「垂飾」。

勿論、単なる思い付き。

ただ、引っかかるのは「繊維を紡いだもの」だ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/30/121516

「「樹皮繊維も特別な物でなかった」あとがき…紡績技術の継承が無い!」…

こんな話である。

糸玉は別称「つぐり」と言うのだそうだ。

「つぐり」は「松ぼっくり」や「髪を束ねて後頭部で球形に丸めた結髪方」の事でもある様だ。

これが古来からの養蚕ら繊維に纏わる「信仰具」に有れば…ふと考えたのはそれ。

養蚕の「絹」にして、苧,麻にして、古来から衣服らで使われ租税対象だったのは言うまでもない。

勿論、養蚕に関しては独自の信仰もあるかと。

この辺は今後の展開になるだろう。

昨今、修験らを追い掛けているので、血相変えて探し回らずとも仮に繋がりや近似の信仰具が出てくれば勝手にぶち当たる…こんなお気楽モードで待ちをかけるのも悪くは無い。

②にして③にして、ふらり思い付き遠征で見つけたもの。

単に「大陸に似たものがある」ではなく、「信仰対象である」とでどちらが蓋然性が高いか?…筆者は後者と考えている。

問題はむしろ、時代背景かも知れない。

 

我々グループのモットーは「楽しむ」。

こんな妄想から裏がとれたら儲け物。

とはいえ、それらは捨てたもんじゃない。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/164447

余市町茂入山…冗談とチームワークと執念」…

現に「ここなら城の条件ピッタリじゃね?」が、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/27/212200

「これが「余市の石垣」…現存している石垣を確認」…

石積み,石塁,石垣の現存確認に至り、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/21/204519

余市の石積みの源流候補としての備忘録-8…中世城館資料の北海道版「北海道のチャシ」に石垣はあるか?、そして…」…

石工の活動や、技術を伝えたであろう修験者らに至り、こんな話迄に膨らんでいる。

発想は自由で良い。

後は、それが仮説として成り立つか?を何処まで追い掛けるか?だけの話…筆者はそう思う。

故に「楽しむ」。

「子曰く

之れを知る者は之れを好む者に如かず。 之れを好む者は之れを楽しむ者に如かず」…

片道470kmの遠征も楽しくてしょうがない。

 

参考文献:

「尾駮の駒・牧の背景を探る」 六ヶ所村「尾駮の牧」歴史研究会 2018.7.30

 

「丸山古墳」 渋川市教育委員会  昭和53.3.31

1890(明治23)年段階での北海道の馬や馬具への備忘録…A・H・サベージ・ランドーアの独り旅からのレポート

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3

「対雁に移住した樺太の人々達はどんな暮らしを?…東大英語学者「ジェームズ・メイン・ディクソン」のレポート」…

明治段階での西洋人のレポートをもう一件しよう。

関連項は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/12/16/211012

「「牧」を示す「黒ぼく土」…「尾駮の牧」研究から中世北海道に馬がいたか?の検証の為の備忘録」…

馬である。

と言うか、この資料集には「A・H・サベージ・ランドーア」と言う人物が1890(明治23)年に北海道を独り旅した時のレポートが記載される。

函館→室蘭→沙流→十勝→釧路→厚岸→根室→千島→斜里,紋別→宗谷→石狩、と周遊しているが、訳部分は29章ある内、釧路〜斜里,紋別の5章だが、その中に厚岸→根室での駅逓の中で、どんな馬具が使われていたか?の記述が載っており、非常に興味深い。

ぶっちゃければ、

こんな形。

我々がイメージする轡の形をしていないし、材質も木製。

では、その馬についての記述を引用してみよう。

「私が、約八哩(筆者註∶8マイル)更に東方にある次の駅であるリルランに向って、わが道を進めなければならなかったのは、このような深い海霧の中に於てであった。道路は、間もなく只の踏み分け道になって、主に草原地帯である、うねうねと波うつ土地を通って走っている。回り合せがそうさせたのであろうか、賃借りした私の馬は、リルラン駅逓に所属する馬であり、それは私の思いと同じく、其処に行きたいと熱望しているようであった。馬は道を知っていたが、私は知らなかったので、馬の案内に任せたのである。時々、風が加速度を加えて吹き、海霧がその僅かの間だけ吹き飛ばされて、美しい景色がいくらか目に入った。周囲の土地は、総て草地で、見馴れた鬱蒼たる樹木の岡が背景をなしている。」

「岡から岡へと昇り降りがつづき、丈夫な小さい馬は、自分の以前の故郷に、調 子よく進んでゆく、だが、私は生きているものには、何一つとしてまだ出遭って いないのである。此処では、この暗黒色の肥えた土地で働き、耕す労働者はいな いのである。馬鈴薯畑、自分たちの野菜畑の構想をもった小屋、緑の牧場の上に 撒き散らしたような牛と羊−全てが力強くて、有效な農耕の象徴であるが−は、 エゾ地へ向おうとする旅行者たちが、期待はずれで、失望する事物にほかならな い。どこもが、孤独で単調である。」

「前略〜馬のいななきは、私がリルランの駅に着いたことを告げた。 そして数分後には、私の荷物と荷鞍は、湯気を立てている四足獣からとり除かれ、次いで新しい馬が私の携行品を背負わされた。この様な駅逓は、通例その所有者と家族の住む一戸の小屋から成っている。小屋の傍らには、水平に並べた木の枝と幹で作られた一つの粗末な囲いがあって、処々地中に埋めた木で補強してあった。馬は、日中この囲いの中に入れて置くが、夕方には外に出される。そこで馬たちは、食糧を求めて、それがある所ならどこでも−普通、近くの岡の上に−行くのである。早朝、駅逓勤めの数人のアイヌが、馬を再び捕らえるために出かける。そして、悪戦苦闘の末、馬の群を牧場につれ帰るのである。半野生馬の習性について、よく知らない読者のみなさんは、一旦拘束されない土地に自由に解放された馬たちが、みんなで奥地に逃げはしないか、そうすれば馬たちを再び捕らえることが困難になるであろう、と疑うに違いない。更に又、読者は、馬たちを全部回収するのは、アイヌの馬番にとって、さぞかし困難な仕事である、と考えるであろう。というのは、馬は一頭づつ、てんでんばらばらに、違った方向に逃げていると、恐らく想像しているであろうからである。しかし、これは事実でない。一群の馬が放されると、馬たちは常に決ってーしょに同一方向に行くのであるが、普通年長の馬たちの行くところに従う。そして、年長の馬の首には、鈴がぶら下がっているのである。馬たちが本来の餌場に来ると、全部の馬はお互い数嗎内に集って餌を食べる。そして、その群が必要以上には、一歩も群の外に出ないのが、好都合なのである。つまり、馬たちは一番恐ろしい敵である熊が、極めて近い岡に横行していることを、よく知っているのである。馬群の飢が満たされると、共に肩で押し合って円陣を造り、その中央に幼馬が置かれる。斯の様にして幼馬は、熊の害からよく保護されるのである。つまり、熊が四分の一程も接近すると、強力な自衛力をもつ後ろ足の蹄で、手痛い反抗を知らされることになるのである。アイヌは、優れた追跡者であ って、馬群がどの方向に移動したかを発見するのに、殆ど困難を感じないのであ る。この準備が確認されてから、馬番は、よく世話をして後方に置いていた速い馬にまたがって、日の出の約一時間前に駅逓を出発したのは、日の昇るまでに の群に行きつくのに充分な時間をとるためであった。彼は、自衛の円陣を作って いる馬を発見した。長い杖でその列を分けて、大声で叫び、あちこち荒々しく馳け回って、馬たちを追いつづけ、囲いの中に入れたのである。馬が全部囲いの中 に納ると、一本の重い木製の横木が、二段になっている二本の棒の上に置かれる が、こうしたものが入口の各々の側に一つづつあって、馬の出入りを閉しているのである。そして、馬たちは終日こゝに止め置かれて、この海岸に沿って馬を必要とする人や商人の需要を待つのである。

駅逓の多くは、日本人かアイヌの混血者の所有のである。その周辺地区の必要性によって、あるものは多数の馬をもち、あるものは僅かしか所有していない。 一頭の平均市場価格は、5円乃至10円であって、英国の通貨にすると、ほぼ15志(筆者注∶英国通貨のシリング)乃至30志である。

駅逓の馬は、僅かしか労働させられないので、時には少額の金で、よい馬が手に入る。しかし乍ら、大きい植民地の傍の駅逓−その辺では、他の村々との商売が、全て荷駄によって運ばれている−で は、大変気の毒な動物で、粗末な荷鞍の 震動のために生ずる、皮膚の傷の塊りを、背中につけているのである。更に、又仔馬を、時には40乃至50哩(筆者註∶マイル)の遠距離間を雌馬の後に従わせる可哀そうな習慣は、見ていて胸の痛む光景であるばかりでなく、飼育上有害である。エゾ地の馬は、 長い体毛と、たて髪をもっているのが特色である。馬の背丈は低く、頑健で、ず んぐりした動物で、10乃至12掌幅(註釈 馬の高さを計る尺度、4吋)以内の多少大型でどっしりとした頭と太く曲がった脚をもっている。彼らは、決して外観はよいといえず、手入れもされていない−実際、全く手入れをされていないといってよい−で、北海道の粗末な道路と嶮しい荒地に、立派に役立っているのである。 従って、その馬たちは、わたしたちが自分の馬に要求する特質は、何一つもっていないけれども、馬たちの住む地方に適応させた特色を持っているのである。彼らの巨大な耐久力、ほとんど足で登りえないような最も嶮岨な道を越えてゆくことのできる不思議な技倆、そして絶壁にそって進む時の確実な歩み、波が通行不可能にし、私たちの良い馬では脚を挫かずには、進みえない岩石の海岸上に、その道を掘って進む驚くべき能力が、天賦の才能の全てであることを、エゾ馬の名誉のために附加して置かなければならない。馬たちは、蹄鉄をつけていず、又 殆ど訓練もされていない。実際上、もし旅行者が熟練した乗り手であるならば、完全に条件の揃った馬を手に入れるのが得策であろう。それは、私の経験から言いうることがあるが、騎馬がたとえ多少刺戟的であろうとも、進行のためにかなりの鞭うちを要する。使い古して、背中に傷ついた“安定した馬”よりは、総体的に完全な馬と行を共にする方が、間違なく快適な旅を約束されるのである。」

「馬を制御するために、珍しい方法がとられている。それは、単純であるが、巧妙にできている。それは、馬を制御するのに必要な轡の代わりの役をするもので あり、長さ約12吋、幅2吋の2枚の木の棒で、その間3時を置いて、一端を共に縛っているものが轡の代りに装置される。この棒の真中には、一本の紐が通っていて、それは馬の頭の耳の後方に通っているのであり、棒自身はこの様に保持され、鼻の両脇に1つづつ密着しているのである。もう1本の紐は、5呎乃経6呎の長さで、手綱として使われるものであり、 棒の片方の下位に固着されていて、 穴を通して他方に至っている。この様に、簡単な考案は、挺子の原理に基いて、丁度クルミ割り器かクルミを挟むように、馬の鼻を正確に締めつけるのである。 この構造の欠点は、手綱が1本しかないために、右又は左へ向けようとする度に、 調が馬の頭上を行き来しなければならないことである。こうして、手綱を強く引 っぱると馬の鼻を圧迫し、頭は引っぱられた方向にむけられるのであり、その結果、馬は直ちに自分の行き可き方向を知ることになるのである。又、馬が走り出 したならば、頭を尻の方向に引いて止めることができる。つまり、馬が続けて走るのを、やめさせることになるのである。この場合、屡々、殊に訓練されていない馬の場合に起こるのは、馬が頭を体の側から押し出して、ねじれた首を真直に直そうとすると、円形に疾走することになり、その結果は、大底馬と乗り手の双方が、ひどい倒れ方をすることになるのである。

又、もう一つ注意を要するには、足を獰猛な歯の到達外に置くことである。というのは、人間が動物を罰する代りに、動物の方が人間に報復することが、稀ではないからである。そして、不注意な旅行者は、シドニー・スミスの意見を悟り、 英国の馬車馬に対すると同様に、エゾ馬に対して"すべての肉は草である”事実 に気づくことになる。」

少し拡大してみると、

こんな使い方をしている。

まぁあくまでも、明治23年段階での話ではあるが、近世,近代でも馬具らしいものが出土しない理由は「木製且つ構造が違う」と言う可能性もある事になる。

案外、仮に出土していても、こんな単純な板であれば「轡」と考えるであろうか?

勿論、これが何処迄遡るか?、どんな地域迄広げられるか?も未知数だが。

ただ、これは言えるのだろう。

本州にして、北海道にして、牧を作ったとして無理に柵を設けて閉鎖空間を築く必要は無かったと。

熊なり絶滅したニホンオオカミなりに警戒した馬は集団行動をとりチリヂリバラバラになる事はないので、早馬一頭だけ手元に置けば一箇所に集める事は可能だったと。

で、懐く事をせず、自らの意志で何処までも踏み分け走破し、荷物を積もうが疲れる事を知らぬ馬…

まるで平安の昔の「尾駮の駒」そのものではないか?

特に軍馬はサラブレッドの様に整地された馬場を走る訳ではない。

鵯越え」すらやってのける踏破性を求められるだろう。

サーキット専用のF1マシンでは役に立たない。

むしろ必要なのは、ラリーマシンかラリーレイドの4WD。

トップスピードより、砂漠だろうが砂利だろうが岩山だろうが駆け抜ける能力の方がより必要。

舗装路を走る訳ではないのだから。

そんな軍馬を手に入れたら、極端な話、騎馬軍団を通す為の道を予め作る必要すらなくなる。

尾根伝いに国境を越え、電撃戦を仕掛ける事すら可能。

背後から高速戦車に襲われる事を考えたら、より高い場所に監視台を作らなければ陣地保持なぞ不可能。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/112501

「北海道弾丸ツアー第四段、「中世城館編」…現物を見た率直な疑問、「勝山館は中世城館ではないのでは?」」…

だから言う。

平安此の方、軍馬に求められる特性を熟知している当時の武将が、こんな城館を築城するか?

安東氏の最大の敵は「南部氏」。

陸奥馬を投入されれば、上陸戦に気を取られる内に、背後から襲われ瞬殺される。

守れるハズもなかろう。

だから構造が???なのだ。

何せ、自分達が馬を使っている。

同じ「武器」を想定しないハズかあるのか?

ましてやこの轡であれば手綱は一本。

常に片手は空いているので、刀剣や薙刀,槍を振り回せる。

 

如何であろうか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/20/193208

「時系列上の矛盾&生きていた証、続報39…ユクエピラチャシから出土した鉄器、これ「馬具」では?」…

中世でも轡と思われるものはあるが、それは権威者たる武将だけ装備すれば良い。

自ら進むルートを決められ、集団で行動可能な馬あらば、あんな轡でも良いかも知れない。

少し、思い込みを止め、柔軟に考えるべきなのかも知れない。

 

参考文献∶

「ひとり蝦夷地をゆく −釧路・根室・千島・北見の部−」  A・H・サベージ・ランドーアアイヌ民族オホーツク文化関連研究論文翻訳集』 北構保男/北地文化研究会 2005.10.20

対雁に移住した樺太の人々達はどんな暮らしを?…東大英語学者「ジェームズ・メイン・ディクソン」のレポート

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/28/203440

「この時点での公式見解-30…旧「旭川市史」に記された北海道の教育創成記の実態 ※写真追加」…

これを前項に、古代〜中世から少し脱線しよう。

ちょっと欲しい古書があったが3冊SET、この際と思い購入したが、欲しい文献とは別の文献の中にJ・M・ディクソンが明治の北海道で見聞したレポートが記載ある物が含まれていたので紹介しよう。

紹介文から検索すると、どうやら「ジェームズ・メイン・ディクソン」と言う方らしい。

多分、大学で文学系を選考された方は知ってるのだろう。

明治の東大で1880年から12年間英語学を教えた方で、我が国の英語学に多大な足跡を残した方と。

ググってみると…どうも「夏目漱石」や日本の英語学の第一人者「斎藤秀三郎」にも英語を教えたと。

とはいえ、元来文学系に全く興味無く、学も無い筆者にとっては未知の人物。

その辺、興味ある方は個々に確認して欲しい。

このレポートは「対雁アイヌ人」といって、1875(明治8)年に千島・樺太交換条約の折に対雁に移住した人々の元に1882(明治15)年に本人が出向きインタビューした内容。

移住から約8年後の姿としている。

これが「明治大正期北海道写真集」にある移住者に割当られた漁場の写真。

前項にある、住民の希望で建設された学校の開校式が明治11年なので、その4年後になる。

白瀬南極探検隊に参加した「山辺安之助」もここの出身。

関連項として、移住時に関与した人物の一人が「松本十蔵」。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/06/101544

「サムライ魂を持つ助っ人…極近代の札幌と鶴岡の関わり」…

対雁に拘る黒田に対し、なるべく樺太に近く漁業に専念させるべきとした松本とが意見の衝突、松本は職を辞して故郷鶴岡へ帰郷する。

鬼と言われた「酒井玄蕃」を擁し幕末最強とも言われた庄内藩、明治に入れば逆賊扱いを払拭される為の努力は並大抵ではなかった事は、サムライシルクの逸話や関連項にある札幌桑園開墾への助っ人にも滲み出る。

 

前置きはこの位にして、本題に移ろう。

①序文より、古老の首長は移住をどう考えていたか?

 

「ッイシカリ(対雁)は札幌市から約12哩ほど東方に位置している、平野の中の小集落であり、そこに植民しているアイヌ人は、サハリン即ちいわゆるカラフトからやって来た人々の一集団である。彼らが日本政府の勧めにより故郷の島をあとにしてから、約8年を経ている。老齢者たちは、ここに移住した、1875(明治 8)年以前の時代について、痛惜の念をもって語っている。つまり樺太の河川と海浜は、石狩の河流や流入する海港よりもいっそう大型で、良質の魚族が豊かであった、というのである。1863 (文化3) 年から同75(明治8)年まで、日本はサハリンに於ける国境問題についてロシアとの間で決着をつけるよう努力し、北部千島諸島をサハリンの領有部分と交換することで終結させた。1875 (明治8)年日本は、この地に定住したいと希望する かなり多数の日本所属サハリンアイヌ人たちを、石狩河岸の土地に居住することを許容したのである。7~8百人が到着して、石狩川の河口から約12哩溯った豊平川石狩川との合流地点に、自分たちの藁ぶき家屋を建設したのである。彼らの首長(オテナ)の名はチコビルと言い、今では老人となっているが昔のことを非常に悔んでいた。彼の家は、他の同族に比較してもけっして勝ったものではない。つまり簡単粗雑の点でそうであって、ただ少しばかり大きいというだけである。一種の鳥居、つまり出入口が、その区別に役立っているという唯の一点だけである。」

 

レポートはここからスタートする…

あれ?、いきなり気になる点。

実は ディクソン の紹介文では、

「この樺太アイヌ人の対雁強制移住は、明治政府の失政の一つとも言われるが、学者の調査としては数少ない貴重なものとなっている。」

とある。

時はまだ我が国に於ける西洋式学問の萌芽期であるので、数少ない西洋人学者による聞き取り調査であった事は間違いなさそうで、対雁移住直後の姿のレポートは極貴重になるのだろう。

で…

紹介文上では「強制移住は明治政府の失政の一つ」としているが、ディクソンはそんな事は書いてはいない。

「この地に定住したいと希望する かなり多数の日本所属サハリンアイヌ人たちを、石狩河岸の土地に居住することを許容した」…であり、

・元々日本に帰属

・北海道への定住希望者

・居住を許容した

と、ハッキリ記載している。

よく出る「強制移住」とは全く書いてはいない。

少なくとも調査するにあたり、ディクソンはそういう認識だった事になる。

改変したのは誰か?…学者の言う事を認識改変するのは「学者」になるだろう。

まぁこの辺は地方史書を紹介する度に言うが、史書も論文も何時誰が書いたのかは記載が必ずある。

つまり論調の変化が何時誰の手により行われて、それが一般化されたかは辿る事は可能。

政治系の発信をされている方々が何故それをやらぬか?…これが我々には理解不能なのだ。

まぁ、置いといて…

古老の首長は、移住を後悔しているとある。

ただ、その理由は「樺太の方が漁場が豊かで、大きな家にも住めた」からの様だ。

但し、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/07/133243

「この時点での公式見解-35…新旧「旭川市史」にある石狩川の特異性とその背景にあった「北海道労働環境の変遷」への説明」…

この時点で既に石狩川の資源は枯渇気味になってきていたのはこの通り。

割当の漁場の写真は前述の通りで、周囲に割当られた漁場とそんなに変わりはしない。

本書で読む限りでは「希望して移住はしてみたものの、思ったより豊かになれない」事を悔やんでいる模様。

まぁ折衝の一端は松本が担っていたから、黒田と衝突したのは理解可能だろう。

逆賊の汚名返上に遁走する松本が、樺太の人々の意見を聞かずに動くと思うか?…と言う事だ。

 

②容姿…

・男子…

高く形良い額と無邪気な顔つき、前頭部を剃り残りの前髪は後ろへ。

堂々且つ闊達で、人により底抜けに愉快。

戸外の生活をする英国人より多毛ではない。

・女子…

立ち居振る舞いは内気で尻込みしがち。快い哀調を帯びた音声と感情に満ちた黒い瞳を持ち、口の周りに入れ墨をする。

入れ墨の染色薬はハバの木(樺?)の樹皮や山桜の樹皮。

・服…

丈が短い事と袖が手首側にいくほど細くなる以外は和服によく似る。

材質はオヒョウで、色は淡白色〜赤褐色。

それとは別に外来布地で作った服を持つ。

帯は、

男子∶2∼3インチで先端にガラス玉をあしらう。

女子:金輪と貨幣が付く革製で、財布として使う。

男子は短い服の前にエプロンを掛け、脛当てと、冬は鮭革の靴、鮭革に毛皮を縫い付けた手袋を使う。

・武器…

木製で6フィートで、沙流の人々より長い。

矢は2.5フィート、山丹鉄平打の鏃で、見る限り毒は使わず。

剣(エムシ)や匕首(合口,マキリ)を持つ。

海獣狩りの際は銛を使う。

・煙草…

男女共に喫煙、特に女性は常に煙を吐く。

・楽器…

口琴は二種類、金属製と木製。

木製の五絃琴

ほぼ、女性が独占。

インタビューした一人曰く、「自分達はロシア歌謡を歌う事に慣れている」に対しディクソンは「西洋人と同じ音階を持つ」と考察する。

 

③生活…

・生業

本質的には漁撈民で、主食は米とすり潰したウバユリの根茎。

若干数が幌内へ伸びる鉄道の労働者や馬方、札幌近隣の低賃金の仕事へ就職し、漁撈を生活の足しにする。

鹿狩はしない(近所に見当たらず)が、熊狩はする。

武器は弓と鈍器の様な剣で、熊との対峙は誇り、「臆病」という単語がないそうで(沙流にはある)。

・住居

気になる点があるので引用する。

アイヌ人の家屋は、木の丸太の粗雑な構造物を草本の薬で覆って造られている。 それには普通玄関つまり入口が付いているが、時には水桶やその他の家財道具を収容するに充分な大きさをもつものがある。ここかしこの窓 (ブヤラ) から明かりの入る家の内部は、板を葺いた床があり、また煙の嗅いがしている。中央には薪を焚く火が燃やされる炉が位置し、その煙は屋根の開き窓 (ブヤラ)を通して 出てゆくのである。炉の傍らには煤で汚れた老婆が、キシェリ (煙管)を吸い、動くものすべてをじっと見つめている姿をみるに違いない。ちょっと離れた左側の隅には、家宝一漆塗りの容器 (シンドコ) や家族の所有する何か他の伝来の家財等が置かれている。その家宝の前は来客用の名誉ある座席である。いくつかのイナウォつまり木製の形象物が、恐らく炉の近くに打ち込まれているに違いない。

ひとりの老人の語ったことだが、ずい分以前サハリンでは、その同族はトイチセィ(土の家)と呼ばれる地下式家屋に住むのが例であったという。春になると 彼らはその地下式家屋を去って、霜や雪が再び彼らをして屋根で覆われた竪穴一 洞穴ではないーの地下の棲家に隠れ家を求めるまでの間は地上で生活することになるのである。類似の竪穴の遺跡は、今日もなお札幌の新しい博物館付近でみられるが、それがアイヌ人によって用いられていたか、あるいは更に先住の一民族によってなるものかは不確かである。

アイヌ人は陶磁器をほんの僅かしかもっていないし、またその所有する僅かのものも、日本人から入手したものである。彼らの自家製什器類は木製で、最も粗製の類のものである。匙、柄杓、魚や飯の容器、お盆、ウバユリの根茎を摺り潰す大型の枠と日等のものが、彼らの所有するほとんどすべてである。

アイヌ人の倉庫(プ)は地上から数呎(筆者註:数フィート)、柱の上に建て上げられている物置で、その下には犬橇(シケニ(筆者註:犬ぞり))が冬期間使用するために用意されているが、それは極めて幅が狭くほっそりした構造である。滑り木には骨が履かせてある。

プのように若干呎地上に建ててある熊の檻 (イソチセイ)は、幼い熊を飼育するために構築されているが、熊の極めて幼い時期にはアイヌ人の主婦は自分の乳を飲ませるのである。こうした仔飼いの熊は九月の熊送り祭において、正式な儀式によって殺されるのである。」

ちょっと羅列する。

A,「違いない」と2箇所出てくる。

「炉の傍らの老婆」と「炉の脇のイナウォ」だ。

この文ママなら、この二つはここには無かった事になるのでは?

B,「トイチセ」への言及。

まだこの時代は「コロボックル」の話が生きているのだろうが竪穴住居について札幌周辺にあると記述する。

で、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/13/185111

「時系列上の矛盾…明治の北海道民は、真の北海道の姿を知っていた」…

この様に明治期で竪穴跡の分布調査は行われ、それらが学術調査として発掘され出したのは大正〜昭和初期から。

擦文文化期…つまり奈良,平安期辺りを主にした遺跡であった事は発掘で解っている。

但し、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/16/184916

幕別町「白人古潭」はどの様にして出来たのか?&竪穴住居は文化指標になるのか?…「幕別町史」に学ぶ」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/02/201117

「本当に「竪穴→平地住居化はアイノ文化への変遷の指標」になるのか?…「新編天塩町史」に記述される幕末迄竪穴住居が使われたとされる事例」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/29/202212

「この段階での公式見解-31…消された竪穴住居「トイチセ」の存在」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/11/173848

「ゴールドラッシュとキリシタン-28&生きて来た証、続報39&時系列上の矛盾…松浦武四郎が記す、多くの金坑跡&穴居,畑跡」…

これらの様に、幕末位まで竪穴住居が使われたという話もある。

で、その実物を見て記述があるのは幕末〜明治頃。

これ、結構大きな問題かと思う。

アイノ文化開始の指標の一つが「竪穴→平地化」であるからだ。

この指標を用いれば、天塩や幕別周辺の十勝らは幕末迄が「プレ・アイノ文化」となろう。

で…

萱野茂氏が再現したのは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/23/194902

「時系列上の矛盾…建築者「萱野茂氏」本人が記す、チセの再現過程」…

昭和初期の住居。

そして、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/19/204031

「建築系論文に見られる「時空のシャッフル」…「学術」と「観光」の区別はあるのか? ※追記有り」…

建築系学術調査に対して、送付されたデータには「明らかに観光要素が入る」物が添付されている。

本当はどうなのだ?

文化化指標に出来るのか?

とはいえ、近世〜近代での竪穴住居を確認するのは少々難しいだろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/14/211625

「弾丸ツアー報告-1、恵庭編…江戸期の物証的「空白期」、そして「アイノ文化を示す遺物は解らない」」…

重機でぶっ壊していた。

まぁ、先へ。

C,生活必需品…

通常の食事らに使う什器は、木を削った自家製で、その他僅かな陶磁器や漆器らは本州側で作られたものとある。

また、樺太の人々は犬ぞりを使う。

D,熊の檻への言及…

所謂「熊送り」用の小熊を入れる檻の模様。

因みに、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/18/201824

「「1643年」の北海道〜千島〜樺太の姿…改めて「フリース船隊航海記録」を読んでみる③「樺太編」※1追記あり」…

1643年時点で、フリース船隊の乗組員が「熊の檻」に言及するのは、北樺太で見聞した時が初見。

さて、熊送りは何時本道へ?

伺った話では18世紀より遡れない様だが。

なら、これを指標とすればアイノ文化化は18世紀となってくるが。

陶磁器に関しては、少々不思議。

中世が陶磁器だらけなのに?

・生活,慣習…

家族は概ね4〜5人住まい。

男子の名前の付け方は、

昔…祖父の名の一説をとる

明治…父親の名の一説をとる

と変節し、一歳になった時に名付けられる。

結婚は男子二十歳、女子十八歳で、結納金無しだが、妻側が自分の衣服や什器を準備する事が期待される。

幾許かのお金は、先の女子用帯…

で、夫に先立たれた妻は、夫の兄弟か、居ない場合は最も近い親族に嫁ぐ…いや、ディクソンは「妾」として説明しており、正妻と妾間の差別はあるが少々で、子供達は平等に扱われているとしていて、ディクソンはこんな事例を対雁では14~15例聞いたとしている。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/08/062222

「この時点での公式見解40…平取町史に記された「アイノ文化が一夫多妻」である理由」…

この慣習も良し悪しは別だ。

渡辺茂氏の解説も現代的感覚の過去への持ち込みと言う偏りがある。

同様に持ち込むなら、

夫に先立たれた妻が路頭に迷わぬ様に一族で面倒を見る…と見るか?

一族へ縛り付け、実家へ戻ったり他と再婚の機会を奪う…と見るか?

現代感覚なら、後者を取る方の方が多い気もするが。

歴史の解釈に現代感覚を入れたり、思想を入れるのは如何なものか?

だが、正式に教育委員会で発行した文書なのは事実である。

 

・病気や医療、葬祭

ディクソンは元来健康だとしており、不潔な為の疥癬は多数いるが、日本人が危険視している結核への罹患が極少ないとしている。

理由は胸板が厚いから。

あまり風邪の症状も苦しむ様子は少ないとしているが、むしろ恐れているのは水腫と痰、腫れ物の様だ。

水腫に関しては「習慣的のんだくれが蒙って」と記述する。

あれ?

水腫には、利尿剤投与と水,ナトリウム制限……塩?

治療は薬草や生薬を飲んでいる。

死者が出ると、巫術師が2(夏)〜3(冬)日付き添い世話をする。

死者へは水と米が捧げられる。

その期間が過ぎると、木製の櫃(鍋,椀,剣,イコロが副葬)に遺体を入れて、身内の者で森の奥まった場所や川の傍らの丈の長い草地に埋葬するとある。

ディクソンを墓に案内した「ヤノスケ」と言う人物は、案内した事を内緒にするよう懇願したそうで(バレると酷い目にあう)、外国人が対雁の人々の墳墓を見るのは初めてだと説明している。

ここは、墳墓を記録した本道との違いだとしている。

彼は事前に「ショイベ」「シーボルト」「イザベラ・バード」のそれら記録を確認していて、対雁→見せない、本道→見せる…この差を指摘している訳だ。

又、本道では死者の家は焼却するが、対雁ではそのまま跡取りが住み続ける差も指摘する。

因みに、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/30/193033

「「アイヌブリな葬送」は虐待ではない…藤本英夫氏が記した「家送り」と、当時のマスコミの世論操作」…

本道は十勝での焼く事例。

申請すれば許可が出る可能性は以前はあった。

主に巫術師は中年男性で、太陽神、月女神、熊神、海の神、火の神、全般的な神に祈りを捧げ、その声により上記葬祭や医者として投薬したりする様だ。

・言語

対雁の人々は本道の人々の言葉は理解出来ない。

発音や単語にも違いがある模様。

自家製の什器も、対雁で入手したものを有珠に持っていき見せたところ何であるか?解らなかったとしている。

又、対雁の人々はロシア歌謡を歌えるが、ディクソンが前年に南樺太を訪れた時には、ロシア語習得に苦労する現地の人々にインタビューしている。

あれ?

その上で、この段階で英語学者から見て、対雁の人々は幾らか日本語に同化する傾向を見ている模様。

ぶっちゃけ、平取とはまるで発音方法が違う様だ。

とりあえず、こんな指摘。

それはこれとは別にレポートされている模様…

 

如何であろうか?

これは「日本アジア協会雑誌第11号」に掲載されたものを翻訳して資料集成したもの、当然各論文や地方史書に反映されているかとは思う。

また、また対雁移住前の状況を知る古老が存命の中で且つ移住から間もない状況でインタビューされた貴重な内容で無視出来ようもないだろう。

多視点で見るのを旨にしている我々的には「こんな記録もある」と紹介しておく…程度なので、これで全てでもない。

ただ、こんなレポートを読むと、少し現在巷で囁かれる話とはイメージが違うと思う。

あくまでも、1882年段階の対雁の状況はこうだとして「過去の復元」をしていけば良いのではなかろうか?

少なくとも、その段階では対雁の人々と胆振,日高の人々には、それなりの違いや距離があった事は読み取れるかと。

で、この人々から伝播,文化借用で観光要素が作られたのは、過去に複数の史書に掲載されていた処。

現在の教育委員会に関わる方々が知らぬ存ぜぬでは済まぬ事。

知らぬ、決まっていないと言ったら、そりゃ発言責任は発生する。

どんな内容にせよ「公的資金」で行われているのだから、地元住民に対する道義的責任は果たすべきと思うが。

 

参考文献∶

樺太アイヌ人 1882」 J・M・ディクソン  『アイヌ民族オホーツク文化関連研究論文翻訳集』  北構保男/北地文化研究会  2005.10.20

「明治大正期北海道写真集」  北海道大学附属図書館  1992.3.30

北海道と南部方面,中央政権との交流、そして安東氏vs南部氏の抗争しなければならぬ理由?…「尾駮の牧」研究から検証する為の備忘録

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/12/16/211012

「「牧」を示す「黒ぼく土」…「尾駮の牧」研究から中世北海道に馬がいたか?の検証の為の備忘録」…

「尾駮の駒・牧の背景を探る」からもう少し取り上げてみよう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/14/064047

「末期古墳,蕨手刀,須恵器が示すもの…その物流ルートと人的,文化的移動ルート」…

鈴木琢也氏によれば、擦文文化(奈良・平安)期の遺跡の動向では、交易的側面は日本海側、人的文化的な側面では太平洋側の影響が濃いとの指摘。

どうしても秋田城→秋田湊,十三湊のイメージで考えればそちらのパイプが図太いと考えがちだが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535

「北海道の対岸の状況はどうだったのか?…野辺地町史に見える古代~中世の文化到達の片鱗」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/20/122947

「何故、十三湊や秋田湊である必要があったのか?…「津軽海峡」を渡る為の拙い記憶の備忘録」…

野辺地の動向や海流を考慮すれば、

余市,石狩低地→日本海側…

・道南→陸奥湾の8の字海流を使い外ヶ浜や野辺地…

胆振,日高→太平洋側…

と、なってきそうだ。

なら、中世はどうか?、且つ南部氏側の資料に交流を示すものは無いか?

それが一部同書にあるので、備忘録として見てみようではないか。

何故その辺に拘るか?

前項に書いた様に、その時代から奥入瀬川以北のコントロールをある程度秋田城側が行っていたら?

更に…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/28/195142

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、東北編のあとがき…津軽側と南部側の差異を再確認」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/25/105821

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4…本命「北海道の中世墓」、だが何故か「長方形墓と楕円墓が併用」されている、そして…」…

中世墓の傾向を見る限り、日本海側同士と太平洋側同士で土葬∶火葬比率がトレースされていそう→鈴木氏の指摘通り、人的,文化的交流は中世も維持されていたのではないのか?…と考える事が出来そうだ、と考えられるから。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/14/201908

「「通商の民」に不足する物、続編…南部信直公が教えてくれた「蝦夷船ドック」」…

現実的に我々も一通、小型船造船についてのそれを見つけており、それは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/18/060108

「時系列上の矛盾…白老の蝦夷の人々が逃げる前の姿の一端」…

白老町「アヨロ遺跡」出土の和船である程度合致出来そうである事から。

 

前置きが長くなったので、先へ進めよう。

同書の「建武期の糠部と尾駮の牧」 伊藤一允氏の寄稿より。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/17/195055

「南部氏の後ろ楯、陸奥将軍府北畠顕家」とは?…東北史のお勉強タイム-4」…

時は建武政権陸奥将軍府北畠顕家陸奥国府下向に伴い帯同した一人が「南部師行」はこの項でも取り上げ済。

この時築城されたのが八戸市「根城」で、北奥の拠点と言う意味で北畠顕家が名付けた伝承と八戸市史にある。

南部師行が任ぜれた「糠部郡奉行」の仕事は糠部,比内,鹿角,久慈,閉伊に於いて、

①糠部の軍事的制圧と北条氏得宗領の残党追討

陸奥将軍府発行の給付状に沿って、新たな領主への受け渡しや受取報告

③牧らで行われた不法行為らに対する治安維持

が主なもの。

ここで③について、新撰八戸市史によると中世陸奥馬の馬畜方法は「鬼柳文書」や後代戦国期の気仙郡浜田の事例から、

「前略〜年に一度野馬取りがおこなわれ、観音社において捕獲した馬の祓いがおこなわれていたこと(「末崎村誌」)などの事例から、野馬追いの形態をとっていたと考えられる。牧の経営は粗放的なものであり、野馬は追い込みによって捕らえられていたのであろう。その上で、牧ごとの「焼印」と、また右耳に切り込みを入れる「印」が付けられた。鎌倉や京都において羨望の的とされた「戸立」や「糠部の駿馬」というブランドは、こうした野馬取りの牧の世界の中で生み出されていたのである。」

とあり、このやり方なら、

・傾斜を含むかなり広大な土地…

・餌のイネ科植物が育つ条件がある…

・更に監視が効く場所…

・「馬頭観音」…寺社…

が、必要となる。

というのも、元々この陸奥馬とは…

奥州藤原氏の役割だった朝廷に対する「貢馬」の儀礼に使われる。

鎌倉幕府でもその役割は継承され、所領に牧を持つ御家人が幕府へ複数の貢馬を調進、献上用の馬を選定し、鎌倉殿による貢馬御覧の儀の後に六波羅探題へ送られ、在京御家人が調進した馬具で飾り帝の御前へ…

中世でこんな意味を持つ。

出荷段階でお祓いら祭祀を行う迄がSETになろう。

で、野生に近い状態で育てられるので、簡単には懐かないが、逞しく鍛えられた馬が出来た…と言う事か。

陸奥はそんな地が確保可能だったので後に黒ぼく土が広がった。

それと同等以上を作ろうとしたら?

結構条件は厳しいかも…東北の他なら北海道や九州を除けば。

①,②に関しては、領地の安堵状、給付状、降人(投降者)報告らに記述が残る。

どちらかと言えば、津軽側で得宗領側の抵抗が強く伝承されるので津軽側寄りの解釈が多いと伊藤氏は指摘するが、糠部側で抵抗が無かった訳ではない。

ここで一つ問題になるのが、1334(建武元)年の「津軽降人交名注進状」との事。

これは建武政権軍に降伏した給人(領主)リストだが、津軽とはあるがこの中に糠部の領主も含まれるのではないか?と伊藤氏は記述する。

理由はこのリストの降人数十人の中で、17人が「安藤又太郎」に預けられているとしている。

この安藤又太郎は鎌倉幕府を揺るがしたとされる「津軽大乱」時に鎌倉幕府から代官職を許された「安藤五郎三郎季久」が安東氏惣領となる時に「安藤又太郎宗季」と名乗り変えたとしており、建武政権軍北進時点で嫡子「安藤五郎太郎高季」へ、

津軽鼻和郡…絹家嶋尻引郷・片野辺地

・糠部郡…宇曽利郷・中浜御牧・湊

・同…西浜

を安堵した「御教書」が発行されているとしている。

当時も西浜は津軽半島西側、糠部のハズはないのだが、少なくとも後も十三湊含むこの周辺を拠点としている事実があるので、西浜には間違いないだろう。

宇曽利郷には「たや(田谷)、たなふ(田名部)、あんとのうら(安渡浦)」が記述され、現在のむつ市東通村下北半島北部を示すのだろう。

不明なのは中浜御牧。

伊藤氏はここが「尾駮の牧」ではないか?と指摘する。

これらを合わせると、安東宗季,高季親子が代官として治めたのは津軽半島西側海岸線〜岩木山を超え弘前手前と下北半島北端〜六ヶ所村周辺迄と伊藤氏は解釈する。

これなら日本海ルートの本州側北端と、道東,道南とアクセス可能な地域をほぼ押さえていた事になる。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/05/204149

「対岸の状況はどうだったのか-3…東通村尻屋崎「浜尻屋貝塚遺跡」に眠る安東氏の痕跡、そして…」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/09/211342

「対岸の状況はどうだったのか-3、あとがき…「浜尻屋貝塚遺跡」に暮した人々は?を「東通村史」に学ぶ」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/09/124507

「浜尻屋貝塚の遺物を確認&下北半島の中世城館に石積みは?…再び下北半島を回れ!」…

東通村にある安東氏の痕跡についてはこれまでも報告してきたし、浜尻屋貝塚の人々も、文字を書き、茶を嗜む人々であったのは間違いない。

更にそれだけではなく、鎌倉〜南北朝期に於いては、平安で「をふちのこま」と詠われた駮馬の管理迄していた事になる。

伊藤氏は解釈を拡大して、上記御教書にある湊は八戸と仮説し、その根拠を平安末の「安倍富忠」の統治範囲を想定する。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/15/190213

「「防御性集落」とは?…道南〜北東北のその時代を学んでみよう」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/28/205257

「東北最古の「金銀銅」処理の痕跡…そして、何故その立証が困難なのか?」…

金銀銅の精錬や製鉄、尾駮の牧の運営らを手掛けて、「前九年合戦」時に惣領「安倍頼時」に致命傷を負わせて嫡子「安倍貞任」に殲滅戦を受けたとされる人物の統治範囲迄。

この内、九戸四門地域は糠部郡奉行に明け渡し、代わりに津軽鼻和郡を…

これがどうも伊藤氏の想定らしい。

前提に書いた様に、米代川流域〜奥入瀬川北岸迄のルートを想定すれば統治者としては別として、住む民衆レベルでは文化的には近いのかも知れない。

これについては、同書で入間田宣夫氏が「「尾駮牧」「糠部駮馬」をめぐる人・物・情報の交流について」で、興味深い記述をしている。

「七時雨峠のルートを越えて平泉や陸奥国府、さらには京都・鎌倉方面を目指した品目の最たるものが、糠部駿馬だっだことは、いうまでもありません。

だが、そればかりではない。驚羽・水約皮ほか、夷が島方面からの貢上物が、海峡を渡って、奥大道を経て、峠を越えて行きました。希婦細布なる鹿角方面の特産物も、奥大道を経て、南下していきました。

それらの品目は、いずれも、政治的な色合いの濃厚な貢上物でありました。そのうえに、長遠な峠道を越えてゆくことが可能な馬疋ないしは軽物ばかりでありました。民間レベルにおける通常一般の交易物とは性格を異にする、すなわち採算ベースを顧慮する必要がない特殊な貢納物ばかりでありました。そこのところに、注意することが肝要であります。」

「それにたいして、すなわち七時雨峠越えの政治的なルートに対して、民間レベルの交易路は、海上のルートを経由し日本国側に繋がっていました。 

たとえば、珠洲系須恵が、北陸方面から北緯四〇度線を越えて、日本海を経由して、津軽に運ばれてきました。あわせて、白磁ほかの輸入陶磁器も将来されました。八重樫忠郎二〇一六によって指摘されている通りです(第5図)。

北奥・夷が島方面、すなわち北方世界には、津軽発の伝統的な物流のルートが張り巡らされていました。五所川原産須恵器の事例に確かめられている通りです。

その既存の物流のルートに便乗することによって、日本海経由の陶磁器類は、津軽から、比内・鹿角方面へ、糠部方面へ、さらには夷が島方面へ運ばれていくことにもなりました。

ふり返ってみれば、遠賀川系土器によって象徴される稲作文化もまた、七時雨越えのルートにはあらず、日本海を経由して、一足飛びに、津軽に到来し、そのうえで、比内・鹿角・糠部方面にまで拡散してきたのでありました。

同じく、鎌倉発の板碑文化にしても、一足飛びに、津軽に到来して、比内・鹿角・糠部方面にまで拡散してきたのでありました。

その一方で、平泉方面に到来した板碑文化は、北上平野を北上して、岩手郡にまで拡散したものの、七時雨峠を越えることはできなかったのです。

それをもってしても、民間レベルにおける陸上の物流を分断する北緯四〇度線のバリアとしての七時雨峠の存在感は鎌倉期に至るも、解消されることがなかった。そのことが明らかであります。

ただし、日本海側の交易路ということでは、津軽を経由しないで、米代川を遡って、直接に、比内・鹿角・糠部方面に到達するルートも、あったらしい。

 米代川ばかりではありません。雄物川ほかを遡り、脊梁山脈の峠越しに陸奥側に到達するルートも、早くから開かれていて、民間レベルの交易に利用されていたようです。八重樫さんの図によっても、それが明らかですね。

あわせて、それらの脊梁山脈の峠越しのルートは、多賀城や胆沢城の政治的影響力が七時雨峠越しに延びてくるよりも早くに、秋田城や払田柵の政治的影響力が北奥方面に、さらには岩手・紫波郡のあたりにまで伸びてきていた素地を提供していたようです。」

…というように、公の貢物や軽物、自ら歩く事が出来る「馬」の様な物は、八幡平の七時雨山の峠を越す事は可能ではあったが、民間ベースの交流ルート,物流ルートはむしろ米代川→十和田→奥入瀬川→糠部…こんなルートだろうとしている。

これは、昨今我々も言っている事に近い見解の様だ。

それはそうだ。

何でもかんでも陸路を使う必要は無い。

陶磁器の様な重量物なら、水運の方が確実且つ野盗に襲われる心配も減る。

製鉄や須恵器窯の伝播の延長線上で考えねば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/10/071915

「改めて「古代製鉄」を学ぶ…岩手県立博物館「古・岩手のクロガネ」に見る東北の古代製鉄炉、そして「北海道の矛盾」」…

北上市以北の古代製鉄空白地帯は生まれない。

そして、その民間ベースの交流ルートは、奥州藤原氏蝦夷管領としての安東氏によって北海道側へも伸びていたのは言うまでもない。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/09/191537

「時系列上の矛盾、厚真町⑤…「オニキシベ2遺跡」に中世遺構はあるのか?」…

筆者的には、墓のsizeらに引っかかりはあるが、八戸市史上ではオニキシベ2遺跡の漆器塗膜のスタンプ紋様は、

鎌倉市「佐助ヶ谷遺跡」,松島町「瑞巌寺遺跡」と共通点を持ち、得宗家や得宗領代官として海運を担う安東氏との関係を指摘している。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803

「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…

この辺は厚真でご教示受けた内容とはリンクするし、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/14/194659

「対岸の状況はどうだったのか-3、あとがきの後日談…「姓氏家辞典」にある安藤氏、そして「修験道日蓮宗、九曜紋」と言うキーワード」…

牡鹿半島周辺には、安東(藤)一族の話は伝わる。

中央政権と北海道との繋がりは、日本海ルートだけではなく、下北半島側の太平洋ルートでも広げられていた可能性がある訳だ。

 

さて、主題にあるもう一点。

ここが大問題なのだろう。

先の安東宗季,高季親子へ陸奥将軍府、ひいては建武政権に出した安堵状では「蝦夷沙汰」には一切触れていない。

安堵された所領が伊藤氏が想定した安倍富忠とした場合、九戸四門地域は安堵されず南部氏らに取り上げられ、代わりに鼻和郡を代替した事になる。

陸路でのルートは遮断されるし、太平洋側は湊以南と隔絶される。

むしろ内陸側と取り換えた事に。

これについては考え方は色々あるかと思う。

藤崎に近い地域を手に入れたとすれば、安倍姓安東氏発祥地に近い地域を手に入れた事にもなる。

鎌倉と繋ぐ太平洋ルートを考慮すれば不利でもある。

ただ、どちらにしても「蝦夷沙汰」を取り上げられ海運を自由に行えなくなれば、ドル箱を取り上げられる事になる。

当然、糠部側でそれを行使するのは誰になるか?

「糠部郡奉行」ではないか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/17/195055

「南部氏の後ろ楯、陸奥将軍府北畠顕家」とは?…東北史のお勉強タイム-4」…

再び。

陸奥将軍府の目論見が、糠部の馬や周辺の金銀銅、北方利権迄建武政権、後の吉野朝に上納させる気であれば、安東氏としては納得出来ないだろう。

伊藤氏はその辺を指摘する。

元々、東北の鎌倉御家人衆は、足利尊氏建武政権から離脱した段階では日和見主義。

大体、鎌倉倒幕の流れになる前から、東北に得ている飛び地に移り、自分の所領を確保しようとした節すらある。

さて、得宗領代官として戦うではなく建武政権側についた安東氏宗家、この後どうしたか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/05/233328

「では、安倍姓安東氏はどんな人達?…秋田家家系図を追う」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/23/201045

「十三湊安東氏は何時から秋田に?…宗家「下国(檜山)安東氏」より難解な「上国(湊)安東氏」」…

北朝方の足利尊氏の呼び掛けに呼応し、建武政権から寝返り所領と「蝦夷沙汰」を安堵させる。

又、吉野朝側として赴任している葉室氏を討ち取ったのは十三湊から南下した安東氏説…

この後、十三湊を拠点とした安東氏は隆盛を極め、南朝方として戦った南部氏は最後に降伏する。

南部氏にしたら建武政権から得た「蝦夷沙汰」を欲するし、安東氏にすれば寝返り「蝦夷沙汰」の恩恵を維持した。

この段階でまだ下北半島「宇曽利」は安東氏が統治…

なら、安東氏vs南部氏の主因は「蝦夷沙汰」の確保ではないだろうか?

現に、織豊期に八戸の根城南部氏は、前提の様に、小型船の造船を行い売っている。

民間か?領主か?は別にして、交流は続くし、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/112501

「北海道弾丸ツアー第四段、「中世城館編」…現物を見た率直な疑問、「勝山館は中世城館ではないのでは?」」…

志苔館跡の様な伝承は残らないだろうし、交易せねば大量の埋蔵古銭も出ては来ない。

ここには「南北朝の戦い」から離脱し、津軽海峡を渡ったとする伝承…何も無くして、自領を捨てて迄北海道へ移住する必要は無い。

 

如何であろうか?

これは断片に過ぎない、故に備忘録。

青森は面白い。

資料館や史書をみると、津軽側と糠部側では見解に差がある。

で、西浜方面と弘前方面では微妙に温度差があるし、同じ糠部方面でも八戸を始めとした九戸四門地域と下北半島地域では温度差がある。

で、三戸&盛岡と八戸の見解も違う。

主には南部氏に対する評価の違いかと思う。

だが、本当に起こった事は一つしかない。

我々は他地域のエッセンスを入れて精度を上げるのみ。

それは北海道でも同様。

 

参考文献:

「尾駮の駒・牧の背景を探る」 六ヶ所村「尾駮の牧」歴史研究会 2018.7.30

 

「新編 八戸市史 通史編Ⅰ  原始・古代・中世」  八戸市史編纂委員会  2019.9.30

 

厚真町 オニキシベ2遺跡 -厚幌ダム建設事業に係わる埋蔵文化財発掘調査報告書4-」 厚真町教育委員会 平成23.3.30