ゴールドラッシュとキリシタン-34…最新キリシタン墓研究と「火山灰直下の墓」の共通点についての備忘録

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/26/125931

「ゴールドラッシュとキリシタン-33…「大籠キリシタン資料館」で学ぶ「江戸初期の宗教的状況」と時宗の板碑、そして北海道への検討の為の備忘録」…

さてこちらを前項に、久々の「ゴールドラッシュとキリシタン」のシリーズである。

関連項はこちら。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/12/194837

「ゴールドラッシュとキリシタン16..都市計画事業によるキリシタン墓発掘で出土した副葬は、アイノ墓副葬や伝承品と丸被り」…

二年九ヶ月前にしてはなかなか刺激的かお題をつけたものだが、なかなか東北でのキリシタン墓の発掘事例が見当たらなかったのは確か。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/11/053357

「京に続き、源流を見てみよう…九州のキリシタン墓碑を学んでみる」…

キリシタン墓と言えば墓碑研究が先行で、なかなか発掘事例が解らなかった。

筆者が捉えていたのは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/10/200512

「ゴールドラッシュとキリシタン15…ガチのキリシタン墓は大阪「高槻城三ノ丸キリシタン墓地」に学べ」…

キリシタン大名高山右近」の高槻城キリシタン墓地。

仙台の事例を見る着前がこれ。

実はこの段階でどうも引っ掛かっていた故に、あんな刺激的なお題にしていた。

それが一気に増幅してきたのは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/08/130357

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがき…ならその「北海道の中世墓」事例を見てみよう」…

一連の中世墓確認をしたからだ。

北海道で中〜近世墓とされるものは「Ta-a,Ta-b直下」で一気に検出が増える。

確実に中世墓と言えるものは極僅かで、むしろ近世墓に近い時代の恐れもある。

何故、高槻城キリシタン墓で引っ掛かっていたのか?

木棺墓+伸展葬だからだ。

この墓制で仙台の事例を副葬されていたらどうなるか?。

 

さて、つい最近行われた「日本考古学協会2023年度宮城大会」や「季刊考古学第163号」で最新のキリシタン墓研究が紹介されているので、そこから学んでいこう。

 

参考文献にある「東北のキリシタン遺物」と「奥州のキリシタン類族の墓」は遠藤栄一氏の記事で、視点の違いで内容的にはほぼ同様。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/03/080215

「ゴールドラッシュとキリシタン-4-a…「後藤寿庵」と言う武将(増訂版)」…

基本的には、発掘事例の位置的に後藤寿庵が治めた「岩手県水沢市」周辺で見つかったキリシタン墓を中心に解説しているので、要約してみる。

①二本木遺跡…

奥州市胆沢、調査区の南には江戸期の仙北街道が通り、幾つかある岩手と秋田を繋ぐ街道の一つ。

発掘では江戸期の墓が15基検出、墓跡は重複され、長年集落墓域として使われていた事を想像させる。

ここで問題視されたのがその15基の内の1基、SK14。

長さ0.98m,幅0.89m,深さ0.61mの箱型木棺の座葬で人骨は見えず歯のみ。

だが、問題はその副葬。

銅銭(寛永通宝,古寛永銅銭,新寛永銅銭,仙台通宝鉄銭,不明銅銭),煙管,鉄釘,ガラス玉に混じり銅製品が出土。

この銅製品が「メダイ(メダル)状」。

表面は腐食で解らないが突起ら装飾的外観からすると16世紀末〜17世紀初頭のものとして事例がある様で、キリシタン墓であろうとしている様だ。

銅銭より18世紀以降に埋葬されたと考えられ、これを含む14基が箱型座棺、もう一つは桶型座棺との事。

②福原遺跡…

奥州市水沢字福原の所在、それこそ17世紀初に後藤寿庵の知行地だった場所で、墓跡群が検出され等高線に沿い東西方向に直線上に長方形の墓が整然と配置され、その内の一つから表面に「表示に磔刑のキリスト」が、裏面に不鮮明だが「無原罪の聖母」らしきものが鋳出されており、材質は鉛と錫の合金で17世紀より前のものと推定される様だ。

以上。

①,②共、墓碑に関する記載は無い。

この墓の周辺には伝世品として幾つかのメダイが残されていて、東北でのキリシタンの第一人者である後藤寿庵の家臣らの類族がそのまま住み続けた地域なのが解っている。

東北からはこの様な事例が遠藤氏により報告されている。

 

さて、墓制に関して本州は火葬と思われがちだが、これまで中世墓資料集成を見てきた限り、そんな事はない。

むしろ、江戸期に入り、江戸ら都会を中心に座葬の土葬墓が増えたのが実態。

ここで、福原の事例を含みキリシタン墓の特徴を確認してみよう。

関連項にあるように、九州や畿内では石造キリシタン墓碑が確認されているが大石一久氏によれば、中国,四国,中部,関東以北では明確な石造墓碑は確認されていない様で、分布は西へ偏在する。

また、その石造墓碑も柱状伏碑は九州,畿内にはあるが、板状伏碑は九州だけで、概ね17世紀から出現する。

墓碑は伝搬タイミングで形が変わる様だ。

それもそうで、バテレン排除や禁教令に至れば、大っぴらな墓碑は排除されたりしている。

潜伏すれば「仕込みのある墓」らに以降していくのだろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/11/174246

「ゴールドラッシュとキリシタン8…改めて、秋田のキリシタンはどんな人々だったのか」…

こんな話や墓碑が見当たらない様なパターンもこれから研究が進み、事例が増えれば解明されてくるかも知れない。

発掘によるキリシタン墓検出例が増えた事により何が解ってきたか?、気になる点を幾つか引用してみよう。

 

キリシタン墓=長墓(伸展葬) であることを目視できる垣内キリシタン墓地において、近世の村人たちはなぜここに葬られることができたのか。それは、この地が厳しい禁教をおこなっていた大村藩領の間に割り込むように設定された佐賀藩深溝領の飛地の村だったことによる。外海の地域を歩いてみると、大村藩領の村の墓地と深溝領に属する村の墓地の違いは明確である。深溝領において、潜伏キリシタンの存在は寛容に黙認されていた感がある。深溝領の村には、 潜伏キリシタンの時期の墓地が散見される。

垣内キリシタン墓地の発見を契機として、熊本県天草や大分県臼杵市豊後大野市などにおいても同様な形態のキリシタン墓地が確認されている。これらの遺跡は潜伏キリシタンが多く存在した九州地方では、キリシタン禁制のあり方が地域により、またその地を支配している領主によってかなりの差異があることを示している。このことを明確に確認できたことが、潜伏期の キリシタン墓地発見の最大の意義である。」

キリシタン墓研究の最前線」 小林義隆  『季刊考古学第163号』 雄山閣  2023.8.1  より引用…

 

「研究状況が大きく変化するのは、1990年代からである。それ以前に長崎県平戸市キリシタン遺跡の現地調査を考古学的手法を用いて計画的におこなったが、ウシワキ墓地などの一部の成果に留まった(18)。その後事態が大きく動くのは, 1998 (平成10)年の大阪府高槻市の調査からである。」

高槻城内の 三の丸北郭に位置する野見神社は、かつて高山右近時代の教会堂の跡と伝承されていた。その場所の東側から、高山右近時代 (1570年代)のキリシタ ン墓地の一角が明らかとなった。区画施設を伴って南北方向に揃えた26基の木棺墓が発見され, 木棺材、人骨、副葬品が良好な状態で残されてい た。キリスト教を裏付ける十字の墨書,、木製の珠からなるロザリオの発見により、キリシタン墓地 であることが確実になり、伸展葬による長方形木棺の利用, 並列する埋葬など, キリスト教特有の埋葬構造, 墓地構造が明らかとなった(19)。この高槻城キリシタン墓地の契機に, 2000(平成12)年に東京駅八重洲北口遺跡(20)、2001 (同13) 年に大分市豊後府内10次調査区(21)とキリシタン墓地の発見が相次ぎ、高槻、 江戸、豊後府内で ほぼ同じ特徴をもつ埋葬施設と墓地が発見され、1614(慶長19)年の禁教令以前のキリシタン墓地が、 全国共通の特徴をもっていたことが明らかになった。この3遺跡の調査を受けて、2004(平成16)年には、今野春樹によってキリシタン墓地の総括が なされた(22)。こうして停滞していたキリシタン墓への関心が一気に復活し、同じころから大石一久・ 田中裕介らによって、九州と関西の墓碑の悉皆的 な調査が始まった(23)。」

キリシタン墓研究の歩み」 田中裕介  『季刊考古学第163号』 雄山閣  2023.8.1  より引用…

 

最新の研究結果からすれば、石積配石しようが木棺の土壙墓であろうが、「埋葬姿勢が仰臥(又は顔を横に向けた)伸展葬」だと言う共通点があるそうだ。

では前述した、

「何故、高槻城キリシタン墓で引っ掛かっていたのか?

木棺墓+伸展葬だからだ。

この墓制で仙台の事例を副葬されていたらどうなるか?。」…この素朴な疑問とは?

そう、高槻城と仙台の事例を見た段階で、火山灰直下の墓制とそっくりだな、何故?…だ。

勿論、古代,中世を通じて周溝を伴う伸展葬の墓制は存在するのだが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/08/130357

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがき…ならその「北海道の中世墓」事例を見てみよう」…

Ta-a,Ta-bら火山灰直下から、それまで検出数が少なかった墓の検出事例がやたら目に付く様になる事で、実はこれらの中に「キリシタン墓が混じっている」可能性は無いか?と言う疑問が湧いてきている。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623

まだ西廻航路が出来る前から、九州→北海道の航路が設定されていたのは確認済。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/20/202558

「ゴールドラッシュとキリシタン-32…この際アンジェリス&カルバリオ神父報告書を読んでみる③&まとめ」…

そうでなければ、彼等バテレンが秋田湊から北海道に辿り着く事も無いし、何せ象潟の人々が自前の船で北海道迄商売に行く位実はオープンだ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/22/095523

「この時点での公式見解④…新北海道史の「シャクシャイン像」」…

越後の庄太夫

庄内の作右衛門…

尾張の市左衛門…

最上の助之丞…

東北だけではないのだ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/15/203519

「ゴールドラッシュとキリシタン-26…「院内銀山」は全国区、そしてそれを支えるネットワークが出来るのは必然」…

そうでなくても鉱山は全国区。

友子制度らに支えられ、あちこちの鉱山を渡り歩くは可能だった。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/22/101835

「ゴールドラッシュとキリシタン-25…キリスト教史「古典」にある「カトリック教会の痕跡」、「蝦夷衆の切支丹的断片」と「亘理伊達家家臣の登場」」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/24/111811

「ゴールドラッシュとキリシタン-23…様似町に伝わるキリシタンが居た街「キリシタナイ伝説」とは」…

金掘衆やキリシタンが実際に活動しなければ、こんな伝承も残るまい。

で、火山灰直下の墓で顕著と言われるのが「墓標穴」。

だが、記録される内で最古級なのはこれでは?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/17/202544

「「1643年」の北海道〜千島〜樺太の姿…改めて「フリース船隊航海記録」を読んでみる②「十勝,千島編」…」

西洋人が見間違いする程の「十字架の墓標」。

記録や伝承、ここに来て墓制迄共通点があるのが解った。

まぁTa-b直下であれば北海道は「ゴールドラッシュの真っ最中」。

ついでに言えば、多くは「牢人」だろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/03/074515

「ゴールドラッシュとキリシタン…無視出来るハズが無い人口インパクト」…

だから当初から言っていた。

それだけの人口インパクトがあるにも関わらず、墓が無いハズはないと。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/21/050255

「ゴールドラッシュとキリシタン7…17世紀に金掘衆が伝えた物」…

もたらされたものや文化がある以上、否定するのはムリ。

 

如何であろうか?

筆者は和尚からこんな話をされた事がある。

「法事らで食事をしながら故人を語るのは大事な供養だ。忘れ去られた時が本当の死だ」…と。

まだキリシタン遺物の話は聞かないが、状況証拠と伝承は確実にある。

墓碑まで残し、復活の日を願った彼等。

忘れ去って良いものか?

北海道の墓制は、巷で言われる以上に多様で且つそれは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/25/105821

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4…本命「北海道の中世墓」、だが何故か「長方形墓と楕円墓が併用」されている、そして…」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/11/123006

「これが「近現代アイノ墓」…盗掘ではない発掘事例は有る」

近世どころか、近現代迄続く。

今、問おう。

「その墓は誰の墓?」

 

 

参考文献:

「東北のキリシタン遺物−キリシタン武士後藤寿庵の関連地を中心に−」  遠藤栄一  『日本考古学協会2023年度宮城大会「災害と境界の考古学」研究発表資料集』日本考古学協会2023年度宮城大会実行委員会 2023.10.28

 

「奥州のキリシタン類族の墓」  遠藤栄一  『季刊考古学第163号』 雄山閣  2023.8.1

 

キリシタン墓碑の布教期から潜伏期への移行」  大石一久  『季刊考古学第163号』 雄山閣  2023.8.1

 

キリシタン墓研究の最前線」 小林義隆  『季刊考古学第163号』 雄山閣  2023.8.1

 

キリシタン墓研究の歩み」 田中裕介  『季刊考古学第163号』 雄山閣  2023.8.1  より

北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがき…ならその「北海道の中世墓」事例を見てみよう

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/25/105821

折角なので「中世墓資料集成−北海道編−」にある現物を見てみようではないか。

実は筆者は同書にある中世墓を検出したと言う遺跡の発掘調査報告書を持っていたりする。

この際と思い、入手出来そうな物を追加で買ったみた。

で、その発掘調査報告書の墓についての記述を確認してみようと思う。

特に耳飾や垂飾と言うアイノ文化系とされる遺跡を数カ所ピックアップしてみよう。

 

千歳市「末広遺跡」

・同書の記述…

「中世~近世 (1739年以 (前)」

「土坑墓17基 (IP-1~3-14-30-45 54・60・74・84・111・112・114・122~125) 墓坑平面形は小判形・長台 形・長方形・楕円形」

「周溝を持つIP-1からは刀子 (1) 鉈 (1) ・鎌 (1) 、その他の主な副葬品は骨鏃・骨製中柄・小札・鉈・鎌・ 刀子・山刀・鐔・太刀・槍・渡来銭・耳 鉄鍋・片口吊耳鉄鍋・漆碗・漆皿・漆盆・錫製耳飾・ガラス玉・煙管雁首・砥石」

・基本土層…

上記に対応する調査報告書の本文から拾う限り、

Ⅰ層…表土は記述なし(重機除去)

Ⅱ層…Ta-a(1739年) 70~80cm

※末広遺跡にはTa-b(1667年)は見当たらない模様

Ⅲ層…黒Ⅰ層 15cm程度?

※厚さは近辺の竪穴住居(擦文文化期)の覆土土層より。

下部に白頭山−苫小牧火山灰がある場所があり、この層で縄文末〜擦文〜1739年迄含む。

尚、遺構面は近隣貝塚を見る限りでは黒Ⅰ層上面より1~2cm下部にあるという。

・発掘調査報告書実績…

該当報告書では17基の中〜近世墓が検出。

長方形墓:楕円墓は15:2

他特徴的なものは、

円形周溝を持つ…2

2体合葬墓…2

耳飾,垂飾等検出…3

・IP-2

「IP-1墓壙の南西で確認した土壙墓である。長軸200cm, 深さ35cm, 短軸が頭部で70cm, 足 端部で38cmのIP-1墓壙と同様のプランをもつ (Fig. 8)。土壙北東側に幅約20cm, 深さ6 cm程の溝を認めたが全周するか否かは不明である。なお,長軸方向の溝中に墓標跡と思われる直径15cm 深さ36cm, 尖底の柱穴を検出している。人骨は頭蓋,上・下肢の一部を残しているが,いずれも泥化が進んでいた。頭位はN-120° Eで長軸方向と一致する。 埋葬形態は仰臥伸展葬である。

壙外には口径23cm, 深さ18cmの片口吊耳鉄鍋が片口を壙内に向け、伏せた状態で出土している。 場内では足端部に口径約20cm, 内外とも朱漆の皿形漆器1点, 皿部の直径14cm, 脚部の高さ5cm程の黒漆の天目台と,その下に内が朱, 外が黒漆の腕がいずれも伏せて副葬している。さらに下技右側にも内外とも朱の漆椀がある。 また右肩部右側に刀子, 径1.6mの銀環, 図示しなかったが径4mm程のガラス小玉が272個出土している。ガラス小玉には6色有り, 112,青60, 透明42,白11,水色が4個であった。 副葬品から被葬者は女性と思われる。」

・IP-14

「M-17・18,N-17・18区の段丘縁辺部に位置する土壙墓である。IB層上面では長軸4.1m, 短軸2.6mの楕円形に黄褐色の盛土 (墓壙覆土Ⅱ層) が認められた。盛土中央部は深さ20cm, 長さ2.6m, 幅1.0m程の長円形に窪み, 南東には溝状の落ちこみが認められ, 一見して墓と確認出来た墓壙の一つである(Fig.10)。

墓壙は長軸276cm, 短軸70~90cm, 足端部がやや狭くなる長方形のプランを呈する。掘り込み 面からの深さは約70cmと今回調査したアイヌ期の墓墳の中では深い。長軸方向はN-119°Eを示し, 長軸線上の溝中に墓標跡と思われる直径20cm, 深さ50cmの柱穴があり,さらに壙外の北西部には2ヵ所に焼土が認められた。

人骨は仰臥伸展葬で埋葬され, 遺存状態は良好である。頭位は長軸方向と一致するが,顔面を西に向けている。

副葬品は頭部と壁の間に伏せた漆椀をのせた漆盆, 刀子1点, 骨製中柄, 骨鏃合せて36本が出土した。また頭部に1対の銀製ニンカリ (Fig. 11-1617), 頭部から胸部にかけて太刀を検出している。Fig.11-12が骨鏃, 3~12が骨製中柄である。1~11は鹿の中手 (足) 骨, 12は鯨骨製。13~15は刀飾具であろう。 太刀は刀身部に漆塗りの鞘の一部を残す。図中スクリーン部は朱漆である。19は長さ約40cmの鉄製槍先で,墓壙から3m南のIB上面において出土した。 副葬品から被葬者は男性と思われる。」

・IP-111

「調査区最東端の段丘縁辺部に立地 する土壙墓である (Fig.18)。掘り込み面を確認出来なかったが, 高さ約80cmの壁を残す。 長軸262cm, 短軸85cmの長大な方形を呈する。

遺骸は手を前に合せた伏臥伸展で 埋葬され, N-73°-Wを示し,今回調査した近世アイヌ墓中唯一の例で,頭位と共に被葬者の異常死を示唆するものと考えている。保存状態は頭蓋を除いて悪い。

図示出来なかったが, 壙内西端か ら内が朱漆,外が黒漆の腕を3個載 せて伏せた盆が出土している。 Fig.18-1は透明なガラス玉, 2は緑色のガラス小玉である。3・4は異形, 5~8は環状金属製品で鉛製か。 同じ材質の鍔状金属製品が下顎部から 出土している。 9は鎌, 10・11は刀子である。1は足端, 2・9・10は左肘, 3・5・6 は左肩, 7は右肩, 8は左膝から, 10は,頭部南側の壁際から出土した。」

・同書ではIP-1を紹介しているが、

銀環のあるIP-2

耳飾のあるIP-14

同様のIP-111

をピックアップしてみた。

墓周辺の土層を見る限り、IP-2,IP-4では覆土上にTa-a、IP-111は覆土上面が破壊されているのか判然としない様だ。

少なくとも墓が作られた時期は、Ta-a(1739年)よりそんな遡れる訳ではないのではないだろうか。

確かにIP-111では「近世墓」と表現される。その辺は副葬が「内耳鉄鍋」ではなく「吊手鉄鍋」に変わっている事や同書にある様「煙管雁首」がある事でも想定可能。

ここでも楕円墓は検出しており、

顕著なIP-123を見る限り、ⅠB層で被覆される楕円墓が古い傾向になりそうな感じも見受けられる。

と、IP-111で微妙な表現が使われているが、顔が背中側に向けられ葬られている。

つまり、葬られた段階で首は胴体から離れていた事になる。

葬られた段階で首を逆さまに葬られたか?再葬されたか?は発掘調査報告書には記述が無い事を付記する。

 

千歳市「美々4遺跡」

・同書の記述…

「中世から近世(1667年以前)」

「土坑墓1基 (IP-121) 墓坑平面形 は小判形」

「TP-121からは鉄製螺旋状垂飾 (1)」

・基本土層…

本文から拾う限り、

Ⅰ層…表土は記述なし(重機除去)

Ⅱ層…Ta-a(1739年) 厚さ表記無し

Ⅲ層…Ta-b(1667年)厚さ表記無し

※ここまでを重機で除去。

Ⅳ層…黒Ⅰ層 10~20cm程度

※この黒Ⅰ層でアイノ文化期〜縄文後~晩期の遺物,遺構を検出。

・発掘調査報告書実績…

「同書の記述」では「IP-121からは」となっており、周囲に幾つかの墓坑があるものと考えたが、該当報告書では1基の中〜近世墓のみで、他は縄文晩期位の墓坑。

・IP-121

「位置  E₁65-70・E₁-65-80」

「平面形  東西に延びる楕円形」

「規模   2.34×0.94/2.09×0.62/0.45」

「確認・調査・土層   Ta-b火山灰を除去した後、Ⅰ黒層上面に落ち込みを確認した。土層断面を確認しながらこれを掘り下げたところ、 II 黒層下約20cm程の掘り込みを確認した。土層はTa-c、Ta-b パミスの混在するI黒層からなり、堆積は複雑な様相を呈していたが、9層の覆土が認められた。掘り込み面はⅡI黒層下層と思われる。

「底面  ⅡB層中につくられており、平坦である。」

「壁面  急な立上りである。」

「遺物  壙底から金属製品が出土している。覆土からⅣV群 c類土器・石鏃が出土した。」

「土器  土器は5点出土しいずれもIV群c類である。 小破片のため掲載できなかった。」

「石器  石鏃1点出土した。1は有茎凸基の尖頭部は正三角形状である。」

「金属製品  壙底から垂飾が1点出土した。2は断面径が丸い針金状のものを巻き上げて鐸形を作り 出したものである。」

「時期  遺構の平面形、土層及び出土遺物から近世アイヌ期の土壙墓と思われる。」

・これが美々4遺跡の「螺旋状鉄製品」。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134

「和鏡特別ミッションの続報…「国見廃寺」と俘囚長安倍氏、そして道具に対する解釈は?」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/08/16/182820

「コイル状鉄製品のルーツとなり得るのか?…螺旋形状をした事例の備忘録」

この辺の項で取り上げている螺旋状,コイル状の金属品。

同一墓内に何かヒントになるものはないか?と期待していたが、残念ながら検出されたのはこれ一つだったようだ。

ただ、墓の底面である事を考えれば、副葬又は(覆土の縄文遺物同様)混入だとしても埋葬される段階で混入…つまり墓が作られた段階でここに収められた事は間違い無さそうだ。

ちょっとヒントが少ない。

なら、耳飾,垂飾は出ていないが参考に近隣の遺跡の墓も見てみよう。

と、なれば美々8遺跡を…

 

③美々8遺跡

・同書の記述…

「中世から近世(1667年以前)」

「土坑墓1基(IP-1)、墓坑平面形は小判型」

「IP-1からは刀子(1)・内耳鉄鍋(1)」

「墓標穴あり」

・基本土層…

Ⅰ層…表土

Ⅱ層…Ta-a(1739年) 

Ⅲ層…黒0層

Ⅳ層…Ta-b(1667年)

Ⅴ層…黒Ⅰ層 

※上面に一部Us-b(1663年)、中盤に一部白頭山−苫小牧火山灰(946年)を含み、この黒Ⅰ層でアイノ文化期〜縄文後~晩期の遺物,遺構を検出。

・発掘調査報告書実績…

アイノ文化期とされる墓は1基のみ。

・IP-1

「位置   D-66-24・25」

「規模  1.84/1.56×0.75/0.66×0.44m」

「調査   Ta-b火山灰除去後Ⅰ黒層上面にTa-c 火山灰混じりの暗褐色土が長楕円形に広がっているのを確認し、d66-25でのⅠ黒層調査中に墓壙南側の立上りを検出した。

「特徴   平面形は長楕円形で長軸はS-38-W" をむく。断面は、平坦な壙底から内湾気味に上方へ立ち 上がる。覆土は Ta-c 火山灰と黒層とが混った土が主である。北東側の墓口付近には、完形の内耳鉄鍋が半ば埋まった状態で倒置されていた。また北東側の墓壙底から8cm上の第5層上面には朱漆の破片が散らばっていて、その下には漆碗が置かれていた。また南東側の底には暗褐色の粘りのある土が楕円のプランを持って広がっており、おそらくこれがヒトの頭部と思われる。その脇に針と小刀が並んでおかれていた。副葬品の特徴からアイヌの墓である。

「遺物   1は鉄針、糸通しの穴は確認できなかった。錆が針の芯部分まで及んでおり中空になっていた。2は小刀、茎の一部が欠損している。刀身には木質が付着しており、切先部分には更に繊維が付着していた。3は内耳鉄鍋、一文字湯口を持つ丸い底から上方へ直線的に立ち上がる体部を持つ。口縁部は直線的に外上方へ立上り口縁端面はT字状に肥厚する。内耳部分の断面は円形で、鍋とはアーチを描いて接続する。なお、図では欠失しているが片口状に口縁部分がひずんでいた。 また、内耳部分には吊り手部分とみられる木質が遺存していた。4は朱漆片、漆の塗膜片だけが残っており本来の形態は不明である。漆椀の上部に散在していたことより腕の蓋の可能性も考えられる。5は漆椀、漆の塗膜のみが遺存しており木質部分は完全に失われていた。漆の色調は暗褐色を呈しており生漆の可能性がある。」

「時期   墓壌のプランがⅠ黒層上面で検出されている(筆者註:ママ)ことことからTa-b 火山灰降灰以前である。」

・この美々8遺跡周辺が黒0層(Ta-aとTa-bの境目)が検出される地域で、美々8遺跡の「低湿地帯」で出土した木製品、金属製品が近世の姿を表すとされる。

表土層では、道路跡や土坑、

遺物として、銃弾薬莢や金属辺が出土。

黒0層では、道路跡や建物跡、

内耳鉄鍋らが出土している様だ。

低湿地帯の方は別の機会に報告しようと思う。

さて、同書では「墓標穴あり」とされているが、発掘調査報告書で確認すると、穴らしきものは内耳鉄鍋が検出された位置しかない。

このIP-1においては墓標穴は見当たらない模様。

ここは黒Ⅰ層上面から掘り込まれTa-bの被覆なので1667年以前ではあるが、①の末広遺跡IP-123の様に黒Ⅰ層が被さってはいないので、そんなに大きく遡る訳では無さそうだ。

 

斜里町「オネンベツ川西側台地遺跡」

・同書の記述…

「中世~近世」

「土壙墓5基 (Plt4・7-11・13-14)」

「Plt4=刀(1),Pit7=刀(1)・刀装具 (1)・漆器(1)・ガラス玉(1), Pit11=刀子(1)・漆器(1)・垂飾 (1), Plt13-漆器(2)・鉄鍋(1), Pit14=漆器(1) ・鉄鍋(1)」

「13・14は再葬?」

・基本土層…

Ⅰ層…表土  10cm程度、a,bに分層

Ⅱ層…Ta-a(1739年)又はKo-c2(1694年)  5mm程度

※どちらか判別は出来ておらず

Ⅲ層…黒Ⅰ層 10~30cm程度で局部的に数㍉のMa-b5(1000y.B.P.→950年位)検出

※この土層で縄文,続縄文,オホーツク,擦文,一部アイノ文化期の遺物包含

・発掘調査報告書実績…

該当報告書では5基の中〜近世墓が検出。

長方形墓:楕円墓は5:1

他特徴的なものは、

円形周溝を持つ…0

2体合葬墓…1

耳飾,垂飾等検出…2

配石?と思われる礫…2

・PIT 11

※ここで登場する「チエトイ」は、土を食用としたとする伝承からの想定の様で、まるで貝塚の様に黄褐色土が積まれその中に日常品らが検出している。この発掘調査報告書では「貝塚」と表現している。

ウィキペディア「土(食材)」より…

樺太アイヌ民族も、調理に土を使っていたことが知られている。 珪藻土(アイヌ語チエトィ。「我らの食べる土」の意) を水に溶いて煮立てたものにハナウドの葉柄、ウラジロタデの若い茎、クロユリの鱗茎などを搗き潰して加え、油を加えたりして食する[2]。」

これは往古には特殊と言う訳でもなく世界中で話はあり、国内でも特に妊婦が土壁をかじるらの伝承はあり、体内で不足したミネラルを補給しようとする行動の様だ。

「C-8区のI層を掘削後、黄灰色土 (チェトイ?)が小規模の広がりを見せた。その直下にII 層火山灰が見つかった。この火山灰の下15cmほどまで掘り下げたところ、頭蓋骨が見つかった。さらに広範囲を掘削したところ、大腿骨などの足の骨も見つかり、墳墓であることが判明した。」

「形態   平面形-長方形。大きさ−長軸 (南北方向) 2.05m、 短軸 (東西方向) 0.55m、 掘り込みの深さー上部の形態は不明であるが、II層面からの深さは0.3mである。 掘り込みの幅は胸部付近が最も広く、足下に向けやや細くなる。掘り込み形態一壁の立ち上がりはほぼ垂直になる 作りである。 底面の起伏は、南側 (足) から北側 (頭部) に向け多少低くなる。」

「層位   表土のI層を掘削した後、 黄灰色土 (チェトイ?) が見つかり、その直下にⅡ層の火山灰がブロック状に残っていた。その下はⅢ層と同じ色調を持つ黒色土が続いていたが、PIT 7同様土の絞まりが弱く壁・底面を特定し易かった。また、 III層中には僅かながら摩周b5火山灰も残存していた。構築層- III層中に構築されたものと推測する。」

「土器   第21図3~9は覆土出土土器である。3は第Ⅲ群の土器底部破片。 4~9は第VI群の土器胴部破片である。」

「石器   第21図10は覆土出土の黒曜石製 リタッチド・フレークである。」

「刀子  第21図1は底面出土の鉄製刀子欠損品で、保存状態は非常に悪い。右膝付近で出土。」

「飾り玉 ?    第21図2は底面出土の焼骨製飾り玉? である。頭部付近で確認した。」

「その他   木炭、漆器片は保存状態が非常に悪かった。」

「小括   PIT 7同様、II 層火山灰が残存しており、18世紀初頭以前の墳墓と考えられる。人骨の保存状態は悪かったが、頭蓋骨はほぼ完全な状態で残されていた。大腿骨や脛骨腓骨の一 部も確認できた。埋葬形態は、仰臥伸展葬で、頭位は北方向である。 鑑定の結果、壮年の女性と判明。」

・PIT 14

「B-22区とC-22区の境界付近のI層を掘削中、 鉄鍋破片が出土した。周辺を精査して掘削したところ、人間の頭蓋骨や歯、大腿骨などが確認でき墳墓と判断した。」

「形態   平面形一隅丸長方形。 大きさー長軸 (北東 南西方向) 1.9m、 短軸 (南東北西方向) 0.7m、 掘り込みの深さ-1層下面からの深さは0.2mである。掘り込み形態一壁の立ち上がりはほぼ垂直になると考えられる。 しかし、掘り込みは非常に浅いものであった。 底面の起伏は、南西側 (足) から北東側 (頭部) に向け多少低くなる。」

「層位   表土の1層中のササの根を除去後、 鉄鍋片が出土した。やや下面の黒褐色土中から頭蓋骨や歯、大腿骨などが見つかった。埋土は1層と同じ色調の黒褐色土であった。構築層-I層中に構築されたものと推測する。」

「人骨出土状況   人骨の配置はほぼ埋葬時の出土状況を示していたと考えられるが、一部不自然な出土状況を示す部位も見られた。それは、頭骨部分と大腿骨や寛骨などの (でん)部で、頭骨は粉々に砕けた状態で出土していた。また、他の部位は仰向けで埋葬されているのに対し、腎 部だけははうつ伏せ状態であった。再埋葬を行なったのであろうか。」

「鉄鍋   第27回はPIT 14から出土した鉄鍋片と周辺から出土した破片との接合分布図である。第28図は、その接合した鉄鍋の実測図である。底部のほとんどを欠いていた吊耳鉄鍋で、吊耳の 孔は4つであった。鉉はほぼ完全な状態で残っていた。脚は3本である。墳墓内出土の鉄鍋破片足下に集中していた。」

「装飾品?    第29回は使用目的不明の装飾品? である。銅製の(かすがい)様のものと木製品とで構成されている。 2・3は木製の竹管(環)状製品である。材質は不明である。」

「その他   漆器片。」

「小括    保存状態が良く、ほぼ全身の骨格が残存していた墳墓であった。埋葬状況を観察すると、頭骨と臀部付近が奇妙な埋葬状況であった以外、解剖学的な位置を保っていた。埋葬は仰臥伸展葬、頭位は北東方向であった。奇妙な埋葬状況を示していた頭骨は細かく粉砕した状態で出土した。また、寛骨や大腿骨はうつ伏せ状態(他の部位は仰向け状態)であった。理由は不明である。副葬品の鉄鍋破片の出土状況を第27図から判断すると、 PIT 13同様、鉄鍋1個体を埋 時に入れたのではなく、一部だけを墓内に入れたものである。出土した鉄鍋は吊耳鉄鍋であることから、墳墓の構築時期は18世紀以降と思われる。人骨鑑定の結果、熟年の女性と判明。」

PIT 4(墓)

「C-5区を掘削中、刀の柄 (つか) 並びに鞘(さや)部分を発見した。その周囲を広げたところ、大きなレキを東西方向に2列配石したような形跡が見られた。その内側と刀の周辺を掘削したところ、配石の内側からは人間の寛骨や上腕骨などが、刀の直下からは椎骨が発見された。このため、配石によって区画された墳墓であることが判明した。」

「形態   平面形-2列の配石による区画が見られる。大きさー長軸 (東西方向) 掘り込みが見られないため配石の状態より判断して1.3m、短軸 (南北方向) 0.5m、掘り込みの深さ−上部形態が不明なため確認面からの深さ0.2m。底面の起伏は、西側 (足)から東側 (頭部)に向け多少低くなる。掘り込み形態一不明である。

「層位   表土のI層を掘削した後、 墳墓の埋土とII層との区別が付けられなかったため、刀が発見されるまでは墳墓であることは分からなかった。I層並びにIII層と同様の色調を持つ黒褐色土などから構成されていた埋土であろうと推測する。構築層-I層中の構築と推測する。」

「腰刀   第15図は腰刀拵 (こしがたなこしらえ)の一つ蝦夷拵の柄並びに鞘の一部である。柄頭部分と鍔、刀身はなかった。柄の造りは、茎 (なかご) 部分の支え木 (材質は不明)があり、それを取り巻くように金製の薄板を回す。その上に、装飾として銅製の唐草文の透かしが見られる。鞘は、鞘尻(鐺:こじり)部分が見られなかったものの鞘口部分は残っていた。鞘の造りは、柄同様、支え木(材質不明)があり、それを取り巻くように漆塗りが施されており、一部分に鮫 皮が張られていた。その上に、銅板に銀杏文の装飾が施されている。また、笄(こうがい)や小柄 (こずか) 櫃、栗形、返角(かえりつの) その他付属物の金具も見られた。 刀身の代りに竹光らしき木片が入っていた。材質は不明である。」

「その他   鉄片、木片。」

「小括   上部構造が土盛を伴なっていたものか判断できないが、石で区画された墓であることは間違いない。人骨の保存状態は悪く、比較的状態の良かったのは刀が乗っていた椎骨部分や寛・仙骨部分であった。頭骨などは確認できなかった。 埋葬状態は、仰臥伸展葬と推測する。頭位は東方向である。 人骨鑑定の結果、壮年の男性と判明。詳細については、付編-3 (253頁) を参照されたい。この刀は宝刀と呼べるもので、役付きの人物の墳墓かも知れない。」

・発掘調査報告書上、「装飾品?」の記述がある2基と、特異性のある「配石がある」内の1基をピックアップしてみた。

同書記述でのPIT 11の「垂飾」は注目している螺旋状金属製品ではなかった。記述無かったPIT 14の装飾品も同様。

恐らくだが、遺構外から耳飾と思われる

物が出土しているので、相対的にその様な推定をしたのではないだろうか。

又、PIT 14では表面の火山灰は検出されてはいないが、「吊手鉄鍋」を持ってして18世紀以降の近世墓と判断しているのが興味深い。

この判断は今迄読んだ報告書の中にはなかった。

「まとめにかえて」にはこうある。

「発掘調査の結果、墳墓5基貝塚5基の遺構を確認した。墳墓は男性2基、女性3基であり、 出土場所は標高8mの台地平坦面上と旧小河川を挟んだ標高 5m低位平坦面上であった。台地面には男性2基と女性1基、頭位は女性が北方向で男性は東方向であった。低位面には女性2基が見られ、頭位は北東方向であった。頭位の違いには埋葬時期の違いが考えられる。台地の PIT 4 (墳墓)から出土した腰刀拵 (こしがたなこしらえ)の一つの蝦夷器は宝刀と呼べるものであり、役付きの人物が所持していたものと考える。松浦武四郎の「日記」の中には、オンネペツ土産取エクハアイノの名前が書かれており、役付きの人物がいたのであろう。しかし、この増墓が土産取のものであるかは資料が足りなく言及できない。

貝塚は台地平坦面から低位の平坦面にまで広がっていた。建物出土状況と土堆積状況を観察すると、黄灰色土(チェトイ?)はブロック状に重なって堆積していた。つまり、土の廃棄は数回に亘っており、そこには当然時間差が考えられる。このことは、当地の人間の生活においても時間幅があったことを物語っている。一方、出土遺物を見ると貝塚の一般的な遺物(動物・魚の 骨や貝など)とともに陶磁器や金属製品など和人の製作した生活用品の出土も多い。このことは、当地が和人との関わり合いが多く、接触も度々あった場所であることを示している。

松浦武四郎は「再航蝦夷日誌」の中でオンネベツ川はネモロへの山越えの拠点であったと書いている。また、河野は斜里町史の中で物送り場を18世紀末の飛騨屋造材隊に駆り出されたアイヌ隊が残した痕跡ではと述べている。 つまり、当地にはコタンの人たちだけではなく、和人も何かの形でいたと考えるべきである。

墳墓に埋葬されていた人たちは斜里(オンネペツ)?アイヌであろうが、貝塚がオンネベツコタンの人たちが残したものであるかは断言できない。 確かに、斜里 (オンネベツ)?アイヌが残した貝塚とは考えられるが、和人の手が加わったあるいは、和人との接触の中で残された可能性の方が大である。その理由は、和人が製造した陶磁器や金属製品の出土が多いことが挙げられる。斜里町で発掘されているアイヌ文化期の遺跡、オショロコマナイ河口東遺跡やタンネウシ貝塚遺跡の出土遺物を見ると圧倒的に自然遺物が多く、陶磁器や金属製品などは破片で数点僅かに見られるだけである。この点から考えると、なんらかの和人との接触がなければ当遺跡のこのような出 土状況はあり得ないのではないだろうか。

ところで、陶磁器の中でも特に焼酎徳利の出土が多いのも特徴的なことで、同様な例が苫小牧の弁天貝塚でも報告されている。この報告の中で焼酎徳利が多い理由として、場所請負制によるアイヌの労働の代償として米の代わりに焼酎が用いられたのではないかと考察している。 斜里においても場所請負制は18世紀末から実施されており、その漁場としてオンネベツ川が該当しても 不思議ではない。漁場 (番屋)とは限らず造材の飯場や仮小屋とも考えられ、金属製品の中に鉞や鉈が僅かではあるが見られる点を考慮すれば造材の可能性も強くなる。しかし、造材の飯場は昭和に入ってからもあったことが知られており、ましてや出土した銭や鉈が現代のものと区別が付かないため決定的な資料とは成り得ない。

このように遺構や出土した遺物から考えると和人と斜里(オンネベツ?) アイヌの関係、つまり場所請負制が始まってからの姿だけがクローズアップされ、和人が入る前のアイヌだけのコタンの姿や存在した場所は見えて来ないのである。」

Ⅰ層からは所謂貧乏徳利が多数出土しており、同時2建物跡やコタンの形跡が見られない事から、居住地は別、むしろ場所請負制による共同活動を示すのではないかとした上で、墓の被葬者が本州文化を持つかアイノ文化を持つのかは断定出来ないとしている。

活動時期は18世紀を跨ぐ辺りの様だ。

チエトイ(食土文化)が樺太固有なれば、樺太からの流入も考慮せざるを得なくなる。

 

如何であろうか?

第一回目としてはここまで。

上記の様に、中世墓と区分しようとしても、実際は近世(江戸期)の墓が含まれてしまうのは、こんな風にTa-bら火山灰被覆迄を範囲と取らざるをえない為。

火葬墓の木炭からC14炭素年代を割り出したり出来れば良いが、他に編年指標となるものが無ければ地層から割り出すしかない。

で、見ての通り1cm位黒Ⅰ層が被覆してる可能性がある末広遺跡ですら、上面側に極近い事から火山灰被覆した時期を大きく遡る事はないだろう。

この辺は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/04/192347

「時系列上の矛盾④…二風谷遺跡の包含層遺物、そしてまとめ」…

平取の二風谷らも同様。

また、編年といえば、「吊手鉄鍋で18世紀と推定」している斜里町のケースを初めて学んだ。

確かに上記に当て嵌めるとTa-a直下付近の墓で検出されている様ではある。

吊手鉄鍋が何時頃から出回るか?はこれからだが、それを持ってしても中世墓というよりは、近世墓に近い時代背景になるだろう。

その場合、オネンベツ川西側台地遺跡の事例の様に「松前藩士に知行された商場」「場所請負人による運上所,会所」の活動に伴うものとも考えられるのではないか?。

この辺は市町村史らとの整合をしていけば解ってくるだろう。

今後もその辺に注意して確認しようと思う。

さて、話を主題に戻そう。

上記の様に一定数で楕円墓が混ざるのは解って戴けたと思う。

発掘調査報告書中では楕円墓での場合は「副葬からアイノ墓と判断」しているとある。

だが副葬「だけ」からの判断だと今回着目する耳飾,垂飾らの様に、かなり特殊性を持つものがないと難しいのではないか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/26/195206

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−3…東北の延長線上で北関東の傾向を見てみよう」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/20/195630

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−2…東北の延長線上で北陸の傾向を見てみよう」…

伸展葬にして、周溝墓にして、内耳鉄鍋や数珠(ガラス玉)や漆器の副葬にして国内にはあるからだ。

まずは何より我々的には、これらの事例の検証や中世墓の状況確認の拡大をしていくだけ。

中世と近世とで如何ほどの差があるのか?

全然違う。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/24/204753

蝦夷衆交易の目的地「大なる町アキタ」…この際、ルイス・フロイス書翰も見てみる」…

ルイス・フロイスはyezoは秋田に来ていたと記す。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/20/202558

「ゴールドラッシュとキリシタン-32…この際アンジェリス&カルバリオ神父報告書を読んでみる③&まとめ」…

アンジェリス&カルバリオ神父はyezoは松前に来ていたと記す。

松前藩の成立」を持ってして北海道の近世は開始される。

そして、秋田,津軽,南部に来ることは出来なくなり、各地に場所が開かれる。

通商の民の「商売相手」が変わるのだ。

全く変わる。

 

 

参考文献:

「中世墓資料集成−北海道編−」 中世墓資料集成研究会 2007.3月

「末広遺跡における考古学的調査(下)」 千歳市教育委員会 1982.3.31

「よみがえる北の中・近世−掘り出されたアイヌ文化−」(財)アイヌ文化振興・研究推進機構  2001.6.2

「美沢川流域の遺跡群ⅩⅤ -新千歳空港建設用地内発掘調査報告書-」 北海道埋蔵文化財センター 平成4.3.27

 

「オネンベツ川西側台地遺跡発掘調査報告書」  斜里町教育委員会  1993.3 月

 

北海道中世史を東北から見るたたき台として−4…本命「北海道の中世墓」、だが何故か「長方形墓と楕円墓が併用」されている、そして…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/26/195206

さて、宿題に取り掛かるとしよう。

「中世墓資料集成−北海道編−」である。

ここに至る迄には紆余曲折があった。

古書屋で入手が難しかったので、図書館から借りられれないか当たったのだが、アッサリ借りる事が出来なかった。

理由は、ほぼ公的図書館で保管されていない事。

図書館には相互に貸出し合うシステムがある。

概ね、同書の自地域版は保管されている様だが北海道編が無い。

実は、北海道内の公的図書館で引っ掛からなかった。

確か、館内閲覧専用の場合でも、借りる地域の館内閲覧で借りられる様なのだが無かった。

で、大学図書館迄検索の編みを広げた…北海道内の大学ではやはり検索には引っ掛かって来なかったとの事。

つまり、北海道内でこれを読むのは難しい事になる。

何故だ?

本州内の大学で保有しているところがあり、借りるに至る。

最悪は、国立国会図書館には必ずある。

基本的に手続きさえ踏めば、読めない本は無いのだろう。

 

では、進める。

条件は今迄と同じ。

土葬∶火葬、特徴ある副葬も検出遺跡数でカウントするので、傾向を見る事になる。

と、北海道の場合、少々厄介な点がある。

それは中世単独と言うより、中〜近世という表記が多い事だ。

理由は簡単。

編年指標が限られるので、どうしても江戸初期の火山灰の上下で振り分けられるからだ。

と言う訳でその点は、

・「近世」のみの表記遺跡はカウントしない

・火山灰表記がある場合、「上」なら近世とみなしてカウントせず「下」ならカウントする

こんな定義でやってみた。

火山灰も複数回降り注ぐ。

なので、カットポイントが1739年(樽前Ta-a)もあれば1667年(樽前Ta-b)も出てしまう。

だが、指標がそれしかないならやむを得ない。

火山灰降灰前後で分別可能だし、少なくとも「黒0」より確実に前になるのは間違い無い。

では北海道のデータを。

全道…

・遺跡総数

121

・土葬or火葬

土葬→79

火葬→13    

・特徴ある副葬

古銭→18

ガラス玉(水晶,土玉含む)→16

鏡→6

鉄鍋→23

鉄釘→10

刀剣(刀子含む)→57

陶器,かわらけ→9

漆器→40

仏具(五輪塔,板碑含む)→1

鈎,ヤス→6

甲冑→6

骨角器→10

装飾品→11

・特徴ある墓制

周溝墓→6

鍋被り→2

石積塚→0

 

今迄と同じ指標で都道府県単位で比較するならこうなる。

土葬∶火葬は76∶14位。

以上…と、ここで終わっては、何か傾向が見られるのか?

「でっかいどー北海道ー」…

なら、ここから手を入れる必要がある。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/28/195142

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、東北編のあとがき…津軽側と南部側の差異を再確認」…

折角、青森を津軽側と南部側に分別したのだ。

中世の「上国」「下国」が反映するか見ない手はない。

で、分別のルールは

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/21/204519

余市の石積みの源流候補としての備忘録-8…中世城館資料の北海道版「北海道のチャシ」に石垣はあるか?、そして…」…

先に分布を見た「チャシ」同様に…

・道南…

渡島,桧山

・西蝦夷地…

後志,石狩,空知,上川,留萌,宗谷

・東蝦夷地…

網走,胆振,日高,十勝,釧路,根室

として、チャシとの関係も比較してみようではないか。

では、

 

道南…

・遺跡総数

28

・土葬or火葬

土葬→18

火葬→9    

・特徴ある副葬

古銭→12

ガラス玉(水晶,土玉含む)→5

鏡→0

鉄鍋→4

鉄釘→8

刀剣(刀子含む)→9

陶器,かわらけ→4

漆器→9

仏具(五輪塔,板碑含む)→1

鈎,ヤス→1

甲冑→2

骨角器→2

装飾品→2

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→2

石積塚→0

 

西蝦夷地…

・遺跡総数

62

・土葬or火葬

土葬→45

火葬→3    

・特徴ある副葬

古銭→4

ガラス玉(水晶,土玉含む)→8

鏡→5

鉄鍋→13

鉄釘→1

刀剣(刀子含む)→34

陶器,かわらけ→5

漆器→20

仏具(五輪塔,板碑含む)→0

鈎,ヤス→3

甲冑→3

骨角器→5

装飾品→5

・特徴ある墓制

周溝墓→5

鍋被り→0

石積塚→0

 

蝦夷地…

・遺跡総数

31

・土葬or火葬

土葬→16

火葬→1    

・特徴ある副葬

古銭→2

ガラス玉(水晶,土玉含む)→3

鏡→1

鉄鍋→6

鉄釘→1

刀剣(刀子含む)→14

陶器,かわらけ→0

漆器→11

仏具(五輪塔,板碑含む)→0

鈎,ヤス→2

甲冑→1

骨角器→3 

装飾品→5

・特徴ある墓制

周溝墓→1

鍋被り→0

石積塚→0

 

以上。

では同様の視点で見てみよう。

A,土葬or火葬…

まずは、土葬∶火葬を見る前に、この点を言わねばなるまい。

中世墓の地域毎の検出数がべらぼうに差が出ている。

総数に対して、

道南…23%

西蝦夷地…51%

蝦夷地…26%

だ。

極限られた面積の道南と東蝦夷地が似た数値…如何に東が密度が低いか解る。

これ、検出遺跡ではなく検出墓数になると「西>道南(或いは西と道南の逆転)>東」になるかと思う。

何故ならば「墓域として確立された場所を有する」からだ。

道南には上ノ国「夷王山墳墓群」が。

西には余市「大川,入船遺跡」や千歳「広末遺跡」らがある。

東にはそんな大墳墓群が無い。

ここだけ見ても東が如何に人口密度が低く、長期定住性が低かったか解るだろう。

擦文文化期に巨大竪穴住居群を保有する東蝦夷地は中世に入り、上ノ国余市にある「継続性と定住性を失う」事になる。

再三言う、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130

「この時点での、公式見解42…本質は「古代と近世が繋がってない」で、問題点は「中世が見当たらない」事」…

これが極顕著なのは「東蝦夷地」側、これを埋めるには東の発掘で大規模中世居住遺跡を見つけるしかない。

さて、もとい…

土葬∶火葬比率は概ね、

道南…7∶3

西蝦夷地…9∶1

蝦夷地…ほぼ火葬無し

となる。

これも墓数で表せばかなり見え方が変わるだろう。

それだけ「夷王山墳墓群」の火葬検出数が多いので偏りが出てくるだろう。

この辺は、先に示した青森の津軽側と南部側の差をトレースしていると考えられる。

何せ、東唯一の火葬墓こそ伊達市「オヤコツ遺跡」の方形配石火葬墓

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/02/201220

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、北陸編のあとがき…ならば「方形型火葬墓」を並べてみよう」…

なのだから。

古い地域分けをどうするか?

ここは問題があるだろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/10/053050」…

「「松前旧亊記」の記述…実は松前氏は元から村が有るのを記している」…

これにして、ベースの「新羅之記録」にして、鵡川余市には人里があると記される。

一応、中世とは言え、江戸期の区分に近付け分別しているので、仮に胆振,日高迄を西側に加えると、如何に東側の人口密度が希薄になるか?、これは火を見るより明らか。

この場合、日高より東には火葬墓の検出を見ないので、より青森の結果をトレースする話は妥当性が上がる事になる。

まぁ東の薄さが想像以上だった事以外は、概ね予想通り。

 

B,特徴ある副葬について…

まずはここでも、ハッキリさせておく事がある。

これは平取町「二風谷遺跡」の墓。

アイノ文化期の墓と言えば、こんな形をイメージするだろう。

「東頭位−長方形で伸展葬−多彩な副葬」。

ここで…

道南…75∶25

西蝦夷地…55:45

蝦夷地…記述無きものありで、38∶42

これ、何の数字だろうか?

実は長方形墓∶楕円,小判形墓の比率。

これ、当初から気が付いていた。

余市「大川遺跡」でのアイノ墓とされたものの一覧。

長方形だけではなく、楕円や屈葬ではないかと思われる物があったから。

では、割と明確なところを。

千歳市「末広遺跡」。

足が折られている。

同市「カリンバ2、Ⅳ地点」。

これ、真っ直ぐ伸ばして横たえてる事が出来ているか?

見ての通り、耳飾有り。

と言う訳で、中世に於いては長方形も楕円形も、伸展葬も屈葬もごちゃ混ぜの可能性はある。

これを3つの基準で見てみよう。

A,上ノ国の視点…

「夷王山墳墓群」では、長方形墓をアイノ文化人の墓、楕円墓と火葬墓を本州系と見ていた。

が、千歳,余市らの見解で見た場合、楕円墓や屈葬墓もアイノ系と判断する事になり、アイノ系墓は殆ど検出されない事になる。

下手をしたら、武田信広の家臣団はアイノ系になってしまう。

B,千歳,余市らの視点…

千歳,余市らでは、これらは一律にアイノ系墓と見ていた。これを上ノ国の視点に合わせれば、長方形墓はアイノ系、楕円墓は本州系となりかなり混雑,,共存していた事になる。

C,本州から接続した視点…

墓の形は混在し、事例は少ないとは言え、ある程度津軽と南部の地域差をトレースしているので、本州と似た傾向のまま北海道まで伸びており、特異性は見られない。

となるだろう。

さて、本題。

もっとも副葬でそれっぽいと言えば、耳飾や垂飾と言ったものだろう。

ガラス玉は数珠として、骨角器も本州で実績があるので可能性を払拭出来ない。

上記では「装飾品」としてカウントしてある。

この際ピックアップしてみよう。

 

・道南…

夷王山墳墓群…15~16世紀、耳飾

久末屋敷遺跡…中~近世、耳飾

計2箇所

*近世では

瀬田内チャシ跡…鉄腕輪

 

・西蝦夷地…

末広遺跡…1739年以前、耳飾

美々4遺跡…1677年以前、垂飾

ユカンボシC15遺跡…1739年以前、耳飾

カリンバ2,Ⅳ…1739年以前、耳飾

カリンバ4遺跡…1739年以前、耳飾

計5箇所

*近世では

大川遺跡…耳飾

入船遺跡…耳飾

泊岸1遺跡…垂飾

オンコロマナイ遺跡…耳飾

 

・東蝦夷地…

入江貝津…中~近世、耳飾

オネンベツ西側台地遺跡…中~近世、垂飾

幣舞遺跡…中~近世、耳飾

温根沼第二遺跡…中~近世、耳飾

植別川遺跡…中~近世、耳飾

計5箇所

*近世では

網走川口…垂飾

コタンケシ遺跡…垂飾

別海2遺跡…耳飾

以上。

この中で明確に時期が中世と解るのは、夷王山墳墓群のⅠ地区にあるアイノ墓とされる物の一つ。

他は火山灰直下やその前時期位で、下限を決める事は出来ても明確な年代特定は不能、且つ13~15世紀位の遺跡で検出されている訳ではない。

勿論、釧らは東北でも阿光坊古墳群ら7~9世紀の末期古墳などで検出されるが、北海道で装飾品が再出現するのは今のところ早くて15世紀、遅ければ16~17世紀。

で、研究者の皆さんは「北方との関連を示唆させている」…だ。

この空白をどう説明するのだろうか?

ついでに言えば、千歳付近…開拓使が入る頃の状況は?

江戸期の火山灰直下の遺跡状況と、幕末~明治の姿を並べてみたらどうなるか?

石狩低地の多くは原野だった様な、故に道路は碁盤の目状に新規に作られた様な…

その人々は?

もとい…

検出数がやたらと少ない道東、それも根室,釧路や網走方面に割と出現している点、西側では上ノ国余市の湊町、千歳辺りに集中する傾向がありそうだ。

突発的に出現する訳ではないのは漠然と想像可能だろう。

結局、北方との繋がりを示唆すればする程に「途中に空白がある」以上、北方侵入説を払拭する事は出来なくなる。

それも時期的には中世末~近世初に、ある程度限定されてきてしまう。

だが、それを示す古文記述があったりする。わざわざ有ったか?無かったか?解らぬ戦に頼る必要なぞない。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/26/205225

「「夷狄商船往還法度」とは何か?…この際、新羅之記録を読んでみる2」…

友好的に(蠣崎氏にとっては屈辱的に)、夷狄と言われた人々が近辺へ居住する事を許された記述。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/17/202544

「「1643年」の北海道〜千島〜樺太の姿…改めて「フリース船隊航海記録」を読んでみる②「十勝,千島編」」…

わざわざ西洋人やバテレンが耳飾をしていたのは「yezo、つまりメナシ,テンショ国の人々」だと書いてくれている。

まんま答えは書いてあったりすると思うが…

これで、ある意味考古遺物と古書で整合はとれているのではないだろうか?

まぁ他の墓制はある程度、本州をトレースしている。そこにメナシ,テンショ国の人々が入って来ても、この段階で傾向がガラリと変わった訳ではないので、この段階での移住はあったとしても規模はそんなに大きくはないのだろう。

蠣崎(松前)氏が納得し、大殿が承認した話であれば、何の問題も無いが。

さて、次。

 

C,周溝を含めた墓制変遷…

本文内に周溝記述があるのは、中世段階では千歳辺りに集中している様だ。

勿論、近世では二風谷らでも検出するが。

ここで忘れてはいけない話。

伸展葬や周溝墓の検出は、江別や恵庭の末期古墳から。

続縄文では、楕円の屈葬が普通。

何度も書く。

 

D,集石塚について…

記述があるのは、余市の大川遺跡と伊達のオヤコツ遺跡の方形配石火葬墓のみの模様。

今のところは特異点である。

 

E,十字型火葬墓について…

これも上ノ国の夷王山墳墓群と、せたな町の利別川口遺跡にある模様で、秋田湊らと交流が有ったであろう日本海側に限られる。

本書では、火葬墓と言うより火葬施設の可能性を示唆している。

さて、本州の何処にあるであろうか?

 

F,鍋被り墓について…

道南に2件記述あり。

函館市「弥生町」15世紀…

上ノ国町「洲崎館遺跡」15世紀…

なかなか微妙な時期、位置関係だと思うのは筆者だけであろうか?

 

G,板碑の伝播ルート…

2件の記述。

所謂、

「貞治の板碑」14世紀…

「戸井の板碑(3基)」14世紀…

上が貞治の板碑だが、関東型か関西型か微妙ではある。

戸井の板碑は頭頂付近の二本線を見る限りは関東型の様だ。

なら、陸奥側からの伝来であろうか?

この辺はまた文献らで確認したい。

 

H,中世墓とチャシとの関係…

今回、新たに出た視点である。

此処までツラツラ書いてきたので概ねお気付きではないだろうか?

墓の検出数は…

西>東となる。

チャシの検出数は…

西<東となる。

道南を抜いたら、更に顕著になるだろう。

さて、何故か?

チャシが仮に長の居館であれば、周りの人口密度が激しく薄い場所に構築した事になる。

そんな事があるだろうか?

幾つか考えてみよう。

・特定季節しか使わない…

春〜秋限定でしか使用しないとすれば、鮭の季節漁らの監視用。

が、わざわざ濠で囲う必要があるのか?…なら、豊漁祈願の神社らで説明は付きそうだが。

勿論、漁だけとは限らないとは思うが。

・常時使う…

あくまでも集団の長の居館だとすれば、一つ気になる事はある。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/16/184916

幕別町「白人古潭」はどの様にして出来たのか?&竪穴住居は文化指標になるのか?…「幕別町史」に学ぶ」…

竪穴住居が近世迄使われていたとしたら?

幾つかある擦文文化期の大規模集落が、中世迄時代を下る可能性が出てくる。

そう、擦文文化期の時代終焉が地域によりズレている場合だ。

ズバリ書けば、メナシ,テンショ国の人々は、道南,道央,胆振辺りに比べ竪穴→平地化と土器使用が150年位は延びていた…だ。

幾つか、編年指標がズレている指摘はあったかと思う。

十勝の中世墓検出は実は一件しかない。

胆振,日高の途中迄と釧路,根室,網走方面の間に、十勝という緩衝地帯を挟み、文化グラデーションが中世迄ついていたなら…だ。

この辺は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/15/120448

空堀は何工数,何日で築かれたか?のきっかけ…入口として「遠矢第二チャシ」をみてみよう、ただ…」…

Me-a(1)雌阿寒岳の噴火火山灰と近くの擦文集落との関係性らで見ていく必要があるかと考える。

仮に廃絶原因がこの噴火であれば、14世紀後半迄時代は下る。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/03/15/144234

「こんなに違う、住居文化…想像より北海道,樺太,千島で三者バラバラ」…

明治位迄、樺太,千島では竪穴住居の使用が認められるのだから、そこからの移動なら十勝で江戸期迄竪穴住居が使われていても何の矛盾も無い。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/25/202424

「時系列上の矛盾…少ない「編年指標」と地質学からの新たなアプローチ、そして」…

農聖「石川理紀之助」翁が持ち帰ったとされる北海道系土器。

千島方面では、近い時代迄土器使用があったらしい事は聞いているので驚く話ではなさそうだが。

なら、擦文文化期終焉が地域により違っていても別に矛盾は出ては来ない。

何せ、アンジェリス&カルバリオ神父が記すyezoはメナシ,テンショ国の人々の事だろうから。

この辺は今後の課題だろう。

 

さて、如何であろうか?

何とか墓制や中世城館を本州側から接続してみて思うのは、「そんなに特異性があるようには見えない」だ。

系譜を辿れば可能であろうし、縄文この方津軽海峡は「しょっぱい川」にしか感じないのは筆者だけであろうか?

勿論、その先の大陸要素は時代に於いては持っているが、文化グラデーションが掛かるとすればそんなもんかな…が本音で、似たもんは本州にあるではないか。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/11/201720

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/11/201720」…

宗教観迄加えれば、こんな話は成り立ってくると思うが。

まぁ、所詮これは傾向を見る為のお試しデータ。

ここから細かいところを見ていけば…

宿題は山積みなのは変わらない。

 

 

参考文献∶

「中世墓資料集成−北海道編−」 中

世墓資料集成研究会 2007.3月

 

「1993年度大川遺跡発掘調査概報-余市川改修事業に伴う埋蔵文化財発掘調査の概要V-」  余市町教育委員会   1994.3月

余市の石積みの源流候補としての備忘録-8…中世城館資料の北海道版「北海道のチャシ」に石垣はあるか?、そして…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/17/060823

さて「石積みシリーズ」のある意味本命である。

北海道の中世城館に石積み,石垣はあるのか、気にはならないか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/112501

「北海道弾丸ツアー第四段、「中世城館編」…現物を見た率直な疑問、「勝山館は中世城館ではないのでは?」」…

この通り、道南には中世城館はあるが、石積みらしきものを確認出来たのは上ノ国の「勝山館の館神八幡神社の基壇部」のみ。

中世城館調査は各県毎に行われているが、北海道版が探せていなかった。

筆者の拙い検索能力ではこれが探せていなかったのだが…

実は北海道版は「北海道のチャシ」と言う事で発行されていた。

それも、渡島半島の中世城館は含まれておらず。

まぁ愚痴言ってもしょうがないので、この際チャシの中にその記載がないものか?探してみようではないか。

これが同書にあるチャシの分布。

で、ここで先に結論を言おう。

「無い」…

以上。

厳密には、確認してきた北東北の中世城館調査結果の様に、縄張りと詳細が載っている訳ではなく、単に一覧表と代表事例の地形図が載っているだけ。

一覧表内に「石積み,石塁,石垣」の記載が無い以上、従来基準で言えば無いものとせざるを得ない。

と言う訳で予測通り、最北を秋田にして、青森,岩手の延長線上の北海道のチャシには石積みは無い事になる。

終了…

って、ここで終わっては、何の為に資料とニラメッコしたか?何の意味も無いので、折角なのでデータを捏ね繰り回してみよう。

チャシは明治から調査が始められているが、昭和33年の「網走市史」上で河野広道博士がその立地条件より、

・丘先式

・面崖式

・丘頂式

・孤島式

この四種類に分類する事を提唱し、現在は

・繰を持たないもの…Ⅰ

・丘頂式・孤島式…Ⅱ

・丘先式…Ⅲ、Ⅳ

・面崖式…Ⅴ、Ⅵ

と、4式6類に大きく分類される様だ。

この際、詳細が解らないので現状の4式に分けて道南、西蝦夷地、東蝦夷地の分類を比較してみようではないか。

定義は、

①地域

・道南…

渡島,桧山

・西蝦夷地…

後志,石狩,空知,上川,留萌,宗谷

・東蝦夷地…

網走,胆振,日高,十勝,釧路,根室

だ。

これで概ね、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/09/204601

「枝幸の湊は何時からか?…「枝幸町史」との整合と「湊,津」の特定の為の備忘録」…

江戸初〜中期の認識なのではないだろうか。

②カウント数…

10年に渡る調査で記載された総数は483箇所だが、その内チャシではない?と記載された4箇所と不明の1箇所はデータから抜いた。

これを、

・繰を持たないもの…Ⅰ→A

類例…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/02/070949

「時系列上の矛盾…瀬棚町「瀬田内チャシ」は江戸期の物、中世迄遡るのは難しいと報告されていた」…

瀬田内チャシは4段の段構造で、明確な空堀,土塁を施さないのでこれになるのだろう。

・丘頂式・孤島式…Ⅱ→B

類例は…

伊達市「ポンチャシ」。

これが丘頂式。

丘一つ使い、その頂頭部を平滑し、周囲に空堀や土塁を施す。

・丘先式…Ⅲ、Ⅳ→C

類例…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/07/205357

「北海道弾丸ツアー第三段、「静内篇」…どうせ見るなら本命級「シベチャリチャシ」!だが、本当に砦なのか?」…

ご存知「シベチャリチャシ」がこの丘先式。

舌状台地の先端を平滑、根元部分に空堀を施し切り離す。

・面崖式…Ⅴ、Ⅵ→D

類例…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/20/193208」…

「時系列上の矛盾&生きていた証、続報39…ユクエピラチャシから出土した鉄器、これ「馬具」では?」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/19/202122

「北海道には文字がある、続報8&時系列上の矛盾…最大級「史跡ユクエピラチャシ跡」とは?、そして消えた「墨書礫」」…

「ユクエピラチャシ」が面崖式だろう。

…として分類した。

尚、複数の特徴を持つものは先に記載される方式を優先、分類空欄のものは「段丘先端→丘先式」、「段丘(のみ)→面崖式」としてカウントしている。

詳細図が記載されないのでやむを得ず。

故に現状迄の研究とは若干差はあるものと考えて戴きたい。

まぁ我々的には傾向さえ見えれば良いのだ。

予測としては、東蝦夷地→丘先式や面崖式の比率が高く、西蝦夷地→丘頂式,孤島式の比率が若干上がる…だ。

 

ではその分布はざっとこうなる。

道南の数に関しては、「砦の一種」と考えれば中世城館が別途カウントされるので、このままにはならないだろうが、総数に対しては、

・道南…2.5%

・西蝦夷地…16.6%

・東蝦夷地…80.9%

と、本文や従来言われているようにチャシ分布的には西<東なのはハッキリ出ている。

丘頂式,孤島式の比率は、道南では幾分多い印象だが、あまり顕著な差は出ていない様だ。

むしろ、東蝦夷地側に向かい面崖式が顕著に多くなる感。

恐らく、一河川系においてまるで河川を監視するが如く、丘先式と面崖式が分布する為ではなかろうか。

又、海岸揃いの丘陵に面崖式が並ぶケースも多く、一地域で複数のチャシがありカウント数が伸びる傾向も合わせて書いておく。

では、これが北海道固有か?

従来言われているように「16~18世紀、遡って14世紀」…こう言うなれば、そのモデルとなりそうな事例は既に11世紀の東北で確立されている。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/24/204137

「防御性環濠集落の行き着く先−2…陸奥安倍氏の居館「鳥海柵」とは?」…

鳥海柵」を中心とした「俘囚長安倍氏」の安倍十二館、これらは北上川や並行する街道筋をその台地両岸から監視する様、複数の城館を築く。

まして一つの館自体が空堀で仕切られた複数の「郭」を持つ。

謂わば複数の丘頂式,面崖式チャシを一箇所に纏めて巨大化させた様な形。

河川や低地(街道)を挟み台地が迫る地形なら、そんな風に複数の拠点で監視して当然だろう。

陸奥側の中世城館は、こと平城や平山城に関して言えばこの様に空堀で複数の郭を築き、それぞれの郭に役割を持たせた様な構造は多い。

根城、浪岡城らがそうなのではないだろうか。

対して日本海側、出羽では、平野,盆地が比較的にだだっ広く、そこにある丘一つを城館として利用すれば、四方を見渡せる訳だ。

これが同時期なら、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/23/192410

「防御性環濠集落の行き着く先−1…出羽清原氏の居館「大鳥井山柵」とは?」…

「俘囚主清原氏」の「大鳥井山柵」。

ここはそれだけでなく、街道を挟み独立した丘と丘をそれぞれ要塞化した抜群の監視力。

これは丘頂式,孤島式のベースととれば、時間軸で二百年は遡るので、ここからの系譜と説明出来てくる。

まして「鳥海柵」も「大鳥井山柵」も防御性環壕集落の行き着いた先。

道内にも防御性環壕集落は存在するのだから、それぞれが系譜の元祖だとしても否定する材料もないのではないか?

もっとも、元祖の方が数倍巨大な規模を持つが。

そこは構築者の勢力差,戦力差で説明はつくだろう。

さて、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/20/122947

「何故、十三湊や秋田湊である必要があったのか?…「津軽海峡」を渡る為の拙い記憶の備忘録」…

海流を考慮すると、より松前より遠いところ、より本州でも南側からのアクセスが考えられる。

特に釧路周辺(124箇所)は他所でも多い地域(十勝70,根室69)の倍位集中している。

その周辺にチャシを築く必然的理由があったであろう事は想像に優しい。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/170920

「「1643年」の北海道〜千島〜樺太の姿…改めて「フリース船隊航海記録」を読んでみる④「厚岸編・まとめ」」…

短絡的に結びつけてはいけないが、1643年段階でノイアサックもオリも、金銀が採れるのは「シラルカ(白糠)」だとハッキリ言明している。

現状ヒントになりそうな記述はまだ巡り合っていない。

備忘録である。

また、これら分布はかなり地形的には必然なのだろう。

実際、北海道をレンタカーで走ってみると、海岸まで丘陵が迫り、特定大河川を除けば河川が細く、且つその大河川周辺は低湿地が広がる。

なら、出羽型の丘頂式,孤島式よりも、陸奥型の丘頂式,面崖式を多数並べた方が成立させ易いだろうなとは漠然と考えていた。

こと、昨今こんな事を知ってしまえば、陸奥側の影響が強そうだなと予想も出来る。

陸奥側の系譜が強いだろうな…こんな事から、最初の予測を立てた訳だ。

まぁこれらは、敢えて東北の中世城館を北海道の分類に当て嵌めて、その年代や分布比較を行えば自ずと系譜は見えてくるであろう。

 

さて、ちょっと気になる事を…

実際、伝承を伴うチャシはそれほど多くなく、伝承上の話との整合がとれているものは殆ど無いようだ。

で、伝承を纏めるとこうなるそうで。

(カ)にある「観光用に製作」…これはなんだ?

確かに、本州でも観光施設として「城風建物」は作られている。

これは、その時代には有り得ない天守閣風建物を建てて中は資料館や展望台として利用しているパターンだ。

中世城館跡付近に建てても、端から観光施設だと解る様になっている。

なら北海道は?

まさかこの中に、そんなものが混ざっている事はないだろうな?と言う事だ。

実際、こんな前例は存在する。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/19/204031

「建築系論文に見られる「時空のシャッフル」…「学術」と「観光」の区別はあるのか? ※追記有り」…

大型の古潭は、開拓使の呼びかけに周囲の人々が応じ、農業への転換や土地給与も含めたパッケージで作られた人造の物が主。

中には観光古潭として施設化したパターンもあるので、観光要素が混じり兼ねない。

この(カ)が、この一覧から削除されていれば問題無いが、そんな詳細は記載なしだし、そもそも発掘どころか実態計測だけで地権者との調整に手間どり、予定より調査期間が伸びた記述がある。

更に言えば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/19/203842

「時系列上の矛盾…「十勝太海岸段丘遺跡」にある浦幌アイノの痕跡と火山灰の壁」…

こんな事例の様に、伝承があっても自然地形や別物だったりするケースはある。

伝承そのものですら、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/13/210459

「時系列上の矛盾…城柵,環濠集落,チャシ、ならば十二館もみてみよう、でも「?」 ※追記あり」…

道南十二館ですらこの有り様。

これに至っては、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/170920 

「「1643年」の北海道〜千島〜樺太の姿…改めて「フリース船隊航海記録」を読んでみる④「厚岸編・まとめ」」…

構築者と話を語る者が別集団と言うケースも知っている。

極率直に言えば「本当に大丈夫なのか?」だ。

上記の通り総計で480箇所程度。

本州各県の数的には半分。

一個のエラーデータのインパクトは単純に倍になる。

又、この伝承でも構築者がアイノ文化を持たぬ集団を謳うケース。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/15/120448

空堀は何工数,何日で築かれたか?のきっかけ…入口として「遠矢第二チャシ」をみてみよう、ただ…」…

構築者や年代の検証は大丈夫か?だ。

本体そのものに遺物は無くとも、隣接する部分に竪穴住居跡…擦文文化遺跡があるケースも

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/04/192347

「時系列上の矛盾④…二風谷遺跡の包含層遺物、そしてまとめ」…

この通り。

本文中にもそれらしい事はある。

更に、そもそも論だが、

文化そのものとチャシの明瞭な位置づけが出来ない段階で、定義の設定が可能なのか?だ。

ぶっちゃけた話、

・道南の防御性環壕集落とチャシの差は何か?

・道南の中世城館とチャシの差は何か?

・それらと対岸、東北の防御性環壕集落,中世城館との差は何か?

・系譜はどうなのか?

これらを追い掛けて、それぞれ定義化と分類化、系譜化が出来ているか?

疑問に思わないか?

ましてや「本州にも居る」と言う研究者も居る上に、主な利用年代が「16〜18世紀である」と言うなればだ。

 

まぁこの辺も、後々の宿題にしておこう。

実際に残る古文と遺物を整合すると、イマイチ釈然としない。

我々は我々で学べば良いだけの事。

人は人、我々は我々だ。

 

 

参考文献:

「北海道のチャシ」 北海道教育委員会   昭和58.3

「よみがえる北の中・近世−掘り出されたアイヌ文化−」 (財)アイヌ文化振興・研究推進機構    平成13.6.2

幕別町「白人古潭」はどの様にして出来たのか?&竪穴住居は文化指標になるのか?…「幕別町史」に学ぶ

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841

「この時点での公式見解26-b…蝦夷乱と社会情勢にロシア南下を重ねると、如何に緊迫したか解る ※追記-b」…

こちらを前項として繋げてみよう。

前項で幕別町白人村古潭の話を書いた。

戴いた写真にはあの通り。

では、もう少し詳しい経緯を昭和42年版の「幕別町史」から拾ってみよう。

現在の幕別町はこんな位置。

西は帯広市、南は大樹町を挟み広尾、東は池田町ら、北は音更町

かつて白人(チロット)村と呼ばれた村は、昭和19年から千住地区(相川地区等の一部含む)となっている様だ。

明治25年佐賀県人の岩永右八が入植。

岩永氏は他に移転したが、その後単独入植が多くあり、明治29年には学校建設の話が出て、翌30年に開校する迄発展した、それ以前はアイノ文化を持つ人々が多く住んでいたとある。

では、どの様に白人古潭が出来ていったのか?を並べてみよう。

①伝承では、天正十(1582)年に日高から幕別へ攻撃があり、猿別のチャシに立て籠もった。

何故日高から攻撃されたか?勝敗はどうか?らの詳細は途切れているとある。

②十勝開拓の一環として1660年代に広尾に運上所が設けられる。

知行主は「蠣崎広林」。

当然ながら後に場所請負制へ移行していく。

広尾については、十勝側の入口として松浦武四郎らも記録し、近藤重蔵が様似〜広尾の開削道を作った話は概報。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/03/193625

「北海道には文字がある、続報6…「松浦武四郎」が記す、「片仮名」の痕跡」…

こんな話だ。

既に土着した人々は仮名文字を使えた話である。

③ここからが白人古潭の元祖である。

基本、母系で5系統に分かれており、大正八(1919)年版「幕別村史」によれば村内の札内河畔に住む女性が、寛延2(1749)年頃に他所から入ってきた男性と結婚したとあるそうだ。

また母系統調査で、同名の女性が先に幕別にいて、網走方面から移住した男性と結婚し、白人村に住み始めたとされ、それ以前は止若と猿別に数戸毎住む者が居たとされる。

また、古老の話では、二人の男性が、当時行われたトパットミ(夜襲による略奪)に組するを潔しとせずに水草を追って北見(湧別)方面から脱走し1人は日高へ、もう1人が幕別に移り住んだとされる。

母系で、

ハウスアンル系…

シアリセルシ系…

ホクペアマ系…

ハウパッハレ系…

コイリマツ系…

との事。

この内、ホクペアマ系になるのが活動家第一世代の1人「吉田菊太郎」翁である。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/12/203509

「この時点での公式見解-39…アイヌ協会リーダー「吉田菊太郎」翁が言いたかった事」…

本ブログに度々登場するこの人物だが、その3代前迄母方の名が連なる。

さて、前項のパネルにも有るように、これら幾つかの話で共通するのは、

①先行した少戸数があった。

②その中の娘がオホーツク方面から来た男性と婚姻し土着、白人古潭を作っていく。

③移住年代は概ね1750年前後で、男系は全て他所からの移住。

の3点。

この辺でパネルの様な説明になる様だ。

この母系5系統でも、元々幕別周辺に居たとされるのは2系統だけで、後はウシシベツ,マカンベツ,カモツナイの3箇所から移住した娘が、釧路,屈足,川上の男性と結婚したとあり、これら5系統で8〜9割を占めるそうだ。

つまり、元々幕別に住んでいた人々は極僅か、他はほぼ他所からの移住で白人古潭に土着した事になる。

ここで記録に残る幕別町の戸数を。

嘉永3(1850)年…17戸

居住地はヤムワツカビラのみ

安政2(1855)年…22戸

居住地はヤムワッカ,イカンベツ,ベッチヤロそしてチロット(白人古潭)

・明治4(1871)年…24戸

居住地は安政時点にマカンベツが追加

・明治43(1910)年…78戸

・大正5(1916)年…78戸

実は、戸数も人口も増加している。

この中で安政5年に松浦武四郎が独自に確認した時には安政2年と同数で、特に十勝全体の1割は幕別町に住んでいたと記載があり、十勝の他所に比べ住みやすかった様だ。

以上…

とは言ったものの、何故明治初期から明治末迄で戸数が3倍になるのだ?

総人口も153→286と1.8倍に。

著しく分家化した訳でもなさそうだが…はて?

まぁこの部分の記載は此処まで。

これ以上の記載が無い以上、深い突っ込みは今は止めておく。

いずれ「人口インパクト」は気になるところ。

もうこの頃には各地で観光アイノも始まっているし、何より旧土人保護法も施行済である事は付記しておく。

因みに、明治4年の集計は「静岡藩」のものになる。

 

さて、前項にある看板パネル同様に、白人古潭や幕別町の各集落が主に北見,網走側、他東蝦夷地からの移住により成立したのは間違いなく、主に広尾の運上所との行き来で生計を立てた事は想像出来る。

で、ここで合わせて住居についても記述しない訳にはいかなくなった。

 

この手の北海道の地方史書での常套句は「先住民族はアイノ」である。

ここで対象として登場するのが「コロボックル」。

伝承上の話ではあるが、昭和初期を中心に

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/10/114329

「近代学問創世記からの警鐘…アイヌ問題は今始まった訳ではない」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/10/052507

「ある意味一刀両断…言語,文学博士達の警鐘」…

こんな風に「否定された縄文=アイノ論」やらで学会が侃々諤々やっていたのは概報。

これを未だにぶり返そうとする愚かな者も居るのも確かなので、バカには出来ないのだ。

仮に、現代の最新科学で「コロボックルが何らかの集団に比定」されてしまえば、アイノの先住性そのものが吹っ飛んでしまいかねない。

さすが昭和40年代…コロボックルは伝説だと言う事を説明する為に、こんな記述がある。

鍵は「コロボックルは穴居に住む」…である。

 

アイヌ民族以前に、ほかの民族が住んでいたかどうかについては多くの論議があった。例のコロボックル伝説も、その一つである。 コロボックルとは、コロコニボクウンクルを略したものとされ「蕗(ふき)の葉の下の人」の意味である。またはトイチセクル(土の家の人) トンチカモイ (土の家の神)トイチセコッコ ロカモイ (土の家を持つ神)あるいはトイチセコッチャカムイ (土の家のかたわらの神)と本嶋蝦夷は呼び、樺太蝦夷は、これをトンチと言った。

コロボックルの身体はきわめて小さく、一本の葦を数十人もしくは数百人でかついだ、といい、または一枚の蕗の葉の下に数十人、もしくは数百人が立つことができたといわれている。メノコ (蝦夷婦人)の入墨はコロボ ックルの真似をしたといわれ、この伝説は明治から大正にかけてひろがり、その実在を信ずる者もあった。その 後、研究がすすむにつれて、コロポックル説は単なる伝説にすぎない、ということになった。それを裏づけるも のとして、宝暦十三年(一七六三年)十勝西部に漂着した舟子(名古屋の船頭吉十郎など)が幕府に提出した書状に、次のような事が書かれている。

 

五月二十日 (宝暦十三年) 嶋の様なる所見え申候に付、力を得、伝馬船を下し、上り可ㇾ申と存候得共、大分の荒磯に で、船にては上り申事中々難ㇾ叶候故、十町許沖より、各泳ぎ上り申候得ば、人家も見え不ㇾ申、山深く相見え候故、如何可ㇾ仕と存居候処、七許の者一人参り、何とやらん申候得ども、一円通じ不ㇾ申候故、此方より助けてくれ候様にと相頼候得ども、是も通じ不ㇾ申候に付、手を合せ礼を致し候得ば、彼者も手を合せ礼を致し候て、私共手を引、山の奥へ連参り申候。

十四、五町許り参り候得ば、穴を掘り、上に木の皮などにてかこひ申候、段々御座候。何れも畳五、六畳も敷可ㇾ申體相見え申候。(中略) 此処奥蝦夷トカチと申処の由に御座候。

 

この文章にもあるように、当時の蝦夷人は穴居人で、竪穴住居としていたことは間違いなく、 コロボックルと竪穴との結びつきは根拠かない、ということになる。明治から大正、昭和のはじめ頃まであった草ふき小屋は、和人が入地するようになってからのもので、現在、本町内には、この種の住宅は一軒もみられず、僅かに古い 写真によって知るのみである。」

幕別町史」  幕別町史編纂委員会  昭和42.9.15  より引用…

 

現代の我々からしたら何となく笑ってしまいそうな文章に思われるかも知れないが、そう思った方は反省すべきだ。

学会を揺るがしていたのは間違いなく、その緊迫感を知っていればこんな表現になるし知らねばわざわざ書きはしない。

筆者的にはさもありなん。

さて、此処まで明確に書かれている点については筆者も想定外である。

まんま読めば「十勝は、明治の入植者が入るまでは竪穴住居を使用した」事になる。

同書に添付された写真を見る限り、確かに段が付いている様だ。

まさか?…

いや、そちらは想定内。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/02/201117

「本当に「竪穴→平地住居化はアイノ文化への変遷の指標」になるのか?…「新編天塩町史」に記述される幕末迄竪穴住居が使われたとされる事例」…

天塩、宗谷方面がそうだと言っている。

それに、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/11/173848

「ゴールドラッシュとキリシタン-28&生きて来た証、続報39&時系列上の矛盾…松浦武四郎が記す、多くの金坑跡&穴居,畑跡」…

松浦武四郎らは「穴居跡」を記す。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/06/081134

「それは本当に「チセ」なのか?…我々が疑問を持つ理由と提案」…

元々、我々は茅葺き屋根の家が全てチセなのか?と疑問を持っていた。

個人入植した人々の家の多くが茅葺き屋根だったのを学んでいたからだ。

そして、詳細は記載していないが「夷家」、つまりyezoの住居を一発で見極めている点。

外観上の差が無ければ無理なので、それに引っ掛かっていた。

更に、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/11/143552

「この時点での公式見解⑥…幕府の帰「俗」方針であり、明治政府に非ず」…

幕府同化政策の一環、衛生上の観点から「床をつけるべし」、これは今迄もあちこち記述があった。

これも引っ掛かっていた点。

竪穴住居の場合、床は必然土間になる。

これがこの「幕別町史」にある様に「平地化は明治から」が正しいとするなら、こんな推定は成り立つのではないだろうか?

樺太に近い天塩,宗谷方面、千島に近い十勝方面、及び場所運上所,会所から離れた地域では、幕末迄竪穴住居は使われていた。

・場所運上所,会所に近い地域は、幕府奨励策に合わせて平地化していった。

・全体が平地化したのは明治以降で個人入植者の住居の影響を帯びる。

松浦武四郎は竪穴住居が使用されていた事を知っており、それを「夷家」と表現し、「穴居跡」は「夷家跡」だと考えていた。

・既に明治初期には竪穴住居は失われており、明治からの西洋学術の導入で行われた調査では「穴居」は原野に残る擦文らの竪穴住居跡のくぼみと判断された。

・故に、平地化→アイノ文化の指標とされた。

・但し、地域や時間軸を何処にとるか?で竪穴住居の使用は幕末位迄行われ、平地化が遅れた地域の地方史書にはその記載が残る。

・中世末〜近世初期に天塩,宗谷や道東はそれぞれメナシ国,テンショ国とされた奥蝦夷の領域という共通項を持つ。

純然と竪穴住居が残っていた樺太,千島から文化グラデーションは掛かっていたとしても全く矛盾はしない。

・それが考古学上で指摘されて来ないのは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803

「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…

多くの場合、撹乱された表土と火山灰(有れば)は重機で剥がすからだろう。

ただでさえ撹乱される。

厚真の様に「土層のカンナ掛け」でもやらない限り検出は難しいのに、始めから「黒0」の出現を想定するならまだしも、そうでもなければ追い立てるタイムリミットに迫られ遺構は破壊されて終了。

期待する方が酷かも知れない。

・つまり、竪穴→平地化は地域や時間軸によりアイノ文化化の指標にはならない。

以上。

昭和50年代初頭位迄の地方史書には、これら記載はある所にはある。

また平成以降再編纂れた地方史書にはこの手の記述はあまり記述はない。

ここで…これらは我々が考えた新説でも珍説でもない。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/12/200407

「東蝦夷地の「ヲキクルミ」への信仰は二種…編者が註釈する当時の認識」…

こんな風に書いてある。

知られた話だった事が解る。

何時、誰が書き換えたか?は、地方史書、論文らを読み込めば当然解る。

上記の通り、地方史書にある以上研究者や教育委員会レベルで知られた話だ。

皆知っている。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/19/204031

「建築系論文に見られる「時空のシャッフル」…「学術」と「観光」の区別はあるのか? ※追記有り」…

知っていた上で、こんな事をしたり、書き換えを行っている…と、言う訳だ。

何故、知っていると断定出来るか?

忘れてもらっては困る。

「白人古潭」は、活動家第一世代である「吉田菊太郎」翁の出身地。

金田一博士も河野広道店高倉新一郎両博士らも、それら活動の後見役だった。

一番最初にインタビューしているだろうし、川村カ子ト氏のルーツ探しにもアドバイスしているだろう。

元々新北海道史らを見る通り、北海道史構築の中枢に居たのはそんな博士達。

「系統立てられた学問」と言うななれば彼等が調査した内容が反映されていない方がおかしいだろう…故に知らぬハズはない。

 

さて、上記2点、如何であろうか?

・白人古潭を始めとした幕別町のアイノ文化系の集落は「移動と婚姻」により出来た。

・この周辺では入植者が入る迄は「竪穴住居を使用」しており、それは道北と共通しており、地域や時間軸によってはアイノ文化化の指標にはならない。

・これらは元々知られた話であろう。

纏めるとこんな所だろう。

蝦夷と奥蝦夷(yezo)で住居文化に差があるなら一様に一括りは出来なくなり、且つ口蝦夷の文化は東北に近づく事になる。

これらを見ても「時空のシャッフル」は行われているとしか考えられない。

見直すべきと考えるが。

 

一点付記しよう。

猿別のチャシの一件。

何故か年代だけ妙に明確に伝わっていたりする。

天正十年…

丁度、大浦(後の津軽)氏が南部氏から独立すべく「浪岡城攻撃」等を行っていた最中では?

まぁこの辺はおいおい。

 

 

参考文献:

幕別町史」  幕別町史編纂委員会  昭和42.9.15

修験らの影響を加味した場合「消えた中世」はどうなるのか…現状迄の素案の一つとしての備忘録

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/08/07/201518

「丸3年での我々的見え方…近世以降の解釈と観光アイノについて」…

実はあまり積極的に拡散はしていないが、昨年もこんな風に通史でどうなるか?を組み立ててみたりはしているのだが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/09/051702

羽黒山鏡ヶ池に眠る「羽黒鏡」とは?…出羽三山信仰の核の一つを学ぶ」…

ここで書いた様に、今年ここまで弾丸ツアーを行い、解った事、疑問になった事、そこから深堀りし謎が解けたり解けかかった事…種々ある。

我々、ずぶの素人が集まり、歴史の再勉強をしてみようと始めたのは2019年の9月位。

あるきっかけから、本ブログを始めたのが2020年5月から。

現在、2023年10月本日現在で、

・投稿数…483

・アクセス数…43,500

になっている。

以前、歴史単一テーマで4万アクセスは多い方じゃないかと教えて戴いた事があるが…

本当ならば、この手は何周年,何アクセスら、節目にした方が良いだろうが、実は先にSNSにざっと書いてしまったので、敢えて北海道史の「消えた中世」を接続すればこうなるのではないか?を一つ備忘録として書いておこうと思う。

 

スタートラインは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/31/053428

「この時点での公式見解⑭…新北海道史が示す「アイヌ民族が古代と繋がっている」根拠」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/12/185631

「定義や時代区分はそれで良いのか?、あとがき…河野氏の問いかけに答えられる者はいるのか?」…

何時から「アイノ文化期になったか?」だ。

新北海道史では中世を境に明確に繋がっているか示す文書がなく、あるのは「諏訪大明神画詞」のみと記述する。

かと言って実は、何をもってアイノ文化とするか?は定義や時代区分も曖昧だったりする。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/14/211625

「弾丸ツアー報告-1、恵庭編…江戸期の物証的「空白期」、そして「アイノ文化を示す遺物は解らない」」…

その辺は去年確認を取った上、今年の、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803

「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…

今年も弾丸ツアーでの再確認の上、「擦文文化から「修験系信仰」を源流に緩やかにアイノ文化へ変遷した」…この辺が主流になりつつあるのだろう。

そんな説が唱えられるのは解る。

明瞭に線引出来ないのであれば「緩やかに」移行した…としか言いようはないだろう。

 

だが、中世において恐らくそうは成り得ない。

理由は簡単。

この説は、初〜中期段階で確実に本州とは差異がある「独自要素の流入」が必要となる。

似た処から変わっていくなら、外部からなりの刺激が必要だ。

だが、その「独自要素」が入り込む場面が無いだろう…これが理由。

その根拠を具体的に3点挙げてみよう。

①修験系信仰ベースなら、後の鎌倉仏教らの流入も含めて起こり、更に本州文化に近くなる。

②関根氏の指摘にあるように、初期アイノ文化での「方形配石荼毘墓」ら北方系文化の要素は以後消えていき、その後の生活物資はほぼ本州産。

③そもそも論として、その論の核の一つである「方形配石荼毘墓(以降火葬墓とする)」が、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/02/201220

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、北陸編のあとがき…ならば「方形型火葬墓」を並べてみよう」…

この方形配石火葬墓が北陸から伝搬した白山,医王山系修験の文化だとしたら、『北方系文化の要素そのものが消える』事になる。

これは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/28/195142

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、東北編のあとがき…津軽側と南部側の差異を再確認」…

墓制の文化グラデーションが見えそうな事から、ある程度裏付けされる。

その上、一つ謎が解けた。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/09/051702

羽黒山鏡ヶ池に眠る「羽黒鏡」とは?…出羽三山信仰の核の一つを学ぶ」…

厚真で疑問視、特異性とされた「一つ穴の銅鏡」は、羽黒修験にある。

ガラス玉や伸展葬も本州にある。

破砕して燃やす行為は「護摩でのお焚き上げ」として事例がある。

元々、独自性の根拠として列挙された事例の殆どが、修験系含む本州の宗教,文化の派生…これで説明がついてしまう。

更に生活物資の自製はほぼしなくなり、むしろ本州からの購入品へ移行する…これも本州への依存性が上がったと言えるだろう。

大体にして、墓制の流れを前の時時代から見て見てみれば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/08/204335

「㊗️二百項…時系列上の矛盾を教えてくれた「江別,恵庭古墳群」」…

続縄文、7世紀位迄は屈葬で葬られていたのが、後にアイノ墓とされる伸展葬化するのは「末期古墳の出現」から。

同じ頃副葬された、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/07/223841

余市や江別出土の「管玉」の故郷…北海道と佐渡の以外な繋がり」…

管玉も、解析されたものの多くは佐渡産。

千歳「末広遺跡」に至っては、

竪穴住居から「錫杖」出土。

故に、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/29/105815

「この時点での、公式見解43…「江別古墳群」らを初めとする「擦文文化」が研究者にどう捉えられているのか?」…

擦文文化の成立には「本州、特に北東北の文化の受容」が不可欠と判断されている訳だ。

ここから、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803

「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…

厚真の経塚やお焚き上げら祭祀場、修験系火葬の出現に至れば、むしろこの中世開始時点で「宗教の受容,拡大」まで至った事になる。

更には、生活物資が本州依存化…これでどうやって独自性を担保出来るのだ?

従来から言われる「竪穴建物→平地建物化」にしても、東北の現実は中世末まで竪穴建物+平地建物併用の形で維持されたりしている訳で、北海道より先立ち一気に平地化した訳でもない。

また更に、本州からの人口流入のポイントとされるのは、

奥州藤原氏滅亡と鎌倉幕府による奥州征伐(13世紀(1200年)前後)

南北朝動乱による南朝流入(14世紀(1300年)前後)

・安東氏vs南部氏の戦いによる十三湊や津軽からの流入(15世紀中期(1450年)前後)

ら。

これらは北海道側に伝承がある。

これらで軋轢を産むと読む事が多いが、先述の通り、生活物資の依存度はむしろ増していく。

他の地域から独自要素を取り入れ、別文化への移行を醸成出来るのか?

北上した牢人達に追いやられたか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/24/204753

蝦夷衆交易の目的地「大なる町アキタ」…この際、ルイス・フロイス書翰も見てみる」…

追いやられるどころか、わざわざ秋田湊に来ているが。

これらから、少なくとも『道内において』は、中世での文化の度合は北方系よりむしろ本州依存が高まる方向にあって何ら不思議ではない。

 

合わせて、この時代を交易拠点から眺めてみよう。

日本海側…

鎌倉期~室町期迄…

これは文献にあるので簡単だ。

鎌倉の関東御免津軽船や室町将軍家からそれを安堵されており、室町の古文にある「三津七湊」に十三湊と秋田湊が数えられる事、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/09/211342

「対岸の状況はどうだったのか-3、あとがき…「浜尻屋貝塚遺跡」に暮した人々は?を「東通村史」に学ぶ」…

尻屋崎、下北半島迄安東氏が押さえていた事を考慮すれば、十三湊と秋田湊を中心に展開されるのを予想するのは容易い。

これは、南部氏の十三湊侵攻迄は維持され、日本海中心の交易だったと考える。

では、十三湊陥落からどうなるか?

少し後代の北陸諸将からの書状を見ると、越前朝倉氏は元々「湊(上国)安東氏」と好を結び交易していて、十三湊から分派した「桧山(下国)安東氏」が湊と桧山を統一した事を祝いながら、好を結ぼうとしている。

ここから、秋田湊を中心に日本海交易を成立させていたと考えて良いのではないだろうか。

上杉との仲介をした庄内砂越氏もそれを語っているとある。

交易が切れる訳もないし、北陸らの守護大名らは北方交易品を必要としたであろう。

・太平洋側…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535

「北海道の対岸の状況はどうだったのか?…野辺地町史に見える古代~中世の文化到達の片鱗」…

この辺は明確ではない。

野辺地周辺は、南北朝期に一度「伊達氏」が拝領したが、その後記録は消える。

下北半島は上記通り。

それがそれなりに明確化するのは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/10/210623

「対岸の状況はどうだったのか-3、あとがきのあとがき…なら、「蠣崎蔵人の乱」の捉え方は?」…

記述内容は眉唾ではあるが、蠣崎蔵人の乱の後に南部氏が周辺一帯の掌握に成功したとされる事。

ここで根城(八戸)南部氏は水軍を持っていた事が記され、最低でも八戸を拠点に交易をしていた可能性はある。

更に伊達氏…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/18/084019

「「亘理小史」に記載された古代~中世の亘理…伊達氏の海への到達と「九曜紋」「内耳土鍋」と言う断片」…

野辺地受理以後に海との関連は見えなくなるが、千島での内耳土鍋の出現と旧伊達領との関連や、亘理(武石)氏の掌握、俄然羽振りが良くなる時期、これらは割と一致した時期だったりする。

ここで…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/20/122947

「何故、十三湊や秋田湊である必要があったのか?…「津軽海峡」を渡る為の拙い記憶の備忘録」…

道南,胆振との交易なら野辺地や田名部,佐井の湊を押さえる必要がある。

近くに行こうとしても「塩っぱいデカい川」津軽海峡の海流が邪魔し、東へ流される。

仮に、南部氏が八戸を、伊達氏が亘理の湊を使い交易をしようとしたら相手は何処になるのか?

勿論、南部氏は野辺地や下北半島掌握後なら自在に行き来可能になってくるが、それまでは南部氏は日高〜十勝、伊達氏は十勝以東になる確率が高いだろう。

千島と伊達の関係…

割と一致してくるのではないだろうか?

伊達氏に関しては、何分不気味な点が多い。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/22/101835

「ゴールドラッシュとキリシタン-25…キリスト教史「古典」にある「カトリック教会の痕跡」、「蝦夷衆の切支丹的断片」と「亘理伊達家家臣の登場」」…

これにある田村家や、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/27/202733

「この時点での公式見解-29…ムックリの理由と「シロシ(家紋)に見る移動の痕跡」、そして伊達氏の影」…

ウタサ紋を伊達シロシ(伊達の旗印の模倣)の伝承があったり、何時、どの程度の交渉を持つかは闇の中。

ただ、千島との交易を行っていたとするなら少なくとも江戸初期段階で千島…というより「メナシ国」の住民は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/17/202544

「「1643年」の北海道〜千島〜樺太の姿…改めて「フリース船隊航海記録」を読んでみる②「十勝,千島編」」…

金や銀を知っている可能性は高いだろう。

但し、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/14/201908

「「通商の民」に不足する物、続編…南部信直公が教えてくれた「蝦夷船ドック」」…

南部信直の弁を借りれば、大型船(恐らく二百石船程度)は秋田で建造、南部氏が出来たのはそれより小さい。

関東御免津軽船以来、主力の大商いは日本海ルートが主力だったのは想像に易しい。

逆に考えれば、太平洋ルートの交易はむしろ従来より、販路拡大された分ともとれる。

畿内ら大都市圏が巨大化、高級志向が強まるにつれ、北方の文物は需要が高まるのは必然。

交易量が増えれば、当然関係も密になる。

ここからも『道内では』むしろ同化の方向に進んで然るべき。

いずれにしても、それらも織豊期末迄で終焉を迎えることにはなる。

秀吉や家康が松前(蠣崎)氏の独立を認め、商権は松前へ。

東北の諸湊から拠点は松前に移される。

閉鎖性が高まるならむしろ、それは後代にならないか?。

鎌倉〜室町で、独自要素が取り込まれ別文化を持つのは『道内では』かなり困難だろう。

 

では、道内から特に中世居住遺跡がなくなった段階で、元々道内の人々は何処へ行ったか?

明瞭ではないが、ヒントはある。

まずはヒント①、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/27/075543

「ゴールドラッシュとキリシタン-21…金銀島探検報告に記載される「金銀での決裁」,「コロボックル?」そして「織豊~江戸初期の地理観」」…

ジョン・セールスの報告(1613年)。

「金銀決済をして、松前以外には定住者無し」。

定住していないなら遺跡はでない。

ヒント②…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/09/124507

「浜尻屋貝塚の遺物を確認&下北半島の中世城館に石積みは?…再び下北半島を回れ!」…

浜尻屋崎貝塚の住人と、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/21/210518

「「アイノ文化の献酒方法」?、実は…蒲生レオン氏郷から酒を給されたのは誰か?」…

南部氏居城「聖寿寺館」や「九戸方についた蝦夷」。

ここで、浜尻屋崎貝塚の住人をアイノ文化人とするのは誤りである。

この人々は文字を駆使し、茶を嗜み、14~15世紀に限定。

お気付きだろうか?

一部は本州に移動しているとも考えられる。

恐らく、宇鉄の四郎三郎が津軽側に移動したのもこの辺だろう。

また日本海側なら、余市から上ノ国への移動等。

より道南や北東北,日本海離島ら、自分の交易相手との交易に都合良さそうな場所へ移動したもととれる。

元々の生業が、季節漁やより離れた場所から入手した品物を大消費地へ売り付ける事なのだから、湊を拠点に仕入れと売買で移動した方が都合は良いし、農民の様に土地に縛られる事は無い。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/20/195630

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−2…東北の延長線上で北陸の傾向を見てみよう」…

湊周りに周溝墓が散見されるのは、このせいではないか?

案外、東北に限らず本州人と混雑している可能性はあると思う。

ヒント③…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/21/134039

「この際アンジェリス&カルバリオ神父報告書を読んでみる、あとがき…時空を並べ直してみよう」…

アンジェリス神父の弁と、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/26/205243

「この時点での、公式見解-44…「余市町史」に見る寛文九年蝦夷乱での余市の動向と「八郎右衛門」」…

八郎右衛門の「我々同心不仕候処に、右の通松前より狄共渇命に及申候罷候得は、一食も続不申故、狄とも相談にて商船ふみつふし申候」…

アンジェリス神父はyezoはメナシ(目梨)国、テンショ(天塩)国の住人と言い、八郎右衛門は「狄と相談で」商船襲撃したと言う。

この二人、一部道東,宗谷を深む「樺太,千島」の人々をどうやら「yezoや夷狄」としている様だ。

つまり奥蝦夷とされる人々。

ここまでくれば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/08/07/201518

「丸3年での我々的見え方…近世以降の解釈と観光アイノについて」…

ここと接続可能だろう。

別文化を持つとされるのは「奥蝦夷」の事。

そりゃそうだ。

熊送りにしてムックリらにして、元々は樺太や千島の文化であり、道内にはなかった。

最上徳内が見た熊送りも、流氷がある地域だ。

最上徳内が北海道を訪れた時には既にロシアによる千島南下と北前船就航による雇用創成は始まっている。

メナシ国とテンショ国の住人が道内に大量に入り込むのは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841

「この時点での公式見解26-b…蝦夷乱と社会情勢にロシア南下を重ねると、如何に緊迫したか解る ※追記-b」…

1750年前後で、タイミングはそれらとほぼ一致する。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803

「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…

それは、厚真でご教示戴いた「黒0」、つまり「Ko-c2とTa-aの途中に僅かにしかも点在で出る事がある黒色土層」とも一致してくるのではないか?

「黒0」には極稀に遺物がされる事があり、同時に松前の古書でも少しずつ知行主の名前が出始める頃。

だが裏を返せば、江戸初期の駒ケ岳,有珠山,樽前山の火山噴火による火山灰降灰から「黒0」の期間の火山灰中に遺物が無く今のところ空白。

こと、千島方面で農業や鍛冶の痕跡が遺跡に残らぬなら、彼等がそれを知らなくて当然だ。

幕末〜明治に書かれた古絵図に描かれる『道内の』近世アイノ文化の担い手はこの人々だろう。

古代~中世初期との文化の連続性が切れている理由はこれで説明可能だ。

 

さて、少し話を戻そう。

仮に「アイノ文化の源流に修験有り」が成立した場合、中世迄にあった寺社らが消える理由は何か?

①大災害での人の移動による荒廃…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/19/054652

「大災害が起こった時、人はどう行動するか?…平安期の「十和田噴火,白頭山噴火」が住む人々へ与えたインパクト」…

現代も同様だが、震災や大津波あらば人は当然回避し移動する。

平安でもこうだ。

有珠善光寺の寺伝でも数回被災と建替えの記録があるという。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/15/120448

空堀は何工数,何日で築かれたか?のきっかけ…入口として「遠矢第二チャシ」をみてみよう、ただ…」…

例えば、浜尻屋貝塚の人々…

これも雌阿寒岳の噴火や津波による回避活動と一致してくれば、中世にも大災害による移住があった事を立証出来てくるだろう。

道東からは回避、道南には本州から流入

これも『道内では』特に道南で寺社が維持される理由にもなるだろう。

門徒からの布施や労働力提供がなければ寺社は存続出来ない。

キリシタンによる破壊…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/26/125931

「ゴールドラッシュとキリシタン-33…「大籠キリシタン資料館」で学ぶ「江戸初期の宗教的状況」と時宗の板碑、そして北海道への検討の為の備忘録」…

新宗教新文化流入した場合のモデルはある。

「切支丹宗門」の流入だ。

信者が一定比率までは、旧来文化や宗教と共存している。

だが、それを超えた瞬間に爆発的に増え始め、原理主義的な行動を取り始めて旧来文化を破壊する。

そんな事例は西日本にもあるし、東北なら大籠に学ぶ事が出来る。

寛文九年蝦夷乱辺りでの出身地が全国規模なのは知られた話。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/15/203519

「ゴールドラッシュとキリシタン-26…「院内銀山」は全国区、そしてそれを支えるネットワークが出来るのは必然」…

こと、鉱山に関してはこんな感じであるし、関ヶ原大坂の陣の牢人流入はよく言われる話。

カルバリオ神父の「二年で8万人」…この実数は誇張されたものとしても、半数で見ても当時の北海道人口を凌駕する。

旧来宗教が破壊される比率は超えていただろう。

この2点が重り、藩らからの支援無くば完全に破壊されただろう。

勿論、切支丹宗門は幕府により禁忌…そちらの痕跡ごと消え去る訳だ。

幕府直轄に先立ち、松前が寺社の建替えを行ったのは、こんな痕跡を消す為だろう。

で、新規流入者は自分達の宗教観の中に修験がある事を知らなかった。

それがむしろ、破壊後の新規流入者である事を物語るのではないか。

どの時代も「零:百」ではない。

常時、樺太,千島からの少数流入,流出はあるが、目立つ大規模移住に至るのは江戸期だろうと言う話だ。

 

と、つらつら書き連ねたが、こんな感じだろうか。

巷で聞く「中世に大陸から流入」…これも無いだろう。

虐殺あらば、流入者の新規集落が出るハズだがそれすら無い。

あるのは普通に交易した様なものばかり。

そもそもこの辺はコシャマインの乱辺りからが根拠であろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/24/170253

「これぞ大殿の御出座…数回記録にある「安東宗家」の訪道及び出撃事例」…

だが、むしろ事例として多いのは、道内の安東氏家臣団内の内輪揉めだと思うが。

むしろ、中世初期に北方系文化の痕跡とされたものの多くが「修験の痕跡」へ置き換わる可能がある。

ならそれらを「yezoの痕跡」と断定するのはムリになる。

それに、そんな早くに流入したら、既に言語が同化しているだろう。

 

何故我々にこんな風に見えるのか?

①我々は北海道の時代区分なぞ気にしていない。

ほぼ西暦で並べている。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/19/204031

「建築系論文に見られる「時空のシャッフル」…「学術」と「観光」の区別はあるのか? ※追記有り」…

時空のシャッフルに引っ掛かることはなく、むしろ矛盾に見えるから。

それが「時系列上の矛盾」。

②我々は「新羅之記録史観」に拘る必要はない。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/13/210459

「時系列上の矛盾…城柵,環濠集落,チャシ、ならば十二館もみてみよう、でも「?」 ※追記あり」…

あったか無かったか解らぬコシャマインの乱なるものに拘る必要もない。

意味なく大陸から侵略「させなければならぬ」理由も無い。

そして、恐らく北海道のチャシと中世城館、そして東北の中世城館をシャッフルして区分しその系統を割り出せば、ちゃんと系譜は見えるハズ。

ほぼ同じものがボコボコにあるからだ。

別に「新羅之記録史観」を成立させる為に論を組む必要も、居た痕跡が薄い者を居た事にする必要もない。

③我々が鍵にしてきたのは、「北海道と東北は繋がっている」「蝦夷≠アイノ&蝦夷⊃アイノ」…たったのの2点の事実のみ。

だから東北や中央との接続に躊躇がない

以上。

 

ここまで書いて来たことは、途中の過程、叩き台に過ぎない。

学ぶ過程で変わればアップデートするだけ。

間違いなら糺せば良いのだ。

こんな風に組み立てては、それを自ら否定してぶっ壊し、新たに学んだ事で組み立てるを繰り返してきているだけだ。

ただ、3年半位前に組み立てた事とあまり変わり映えしないで、むしろ太くなっていくのは…何故だ?

 

最後に付記しよう。

上記は珍説か?

いやいや、全然。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/28/205158

「言語研究からの視点…金田一京助博士が記す「北海道と北東北で会話出来た事例」と「金田一説の結論」」…

元々金田一博士は北海道と東北の共通項を指摘し、河野広道博士は地域柄の分類をやっていた。

別に我々が突飛な訳じゃない。

そこから時代を下れば、何時、誰が単一集団の様に括り始めたか?解る。

それにこの二人、活動家第一世代に協力していた。

第一世代はシロシらを手掛かりに自分達のルーツを探していた様だ。

彼等も学者さん達もそれを知っている。

まだ自分の眼で確かめていないし、裏を取っていないのでボカしておく。

旭川に行けば良い。

「外アイノ(ヌ)」の単語があるのが何処か?…

さすれば察するだろう…

羽黒山鏡ヶ池に眠る「羽黒鏡」とは?…出羽三山信仰の核の一つを学ぶ

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803

「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…

こちらを前項として。

今年ここまで強行した北海道弾丸ツアー第二〜第四段で、ご教示を受けたり自分の眼で確認したりした事から、幾つかを学び深化させつつある。

ここで、第三段厚真編で北海道で疑問視されていた事の答えが見つかった事がある。

「銅鏡」の一件である。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134

「和鏡特別ミッションの続報…「国見廃寺」と俘囚長安倍氏、そして道具に対する解釈は?」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/03/202005

余市の石積みの源流候補としての備忘録-6…北海道〜北東北での出羽三山信仰の信仰圏の構造は?」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/28/195142

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、東北編のあとがき…津軽側と南部側の差異を再確認」…

それまで追っていた「中世城館の石積み」から見えてきた伝搬移動ルート、厚真でご教示戴いた「アイノ文化の源流に修験有り」、そして昨今の墓制の地域差…

ならここで「羽黒鏡」を学んてみよう。

入手した文献は、「和鏡特別ミッションの続報…「国見廃寺」と俘囚長安倍氏、そして道具に対する解釈は?」…これらでも箕島氏に引用された論文で、前田洋子氏の「羽黒鏡と羽黒山頂遺跡」。

実は、羽黒修験と銅鏡は切っても切れないもの。

理由は以前から書いている様に、羽黒山山頂の鏡ヶ池から出土した銅鏡の膨大さ。

実は、500とも600とも言われるその数と、最低でも平安〜近世迄ほぼ揃うという希少性だ。

博物館特別展らでもそれなりに揃う事はあるだろうが、「出羽三山歴史博物館」の常設展示は、数えていないが常時60~70枚位は出ているのではないだろうか。

ではまず、確信部である厚真で疑問視された事の答え合わせを。

ぶっちゃけ書くと、筆者は知っていた。

何度も出羽三山歴史博物館には行っているし、厚真に行った後も確認しに訪ねている。

写真NGなので出していなかっただけだ。

「同時に銅鏡…

一個だけ穴が開いている。

これも解らないと。

銅鏡がどんなものか?は京都で調べたりして概ねの年代と、近辺の実績で羽黒山には行き着いたとの事。」…

こうご教示戴いた。

調べた限りでは「一個穴の和鏡はない」、不明点と仰っていた。

では、前田洋子氏の論文のその部分。

「なお、羽黒鏡のなかには鏡胎に一つもしくは二つの小孔が穿たれているものが存在する。これは御正体として、懸鏡として懸垂時期のあったことを物語っているといえよう。」

「羽黒鏡と羽黒山頂遺跡」前田洋子  『考古学雑誌第70巻第一号』  昭和59.8.31  より引用…

と、言う訳で、一つ穴の銅鏡は厚真にたった一つしかない訳ではない。

筆者は一つ穴を最低3面位見てはいるので、二つ穴より頻度は低いが、数%の確率で羽黒山にはある事になる。

これ、仮に他の地域に無いとすれば「羽黒修験の痕跡」…これでいきなりビンゴとなるだろう。

同時に、この前田氏の論文は筆者は最低二本位の論文に参考文献として記載されているのを見ている。

厚真では、出羽三山を京都で聞いたと言われた。

筆者が銅鏡の展示は圧巻だと言うと「是非行きたい」と仰っていた。

国見廃寺の「瑞花双鳥八稜鏡」10世紀も知らなかった。

当然ながら、仏教なり修験なりは隣である東北からの北上を想定しておくべきと思うのだが、北海道に於いては、ほぼそんな想定はされていないと言う裏返しではないのか?

責めてるつもりも責める気も微塵もないが、これが実情だろう、「東北は眼中に無し」。

まぁ秋田城も十三湊もあまり知らない方が居た位なので、驚きはしない。

 

さて、我々は「北海道と東北の関連史」がテーマである。

東北から、本題である「羽黒鏡」について学ぼうではないか。

①「羽黒鏡」とは?

前田氏は「羽黒鏡」と記しているが仮名称。

羽黒山頂の鏡ヶ池から出土した銅鏡、そして羽黒山内の土中から発見された物の総称として使っている。

実は鏡ヶ池だけから検出している訳ではない。

実際に全山発掘調査なぞ信仰域である以上不可能。

出羽三山神社の建て替え工事や発見されている経塚らの発掘、たまたま発見された物も含めたものである。

鏡ヶ池にしても、明治〜大正らで周囲改修らで発見されたもので、まだ池中に眠っている物も当然あるものと考えられるらしい。

この池、枯れた事がない様だが、湧水地点すらハッキリしないと本書にはある。

つまり、北海道の様に土中から出土…これは出羽三山視点からしても特殊ケースではない。

で、その全貌は?

「不明」。

勿論、本書で扱ったのは現存,居場所が解るものに過ぎない。

改修らの工事作業者が持ち帰り売ったらの話は伝わるそうだ。

まだ池中,土中に眠るものもある。

故に「不明」。

先述通り平安〜近世迄の銅鏡が揃う事から、古代からその信仰が連綿と続けられていた事を物語る。

箕島氏の論文にあるように銅鏡は「東高西低」の傾向だとの指摘、ただでさえ一箇所での検出数が他の追随を許さぬ断トツ。

国内の銅鏡信仰の中心拠点だったとも言えるのかも知れない。

 

②変遷と分布

全時代を通すと、

A,唐式(1.3%)

B,和鏡(83.5%)

C,湖州鏡式(5.6%)

D,儀鏡(9.6%)

だそうで、圧倒的に和鏡比率が高い。

C,は厚岸で出土した「湖州方鏡」も含み、似た物は羽黒鏡にもある。

又、「儀鏡」とは、

「儀鏡は、“光を反射し、物の姿をよく写す”という鏡本来が持つ性能はあまり重視されていないが、明らかに鏡として、または鏡に似せて製作されたと考えられる擬似鏡, 模造鏡のことである。日本においては,すでに古墳時代を盛期として祭祀のために用いられた土製・石製の模造鏡があり、それらは古墳や祭祀遺跡から検出されることが多いこと等から、儀鏡を祭儀における報賽用具の一つとしていた伝統があったことが知られる。

羽黒鏡のなかには儀鏡と考えられるものが50面含まれている。」

「羽黒鏡と羽黒山頂遺跡」前田洋子  『考古学雑誌第70巻第一号』  昭和59.8.31  より引用…

幾つかのグループに分かれる様だが、表面の反射能力は期待出来ず祭祀用として作られたものと特定出来る様だ。

中には、ほぼ銅板を裁断しただけ,片面磨きすらしていないものや、針書で文字をや線刻を記したり、

片面のみ漆塗を施す、割られたり折られたり、

原型を留めないものもある。

因みに、儀鏡ではない通常の銅鏡でも池に沈められる前に割られた物は存在するし、

展示していたのを見ている。

箕島氏の白山らの事例にある通り、お焚き上げ前に破壊している仏具ケースは本州にもあり、羽黒鏡でもそれは見られる。

別に北海道固有の行為とは言えない。

では、各時代の変化を。

・平安期…339面(65.2%)

唐式1.8%∶和鏡98.2%と圧倒的に和鏡で瑞花紋か瑞花双鳥(又は鳳)八稜紋、且つ円鏡が主流。

因みに、国見廃寺の和鏡は「瑞花双鳥八稜鏡」。

特徴は、

A,12世紀奥州藤原時代比定の物が主流。

B,「同范(同じ鋳型)鏡」が無い。

C,紋様に地域的特徴が無い。

D,池中検出の羽黒鏡な一部を除き「かなり長期に煙火に近いところに置かれた?」「火中したか?」と思われる変色や被熱痕が残る。

E,羽黒鏡全時代に言えるが、11cm程度の小型鏡である事。

以上。

・鎌倉期…57面(13.1%)

所謂「和鏡」はこの時期に完成されたとの事。

で、鎌倉期の特徴はどちらと言うと平安〜和鏡完成期の過渡期の物が多く、盛んに経塚らが造営された時期とも一致するのだろう。

この後に徐々に衰退していくのは確かである。

・室町期(織豊期含む)…11面(1%)

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/153312

「同じ「出羽国」でも、鳥海山の裏側はどうだったのか?…「立川町史」に「庄内地方」の歴史を学ぶ」…

ここで、少しお膝元である庄内の歴史を見てみよう。

南北朝の動乱では、

北畠顕家の弟である北畠顕信は、北畠顕家が討たれた後に南朝方として大物忌・月山両神社(鳥海山)へ所領寄進したり藤島城へ入ったりしている。」…

と、庄内〜鶴岡は北畠顕信が寺領寄進や藤島城に入る等、割と南朝方としての行動が記録される。

また、鎌倉期に幕府祈祷所や得宗領としてあれ程鎌倉幕府に対して威勢を見せつけられたのが、別当である「土佐林氏」が守護大名となっていく「大光寺(武藤)氏」の配下になる等、戦乱に巻き込まれ力を失って行く様は想像するに易しいだろう。

遂には、朝廷への上納も室町期途中には途切れ、荒廃していく。

同時に南北朝辺りから、東北各地に「時宗の板碑」が建てられ始め、新規宗門が雪崩込む様も見えるだろう。

・江戸期…3面(0.6%)

立川町史にあるように、「北の関ヶ原」らの影響で、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/18/183612

「実は「出羽三山」では金銀銅水銀、そして鉄が揃う…「月山鍛冶」の答え合わせ、そして技術や文化への宗教の関与は?」…

相馬へ回避した「天宥」が羽黒山へ戻り、家康のブレーンの一人「天海」を頼り、比叡山との関係を深め中興の祖として出羽三山を復活させる。

この段階で、羽黒山,月山(本山派,比叡山系)と湯殿山(当山派,高野山系)と仲違いが起こる割に、出羽三山巡りしている人々はそんな仲違いなぞ気にせず、三山を回っているという…

この様に、ガラリと山の色は変わったであろうが「池中納経」の儀式が全く途切れた訳では無いのが、この僅かに残る銅鏡が物語る。

以上。

 

さて、どうだろう?

実は、鏡ヶ池の北側には鏡堂があったことが古書に記載される。

明確な発掘で羽黒鏡が出土した訳ではないので、層序らがハッキリはしないそうで、検出時に共伴物が無かった程度しか解らないそうだ。

故に、儀式後に直ぐに池に沈めたか?らも判然とはしないらしい。

本堂では常に護摩が焚かていたとされるので、鏡堂でも同様に護摩が焚かれ、そのせいで被熱痕が出来た可能性もある。

と、するなら…

少し思い出して欲しい。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/28/202837

「時系列上の矛盾、厚真町⑧…これが本命「ヲチャラセナイチャシ」とは、どんな遺跡か?」…

ここで引っ掛かっていた、U字型の堀を持ち、内部に焼土跡を持つ平地建物だが、

「本チャシ跡の機能については、本調査の担当者の一人である乾氏が「精神儀礼に関わる遺構」(乾 2011) として想定しているように、同様の見解である。」

…と報告書にはある。

だが、ここまで修験系の影響が見えてきた今、ズバリ書くなら「護摩堂」ではないか?と推定出来、ヲチャラケナイチャシは宗教施設で説明可能となるだろう。

突飛?

いや、そうでもない。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/12/02/204631

羽黒山蝦夷館」とは?…立地らに対する考察の備忘録」…

「薬師沢館」…通称「蝦夷館」という似た構造を持つ付属施設を持つではないか。

薬師沢…医王沢…

柳田国男博士の影響か、ここもチャシなぞと言われたりする者もいるが、アイノ文化が萌芽する以前から羽黒山は活動している。

時系列的には間違い以外の何物でもない。

また、こんな想定が出来るなら、羽黒山の構造の特徴との共通性で見えてくるものもあるのかも。

羽黒山を散策された事がある方なら解るかも知れないが、多宝塔…羽黒山なら国宝五重塔になるが、山門をくぐり多宝塔は最下層にあり、そこから登り金堂らへ至る。

この構造、あまりないとか。

実はもう一箇所は知っている。

先の「瑞花双鳥八稜鏡」が出土した「国見廃寺」が同様に多宝塔の位置から寺院領域へ登る構造で共通項を持つとか。

同様の構造を考えられる柱穴が見つかっていれば或いは…

「妄想」は止めて、話を元に戻そう。

現実、中世の羽黒山の姿はまだ未解明の部分が多く、実態不明と言わざるを得ない。

ただ少なくとも、羽黒鏡は奥州藤原氏〜鎌倉期位に隆盛する事は、羽黒鏡が教えてくれる。

平安期の特徴BとCから、羽黒鏡を作っていたのは京郊外の鋳物職人集団(公営工房と別に各地へ供給?)で、都の貴族らが各地の山々を巡る修験僧にその鏡を託し、羽黒山へ奉納したのではないか?との推定も記述される。

もしそうなら、正に全国規模での「池中納経」の聖地だった事になってくる。

そうなら、平安〜鎌倉期に北上するのは極当然であるし、南北朝の動乱に巻き込まれてもいそうなのでその頃に一部が移動しても不思議ではない。

この様に、修験道者は都と地方の聖なる山々、寺社同士、山と山、津と湊を結ぶネットワークを持っていた。

その痕跡を見つける事が出来たなら、他の寺社や貴族,武将らに情報を流す位はわけない事。

諏訪大明神画詞」…

北海道に寺社さえ出来れば、その状況を修験者が流す位訳ない事。

諏訪大社善光寺がそれを知っていても何の不思議もない。

「アイノ文化の源流に修験有り」…ここまで気付いたなら、上記程度は想定可能だろう。

そこから一歩踏み出せば、有珠善光寺や等澍院の寺伝も無視出来なくなってくる。

少なくとも「あり得る」…こんな事は頭の片隅に入れておく必要はあると考えるが。

それを想定すると「恐ろしい事が起こる」…これもまた事実だろうが。

それは「鏡」が教えてくれる。

 

 

参考文献∶

「9 ~ 11・12 世紀における北方世界の交流」 蓑島栄紀 『専修大学古代東ユーラシア研究センター年報 第 5 号』 2019. 3 

「羽黒鏡と羽黒山頂遺跡」前田洋子  『考古学雑誌第70巻第一号』  昭和59.8.31